Coolier - 新生・東方創想話

星は藍色の空に輝く【下巻】

2021/10/19 21:42:46
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其の六 「悪夢のはてにみる現」



古寺には、たった一人の妖怪がぽつんと佇んでいた。
かつてこの寺の主だった偉大な僧侶も、彼女を慕う弟子達も、今はここにいない。
時が流れるにつれて、建物のあちこちが朽ちてゆく。救いを求めに来た客が一人また一人去ってゆく。秋を迎えて枯れてゆく木の葉のように色褪せて、忘れられてゆく。
彼女が――聖がいない間、自分が寺を守ると約束したのに、守れない。
どうしてあの時一緒に封じられなかったのか。
自分も妖怪だと言ってしまえばよかったのに。

「なんて顔をしているんですか」

顔を上げると、部下のナズーリンが眉をひそめ、ため息をついていた。

「貴方は尊き毘沙門天様の弟子なんだ。聖白蓮が封印されたとはいえ、相応の働きをしてもらわなければ、私も毘沙門天様に示しがつきませんよ」

ナズーリンの言葉は厳しく、一切の同情を含まない。それが、かえって今の星にはありがたかった。

(そうだ)

星は奮起する。どうせ人間を欺くのなら、自分自身をも欺くべきだ。嘘をつくべからず。わかっているけれど、今は何も明かせないのだ。
かつての彼女のように、慈母の如き優しい笑みで、迷える者に救いの手を差し伸べる。
一方で、毘沙門天の代理として、常に堂々たる振る舞いを見せ、威厳を保ち、悪しき心を罰する。
だけど、私は。私は――。



「星?」

気がつくと、ムラサが心配そうに星の顔を覗き込んでいた。

「大丈夫? 顔色悪いよ」
「……そう?」

我に返った星は、笑顔を浮かべてムラサの心配をやんわり否定する。
いけない、と星は己を戒める。久方ぶりに昔の夢を見たせいだろうか、朝から調子が優れないのは。あの頃の――聖と仲間達が封印され、たった一人で寺を守っていた頃の悪夢は、しばらく見ていなかったというのに。
あの頃のナズーリンは、わざと厳しいことばかり言って星を奮い立たせようとしていた。それが不器用な彼女なりの優しさだと、今の星にはよく理解できる。
聖がいなくなって、ムラサも一輪も雲山もいなくなって、星が縋れるのは聖と交わした約束だけだった。毘沙門天の弟子を辞め寺を出て皆の下へ行けないなら、せめて聖にもらった役目を全うしようとしていた。

「つい、夜更かしをしすぎたの。ちょっと寝不足なだけ」
「らしくないなぁ」

下手な言い訳をする星を、ムラサは訝しむように見つめる。

「私の思い過ごしならいいけど、心が乱れているように見えるのよ。無理してない? 星は取り繕うのが得意だから心配だわ」

星は言葉が出なかった。さすがに仲間の前では通用しないものもあるか。それでもあの頃の出来事は、ムラサ達には決して言うまいと決め込んでいる。あの時、自分で寺に残ると星は決めたのだ。今はもう聖も戻ってきて、過去のことになったのだから、今更蒸し返してムラサ達を心配させたくなかった。

「まあ、言いたくないなら無理にとは言わないけどね」

答えに困っている星を見かねて、ムラサはそれ以上の追及はしなかった。星は内心安堵して、気持ちを切り替えようと明るく言った。

「さぁ、今日もお勤めを始めましょう」

夢はあくまでも夢でしかない。星の現は、聖とムラサ達のいる今だ。
そして星はまた、過去の記憶を奥の奥へと封じ込める。決して開かれることのないように、放たれることのないように、厳重に封をして。それがまるで災いを閉じ込めたパンドラの箱であるかのように。



その頃、藍もまた鬱々とした気分で仕事に取り掛かっていた。昨年の宗教戦争や小人と天邪鬼による下剋上も落ち着き、天邪鬼の反乱も治ったところで、季節は秋を迎える。紅葉の美しい野山で、藍は結界の見回りをしていた。

「あまり思い出したくないんだがなあ」

誰もいないのをいいことに、藍はため息をつく。
昨夜、藍は夢を見ていた。遠い昔の、藍すら忘れかけていた、紫と出会う前の記憶である。
藍にとって、夢はただの夢と割り切ることができない。というのも、主である紫が夢と現の境すら簡単にいじってしまう反則的な能力の持ち主だからだろう。紫は時折夢の世界へ顔を出すようだが、それは比喩でも何でもなく、夢の世界に居座ることができるのだ。

『夢の世界とはどんな場所なんですか?』

前に藍はそう尋ねたことがあったが、紫はただ胡散臭い笑みを浮かべるばかりであった。

「夢の世界は、現実世界の吉夢や悪夢と関係するのか……考えたって仕方ないか」

紫が夢の世界に干渉できるように、夢の世界は現実の世界に干渉してくるのか。紫は何も教えてくれないし、考えても詮ないことである。
藍はただ淡々と日々の仕事をこなす。何か別のことに没頭していないと、意識を昨夜の夢に引っ張られてしまいそうなのだ。
藍が記憶の彼方に追いやった記憶。
藍がまだ“八雲藍”ではなかった頃。
九つの尾を得るまで力をつけた妖狐は、かつて大陸の各国を転々とし、絶世の美女に化け、王を誑かし国を傾けた。名は妲己とも華陽夫人とも褒姒(ほうじ)とも呼ばれた。それらすべては本名ではないし、名前などどうでもよかった。
力を持て余し、妖狐は退屈であった。暇と暇の隙間を埋めようと、人間の恋愛の真似事をした。
家柄を偽るのは言わずもがな、男の矜持を傷つけない程度に教養をひけらかし、しなを作り、媚態を見せ、精神も肉体も籠絡する。
たった一人の女にいとも容易く崩れ落ちる男。たった一人の女に寵愛を奪われたと憎み、嫉妬する数多の后。それらすべてを、妖狐は一笑に付した。
所詮、人間など百年と生きられぬ儚い命。その刹那で繰り広げられる惚れた腫れたの愛憎劇の、なんと拙く陳腐なものよ。
仮初の愛に惑わされ、『あなただけ』などと嘯いて、数多の女の嫉みを背負う不誠実な男の愚かしさ。その程度の男とわかっていながら、自らの誇りと一族の命運のために愛を乞い続ける女の浅はかさ。
国を傾け、正体がばれればまた別の国へ赴き、別の王へ取り入り、けれど妖狐は、

――上のご寵愛を独り占めしているというのに、ずいぶんつまらなさそうな顔をしているのですね?

「だから、昔のことなんてどうでもいいんだってば」

藍は靄のごとくまとわりつく記憶を振り払うように頭を振る。例えるなら、紫と出会う前は、藍は色のない世界に生きていた。
紫と出会って、式神となって、“八雲藍”という名を与えられて、初めて藍の世界は色づいたのだ。
見たことのない幻想の世界。人間に忘れ去られ、力を失った妖怪達のための楽園を紫は作り上げた。決して自由奔放な無法地帯ではない、本能のままに人間を食べ尽くしてもいけない、けれどこの結界に閉ざされた世界でなら、妖怪は羽を伸ばして生き生きと暮らしてゆけるのだ。

『ごらんなさい。何と美しく、残酷な景色なんでしょう』

いつだったか、愛おしい我が子を抱きしめるように、幻想郷を見下ろして紫が言った。
藍もまた紫が最も愛する美しいものに惹かれていった。紫の理想のためなら、己が身を投じてもいいと思うほどに、思い入れを抱いていた。
けれど、藍が最も美しいと思うのは――この世界を見下ろす紫の横顔であった。
だから紫に無理難題を振られたってかまわない。この身が紫にとって代えのきく何かに過ぎなくてもよかった。

『藍、貴方の名前の意味は?』

昨年の夏、紫に問われたことを思い出して、藍はため息をつく。

「考えを放棄するなと、貴方はおっしゃるのですね」

紫は藍に何を求めているのだろう。いついかなる時も自分の命令に従えばいいと言うくせに、時折式神の手に負えない難題を与えてくる。期待に応えてみせろと高らかに笑いかける。
藍はまだ答えを見つけられない。紫のそばにいる者、それだけでは駄目だというなら、いったい何が正解なのか?
結局、ぐるぐると考え続けているうちに、仕事は予定より早く終わってしまった。最短距離を導き出す式神にも、能天気な気質の妖獣にも長考は得意でないが、この問いばかりはいつもみたく悩んだって仕方ない、とは割り切れない。それでも今は保留とすべきだろう。

「さて、どうしようかな」

紅く色づいた山並みを見下ろして、藍は暇つぶしの方法を模索する。
秋も深まり、幻想郷の木々は緑から鮮やかな赤に染まっている。特に妖怪の山は毎年ながら紅葉が美しい。紅葉狩り、といっても一人じゃ味気ない。

「――あ、そうだ」

星を誘ってみよう、と藍は真っ先に思いついた。
ひょんなことから知り合って、はや数年の付き合いになる。互いの仕事の暇な時を狙って、藍は星と出かけに誘いを持ちかけている。

「私の式神を……たまには橙に頼んでみるかな」

藍はさっそくマヨヒガを根城とする橙に連絡を取る術を考えている。
藍の頭から、昨夜の夢のことはすっかり消えていた。



『いやぁ、あの尼、まさか妖怪の手先だったとはな』
『徳の高い僧侶ぶっておいて、よくもたぶらかしてくれたものだ』
『しょせん女の発心なんてその程度さ』
『偽善者めが』
『手下の妖怪どもも封印してこれできれいさっぱり治った』
『しかし、あの寺に毘沙門天が残っていたのだけは僥倖だな』
『おお、地獄に仏とはこのことか』
『聞けば財宝を集めてくれるそうじゃないか』
『縁起がいいねぇ。ちょっくら拝んでみるか』

――誰も彼も、聖の真を知ろうともしないくせに。

我を救いたまえ。
我を導きたまえ。
ええ聞き届けましょう。
救って差し上げましょう。
この偶像に価値があるというなら縋りつけばいい。
――私は毘沙門天なんかじゃない。
寅丸星は毘沙門天なんかじゃない。
誰にも信頼されない嘘つきの張り子の虎だ。
財宝も借り物の力に過ぎない。
誰も救えない。
何も守れない。
大切な人と交わした約束も果たせない。

『やっぱり星じゃ駄目だったのよ』――そうね、ムラサ。私には荷が重すぎた。
『もしかして、本当に聖様を見捨てるつもりだったの?』――違う、一輪、それだけは絶対にありえない。雲山だってわかるでしょう?
『貴方にはもう付き合いきれませんよ。毘沙門天様に報告して、私もお暇させていただこう』――ナズーリン、貴方も去ってゆくの。それじゃあ私、本当に一人に……。

朽ちてゆく。
崩れてゆく。
寺だったものが見るも無惨な姿に変わり果ててゆく。
もしあの時正体を明かしていれば?
もしあの時私もみんなと一緒にいると言えば?
どうして自分なんかが聖の代わりを務められると思い上がっていたのだ?
その結果がこの有様か?
すべての問いかけは意味をなさない。
気づくのが遅すぎたのだ。
後悔も懺悔も誰にも聞き届けられない。
だとしたら私は何のために生きているのだ?
私の生きる意味とはどこにあるのだ?
わからない。
何もかも。
何もかも!

『星……』

聖! 聖はわかってくれますよね?
私の思いも、私なりに最善を尽くしたことも、わかってくれますよね?

『いいの、何も言わなくても』

聖、それじゃあ……。

『――貴方なんかを信じた私が間違っていたのよ』




「――っ!!」

弾かれるように飛び起きて、星は全身が汗でじっとりと濡れているのに気づいた。
ここは夢か? 現実か?
畳も障子も清潔で手入れが行き届いている。布団もボロ切れではなく秋の肌寒さを凌げる厚みと柔らかさがある。
部屋の隅に、蓮の花を模した髪飾りが飾られている。
――藍がいつか贈ってくれたものだ。そこまで確認して、星はようやくここが現実の世界であると判断できた。

「また……」

星は布団を握りしめて項垂れる。
一体、何度この悪夢を繰り返し見ることになるのだろう。逃げるな、目を逸らすな、と自分の心の傷跡をかきむしられるようで、星は胸に強く手を押し当てる。
悪夢は決まって聖が封印されてからの千年の空白だが、日毎に悪夢の内容はその色相を変える。
数百年が過ぎて、心がほとんど何も感じなくなった一人きりの日。
五百年を数える頃の、荒れ果てた寺に己の無力さを痛感した日。
百年以上経って、仲間達は死んでしまってはいないだろうかと不安に駆られた日。
数十年と経たない、聖達のことなどまるで何もなかったかのように装って毘沙門天の代理を勤め続ける日。
今日の悪夢は特にひどかったと、星は眉間にしわを寄せる。仲間達は一度だってあんな風に星を責め立てたりしなかった。むしろ星を気遣い、取り残してすまなかったと詫びるくらいだ。

「……いつまでも、逃げては、駄目……」

自分自身に言い聞かせるように、そっとつぶやく。このままでは、星は大切な仲間達を悪者に仕立て上げてしまう。自分は悪くない、彼女達のせいだと保身に走るために。
最初は、逃げるつもりなんてなかった。修行とは、己の心を見つめることだ。聖輦船に乗って聖を助け出して、命蓮寺を構えて落ち着いた頃、星は己の過去を清算するべく忌まわしい記憶を見つめ直そうとした。
ところが、命蓮寺の地下には神子の眠る霊廟があり、彼女の復活を阻止できるか、復活した際にどのように立ち向かうべきか……命蓮寺に問題が降りかかってきた。それらの対処に追われるうちに、星の過去の清算は曖昧に終わってしまった。
そのつけが今になって牙を剥いたというのか。宗教家として、迷える者達の先頭に立って導く者なら、己の心から目を逸らすなど言語道断だと。
星の背筋に悪寒が走った。悪夢の不安に苛まれるゆえでもあるが、汗でじっとり濡れた寝巻きが、夜明け前の冷たい空気によって冷やされ、星の体温を奪ってゆくのだ。

「着替えないと……」

星はのそのそと布団から起き上がり、普段通りの、偶像の毘沙門天を模した赤と白と虎柄の衣装に着替えてゆく。日々のお勤めはまだ暗い早朝から始まるのだ。いつまでも重たい気持ちを引きずってなどいられない。
最後に鏡で軽く寝癖を整えたところで、星の視界に、机の上に置きっぱなしだった手紙が映る。

「あ……」

昨日、橙が星の部屋をじかに訪ねて持ってきたものだ。橙は気まぐれな性格だが、時折藍と星の橋渡しのために使いとなってやってくる。
――猫の里で、紅葉を見ないか。手紙には、いつもの藍の精密かつ流麗な文字でそうしたためられていた。
手紙を受け取った時、星は藍の誘いを受け入れるかしばし迷った。忙しいのではなく、ここ数日の悪夢に苛まれて気分が優れなかったからだ。
けれど、橙の、

『藍様、楽しみにしてますよ。星さんといる時の藍様、紫様といる時とはちょっと違うんですけど、楽しそうなんです』

という無邪気な言葉に、星は言いようのない喜びを覚えて、承諾の返事を書いて橙に渡したのだった。
藍といれば、気分が晴れるかもしれない。藍と交流を重ねて、友達となって、お互いのことを知ってゆくたびに、星の心は温かな気持ちで満たされるのだ。
星は気を取り直して、自室の襖に手をかける。まずは、自分に課せられた役目を果たすこと。精神を乱さぬよう、修行を積み重ねてゆけば、悪夢に苛まれることもなくなるだろう。

「おはよーございまーす!」

目を覚ましたのであろう、響子の元気な挨拶が遠くから飛んでくる。星はいつ誰とすれ違ってもいいように、襟を正す。悪夢の名残を悟られないよう、気を引き締めて、星は忌まわしい記憶を心の奥底へと押し込めた。



約束の日、藍に案内されて、星はいつか辿った山道を飛んでいた。辺りは見渡す限り紅葉の赤色に染まっていて、錦を広げたかのようである。

「どこもかしこも真っ赤ですね」
「秋になると、秋の神様が手ずから一枚一枚赤く塗っていくからね」
「あ、聞いたことあります。なかなか地道で大変そうですね」

秋の神が一枚ずつ、丁寧に葉の色を塗り替えてゆく姿を想像して、星はそっと彼女の苦悩を偲んだ。

「そう考えると、少し寂しい気持ちになってきます」
「……星も、秋になると感傷的な気分になるの?」
「え?」

道の途中で藍が立ち止まる。藍は心配そうに星を見つめていた。

「私の思い過ごしならいいんだけどね。お寺を訪ねた時から、星が元気ないように見えたんだ」
「……それは」

どきりと心臓が跳ねる。この数日、命蓮寺の仲間にも幾度となく体調を気遣う言葉をかけられてきた。何でもない、少し気分が優れないだけだと言い訳してきたが、藍にもごまかせなくなってきているのか。
心づくしの秋だから、なんて季節にかこつけてお茶を濁すつもりにはなれなかったので、星は首を振って、笑顔を浮かべる。

「平気です。ここのところ、仕事が立て込んでいて。だけど、外に出て気晴らしになりましたから」
「……それなら、いいんだけど」

藍はきっと星の笑顔が作り物だと気づいている。けれど無闇に踏み込んだりはしないと、星は藍の良心に甘えていた。
藍はそれ以上話を掘り下げることなく、先へ行こうと星の手を引いた。
少し胸が痛む。嘘をつくようで申し訳なくて、それでも藍に何もかもを打ち明けることはできない。藍は信頼しているけれど、この重く暗く澱んだ記憶を明かす勇気が、今の星にはなかった。

「あっ、来た来た! おーい、藍様ー! 星さーん!」
「っと、ほら、もう目と鼻の先だ。橙のやつ、えらく元気だなぁ」

進み続けて、山奥に廃村が見えてきた。橙がしもべにしようと躍起になっている、猫達がたくさん住む猫の里だ。
里の中央で、橙が大きく手を振っている。辺りには数匹の猫が、来客の気配を察してうろついていた。

「藍様いらっしゃい! 星さんも!」
「っこら、飛びつくんじゃない。……お前達も元気そうだね……って」
「あ、あの、私はマタタビなんて持ってませんよ?」
「わー、星さんキャットタワーみたい」

里につくなり橙は勢いよく藍の胸に飛び込み、猫達はわらわらと星に群がる。中には星の肩までよじ登ってくる者もいて、星は困惑した。

「すっかり懐かれたね、星」
「うらやましいです。私の言うことはちっとも聞いてくれないのに」
「誰かさんと同じで気まぐれなんだよ」
「あ、私のこと言ってますね?」

口を尖らせる橙を、藍は軽くたしなめる。星が虎の妖怪だからか、猫達の勢いはすさまじい。甘えた声で鳴き、ゴロゴロと喉を鳴らしたり、体を擦りつけたり、星は何とかしゃがんで肩によじ登ってきた虎猫を地面に下ろした。

「はあ、びっくりした。なんというか、いつもより活きがいいですね」
「ここの猫達はどういうわけか秋になると元気になるんだ。普通は春じゃないか?」

肩をすくめる藍に、星は思わずくすりと笑う。春は恋の季節だから、と言いたいのだろう。けれど木の葉の舞い散る中に佇む猫というのも趣があっていい。腹を上にして甘えてくる猫を、星はそっと撫でる。
特別猫が好きというわけではないけれど、熱烈な歓迎を受けて、燻っていた気持ちが紛れた。

「ここの猫達は、春より秋に心を寄せているのですね」
「さて、猫に春秋論争なんてわかるかな」
「あっ、ひどい、藍様! 私はわかりますよ」

橙が怒った顔をして飛び出してきた。

「それじゃあ、橙は春と秋、どっちが好き?」
「秋ですよ。春はちょっとあったかすぎるっていうか、人間も植物も、周りが元気すぎて疲れちゃうんですよね」

風情もあわれも知ったこっちゃない、と言わんばかりの率直な物言いに、藍も星も思わず苦笑した。やはり意味はわかっていないようだが、橙らしくて微笑ましい。

「そういう藍様はどっちが好きなんですか?」
「そんなの簡単には決められないな。春の桜、秋の紅葉、どちらも美しく甲乙つけがたい。それでも強いて言うなら、私は春かな」
「それは何故です?」

星が尋ねると、藍は優しく目を細めて、紅葉の赤と空の青のコントラストが映える景色を見上げていた。

「紫様が、長き冬眠からお目覚めになる季節だからだよ」

藍の白く透き通った頬に、紅葉のようなほんのりとした赤色が浮かぶ。いや、この場合は淡い桜色のような、と表現するべきなのだろうか。
星は息を呑む。何があっても揺らぐことのない、藍にとっての一番大切なもの。紫を思う時の藍の面差しは、やはりどんな時よりも美しくて――星は目が離せなかった。

「私も」

衝動的に、星は声を上げていた。
紫を思う藍の姿を見て、星の脳裏に浮かんだのは、同じように星が最も大切に思う聖のことだった。
星にとっての春は、再会の季節だ。雪の残る初春に、地底に封印されていたはずのムラサ達がやってきた。決意を新たに聖輦船に乗り込んで、共に聖を助け出した、喜ばしい季節なのだ。

「私も、春が好きです。ムラサ達と再会できて、一緒に聖を救うことができた春が好きなんです」

――その封印を解けぬまま、仲間達を見捨てたまま、数えきれない墨染の春を過ごしたのは誰だったか。
ずきりと走った胸の痛みには、気づかないふりをした。
星の答えに、橙が不満げな顔をする。

「えー? 二対一で私が負けるんですか? 春秋論争ってだいたい秋が勝つのに」
「それじゃあここの猫達に秋の良さを説いてごらんよ」
「聞いてくれるかな……あっ、こら! 威嚇しないの!」

橙が機嫌よく寝そべっていた猫に手を出すと、たちまち猫は毛を逆立てて唸り声を上げる。しもべになるまで手懐けるにはまだ時間がかかりそうだ。藍は橙の様子に呆れつつ、けれど微笑ましげに見守っている。

「星も春が好きなのか。貴方は聖に一途だね」
「藍こそ、本当に紫さんのことが好きなんですね」
「私にとって、最も尊い、大切なお方だからね」

藍は右手を高く挙げて、手のひらを空に広げた。あの空の向こうに、藍は紫の姿を見つめているのか。

「あの方の力が私を強くする。あの方が生み出す方程式(オーダー)一つ一つが、私というものを作り上げる。私以上に数字に強い、手の届かないお方だ」

藍はそっと手のひらを握りしめる。決して手の届かないものに、それでも手を伸ばさずにはいられないのは、藍がそれだけ紫に焦がれているからだ。追いつきたい、せめて影だけでも踏みたいと、どこまでも追従する姿は、星に負けず一途で純粋なものだ。

「紫さんの命令が藍に力をくれるのですか?」
「紫様の方程式で、命令通りに動く限り、私は紫様と同等の力を発揮できる。それはつまり、私が紫様に近づけるということなんだ」
「……命令通りに動くのが、苦じゃないんですね」
「私はね。橙は窮屈みたいだけど」

藍は振り向いて、屈託のない笑みを浮かべた。その笑顔があまりにも眩しくて、星は真っ向から見ていられなかった。
藍に対して込み上げた衝動は、憧憬なんて綺麗なものではなかった。式神は、藍の行動を制限する代わりに、絶大な力を与える。藍は紫の命令に逆らわない。それはつまり、何があっても、藍は主人である紫を裏切らないということだ。
心の傷跡が再び疼き出す。黒い靄が星の心に覆い被さる。たった一度とはいえ、恩人を見捨ててしまった星にはそれが妬ましいほど、羨ましくて。
――だから、つい、口を滑らせてしまった。

「……いっそ、私も式神だったら。何も考えず、ただ聖の命令に従っていれば、楽だったんでしょうね」

自嘲するように、投げやりにつぶやいた星は、藍の空気が凍りついたのにしばらく気づかなかった。
不意に、猫達が蜘蛛の子を散らしたように逃げ出す。橙までもが怯えて物陰に隠れるのを見た時、星はようやく藍の様子に気づいて、言葉を失った。
藍の九つの尾がゆらりと逆立ち、脈打つように揺れている。全身から怒りがほとばしり、その横顔からは一切の感情が消え失せていた。先ほどまで優しく細められていた金の瞳が、冷たく鋭く尖る。氷のように冷え切った目は、決して星を映さない。
星が取り返しのつかない、とんでもない失言をしたのだと思い知るには充分だった。

「あ、あの、藍」
「星、ごめん」

しどろもどろに呼びかけると、刃のような声が飛んできて、びくりと震える。
ごめん、なんて、それは星が言わなければならない台詞なのに。どうして藍が謝るのか。

「それ以上何も言わないで。……貴方がそんなことを言うとは思わなかった」

さあっと、全身の血の気が引いた。冷たい声と、わずかな失望の滲んだ言葉から感じられるのは、拒絶だ。星から発せられる一切の言い訳も謝罪も受け付けないという堅固な姿勢だった。

「私は今、星に何を口走ってしまうかわからない……ごめん」

藍は最後まで星の顔を見ずに、紅葉の舞い散る空に飛び立った。藍の姿がどんどん小さくなって、消えてしまっても、星は動くことができなかった。

「こ、こ、怖かったぁ……」

物陰から、恐る恐る橙が顔を出した。冷や汗に濡れた額を拭いながら、藍の気配がどこにもないのを確認して、ほっとため息をつく。

「久しぶりに見ました。藍様があんなに怒ってるの」

橙は呆然と立ち尽くす星を、気遣わしげに見つめてくる。

「星さん、大丈夫?」

大丈夫、と答えられなかった。紅葉を見に来たことだとか、藍が帰ってしまったことだとか、そんなのはどうでもよくて、後悔ばかりが星に襲いかかってくる。これ以上この場にいたくない。心配そうな橙の顔を見ていられなかった。

「橙ちゃん、騒がしくしてしまってごめんなさい。私も帰りますね」
「……藍様を追いかけないんですか?」
「……今の藍は、私の顔も見たくないんだと思います」

せめて橙を少しでも安心させようと微笑みを浮かべたが、形になっていたかどうかわからない。
星は逃げるように猫の里を後にした。向かい風が容赦なく星の体温を奪ってゆく。
藍の冷たい横顔が目に焼き付いて離れない。昨年の夏、藍がマミゾウと確執を起こした際に見せたものよりも強く、冷たい怒りだった。
そうだ、あの時、星は『藍は心から紫を慕っている』と明言したのではなかったか。藍の心が作られたものでないと、紫を思う気持ちがどんなに尊く大切なものなのか、わかっているつもりだったのに。

(私、は……っ!)

藍の一番大事なものを傷つけた。藍が最も大切に思う、紫への思慕を踏み躙った。
日が暮れて、気温が一段と下がる。はらはらと舞い散る紅葉が、寂しげに見えた。
苦しくて悲しくてたまらないのは、秋の侘しさのせいなんかではなかった。



今までだって何度となく己の過去を見つめようとした。けれど取り繕うのばかりがうまくなって、星は嘘つきになってしまった。
そうして、悪夢のような記憶と向き合うのを避けてしまった。
未熟だ。心を無にするとは、過去を忘れて消し去ることでも捨てることでもないのに。

「星、聖が呼んでるよ。……どうしたの、明かりもつけないで」

帰ってきてから部屋の中で一人蹲っていた星に、ムラサがそっと寄り添う。気がつけばすっかり日が沈んで、部屋の中は真っ暗だった。ムラサが明かりをつけると、眩しさが目に染みた。

「大丈夫、じゃなさそうね。具合が悪いんなら、私から聖に言っておくよ」
「いえ、大丈夫です。聖からお話ですか? すぐ行きます」
「待って。もしかして、星、藍さんと喧嘩した?」

立ち上がろうとした星を制して、ムラサが問いかける。星は驚いてムラサの顔を見つめた。どうして、と問うまでもなく、ムラサが苦笑して答えた。

「今の星、ぬえと喧嘩した時の私に似てるから。それに、行きがけは楽しそうだった星がこんな風になってたら、誰だって予想はつくよ」

ムラサは優しく星の背中を撫でる。ムラサはよく周りを見ている。未だに命蓮寺に馴染みきれないぬえのことも、誰よりも気遣っていて仲がいい。
何も言わないつもりだったが、ムラサの手のひらから伝わるぬくもりに耐えかねて、星はぽつりと話した。

「私のせいです。私、藍のことをわかっていたつもりで、全然わかってなくて。……傷つけてしまいました」

まるで懺悔のようだ、と言葉にしてから気づく。
思えば、藍が星と自分はどこか似ていると言ったのが、この関係の始まりだった。星が聖を思う気持ちと、藍が紫を思う気持ちに共感を抱いて、相手のことをもっと知りたいと思って、関係を積み重ねてきた。
けれど、藍と星は違うのだ。どんなに似ている点があっても、互いの主人に対する思いの形も、過ごした歳月も異なる。……それをわかっていなかったのだと、今更のように突きつけられた。

「相手のことをすべてわかるなんて、それこそサトリ妖怪でもなきゃ無理な話よ。どんなに修行を積んでも、人の悩みを聞いても、ようやく感情の機微がわかるかどうかってところじゃないの?」

ムラサは少し難しい顔をして、諫めるように言った。ここで十の欲を知る神子を引き合いに出さなかったのは、ムラサなりの商売敵に対する意地だろうか。
ムラサの青みがかった瞳が、星をまっすぐに見つめていた。

「だから会話が必要なの。自分の気持ちを言葉にすることと、相手の話を聞くことがね。星も一輪も、ぬえをとっつきにくいと思ってるみたいだけど、ちゃんと向き合えばぬえとだってうまくやれるわ」

そう言ってムラサはいたずらっぽく笑った。ぬえとの曖昧な距離を突かれたようで、星は少し決まり悪く思う。
けれどムラサの言うことももっともだ。世の中、目と目が合えば言葉がなくとも心を通わせるような間柄もあるのだろうが、藍とはまだそんな関係になれない。
あの時、藍から拒絶を感じて立ち止まってしまったけれど、もっと話したいことがある。そのためには、きちんと謝らなければ……そう考えていた星の肩に、ムラサが寄りかかる。

「ちょっとは私達のことも頼ってよ。星は真面目で、なんでも一人で抱え込んでしまうから心配よ」
「……そうかしら」
「そうよ。怒ったり笑ったりはしても、弱みは見せてくれないでしょう。宝塔失くしたって黙ってたのは誰?」

拗ねた口ぶりに星は口ごもる。今更それを蒸し返すのか、なんてとても言えない。

「私達、そんなことで星を責めないよ。素直に言ってくれたら、私も一輪も雲山も宝塔探しに協力できたのに」

星は無言でうつむいた。心配かけまいと思っての行動が、かえってムラサ達に心配をかけさせてしまった。
ムラサは睨むような眼差しで星を見つめて、真剣に言い聞かせる。

「いい? 一人で抱え込むのは駄目。星はもう一人じゃないんだから。聖もいる。私も、一輪も雲山も、ナズーリンも、響子も、ぬえもマミゾウさんもいる。今回は喧嘩しちゃったけど、藍さんにしか話せないことだってあるんでしょう?」

そこでムラサの口から藍の名前が挙がるとは思っていなくて、星は目を瞬く。

「藍のこと、もう警戒してないのね」
「あのね、あれから何年経つと思ってるの。さすがにもうわかるわよ、危ないことは何もないって」

かつて藍の後ろにスキマ妖怪の影を見ていたのを思い出してか、ムラサは肩をすくめる。
ともあれ、ムラサからの励ましは嬉しかった。もしかしたら、一輪達も同じように、星の方から悩みを打ち明けてくれるのを待っているのかもしれない。抱え込み癖はいい加減に治そうと、素直に反省した。

「ありがとう、ムラサ。心配かけてごめんなさい」
「うん、少しはましな顔になったわね。聖のところに行ったら? 聖は私よりいい助言をしてくれると思うよ」
「……ええ」

ムラサに背を押されて、星は聖の自室へと向かった。この分だと、聖にもたくさん心配をかけてしまったに違いない。
聖に悪夢について打ち明けるのは怖い。けれど後悔だけはもうしたくなくて、歩みを進めた。

「聖、失礼します」

声をかけてから襖を開けると、聖は静かに座っていた。

「星。……やっぱり、いつもより顔色が悪いわね。でも、いくらか前を向けるようになっているかしら」

聖は星の顔を見るなり、おっとり語りかけた。さすがに聖の見立ては的確だ。促されるまま、星は聖の正面に向かい合って座る。星は心を決めて、重たい口を開いた。

「私は修行が足りません。過去の苦しみから逃げようとしてしまうんです」

自然と拳に力が入る。膝の上で震える星の拳を一瞥して、聖は優しく目を細めた。

「誰しもつらいこと、苦しいことからは目を背けたり、逃げ出したりしたくなるのですよ。……私の弟が死んだ時のように」

聖の視線の先に、聖の弟、命蓮を供養する仏壇があって、星は聖もまたかつて絶望の底に突き落とされたのを思い出す。
命蓮が死んでから、聖が再び立ち上がるまでに何があったのか、星は聖の話でしか知らない。険しく苦しい道だったはずだ。それでも前を向いて、迷える者に救いの手を差し伸べる姿に、星は聖の強さを改めて思い知る。

「悲しみや苦しみを無理に否定する必要はありません。ありのままのあなたの心なのですから。だけど、つらいことからいつまでも目を逸らし続けてはいけないわ。どんなに苦しくても、真っ向から向かい合って、直視して、生きて行かなければならないの。わかっているでしょう?」

聖の声音はどこまでも優しく、けれど力強い響きがあった。現実は厳しく見るに耐えない。けれど夢に逃げようとすればたちまち悪夢に捕まってしまう。現に足をつけて生きよと、諭されているようだった。
無言で唇を噛み締める星に、聖はそっと肩に手を置き、「まずは認めることからね」と言った。

「星。私に遠慮なんてしなくていいの。つらかった、苦しかったって、正直に嘆いてもいいの」
「聖……ですが……」
「吐き出す方がつらいこともあるでしょうね。けれど、このままでは重みに耐えきれず貴方が潰れてしまうわ」

聖の手が優しく星の頭から背中を撫でる。じわじわと目頭が熱くなって、星はぐっと堪える。
きっと、聖は言葉通りすべてを受け止めてくれる。たとえ罵詈雑言でも、恨みと呪詛にまみれた文句でも、黙って慈母のごとく菩薩のごとく受け入れてくれる。
星は口を開いては、声にならない声を上げて、再び閉じる。
――だからこそ、聖には言えない。聖を責め立てたり、傷つける言葉を伝えたりなどできない。

「……言えません」

歯を食いしばって、涙を堪えて告げた。

「聖にだけは、そんなこと、絶対にできません……!」

聖が傷つくぐらいなら、自分が潰れた方がましだ。自らの選択の結果なのに、聖に甘えて寄りかかることはできない。

「星……」

聖は震える星の体を撫で続け、悲しそうに眉を下げた。
今にも泣きそうな顔をして、それでも懸命に涙を堪える弟子の姿に、聖はゆったりと微笑みかけた。

「そう……。なら、貴方の思いを受け止めてくれる人は、他にいるのね」

一瞬、星の体の震えが止まった。
星の思いを受け止めてくれるかもしれない人。同じ思いを共有して、お互いにわかってくれると信じた相手など、一人しか浮かばない。けれど、その相手は……藍は。

「……私はその人を傷つけました」
「自らの過ちを認めているのなら、謝らなければいけないわ」

意気消沈する星に、聖は肩をつかんで言い聞かせる。

「許すかどうかは、相手が決めることだけど、あなたの誠意をきちんと示すのよ。そうして、相手にも自分にもしっかり向き合いなさい」

逃げるな、と、念を押すように聖は厳しく言葉をかける。星が呆然としていると、聖は星の目を見て、にっこり微笑んだ。

「星、貴方なら大丈夫。信じているわ」
「……っ!」

星は息を呑んだ。それは、かつて毘沙門天の代理にと推薦された時の言葉とまったく同じだった。同時に、正反対の『信じたのが間違いだった』という悪夢の言葉を思い出す。
あの悪夢に出てきた仲間達の言葉がすべて嘘偽りだと、己の弱さが生み出す幻だとようやく割り切ることができた。

(私は……)

向き合わなければならない。自分の過去に、弱さゆえに傷つけてしまった大切な友達に。これだけ背を押してもらったのに、何もせずに立ち尽くすなど、それこそ後悔が増えるだけだ。

「聖、すみません、少しお寺を留守にします!」
「ええ……いってらっしゃい」

弾かれたように立ち上がると、聖は笑って見送ってくれた。急いで自室に蜻蛉返りし、必要な身支度だけを済ませて星は命蓮寺を飛び出した。

「藍に……藍に、謝らないと」

空はすっかり暗くなっている。今から山道を登れるだろうかと考えて、星ははたと気づく。
自分はどこへ向かおうとしていたのか。猫の里に、また藍が戻ってきている保証などない。
いや、星は藍がいつもどこにいるのか知らないのだ。
藍は毎日結界を見回るため、あちこちに赴くと言っていた。そして藍の暮らす家、すなわち八雲紫の屋敷は、さすがに教えられないと困った顔で断られてしまった。

「……本当に私、藍のこと、全然知らなかったのね」

ブレーキをかけられたように勢いを失った星は、力なく自嘲する。

「だけど……落ち込むのはもうたくさんでしょう?」

皆に後押ししてもらって、このまま帰りたくなんかない。
ならば、と星は目的を一つに定めた。闇雲に探し回っても、夜が更けて紫の活動時間になれば、もう今日は藍に会えないかもしれない。今日を逃して、問題を先延ばしにしたくなかった。
星に見つけられないなら、探してもらうしかない。探し物が得意な妖怪を、星はよく知っている。

「ナズーリン!」

弔う縁者のいない墓を集めた無縁塚。その近くに住む部下の名前を、星は声高に叫んだ。
すぐさま小屋の中から、ナズーリンがしもべの鼠を連れて現れた。突然の主人の訪問に驚いている様子だった。

「どうしたんですか、ご主人様。わざわざ足を運ばずとも、使いをよこせばいいものを……」
「ナズーリン、お願いがあるの」

星は懐から、道中でしたためていた手紙をナズーリンに渡した。

「この手紙を藍に届けて」

星が差し出した手紙を、ナズーリンは星の顔と交互に見比べている。星は多くを説明しない。伝えたいのは、藍を探してほしいという頼みだけだ。
ナズーリンは気迫のこもった主人の表情から何かを察してか、ふっとため息をついて、手紙を懐に仕舞い込んだ。

「わかりましたよ。探し物なら私の右に出る者はいない」
「ありがとう」
「ところでご主人様」

ナズーリンはじっと星を見上げている。手紙の理由を尋ねるでもなく、ナズーリンは淡々と告げた。

「お節介ですけどね。今回みたく、貴方は私に限らず、もっと周りを頼っていいんじゃないですかね」

星は呆気に取られた。しばらくナズーリンには会っていなかったし、無論悪夢のことだって話していない。けれど目の前の小さな賢将は、言葉にせずとも星の抱えるものを悟ったらしい。

「何ですか、その顔は」
「ううん。さっきムラサと聖にも同じことを言われたばかりなの」

訝しげな眼差しをよこすナズーリンに、星は目線を合わせて微笑みかけた。

「ねぇ、ナズーリン。あの頃の私達は二人ぼっちだったわね」

ナズーリンは赤い目を瞬き、大きな耳をぴくぴく動かす。

「二人ぼっち、ですか?」
「ええ。二人きりじゃなくてね。一緒にいるのに、まったく違う方向を向いていた。だから視線がぜんぜん交わらなかったのよ」

たった一人で聖の代わりに救いを求める者達の寄る辺となると決めたあの日から、星はただお寺を守るという聖との約束を果たすため、自分の心を封じて“毘沙門天の代理”の役目を貫き通すのに精一杯だった。ナズーリンは本物の毘沙門天の使いとして、星の監視を続けたが、不器用な彼女は星を励ませずに『毘沙門天であり続けろ』としか言えなかった。そうして、星はナズーリンの不器用な優しさに気づくまで千年もかかってしまった。あんなに一緒にいたのに、おかしな話だ。

「だから私、これからは、もう少しナズーリンのことをちゃんと頼ってみようと思うの」

これからもよろしく、と、そんな意味を込めて伸ばした手は……ナズーリンには取ってもらえなかったが、代わりにいつもの皮肉めいた言葉が飛んできた。

「……やれやれ、やっとご主人様も部下の使い方を覚えてくれましたか。だからといって、また宝塔を探せなんて言われても聞きませんからね」
「もう失くさないわ」

これ以上大事なものを失う気持ちを味わいたくない。星の凛とした佇まいを見て、ナズーリンはいつものペンデュラムとロッドを手に口元をつり上げた。

「それじゃ、ちょっくらあの九尾を探しに行きますか。ご主人様はどうなさるのです? 命蓮寺に戻りますか?」
「ううん。みんなには悪いけど、もう少しだけ待っててもらうつもりよ」

星は手紙にしたためた内容に思いを馳せる。
命蓮寺では話しにくいから、星の方で勝手に藍を呼び出す場所を指定させてもらった。
藍はまだ怒っているかもしれないし、来てくれるかわからないけれど――星は藍が来るまで、ずっと待つつもりでいる。



藍はもやもやと晴れない気持ちを抱えながら、人里を歩いていた。日が落ちても人里は活気があって賑わっている。
昼間、星の言葉で火がついた怒りなら、もう治っている。星から離れて幻想郷を飛び回り、気晴らしのように無数の方程式を組み上げたりして、時間をかけてゆっくりゆっくり鎮めていった。
対人関係の問題は、時の流れが解決することもある。しかし、藍の中にはまだしこりが残っていた。

「……あんな言い方はないだろう」

藍はぼそりとつぶやく。星が何気なく放った言葉がナイフのように突き刺さって、忘れたくても忘れられない。
自分も式神ならよかった、なんて。それではまるで式神が自我を持たぬ道具のようだ。
式神とは心を道具に変える、なんて見解もあるようだが、藍が思うに決して心を支配する術ではない。藍が紫を心から慕っていることも、自分の意志で紫のそばにいることも、星は知っているはずだ。

(星なら、わかってくれると信じていたのに)

鬱屈した気持ちを心の中でぶちまけて、藍ははたと気づく。いつのまに、藍は星に対してそこまで信頼を寄せていたのか。
星は藍にとって初めてできた友達だ。星の聖を思う気持ちが自分と似ていると思って、それをきっかけに星のことが知りたいと思った。だけど、価値観を共有できても、藍と星は決して同じではない。立場も違えば、与えられた役目も違う。
それなのに、自分のすべてを理解してくれるはずだなんて――思い上がりも甚だしいのではないか?

「私は……星に勝手な幻想を抱いていたのかな」

自嘲するように、笑いが溢れた。怒りが鎮まれば、後に残るのはほろ苦い後悔だけだ。

「おや、藍の姉ちゃん、しょぼくれた顔してどうしたんだい?」

あてもなく俯いたまま歩いていた藍の耳に、不意に声が飛んでくる。いつのまにか、行きつけの豆腐屋の前に足を運んでいたらしい。声の主は四十がらみの豆腐屋の店主だった。藍は常連となっているため、店主も妖怪相手だと臆することなく、気安く『藍の姉ちゃん』と呼んでいるのだった。

「まあ、ちょっとね。……油揚げ五枚、もらえるかな」
「おっ、まいど! いつもありがとよ!」

豆腐屋が目的ではなかったが、少しは気が紛れるかと思って、油揚げを買った。いつも陽気な店主は、笑顔で油揚げを掬ってゆく。
代金を払って、揚げたての油揚げが入った容器を受け取る。枚数を数えて、藍は気づく。五枚と頼んだのに、中身は六枚だ。

「ご主人、一枚多いようだが」
「サービスだよ、受け取っときな! いつもうちをご贔屓にしてくれるお礼と」

店主はにっと健康的な歯を見せて笑う。

「元気が出ない時は、美味いもん食って腹を満たす! それに限るだろ」

豪快に笑いながら、親指を立てて拳を突き出す店主に、藍もつられて微笑んだ。
そんなに目に見えるほど暗い顔をしていたのか。さりげなく気遣いを見せてくれる店主の優しさが温かかった。

「……ありがとう。では、遠慮なくいただくよ」
「おう! また来てくれよな!」

素直に好意を受け取ることにした藍は、そのまま店主と別れた。
比較的人通りの少ない道の端で、藍は熱々の油揚げにかぶりついた。油の染み込み、豆腐の苦味、どこを取っても文句なしの絶品だ。
そして店主の言うように、腹が膨れると、後ろ向きだった気持ちが少し上を向く。空腹だと余計なことを考え出すのは人間も妖怪も同じなのだろう。
なにせ、妖獣は能天気なのだ。悩みをいつまでも抱え続けるのは性に合わない。

「……そういえば、今日、星は元気がなかったんだった」

いつもの冷静な思考が戻ってきた藍は、改めて今日一日の星の様子を思い出していた。
思えば命蓮寺の入り口で待ち合わせをした時も、山道を抜ける時も、星は浮かない顔をしていた。星の白い肌がいつもより青白く見えたのも、気のせいではない。
大丈夫だ、出かければ気晴らしになると思う、と星が言うので、そのまま連れ出したのだ。
けれど紅色に美しく染まる野山を見ても、猫達が可愛らしく甘えてきても、星の顔の曇りはついぞ晴れなかった。
星があんなことを口走るまでに思い詰めていたのか。何が、彼女を苦しめているのだろう。

「見つけた。ここにいたのか」

その時、藍の目の前に小柄な人物が現れた。深く頭巾を被ったそいつが何者かと考えていると、見覚えのある赤い瞳が藍を見上げてきた。

「ナズーリン? 珍しいな、こんなところで会うなんて」
「私のご主人様から、貴方への手紙を預かっていてね」
「……星から?」

藍は思わず耳をそば立てた。ナズーリンは人里だからか、特徴的な耳を頭巾で隠している。懐から封筒もない、簡素な白い紙を折り畳んだだけの手紙を取り出して藍へ渡した。

「それと、うちのご主人様が貴方に非礼を働いたそうだね。私から代わりに謝罪しようかと思っていたんだ」

藍が手紙を開こうとした時、ナズーリンが頭を下げるのを見て慌てて止める。

「いいんだ、もう。何も貴方が謝ることじゃないだろう」
「……あの方は真面目で優秀だ。毘沙門天様の代理として、見劣りするところなんて一つもない。本物の毘沙門天様がお認めになるくらいにはね。だけどあの方だって決して完璧ではない。本当に困った時しか頼りはしないし、弱みを曝け出そうともしない。あの方の欠点だよ」

ナズーリンは顔を上げないまま、ぽつぽつと語り続ける。藍はナズーリンの淡々とした口調の中に、星に対する歯痒い思いを感じ取って、黙って聞いていた。

「千年前からずっとそうさ。聖が封印される前、自分はまだ妖怪だと知られてないからって、聖に代わって寺を守るなんて言い出した。……愚かな人だよ。そんなに慕ってやまない相手との別れを自ら選ぶなんて」
「……」

藍はその時、昨年の夏、マミゾウに言われたことを思い出していた。
心の傷は簡単に塞がらない。内側に膿を孕む。あの時は、あまりに抽象的で誰に言及しているのか判断できなかったが――藍の中で、一本の線が繋がった。
星は聖が封印され、長い時を経て人々に忘れ去られ、幻想郷へやってきてなお、地底から仲間達が飛び出すまでずっと一人で寺を守り続けていた。
千年の孤独。その頃の出来事が、星の傷となっているのだとしたら? しかもそれがまだ癒えておらず、痛みを伴っているのだとしたら。

「ナズーリン、貴方の言いたいことはわかったよ」

藍の言葉で、ナズーリンはようやく顔を上げた。賢将らしくない、不安げな目をしているナズーリンに、藍は鷹揚に笑いかけた。

「これから星に会いに行くよ。ちょうど仲直りをしようと思ってたところなんだ」

藍の心の靄は晴れた。今はただ、同じように星の心にかかる靄を晴らしてやりたいと思っている。

「貴方もなかなかのお人好しだな」
「友達なら喧嘩の一つや二つくらいするさ」

苦笑するナズーリンにそう言うと、藍は星の手紙を広げた。

【こんな手紙越しにではなく、私の口から直接伝えたいことがあります】

気が急いていたのか、星の文字はいつになく荒い走り書きだ。続きには星がある場所で待っている、と書かれている。星が決めた約束の場所は――藍がこの幻想郷で、星と初めて出会った山奥の荒屋だ。



昔、聖と聖を慕う仲間達は、外の世界の寺に住んでいた。時が経ち、寺は荒れ果ててもはや人の住めない荒屋と化していたが、星は荒廃した寺から動かなかった。そして外の世界で星達の存在が忘れ去られた時、星とナズーリンは住んでいた寺ごと幻想郷へやってきた。
その古寺は、果たしてまだ残っていた。夜はとっぷり更けて明かりになるものは何一つなく、枯れ草が伸び、紅よりも朽葉色に近い色をした木々に囲まれ、物々しい雰囲気を醸し出している。

「……星」

星はもはや形を留めていない荒屋の中に、一人佇んでいた。そこへ、いつかのように草の根をかき分け、金色の尾を稲穂のように揺らめかせる影が現れる。
かち合った藍の目に、もう冷たい怒りはどこにもなかった。星を心配そうに覗き込む金の瞳に、星は泣きそうになる。

「藍。……来てくれたんですね」
「行かない理由がないからね。まさかこの場所とは思っていなかったけど」
「自分で呼び出しておいて何ですけど、私も、もう朽ち果てていたかと思っていました。……まだ、かろうじて残っていたんですね」
「星達の思いが残っているからだよ。だから簡単にはなくならないんだ」

荒屋の近くに、小さな石碑が建てられている。幻想郷に命蓮寺を構えた時、一度だけ命蓮寺一同で供養に訪れた。その時に建てた石碑だけが、古びた景色の中で少しだけ新しいものだった。

「藍」

荒屋の外へ踏み出し、星は藍に向かって深く深く頭を下げる。

「ごめんなさい。私の弱さが藍を傷つけました」
「傷ついてないよ。怒ったけど」

藍の声は明るかったが、星は顔を上げられない。下される罰を粛々と待つ罪人のように、震えて下を向き続けていた。

「ナズーリンから少しだけ話を聞いたんだ。貴方の来歴は前にも聞いたけど……千年もの間、大変だっただろう」

星は目を見張った。顔を上げると、藍は優しい目で星を見つめていた。

「星。自分の意志で何かを決めるって、大変なことなんだ。誰にも責任を押し付けられないのに。それでも貴方は自分でお寺に残る道を選んだ。……立派なことだと思うよ」

どうして、と星は疑問に思う。不甲斐ない理由で藍を傷つけたのに、星の来し方なんてほとんど話していないのに、どうして藍は星の心に寄り添おうとしてくれるのだろう。

「藍、私は……」
「前に言ったよね。星が困った時は力になるって。……ずっと気になってたんだ、星が今日ずっと暗い顔をしていた訳が。ううん、それより前から、貴方が何かを抱えていることには気づいてて、でも何も聞けなかった。こんな私でよければ、聞き役になるよ」

星は藍の言葉に胸が締め付けられた。忌まわしい過去の記憶は絶対に口にしないと、表に出さないと決めていたのに、心が揺らいでいる。厳重に封を施した、心の奥底に沈めた記憶が、外へ出ようと動き出している。
藍は優しく微笑んでいる。それは聖の菩薩のような笑みとも異なる、ただ星のすぐ側に寄り添い、肩を貸そうとする、友達としての思いやりだった。
聖の言うように、藍こそが星の抱え続けていた思いを受け止めてくれる人だったのだろうか。

「夢、を……」

気がついたら、星は声を震わせて口にしていた。一度言葉にしてしまえば、もう留めることはできずに後から勝手に口が動いた。

「夢を、見るんです。最近ずっと。昔の……聖と仲間達が封印されてからの千年間の記憶を」

夢と聞いて、藍は少しだけ眉をひそめた。星の話を不快に思ってではなく、純粋な心配ゆえだ。

「私は……この場所を守りたかったんです。聖がいない間、留守を守ってほしいと任された、聖との約束を果たしたかったんです」

昔の栄えが見る影もなく朽ち果てた荒屋を尻目に、星は自嘲した。

「なのに、できなかった。私が決めたのに。聖がいなくなっても、せめて聖の、人間と妖怪、両方を救いたいという願いを、忘れられないようにしようって。私が聖の代わりに寄る辺になるって、決めたのに、私は」
「そんなつらい思いをしたのに、星はまた自分の意志で選んだんだ。ムラサ達がやってきたあの日に、今度こそ聖を助けようってね」

星は言葉を失った。脳裏に蘇るのは、雪の残る初春のある日、地底から聖輦船と共に星の元へやってきたムラサ達の顔だ。

『聖を助けに行くのよ! 星なら、封印を解く方法を知っているでしょう?』

再会の喜びもそこそこに、話はすぐさま聖の救出へと向かう。聖を見捨てたことを責めもせず、共に聖を慕う妖怪の仲間として、ムラサ達は星に助けを求めてきた。
――その時、決意したじゃないか。もう二度と後悔はしたくない、自分は妖怪なんだ、今度こそ自分の力で聖を助けるんだって。
星の体が震える。千年の地獄が報われた瞬間、後悔だらけの過去と決別するつもりだった。傷跡を隠し続けるという形で。その傷がまた疼き出す。あの忌まわしい日々をなかったことにしないでくれ、再会の喜びを噛み締めるなら別れの悲しみも忘れないでくれと暴れ出す。どちらも等しく“寅丸星”の大切な記憶なのだと主張するかのようだった。
震え続ける星に向かって、藍は両腕をまっすぐに広げた。星の惑いや苦しみををすべて受け入れるように、藍は眩しそうに星を見つめていた。

「星はとっくに向き合おうとしてたんだよ。一度失敗しても、後悔しても、やり直そうって立ち上がったんだ。そんな星を、私は尊敬してる。だから、たとえ癒えない傷を抱えていたとしても――星は弱くなんかないよ」

藍の力強い言葉で、星の心に被せた堅固な仮面が剥がれ落ちた。もう上辺だけを取り繕う気力は残っていない。抑えつけていた悲しみ、煩悶、後悔、憤慨、絶望、すべてが今にも星の中から飛び出さんとしている。

「藍……私、わたし、は……」

星はおそるおそる手を伸ばす。力の入らない星の手を、いつものように取ろうとした藍の手をすり抜けて――藍の胸に飛び込んでいた。
藍の温もりに触れたら、後はもう、止められない。

「私は、本物の毘沙門天なんかじゃない!」

涙まじりの悲痛な叫びが、二人きりの静かな荒屋に響き渡った。

「みんな、みんな、偽物の私を拝んでありがたがって、同じ口で聖を貶める。私はただの妖怪です、聖が生きる意味をくれた、聖は優しい人なのに、なのに、」

目からは大粒の涙が溢れていた。しゃくりあげて、言葉も支離滅裂で、それでも藍は黙って星の慟哭を聞いていた。

「約束を守れない、聖の名誉も守れない、私じゃ何もできなかった! それならいっそ、紛い物の地位も何もかも捨てて、聖を助けに行きたかった! 聖と、みんなと一緒ならどこでもよかったのに……!!」 

朽葉を散らすほどの強い風が吹き渡る。堰を切ったように泣きじゃくる星の背中に、そっと、藍の腕がまわる。きつく抱きすくめるのではない、秋の寒風から星を庇うような、優しい抱擁だった。
藍の思いやりと温かさが心地よくて、星は大声で泣き続けた。



「星、私の昔話をしようか」

星のしゃっくりが落ち着いて、涙も治まりかけてきた頃、藍はぽつりと言った。

「つまらない話だと思うけど……気晴らしのつもりで、少しだけ耳を傾けていてほしい。いつか私の過去も星に話そうと思ってたんだ。私は星の過去を知っているのに、私の過去を明かさないのはアンフェアだからね」

藍の腕の中で、星は泣き腫らした目で藍を見上げていた。
どうして、という星の疑問に答えるように、藍は眉を下げて星の乱れた髪を撫でた。

「私もこの頃、夢を見ていたんだ。星のように、遠い昔の夢をね。……私にとってあまり思い出したくない過去だけど、紫様との出会いに繋がることだから」

星は目を瞬く。もしかして、藍もまた昔の忌まわしい出来事を蒸し返す悪夢に悩まされていたのか。
星は藍の過去をほとんど知らない。星がじっと藍の目を見つめると、藍は静かに語り始めた。

――昔、大陸の国々を騒がせた、後の世に悪女と語られる美貌の女がいた。女の正体は、歳を重ねて九尾の妖狐へと変化した化け狐だった。
九尾は大陸で絶世の美女に化け、王をたぶらかし、国を傾け、やがて小さな島国へとやってきた。
こんなちっぽけな国など恐るるに足らず。この国の王も籠絡してやろう。
そんな野望を胸に抱きながら、足を踏み入れた時、いの一番に九尾の目の前に現れた妖怪がいた。

『あらあら、遠路はるばるやってきた貴方を出迎えてあげたのに、挨拶もなしですか? ひどいわねぇ』

大陸風の派手な装束に身を包んだ、長いブロンドの髪の女は、九尾にまったく臆することなく、胡散臭い笑みを浮かべてにこやかに話しかけてきた。
九尾はその顔になぜか既視感を覚えたが、見たことのない妖怪だ。見た目は少女のようだが、底知れぬ力を秘めている。

『お前が王か?』
『面白くもない冗談ね。私は八雲紫。女帝なんてもう三百年は見てないわ』

八雲紫と名乗った女は、警戒心を露わにする九尾を一瞥し、鼻で笑った。

『貴方のような妖獣風情が王位や后の座を望んだところで、邯鄲の歩というのが見える。それに妖狐なら、すでに玉藻前が封じられたばかりですもの。貴方はお呼びでない』

九尾はぴくりと耳を動かした。玉藻前とかいう妖狐が誰だか知らないが、この女は九尾の強大な妖力をまったく意に介していないのだ。余裕綽々の態度がひどく癇に障った。九尾が変化を解き、本来の獰猛で巨大な妖獣の姿を表しても、女は眉一つ動かさなかった。

『私をただの妖獣だと侮ってもらっては困る』

女は唸り声を上げる九尾を前に、ばさりと扇子を広げて、高らかに笑った。

『大口を叩くなら、さあ、私に見せて頂戴。大陸より渡ったその妖術を!』

九尾は己の持てる力すべてをぶつけて、目の前の胡散臭い妖怪を打ちのめさんとした。
そして――九尾は歴然たる力の差を思い知る。女に九尾の妖術は少しも届かず、完膚なきまでに叩きのめされた。

『もう少し楽しませてくれると思ったのに。残念だわ』

女は扇子の影でため息をつく。女は九尾の見たことのない怪しげな術を使う。“スキマ”と称する空間移動を使いどこにでも消え、どこにでも現れる。九尾の力で破れぬ堅固な結界を張る。
惨めに地を這い、九尾は恨めしく見上げる。

『お前は……一体、何者だ?』
『手の内を簡単に明かすものですか。私の結界を破るなんて誰にもできないのよ』

そう言い残して、女はどこかへ消え去った。
九尾は力が回復するまで当て所もなく彷徨った。この恨みを屈辱をどうしてくれよう。何としてでもあの女に一矢報いてやらねば九尾の沽券に関わる。
九尾はなかなか治らない体の傷に苛立ちを覚えた。ちっぽけな国のくせに人間が多い。人間の数が多いぶん、妖怪の力が弱いのだ。
ふらふらと彷徨い続けて、そして、気がつくと九尾は見知らぬ土地にたどり着いていた。この国のすべてが九尾にとっては未知だったが、そこは一際異彩を放っていた。
治りの遅かった傷や失われた力の回復が早くなる。九尾は己が異界にいると気づいた。
何故か? ……異界と現世を隔てるのは結界だ。九尾はいつの間にか結界を通り抜けていたのだ。忘れるはずもない、あの女の張った結果を。
破れぬ結界とは狂言か? 女が九尾をおびき寄せたのか? いずれにせよ力は増幅する。罠であろうとなかろうと利用しない手はない。
すべての力が回復し、以前よりも増大した頃、果たして九尾の前にブロンドの髪の女は現れた。
現れた妖怪に無謀にも挑んで、九尾は再び、敗れた。

『なぜ勝てない? そんなことを聞きたそうね』

九尾はもはや言葉を持たなかった。雪辱を晴らすどころか二度も地に伏せられて、どうして顔を上げられよう。

『私を結界だの空間だのを弄るだけの妖怪だと思い込んだのでしょう』

女が指で差した先に、空間が裂け無数の目玉が現れる。女はその中に手を突っ込んで扇子を取り出す。

『境界なのよ。境目。虚も実も。夢も現も。常識も非常識も。私にかかれば簡単にいじれるの。結界なんてものはその一つでしかない』

九尾は己の心が折れる音を聞いた。己が力を過信して驕り、結果として相手の実力を見誤り、まんまと誘導されたか。力も、策略も、この妖怪には敵わない。わざわざ種を明かしたのは、再度九尾が襲いかかってきても勝つ自信があるからだ。
女は九尾を前に優雅に笑っている。見下すような、憐れむような笑みに見覚えがあって――妖狐ははっと顔を上げた。

『その顔、お前はまさか!』
『あら、やっと思い出してくれたの』

霧が晴れたような心地がした。九尾が大陸で王の寵愛を恣にしていた頃に、妃の一人がこう言った。

――上のご寵愛を独り占めしているというのに、ずいぶんつまらなさそうな顔をしているのですね?

そいつは妃にしては目立たない、いつ後宮に入ったのかもわからない、地味な女だった。九尾は名前すら覚えていない。どうせ大した家柄の娘でもないのだろう。わざわざ嫌味を言いに来た理由はわからないが、どうせ負け惜しみに違いない。
なのに女の不気味な笑みが心にひっかかり、忘れかねていた。その女が今、姿形や名前は違えども、九尾の目の前にいる。

『三度目の正直。骨を折った甲斐があったわ』

女は晴れ晴れとした笑みを浮かべた。九尾は呆気に取られて、やがて力なく笑った。勝てるはずがない。女はすでに九尾に目をつけていて、入念に策を張り巡らせた上で、大陸から渡ってきた九尾の前に現れたのだろう。

『私の負けだ。好きにするといい』

この妖怪がなぜ自分にこだわるのか、なんてもはやどうでもいい。息の根を止めるなり、血肉を貪るなり、好き勝手されても文句は言えぬのが敗者の定めだ。
女が九尾に手をかざす。何らかの術をかけられた、と気づいた時には、九尾の体の傷が癒えていた。

『今度はなんの結界……いや、境界をいじったんだ?』
『方程式』
『……は?』
『貴方を私の式神にした。いついかなる時もこの八雲紫の手となり足となり働くのよ。いいわね? ――八雲藍』

唖然としている九尾に、女は、八雲紫は不機嫌な顔をして再度念を押した。

『返事をなさい。主人である私がお前の名を呼んだのよ。“八雲藍”』

九尾は自ずと口角を上げ、声なく笑っていた。
まったくもって、この妖怪の考えは九尾の手に余る。理解が及ばない。大陸を蹂躙した九尾をいとも容易くねじ伏せ、王位どころか世の中すべてを転覆させかねない反則級の力を持ちながら、それに負けた九尾を己のしもべにしようというのか。いったい何のために?
だが、敗者は勝者に従うのみ。それに、九尾の肉体も精神も八雲紫に屈服した時点で、もはや答えは出ていた。

『あいわかった。いや……承りました。紫様の御心のままに』

「……それが、“八雲藍”という式神が生まれた日なのさ。紫様に会ってから、私は過去の栄光をすべて捨てた。誠心誠意、お仕えしようと決めた。過去の数千年より、紫様と過ごした数百年の方が大事だったんだ」

藍の淡々とした語りに耳を傾けているうちに、星の涙は完全に治っていた。
藍の目はやはり遠くを見つめている。今ここにはいない紫を思う時の、いつもの藍の美しい横顔――それを眺めていると、星の中に罪悪感が膨れ上がってくる。
自分より力の強い者に従う。妖怪ならば当然であり、始まりが戦闘による敗北であっても、紫を思う藍の心は真なのだ。

「藍、やっぱり私のこと、まだ許さないでください」
「え?」

顔を伏せる星に、藍は首を傾げる。

「私が私を許せないんです。藍の思いをちっともわかっていなかった自分が恥ずかしくて」

藍が戸惑っているのが気配でわかる。こんなのただの自己満足だ。けれど千年間の鬱屈をぶちまけた上に、自らの過ちを許してもらおうなんてずいぶん藍に甘えている。

「わかった、そこまで言うなら星を許さない。許さないから、一つ私の言うことを聞いて」

星は顔を上げる。藍に頼りすぎたぶん、藍の言うことならなんだって聞く。そのつもりで覚悟を決めたのに、藍はしたり顔で星に笑いかけた。

「来年の春は一緒に花見に行こう」
「……はい?」
「前に白玉楼の桜を見に行こうって話をしたのに、結局行けてないんだから。お寺が忙しいのはわかってるけど、こればっかりは無理を言っても来てもらうよ」

藍の声は上機嫌に弾んでいる。その言葉の意図するところを知って、星はまた泣きそうになった。
やっぱり、藍は優しい。許さないと言いながら、もうこれっぽっちも怒ってはいない。そして、星が春が好きだと言ったのをきちんと覚えていたのだ。

「――はい。行きましょう。春に心を寄せる者同士、爛漫の桜を見に」

星がようやく笑顔を見せると、藍は嬉しそうにうなずいた。
そこで星は、顔を埋めていた藍の胸元が星の涙ですっかり濡れていることに気づき慌てる。

「ごめんなさい、胸元を濡らしてしまって」
「私の胸でよければいくらでも貸すよ。膝でもいい」

藍は少しも気に留めていない様子で、星の目元にそっと指を当てた。

「ひどく腫れてしまったね」

藍の眉が心配そうにひそめられて、星は恥ずかしさに赤くなる。目の腫れを刺激しないよう、そっと涙の跡をなぞる指先は熱くて、くすぐったくて、星は早口に告げた。

「私、帰ります。みんな心配してると思うので」
「ああ、そうだね。もうずいぶん夜が更けてしまったし。送っていこうか?」
「いえ、一人で大丈夫です」

さすがにあんな飛び出し方をしておいて、藍と一緒に帰ってきたら藍まで命蓮寺の仲間達に囲まれてしまうかもしれない。気まずさもあったし、自分から呼び出しておいてこれ以上藍を引き留められない。

「藍、ありがとう。今日のこと、忘れません。それから、春の約束も」
「ああ。楽しみにしてるよ」

いつのまにか、木々に覆われた空には星が昇っていた。淡い星明かりが、古色蒼然とした荒屋と、微笑を浮かべて星を見送る藍の姿を照らし出していた。



「星!」

命蓮寺に帰ると、寺の入り口で待ち構えていた一輪が飛び出して星を抱きしめた。

「い、一輪?」
「もう、一人でそんなに苦しんでたなんて!」

目を白黒させて傍らの雲山を見やると、雲山は一輪を許してやってくれと言わんばかりに星を見つめてくる。
一輪に抱きしめられたまま寺の方を見ると、後ろにはムラサ、ぬえ、響子、マミゾウ、ナズーリンまで揃い踏みだった。どうやらみんなして星の帰りを待ち侘びていたようだ。

「星さん、ストレス発散には大声を出すといいですよ! 私がミスティアとやっているように!」
「あんた達のはただ不満をがなり立ててるだけでしょ?」
「ストレスを溜め込むなって言いたいのよ。星、藍さんとちゃんと話せたのね?」

響子が懸命に言い募る横で、ぬえが呆れたように肩をすくめている。そしてムラサが星の涙の跡と、憑き物が落ちた顔を見て問いかける。
みんなにずいぶん心配かけてしまった。星は今度こそ自分の抱え込み癖を反省して、安心させるように笑みを浮かべた。

「大丈夫です。ちゃんと藍と仲直りをしてきたので」
「そうか、藍のやつ、ちゃんと儂の忠言を覚えておったな。よしよし」
「貴方の差金かね。どうりであの方の理解が早いはずだ」

マミゾウとナズーリンが何やら話しているが、星にはよくわからない。

「星、ちゃんと聖様に報告してから寝るのよ。星のこと一番心配してたんだからね。ああもう、こんな顔して、誰か手ぬぐい濡らして持ってきて!」

一輪は星にお説教したかと思うと、すぐさま寺の奥へ引っ込んでゆく。
星はみんなの温かさと思いやりに、申し訳なさとそれ以上の嬉しさを感じて、自然と笑みが溢れた。
誰にも明かしてはならないと、心の奥底に過去の忌まわしい記憶を封じ込めた、星のパンドラの箱。藍によって災いが飛び出した後には、きちんと希望が残っていた。



その夜、星はまた夢を見ていた。真っ白でどこまでも続くような空間の中に、藍が一人佇んでいた。

「藍」

星が呼びかけると、藍はゆったりと微笑みを浮かべた。ここがどこなのかわからないが、ふわふわと温かい空気に満ちていて、心が穏やかな気持ちになる。

「藍……」

星が歩み寄り、そっと藍の胸に体を預けると、藍は何も言わずに星の行動を受け入れていた。

「不思議ですね。貴方になら、他の誰にも言えないことも言える」

どくどくと、心臓が脈打つ音が聞こえる。藍の心音に合わせて、星の心音も自然と高鳴ってゆく。どきどきするのに、不思議と星の心は安心感に包まれている。

「藍が私の友達だから? ……いえ、私、本当はもうわかってるんです」

藍の瞳に、藍を見つめる星の熱っぽい瞳が映っていた。

「藍、私は、貴方を……」

星の金色の瞳が、べっこう飴のように甘く蕩けている。この甘くて、温かくて、胸を締め付けるような思いの正体が何なのか、星はもう知っているのだ。

――星が久方ぶりにすっきりした目覚めを迎えたのは、夜明け前の暗い時間だった。
もう苦しくもつらくもない。まだどこかぼうっとする頭で、星は確かに昨夜、夢を見ていたのだと思い出した。夢の内容はまったく覚えていなかったが、きっといい夢に違いない。心が飛ぶように軽くて、温かい気持ちが残っているのだから。
星は起き上がって身支度を始めた。久しぶりに、晴れやかな気持ちで朝のお勤めに取り掛かれそうだ。机の上に飾られた、蓮の花の髪飾りが目に止まって、星は微笑みを浮かべる。

「あら、星、早いですね」
「おはようございます、聖」

着替えを済ませた星がいち早く本堂へ向かうと、遅れて聖がやってきた。聖は清潔に身だしなみを整えた星の姿を見て、目を見張った。

「どうしたの? なんだか楽しそうですよ」
「吉夢を見たのです」

星が笑って答えると、聖もまた安心したように穏やかな笑みを返した。
これからまた、あの地獄のような悪夢を見ることがあるかもしれない。
けれど、もう悪夢に魘されても大丈夫だ。心配してくれる仲間がいる。思いを受け止めてくれる大切な人がいる。
星は地に足をつけて、現を歩いて行けるのだ。

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