Coolier - 新生・東方創想話

7日と1日目の蝉

2022/04/24 23:17:13
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ある夏の日の朝早くに夢にうなされて目を覚ますと私は大きな蝉に姿を変えていた。
最初はこの間読んだ妖魔本か何かのせいかと思った。
自分の姿が信じられない。外界に比べたら非現実的な世界と言ってよい幻想郷の内部においても、人間が虫、それもリアルなものに変わるだなんて想像だにしていなかった。
か細い足を動かしてみる。茶色い羽根を羽ばたかせてみる。やはり私の足であり、私の羽根であった。
ひどく悲しくなった。続いてやりきれなさの混じった怒りが湧いてきた。私が一体何をしたというのだろうか。でも涙は一滴も出なかった。
代わりにジャージャーという油を炒ったような声が辺りに響き渡った。私はアブラゼミのようだ。
そしてどうやら性転換までしてしまったらしい。図鑑で読んだことがあるけど、泣くのはオスの蝉だけなのだから。
お母さんが部屋に飛び込んできた。布団の上に転がる巨大なセミを見るや否や大きな悲鳴をあげた。
そしてその悲鳴に呼応するかのようにお父さんまで駆けつけてくる。
ああ、もう、どれだけ最低最悪なものであっても、これが夢の続きだったらどれだけよかったことか。残念なことに、蝉には頬をつねるための指など存在しない。
お父さんとお母さんがなにか言い合っている。仲睦まじい夫婦のこんな姿は見たくなかった。
その原因が私だというのが尚更辛かった。私が何か悪いことをして叱られるのなら話はわかる。反省し、謝れば良いのだから。
だけれども私に何もできることはなかった。もしかしたらそれが一番辛かったのかもしれない。
お父さんは部屋を出た。おそらくは私を刺激しないようにというお父さんなりの優しさだ。
今この状況で二人して詰め寄られでもしたら私は大声で鳴いてしまうだろうから。
お母さんはおそるおそる私に近づいてくると、小鈴なのよね?と静かに声を絞った。そうだったら何か合図をしてほしい、と言われたので私はできる限り小さな声でジャーと鳴いた。
それを聞いたお母さんは少しほっとした様子だった。
それからしばらく二者択一の蒟蒻問答が続いた。まだありがたかったのはこの悲喜劇の舞台が外国かどこかでなく幻想郷であるということだ。
お父さんが無言で入ってきた。大きな竹籠を両の手で持っている。八意さんのところに行くからこの中に入ってほしいと言われる。お父さんの顔は見たくなかった。お母さんだけで十分だ。
茶色く油染みた羽を羽ばたかせると生まれて初めて私は宙に浮いた。
外来本を読んだり霊夢さんや魔理沙さんを見たりして空を飛んで見たい、と思ったことは何度もあったが、こんな形で願いが叶うなんて最悪な気分だった。
眼の前に置かれた竹籠は私には少し大きかった。羽と足をたたむとちょうどいい塩梅になる。籠に入ると自分が虫なのだと否応なしに自覚せざるを得ない。
すっぽり隠れると蓋をして担ぎあげる。
こんな姿なら自分で飛んでいくこともできように。普通の人間が八意さんのところまで赴くのはいささか危険が伴うが、今の私ならそうそう襲われることもなかろう。
こんな大きな蝉なんて気持ち悪がって鳥も食べたりしないだろう。
食べられてしまった方がありがたいかもしれないなんてことはどちらにせよお父さんにもお母さんにも言いたくても言えないけど。
道すがらお父さんは無言だった。籠の隙間から見えるお父さんの後頭部から感情を伺うことはできない。
おそらくは、強いて感情を出さないようにしている、そんな気がする。
もっともお父さんが籠に向かって何か語りかけても、私は耳障りな音しか出すことはできないのだからむしろありがたい。
お母さんを連れて行かなかったのは単純に道中の危険というのもあろうが、それ以上に私になるだけ不安を負わせたくないという意識があったからだろう。
今度はお父さんの番というわけだ。
お父さんの背中に担がれるのは幼い時以来。そのときと変わらずどっしりとしている。いや、少しだけ小さく見えた。
転んで泣いたときとか、お父さんが家までおぶってくれた。そのときもお父さんは黙っていた。
その豊かな沈黙は気まずいとかそういう類のものではない、私の耳障りな泣き声に応じてくれるものだった。
そして短い人生、いや、もう、虫生か、その中で今ほど静かに泣きたかったときはない。私はもう耳障りに鳴くことしかできないのだ。大きな声で鳴いたら人喰い妖怪が駆けつけてきてくれるのだろうか。でも彼らは人喰い妖怪であって虫喰い妖怪ではないのだから私の方は食べないだろう。だとしたら意味なんて毫ほどにもない。仮にあったとしてもお母さんを一人にしたくなかった。
永遠亭に着くと表に出てこられた鈴仙さんが、どうされましたか、と尋ねてきた。彼女が人里へ薬を売りに来られるときのように大きな荷物を担いでいるのだから、そう思うのも無理はない。もし姿を変えるのならウサギ、そうでなくとも哺乳類が良かった。ウサギは寂しいと死ぬというが、おそらくしばらくは死ぬことはないだろうに。すぐに死ぬとしてもこんな姿で死ぬよりは格好がつくだろう。
お父さんは私の入った籠を置いて、詳しくは言えないが非常に奇妙なことが起こったので八意さんに会わせていただきたいと深々と頭を下げた。それを見て察してくださったのか、鈴仙さんは何も言わず、こちらにどうぞ、とだけ静かに告げた。
鈴仙さんに続いて永遠亭の廊下を進んでいく。この廊下が永遠に続けばいいのに。太陽に至るのと同じ距離だけあるとしても、お父さんはきっと4000年をかけ、その身を焦がしながら歩んでいくのだろう。そしてお母さんも4000年の間、たとえ屍と化したとしても妖と化したとしても、一人と一匹を待ち続けるのだ。仮に戻ってくるのが一人であるとしても、いや、たとえ戻ってこないとしても、待ち続けるのだ。そんな人なのだから。
八意さんの部屋に入る。いつだったか、質の悪い病に罹りお父さんとお母さんがここに連れてきてくれたとき、その病気という名の日常の中で見せてくれたものと変わらない、柔和な顔をされている。お父さんは私の入った虫籠を脇に置いて、八意さんに、信じられないかもしれないのですが、と切り出した。八意さんはさらに表情を柔らかくされる。まるで心配など無用だと言わんばかりに。初めてここに来たときと全く変わりなく。

「大抵のことは経験していますから。それこそ人が虎にでもならない限りは」

お父さんはひどく引きつった笑いを覗かせた。私は笑うことなど二重の意味でできやしない。お父さんが事情を口に出す前から、八意さんにすらこの事象は日常の埒外にあるものなのだと告げられたのだ。
必死に掴む蜘蛛の糸を引きちぎられたような、そんな気分になった。いや、もとより私は地の下にいたのだ。雲海の遙か向こうにある、地の上での日常に戻れるはずなどなかったのだ。
お父さんは八意さんに、実は娘が蝉に変わってしまったのです、と声を震わせた。八意さんは一瞬何を言われたか分からない様子で、すみません、もう一度おっしゃっていただけませんか、と言って柔和な顔をほんの少しだけ崩した。娘が蝉に変わってしまったのです、そう繰り返す。そして私の眼を天からの眩しい光が突き刺した。
上から覗き込んだ八意さんは一瞬驚きを見せてまたすぐにもとの柔和な表情に戻られた。お父さんと私を不安にさせまいという気遣いなのだろう。だけれども私はその心の内を自分勝手に想像してしまう。ああ、こんなことなら本なんて読むんじゃなかった。想像力なんて涵養するんじゃなかった。幻想郷であろうがなかろうが、現実はいつだって小説などよりもとても奇妙で、ずっとつまらなくて、そしてあまりに残酷なのだから。
八意さん、どうかお願いします、娘を元に戻していただけませんか。お父さんが再び頭を下げる。もう想像する必要などなかった。八意さんは相変わらず優しげな表情だったが、その陰には隠しきれない困惑の色が見て取れたからだ。心地の悪い安心感と共に居心地の良い諦めが私を締め付けた。
とりあえずMRIとか撮りましょう、話はそれからです。そうお父さんに告げる。大丈夫です、とか、絶対に戻してみせます、とかそんな無責任な言葉を吐くことはされなかった。だけれどもその双眸には断固とした決意を示す光が宿っていた。八意さんはいったいどれだけの苦い諦めを味わってこられたのだろうか。私に窺い知ることはできない。
これはMRIといって、磁気を使って体の断面を見るものなんだけど、大丈夫、きちんと計算したから。そう仰向けになった蝉に語りかける。足はたたんでおいてね、少し音がうるさいでしょうし、羽を下にするのは苦しいでしょうけど、ちょっとの間だから勘弁ね。そう言って八意さんは私の眼と眼の間をがさりと撫でてくれた。ジャーという意味をなさない音が腹に有する自分の耳に突き刺さる。
装置の中に入る。自分一匹ではなかなか仰向けになれなかったが、八意さんは嫌な顔も見せずに手伝ってくれた。
中で聞こえるガンガンという音は気にならなかった。私の鳴き声の方がよっぽど癪に触ると思った。
こうやって一匹でいるのは誰かといるのと比べたらずっと気が楽だった。元々本を読みながら一人で過ごすというのに慣れていたからかもしれない。でももう本なんて読みたくなかった。
どんなフィクション作品を読んだところで、こんな奇妙な事態が現実に起こっているという奇天烈さには決して敵わない。孤独、なんて陳腐な言葉がこんな瑞々しい意味合いを帯びるなんて。昨日まではそんな考えが私に向かって一瞥することすら敵わなかったのに。
一日で世界はガラリと変わってしまった。私自身の姿もそうだ。なにより私自身の考え方が一番変わってしまった。周りにいる方々は何も変わっていないという事実はその対照的な色合いを際立たせていた。
そしてそれは孤独、という語に新たな色彩を落としていた。さながら水彩画の中の太陽を黒く塗りつぶそうと試みるようなものだ。旱魃で苦しむ人たちなどにとっては赤々と燃えているより黒々と鎮座している方がその性質を正しく伝えているといえるのかもしれない。だけれどもそんなことが許されるのは油彩画の中だけ。
だからこそ、私は想像という迷宮に入り込んだような、そんな感覚に陥るのだ。迷宮から抜け出すことはできない。ただ遅かれ早かれ、迷宮の中を闊歩する牛人に嗅ぎつけられて殺される。希望が一切ないとは言わないにせよ、その名を冠した糸玉はあまりに、か細い。
お疲れ様、と八意さんは装置から出てきた私に声をかけた。何も返答をしないのは気がひけるのでジャーと小さく鳴く。ちょっとコンピュータの方で見てみるからそのあたりで待っていてもらえない、と言われる。今度は黙っていわば腹ばいの状態になり羽をたたむ。コンピュータを操作する八意さんの背中はかつてのお父さんのそれを思わせた。
しばらくしてからお父さんが部屋に呼ばれる。コンピュータの画面に映し出された、グロテスクな私の断面画像を見せながら八意さんは口を開いた。

「私も驚いたのですが……小鈴さんは完全に蝉になっています。ええ、体の作りも蝉をそのまま巨大化させたそれです。不思議なのはどこで思考をしているのか、ということです。一般的に昆虫の脳というのはヒトのそれと比べると神経細胞の数が非常に少ない。だから複雑な思考などはできないのです。つまりは、小鈴さんは今、魂かどこかで思考を担っている、私はそう考えています」

「それで、元には戻せるんでしょうか?」

お父さんの沈痛な求めを聞くと、八意さんは声を落とした。

「誠に申し訳ないのですが……薬というものは基本的には肉体に作用するものなのです。魂に作用する薬などを作ることは本当に、本当に難しい。そして仮に作れたとしてもそれを口にすることには非常に大きな危険が伴います。それは時として死よりも辛い結果を招くかもしれません。肉体に作用するものを作るにしても原因が全く不明なのでは……」

事実上の死刑宣告だった。いや、今すぐに執行してもらった方がむしろありがたかった。もうお父さんの顔を見なくても済むのだから。そしてお母さんの顔も。
八意さんは、少し小鈴さんとお話がしたいので、お父様はちょっと席を外していただけませんか、と述べた。それを聞いたお父さんは黙って部屋から出ていった。その方がお父さんにとってもありがたかっただろう。
私は両の眼で両の目を見た。穏やかな目つきをしていた。だけれどもやはり、隠しきれない歯痒さをどこかに湛えていた。

「ごめんなさい、小鈴さん。私が至らないせいで、あなたを元に戻すことができなくて。いいのよ、別に鳴かなくても。黙って聞いてもらえれば。賢いあなたのことだから気づいていると思うけど、蝉というのは人間よりもはるかに寿命が短いの。およそ一週間、とは言われている」

それはわかっていた。たとえ私でなくとも感づくこと。私は死刑囚なのだ。釈放の期待など必ず裏切られるのは分かりきっている。
そこで八意さんは声のトーンをさらに落とした。自分自身に言い聞かせるかのように。

「ひとつ、話をしていいかしら? あんまり人には話さないでね」

そのとき。
向こうの襖を開けて、私ぐらいの年の長い黒髪を備えた美しい女の子が中に入ってきた。

「永琳、その大きな蝉の姿をした方はあなたの知り合いなの?」

「姫、いまは診療中です。どうかお引き取り願います」

「いいじゃない、あなたの湿っぽい話を一対一で聞いていたら患者さんだって疲れるわ」

「そう言われましても……」

「私も聞きたいのよ、あなたの話を拝聴したことなんてあんまりなかったから。ああ、ごめんなさい、私の名は蓬莱山輝夜。この永遠亭の主人をしておりますわ」

そう言って輝夜さんは屈託なく微笑んだ。

「大変ね、何があったかよくわからないけど」

「この方は私の主人でもあります。あなたのことをお伝えしてもよろしいですか? もしよろしければ声を出してください」

私はジャーと鳴いた。むしろ初めて会う人の方が心持ちが安定する。

「この方は人里の貸本屋の娘さんで、本居小鈴さんといいます。今朝起きたら蝉に姿を変えていたそうです」

「それで元には戻るのかしら?」

「いえ……原因が全く不明な以上……」

その返答に輝夜さんはいささか驚いた様子だった。

「あなたにもできないことってあるんだ」

「私とて全知全能ではありません。それはあなたが一番よくご存じではないのですか?」

輝夜さんは俯いた。

「……そうね」

「……それで小鈴さん」

八意さんは再び私の方に向き直った。

「小鈴さんは人生について真剣に考えたことがありますか? 私は一応小鈴さんよりもずっと長く生きてきたし、おそらくこれからもそうです。だから私なんかが言えた義理では全然ないのはわかっています。だけれども、残された時間、悔いのないようにあなたは生きなければならないと思う。それはお父様、お母様、周りのお友達、そしてなによりあなた自身のために……月並みなことしか言えないけれども」

俯いていた輝夜さんもこちらの方を見た。先ほどまでとは違い、八意さんに負けず劣らない真剣な表情をされていた。

「……私はあなたの時を止めてもいいと思っている。勘違いしないで。別にあなたを憐れんでいるとか、そういうつもりではない。ただ、時間が欲しいか否か、それを聞きたい。私の術をかけられたものは未来永劫一切の変化を拒絶する……言っている意味は分かるわよね?」

つまり私は命の流れが止まる代わりにその間、元の姿に戻るという希望も失うわけである。そして術が解けたら元通りだ。結果は何も変わらない。

「そう望むのなら合図をしてもらいたいわ」

私は黙っていた。蝉の姿が嫌だ、という以上に、それが本当に幸福なことだと私にはあまり思えなかったのだ。
昔読んだ、神を欺いたことでその怒りを買い、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた人物の話を思い出した。
彼が岩を山頂に運んだその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。何度岩を運んでも転げ落ちる。同じ結果にしかならない。たとえ一億年と7日、生を繰り返したとしても。

「わかった……たまにね、考えるのよ。どれだけ長く生きようと、自分がどう生きたかなんて終わり際にしかわからないって。だからさ、そう決めたのならあなたは残された時間を少しでも充実させるべきだわ。昔、永琳に聞いたことがあるのよ。もしこの宇宙が明日消え去るとしたら、あなたは今日何をするの?って。そしたらさ、あなたと一日を共にします、って言われたの。それを聞いて私は思わず笑っちゃった。そしてもっと面白いのはこれからで、一人、私をしつこく付け狙う奴がいるんだけど、そいつに同じことを聞いたら、お前も含めてなるべく多くの人と話をするんだって答えたの。そのときそいつのことを生まれて初めて心から羨ましいと思った。まあ、何よりも一番滑稽なのは三人ともそれが決して叶わないということなんだけどね。いずれにせよ、悔いのないように生きるべきよ。……随分とクサい話をしちゃった、永琳、あとはお願い」

「私が言いたいことはおおよそ言われてしまいました。……でも、輝夜、ありがとうございます。それと……一人、小鈴さんに会っていただきたい方がいます。期待はしないでいただきたいのですが、もしかしたら、少しは小鈴さんのお力になれるかもしれません。お時間がないのは承知です。明日、お伺いしてもよろしいですか?」

帰り道。私は同じように竹籠の中に入ってお父さんに担がれていた。ただ一つ違ったのは、お父さんが時折籠に向かって、すまないな、あまり一緒にいてやれなくて、とか、母さん、お前のことをほめていたぞ、とか、そういう話をしてくれたことだ。私はその度に、ジャーとか、ジャージャーとか鳴いた。夜も近くなっていたから不用意に音を立てるのは少し危ないはずだったが、護衛として鈴仙さんがついてきてくださったから、心配はいらなかった。道中鈴仙さんは横槍を入れなかった。だけれども一度だけ、お二人は本当に仲がよろしいのですね、とお父さんに告げた。自慢の看板娘ですから、とお父さんがすかさず返す。
お父さんとこんなに話したのは随分と久しぶりだった。帰るまでにかかった時間は来る時とほとんど変わらなかったはずなのに、とてもそうとは思えなかった。鈴仙さんと別れ、家に戻るとお父さんは私の部屋に籠を置き、蓋を開けて出ていった。お母さんに話をしに行くのだろう。しばらくしてお母さんが入ってきた。小鈴、お腹が減ったんじゃない、と言われる。涙の跡が見えた。だけれども声に芯はしっかりと通っていた。
蝉の食べるものなんて何を用意すれば良いのか見当もつかない。お母さんは居間まで私の入った籠を持っていってくれる。とりあえず蜂蜜と砂糖水を用意してみたんだけど、と言われ、籠から頭を出してみると、なるほど、粘りのある黄金色の液体と、さらりとした透明な液体がそれぞれ瓶一杯に入っていた。私は身を乗り出し、口の先の針を瓶の中に突き刺して液体を吸おうとしてみた。残念ながら蜂蜜は途中で詰まってしまいうまくいかなかったが、砂糖水の方はなんとかなりそうだ。

「本当は樹液を集めてきてあげたいんだけど、どうしても量がとれなくてね……」

蜂蜜なんてこの幻想郷では高価なものだ。砂糖も外の世界のように安いものだとはいえないというのに。

「だからごめんね、これで我慢してもらえないかしら……」

私はジャーと大きく鳴いた。

食事の後しばらくして、お父さんが一冊の古い本を持ってきた。外来本らしい。中を見せてもらうと、外の世界で使う無線機についての本だった。

「父さんも知らなかったんだが、外の世界ではモールス符号といって、短い音と長い音で情報を伝える方法があるらしい。小鈴、大変だと思うが、これを覚えてもらえないか?」

ジャーと鳴く。大変だったのはお父さんの方だろう。私がなんとか意思疎通できる方法がないかとずっと店の中を探してくれたのだから。
モールス符号を理解すること自体は大変ではなかった。ありがたいことに、能力までは失っていないらしい。ただ、読むことはできても書くことは難しい私の悲しさで、使いこなすのには一苦労だった。お父さんはつきっきりで付き合ってくれて、お母さんの方も、うるさいだろうに何も言わなかった。
翌朝。お父さんの目は真っ赤に充血していた。それを見る私の眼は変わっていないだろうが。いや、少しだけ変わったような気がするのは気のせいか。

「小鈴、試しに自分の名前を言ってみてもらえないか?」

「ジャージャジャジャージャ、ジャジャジャージャジャ、ジャジャージャジャジャ、ジャージャージャ、ジャージャージャージャー、ジャージャージャージャジャー、ジャージャージャージャジャー、ジャジャ」

上出来だ、とお父さんは私の頭を撫でてくれた。撫でられたのは小さいとき以来。とても嬉しかった。似たようなことを外来の伝記で読んだことがある。視覚と聴覚を失った外国の女性が、家庭教師に連れられて井戸端で水に触れ「水」という語のもつ意味を生まれて初めて理解したときもこんな感じだったのだろうか。一度はぴったりと閉じられた世界が少しだけ開けたような感覚に襲われた。

「ジャジャージャジャジャ、ジャジャジャージャジャ、ジャジャジャー、ジャージャジャージャジャー、ジャジャージャジャージャ、ジャージャージャジャージャー、ジャージャージャ、ジャジャージャジャ、ジャジャ、ジャジャジャージャジャ、ジャジャジャー、ジャジャージャジャジャ、ジャジャージャジャ、ジャージャージャジャージャー、ジャージャジャージャジャー、ジャジャージャジャージャ、ジャージャジャジャージャ」

しばらく時間を置いて、こちらこそ、とお父さんは私に言った。およそ一日ぶりに見る晴れ晴れとした笑い顔だった。

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