其の五 「心の在る処」
人々に蔓延る厭世観。飛び交う“ええじゃないか”。それにつけこむ……もとい救おうとする宗教家達。面白半分に勝負をしかける有象無象の妖怪と少しの人間。
そして、今回の騒動の元凶たる、感情を司る面霊気。
それぞれの思いが交錯し、結果、今年の幻想郷の夏は、どこもかしこもお祭り騒ぎで異常なほどの熱狂に包まれていた。
「また新たな決闘が始まるみたいね」
博麗神社の屋根の上で、文字通り高みの見物を決め込む紫は、興味深そうに目下で相争う二人を見下ろしていた。
霊夢は留守にしている。決闘を始めるのは魔理沙、そして道教勢力の風水師、布都だ。
「私の魔法で吹っ飛べ!」
「我が物部の秘術を見るがよい!」
観客は対峙する二人にやんやの喝采を浴びせる。ハレの場とはいえ、この熱気は異常だ。面霊気の暴走はすでに治っているはずだが、まだまだ暴れ足りない、騒ぎ足りない者の多いこと。
「藍、貴方、どちらに賭けるか決めたの?」
「私ですか? そうですね……風水師はこの頃勝ち星を上げ続けているし、けど魔理沙もなかなか粘りますし」
「決めてないのね。じゃあ魔理沙に賭けなさい。私はあの風水師に賭けるから」
「風水師が勝つのですか?」
「そんなのわからないわよ。両方に賭けておけば配当金で損をしないでしょう」
「ああ、なるほど」
藍は自分の賭け金が紫に行くことはどうでもよかった。金があっても大した使い道が思いつかないし、せいぜい人里の豆腐屋で油揚げを買うくらいだ。
魔理沙の放つ魔法で星屑やレーザーが飛び交う。対して布都は皿を投げたかと思えば弓矢で射たり、多彩な飛び道具を持っている。
「すごい歓声ですね。なんだか流されそうです」
「人の心は移ろいやすいもの。悩み乱れた末に、結局附和雷同になってしまうのよ」
「これも面霊気の置き土産ですかね」
人里も例外なく活気に包まれているのだが、一時は深夜、人里が感情のない場所になってしまった。
面霊気の司る感情の一つ、希望が失われてしまったのだ。それが此度の騒動の原因であった。宗教家達が面霊気を調伏せんと挑みかかり、神子が新たな面を作り、面霊気自身も戦いを楽しむことで事態は収束に向かいつつある。感情のコントロールが求められるのは、むしろ人間達の方かもしれない。
「藍。心とはどこにあるものかしら?」
唐突な問いかけである。紫の細められた目になんらかの意図を感じつつも、藍は頭に浮かんだ答えをそのまま述べた。
「そうですね。悩み苦しむことを胸が痛む、心臓に悪いと表現するように、胸元、心臓にあると考える者もいるようですが、感情の源は脳の扁桃体の反応です。心の場所は脳味噌でしょう」
「まあそう答えるわよね、貴方なら」
紫は扇子を片手に苦笑いを浮かべている。やっぱり違う答えが欲しかったらしい。そうはいっても、藍はそれ以外の答えは持ち合わせていない。
「貴方は妖獣だし、精神に依存する妖怪に比べれば比較的精神は安定している。けれど、貴方は式神なのよ。忘れないようにね」
「忘れてますかねぇ」
藍はあまりぴんとこないまま応じる。時々釘を刺されるが、藍から紫の式神が剥がれている時間なんてほとんどないのだ。いや、たとえ式神がなくともいつだって藍は紫の従者だし、己の立場を忘れるはずがなかった。
紫は呆れたようにため息をつく。
「藍。自分の力をきちんと理解していないと、力は明後日の方向に向いてしまうのよ。それはとても危険なことだってわかっているのかしら?」
「ええ、今回の騒動を見ていればよくわかりますよ。あの面霊気は、己の力を制御しきれず、人間や妖怪の感情を暴走させてしまったのですから」
藍はあっさり答える。人間の感情を面に映し、映した面が自我を持つ。面の一つが失われて均衡が崩れたそうだが、あの面霊気は新たな面を得た今でも感情をうまく操れない。己の力の源である、感情を理解できていないからだ。
紫はにやりと微笑む。妖怪人間問わず、会う者誰もが“胡散臭い”と評する笑みだ。
「そういえば、あの面霊気は『秦こころ』とかいう名前だったわねぇ。感情を司るから『こころ』という名なのか、『こころ』と名乗るから感情を司るのか」
「そんな鶏が先か卵が先かみたいなことを言われましても……ただ、名は体を表すというように、秦こころという名前そのものが感情を示しているのですね」
「そう。名前はその者の言動に影響を与えるもの。それを踏まえた上で、貴方に聞くけど」
紫は紫色の目でじっと見つめた。
「藍、貴方の名前の意味はなんでしょう?」
「……はい? 私の、ですか?」
思いもよらぬことを問われて、藍はぽかんとする。
名前の意味。八雲藍という名が意味するもの。それは幻想郷を囲む境界、八雲紫のすぐ側にいる者だ。虹の七色の外側、紫色の隣が藍色だ。しかし藍はそれを口にしなかった。先ほどの“心の在処”の問いと同じように、紫が求めている答えは、こんな式神によって即座に導き出されるものではないからだ。
「そうよ、それじゃない。貴方の用意している答えは正解だけど不可なのよ」
藍の心を見透かしたかのように、紫は笑みを深めてゆく。
これで不可だというなら、優の答えは果たしてどのようなものだろうか。藍には可の答えすら、たどり着くには天文学的な数の方程式を解き明かすより難しいように思われた。
「まあ、時間を持て余している貴方への宿題ってことにしておきましょうか。ちょうど季節は夏ですし。じっくり考えてみなさい。貴方の心の在る場所である頭脳でね」
紫はそう告げると、真剣に悩み始めた藍をよそに、やっぱり暑いわねぇとスキマから日傘を取り出していた。
「あら、風水師が勝ったわね」
紫様は私に何を求めているのだろう。藍が頭を抱えているうちに、神社の境内で行われていた決闘はすでに決着がついていた。
勝者は物部布都。紫が賭けた方である。
「ああ、ちゃんと見ておけばよかったかな……紫様?」
「次の決闘を見に行くわ。夏の間は退屈しなくて済みそうねぇ」
スキマに体を滑らせ、紫はどこかへ消えてしまった。紫が自由気ままに動くのは今に始まったことではない。どこにでも現れるし、どこにでも消える、神出鬼没の妖怪だからだ。
藍はまだ呆然としていた。何というか、やはり紫の思考とは藍には遥かに及ばない場所にあるようである。
普段は寝てばかりで、仕事はほとんど藍に任せきり。かと思えば急に動き出して、藍には到底理解できないことを口にする。一つだけ確かなのは、紫が最も幻想郷を愛しているということだ。
藍は昔から紫の考えにどうにかたどり着けないかと悩み、苦しみ、悶えたものの、結局諦めてしまった。ともすれば思考の放棄と紙一重だが、理解できないものは理解できないままにしておく、というのも手だと考えたのだ。
人智の及ばない存在だからこそ、謎に包まれているからこそ、紫は強大な妖怪であるといえる。言わぬが花というように、謎は謎であるからこそ美しさを増す。手を伸ばしても、蜃気楼のようにすり抜けてしまう。それが藍が尊敬し、慕ってやまない紫の姿だと定義したからだ。紫の言うように、藍が深刻な悩みを抱え続ける性格ではないというのもあるが。
「……おっと、人がいなくなる」
藍が思考の海から戻ると、決闘を終えて見物客がぞろぞろと神社を後にしてゆくところだった。次の決闘を求めにゆくのだろう。紫は結局配当金を受け取ったのだろうか。
決闘の結果、博麗神社はそれなりに人気を集めていた。神社だけでなく、命蓮寺、神霊廟まで絡み合って、此度の騒動は宗教戦争と揶揄されることもあった。紫が以前言ったとおり、幻想郷において宗教家達の決闘は血で血を洗うものではなく、美しく魅力的な弾幕で彩られるのだ。
そういえば、神社へ来る途中、聖輦船が飛んでいるのを見かけたのだった。あの船もまた決闘の舞台となっているようだ。此度の熱狂には聖と一輪、それに命蓮寺の僧侶ではないがあのマミゾウも参加している。
――命蓮寺はどうなっているかな。関心を持ったのは藍が仏教に親しんでいるからというより、決闘に参加していない命蓮寺の僧侶が気になるからだ。
藍は命蓮寺の方角へ向けて、快晴の夏空を飛んだ。
◇
命蓮寺は多くの人間と妖怪で溢れかえっていた。ご開帳などのイベント時でもこれほどの人だかりはあるまい、というほどの盛況ぶりである。
「ずいぶんな盛況だなぁ」
人熱の中で、藍は思わずひとりごちた。祭りに合わせて縁日も開いているようで、あちこちに屋台が出ている。
「いらっしゃーい! 蒸し暑い夏にぴったり、冷やしきゅうりはいかかですかー!」
少し覗いてみようか、と立ち寄れば、威勢のいい呼びかけに藍は面食らう。にこやかに屋台を営業しているのは、谷河童のにとりだ。
「なんだ、にとりか。命蓮寺でも屋台を開いてたのか」
「祭りは金の匂いがするからね。仏罰だの神罰だのがなんぼのもんだよ、地獄の沙汰も銭次第。口ほどに物を言うのはコレなのさ」
にとりは口元をつり上げて、親指と人差し指で円を作る。藍は肩をすくめる。ちゃっかりしているというか商魂たくましいというか。宗教には興味を持たず、しかし商機を見逃さないのも河童らしいとはいえるのだが。
藍が何も買おうとしないのを見て、にとりの目つきが険しくなる。
「冷やかしなら帰ってくれないか。他の客の邪魔だよ」
「……わかった、一本もらおう」
「まいどありー! お代はこちらへどうぞ!」
藍が根負けして指さすと、手のひらを返すように満面の営業スマイルを浮かべた。
懐から取り出した小銭を、河童の頭を象った小壺の中に入れる。中には小銭がぎっしり詰まっていて、それなりに儲かっているようだ。
藍は歩きながらきゅうりを一口かじる。そこまで欲しくもなかったが、氷でキンキンに冷やされていたきゅうりは口に含むと清涼感がある。
屋台の食べ物は割高だ。けれど祭りの喧騒で食べるとなぜかうまく感じるものである。人間達もついつい紐がゆるんでしまうのだろう。
かじりながら、藍はゆっくり境内の奥へ進んでゆく。にとりの屋台以外にも、食べ物や射的などの遊戯を提供する屋台があちこちに並んでいる。その中でも目立つのが、いつも以上に掲げられた『奉納毘沙門天王』ののぼりの数々だ。見たところ、命蓮寺では現在決闘は行われていない。やがてきゅうりを食べ終えた藍は、『ゴミはゴミ箱に』と立札の書かれた箱に串を捨てる。
聖や一輪も留守にしているのだろうか。それなら、きっと、寺の留守を守っているのは――命蓮寺の正面に、藍は目当ての影を見つけた。
「星!」
藍が声をかけて駆け寄ると、宝塔と鉾を手に仁王立ちしていた星が、厳しい表情を崩して微笑んだ。
「藍! 決闘を見に来たんですか? 残念ながら、今日はまだ始まっていないんですよ」
「まあ、それもあるけど」
藍もまた星に笑いかける。
ひょんなことから知り合った藍と星は交流を重ね、今では友達と認め合う関係に至っている。
「星の様子が気になってね」
「私が……?」
「うん。僧侶が二人もお寺を空けて、入門希望者も増えてるのにどうしてるだろうと思って」
「そうなんですよ!」
よくぞ言ってくれたと言わんばかりに、星はため息をつく。このぶんだと、どうやら星はお祭り騒ぎを楽しむどころではなく、苦労しているようだ。
「ありがたいことに、おかげさまで入門希望者が後を絶えません。入門までいかなくとも修行の体験を希望する方も多くて。聖は忙しいし、一輪は雲山と一緒に決闘に明け暮れているし、マミゾウさんも何か動いてるみたいですし。ムラサは聖輦船の運航で忙しいし。ぬえさんは相変わらず見当たりませんし。私と響子とナズーリンはてんてこ舞いですよ」
本当に参っているようで、星は疲れの色を隠さない。先ほどまでの、本尊たる堂々とした佇まいは影も形もない。それが星の本来の飾らない姿で、微笑ましく思う。
「一輪ったら、留守番を聖に任されたのに、聖の後を追うって出て行ってしまうから。『星、あとはよろしく!』って……確かに私は普段から留守番役ですけど、聖の頼みをそんな簡単にほっぽらないでくださいよ」
「それは大変だったね。あの人は結構、こういうノリが好きそうだからなぁ」
藍は珍しく愚痴をこぼす星に同調しつつ、明るく快活な入道使いの姿を思い浮かべる。
一輪は普段は真面目で弁える人物である。それが今回ばかりは少々羽目を外しているとなると、此度の騒動の影響は思った以上に大きいようだ。
ふと、視界が暗くなる。雲一つない快晴のはずが、と空を見上げると、空飛ぶ宝船、聖輦船が命蓮寺の真上まできていた。
「あれ、聖輦船じゃないか。戻ってきたのか?」
「自動操縦で幻想郷上空をあちこち遊覧しているはずですよ。たまたま通りかかっただけかと」
「ちょっと様子を見てくるよ」
藍は星に一声かけて、空へ昇る。
元の聖輦船は今の命蓮寺になったため、現在空を飛んでいる聖輦船は、聖が再び作った二代目だ。時折、希望者の妖怪や人間を乗せて遊覧飛行を行っている。
しかし、自動操縦なら船長も暇だろうに、ムラサは何をしているのか。信仰集めに尽力しているのだろうか。
藍は船の甲板に立ち並ぶ二人の姿を見つけた。雲山を伴った一輪と、先ほど魔理沙に勝った風水師、布都だ。
「あんたも懲りないね。うちの寺は焼かせないわよ!」
「産土の旧き神を蔑ろにする邪教など燃やしてくれるわ! いにしえより平重衡公、高師直公、織田信長公と名だたる武将達が寺社の焼き討ちを行ったと聞く。我が秘術の手にかかり朽ちてゆくこと、誇りに思うがいい!」
「ふっふっふ、それらの罪深き武将達がどのような末路を辿ったのかまでは知らないのね。ちょうどいい、私がこの場で再現してやる! 御仏が罰を下すまでもない、裁くのは私の弾幕よ! 行くわよ、雲山!」
やけに好戦的な文句をぶつけ合う二人を見て、なるほど、二人がこれから聖輦船で決闘を始めるわけか、と藍は納得した。聖輦船には何人もの見物客が乗っていて、二人の決闘に盛り上がっている。
船を降りた藍は、星の元まで戻った。
「一輪が戦うみたいだよ。相手はさっき神社で戦ってた風水師だな」
「あら、またですか。あの二人はもう何度も戦っているんですよ。どうやら一輪は布都さんと馬が合うようでして」
「確かにお互い激しく言い合っていたな。喧嘩するほど仲がいい、というやつか」
「一輪は否定するんですけどね」
星はそっと肩をすくめる。確かに寺を焼くなどと発言する布都は一輪からしたら度し難いものだろう。
船から聞こえる歓声が大きくなる。決闘の火蓋が切って落とされたようだ。
「始まったみたいだ。見に行かなくていいの?」
「一輪の戦いならもう何度も見てきましたから。藍こそいいんですか?」
「私は星に会いに来たんだよ」
何なら命蓮寺で決闘が行われるならついでに見ていけばいいか、くらいの気持ちではあった。今なら朝から晩まで、幻想郷の至るところで決闘は見れる。
星が呆気に取られているのを見て、藍は首を傾げる。冷やかしのようでまずかっただろうか。屋台には顔を出したが、売上は河童のものだろう。
「迷惑だったかな?」
「いえ! その、嬉しいです……」
星がはにかむ様に、藍は安堵した。
「しかし、繁盛してるね」
「この機会に、できるだけ多くの方を我が門下へ、とは思っているんですが。一時的な熱に浮かされているようで、いつまで続くかわかりませんからね」
「けど、新しい妖怪が入門したんだろ? 例の、サトリ妖怪が」
藍は古明地こいしのことを思い出した。以前、地底を訪ねた際に藍の尻尾を無意識で触ってきた妖怪少女だ。気配を感じさせず、背後を取られるので苦い思い出だ。
彼女もまた戦いに参加し、このお祭り騒ぎを楽しんでいるようだった。
「はい。本格的に興味を持ってくださったようで。聖の熱心な勧めもあり、在家のまま入門しています」
「あの子の放浪癖が落ち着けばいいんだが」
こいしは無意識のうちにふらふら動き回る。いつのまにかこころの失くした希望の面を拾っているし、姉のさとりは心配して地上まで探しに来るしで、なかなかのお騒がせ者だ。
その時、頭上からわぁっと大きな歓声が聞こえてきた。どうやら聖輦船での決闘に決着がついたようだ。船の上から一輪が降りてくる。
「あー、負けた! ホームで負けるのは辛いわー」
少し衣装のぼろくなった一輪が、命蓮寺に降りるなりため息をついた。傍らにいる雲山も、わかりにくいが疲れた表情をしている。
星は戻ってきた一輪を見て、にっこりと笑った。精巧な作り物の笑みである。あ、これは怒っているな、と藍は察した。一輪もまた気づいたようで顔をひきつらせる。
「おかえり一輪。負けたわりには楽しそうですね」
「あら? 星、怒ってる……?」
「聖から承ったお役目を簡単に投げ出してはいけません」
「ご、ごめんって。埋め合わせは必ずするから、ね?」
いわく、温厚な人物ほど怒らせると怖い、と。星はまさにその典型だな、と思いながら、藍は両手を合わせて許しを乞う一輪を見つめていた。
一輪が藍を見つけて、助かったと言わんばかりに口を開く。
「あら、藍さんいらっしゃい。とうとう貴方もうちに入門希望かしら?」
「あいにくどこかの勢力に肩入れする気はないんでね」
「それは残念。貴方ほどの妖怪がうちに居てくれたら心強いのですが。星も喜ぶでしょうし」
「一輪、話を逸らさないで」
「はは、いくらなんでも狸と一つ屋根の下は困るよ」
「あー、そうだったわ。問題はそこなのね」
一輪はわざとらしく頭を抱える。どのみち藍が承諾したところで、マミゾウの方も狐と同居など断るだろうが。いや、あの狐嫌いのマミゾウのことだ、追い出そうとして熾烈な争いになるかもしれない。
マミゾウのことはさておき、命蓮寺の居候ならまだいるはずである。一人はぬえ、そしてもう一人は命蓮寺で面倒を見ているというこころの存在だ。
「ところで、例の面霊気……秦こころはどこにいるんだ? ここには姿が見えないようだが」
「前は神社にいたけど、今は道場じゃないかしら。あの道士にも世話になっているそうだし」
一輪の話によれば、こころは揃って調伏にやってきた三人の宗教家の元を転々としているそうだ。それぞれの宗教家達から感情について学ぼうとしているらしい。
「でも、近々神社で奉納神楽をやるって言ってたわ」
「奉納神楽?」
「ええ。今までの能楽は古いから、新しく作り上げた能楽を披露するんですって」
「なるほどな」
こころの演目にある暗黒能楽とやらは、古くさくて能楽に馴染みのない幻想郷では受けなかったようだ。こころは己の特技を極めるため、そして能楽を通じて感情表現を身につけるために能楽作りに苦心していたと聞く。
藍も新たな能楽とやらには興味があったが――気がかりなのは、こころの周りを例のマミゾウがうろついているという噂である。マミゾウは困っている妖怪に知恵を貸すため、などと宣っているが、本心はどうだかわからないと藍は疑っている。
「藍? どうかしましたか」
「え? ああ、秦こころの能楽に興味があってね」
「そうですか……」
星は少しの間何かを考えるそぶりを見せて、やがて真剣な顔で一輪に向き合った。
「一輪、私の頼みを聞いてくれる?」
「な、何かしら?」
一輪は星のあまりの気迫にたじろいでいる。まだ怒られるのかと思っているらしい。
「一日だけ留守番を代わって」
「まさか、奉納神楽に行くの?」
「いつも藍に誘ってもらってばかりで、私からは全然だから。……藍、こころさんの能楽を一緒に見に行きませんか?」
星から思わぬ誘いを受けて、藍は目を瞬いた。
星と能楽を見にゆく。それは願ったり叶ったりというか、藍もそうしたいと思っていたことだ。しかし星には仕事があるし(一輪と交代することで片付きそうだが)、博麗神社は命蓮寺にとって商売敵でもある。
「私は構わないが、神社は寺の商売敵ではないのか?」
「こころさんは一度は命蓮寺で預かった身。霊夢さん達はこころさんの精神の安定に力を貸してくれるのですから、この件に限っては敵ではありません。と、聖がおっしゃっていました」
「……そうか」
ならば星を博麗神社へ連れて行っても問題はない。
あとは一輪がどう出るかである。星に頼み事をされた一輪はというと、
「私も能楽を見に行きたいけど……いいわ、先に頼みを聞いてもらったのはこっちだしね。行ってらっしゃいよ、星」
と、笑って快諾してくれたのだった。
「ありがとう、一輪」
「それにしても珍しいわ。星からこんな風にお願いされるなんて。自分から出かけたいって言い出すなんて」
「変かしら?」
「いいえ、ぜんぜん。藍さん、星のことよろしくお願いしますね。きっと当日浮かれてると思うんで」
「一輪ったら!」
からかうように笑う一輪に、星はまた怒ってみせる。といっても、先ほどよりは軽い怒りだが。
一輪は真面目といっても堅物ではなく、藍に対しても気さくに接してくれる。しかし、ことに星が絡むとぐいぐい来るというか、見合い婆さんのような世話焼きっぷりだ。
(いや、違うだろ)
藍は即座に頭に浮かんだ喩えを否定する。一輪は若い女性だし、そもそも藍と星とは友達なのであって、別にやましいことなど何もないはずだ。
星は一輪とそのままたわいもない言い合いをしている。なんだかんだ言いつつ、仲がいいのだろうな、と藍は微笑ましく思った。
◇
待ち合わせは夕方、博麗神社の鳥居の前で、と約束した。
遠くから陽気な祭囃子の笛と太鼓の音が聞こえてくる。博麗神社は近年稀に見る繁盛ぶりである。決闘で人気を獲得し、さらに奉納神楽で新たな能楽を披露するということで注目を集めているのだ。霊夢は左うちわといったところか。けれど長くは持たないだろう。霊夢は貧乏より努力が嫌いなのだ。
こちらでも屋台が所狭しと並んでいて、やはり河童のにとりの屋台もあった。今度は冷やしきゅうりではなく、お面を売っている。本当に抜け目のないやつだ。
浴衣や甚兵衛に身を包んだ人間達が次々に鳥居をくぐってゆく。藍は押し流されそうな人混みの中、背を伸ばして星の姿を探していた。約束の時間はもう目の前で、星が遅刻するとも思えなかった。日が落ちきっても、昼間の熱気の残りと人いきれで蒸し暑い。
いくつもの頭が通り過ぎてゆく中に、藍はようやく見慣れた黒の混じった金の髪を見つけた。
「星! ごめん、待っ、た……?」
星の姿を目にして――藍は言葉を失った。
藍の声に気がつき、振り向いた星は、いつもの毘沙門天を模した姿ではなく、浴衣姿だった。
落ち着いたえんじ色に、七宝模様の刺繍が施された生地。光沢の抑えた金色の帯を締め、トレードマークの虎柄は巾着の紐に忍ばせてある。足元は赤い鼻緒を挿げた下駄だ。そして頭上の飾りは例の炎を象ったものではなく、以前藍が星と地底に行った際、藍から星に贈った不思議な細工の蓮の髪飾りだった。
祭りに浴衣。何もおかしくはないし、周りの人間の娘達は色とりどりの浴衣に身を包んではしゃいでいる。しかし偶像の毘沙門天と虎模様を合わせた星の格好に見慣れていて、いつもと違う星の晴れ姿に、藍はしばらく二の句が継げなかった。
藍が呆然と見つめているのに気づき、星の顔がリンゴ飴のように真っ赤に染まる。
「あ、い、いや、あのですね! い、一輪とムラサがせっかくのお祭りなんだからおめかししなさいよと気を利かせてくれたというかお節介を焼いたというか……わ、私が浮かれていたというのもなくはないですが!」
「えっ、あ、いや」
慌てて言い繕う星に、藍は何か返さねばと思うも、思考が停止して言葉がまとまらなかった。
浴衣で来るなんて、藍はまったく考えていなかった。というか、普段の大陸風の藍色の装束が一張羅で、浴衣どころか他の服はない。主人の紫は派手好きだが藍は服装にあまり頓着しないのだ。一輪らの助けがあるとはいえ、星は普段着ないような格好で現れるほど、今日の約束を楽しみにしていてくれたのだろうか?
気が利かないことを詫びるべきか。星は浮かれてなんていないと宥めるべきか。いや、まず言うべきは『よく似合っている』の一言ではないのか?
気の毒なほど困惑している星に、頭が混乱して何も言えない藍。気まずい空気が流れ始めた。
「おやおや、ここにも一人お困りの妖怪がおるようじゃのう。まったく、今年の夏は忙しくてかなわん」
そこへ、二人の間にのらりと現れた妖怪が一人。大きな葉の傘をかぶり鈴の音を鳴らすのは、マミゾウである。
「ま、マミゾウさん?」
「お前、何をしにきた」
「何って、こころの能楽を見にきたに決まっておるじゃろう。お前さん達と同じじゃよ」
マミゾウは一瞬のうちに二人の置かれた状況を把握したのか、藍をちらと見てふん、と鼻で笑った。
「なんじゃ、乙女に恥をかかせるとは狐の風上にも置けない」
「お前には関係ない、すっこんでいな」
「いやいや、信仰心は無くとも同じ釜の飯を食うものじゃて」
藍が低い声で突き放すも、マミゾウはまったく意に介さない。藍のためでなく星のため、と言いたいらしい。
ぬっとマミゾウの顔が間近に迫る。丸い瞳で品定めをするように藍を頭の天辺からつま先まで見下ろした後、にやりと口元をつり上げた。
「まっ、お前さんにはこんなところかな?」
「……っ!」
マミゾウが頭上で仰々しく指を鳴らし、藍の体に変化が起きる。マミゾウに術をかけられた、と気づいた時には――藍の身なりは、いつもの大陸風の装束から、鮮やかな藍色の浴衣姿に変わっていた。
「な、なんだこれは」
藍は驚いて自分の格好を何度も確認した。
袖と裾には白い撫子の花模様。深い藍色に染められた生地は上質で薄い浴衣のわりに安っぽくない。帯は光沢の控えめな金色で、星の帯と揃えてある。頭のキャップもなく、自分では見えないが髪飾りもある。ご丁寧に背後には尻尾が出るよう穴まで空けてあるようだ。足元は浴衣と同じ藍色の鼻緒が美しい漆黒の下駄だ。
マミゾウは得意げに微笑み、片目を瞑った。
「サービスってやつじゃ。だいたいこの暑い季節にあの厚着、見るだけで汗が吹き出すわい」
「余計なお世話を……」
「藍!」
藍が苦虫を噛み潰したような表情をしているところへ、星の弾んだ声が飛んでくる。
「素敵ですよ。すごく似合ってます」
「……星」
星の瞳がラムネのガラス玉のようにきらきらと輝いていて、藍は口ごもる。
そんなに真っ直ぐに見つめて褒められると、マミゾウに文句の一つも言えなくなる。自分でも単純だとは思うが、素直に嬉しかった。
「……ありがとう。星も、よく似合ってるよ」
ようやくその一言を言うと、星は花が綻ぶようにはにかんだ。
にやにやと目を細めているマミゾウに、藍は不承不承ながら、本当に遺憾ではあるのだが、礼を言う。
「一応、礼は言っておこう。この借りは必ず返すよ」
「おう、倍返しで待っとるぞい」
藍の睨みをものともせず、マミゾウはひらりと手を振って人混みの中に消えていった。
天敵に無様なところを見られるわ窮地を救われるわ、藍の胸中は大変複雑である。マミゾウのセンスが悪くないからなおさらだ。複雑であるのだが、せっかくの祭りだというのにいつまでも不機嫌な顔をしているわけにもいくまい。星と祭りを楽しむために、こころの能楽を見るために来たのだ。藍は燻る気持ちをどうにか切り替えて、星に声をかけた。
「……行こうか、星」
「はい」
藍が当たり前のように星の手を取ると、星が驚いたように藍の顔を見上げていた。
藍はそこではたと気づく。そういえば、今までにも何度も星の手を自然に握っていたような気がする。無意識の行動を自覚したら、急に気まずくなった。
「あ、えっと。この人だかりだし、逸れないようにと思って」
「え、ええ、そうですね」
言い訳のようにつぶやくと、星は頬を赤くして下を向く。そのまま歩き出しても、星は藍の手を離そうとしなかった。
無意識のうちに、なんて、まるでこいしのようではないか。なぜ今までこんな馴れ馴れしい行動が自分の中で当たり前になっていたのだろう。……星が何も言わなかったのは、それが嫌じゃなかったということなのか。
藍は振り返りもせず人混みの中を歩いた。星の顔を見ると、なぜか胸が騒いでまともに目も合わせられない。祭囃子の太鼓のように、鼓動がどくどくと音を立てる。祭りだから? いつもと違う格好だから? それとも、この感情の昂りもまた面霊気の暴走の影響なのか?
「星。その髪飾り、つけてくれたんだね」
「は、はい。……もったいなくて、なかなか身につけられなくて。せっかくだからこの機会にと思いまして」
「そう。ありがとう。思ったとおり、星に似合ってたよ」
「そんな、こちらこそありがとうございます……」
「お世辞なんかじゃないよ。……本当に、綺麗だと思ったんだ。だからさっき、すぐに言葉が出てこなかった」
「ら、藍」
握った手のひらの体温が、ひどく熱い。これは星のものなのか、それとも自分のものなのか。変な汗をかいて、星が不快でなければいいのだけど。
顔も見れないままつむぐ言葉は、やはりなんの捻りもないストレートなものばかりだ。藍にとって言葉を選ぶことは、本当に苦手なのだ。自分の考えがきちんと伝えられるか、星相手だと少し不安になる。
星はどんな表情をしているのだろう。見てみたいような、振り返りたくないような、変な気分だった。
「あの、藍」
星に軽く手を引かれて、藍も自然に足を止めた。
このまま進むと、こころの能楽のために設えられた舞台がある。藍が少し緊張して振り返ると、星は立ち並ぶ屋台の数々を指さしていた。
「こころさんの能楽が始まるまで、まだ時間がありますし、少し屋台を見ていきませんか?」
照れ隠しのように星は口早に告げる。
この奇妙な空気を変えるにはそれがいいかもしれない。せっかくの祭りなのだ、楽しまなければ損だろう。
「いいね。博麗神社の縁日にはそうそう来れないだろうし」
屋台の方へ足を運ぶと、星も隣に並んでついてきた。繋いだ手が自然と離れたのが寂しかったのは、気のせいだろう。
射的や輪投げなどのゲーム、焼きそばやお好み焼きといった食べ物屋、金魚すくいにヨーヨーすくい。たくさんのお面を並べたにとりの屋台も見えたが、今回は近寄らないことにしておいた。星も命蓮寺の縁日でにとりに手を焼いたせいか、藍の囁きに無言でうなずく。
「どこに行こうか。……珍しく子供も多いなぁ。型抜きなどのゲームは私達が邪魔になってしまうかもしれないね」
「あ、それだとくじも駄目です。私が引くと当たりばかり引いてしまうので」
「星の能力ってそういうものだったっけ?」
「影響が出るみたいです。今日は宝塔を持っていないんですけどね」
「なるほど……」
どのみち、藍も星も射的や金魚すくいにはしゃぐ性格でもない。風船などのおもちゃも同様だ。となると、何か買うにしても、その場で消費できる食べ物などになるか。
「……あ」
その時ちょうど藍の目に留まったのが、氷を削るかき氷機と、紙カップにうず高く積もってゆく結晶のような氷の小山だった。
「暑いし、冷たいものでも買っていこうか」
「ええ、そうですね」
藍がかき氷の屋台を指さすと、星もうなずいた。
屋台の主は中年の男性だった。藍は耳も尻尾も隠していなかったが、特に気にすることなく注文を聞く。
「私はイチゴで」
「ええと、ブルーハワイでお願いします」
「まいどー」
頼んでから、示し合わせたわけでもないのに、お互いの衣装の色を選んだみたいだと気づく。顔を見合わせて、どちらからともなく笑った。
赤と青のシロップがふんだんにかけられたかき氷のカップをそれぞれ受け取って、藍と星は歩き出す。縁台はあいにくどこも満席だが、人通りの邪魔にならない場所なら立ったままでも構わないだろう。
ストローの先を切り開いたようなスプーンで、一口すくう。人工的な甘味料の強い甘みと氷の冷たさが口に広がった。
しかし、イチゴ味といっても、色も味も本物のイチゴからは程遠い。色の連想からつけているのだろうか。星の頼んだブルーハワイに至っては色が似ているソーダ味くらいの意味しかないような気がする。
それにしても、この甘さはなかなか強い。適度にかき混ぜても、最後はシロップが余ってしまいそうだ。
「シロップサービスしすぎだな。舌が赤くなってしまう」
「赤なら血色が良いみたいでいいじゃないですか。私はさぞ青くなっているでしょう」
藍が眉を下げて言うと、星は笑って少し舌を出す。健康的なピンク色の舌の中央が、鮮やかな青にほんのり染まっている。
「本当だ、青い」
覗きこんでから、藍ははたと気づく。ずいぶん顔を近づけすぎた。やましいことなんて何もない、だけど唇が近くて、これではまるで。
「藍?」
「あ、いや。ブルーハワイもいいなと思って」
「それじゃあ、一口食べます?」
藍が言い訳のようにつぶやくと、当たり前のようにスプーンを差し出された。
藍は氷漬けにされたように固まる。星はたぶん気づいていない。なら、素直に差し出されたそれを受け取った方が不自然ではないだろう。腹をくくり、藍は口を開けて赤色のシロップがかかったかき氷を口に含んだ。
「……ありがとう。星も、はい」
「あ、ありがとうございます。……うーん、シロップの味ってよくわからないですね」
藍はつとめて平静を装い、お返しのように、自分のカップから青色のかき氷をすくって星に差し出す。眉を下げて笑う星を見ていると、また胸が騒いだ。果たしてこの光景は、周りの者にはどう見えているんだろう。
そこで星もようやく自分達がやっていたことに――まるで恋人同士のように“お裾分け”なんてやっていることに気づいたのか、一瞬のうちに耳まで赤くなる。
さすがに藍もフォローができなかった。これって間接キスじゃないのか、なんて口にしないだけまだ理性が残っていたが、鼓動がうるさくてそれどころではない。今日だけで何度も星の赤い顔を見ている気がする。それが嫌ではなく、むしろ藍の心を心地よく揺さぶって、頬に熱が帯びてゆく。
やはり今日は調子がおかしいようだ。きっと祭りの喧騒に飲まれているのだ。こころの引き起こした感情の暴走に巻き込まれているのだ。そうでなければ、いったいこの感情を何と名づければいい?
解けかけのかき氷が残ったカップを片手に、赤面して立ち尽くす二人。蒸し暑い気温と手のひらの温度で、残ったかき氷は水に解けてシロップと混ざってゆく。
「あれ? あんた達も来てたんだ」
二人の硬直に割って入ったのは、霊夢だった。霊夢は黒い目を瞬いて、不思議そうに藍と星を見つめている。
にわかに神社の中央が騒がしくなって、二人が振り返ると、舞台に人だかりができていた。
「ああ、なんだ、霊夢か。もしかしてもうこころの奉納神楽が始まるのか?」
「そうよ。おかげでうちは千客万来、乾く暇もないわ!」
霊夢は上機嫌に笑って、やっぱりお祭りはいいわね、なんて鼻唄まじりに舞台の方へ歩いてゆく。そんな気はしていたが、霊夢は藍と星のことは数多の客の一人二人くらいにしか思っていないらしい。そのドライさが、今はかえってありがたかった。
「もうすぐ開幕か」
「ちょうどいい時間ですね。藍、行きましょう」
本来の目的を思い出した二人は、カップをゴミ捨て場に捨てて、舞台へと向かった。
舞台の前には、人間妖怪を問わずたくさんの客が並んでいる。その中には、この夏よく見かけた影が二つあった。
「あんなに表情の硬かったあの子が、皆の前で舞台に……よくここまで成長したものだわ」
「私が作った面のお陰だね。我ながら天晴れ」
「私が修行をつけたお陰でしょう」
「いやいや」
「いえいえ」
にこやかに微笑みながら、火花を散らす二人の宗教家。一人は命蓮寺の阿闍梨、聖で、もう一人は道教の全能道士、神子だ。かねてより宿敵と見做されていた二人だが、此度の異変でもやはり信仰と人気を集めるべく派手にやり合っていたのだった。
「聖! 神子さん!」
星が聖の元へ駆け寄ると、二人が振り返る。聖は夏らしく半袖の衣服に被り笠、神子はかつての為政者らしくマントを羽織っていた。
「まあ、星。ずいぶん素敵な格好で来たのね」
「君のとこの御本尊か。なかなか寺から出ないのに、よく来たものだな。そちらはスキマ妖怪のとこの、八雲藍さんだったかな?」
「ええ。貴方は豊聡耳神子さんか」
「いかにも。うんうん、私の名もだいぶ幻想郷中に知れ渡ってきたな」
神子は満足げにうなずいた。聖とは雰囲気がだいぶ異なるが、聖者に相応しい貫禄を兼ね備えた人物である。
聖はいの一番に星の浴衣を褒めて、優しく語りかけた。
「こころさんの能楽はもうすぐ始まるわ。星、精一杯の応援をしてあげましょうね」
「はい!」
「しかし、君達がまたなぜ二人で……ああいや、野暮だったな。こちらには構わず好きにするがいい」
「お気遣い、感謝する」
神子は藍と星の組み合わせを訝しげに見つめていたが、あっさりと翻した。噂に聞く、十の欲を知る力で悟ったのだろうか。それとも神子個人の勘か。
星は聖に挨拶を済ませると、合流することなく藍の側へ戻ってきた。
「星、聖と一緒じゃなくていいの?」
「聖は神子さんと来たようですから。あんな感じで決して仲良く、とはいきませんけど、聖も楽しんでいるみたいなんですよ」
「そうか」
星の語りっぷりが喜色に満ちていて、藍は安堵する。いつか聖と神子が過去の宗教戦争のように本格的に争うのでは、と星は憂いたこともあったが、杞憂に終わったようだ。紫の言うように、幻想郷流の決闘法で二人共納得しているらしかった。
最前列はすでに見物客で埋まっている。藍と星は後ろの方で、舞台を充分に見られる位置を探して陣取った。
ほどなくして、こころの晴れ舞台の幕が上がる。
設えた舞台の上に、長い髪をなびかせた無表情の少女、秦こころがゆっくりと舞台の中央まで歩いてきた。
狐、ひょっとこ、翁、般若、女……など、様々な表情の面がこころの周りに浮かんでいた。よく見れば、彼女のスカートも顔が浮かんでいるように見える。
面の中の一つ、女の面をかぶったこころが、淡々と前口上を述べた。
「えー、本日はお日柄もよく、皆さまにおかれましてはお忙しい中お集まりいただき、誠に感謝申し上げます……」
な、なんだこの棒読み。思わず藍はずっこけそうになった。
ぼそぼそと抑揚のない喋り。眉一つ動かさない無表情。こんな感情を一切感じられない表情など、人間にだって故意に作ることは難しいだろう。自ら感情を学んだ成果がこれだというのか。
口上の途中で、こころのかぶるお面が、一瞬のうちに女から般若へと変わる。
「ええい、しゃらくせぇ! 硬っ苦しい挨拶は面倒だ!」
突然の怒声に、藍の鼓膜がびりびりと痺れた。荒々しい言葉遣いのこころから発せられるのはまごうことなき、怒りだ。しかし相変わらず面の下の顔は無表情である。無表情でも無感情ではなかったんだよな、と藍は思い直す。
「我々がこれより演ずるは今までの能楽とは異なる新たな能楽、『心綺楼』。がんばって作ったから楽しんでもらえると嬉しいな♪」
こころの面が般若から狐、ひょっとこへと次々に変わる。ころころと表情もとい面を変え、言葉遣いを変える様は、感情豊かというより、情緒不安定に見える。それでもこころの能楽に対する意気込みは本物のようで、藍は隣で舞台のこころをはらはらしながら見守っている星の肩をそっと叩いた。
こころの面が再び狐に戻る。同時に、こころは両手に携えた扇子を高く掲げた。
「皆の者、大いに笑い、怒り、泣き、楽しむがよい!」
こころの高らかな宣言を合図に、笛、太鼓、そしてどこからともなく謡が聴こえてきた。わあっと観客が一斉に盛り上がる。
こころが軽やかな足取りで踊り出す。次々に面を変え、扇子だけでなく薙刀などの道具も取り出し、様々な役を演じてゆく。
それらはすべて、今回の異変に関わった宗教家や人間、妖怪達をモデルにしたものだ。お芝居にしてもあまりに誇張されすぎで、本人が見れば怒り出しそうなものだが、思わず吹き出してしまうほど滑稽で新鮮なものだった。
『戦いも方便ですわ!』――これはきっと聖だ。聖にかかれば戦いも何もかも方便になりそうだ。
『我が正義の鉄槌を食らうが良い!』――これは一輪であろう。実際に鉄槌を下すのは雲山なのだが。
『我に従え、我こそが天道なり!』――神子だ。こころの面の作り主だけあって、ストレートでわかりやすい。
『すべて火の海に飲み込んでくれる!』――布都だ。そういえば藍は布都の決闘をよく見かけたものだ。
『八百万の神よ、我に力を!』――霊夢だろう。しかし、あのものぐさな霊夢がこんな台詞を言ったりするのか。
「ふふっ、皆さん、こんなこと言ってましたっけ?」
隣で星が笑っている。
「かなり大袈裟だけど、命蓮寺ではああいう感情表現は認められるのか」
「仏教の目指すものは無我の境地、といいますが、聖は心の安寧は求めても感情の存在そのものは否定しません。大事なのはコントロールですから」
こころの表情は相変わらず無機質だ。纏う面、大袈裟な振り付けの舞、滑稽な台詞。それがこころなりの感情の発露なのだろう。『心綺楼』という能楽は、此度の異変でこころが学んだ感情の集大成なのだ。それにつられて、観客達も思い思いに感情を表に出し、数多の感情が摩天楼のように高く積み重なってゆく。高まる熱気はあれども、そこにはもうかつてのような異常な狂乱はなかった。こころが感情の制御に少しでも成功した、という証なのだろうか。
「ほう、なかなかの出来栄えじゃ。ちっとは自分の感情をものにしたようじゃな」
その時、藍の隣から聞き覚えのある声が聞こえてきた。振り向かずともわかる。この年寄りくさい喋り方、藍にとって不快な獣くささ。マミゾウが感心したようにこころの舞台を見上げていた。
「マミゾウさん」
「お前、またか」
「今日の儂はただの観客じゃて、ええじゃないか」
「“ええじゃないか”の使い方が違うだろう」
藍の指摘を無視して、マミゾウはけらけら笑っていた。と、思うと、マミゾウは不意に目を細めて藍を見つめた。
「なあ、お前さん。妖怪にとっての心とはどこにあると思う?」
「藪から棒になんだ」
またか、と藍は眉をひそめる。
ついこの間、同じような問いを紫からされたばかりだ。しかしわざわざ演目の最中に聞いてくるあたり、妖怪とはこころを指しているのだろう。マミゾウは視線を舞台に戻し、こころに注目したまま話を続ける。
「あの面霊気、元はただのお面じゃった」
「知ってるさ。付喪神だと聞いている」
「ああ。それまでは面の感情がこころの感情であった。じゃが、希望の面を失くし、感情を暴走させたことで、こころは自我を得た。ただの面に戻りたくないと、そう思うようになったんじゃよ」
今はもう、面に宿る感情がこころの“心”ではないと言いたいのだろう。マミゾウは眼鏡の奥でそっと目を細める。その眼差しは幼児を見守る親のようで、藍はマミゾウが狸の大将と妖怪達に慕われていたことを思い出した。
「儂はあやつの心が面に宿る感情に頼ることなく、本人のものを発揮できるよう、ちょいと手伝いをしてやっているのよ。これでも妖怪の親分じゃて」
「こころさんの感情が安定すれば、再び暴走することもありませんし、ただのお面に戻らなくて済む。命蓮寺はその手伝いをしたのです。霊夢さんと神子さんも」
星が続けて補足したが、藍は密かに怪しんでいた。宗教家達の思惑はともかく、マミゾウはどうだかわからない。自分より年若い妖怪を甘言でたぶらかすぐらい、この化け狸には容易いことだろう。
「面倒見のいい方ですよ、マミゾウさんは。命蓮寺の妖怪達にも慕われています」
フォローが足りないと思ったのか、星は苦笑しながらそっと耳打ちした。マミゾウは、元は命蓮寺のためにとぬえが外の世界から呼び寄せた妖怪だ。星としてはあまり悪く思われたくないのだろう。そう思えば、無闇に敵視するのも好ましくない気がして、藍は咳払いを一つする。
「まあ、星がそういうのなら」
「ほう、策士の九尾も虎には敵わんか」
「関係あるか、星だからだよ」
反射的に言い返してから、また何か恥ずかしいことを口走ったのに気づく。やはり今日の自分はどこか調子がおかしいような気がする。
さすがにマミゾウも肩をすくめて、
「やれやれ、やってられんわい」
とつぶやいた。
舞台はまだ続く。踊り歌うこころを見つめていると、わずかながら口元が緩んでいるように見えた。笑っているのか。楽しんでいるのか。観客の熱気が、こころの感情をも揺さぶったのだろうか。
やがて、こころが最後の決め台詞を述べたところで、舞台は幕引きとなった。翁面をかぶり、扇子を突き出してポーズを決めるこころに、観客から惜しみない拍手が贈られた。奉納神楽は無事盛況に終わった。霊夢は有頂天だが、きっと神社の繁盛も夏の間だけだろう。
「なあ、お前さんの心はどこにある?」
観客が少しずつはけてゆく中、再び、マミゾウの問いが藍の耳に届く。さっきから一体、マミゾウは藍に何を求めているのか、測りかねて藍は眉間にしわをよせる。
「何を言っている?」
「お前さんは式神じゃろう。方程式を任意の対象に憑依させる術。要は操り人形みたいなもんじゃ」
「……なんだと?」
思わず声に怒気がこもる。またわざと神経を逆撫でする物言いをするのか、と思えば、マミゾウはなんのからかいの色もなく、真っ直ぐに藍の目を見つめていた。
「お前さんだって、わかっているのではないか? 式神は外の世界でいうコンピューター。人並外れた頭脳は後天的に授かったもの。方程式の命令通りに動く主人の道具も同じと」
藍が即座に食ってかからなかったのは、祭りの場だからだ。こころの晴れ舞台の余韻を乱すのも憚られる。
道具だとか、命令通りに動くだとか、そんなのは紫にも言われたことだ。けれど、同じ言葉でも主人である紫から聞くのと目の前の化け狸から聞くのとでは違う。沸々と湯が湧くように、怒りが込み上げてくる。
マミゾウは藍の目をじっと見つめたまま、決定的な一言を放った。
「お前さんの心が作られたものではないと、なぜ言い切れる?」
「お前……」
これ以上、化け狸めに愚弄されて黙っていられるものか。
藍が頂点に達した怒りをマミゾウにぶつけようとした、その時だった。
「やめてください」
星の静かな声がぴしゃりとマミゾウに放たれた。
振り返ると、星は金の瞳の奥に静かな怒りを湛えて、マミゾウを射るような視線で見つめていた。瞳の中に、ゆらりと炎が立つような錯覚すら覚えた。
命蓮寺で一輪相手に見せたものとはまったく違う。藍さえも息を呑み、マミゾウすら言葉を失うような強い怒りだった。
「それ以上藍を侮辱するのは許しません。人形? 道具? マミゾウさんともあろう方が、そんなことも見抜けないのですか」
最初は淡々と諭すように、しかし次第に抑揚も失くし声が荒くなってくる。
「藍は心から紫様を慕っているんです。それを貶すなんて、いくら狐相手だからって、あんまりでしょう」
「星、いいよ」
星が当の藍を差し置いて怒りを露わにするのを見た時、藍は不思議と、自分の中の怒りが一瞬で鎮火したのである。
星が怒っている。自分のことでも、星が慕ってやまない聖のことでもないのに、本気で声を荒げている。藍の中に浮上したいくつもの罵詈雑言が、口から出ることなくばらばらに散ってゆく。
不満げに藍を見上げてくる星にそっと目配せすると、星はしぶしぶといった様子で口をつぐんだ。
マミゾウは星の怒りに目を丸くしていたが、やがて、気まずそうに帽子で目元を隠した。
「すまんの。失言じゃ。許せ」
あまりにも素直な詫びに、今度は藍が驚く番だった。しばらく呆気に取られていたが、無言で見つめてくるマミゾウに、藍は一つだけ、伝えておかなければならないことを告げた。
「お前は何か勘違いしているようだから言っておく。私が紫様に従っているのは式神だからじゃない。紫様に感服したから、式神になったんだ。それを忘れてくれるなよ」
マミゾウの目が見開かれる。次の瞬間、マミゾウの姿はぼふんという間抜けな音と共に、煙と消えていた。後に残ったのは一枚の木の葉だけだ。
「ごめんなさい」
開口一番謝るなり、星は藍に深く頭を下げる。藍は慌てふためいて、星を宥めた。
「そんな、星が謝ることじゃないだろう」
「ですが、マミゾウさんがひどいことを言いました。……本当に、根は悪い方ではないのです。けれど藍にはどうしても当たりがきつくなってしまうようで、申し訳なくて」
「本当にいいんだよ、もう。気にしてないといえば嘘になるけど……ありがとう。星が怒ってくれて、嬉しかったよ」
まるで自分が悪いことをしたみたいに縮こまっている星を見ると、ささくれ立った心が凪いでゆく。
星の言うように、先ほどのマミゾウの問いに藍を貶してやろうだとか蔑めてやろうだとか、悪意の類は一切なかった。マミゾウが確かめたかったのは、『お前は自分というものをきちんと理解しているのか』その一点に尽きるのだろう。
だが、いかんせん言葉選びが悪すぎた。星のお陰で怒りが治ったとはいえ、マミゾウを許したわけではない。しょせん、狐と狸は相容れないのだ。
「藍が、以前、心だけはどうにもならないと言っていたので」
星がおずおずと藍を見上げる。
昨年の冬、星と地底へ出かけた際に、藍が告げた思いの丈だ。紫ほどの妖怪なら、藍の一挙手一投足まですべて支配する方程式だって組み上げられるだろうに、紫はそれをしなかった。式神である藍に、自分で考える力を残していた。
だから、藍は誰に何を言われても迷わず答えられる。自分の心は自分のものだ、と。自らの意思で紫に追従しているのだと。
「ままならない心は私にもわかります。だから、私も、藍の行動すべてが紫さんのものだなんて思いませんよ」
星が胸に手を当てて微笑むのを見て、藍の心は満たされてゆく。
式神なんて窮屈だ、という意見もわからなくない。けれど、今目の前にいる星が、同じように自分にとって尊い相手を思う星が藍の心を理解してくれるのなら、それでよかった。
「それがわかってくれれば、充分だよ」
「さっきは取り乱してすみません。私もまだ修行の身で、こころさんのことをとやかく言えませんね」
「いつも温厚で冷静に見えるけど、星でも感情が昂ることがあるんだね」
「それは、ありますよ。毘沙門天の代理を長くやっていて、表面を取り繕うのばかりうまくなってしまいましたけど」
その時。ふっと、星の顔から、まるで能面のように一切の感情が消え失せた。
「――不確かな祈り、去りゆく人々、積み重ねた嘘、無力さへの絶望、届かない嘆き」
「……星?」
「あっ、いえ。何でもありません」
しかしそれは一瞬のことで、すぐさまいつもの星の顔に戻っていた。
藍は引っ掛かりを覚える。星の声は小さくて、何を言っているのかうまく聞き取れなかった。だが、確かにさっき、能面のように感情を消した星の顔に、暗く澱んだ影が差したように見えたのだ。
「ほら、今日だけではなく、先日のように気の置けない仲間の前だとつい」
星は取り繕うように先日の一輪との出来事を挙げる。あからさまなごまかしに思えたが、藍は気づかないふりをした。星はきっと、今それに触れることを望んでいない。
「だから私、藍に憧れるんですよ。いつも穏やかで、優しくて、格好よくて」
「そ、そんなものかな? 私だってあの狸の前じゃどうにもね……」
真っ直ぐに見つめられて、藍はたじろぐ。星から浴びせられる賞賛の言葉に嘘はなくて、それが余計に藍をむず痒く照れ臭い気持ちにさせてゆく。
藍は自分が星に憧れを向けられるに値する存在だとは思っていない。今日のように、星の前だと心を乱すことの方が多い。
「最初は本当に恐れ多くて、緊張して……でも、少しずつですけど、藍のことを知れて、前よりは距離が近くなったと思うんです。藍といるとどきどきして、胸がいっぱいで」
「しょ、星」
星の頬が紅潮する。それって、つまり。藍が硬直したのも束の間。
「すごく楽しいんです。目に見るものすべてが新鮮で、わくわくして、友達と出かけるのってこんなに楽しいんだって知れたんです」
星の瞳がきらきらと眩しい。あ、そうか、と藍も納得する。
楽しいことを心が踊る、と表現する。藍が今日落ち着かなかったのも、ただ出かけるのが楽しみで浮かれていただけで、つまりそういうことだ。藍はなぜかほっとした。どうにも星との関係について考える時、故意に思考にブレーキをかけてしまう癖があるのを藍も自覚しているのだが、藍はそれに抗わない。おそらく藍の式神は深入りを警告している。考えない方がいいのなら、それに越したことはない。
距離が近くなったというなら、藍も同じ気持ちだ。
この幻想郷で、初めて友達というものを得た。星と自分はどこか似ているなんて共感から始まって、星を知りたい気持ちはなお尽きない。
「だから……私、これからも藍と仲良くしたいんです。もっと藍のことを知りたいんです」
「……私もだよ。星に聞きたいことが、まだたくさんある」
藍は思い切って、ずっと聞いてみたかったことを尋ねてみようと思った。
心はどこにあるのか。名前の意味とは何なのか。紫に問われてから、藍は星の名前の意味を、まだ知らなかったことを思い出した。
「秦こころはその名の通り“心”の妖怪だった。星。貴方の名前は、どんな意味があるの?」
星は藍の問いに目を瞬く。
いささか唐突だったろうか。しかし、星はそっと微笑んで、空を見上げた。
屋台の明かりでいつもより目立たないが、夜空には月と無数の星がほのかに輝いている。
「そうですね。虎であって、虎ではない、“トラ”の子。そして、太陽より優しく、月よりも穏やかな星の光。星明かりで迷える者を導くようにと……聖はそういう願いを込めたようです」
「そうか。……いい名前だね」
夜の闇に怯える人間のため。昼の日差しを避ける妖怪のため。
両者を救おうとする聖らしい、優しい願いの名前だった。星ならそれを成し遂げられると、信じているのだろう。藍が率直に褒めると、星は満足げに笑った。
「実はね、紫様から難題、いや宿題を出されてしまって」
藍は今更ながら、星に紫からの宿題を話した。“八雲藍”の意味を答えろと、紫の与えた意味以外の答えを出してみろと言われたことを、星に相談した。
「紫様は、私自身を見つめ直せとおっしゃるのだ」
「そうですか……でも、藍ならきっと答えられます。紫さんは藍を信頼してるんですよ」
星は、いつも紫は藍を信頼していると迷いなく言い切る。願わくばそうであってほしいが、藍には自信がない。式神としての藍に紫がまだ物足りなさを感じているのは重々承知しているのだ。
「そうでなければ、あの紫さんがそばに置いたりなんかしませんよ。夕暮れ時の、昼と夜の境界の紫色のあとは空が藍色に染まるように、藍はいつだって紫さんのすぐそばにいるんでしょう?」
星が励ますように微笑みかける。藍もまた自ずと口元が綻んでいた。ここまで思いを分かち合える友というのは、得難いものかもしれない。藍は心の中で決意する。たとえ時間がかかっても、必ず紫の期待に応えてみせようと。
その時、藍の遙か頭上でパッと鮮やかな光が弾けた。続いて破裂音が響く。こんな趣向も用意していたのか、打ち上げ花火が始まったのだ。
「わ……綺麗ですね」
「能楽の舞台だけじゃなくて打ち上げ花火まで。霊夢のやつ、儲かって気が大きくなっているのかな」
赤や緑、金色、青と色とりどりの花が夜空に咲いては跡形もなく散ってゆく。周りからはたまやー、かぎやーと掛け声が聞こえてくる。隣を見れば、霊夢の金遣いを心配する藍とは違って星は純粋に花火を楽しんでいるようだ。藍もひとまず霊夢のことは頭の端に追いやって、花火を眺めることにした。
星と一緒に祭りに出かけて、浴衣を着て、屋台を回って、能楽を観て、花火を見上げる。紫の宿題がまだ残ってはいるものの、今年の夏は悪くはない夏だったなと藍は一人考えていた。
◇
目当ての能楽も見終わったので、藍と星は帰路に着くべく石段を降りていた。花火はまだ続いていて、石段の下には立ち止まって眺めている客もいる。
下からきゃあきゃあと甲高い声が聞こえてくる。石段の側で、子供達が線香花火を楽しんでいた。手持ち花火やロケット花火は、人が多くて禁止されているのだ。誰が最後まで残った、落ちた、と競い合っている。
微笑ましく見守りながら、藍は星に今日のお礼を告げた。
「今日は楽しかったよ。能楽を見るのなんて久々だったしね」
「私も、藍を誘えてよかったです。私はなかなかお寺を離れられないので、私の方から藍を誘えないのが申し訳なくて」
「そんなの、気にしなくていいのに。でも、嬉しかったよ」
石段を降りたところで、二人をマミゾウが待ち構えていた。
「よお。帰るのなら、お前さんの変化を解いてやらんとなぁ」
マミゾウは何事もなかったかのように、眼鏡の奥で片目をつぶる。マミゾウがわざとらしく指を鳴らすと、藍の姿はたちまち浴衣から元の衣装に戻っていた。
思えば浴衣の件で借りがあったのだった。先ほどの非礼を相殺するべきか。悩む藍をものともせず、マミゾウはにやりと語りかけてくる。
「お前さんも、此度の決闘に参戦すればよかったのに」
「私はお前や河童みたく首を突っ込む気はない」
「この期にお前さんと一戦交えてみたかったんじゃがのう」
星は警戒するようにマミゾウの動向を注意深く観察している。マミゾウはちらと星を見てから、「お前さん、ちっと耳を貸せ」と藍を引っ張り出した。
「何だ、まだ私に何か言いたいことがあるのか」
「さっきの詫びじゃ。一つ、お前さんに教えてやろう」
マミゾウは星との距離を充分に確認してから、にわかに真剣な面差しになって、声をひそめた。
「例えば、お前さんの爪が人間の肉を深く引き裂いたとする。人間は傷を塞ぐためにどうする?」
藍は目を瞬く。マミゾウの目は、有無を言わせず、藍の答えを待っていた。
「それは、傷口を縫い合わせるだろう」
「そうじゃ。傷が癒えるには時間がかかるが、それでも肉体はいずれ治る。しかし、心の傷は簡単に塞がらない。儂にもどうすることもできん」
藍にはマミゾウの真意がつかめず、眉間にしわを寄せる。この例え話は何を意味しているのだ。こころのことか? いや、藍とほとんど関わりのないこころについてマミゾウが相談を持ちかけるとも思えなかった。
「……誰の傷だ?」
「儂にはまだ何も言えん。だが、覚えておけ。儂も伊達に妖怪達の悩みを聞いておらん。見かけだけ綺麗につくろって、内側に膿を孕むものがいる」
まさか、と藍は息を呑む。ほんの一瞬だけ見えた、星の暗い顔を思い出す。
無言で立ち尽くす藍に、マミゾウはにいと笑って、手を振った。
「それじゃ、またの機会にな、藍」
マミゾウはまたも煙と共に消えた。
藍はその時、初めてマミゾウに名前を呼ばれたことに気づいた。マミゾウにどのような心境の変化があったのか、マミゾウが告げた心の傷の意味が何なのか、藍にはわからない。
「藍、大丈夫ですか? もしかして、またマミゾウさんが……」
「いや、大丈夫だよ。ちょっとした挨拶を交わしただけさ」
星が心配そうに駆け寄ってくる。下駄の音、揺れる赤い袖、蓮の髪飾り、どれも今日限りの新鮮なものだった。
奉納神楽は夏の間中行われるそうだが、ハレの日はいつまでも続かない。やがてケの日、日常が戻ってくる。星もまた、命蓮寺に帰れば浴衣を脱ぎ捨て、いつもの毘沙門天の弟子に戻るのだ。
「星。私は宗教家じゃないし、世の中や迷える人々を救おうなんて大それた志は持っていない」
星は首をかしげている。祭りが終わる前に、心の端に留めたマミゾウの言葉を忘れないように、藍は星に伝えておきたいことがあった。
「だけど、貴方が困った時は私が力になるよ。貴方は、私の友達だからね」
藍が笑って告げると、星は、驚いたように金色の目を見開いて――照れ臭そうに、はにかんだ。
「坊主の不信心と言いますからね。誰かに教えを説くには、私の言動が伴わないと説得力がありません」
からん、と下駄の音が響く。いつもと違う履き物のせいか、背丈の差が少しだけ縮まっている。
「ありがとう。それじゃあもしもの時は、藍に相談してもかまいませんか?」
「いいよ。私の式神なら、いつだって飛ばせるから」
藍がそっと右手を目の前に差し出すと、意図を察した星が同じように右手を伸ばし、握手を交わした。
祭囃子は遠くなり、辺りには相変わらず子供達の歓声が響く。夜空に打ち上げられた火花が、最後に一際明るく燃え上がって、消えた。
<下巻へつづく>
藍と星の共通項目が語られていて、この二人のカップリングの可能性を感じました。最後のお祭り騒ぎでいちゃついているのもにやにやできて良かったです。