Coolier - 新生・東方創想話

星は藍色の空に輝く【上巻】

2021/10/11 21:36:10
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其の二 「煩悶の虎、好奇の狐」



――変わった人物である、聖白蓮は。

昨年の春に命蓮寺ができてから時は流れ、早くも一年が経過していた。季節は緑の葉が生い茂る盛夏だ。虫達がここぞとばかりに活力を見せ、昼間は鬱陶しいほどの蝉しぐれ、夜は鳴かぬ蛍が静かにほの明るい光をちらつかせる。
夜になっても酷暑の続くある日、藍は命蓮寺で開催される“夜通し読経ライブ”に参加していた。月に一度の催し事で、人間にも妖怪にも評判らしい。藍もまた興味をそそられてやってきたのだ。
夜ということもあって、周りは妖怪ばかりかと思いきや、以外にも人間の姿もあちこちに見られる。しかし人間は夜のせいか、聖の読経が眠気を誘うのか、うつらうつらと船を漕いでいる。一方、妖怪はといえば、

「いやぁ〜、目が覚めるとはまさにこのことだねぇ」

藍の隣に座っている妖怪が面白そうに目を見張っている。お経は時に対魔の目的で読まれる。妖怪達はぼーっと聞いていたら昇天しかねない、と一種のスリルを楽しんでいるようだ。
……何か読経の趣旨を履き違えているような気がしてならない。藍はいったいこの場の何人が真面目に読経を聴いているのだろうかと首を捻る。
藍は本堂の奥に目を向ける。この催しの中心であり、独特のリズムで木魚を叩き読経を続ける聖の姿があった。
遠い昔の僧侶であり、法力を極め今や魔法使いとなった命蓮寺の住職。
元は人間でありながら、力弱き妖怪に慈悲の心を寄せる。藍は聖の理想を頭では理解できるが、一方で相当な変わり者だと思う。妖怪も人間も争わず手を取り合って生きてゆく、なんて、よほどのことがなければ叶わぬ夢だ。並の人間や妖怪は思いつきもしないし、思いついたところで実現しようとはしないだろう。
人間の多くは妖怪に恐怖するものだ。かつて聖を封印した人間のように。そもそも人間が妖怪を恐れ、妖怪が人間を襲うのが幻想郷のルールだ。当代の博麗の巫女、霊夢なども、妖怪には厳しい態度を示している。……本心では人間にも妖怪にも興味がないというか、どうでもよさそうなきらいもあるが。
とはいえ。新興勢力の命蓮寺が、聖が少しずつ人気を集めているのも事実である。特に昔から聖の元にいた妖怪達――命蓮寺の僧侶が聖を慕うのもわかる。長い年月を生きてきただけあって性格はおっとりしていて、救いを求める者に迷わず手を差し伸べる。不埒な動機のものはともかく、すでに新しい妖怪が弟子になっているようだ。
藍は次いで、聖のすぐ側にいる虎の妖怪・寅丸星に視線を移す。読経の席においても、星は毘沙門天の代理という偶像の役割を果たしている。言葉は温厚に、けれど威厳を保つ面は勇ましく、凛々しいものである。
藍は読経に耳を傾けつつ、星の精悍な顔つき眺めていた。ひょんなことから藍は星と知り合い、互いに興味を持ち、時折命蓮寺に足を運ぶようになっていた。
星の立派な佇まいを見て、藍はつくづく思う。聖は星の最も慕う人物だ。聖の傍らで己の役目をこなすことで、星の精神は安定している。一途に聖を慕い、彼女の為にと尽くす星の姿は眩しく映ると。



「藍さん、今夜はご参加いただきありがとうございます」
「いや、こちらこそいい体験ができたよ」
「珍しく読経に熱心な妖怪がいるって、聖も喜んでいましたよ」
「あの僧侶か……」

読経ライブの後、藍はいつかのように星の自室に招かれていた。星は読経中の勇ましげな顔つきが緩み、優しい目元をしている。よく一晩中威厳を保っていられるものだな、と藍はひそかに感心する。
夜明けに読経ライブはお開きとなった。ギラギラした光を放つ朝日が目に染みるのか、人間妖怪問わず涙が滲んでいる。眠たげな顔をした人間や妖怪達がぞろぞろ席を立つ中、藍の元に星が駆け寄ってきた。

『少しだけ、お時間をいただいても? 聖には断りを入れてありますので』

藍が命蓮寺を訪れた時、星に呼び止められたり、あるいは藍の方から声をかけたりするのも珍しくなくなっていた。いつもは互いの仕事に配慮してほんの少し会話を交わして帰るのだが、今日は星にいくらか余裕があるらしい。藍も読経の余韻が残っていてこのまま帰るには惜しいと思っていたので、快く承諾した。
一応、聖にも挨拶をしておこうかと思ったら、聖の方が先に二人に気づいたらしく、

『貴方はたびたびおいでになる妖怪ですね? 星から話は聞いていますよ。いつもありがとうございます。どうぞ星と仲良くしてやってくださいな』
『ひ、聖ったら』

聖は藍に菩薩の如き穏やかな微笑みを向けられた。藍がその笑みに、およそ千年生きてきた僧侶の底の深さを感じた一方で、星は聖のまるで我が子の交友関係を喜ぶ母親じみた一言に慌てているようだった。
聖個人にも興味はあるが、下手に近づきすぎるのもよくないだろう。藍は深々と一礼をして、照れ隠しのように急かしてくる星に呼ばれるまま本堂を後にしたのだった。

「いかがでした? 聖の読経は」
「なかなか面白かったよ。人格者とは聞いていたが、案外お茶目なところもあるようだね」
「うう。聖のお節介はあまり気にしないでくださいね」
「いいよ、気を悪くしたわけでもない。親切な人なんだろう。少しおっとりしているが立派な僧侶だ。貴方が慕う訳もわかるよ」
「そ、そうでしょうか……?」

星は照れたようにはにかんだ。聖を褒められて嬉しかったのか、頬が緩んでいささか締まりのない表情になっているのだが、無邪気に感情を表に出す様は見ていて微笑ましかった。
どこか遠くを見るような金の瞳の先には聖がいるのだろう。藍はその眩さに目を細めて、ふと、

(私も紫様を見上げている時は、こんな顔をしているのだろうか?)

と、己の主のことを思い出した。
ウェーブのかかった長いブロンドの髪。名前の通り、紫色を基調とした派手な衣装。彼女の目前に、背後に、思いのままに現れる無数の目が覗くスキマ。もう長い間その後ろ姿を見つめ続けていたため、網膜に焼き付いていつでも瞬時に思い出せる。
紫の式神として無様な姿は晒したくないが、心に渦巻く思いは無意識のうちに顔に出るだろう。聖を思う星の姿に自分の影を見出したのは、星の思慕に藍は紫に向ける思慕を重ねて見ているからか。
夜が明けて、今頃紫はすでに眠りについているだろう。出かける前、命蓮寺に行くと一言伝えておこう、と思っていたのだが、申し出る前に紫は早くもどこかへ行ってしまっていた。紫が何も言わずに出かけるのはいつものことだが。
紫様もおいでになれば……いや、紫様のことだ、私の知らない間に訪れているのかもしれない。まあ紫様に仏法を説くなんて、それこそ釈迦に説法かもしれないけれど。

「……あの、藍さん? 大丈夫ですか?」

気がつくと、星が真剣な面持ちで藍の顔を覗き込んでいた。

「ああ、ごめん。つい考え事をしてしまって」

話し相手が目の前にいるのに、ついもの思いにふけってしてしまったと反省する。星はまだ何か言いたげな顔をしていて、告げるか告げまいか迷っているように視線を彷徨わせた。金の瞳が不安げに揺れている。

「星?」
「いえ、その。不躾な質問をするようですが、貴方の主は……八雲紫さんは、私達について何か?」

藍は一瞬、何を聞かれたかわからなかった。だが、星の恐る恐る探るような表情で質問の意図に気づいた。
まさか先ほどの内心が声に出ていたのか。はたまた読心術を持たない星にも読み取れるほど顔に出ていたのか。式神にあるまじき失態である。
星は何かを案じている。藍が命蓮寺を訪れるのは、単なる興味だけではなく、八雲紫の命を受けてではないか、と。

「いいや。確かに私は紫様の式だけど、紫様は何もおっしゃっていないよ」

誤解のないように、藍は慎重に言葉を選んで伝える。

「自分の眠っている間に新しい妖怪が来ても、よほどのことがなければご自身は動かない。私を遣わしたりもしない。……あの冬は例外だったけど」
「藍さん……」
「本当なんだ。私には式神として至らない点もあるし、紫様はその振る舞いから誤解されやすい方だ。それでも、主を思う私の言葉をせめて信じてもらえないだろうか?」

情に訴えかけるのは卑怯かもしれない。悩める者を導く立場にある星なら、藍の言葉の嘘真を見抜いてくれるのではないかと期待をかけていた。
しばし二人の間に緊張感が漂う。藍の目を真っ直ぐに見つめていた星は、やがて、

「……疑ってしまって申し訳ありません」

と、こうべを垂れた。

「幻想郷に居住を構えてまだ一年の私達が馴染めているか不安だったのです。聖だって過去が過去ですから、またよからぬ疑いをかけられたり、警戒されるようなことがあるのではと……神経質になっていました。先ほどの言葉は撤回します。非礼をお許しください」
「あ、いや、わかってくれたならいいんだ。そんなに畏まらないでくれ」

藍は面を上げようとしない星を前にして、ふと思い至る。いつも藍は紫の式神だ、と名乗る。式神だから、というのが口癖になっている節もある。藍にとっては単なる自己紹介でしかないのだが、受け取り方によっては暗に背後に紫がいると告げているようなものだ。実際に紫から命令を受けてそのように振る舞うこともあるが、今回は完全に誤解だ。
どうにか星の不安を取り除けないものか。命蓮寺に来るのは、紫の命令ではない。ならば、理由は。仏教に興味があるのも間違いではないけれど。ずば抜けた頭脳を働かせるまでもなく、極めて単純な答えが出た。

「私が命蓮寺を尋ねるのは、星に会いたかったからなんだ」
「……へ?」

顔を上げた星は鳩が豆鉄砲を食らったような表情をしていた。口に出してみれば何か恥ずかしいことを言ってしまった気がするが、後の祭りだ。
星の顔がみるみる赤くなって、藍は再び慌てふためく。

「あっ、いや、仏の教えがどうでもいいとかそういうわけではないからね?」
「いえ、その、それはわかってます。ええっと、にわかには信じられなくて。藍さんは財宝に興味を持つ方でもなさそうですし、説法に親しんでも入信するわけでもなくて……」
「もしかして、迷惑だった?」
「いえ! 嬉しかったです、聖を褒めてくださって。それに……私も、藍さんに会いたかった」

消え入りそうな声で告げられた言葉は藍の耳にしかと届いた。一瞬、胸の内がかっと熱くなる。その熱の正体がわからなくて、藍は不思議に思う。

「私、ちょっぴり藍さんに憧れていたんです。主をひたむきに尊敬して、誇りに思う藍さんは、私から見れば従者の鑑で。それに、多くの仕事を任されているのも、主からの信頼の証のようで羨ましくて」
「……前にも言ったように、私はただ命令に従っているだけだよ。だけど、私が紫様を慕う気持ちは、貴方が聖を慕う気持ちに似ているかもね」

藍は今一度紫に思いを馳せる。今度は星から意識を逸らさないまま。
神出鬼没のスキマ妖怪で、幻想郷の賢者の一人。その名に恥じぬ強大な力を持ち、しかし無闇に誇示せず、普段は姿をくらますことが多い。人妖問わず畏れられ、時に胡散臭いと煙たがられ、しかしこの世界の誰よりも幻想郷を愛している。そのためになら手段を選ばず、なんだってする。
藍はそんな紫を心から尊敬している。どこまでも彼女について行きたい。我が身が持つ力を余すところなく捧げたい。紫の超人的な思考回路に振り回されることも多いが、紫を思うだけで藍の心は温かくなるのだ。
星は藍の言葉に目を瞬いて、ふにゃりと笑った。

「やっぱり藍さんと私が似ている、なんてとんでもないですよ。でも、私が聖を慕う気持ちを理解してくれるのは嬉しいです」
「……そうか」

星が一途に聖を思う心は、やはり藍にとって好ましいものだった。
その後、話を昨夜の読経へと戻してゆくも、時はあっという間に流れた。日が高くなる前に、少し休憩を挟んで仕事へ戻らなければ。お暇しようと思った藍の気配を察して、星があの、と声をかける。

「また、今日のように会えますか? その……仏教にまつわることだけでなく、私、もっと藍さんに色んなお話を聞いてみたいんです」

藍は目を丸くする。星は意を決して切り出したのか、緊張した面持ちで藍の答えを待っている。
結界の見張りのため、幻想郷のあちこちを周る以上、藍には人間妖怪を問わず顔見知りが多い。とはいえ、誰が相手でも付き合いは広く浅いもので、個人的に親しくする相手はいない。藍にとっては紫が第一なので、個人的な交友関係には関心が薄かったし、必要としてもいなかった。ゆえに藍個人に興味を持ち、近づこうとする者も滅多にいなかった。
けれども、星は藍に興味を持ってくれたらしい。藍が星に目を留めたように。昨年の春に会った時はお寺に来る客の一人としか見なされていなかったのに。
藍は無意識のうちに顔を綻ばせていた。特定の誰かと交流するだなんて、今まで興味を持たなかったが、悪い気はしない。いや、きっと藍も心の底で星とそうなるのを望んでいたのかもしれなかった。

「仕事が終われば自由がきくんだ。時間はたくさんあるといってもいい。迷惑でないのなら、また来るよ」
「いえ、お寺に来ていただくのはありがたいのですが、いつも一方的に足を運んでもらってばかりでは申し訳ないというか……。たまには私が予定を合わせますよ」

星は律儀にも藍の足労を気にしているらしい。

「けど、星は忙しいんじゃないのか? このお寺の御本尊なわけだし、留守番でもあるんだろう」
「確かに自由とは言い難いですけど、聖は私達をお寺に縛りつけたりしませんよ。許可をもらえば出かけるのも許してくれると思います」
「そうか。じゃあ、人間の里で会うのはどうかな? ここから距離も近いし」
「人里は、難しいですね。私達は妖怪の身ですから、人里にはあまり立ち入らないようにと言われているのです」

眉を寄せる星の顔を見て、藍は思う。水辺に舟幽霊、空に入道使い、山に山彦。幻想郷のあちこちを回っていると、時折命蓮寺の妖怪を見かけるが、星に命蓮寺以外で会ったことはなかった。命蓮寺の妖怪を宴会で見かけた、という噂は聞いたが、それが星であったのかは定かではない。

「もしかして、星はお寺以外の場所に行ったことはあまりない?」
「そうですね。命蓮寺が聖輦船だった頃に飛び回ったくらいでしょうか」

事もなげに言う星に、藍はもったいないと感じた。
結界に閉ざされてはいるが、幻想郷は様々な人や妖怪が住まい、行き交う、美しい場所だ。山や森は季節が移ろうごとに色を変え、古めかしくも自然豊かな風景の中に、時折外の世界から忘れ去られた人工的な異物が紛れ込む。
紫が我が子のように手塩にかけて育み、見守り、築き上げてきた楽園。紫と共に、あるいは紫に代わって藍は紫の掲げる理想の姿を見続けてきた。星はそのほとんどを知らないのだ。
藍は衝動的に口を開いた。

「星、出かけよう。私が案内するよ。幻想郷を」
「案内するって、いいんですか?」
「貴方に知ってもらいたいんだ。紫様の愛する楽園を。幻想郷には美しい場所も恐ろしい場所もたくさんある。そのすべてとは言わないが、私の知る限りを教えてあげるよ。もちろん、星が暇な時でいい。私も仕事があるからいつでもとはいかないしね」

藍はほとんど前のめりになって熱っぽく口説いていた。自らガイドのような役割を買って出るなんて、過去に一度もない。藍も己の言動に驚いたが、胸の奥底から湧き上がる衝動が藍を突き動かしたのである。
星は遠慮している様子だったが、藍の熱意に感化されてか、藍の誘いにうなずいた。

「では、お言葉に甘えて。私に幻想郷のことを教えてください。お願いします、藍さん」

喜色をあらわにした星の笑顔は、宵の明星のように明るく、朗らかなものだった。
もっと、まだ見たことのない星の表情を見てみたい。紫を思う時とはまた違った温度の熱が、藍の胸を焦がす。そんな感情を抱く自分に藍は疑問を抱きつつ、今度は寺の外でも星に会えるのだと好奇心を抑えかねていた。



命蓮寺における星の役割は偶像である。毘沙門天の代理として聖の信仰を受け、また寺を訪れる様々な人間や妖怪の信仰を集める存在だ。
一方で星は聖の弟子であり、自らも仏や毘沙門天を信仰する身である。星もまた一輪やムラサ、最近寺の門を叩いた響子と同じように日々修行に励んでいる。
星は自室で経典を書き写す最中、ふと筆を止めた。修行の途中で集中力を切らすなど、あるまじきことである。しかしこの頃の星は浮き足立って、修行中でもつい物思いに耽ってしまうことがある。
理由は二つあるのだが――今、星の頭の片隅を占めているのは、自分を真剣に見つめる藍の熱を帯びた金色の瞳である。

『私が案内するよ。幻想郷を』

藍が幻想郷にかける思いを訴えているのか、あるいは幻想郷の賢者である紫の情熱を代弁しているのか。いつも落ち着いて鷹揚に構えている藍が、珍しく饒舌だったのを思い出す。
滅多なことで命蓮寺を離れない星が誘いにうなずいたのは、まだ見ぬものへの好奇心もあったが、純粋に藍が誘ってくれたことが嬉しかったからだ。

(確かに、また会いたいと言ったのは私だけど……)

星はため息をついた。星にとって、藍はほのかな憧れを抱く相手である。
幻想郷の賢者の式神にして、己もまた式神を扱う能力を持つ強大な妖獣。真珠のような白い面に、整った目鼻立ち。星のそれよりもいくらか深みを帯びた力強い金の瞳。髪も九つの尾も金色に輝く中、藍色を基調とした装束が落ち着きを際立たせている。一輪は藍を美人だと言っていたが、確かに美女と呼ぶにふさわしい出立ちである。
しかし星が藍を好ましく思うのは容姿のみにあらず、冷やかしや財宝の能力目当ての客が多い中で、真面目に聖の説法に耳を傾けてくれること。妖獣として強い力を持ちながらそれをひけらかさず、人間の前でも極めて大人しいこと。何より主である八雲紫を一途に思い、忠実に任務をこなし、己の力を主のために惜しみなく使おうとする姿勢に、星は強く惹かれたのである。内面の美が好ましいのだ。
そんな美しい相手が目の前にいるだけでも緊張で胸が高鳴るのに、藍に会いたかった、なんて言われた時には心臓が飛び出てしまうかと思った。

(それなのに、失礼なことを言ってしまったわ。邪な心を持つ人ではないとわかっていたはずなのに)

星はいたたまれなさと恥ずかしさで筆を強く握りしめた。ちっとも写経は進みそうにない。これ以上は諦めて星は筆を置いた。
藍は星のことを自分に似ているとも言った。星にはまだ実感が湧かないが、藍が聖を慕う気持ちを尊重してくれるのがありがたかった。日々の営みを主に捧げ、それらを完璧にこなす藍が羨ましかった。
いつからだろうか、命蓮寺を訪れる客の中に藍の姿を見つけると心が躍るようになったのは。己の素性や名前を明かしたのは昨年の春に命蓮寺を建ててからだが、そもそもの始まりは数年前、荒れ果てた元の寺ごと幻想郷に移住してきた頃に、ひっそりと暮らす中で偶然出会ったことがきっかけだった。
それを加味しないにしても、藍と交流するようになってからも、決して頻繁に会っているわけではないのだ。

(だけど、私は……)

藍のことを知りたい。手を伸ばすにはあまりに恐れ多いけれど、叶うならもっと近くに行きたい。そんな思いが日に日に強くなって、星がまだ知らない幻想郷のことを知れば、彼女のことがわかるだろうかとも考えた。
不意に、格子を叩く音がした。こんな時間に、それも外から何者が――と考えて、はたと気づく。
星は細心の注意を払って、格子をほんの数センチ開けた。

「あっ」

開いた隙間から、小さな生き物がするりと潜り込んできた。
茶と白の夏毛に覆われた小柄な貂である。首には“真達羅”と刻まれた宝珠の飾りが巻かれ、口には何やら白い封筒をくわえており、つぶらな瞳で星を見上げていた。

「貴方が、藍さんの式神ですか?」

思い当たる節があって問いかけると、貂は封筒をくわえたままうなずいた。
先日、藍と出かける約束をした時に、連絡には私の式神を飛ばす、と藍は言った。

『命蓮寺に手紙を持った動物が現れたら、それは私の式神だから。直接星に届けるように命令するけど、間違って他の僧侶に追い払われないように気をつけて』

藍がまず具体的な日取りをいくつか決めて、その旨を手紙にしたためて式神に届けさせる。星が手紙を受け取って、都合のいい日時を決めて返答する、という形式である。星がナズーリンを呼んで使いにするのも考えたが、はたしてナズーリンがあの八雲藍の元へ素直に使いっ走りに行ってくれるか、という懸念もあって断念した。

「ありがとうございます。ここで開けても?」

星が手紙を受け取ると、貂はまたうなずいた。どうやらこの貂は妖怪でもない生粋の動物で、人語を話すまでの能力は持っていないようだ。
星は封を開け、丁寧に折り畳まれた白い便箋を広げた。精密すぎるほどの流麗な文字で、藍からの連絡が書かれていた。

【――妖怪の山の奥にあるマヨヒガへ行かないか? 私の式神、橙の棲家なんだ。危険性は低いけど、念のため武器は持ってきておいて。日時は……】

整った藍の文字を最後まで追いかけて、星の胸は高鳴った。
あの日の約束はその場限りの勢いでも社交辞令でもない、本物だったのだ。疑っていたわけではないが、こうして藍の直筆の手紙を見ると改めて実感が湧いてくる。胸がどきどきして、気分はまるで旅行に行く前の子供のようだ。
妖怪の山といえば、星にも覚えがある。何を隠そう命蓮寺の建立を手伝ってくれたのが山の神社におわす神様だった。神社の巫女でもあり現人神でもあるとかいう人間とも顔を合わせたことがあった。
誘いは素直に嬉しかったものの、妖怪の山は河童や天狗が独自の社会を築いていると聞く。藍の式神が住んでいるというのだから危険はないのだろうが、いたずらに山の神や妖怪を刺激するのは避けたかった。武器――おそらく宝塔や鉾のことだろう――を持ってこいというのも、もしもを想定してのことではないか。
星は先ほど置いたばかりの筆を再び取って、藍への返事をしたためる。藍の字が綺麗なぶん、緊張して手が震える。藍が候補の日時を複数挙げてくれたので、星は都合が合わないと断りを入れずに済んだ。比較的客の少ない日、重要な催事のない日を選んで、星はぜひ行きます、という旨を書き留めた。

「これを、藍さんに渡してもらえますか?」

墨が跳ねていないか入念に確認してから貂の式神に渡すと、貂は即座に踵を返して再び格子の隙間から出ていった。本当に命令されたことだけを忠実に実行しているらしい。獣にしては規則的かつ機械的な動きである。星の部屋には獣の残香もなく、夏の生温い空気が入り込むばかりだった。
心臓の音がまだうるさい。山の上は麓より少しは涼しいだろうか。“橙”とはどのような式神だろう? 藍は動物を式神にしているようだが、先ほどの貂とはまた違うのだろうか。

「……あっ!」

思いを馳せているところで、星は自分の失態に気づく。

「聖に許可をもらうの、忘れていたわ……」

自分の浮かれっぷりが恥ずかしくなって肩を落とした。聖なら許してくれるだろうが、返事をする前に伺いを立てるべきだったろう。
浮上していた気持ちが一気に沈んで、星は重たい足取りで聖の元へと向かった。



「あら、それなら構いませんよ?」

聖は自室で仏壇に線香を供えているところだった。本堂には立派な仏壇――これは毘沙門天、命蓮寺では星を祀るためのものである――があるが、こちらは聖の弟の命蓮を祀るものだ。墓地にも命蓮の墓があり、聖は日々欠かさず亡き弟に手を合わせている。
後ろめたい気持ちを抱えたまま、藍との約束があるので暇をくれないか、と頼めば、聖は笑顔で快諾してくれた。

「修行も蔑ろにしてはなりませんが、個人的な付き合いも大切なものですよ。ムラサや一輪からも聞いているわ、藍さんが来ると星は楽しそうだと」
「聖……いいんですか?」
「ええ。最初はスキマ妖怪の式と聞いて驚いたけど……星が仲良くなりたいのなら、無闇に止めたりはしません」

聖は穏やかに笑っているが、星は聖が紫を警戒しているのを知っている。今のところあちらからの接触は何もないが、聖も幻想郷に居住を構えた以上、慎重になっているのだ。何せ相手は幻想郷の賢者である。あるいは、こちらの出方次第では、いずれ対峙するかもしれないと。
それでも聖は星の私的なわがままを許してくれるというのだ。いたたまれなくなって、星は必死に言い募った。

「聖、私はずっと聖の味方です。もう聖を見捨てるような真似はしません。藍さんに会うのだって、私が最初に引き留めたのがきっかけで……」
「わかっているわ」

聖は星の頭を撫でた。今までに何人もの妖怪に差し伸べてきた、温かく、優しい手のひらだ。

「千年近くもの間、何もできなかった私を星は慕い続けていてくれたんですもの。一人でお寺に残されて、つらい思いもたくさんしたでしょうに……。星がそんなことをする子ではないと、私はよく知っていますよ」

聖の優しさが痛いくらいに滲みて、星は目頭が熱くなる。

「出かけるの、楽しみなんでしょう?」
「はい……。こんなこと、私には初めてで」
「ならいってらっしゃい。世の中を己の目で見て見識を広めるのは素敵なことだわ」
「本当にいいんですか。何か聖にも気になることがあるのでは?」
「そうね……。強いて言うのなら、一つだけお願い。もう賢者は勘づいているかもしれないけれど……“ここ”にお寺を建てた理由は、くれぐれも内密にね」

声を落として告げられた言葉に、星は無言でうなずいた。
命蓮寺がこの地に建てられたのは、何も人里が近いからという理由だけではない。命蓮寺の地下には何者かが眠っている。寺を建てる場所を決める時、ナズーリンが見つけたのだ。

『何者かって、誰なの?』
『それは私にもわかりませんよ。けれど何かとんでもないものさ。私達の存在を脅かしかねない何かだ。私のダウンジングに間違いはありませんから』

聖はナズーリンの言葉を聞いて、地下の何者かを妖怪に敵対するもの、と見立てた。
聖の法力で封印するつもりで、真上に寺を建てた。しかし、何者かの正体は依然として不明である。いずれ封印が解け、目覚めるかもしれない。その時聖は、命蓮寺の妖怪達はどうなるのか――それが星の、もう一つの物思いの種だった。



廊下に出ると、ようやく日が沈みかけて、空がオレンジ色に染まり始めていた。まだまだ暑いが、日が落ちれば少しはましになるだろう。
ばしゃん、と水音が星の耳に飛び込んでくる。音のした方向を見やると、庭でムラサが柄杓で水を撒いているところだった。

「ムラサ?」
「あっ、星。聖の話は終わったの?」
「はい。ムラサは打ち水?」
「ええ。もう日が暮れるってのに、あんまり暑いからねー」
「この猛暑では、焼け石に水なのでは?」
「私の気が晴れるからいいのよ」

庭にはあちこちムラサが水を撒いた跡がある。ムラサは柄杓を片手に満足げに笑った。
陸に上がってからの生活が長いが、ムラサはもともと水場を好む舟幽霊だ。命蓮寺の前身である聖輦船も、元は舟幽霊のムラサのために作られたものだった。聖にお願いしたら、今度は庭に水を引いて池を作ってくれるかもしれない。
一通り水を撒いたところで、ムラサは星を振り返った。

「星は大丈夫なの?」
「そうね。確かに暑いけど、耐えられないほどではないわ。心頭滅却すれば火もまた涼しと」
「違う違う。あの八雲藍って妖獣と仲良くなることよ」

生温い空気がぴしりと張り詰める。ムラサの視線は追及するようなものではなく、星を案ずるものだったが、星は心穏やかでない。

「……聞いてたの?」
「そんなことしないわよ。だけど星がこの頃浮かれてる理由なんてそれくらいしか思い当たらないもの」

ムラサは縁側に腰掛けて、星を見上げた。

「一輪は雲山の見立てに間違いはないって言うけどね。私は正直心配よ。幻想郷には未だに聖を警戒している連中が多いし」
「新参者ですし、様子見されているのかもしれないでしょう。うちの僧侶が悪さをしているのでなければ」
「意地の悪いこと言うわね。貴方も戒律を破ってお酒を飲んだのだから同罪でしょう」
「うむむ」

遠回しにムラサが三途の河で何かしているという話に釘を刺すつもりが、やはり返り討ちだ。星が話を逸らそうとしたのをムラサは見抜いているらしい。

「それはともかく。私は何も貴方達を引き裂こうってんじゃないのよ。だけど後ろのスキマ妖怪が何考えてるのかわからないじゃない。あの九尾だって、澄ました顔をして、何を企んでいるか……」
「ありえませんよ」

星はぴしゃりと遮った。星の語気に気圧されてか、ムラサは口をつぐんだ。

「私も一時だけ疑ってました。けど、あの人は私を騙そうとなんてしてない。宝塔の光がなくたってわかるわ」

聖ほどではないが、星も悩める人間や妖怪の話を聞いてきた。言葉の嘘真は隠していても自ずとにおうものだ。
先日、藍は言った。紫に企みはない、やましいものはないと。藍の真剣に主を庇う様子からは、何かを隠しているとも思えなくて、星も藍の言葉を信じようと思った。むしろ、後ろ暗いのも隠し事をしているのも星の方なのだから。
やがて、ムラサは根負けしたようにため息をついた。

「わかったわかった。星がそこまで入れ込むのって相当よね。好きにすればいいわよ、もう」
「ううん、心配してくれてありがとう、ムラサ」

笑顔を向けると、ムラサは決まり悪そうにそっぽを向く。
聖や一輪のようにすんなり受け入れてもらえるばかりではないと、星も承知の上だった。ムラサだって理由もなく口を挟んだのではなく、星を心配してのことだ。

「ムラサ。もしもですけどね、万が一にも私と藍さんの交流が命蓮寺にとって災の種となるのなら……」

ならば、これだけははっきり告げておかなければならない。ムラサの蒼緑の瞳が心配そうに見つめてくる。

「私は迷わず聖を選ぶわ。それだけは覚えておいてほしいの」
「……星」

嘘ではなかった。ムラサ達が地底から駆けつけた時に、星は心を決めたのだ。もう後悔したくない。二度と聖や仲間を見捨てたりするものか。
汗がじっとりと手のひらや額ににじむ。ちょうど西日がじかに差し込むせいか、暑さが堪える。
できることなら、もしもの時は永遠に来ないでほしい。藍との交流を絶てば、これまで通り仲間達との命蓮寺での生活が続くだけだ。それに不満などない、むしろ千年近くもの間待ち焦がれていたものだ。けれど、藍と会えなくなるのは寂しかった。



約束の日、命蓮寺の入り口に藍は現れた。空を飛んできて、藍を待っていた星の前に降り立った藍はいつも通りの、藍色の大陸風の装束だった。

「お待たせ。準備はできてるみたいだね……あれ? 鉾は持ってないの?」
「はい。あれは威厳を保つための飾りのようなものでして」

星はといえば、さしたる私服も持っていないので、いつもの毘沙門天を模した服装に宝塔だけを携えている。本来無闇に持ち出すものでもないが、体術を得意としない星にはなくてはならないものである。

「そうか。出発前に挨拶をしていかなくていいかな」
「私の方から伝えてあるので大丈夫ですよ」

むしろ、先日のムラサとの会話を思えばあまり命蓮寺の仲間達と引き合わせたくないとすら星は思うのだった。

「それじゃあ、行くよ。私についてきて」
「はい!」

空を飛ぶと、晩夏の温い空気が向かい風となって髪を靡かせた。
星が藍の後ろに位置取ると、藍の九つの尾がゆらゆらと揺れているのが見える。冬は暖かそうだが、この季節は暑くないんだろうか。そもそも妖獣というのは季節で毛が生え変わるのか。星は虎の妖怪ゆえ妖獣と呼ばれることもあるが、藍のように耳も尻尾もないのでわからない。

「星。真下に人間の里が見えるよ」

不意に藍が飛んだまま振り向いた。星が視線を下に落とすと、古村を思わせる町並みが広がっていた。

「人里に降りられないなら、上から見るだけでもと思ってね」
「見つかったりしないでしょうか?」
「この距離なら平気だよ。それに人間だって妖怪が通り過ぎるくらいで驚いたりはしない」

藍は眼下に広がる光景をあちこち指差してゆく。

「あそそに見える建物が寺子屋。あっちは稗田家の屋敷、貸本屋の鈴奈庵。そしてあれが私の行きつけの豆腐屋」
「豆腐屋? ……ああ、なるほど」
「私も狐妖怪の端くれだからね。この店の油揚げは絶品なんだ。今度差し入れようか」
「ふふ。そんなにお好きなのでしたら、私にお気遣いなく召し上がってくださいな」
「そう?」

豆腐屋の話になった途端、藍の調子がわかりやすく高揚する。いつも穏やかなのに、好物の話題となれば藍でも気分が高まるのだな、と少しおかしく思う。
一通り紹介を終えて、いよいよ山へ向かうけど、と藍は言う。

「山の妖怪、特に天狗達は縄張り意識が強い。結界を見回る私ですらルートを制限されるくらいにはね。道を逸れたところで出てくるのは下っ端の哨戒天狗だろうけど、しっかり私の後ろについてきて」
「――はい」

改めて注意を促され、星は少し緊張する。
人家の屋根が次第に減ってゆき、風景は深緑の木々が次第に多くなってくる。藍の後についてゆくうちに、緑に覆われた山が目の前に聳え立っていた。藍は慣れているのか、迷わず山の中をすいすい飛んでゆく。星も慌てて後を追った。
かつて聖輦船で幻想郷を飛び回った経験があるとはいえ、星は魔界で飛倉の破片と宝塔が集まるのを待っている時間の方が長かった。船は今ここにはない。藍の後を追っていれば問題はないだろうが、いざとなれば宝塔を使うことになるのか。
しかし、ずいぶん入り組んだ道のりである。わざとそういうルートを辿っているのであろうが、木々が深く生い茂って人間どころか獣すら通りそうにない。星は慣れない場所で、藍の背や揺れる尻尾を見失わないように追うので精一杯だった。

「……星? 大丈夫?」
「えっ? あっ、はい! すみません」

急に藍が止まって振り返るので、星も続いて静止した。
気づけば藍との距離が少し広がっていた。辺りを確認しながら恐る恐る飛んでいたせいか、スピードが遅くなっていたようだ。

「ごめん、早かったかな。ちゃんと確認すればよかった」
「いえ、私こそごめんなさい。慣れない道に戸惑ってしまったもので」
「そりゃあそうか。普段は私一人で飛んでるからなぁ……」

藍は星の様子を見て少し考えるようなそぶりをした。と思ったら、やおら手を伸ばして、宝塔を持っていない星の左手を握った。

「えっ、ら、藍さん?」
「これなら逸れる心配はないだろう? あー……尻尾が邪魔かもしれないけど、それはごめん」
「わっ」

そのまま藍に強く手を引かれて、星は目が眩むような思いがした。
確かに藍の見事な尻尾が間近にあり、視界は悪くなったが、目に映るものなんてもうどうでもよかった。

(確かに、これならはぐれないけれど……!)

あまりにも自然に手を握られて混乱している。緊張で心音が高鳴る。藍の手は、大きさはさして変わらないのに絡まる指が細くて長い。自分の手は汗で湿っていないだろうか。藍にとって不快でなければいいのだけど。
顔が火照っているのは夏の日差しのせいだけではない。鼓動が爆音を立ててうるさい。空を飛んでいて、向かい風の音にかき消されて聞こえるはずがないけれど、心配で落ち着かなかった。

「さぁ、ここがマヨヒガだよ」

藍に導かれて、山のある地点で星は地上に降り立った。なんだかどっと疲れたような気がしたが、藍はわずかに額に汗を浮かべていても涼しそうな顔をしていた。自然と離れた手がひやりとしたのは、汗ばんだ肌に空気がしみたせいに違いない。
気を取り直して、星は目の前にたたずむマヨヒガを見やった。見た目は古風で素朴な日本家屋である。辺りには妖怪の気配はなく、何やら獣くさいにおいがほんの少々漂っていた。

「マヨヒガの噂は聞いたことがありますよ。訪れた者に富をもたらすという」
「ああ。ここの宝を持って帰ると幸せになれる。しかし財宝の妖怪である星には必要ないかな」
「確かに私は財宝を集められますが、物欲は捨てるべき煩悩ですよ」
「それは立派な心構えだ」

藍は先立ってマヨヒガの戸を叩いた。

「橙は……いないみたいだ。困ったね、前もって知らせておいたのに」
「ですが、何やら獣の気配がするんですけど……」
「ああ、それならこいつらのことじゃないかな?」

藍が窓を指さすと、そこには数匹の猫が並んでじっと星を見つめていた。模様はハチワレやら、虎柄やら、三毛やらとりどりだが、どれも化け猫と呼べる妖怪ではなく、ただの動物のようだ。
見知らぬ妖怪の訪れを警戒してか、猫達は毛を逆立てて威嚇している。

「この子達は、藍さんの式神――橙さんの眷属ですか?」
「そんな立派なもんじゃないよ。橙が自分のしもべにしようと連れてきたもののうちの、比較的従順なやつらだ」

藍が戸を開けて(鍵はかかっていないらしい)中に入ると、猫達はさっと道を開けるように引いてゆく。さすがに藍相手には慣れているというか、力量を察しておとなしくなるようだ。
藍に手招かれて入ってきた星に、猫達は攻撃こそしないものの、唸り声を上げ続けている。

「……大丈夫。ちょっとお邪魔させてもらうけど、貴方達に悪いことはしないわ」

星が優しく語りかけると、猫達は丸い目を見開いて、次第に逆立てた毛並みも落ち着いてゆく。小柄な茶虎が一匹、星の足元に近寄ってきた。

「あら。わかってくれたんでしょうか?」
「ここの猫達は力の強い者が好きなんだ。そういえば、星は虎の妖怪だったからね。シンパシーを抱いたのかもしれないよ」
「そういうものでしょうか?」
「猫は気まぐれなんだ。それでいてプライドが高いから、相手を品定めする。かく言う私も、橙の扱いには手を焼いていてね」

藍は珍しく眉を下げて、困ったような笑みを浮かべた。

「橙は私の作った式神を憑依させた化け猫なんだ。かわいいやつなんだけど、時々素直に言うことを聞いてくれなくてね。難しいんだ」
「藍さんでも手を焼くんですか? 並の妖怪ならすぐ従えられそうなのに」
「私の式神を扱う能力なんて、紫様に比べたら足元にも及ばないよ。化け猫一匹手懐けられないようじゃまだまだだね。星は私を買い被りすぎじゃない?」
「いえ。私にも部下がいるのですが、どうもあまり尊敬してもらえてはいないようで……なんだか身に覚えがあると言いますか」

部下とはもちろんナズーリンのことである。星が毘沙門天の代理として認められた際に、本物の毘沙門天から星の部下にと与えられた妖怪鼠だ。普段は星のことをご主人様と呼び、命令にも従ってくれるが、言葉遣いはどこか慇懃である。その上、時折主であるはずの星よりも尊大な態度を取ってくる。かれこれ千年近くの付き合いにはなるが、ナズーリンが切れ者なので、星は未だにナズーリンが何を考えて自分に従っているのかわからなくなる時がある。
星が深刻な顔をしているのを見て、藍は思わずといったように吹き出した。

「ちょっと、私、何かおかしなことを言いましたか?」
「ごめんごめん。それこそ意外だと思ってね。貴方は里の人間達の人気者だし、お寺の仲間達とも仲良くやっているようだから、てっきり部下にも慕われているもんだと」

星がむくれてみせると、藍は想像以上の褒め言葉で返してきて、星は呆気にとられる。
買い被っているのはどっちなんだか。人間達は星の財宝集めの力に興味があるのだろうし、寺の仲間達とは古い付き合いだから当然だ。星は橙のことをよく知らないし、藍の式神は使いに来た動物の貂しか見ていないから、藍の言う“手を焼く”がどの程度なのかわからない。とはいえ、己の式神であるはずの相手に苦労している藍の姿を思い浮かべると、なんだかおかしさが込み上げてくる。

「そうか。星と私は主を敬うところだけじゃなくて、部下の扱いに手を焼いているところまで似ているんだね」
「……言われてみれば、そうかもしれませんね」

似ている、と藍の口から聞いた瞬間、またも星の胸の内が不思議な熱を帯びた。星にとって藍は自分より高みにいる人で、自分と同じ位置に並べて語っていい相手ではない。だから似ていると言われるのはくすぐったいのだけど、決して嫌ではない。手を伸ばすのが憚られた相手が、ほんの少し側にきてくれたような、そんな気がするのだ。

(……もしかして、藍さんは気を遣ってくれているの?)

藍のことを知りたいと思って声をかけたのは自分だ。知りたいのなら、相手に遠慮して距離を置くばかりではいけない。
相手をよく見て、共通の話題を探す。歩み寄っていけば親近感を抱いて、仲良くなれることもあるだろう。星がそうなりたいと思っているように、藍も同じ思いを抱いているのではないか?
――不意に、猫達がにゃあにゃあと騒がしくなる。ほったらかしにするな、構え、餌をよこせ、とねだっているようだった。一匹がよじのぼって宝塔に手を伸ばすのを見て、星はぎょっとした。

「これは駄目! 大事なものだから!」
「やれやれ。そんな甘ったるい媚びた鳴き声を出すんじゃないよ」

藍はいじましく見上げてくる猫達に肩をすくめる。星は猫に宝塔を奪われまいと気が気でなかった。
毘沙門天からの借り物なのに、一度うっかり失くしてしまったものだ。ナズーリンに頼んで事なきを得たが、仏の顔も三度までと言っても、おそらくナズーリンに二度はない。『そうか、そうか、つまり君はそういうやつなんだな』と言わんばかりに冷淡に見つめてくる部下を幻視して星は冷や汗をかく。

「ほら、こっちにおいで。いつものをあげる」

藍は懐からマタタビを取り出した。猫達の気を宝塔から逸らすように手を高く挙げ、慣れた手つきでばら撒くと、猫達は有頂天になって各々飛びついている。ひとまず宝塔は無事で済みそうで、星は胸を撫で下ろす。

「マタタビなんて持っていたんですか?」
「猫を手懐けるにはうってつけだからね。……うちの式神にも」
「なるほど」

猫達はすっかり上機嫌だ。中にはゴロゴロと喉を鳴らしながら藍に体をこすりつけてくるものまでいる。藍は橙に対してもこんな風に操ろうとするのかと思うと、やはり滑稽だった。言うことを聞いてくれない化け猫の気を引こうと、あれこれ試したり、マタタビをチラつかせたり。普段の落ち着いた姿とは打って変わって、なんだかかわいいかもしれなかった。
しばらくかしましい騒ぎは続いたが、次第におとなしくなった。満足した猫達は、散り散りになって床に寝そべっている。この家は日が遮られていくらか涼しいとはいえ、猫達にも暑さは堪えるのだろう。

「星、幻想郷の生活には慣れた?」

腹を上に向けて寝そべる虎猫を撫でながら、藍はぽつりと言った。少々出し抜けではあるが、元は藍と話がしたいという理由で今回の遠出を承諾したのだった。

「そうですね。命蓮寺を構えてからもう一年経ちますし、だいぶ幻想郷のルールにも馴染めてきたと思いますよ」

仲間達と再会してから、あっという間に過ぎていった一年を思い起こす。幻想郷の新たな宗教施設として、徐々に弟子や檀家も獲得していった。
聖の理想は、人と妖怪が手を取り合う未来だ。しかし幻想郷では、妖怪は人を襲い、人は妖怪を恐れるのがルールである。それが建前でも妖怪は人間を襲うふりをするし、人間は妖怪に怯えて暮らす。聖はその規範に思うところはあるようだが、今は救いのため修行のためと、ルールを破らない範囲で行き場のない微弱な妖怪達に救いの手を差し伸べている。

「それならよかった。失礼だけど、聖の思想は幻想郷の人間や妖怪達とは相容れないかもしれないと思っていたから」
「ええ、それは承知の上です」

元より藍は幻想郷の賢者、八雲紫の式神である。幻想郷の秩序を守る者の立場なら、その考えが出てくるのも当然だろう。しかし、以前藍に言われた言葉もあって、星は率直に述べられても平気だった。

「きっと聖の考えは綺麗事なんでしょうね。人によっては受け入れ難いものかもしれません。だけど、人間と妖怪が互いに踏み込めない境を持ち、それでも共に暮らすこの世界は、ある意味では極楽なのだと思います」

聖は命蓮寺を建てる前、聖輦船で遊覧していた頃に、幻想郷の有様を見て驚いていた。人間達は魔法の力を恐れない。さすがに警戒されることはあるが、人間達は妖怪と見れば躍起になって排除しようともしない。……妖怪退治の専門家などは別としてだ。
聖が封印される前の、千年前とは事情が変わったのだ。聖が幻想郷に希望を見出したように、星もこの地に暮らす覚悟を決めた。――地下に眠る者への対処も含めてだ。

「完全に馴染むまでは時間がかかるかもしれません。ですが、私は妖怪として幻想郷で生きてゆくと決めました。そのための努力なら惜しみませんよ」
「――幻想郷はすべてを受け入れる。ルールはあるけどね。結界を通して入ってきたものなら、問答無用で追い出そうなんてしない。だからきっと、紫様は貴方達にこう言うんじゃないかな。『幻想郷へようこそ』と」

藍の言葉に、星は目を瞬く。すでに落ち着いたとはいえ、幻想郷に騒動を起こした身だ。星はまだ八雲紫をよく知らない。一度顔を合わせたことがあると言った聖によれば、つかみどころのない、気味の悪い妖怪との印象らしい。果たして素直にそんなことを言ってくれるのか。

「歓迎、されるんでしょうか。お酒は飲めませんし、すでに神社も二つあるというのに」
「それは大丈夫だよ。信仰の関係で相容れないのは仕方ないし、命蓮寺の妖怪が宴会に来てるのも知ってるし」
「そ、それはできれば見なかったことに!」

星がうわずった声を上げると、猫が抗議するかのように鳴く。うるさい、と言われたようだ。猫を宥めながら、藍は苦笑した。

「貴方は本当に真面目だね。色々苦労もあると思うけど、ゆっくり馴染んでいけばいいよ」
「……その、藍さんも、歓迎してくれるんですか? 突然地底だの法界だのから現れた私達を」
「幻想郷では異変を起こすのは珍しくないからね。確かに一朝一夕で信頼関係を築くのは難しいだろう。だけど、少なくとも私は星と仲良くなりたいと思っているんだよ」

藍はふと真剣な眼差しを星に向けた。藍の言葉に偽りがないのがすぐにわかって、星は射止められたかのように動けなかった。

「自分でもうまく説明できないけど、貴方にはなぜだか親近感が湧くんだ。主を思う気持ち。部下に悩まされる気持ち。貴方との共通点を二つも見つけたからかな」

藍は照れ臭そうに眉を下げて、目を細めた。その柔らかな笑みを目にして、星の心がずきりと疼く。
『くれぐれも内密にね』と、聖は言った。
『私は正直心配よ』と、ムラサは言った。
寺の下に眠る何者かの存在――それが目覚めた時、新たな火種になるかもしれない。
藍がそれを知っているかは定かではないが、星は藍に伝えるつもりはなく、黙っている。星に会いたいと、仲良くなりたいと言ってくれた相手に、隠し事をしている事実が心苦しかった。
仏の教えには嘘をついてはいけないとある。嘘をついているとまでは言えなくとも、秘密を抱えるのはつらいものだ。かつて聖が封印された時、その後も毘沙門天の代理として何食わぬ顔で勤めを続けていた時、痛いほど思い知った。
しかし、それでも星は命蓮寺の地下の秘密を藍に打ち明けるわけにはいかなかった。聖や仲間達にとって不利になりかねないことは、藍が相手でも言えない。隠し通せる限界まで口を閉ざすつもりでいる。

「私も、ですよ」

けれど、せめて。星が伝えられる限りの事実を、嘘偽りのない本心を、藍に知ってもらいたかった。

「私も藍さんと仲良くなりたいって、もっと知りたいって、思ってるんです」
「気が合うね。こうしてただ駄弁っているのも楽しいけど、お互いのことを知るには、うってつけの方法があるよ」

藍は不敵な笑みを浮かべる。

「スペルカードを用いた幻想郷流の決闘方。早い話が弾幕だ」
「弾幕? ここで、ですか?」

唐突な申し出に星は戸惑う。無論弾幕を知らない訳ではないが、ここはどう見ても普通の家屋であり、橙の住まいでもある。

「橙もここで弾幕勝負を挑んだことがあるから。辺りに人間はいないし、山の妖怪の縄張りからも遠い。思いっきりやってもいいよ」
「……まさか、武器を持ってこいと言ったのはそのためですか?」
「察しがいいじゃないか。実は、前から星と弾幕勝負をしてみたかったんだよ」

あっけらかんと言い放つ藍に、星は呆れてしまう。こっちは山の妖怪と一悶着起こしやしないかと気が気でなかったというのに。
けど、弾幕と聞いて気分が高揚したのも事実だ。すでにスペルカードルールについては聞き及んでいるし、実際に宝塔を用いて弾幕も撃ったことがある。決闘の手段としても遊びとしても面白く奥深いのだ。

「幻想郷に来て、こんなにも心躍る遊びがあるなんてとわくわくしましたよ」
「そうだろう? 競うのは美しさ、込めるのは信念。そして、スパイス程度の殺意」
「不殺を説く仏教徒の私に、殺意を持ち出すんですか?」
「弾幕ならそれが有りなのさ。ただ、あまりやり過ぎると私も紫様に怒られてしまうのだけど……」

意気揚々とした話ぶりが一転、藍の口調が気弱になる。主としての紫は厳しいのだろうか。

「私のせいで怒られるのは、申し訳ないですよ」
「前は命令に反することを勝手にしたから。遊びなら免じてくれると信じよう。……うん、きっと大丈夫」

不安げに繰り返しているが、本当に大丈夫なんだろうか。けど、星ももう胸の昂りを抑えられそうにない。
藍はすでに準備を始めているようで、懐から紙切れを取り出す。どこに仕込んでいるのか知らないが、きっと弾幕もいつでも撃てるに違いない。

「さあ、星。全力の遊びを始めよう。使用するスペルカードは五枚でどうかな?」
「……いいでしょう。お手柔らかにお願いします」
「お稽古じゃないんだから、そんなかしこまらないでよ。もっと気分を高めて、感情をむき出しに」

藍の顔つきが険しくなる。鋭く細められた目は獲物を追い詰める狡猾な妖狐そのもので、ぞくりと背筋が震える。気配を察したのか、猫が散り散りに逃げてゆく。これなら流れ弾が当たる心配もないだろう。
負けじと星も気持ちを奮い立たせる。ほんの少しだけ、昔の記憶を呼び覚まそうか。普段は仕舞い込んでいる、星がまだ人の肉を喰らっていた頃の、獰猛な虎として恐れられていた頃の本能を。
ぞわぞわと体の芯から何かが込み上げてくる。――これが殺意なのか? いや、もう少し穏やかなものだ。まるでスポーツを楽しむかのような、カラッとした闘争心。それでいて弾幕に思いを乗せて、相手に己のすべてを曝け出すのだ。
握りしめた宝塔が光を帯びる。こちらも準備はできている。目の前の相手を叩き伏せるべく、昂る思いをそのままに、星は強く叫んでいた。

「清浄なる法の光にひれ伏せ、九尾の妖狐!」
「式の妖術に惑わされよ、虎柄の毘沙門天!」

呼応するかのように、藍も猛々しく叫んだ。
それを口火に、まばゆい閃光と、美しき弾が弾け合った。



「……負けました」

荒い呼吸を整えて、星は完敗を認めた。藍はといえば息を切らし、いくつか被弾した形跡はあるものの、悠然と星の目の前に立っている。
遊びとはいえ、それなりに本気を出した。弾幕がほとんど宝塔の力によるものでも疲れるのだ。勝負には負けてしまったが、清々しい気分だった。元より二人に勝ち負けのこだわりは薄い。何かを賭けたわけでもないし、後腐れなく終われるのだ。

「さすがですね。戦ってみて改めてわかりました。藍さんは桁違いの実力を秘めた方です」
「貴方も強かったよ。特にあのレーザーは厄介だ。宝塔の力は恐ろしいね」
「藍さんだってレーザー使ったでしょう?」

藍も勝負を制したからといって勝ち誇るでもなく、弾幕談義に花を咲かせた。

「気になったんですが、十二神将とは、あれも式神の召喚なんですか?」
「いや、イメージを弾幕にしたものさ」
「イメージであのような表現をしようと? 大師といい、本当に密教への関心があるんですね」
「まあ、それは否定しないよ。橙なんてスペルカードに毘沙門天の名をつけていたくらいだしね」
「そうなんですか!? ……ああ、毘沙門天は軍神としても信仰されていますからね。弾幕にも使えますか」
「本物の前じゃ霞むけどね」
「私だって本物じゃありませんよ。あくまで代理です」
「代理でこれほどなら本物はどうなるんだか。財宝の輝きも魅力があるけど、貴方は法力の方に力を入れているみたいだね」
「仏法は私が自力で身につけた力ですから」

お互い弾幕となると話題がつきない。狐や虎にまつわる伝説、式神や財宝について、仏教のことなど話は山のようにあるのだが、すでに日が西の空に傾いている。夏の昼は長いとはいえ、今日は日没までの約束だった。

「今日はありがとうございました。久々に弾幕を撃てて楽しかったです」
「それならよかった。こちらこそ急な誘いに乗ってくれてありがとう。なんだか星が元気のないように見えたから。やっぱり日々のお勤めは疲れるのかなって」

何気ない藍の一言に、星ははっとする。隠しているつもりではあったが、やはり内なる不安が表に出ていたのだろうか。一層気を引き締めなければならない。
けれど、さりげなく気を遣ってくれるのは嬉しかった。気分転換というなら、こんなにも適切なものはない。

「本当に面白いものでしたよ。スペルカード、弾幕というのはその人の本質を表すのですね。藍さんのこと、また少しだけ知れたような気がします」

星が素直な気持ちを伝えると、藍は少し難しい顔をした。何かに引っかかっているような、けれど深刻なものではない表情だ。

「前から気になってたんだけど……その藍さんという呼び方、呼び捨てにできないかな?」
「へ?」

思いもよらない提案に、目を丸くする。今までまったく気にしていなかった、というかそれが当然だと思っていたのだ。

「い……いいんですか?」
「いいも何も、私はその方が気楽なんだよ。ああ、できれば敬語もなしで。貴方は私の式神じゃないのだから」
「え、呼び捨てで……敬語もなしに?」
「うん。駄目かな?」

眉を下げて見つめられると、なんだかこちらが気まずくなる。
確かに星は藍の部下ではない。客人としてなら敬語も当然だろうが、仲良くなりたい相手にまでそのままでいいのだろうか?
とはいえ改まって呼ぼうとすると緊張する。だいぶ打ち解けてきたものの、星にとって藍は尊敬や憧憬の対象である相手に変わりはない。

(い、いや、これ以上気を遣わせる方が失礼というものでしょう!)

思えば聖にだって呼び捨てなのだ。仲間に呼びかけるように、気さくに話せばいい。強く意識して、星は口を開いた。

「……ら、ん」

やっとの思いで口にした名前は、片言でうわずって、ひどく不恰好な響きだった。
全身の血が一気に顔へと集中したのがわかる。

「こ、これでいいですか?」

照れ臭さを誤魔化すように早口で喋ったら、敬語を取り忘れてしまった。というか、恥ずかしくてフラットに話せそうにない。

「まあ、いいよ。今はまだ無理しなくても。おいおい敬語が取れてくれたら嬉しいかな」

星の狼狽えっぷりが気の毒になったのか、藍は苦笑しつつも優しい言葉をかけてくれた。星は情けないやら恥ずかしいやら、まともに藍の顔が見れなかった。
距離を縮めるというのは難しいものだ。相手のことを知って、相手の知りたいことを教えて、フランクに呼び合ったりして。今日一日で少しは仲良くなれたような気がしたが、それでも、今はまだすべてを言えないこともある。命蓮寺の地下の秘密にせよ、寺の本尊と賢者の式神という立場を考えたら、この関係はムラサに心配されたように危ういものなのかもしれない。
だけど、それらを承知の上で、もっとお互いを知ることができるなら。藍の言うように、いずれ敬語もなしに話せる日が来るのなら。
――もう少しだけ、また会いたいと願ってもいいだろうか。

「あの、藍さん……じゃなかった、藍。いつか橙さんにも会わせてください。私も部下のナズーリンを紹介しますから」
「いいね。今までご主人の話ばかりしてたけど、それだけじゃなくて、部下の話をしようか」

穏やかに笑った藍の金色の尾が、夏の風にゆらめいている。影が長く伸びて、ゆっくりと日が暮れ始めているのがわかる。

「まだ暑いけど、少し暗くなってきたかな。そろそろ帰ろうか。日が沈んで道がわからなくなると困るからね」
「はい」

藍の後ろに続いて、星はマヨヒガを後にした。帰り際、藍に再び手を差し伸べられたが、丁重に断った。これ以上は星の心臓が保ちそうにない。藍は速度に気を遣ってくれたし、弾幕勝負の後というのもあってか、星も帰り道は落ち着いて藍の後を追うことができた。
山は少しずつ翳りを帯びて、夜の色が濃くなってゆく。まだまだ元気な蝉の声に混じって、夜行性の虫達が顔を出し始める。

「――あ」

道中で、星は視界の端を淡い光がよぎったのに気づく。ぼんやりと宙に弧を描く光の正体は、蛍だった。

「蛍か。この近くに水辺があるからね。あまり手を出してはいけないよ、虫妖怪の眷属かもしれないから」
「眷属ですか。それにしても、こんなにたくさん……」
「外の世界から蛍が減っているということだと紫様はおっしゃっていたよ。だから幻想郷には蛍が多いんだと」

幻想郷は外の世界で忘れ去られたもの、行き場を失ったものが辿り着く先だ。虫の増加も幻想入りと呼ぶのだろうか、と星は考える。
気がつけば無数の蛍達が流星のように飛び交っている。長きに渡る地中生活から外に出たら、残された命は短い。蛍の光は命を燃やすようでもある。妖怪の眷属なら少しは長く生きられるかもしれないが。暗がりの中にぼんやりと浮かぶ光は、小さな人魂にも似ている――と思いついて、不意に蛍を詠んだ古歌を思い出した。

――もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞみる

昔の人間は、物思いに耽っていると魂が自ずと肉体から遊離してしまうと考えていた。蛍の光から人魂を連想するのも不自然ではない。しかしぼんやりした光が人魂に見えるとは不吉である、墓地に現れる幽霊ではあるまいし……星ははたと気づく。自分がなぜ蛍から人魂を思い出したのか。最近になって、命蓮寺の裏の墓地に突如キョンシーが現れたからだ。
死体――宮古芳香という名前らしい――は命蓮寺で埋葬されたものではなく、どこの誰だかまったくもって不明なのだ。命蓮寺の仲間たちは決して口外しなかったが、皆見当をつけている。地下に眠る何者かの存在と関係があるのではないか、と。キョンシーの出現は不吉な出来事だった。
星は幻想的な蛍の光が急に恐ろしくなった。いつまで藍に、幻想郷の住人達に隠し通せるのだろうか。蛍の光に人魂を見出した古の歌人のように、物思いを抱え続けていれば、いずれ悩みを知られてしまうかもしれない。

「もうすぐ秋になる」

命蓮寺が眼下に見えるほど近くなった頃、藍がぽつりと言った。星は思考を切り替えるように頭を振った。
未だに残暑が厳しいが、季節は晩夏であると星は思い出した。盆と彼岸の間の、わずかながら仕事が忙しくなくなる時期だ。

「私と星が初めて出会ったのは秋の夕暮れだったね」
「ええ。まだ仲間達が地底にいて、私は元のお寺ごと幻想郷にやってきたばかりの頃でした」

秋と言われて星もそれを真っ先に思い出した。
日に日に寒さの厳しくなる秋のある日、偶然立ち寄ったのが藍だった。殺風景な荒屋の外に藍の九つの尾が、たわわに実った稲穂の波のように揺れていたのを今も覚えている。

「秋になると、山は美しい紅葉で彩られるんだ。食べ物が美味しい季節でもあるね。虫の声も夏とは違った趣がある。それに、なんといっても中秋の名月は格別で……まあほとんど雨月なんだけどね」

藍は揚々と話し続ける。なんとも興味をそそられるが、もう命蓮寺の目前まで辿り着いてしまった。地上に降り立つと、星は名残惜しい気持ちになる。
一日が楽しかっただけに、別れが寂しい。藍の話の続きを聞いていたい。かといって引き止めるわけにもいかなかった。今日のお礼と、見送りをしなければ、と星が思ったところで、

「星、秋になったら、また山に行こう」

藍が晴れやかな笑みを浮かべて言った。

「今度こそ橙を連れてくるからさ。秋なら夏よりは過ごしやすいし、言うことを聞いてくれるかもしれない。いや、秋の山だけじゃない、冬には雪を、春には花見を。貴方に教えたいこと、見せたいものはまだまだたくさんあるんだ。だから――また、今日みたいに誘ってもいいかな?」

星の胸が熱くなる。今日の遠出が楽しくて、これっきりで終わらせたくなかったのは自分だけではなかった。藍も、また次の約束をしようと思うほどには、星との話を楽しんでくれていたのだ。
答えはもちろん、イエスしかない。

「はい。ぜひ、お待ちしています」

星が笑顔を浮かべて答えると、藍は遠慮がちに踵を返して、背を向けた。飛び立つ前に、藍は振り返って、

「それじゃあ、またね、星」
「はい。今日はありがとうございました――藍」

星の呼び方に満足げに微笑むと、藍は己の棲家へ戻るべく空へと飛び立っていった。藍の姿が次第に小さくなる。その背中が見えなくなるまで見つめ続けて、星は密かに、胸の内のざわめきにひたる。
寺の地下に眠る何者か。妖怪に仇なすかもしれない者。今夏になって、突然墓地に現れた見ず知らずのキョンシー。もしかしたら……嫌な予感が胸をよぎるが、どうか、聖の施した封印が解けないように。このまま目覚めないままでいてくれないだろうか。
――しかし、星の願いとは裏腹に、封印は長くは持たない。かえって何者かの復活を早めてしまうことを、次第に復活の兆候が現れることを、星はまだ知らなかった。

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