Coolier - 新生・東方創想話

星は藍色の空に輝く【上巻】

2021/10/11 21:36:10
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其の一 「荒屋の妖怪」



古寺には、通夜のごとき暗く冷えきった空気が満ちていた。

「そう……。本当に、もうどうしようもないのね」

ムラサが悲痛に満ちた声でつぶやいた。一輪は悔しそうに唇を噛み締めていて、傍らの雲山も難しい顔をしている。ナズーリンは少し離れた場所から傍観していて、渦中の聖は、もはや覚悟を決めて落ち着き払っていた。

「じきに私を封印せんとする者達がここへやってくるでしょう。……今一度言います。せめて、貴方達だけでも、今のうちにどこかへ身を隠して――」
「そんなの嫌に決まってるじゃないですか!」

一輪が怒りを露わにして叫ぶ。

「私はもう人間じゃありません。みんなと同じ、妖怪になったんです。私も雲山も、妖怪と共に歩む者として、最後までお側にいます!」
「一輪……」

一輪は金輪を手にした拳を強く握りしめる。彼女の心もまた決まっているのだろう。ムラサも呼応するように、一輪と雲山の傍らに立った。
星は一人、三人とは別のことを考えていた。前からずっと悩み続けて、悶え苦しんで、けれど自らの意志で決めたことだった。

「――聖がいなくなったら、このお寺は、聖を縁(よすが)とする者達は、どうなるのでしょう」

星の言葉に、ムラサと一輪は耳を疑った。
大丈夫。自らに言い聞かせて、星は作り慣れた笑顔を浮かべた。

「星、まさか」
「聖は前に、私にお寺の留守を守ってほしいと言いましたよね。幸いにも、私の正体は人間達にはばれていません。――聖のいない間、私が聖に代わって、人々の心の拠り所になろうと思います」

ムラサと一輪の表情が蒼白になる。二人は星の体に縋りついて、必死に止めにかかった。

「無茶よ、星! いくら今はばれていないからって、今後もそうだとは限らないじゃない!」
「そうよ、もし妖怪だって知られたら、星だってどんな目に合うか……それならいっそ私達と一緒に行きましょうよ!」
「僭越ながら、私も反対ですよ」

静観を決め込んでいたナズーリンがぼそりと言った。赤い瞳が星の心を見透かすように見つめてくる。

「お忘れですか、ご主人様。今回の件はすでに毘沙門天様のお耳にも届いています。今のところ、毘沙門天様は貴方に任せた代理を解くつもりはないようですが……聖が封印されれば、それもどうなるかわからないのですよ?」
「……ナズーリン」

淡々と捲し立てる部下に向き合い、星はにこりと笑った。呆気に取られたように、ナズーリンは目を丸くする。

「世の中には救いを求める者がたくさんいるのよ。力弱き者、道を見失った者、明日をも知れない者。そんな人間や妖怪達には、寄る辺となる者が必要なの」
「星……」
「大丈夫」

今にも泣きそうな顔をしているムラサと一輪に、星は力強く言い放った。

「私、うまくやれる自信があるの。それに、外にいればみんなを助ける方法が見つかるかもしれない。きっと封印を解く方法を見つけてみせるわ」

聖が静かに星へ歩み寄る。怒られるかもしれない、と覚悟していたが、聖は肉体が軋みそうなほどの力で星の体を抱きしめた。

「必ず帰って来るわ。貴方達のように、私が間違っていないと、私を信じてくれる者がどこかにいるはずだから……私も、ただで封印されたりなんかするものですか。きっと封印を破る術を探しましょう」

ぎゅっと抱きしめる力が強くなる。星の肩口に熱いしみが広がってゆく。
聖の体温はこんなにも温かく、優しい。人ならざる者となっても、聖には人間と同じ熱い血が流れているのだ。どうして人間達は彼女のことを深く知ろうともせず、邪なものだと決めつけ、恐れ、忌み嫌い、遠ざけようとするのだろう。どうして、聖と離れ離れにならなければならないのだろう。溢れそうな思いを堪えて、星はゆっくりと聖の背に腕を回した。

「ごめんなさい。私が貴方に毘沙門天の代理を頼んだばかりに、貴方に重荷を背負わせてしまう……」
「何を言ってるんですか、聖」

苦しげに顔を歪める聖に、星は微笑みかける。

「聖が私に生きる意味をくれたから、私は幸せでしたよ」

寺の外がいっそう騒がしくなる。もうすぐそこまで聖を排除する者達が迫っているようだ。
この温もりを手放したくない。けれど、星は聖と別れて、これから一世一代の嘘を貫き通すのだ。
嘘をつくべからず。仏の戒めにはそうあるけれど、もしも仏が見ているのなら、星が何よりも大切なものを守るため、嘘も方便だと見逃してくれないだろうか。

――やってみせるわ。

いかめしい武装をした人間達が押し入ってくる。星は胸を張り、堂々たる佇まいで出迎えた。たとえこの先が地獄へ続く道であっても、星は自ら進むと決めたのだから。



私はいつまでも、この場所で待っています。
いつか貴方と約束を交わした、貴方と出会ったこの場所で。
だけど、もしいつまで経っても貴方が現れなかったら、その時は……。





星は藍色の空に輝く





「この辺りも異常はなし、と……」

夕暮れ時の幻想郷。西の空は沈む夕日の赤と降りてきた夜の青が混ざり合い、紫に染まっている。日の光が遠くなった東の空には、早くもぽつぽつと星が浮かんでいた。
八雲藍はいつも通り結界に異常がないか入念に確かめて、一息つく。このあたりは幻想郷の西側の外れにある森林地帯で、深く木が生い茂り人の住む気配は皆無である。季節は秋。夏に鮮やかな緑の葉をつけていた木々は悉く朽葉色に変わり、人気がないのも相まってもの寂しげな雰囲気である。
結界の見回りはこの場所で最後なので、今日の仕事もひと段落だ。もうじきに夜が来る。日没と共に活発化する妖怪は多いが、藍の主である八雲紫は人の寝静まった深夜にならないと目を覚さない。紫からほとんどの仕事を任されているとはいえ、仕事が済んでしまえば藍の時間はいっそ退屈なほど有り余るのである。

「どうするかな……紫様はまだ起きないだろうし、人里に寄って行こうか」

藍は次第に深くなってゆく空の色を眺めながら、一人つぶやいた。
暇を持て余した藍のすることといえば、紫に授かった頭脳を活かして数々の方程式を頭の中で組み上げるか、油揚げが美味いと評判な人里の豆腐屋で買い物をするかである。自らの式神である橙を呼び出すこともあるが、あいにく橙は気まぐれでしばしば言うことを聞いてくれない。
ひゅう、と冷たい風が吹いて、藍は身震いする。この季節は日が落ちると急激に冷え込むようになるものだ。狐の妖獣たる藍はある程度の寒さには耐性はあるが、ずっと外を飛び回っているとさすがに寒さが身に染みてくる。

「……うん?」

夕方の人里は混むし、早いとこ向かおう、と空を飛んで行こうとしたところで、藍は目下に見慣れぬものを見つけた。
落ち葉の絨毯に覆われた地面に、新しい足跡がいくつか残っている。藍は空を飛んできたので、無論これは藍のものではない。獣のものにしては大きく、人のものにしては小さなそれは、においからして明らかに妖怪のものであった。
この辺りに住む妖怪の痕跡だろうか。しかし、外の世界と幻想郷とを隔てる境界近くは不安定な場所で妖怪はほとんど住まないし、人も通らないからわざわざ襲いにやってくることもない。そもそも藍はこの辺りの境界の見回りで妖怪を見たことがない。
藍は注意深く足跡を辿った。何者か得体が知れないが、仮に襲われたとしても生半可な妖怪に負けるほど藍は弱くないし、危険な相手なら即座に引き返すだけの判断力もある。
足跡は木陰の奥の方へ続いていて、雑木林の内ではなく外へと向かっている。この足跡の主は入っていった者ではなく、奥から出てきた者だということだ。

「なんだ、これは……?」

藍は茂みの奥に見つけた物陰に、首をかしげた。
藍の目に映るのはひどく古びた木造の屋敷である。いや、屋根は剥がれ、壁らしい壁もなく、かろうじて柱と床板がいくつか残っているようなそれは、もはや屋敷と呼べるか危ういものだった。日が落ち、はらはらと枯葉を散らす木々に囲まれているせいか辺りは一層暗く、屋敷の中までは伺えなかった。
周りには伸び放題の雑草とろくに掃かれてもいない落ち葉の中、苔むした石畳と崩れた灯籠が微かに見える。おおよそ人が住んでいると思えないほど荒れ果てた建物は、まさに荒屋といった風情だ。

「まあ、まず人間はいないと見ていいだろう、が……」

藍は人間達の間に伝わる昔話を思い出す。八重葎に囲まれた荒屋を、一人の男が通りかかる。荒屋の中からか細く美しい女の声が聞こえるが、人の姿は見当たらない。みすぼらしい廃屋の中に、思いもよらぬ美女を見つける――好色な若者は得てしてそういうロマンを求めがちである。
声の主を探して中へ入ると、そこに美女の姿はどこにもなく、野ざらしになった髑髏が物言わず横たわっているのだ。
それがかつて絶世の美女として名を馳せた女の慣れの果てだという話もあるが、そうした人知の及ばない不可思議が起こる昔話は妖怪の所業であることが多い。そうでなくとも人気のない荒屋には妖怪が好んで潜むのである。
足跡は屋敷の手前でぱたりと途切れている。微かに残っていたにおいも消えていて、藍が中を確かめるために踏み入るかどうか迷っていた、その時だった。

「ナズーリン?」

荒屋の奥から女性の声がして、藍ははっと息を呑んだ。即座に身構え、警戒をさらに強くする。
やはり妖怪の住処であったか。気配が感じられなかったのは弱い妖怪だからか、はたまた藍から気配を完全に隠しきれるほど強い力の持ち主だからか。

「どうしたの、何か忘れ物でもありましたか?」

声の主は藍の存在に気づいていないのか、緊張の糸を張り詰める藍とは真逆に、どこか呑気な声色で話し続ける。
やがて、声の主が屋敷の奥から姿を現した。

(――え?)

その姿を一目見て、藍は呆気に取られた。
癖のある金色の中にところどころ黒の毛が混じった、虎を彷彿とさせるような髪。纏う衣は質素というより貧相なもので、里の貧乏な住人のようだ。藍の姿を目にして、ようやく相手が『ナズーリン』ではないと気づいた声の主は、目を丸く見開いて藍を見つめ返していた。顔は薄汚れてやつれているせいか、服装と相まってみすぼらしく見える。藍のそれとよく似た金色の瞳はあどけなさを帯びて、二十歳にも満たない少女といった風貌である。
おそらく何も知らない者が見れば、少々変わった髪をした人間の少女だと思うだろう。しかし、眼前の少女から漂う気配は、か細く心許ないものではあるが、歴とした妖怪のそれだった。力のない妖怪なら、九つの尾を持つ藍の姿を見て即座に力量の差を思い知り恐れ慄くはずだ。しかし、少女は声を上げることも、体を震わせることもせず、ただじっと藍を見つめ続けている。
荒屋の妖怪――それがこんなにも頼りない少女の姿をしているとは。藍はしばし茫然としていたが、やがて我に返り、こほんと咳払いをする。
動揺している場合ではない。見知らぬ妖怪なら、まず素性を確かめなければ。

「貴方は、ここに住む妖怪なのか?」
「……ええ、そうです」

藍が少々硬く作った声で問いかけると、少女は少しも慌てふためくことなく、落ち着いて答えを返した。答えてから、今更人違いを詫びていないと気づいたのか、少女は深々と頭を下げる。

「すみません、人違いをしてしまって。ここを訪ねてくる者なんて、私の部下くらいしかいないものですから……貴方は、お客様、ではありませんね。かといって、道に迷ったわけでもないようですが」
「見慣れない建物があって気になっただけなんだ。すまないね、住処に勝手に踏み込んでしまって」
「いえ、おかまいなく。こんなおんぼろな住まいを見られるのは少し恥ずかしいですけど」

見知らぬ妖怪、それも力の差が歴然とした相手を前にしているというのに、少女は落ち着いて藍と会話を続けている。藍が恐ろしくないのか、怯えを隠しているだけなのか、古びた住まいと自らの格好を恥ずかしがっているだけだ。
藍は思いもよらぬ丁寧な対応をされて、少々気まずく思う。警戒を解くのは時期尚早だが、こうも礼儀正しく、警戒心のない相手に牙を向くのもためらわれた。少女から視線を逸らすと、改めて荒れ果てた屋敷が目に留まる。
ここまでぼろぼろになるとは、どれだけの年月が経過しているのだろうか。

「随分と古い屋敷だが、昔からここに住んでいたのか?」
「はい。といっても、この世界……幻想郷と言いましたか。幻想郷に来たのは、ほんの最近のことなのですが」

最近、と聞いて藍は合点がいった。どうりで今までこの荒屋に気づかなかったはずである。そして少女の言葉を信じるなら、おそらく少女は最近になって結界をくぐり抜けてきた――『幻想入り』した妖怪なのだ。彼女は外の世界で人間に存在を忘れられ、荒廃した住まいごと幻想郷へとやってきたのだろう。

「今はこんな有様ですが、昔はこれでも名の知れたお寺だったのですよ」
「お寺?」

少女の言葉に、藍は首を傾げる。あまりにも荒廃していてわからないが、この建物はただの屋敷ではなく寺だったというのか。言われてみれば、石畳や灯籠などに名残が見えないでもないが、この荒屋が寺だと気づく者はいないだろう。
そもそも彼女は妖怪なのに、なぜ寺――今はもはや寺の体を為していないが――などに住んでいるのか。優れた法力を身につけた僧侶というのは、往々にして妖怪を退治する側に回るものである。
さらに、藍の見立てでは、彼女は人間の畏怖を糧にしているようにも見えない。人間は妖怪を恐れ、妖怪は人間を襲う幻想郷の中で、わざわざ人の立ち寄らない辺境の荒屋に住み続けているのだから間違いないだろう。
新たな疑問が湧き、少女の得体の知れなさがいっそう増してゆく。

「その頃にはちゃんと住職も居りましたし、弟子も、参詣に来る方もたくさんいました。ですが、今となっては……」

藍の納得していない様子が伝わるのか、少女は懸命に在りし日の栄えていた様を訴える。しかし語気はだんだん勢いを失い、終いにはだらりと力なく手を下げて項垂れた。

「情けない限りです。あの方の留守の間、お寺を守るのが私の役目だったのに。あの方との約束だったのに」
「あの方、とは?」
「私の恩人です。今は訳あってここにはいないのですが、私が最も尊敬する、大切な人でした」

己の無力さを嘆いているのか、少女は強く拳を握りしめている。
話の断片からしか事情を伺えない藍にはすべてを察することはできない。だが、少女が“大切な人”と口にした時、暗く曇っていた彼女の瞳がはっきりと光を宿したのがわかった。
今はいない恩人を懐かしんでいるのか、彼女の表情が今までで一番優しく、寂しげなものに変わる。遠くに離れた尊いものを愛おしみ敬うその笑みは儚げで、藍は何故だか目が離せなかった。
自分にとって尊い大切なものを思う気持ちは、藍にも覚えがあった。主である紫に捧げる思いがそれだ。
普段ならこんな些末な妖怪の昔話など気にかけもしないのに、興味を惹かれるのは、彼女の思いに自分との共通点を見つけてしまったからだろうか。それとも、昔から『心づくしの』『あやしかりけり』などと謳われる、秋の夕暮れだからだろうか?

「お寺を守ることもできない。あの方の元へ行くこともできない。……この世界に来てからも、それは変わりませんでした。もうどれだけの年月が経つのでしょう。己の無力を嘆くのにも飽きて、お寺を立て直そうとする気力もなくなって、悲しむことすら疲れ果てて。私は一人でただこの場所に留まることしかできないのです」

彼女は、淡々と自嘲のつぶやきをこぼす。彼女の独白とも懺悔ともつかない言葉を聞いて、藍は目の前の妖怪がやがて消えてしまうのではないか、と思った。
数十年か、数百年か、それ以上なのかわからないが、長い年月は彼女の感情をゆっくりと削ぎ落とし、諦観のみをもたらしたようだ。
見方によっては、無我の境地に達しているようにも見えるだろう。だが、妖怪たる彼女の根本は危うい。妖怪の存在意義は、肉体より精神に重きを置く。人間に自らの力を誇示して恐れを得ようともしないのは、彼女の支柱が今ここにはいない“恩人”だからだと、藍は気づいた。
結界に囲まれた幻想郷の中で完全に力を失うことはないだろうが、少しずつ心をすり減らしてゆく彼女の在り方は――“妖怪”としてのアイデンティティを保てていると言えるのだろうか?

「すみません、急にこんな話を長々としてしまって……」
「ああ……いや、構わないよ」

藍が黙りこくっているのを、彼女は自分が喋り過ぎたせいだと思っているようだった。申し訳なさそうに俯く彼女の様子を見ていると、藍も何か彼女に語りかけなければ、という気持ちになってくる。
今しがた会ったばかりの妖怪に肩入れするわけではないが、袖擦り合うも他生の縁。

「貴方の事情をよく知らない私に、言えることなんて少ないが……」

幻想郷は妖怪の楽園なのだ。妖怪のためになることならば、きっと紫の意にそぐわぬ結果はもたらさないであろうと結論づけて、藍は賢明に頭脳を働かせ、言葉を選び取る。

「貴方にとって心から大切なものなら、どんなに遠くに離れていても、たとえ今は手が届かなくても、ずっと大事に思い続けるべきなんじゃないだろうか」

彼女の瞳が大きく見開かれた。ややつり目の金色の光に見つめられて、藍は言葉にしてから、果たしてこれが最適解なのかと不安に思う。元より藍は言葉の取捨選択を得意とない。
心から大切なもの、と口にした藍の脳裏には紫が浮かんでいた。藍にとって何者にも代え難い、最も大切なものなど、紫しか存在しない。
神出鬼没を売りにする紫はどこにでも現れるのに、普段は寝てばかりで仕事は藍に任せきり。有事の際でもなければ、藍が紫の側にいる時間はさして多くない。藍には遥かに及ばない頭脳を持つ紫は掴みどころも捉えどころもなく、彼女を理解するのは雲を掴むような話だ。触れようとしても、幻のようにすり抜けてしまう。
だがしかし、届かなくても、手を伸ばし続ける行為にこそ意味があるのではないか。たとえすべてを理解できないとわかっていても、藍は敬愛する紫の側に居続けたい。力になりたい。それが、藍が紫の式神であり続ける理由だ。

「……ありがとうございます」

目の前の妖怪は、目を細めて、口元に微かな笑みを浮かべていた。相変わらず儚げな表情であったが、彼女の口調はいくらか明るくなっていた。藍は自分の伝えたいことが彼女に伝わったのだと知った。

「そうですね、この期に及んで何を悔やむ必要があったのでしょうか。貴方の言う通りです。たとえ私の力が及ばなくとも、私はあの方を忘れない。何千年でもその機を待ち続けるつもりです」

そう断言した彼女の言葉は、先程よりも力強さを増していた。藍を真っ直ぐに見つめる金の瞳には揺るぎない意志が宿っていて、藍はほんの少し安堵した。
風が吹き込んで、寒さが一段と身に染みてくる。日が落ちたのだろう。空を木々が覆いつくすこの古寺は暗く、うっすらとした星明かりが届くばかりだ。

「随分長居してしまったね。私はそろそろ失礼するよ」
「いえ、こちらこそ引き止めておいて、おもてなしもできずに申し訳ありません」
「急に訪ねておいて接待を要求するほど厚かましくはないよ」

退去する前に改めて古寺の外観を眺めると、戸が外れていて風を防ぐものがまともにない。彼女の格好は薄着で、寒空の下で秋の夜を過ごすには気の毒だ。

「お節介だけど、そんな格好で大丈夫なのか? 冬になればもっと寒くなるよ」
「平気ですよ。私は妖怪ですから」

藍は心配になるも、彼女がへでもないように答えるので、それ以上は口を出さなかった。

「それじゃあ、さよなら」
「お気をつけて」

彼女の穏やかな笑みに見送られて、藍は日の落ちた空へ飛び立った。
さっきまで紫色に染まっていた空は藍色に変わり、寝待ちの月を待って星がきらめいている。日や月の光よりも小さな星は、それでも懸命に道標となろうとしているかのようであった。

「……そういえば、名前を聞いていなかったな」

荒屋がすっかり遠くなったところで、藍はようやく気づいた。彼女は自ら名乗らなかったが、藍も名乗りそびれていた。幻想郷に住む妖怪なら藍の名を知らない者はいないだろうが、あの妖怪は新参だから知らないかもしれない。
幻想郷に住んでいるのなら、また顔を合わせることもあるだろう。もし会えなくとも、それまでの縁だったということ。紫が目を覚ますまでに何をしようか、あれこれ考え始めた藍の頭から、荒屋の出来事は少しずつ薄れていった。

――それが、スキマ妖怪の式・八雲藍と、毘沙門天の代理・寅丸星の出会いであったと、この時の二人はまだ気づいていない。
幻想郷に空を飛ぶ宝船の噂が流れるのは、それから三年ほど経った春先のことだった。



桜が今を盛りと咲き誇り、人里は瑞々しい緑と花で彩られる。そろそろ博麗神社で宴会が開かれ、花見酒と洒落込む頃であろう。藍も近々白玉楼の花見に行く予定である。
そんな春爛漫の幻想郷で、人々や妖怪の話の種となっているのは、宝船から姿を変えたお寺だ。

「命蓮寺、か」

藍は人里に立ち寄ったついでに、近くにあるという命蓮寺へと足を運んでいた。
まだ山に雪が残る春の初め頃、雲の切れ間を飛ぶ謎の船の噂が流れた。
どうやら冬の間欠泉騒動で地上へ飛び出したのは地霊だけではなかったらしい。地霊と共にかつて地底に封印されていた妖怪達が飛び出したそうだ。妖怪達は千年前に封じられた僧侶を復活させるために船を出していた――というのが、船の調査にあたった人間達からわかったことである。
藍があらましを紫に報告すると、紫は特に驚きもせず『そう。まだまだ幻想郷は賑やかになりそうね』と微笑んだだけだった。いつも寝てばかりと言われる紫だが、冬は“冬眠”と称してさらに長く眠り続ける。先の冬の間欠泉騒動で動いた分、紫は常より長く睡眠時間を取っており、藍が報告に来た際も眠たげな様子だった。

『霊夢や山の神は警戒しているようですが。動向を確認しなくてよいのですか?』
『神社からしたら商売敵ですもの、新興勢力に目を光らせるのでは当然ではないかしら? それくらいのことなら貴方の頭脳でわかるでしょうに』

つまり、紫は何も手出しする必要はない、と言っているのだ。大昔の僧侶など取るに足らない、と。異変は解決したのだし、確かにわざわざ紫の出る幕もないだろう。

「しかし、大した人気だな」

藍は寺の前にできた人だかりを見て、独りごちた。
魔界に封じられていた僧侶、聖白蓮が復活し、宝船は命蓮寺として人里近くの地に落ち着いた。宝船から姿を変えた縁起のいいお寺、と人間達にはたいへん評判である。参道から石段には“奉納毘沙門天王”の赤いのぼりがいくつも掲げられていて、毘沙門天を信仰しているらしい。どういう宗派の寺なのか不明だが、聖は訪れる者は人間も妖怪も――邪な動機の者を除いて平等に受け入れるという。住人のほとんどは聖を慕う妖怪達で構成されているが、人間達にはそれらの妖怪の存在はさしてマイナスにはならないらしい。今のような昼間の時間帯は、主に人間の参拝客に向けた説法を住職の聖自ら行っているようだ。

「確かに脅威ではない、のか?」
「あれ? 藍じゃないか」

首を捻る藍の後ろから声が飛んでくる。
振り返ると、藍よりいくらか背の低い少女の丸い瞳とかち合った。白黒の魔法使い、魔理沙が珍しい物を見るように藍を見つめている。

「魔理沙か。お前も参拝に来たのか?」
「まさか。ただでさえ春眠暁を覚えずだってのに、長々とした説教なんて眠くて聞いてられないぜ。お前こそ何をしに来たんだ。紫の差金か?」
「個人的に気になるだけだよ。妖怪にも人間にも好かれる寺というのがね」
「ふーん」

魔理沙はさして藍の動向に興味がないのか、帽子をくるくると弄びながら寺へ続く行列へと目を向けた。

「ま、人気の秘訣はなんたって財宝だろうな。この寺の御本尊は財宝を集める妖怪なんだとよ。魅力的だろ?」
「蒐集家にはたまらないだろうな。ついでにマジックアイテムか何かでも集めてもらおうという魂胆か?」
「そのはずだったんだかな」

期待外れだ、と言わんばかりに魔理沙は肩をすくめる。

「飛倉の破片集めを手伝ってやったんだ、あいつ、何かあれば私の力になると確かに言ったくせに。ただの財宝目当てはお断りだとよ」
「飛倉……ああ、未確認飛行物体だとか言われていたあれか」

聖の復活には地上に散らばった飛倉の破片とやらが必要だったようだ。船が飛び回っていたのも飛倉の回収が目的だったらしい。魔理沙達にはなぜかそれらがUFOのおもちゃに見えていたそうだが……。
僧侶の聖は魔法使いでもあるという。魔理沙からすれば先輩と言えなくもない。魔理沙が寺に来ていたのは魔法に関する目的だったのか、と納得したところで、藍は魔理沙がにやりと笑いながらこちらを見ているのに気づいた。

「なんだ?」
「そういやお前は狐の妖獣だったな。お前もありがたいお説教より、狐らしく虎の威を借りようってとこか?」
「私が紫様以外の威光を求めるわけがないだろう。というか、どこから虎が出てきたんだ」
「知らないのか? その財宝の妖怪は虎だぞ。まあ、見てくれは虎というより仏像みたいだけどな」
「……虎の」

そう言われると、好奇心をそそられるというか、いささか興味を持ってしまう。虎は狐と縁のある動物でもある。幻想郷には様々な妖獣がいるが、虎の妖獣はいなかったはずだ。それに、何ゆえ妖怪がお寺の御本尊なんて地位に収まって信仰を集めているのかも気になる。他に奉るものがなかったのか、その妖怪が崇めるに値する格を持っているのか。
元より紫が興味を持たないなら、代わりに様子を見ておこうかと立ち寄ったのだ。これくらいなら見回りのうちで命令違反にも当たるまい、と藍は心の中でそっと言い訳をする。魔理沙に別れを告げて、藍は行列をなす人間達に混じって並んだ。



少々時間がかかって、ようやく本堂に案内された藍は、最後列の隅に座っていた。命蓮寺の本堂は、新しく建立された寺の割にはどこか古めかしい意匠だった。宝船がそのまま姿を変えたとの話だから、内装は宝船だったころとさして変わりないのかもしれない。

(昼間だし、人間ばかりだな)

本堂は多くの参拝客である人間達でひしめき合っている。白昼堂々と人間に混じって活動する妖怪が少ないせいか、参拝客の中で妖怪らしき者は藍ぐらいしか見当たらない。
藍も日頃から人里にしょっちゅう立ち寄っている身ではあるが、やはり隠しきれない尻尾や耳は非常に目立つ。新しく出来た寺に夢中だからか、藍の存在がさほど珍しくないからか、誰も気に留めていないが。
とはいえこうも人間だらけだと自分だけ場違いなようで、少々落ち着かない。妖怪の客は夜に集まるというし、出直すべきだったかと思い直すも、説法も始まらない内に退席して『退くもまた佳し』と言われるのも癪である。

「おっ、来たぞ。あれが毘沙門天様の代理だとよ」
「え、何だって。よく見えないじゃないか」
「おい立つなって」

不意に人間達がざわめき出す。どうやら噂の御本尊たる虎妖怪のお出ましらしい。人間達は前のめりになったり、膝立ちになったり、中には立ち上がる者もいて御本尊を拝もうと必死だ。よほど財宝集めの能力のご利益にあやかりたいのだろう。
魔理沙曰く“仏像みたいな”妖怪のその姿やいかに――藍が周りの迷惑にならない程度に首を伸ばしたその時だった。

「皆様、お静かに」

凛、と清廉な鐘の音のように澄んだ声が響き渡る。声音はたおやかで、なおかつ勇ましく威厳に満ちていた。

「――あ」

藍は現れた毘沙門天の代理を遠目に捉えて、唖然とした。
金色に黒の混じった、虎のような髪には見覚えがある。右手に宝塔、左手に鉾を持ち、白い領巾は偶像の毘沙門天の背負う光背を表しているのだろうか。赤と白を基調とした服はなるほど、魔理沙の言うように仏像を彷彿とさせる。腰に巻かれた虎柄の布は、申し訳程度に虎の妖怪であることを主張しているようである。
もう三年は経つものの、かつて藍は彼女と一度だけ顔を合わせたことがあった。
身なりこそ別人のようだが、紛れもなく、秋の枯れ草が生い茂る荒屋にひっそりと佇んでいた妖怪である。
人々の羨望の眼差しを一身に受けながら、彼女自身は取り乱すことも浮き立つこともなく、どこまでも冷静に、厳かに。堂々たる佇まいは、とても荒屋の妖怪と同じには見えなかった。

(彼女が毘沙門天の代理……命蓮寺の本尊だというのか?)

藍はおぼろげな記憶をたぐり寄せる。
彼女は離れ離れになった恩人との約束で荒れ果てたお寺を守っているのだと言った。その恩人というのが――彼女に次いで本堂に現れた命蓮寺の住職、先の異変で復活を遂げた聖白蓮のことなのか。
藍の中でいくつかの破片がパズルのように組み合わさってゆく。つまり彼女は千年ほど前に聖や仲間の妖怪達と共に寺で暮らしており、聖や仲間達が封印されてから一人荒れた寺で過ごしており、春先の異変で聖の復活に仲間達と奔走していた、というわけか。
得心がいってから、藍は心のどこかで安堵している自分に気づいた。
荒屋で会った時は力の弱い妖怪に見えたが、今はしゃんと背筋を伸ばし、顔つきも凛々しく、精神も非常に安定しているように見える。彼女の精神的支柱が聖の存在にあり、聖が戻ってきて寺も辺境の荒屋から人里近くの新しいものに生まれ変わったからだろう。

(確かにあれほど勇ましい出立ちをしていたら、その威光に縋りたくもなるかもね)

藍はひそかに笑う。人間達の興味は仏のありがたい教えよりも金銀財宝にあるようだが、聖は彼女に押し寄せようとする人々を宥めて、滔々と説法を聞かせている。藍は財宝にはこれっぽっちも興味がなかったので、聖の説法に静かに耳を傾けていた。
説法が終わったら、彼女に会わせてもらおうか。藍はふと考えるが、やめておこう、と即座に打ち消す。
三年前にたった一度顔を合わせただけ、彼女が藍のことを覚えているかもわからない。彼女はもはや一人ではなく、大切な恩人も仲間も側にいて、きちんと自分の役目を果たしているのだ。今日この目で彼女の姿を確かめられたのだから、それでいいだろう。
説法が終わり、藍は参道を歩いて帰路につく。命蓮寺の参道にも桜の花びらが舞っている。命蓮寺の桜は表だけでなく裏側、墓地の方にも植えられているようだ。
博麗神社ほどではないが見応えのある景色で、花見の席を設ければ客が集まるかもしれない。もっとも、聖がそうした客寄せをよしとするかはわからないが。

「待ってください!」
「へっ?」

のんびりと花見にはいつ行こうか、などと考えていたら、後ろから不意に呼び止められた。
藍は振り返って驚いた。あの虎妖怪が、息を切らして藍の目の前に立っている。わざわざ藍を追いかけてきたのだろうか。

「貴方は……」
「急に呼び止めて申し訳ありません。昼間から珍しく妖怪の客がいると思ったら、見覚えのある姿でしたので」

彼女は金色の瞳を真っ直ぐに藍に向けた。瞳の輝きに懐かしさを覚えて、藍は言葉に詰まった。

「貴方は、あの時の九尾の妖狐ですよね?」

彼女の言葉に、藍は目を見開く。彼女も覚えていたのか。三年前の、ほんのわずかな邂逅を。
込み上げてくるのは感慨なのか、驚きなのか、わからないまま藍は穏やかな笑みを浮かべていた。

「そうだよ。覚えていてくれたのか」
「忘れられませんよ。あの日、貴方が力のある妖怪だって一目でわかりましたし、何より……」

懸命に言葉をつむぐ姿は、先程までの堂々たる佇まいとはまた違って、あどけなさを残した少女のような印象を与える。なんだか可愛らしいな――藍がそんなことを考えていた、その時だった。

「星。そんなところで立ち話なんかしてないで、中に案内したらどうかしら?」

彼女の後ろから、また新たな妖怪が現れる。傍らに入道を引き連れた青い装束に袈裟を着た僧侶が、呆れたような眼差しを投げかけていた。
命蓮寺から退出する人間達が、訝しげに藍達を見つめている。彼女はようやく参道の真ん中で藍を引き留めてしまったことに気づいたようで、あたふたと藍に頭を下げる。

「す、すみません! あの、よろしければ中でお話しできませんか。御用があるなら無理にとは言いませんが……」
「いや、それは構わないけど……いいのかな? 貴方達の都合の方は」

藍が僧侶に目をやると、にこりと微笑み、傍らの入道も会釈をする。こちらを怪しむそぶりが微塵もないのは不思議だったが、どうやら参拝客としての藍は彼女達に歓迎されているらしい。
彼女達は藍が何者かを知っているのだろうか。それとも妖怪に優しい寺、と評判なだけあって、妖怪には等しくこのような対応なのだろうか。

「ご心配なく、あくまで聖様の説法がメインですから。……星の部屋でいいよね? 私はお茶を持ってくるわ」
「あ、ありがとうございます……」

入道を連れて踵を返す僧侶に、再び彼女――星、という名前らしい――は頭を下げた。
振り返って、星はおずおずと藍を見上げた。藍も背の高い方だが、彼女もそれなりに上背がある。差は小さいが強いて言えば、星の方が藍より数センチほど低いだろうか。星は遠慮がちに口を開いた。

「あの、引き止めておいてなんですが、本当によろしいのですか? 貴方こそ、お忙しいのではありませんか?」
「いや……私の仕事はこの後でも充分終わらせられるし、大丈夫だよ。それより」

藍は咳払いをする。先程から気にかかっていたことがある。
彼女が“星”という名前なのはあの僧侶の口から聞いたが、思えば藍は彼女に正式な自己紹介をしていない。初めて会ったあの日にやりそびれていたことをきちんと行おうと、藍は襟を正した。

「改めて、私は八雲藍。幻想郷の賢者、八雲紫様の式神だ。あの時は名乗りそびれていたからね」
「あっ! そうでした。……私は、寅丸星と申します。この命蓮寺の本尊で、毘沙門天の代理として聖の信仰を一身に受けています」
「寅丸星、か。星、でいいかな? 改めてよろしく」
「はい。こちらこそよろしくお願いします。えっと……藍さん」

微笑む星の頬は、桜の花びらのような、ほんのりとした薄紅色に染まっていた。荒屋でのやつれた面差しとも、説法中の勇ましい顔つきとも異なるその表情から、藍はやはり目が離せなかった。
星の案内で、藍は命蓮寺の中へ導かれる。本堂の前の廊下を通り過ぎ、星の私室であるという部屋に通された。本堂より質素であるが、畳も襖も小綺麗な和室だった。促されるまま円卓前の座布団に座って間も無くして、先ほどの僧侶がお茶を運んできた。僧侶は藍と目が合うと、にこやかな笑みを残して部屋を出て行った。
星に促され、茶に口をつける。程よく熱くて渋みの効いたお茶だった。
彼女の足音が遠くなってから、藍は口を開く。

「あのお坊さん、よく私を通してくれたね」
「一輪のことですか? 彼女はよく機転が効きますから、私が貴方に自分から声をかけたのを見て、お客さんだと判断したのでしょう」

かの僧侶は一輪というらしい。やけに愛想のいい態度は気になるが、こうして話をする場を設けてもらったのはありがたいことだった。

「それにしても。星、貴方が元気でやっているようでよかったよ」
「はい。お騒がせしましたけれど、聖を助けることができましたから」

晴れ晴れとした星の笑顔を見て、藍はやはり聖こそが星の大切な人だったのだと確信を強めた。どういういきさつで彼女が命蓮寺の本尊になったのかわからないが、星は毘沙門天の代理として、聖の側で働いて、生き生きとしている。星の存続を危ぶむ必要はもうないだろう。

「けったいな力のお坊さんが現れたと幻想郷中で話題になっているよ。私も今日初めて聖白蓮を見たけれど、確かに只者ではなさそうだ」
「はい。聖は昔から高名な僧侶でした。元は人間でしたが、修行を重ねて優れた法力を身につけたのです。しかし、人智を超えた力を恐れられて、人間に封印されてしまいました。聖の弟様の法力が込められた宝物と、聖を慕っていた妖怪も……先程の一輪達も、地底へと封じられてしまいました」
「ああ、だいたいのいきさつは聞いているよ」

星の顔が暗くなって、藍も自然と声のトーンが低くなる。
聖は妖怪に与する者、それも人間から見れば外法の力に手を染めている。千年以上昔、平安の時代には、人間は今よりずっと妖怪を恐れていた。ゆえに妖怪を救済する聖も人間の敵と見做されたのだ。そうして時が流れ、人間に忘れられた妖怪達は封じられたまま幻想郷の地底へ移動していたのだろう。
星の話は宝船の調査にあたった人間――霊夢、魔理沙、早苗の三人が命蓮寺の妖怪達から聞いた話と一致している。しかし、藍には疑問が残る。

「けれど、貴方はどうして地上にいたんだ? 貴方も聖を慕う妖怪だというのに」
「……私は」

疑問をそのまま投げかけてから藍は失言だと気づくが遅い。星の顔はますます曇ってゆき、何かを耐えるように唇を引き結んで俯いてしまう。

「私は、自分が妖怪であることを人間達に隠していたのです。見た目だけならごまかせないこともありませんでしたし、あくまで毘沙門天の代理として信仰を集める存在であると、人間には思われていました。聖が封印された時も、私はお寺の留守を守るという約束のため、お寺に残りました」

絞り出すように言葉を紡ぐ星は、ひどくつらそうだ。震える肩を目線で追うと、膝の上で拳を硬く握りしめていた。
お寺を守れ、とは聖が星に頼んだことなのだろう。正体を明かして仲間達と共に封印されるか、聖との約束のために口を噤むか――後者を選んだのは星の意志か、聖の意志か。
おそらく星が決めたことだ、と藍は思った。自分で考えて行動するよりも紫の命令に従っていることの方が多い藍にも想像はつく。自分自身の決断は、誰かの命令に身を委ねるよりも責任が重くのしかかってくる。後に後悔することになっても、自分で決めたんだと思えば思うほど、自責の念にかられてしまうのだ。
煩悶を繰り返した結果が荒屋のどこか生気を失くした星であり、今目の前で苦悶の表情を浮かべている星だ。藍が何と声をかけていいのか迷っている間も、星は懺悔するように話を続けてゆく。

「ずっと後悔し続けました。もし、私が自分の正体を打ち明けていたら。聖を助けることができなくても、せめて私も仲間達と一緒に封印されていたら。……一輪達が私の元へ駆けつけた時は驚きましたよ。どうにか地底を出られたから、一緒に聖を復活させる方法を探そうって。一人で地上に残った私を、聖やみんなを見捨てたような私を、まだ仲間だと思っていてくれたんですね」

顔を上げた星と目が合って、藍は息を呑む。いつのまにか曇りは晴れて、星の金色の瞳には強い意志が宿っている。

「だから、私はもう後悔しないって、私はただの偶像でも張り子の虎でもない、妖怪として恩人である聖を助けるんだって決めたんです」

見る者を射抜かんばかりの眼光を湛えたつり目には、まさに虎を彷彿とさせる迫力があって、藍は星の意志の固さを思い知る。どれほどの迷いを越えて、星は足を踏み出したのだろうか。一度は手を離してしまって、だからこそもう二度と失いたくないとすべての迷いを断ち切るほど、星が聖に向ける思いは一途で真摯で――。

(ああ、そうか)

藍はようやく納得した。普段は特定の誰かを気に留めることもないのに、なぜ星が気にかかるのか、目が離せないと思うのか。
似ているのだ。星がひたむきに聖に捧げる思慕が、藍が紫を心から敬愛する気持ちに。幻想郷に主人と従者という関係は少なくないが、共感を覚えたのは星も藍と同じ妖怪だからだろう。あの日、初めて会った時にも微かに感じたことを、今日星と向き合って、改めて思い知った。
感慨に耽っていてふと我に返ると、星は眩しそうに藍を見つめていた。何か変な顔をしていなかっただろうか、と藍が気まずく思っていると、

「今でも覚えてますよ。貴方が……藍さんが、大切なものなら思い続けるべきだって言ってくれたこと」
「え、いや……そんな、私は何もしていないんだけどな」
「そんなことはありません。話し相手は部下のナズーリンくらいで、他の誰かと話すのも久々でしたから。貴方に背を押してもらった気になったというか、呆然と日々を過ごしていた中で、あの日は少しだけ前向きに一日を終えられたんです」

真っ直ぐに伝えられて、藍は照れ臭くなる。あの日の藍は星に何をしたわけでもない、かけた言葉もありふれたものだった。
気まずさから逃れようとして、そういえば、と藍は話を変える。

「貴方が暮らしていたあの古いお寺はどうなったの?」
「聖に事情を説明して、みんなで供養を行いました。人間も妖怪も滅多に立ち入らない場所なので、建物は取り壊さずそのままになっています」
「そうか……貴方は財宝を集める妖怪だって聞いたけど、なぜあんな暮らしをしていたんだ? 集めた財宝を売れば、生活もましになっただろうに」
「そうですね……最初は聖のいた頃と変わらないように、お寺をきちんと維持しようとしていたんです。けれど時が経つにつれて、だんだん参拝客も檀家も離れていってしまいました。お寺も老朽化して、床に穴が空いたり、柱が腐ったり。いくら金目になるものを集められるといっても、私とナズーリンだけでは修復もままならず、お寺は荒れてゆくばかり。やっぱり私ではどうしようもない、聖がいなければ……そのうちに財宝を集める力の源である宝塔を無くしてしまって。ナズーリンには迷惑をかけました。いえ、もし宝塔があったとしても、一人で贅沢な暮らしをしようなど思えないのですが」
「……星は、真面目なんだね」
「私はただ無我夢中だっただけです。思えばあの日、藍さんは結界の見回りついでに立ち寄られただけなんですよね。藍さんの方がずっと、与えられた役目を忠実にこなしていると聞いていますよ。藍さんのご主人様も安心していらっしゃるでしょう」
「いやいや、私は式神だから命令に従っているだけさ。ただ言われたことをこなすだけで、命令以上のことはできやしない。紫様の期待に応えているとは言い難いよ」

紫の話を出されて、藍は苦笑いする。
式神とは方程式。主に従順に従い、命令通りに動くという点では、並の使い魔や部下より格段に優れているだろう。
ただし、命令以上の注文はこなせない。方程式に組み込まれていないからだ。紫は承知の上で、たまに藍に命令以上の成果を出させようとする。無論、藍にできるのは紫に何か命令以外の意図があるな、と察するぐらいである。『つまらないわ』と嘆息する紫に、私は式神なんですよと答えるのは簡単だが、主の期待に応えられないもどかしさは藍にもあるのだ。

「そういうものなんですか。うーん、確かに相手の期待に応えるというのは難しいですね。それが尊敬する相手であるのならなおさら……期待以上の成果を出したくても、私のように、状況次第ではただ言いつけを守るだけでも困難になってしまいます」

星が式神というものをどこまで理解しているかわからないが、星なりに藍の言いたいことを噛み砕いているようだ。難しそうな顔で腕を組んでいる。
星は聖の弟子である。一方で、星の話からすると、毘沙門天の代理として聖に信仰される立場でもある。ややこしいが、星は聖に対しては弟子という立場の方を重んじているようだ。妖怪の身ながら、御本尊としてお寺を守ってほしい。それが聖の星への注文だった。
聖が封印されてからも、星は聖との約束を果たそうと奮闘していたのだろう。尊敬する者の期待に応えたくて、けれど力不足ゆえにできなくて、歯痒さに苛まれて。
ああ、やっぱり星と私は――。

「……なんだか、私達は似ているね」
「え?」
「心から尊敬する大切な相手がいて、その人の役に立ちたくて必死で。私も同じだよ。だからかな……私があの日、星に声をかけたのは」

気がついたら、藍は無意識に口にしていた。
星は目を丸くして絶句していたが、やがて恥ずかしそうにぼそぼそとつぶやいた。

「そんな……私と藍さんが似ているなんて、恐れ多いです。貴方のような強い力を持っていて、立派で、美しい方が……あ、いえ、変な意味ではなく」

星はまた俯いてしまう。その頬はうっすら赤らんで、照れているようだった。
相手に自分との共通点を見出した時、親近感を抱くという。友ですらない、かろうじて知り合いと呼べそうな相手にどこか親しみを覚えるのは、星に自分と重なる部分を見つけたからだろう。任務に忠実で、他のことにはさして興味を持たない藍が、このまま星と別れてしまうのは惜しいと思ったのも、きっとそのせいだ。

「私は仏に帰依するわけではないが、仏教の修行には少々興味があるんだ。星が迷惑でなければその……また、お寺に来てもいいだろうか?」

おずおずと藍が切り出すと、ぱっと星は顔を上げた。金の瞳は、きらきら光る夜空の星のように眩しい。

「迷惑だなんて、とんでもありません。命蓮寺は人間にも妖怪にも等しく開かれていますが、元は聖の力なき妖怪を救いたいという思いから始まったのです。藍さんがここを必要としてくれるなら、いつでも歓迎します」
「あ……ああ、ありがとう」

藍はまた言葉選びを間違えたかな、と内心頭を抱えた。また星と話がしたい、という意味だったのだが、星はお寺の参拝に来てくれるものと受け取ったらしい。まあ修行に興味があるのは嘘ではないし、どの道お寺に行けばまた会えるだろう、と藍は残りの冷めた茶を啜った。

「そろそろお暇するよ。わざわざ声をかけてくれてありがとう。私はあのまま帰るところだったよ」
「いえ、こちらこそありがとうございます。お話できてうれしかったです」

藍が立ち上がると、星も参道まで見送りますと廊下へ先立って歩き出した。
廊下の途中で、藍は妖怪――水兵のような格好をした舟幽霊とすれ違った。舟幽霊は驚いたように星と藍を見比べていたが、何も言わずに見送るだけだった。彼女もこの寺の僧侶だろうか。一輪とは違って、藍を少し警戒しているようであったが。
表へ出ると、来た時よりも日が傾いていた。風が出てきて、桜の花びらが吹雪のように散っている。
参道の端、命蓮寺の入り口まで歩いたところで、星はぺこりと頭を下げた。

「お気をつけて」
「ありがとう。それじゃあ、星、またいつか」
「はい。藍さんも、お仕事をがんばってください」

星に見送られて、藍は命蓮寺を後にした。
春とはいえ日照時間はまだ短い。じきに日が暮れるだろう。しかしこれから結界の見回りを行うにしても、藍に残された時間は充分過ぎるほどだ。
それにしても、と藍は思う。またいつか、なんて挨拶を自分が交わすことになるとは思わなかった。主を戴く従者。部下を従える主。動物の妖怪。金の髪に金の瞳。共通点は確かにあるが、なぜ星だったのか――と考えて、藍は不意に魔理沙の言葉を思い出す。

「もしかして、星が虎だから、か?」

からかうような魔理沙の態度を思い出して、藍は肩をすくめる。
いつもなら仕事の後の暇をどうやって潰そうか、取り止めもなく考えているところだが、いつか荒屋で出会った妖怪が息災でいると知ったせいか、藍の心は飛ぶように軽かった。



「まさか星にあんな知り合いがいるなんて知らなかったわ。いつの間にあの九尾の妖狐と仲良くなったのよ?」
「知り合いなんてほどじゃないわ。ちょっと昔に、たまたま出会ったってだけよ」

藍が退出した後の命蓮寺で、星は一輪につかまっていた。普段丁寧な口調を一切崩さない星も、気の置けない仲間の前ではやや砕けた話し方になる。
一輪は藍が八雲紫の式神だと知っていた。この地に命蓮寺を構えてから、幻想郷での暮らしに馴染もうとあれこれ情報を集めていたのだ。
説法の中に藍の姿を見た時は驚いたが、一輪の傍らにいた雲山があの妖怪から邪な動機は感じないと言われたので、雲山の言葉を信じることにした。嘘をつかない雲山が言うのだから間違いはないだろう。少なくとも八雲紫の命を受けたスパイではなさそうだ。
動向を伺ってみれば、藍は星を見て驚いていたようだが、人間達と違って星の能力の恩恵に与ろうとせず、聖の説法にも大人しく耳を傾けていた。その藍を、今度は星が追いかけたのである。藍が星と顔見知りと知ってからは、ますます二人がどういう関係なのかと一輪は気になっている。
一方で星はというと、一輪の追及に困惑していた。一輪は星と藍が親しい仲だと思っているようだが、ほんの三年前に一度会っただけの、知り合いと言っていいかすら怪しい関係なのだ。
だが、一度会っただけの相手とはいえ、八雲藍という妖獣の圧倒的な存在感は、星の心に焼きつくには充分だった。
あの日、一目で自分より遥かに格上の妖獣だとわかった。秋風にたなびく稲穂のように揺れる九つの金色の尾に、大陸を思わせる青い装束。きりりとした意志の強い金の瞳。雑草が生い茂り、朽葉が舞う殺風景な辺境の中に際立つ美しい姿だった。恐ろしくなかったといえば嘘になる。けれど彼女に敵意がないのを見て、星も警戒を解いたのだ。
藍にとってはほんの気まぐれか、同情から出た言葉なのかもしれないが、星は藍の激励が嬉しかった。後にナズーリンから藍が幻想郷の賢者の式神だと聞いた時には焦ったが、わざわざ後を追って非礼を詫びるのもかえって相手を煩わせるのではとためらった。

(――でも、まさかまた会えるなんて……)

同じ幻想郷に住んでいれば、会う機会はいくらでもあったのかもしれない。だが、今日のように顔を合わせ、会話をすることになるとは、想像だにしなかった。
再会した藍はあの日と変わらず、鷹揚で、堂々として。己の力を無闇に誇示せず、しかし風格を損なわない。
そんな相手に似ているなんて言われるとは驚きだ。確かに主を思う気持ちはあるが、あまりにも格が違いすぎる、けれど不思議と嫌ではない。

「たまたま、ねぇ。そのわりにはずいぶん機嫌がいいじゃない?」
「そ、そう?」

ぼーっと感慨に耽っていた星を、一輪がにやりとからかうように笑う。そんなにだらしなく頬が緩んでいただろうか。雲山が何事かを一輪に囁いたようだが、一輪はまだ追及を緩めるつもりはなさそうだ。

「うん、珍しく浮かれちゃって。まぁ美人だものね、憧れるのもわからなくないかな」
「だからそんなんじゃないって……」
「そう? 貴方の視線、まるで恋する乙女みたいよ」
「こっ、恋?」

一輪の言葉に頬がわずかに熱を帯びる。
ものの喩えならいろいろあるだろうに、なぜ恋なんて言葉を選んだのか。淫らで邪な懸想を戒める仏の弟子にはあまりにもふさわしくない。藍に対して淡い憧れめいた思いを抱いていることは否定できないが、それは断じて恋愛感情ではない。たった二度会って会話をしただけの相手に抱くはずがない。
一輪は単にからかっているだけなのだろう。星が幻想郷に来てから、特定の誰かと交流を持つのはこれが初めてである。一輪の冗談だとわかってはいるが、こうも面白がられてはたまったものではない。

「からかわないでください! それ以上言うなら、聖に一輪がお酒を飲んだことを告げます!」
「ちょっ! それは言わない約束でしょう!?」

一輪の口を封じる切り札を持ち出せば、一輪は慌てふためく。飲酒は戒律で禁じられているが、この寺には酒好きが多い。呑んべえだらけの幻想郷の空気も相まって、一輪のようについ気が緩んで口にしてしまう者もいるようだ。
星の毅然とした態度を見て、本当に告げ口されかねないと危ぶんだのか、一輪は必死に弁明する。

「郷に入っては郷に従えって言うでしょ、この幻想郷ではお酒がコミュニケーションの一環なのよ。新参者なのに初っ端から肩身が狭くなるのは勘弁したいわ、そう思わない?」
「鶏口となるも牛後となるなかれ。私達は聖の弟子です。本当に従うべきものを間違えたら本末転倒だわ」
「もう、変なとこ生真面目なんだから。……自分だって酔うと大虎になるくせに」
「んなっ!」

痛いところを突かれて、今度は星が慌てる番だった。繰り返すが、この寺には酒好きが多い。星も御多分に漏れない。
そのまま二人は何やってんの、と呆れた様子のムラサが止めに入るまで、軽い口論になった。
外では境内の桜が風に揺れている。真新しい寺の境内に風が運ぶのは、荒れ果てた廃屋に散る朽葉とは真逆の、鮮やかな薄紅の花びらだった。

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