Coolier - 新生・東方創想話

星は藍色の空に輝く【上巻】

2021/10/11 21:36:10
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其の三 「星が生まれた日」



「――しかし、なぜ聖徳王ほどの偉人が幻想郷にやってきたのでしょう? とても人間達に忘れ去られるような人物とは思えませんが」
「藍、貴方はまた何か肝心なことを忘れているようね」

藍の疑問を紫は一笑に付す。春に起きた神霊騒ぎで、幻想郷には遥か昔の聖人――世に聖徳太子として知られる豊聡耳神子が復活した。
仙人として蘇った神子は、そのまま幻想郷に仙界を作り居を構えることになった。彼女が眠る霊廟ごと幻想郷にやってきたというのも藍には驚きだが、そもそもなぜ神子が幻想入りしたのか疑問だった。情報蒐集をしてから紫の屋敷に戻ってきた藍は、事の端末を紫に報告した上で、紫の意向を伺おうと思っている。

「外の人間達は聖徳王を忘れてなんかいません。信じられなくなってしまったのよ。そのあまりにも人間離れした偉業をね」
「信じられなくなる……それはつまり、聖徳王の伝説が“幻想”になってしまったと?」
「そう。幻想郷の結界の仕組みを一からきちんと思い出してごらんなさいな」

藍は頭脳を働かせて情報を整理してゆく。幻想入りの条件は、外の世界で存在を忘れ去られたこと、存在を否定されたこと。要するに、神子はその仰々しい偉業が事実であるかと疑問視され、存在を否定されかけた。故に常識と非常識の境を越え、幻想郷にやってきた、ということだろうか。
納得はしたが、問題はまだ残っている。何を隠そう、神子が眠る霊廟は命蓮寺の地下にあったのである。幻想入りした場所がたまたま命蓮寺の地下だった、と考えるのは楽観的であろう。
おそらく、命蓮寺の妖怪達はあの場所に神子が眠っているとわかった上で、真上に命蓮寺を建てた。目的はまだはっきり掴めていないが、かつて日本に仏教が伝来した際に起こった宗教戦争――それが絡んでいると思われる。
神道と仏教の対立。神子は今は道教を信仰している故、此度は道教と仏教の対立になるのだろうか。新たな諍いの火種になりかねないと思うと、藍も心穏やかではいられない。

「紫様は此度の異変をどのようにお考えですか?」
「どうも何も、幻想郷はすべてを受け入れるのですから。あとは郷に入っては郷に従え。それさえ守れば神だろうが仏だろうが仙人だろうが構わないのよ」
「しかし、争いの種になる恐れはないのでしょうか?」
「決まっているでしょう。幻想郷には、幻想郷流の決闘法があるのだから。貴方が命蓮寺の虎妖怪とやり合ったのと同じ手段よ」
「……ご存知でしたのか」

出し抜けに、以前命蓮寺の虎妖怪こと、寅丸星と弾幕勝負をした件を持ち出され、藍は冷や汗をかく。紫がどこでそれを知ったのか、あるいは影で密かに見ていたというのもスキマを用いる紫ならありえる。勝負といっても単なる遊びのつもりだったのだが、また仕置きを受けるのかと藍は冷や冷やしている。しかし紫はさして興味もないようで、

「それで? 貴方は私にこれ以上何を求めているというの?」
「いえ……紫様のお考えはよくわかりました。紫様が関与するほどの事態ではないと」
「ようやく理解したのね。事あるごとに私が首を突っ込んでたら埒が開かないでしょう」

それは神出鬼没の紫が言うことか、と思うが口にしない。紫は不満を露わにするように嘆息する。思えば藍が報告に来た時から、紫は退屈そうだった。つまり、藍の行動は徒労でしかなかったというわけだ。

「まったく頼りないわ。貴方も私には劣るとはいえ優れた頭脳があるのだから、それを生かさなくてどうするの」
「申し訳ありません」

藍は恭しく首を垂れる。お叱りの言葉だが、聞きようによっては激励にも聞こえる。実際問題、藍は式神として紫の期待に応えられないこともままあるのだが、こうして叱りつつも側においてくれる限りは、見放されていないということだろう。紫に暇を出されないうちは、藍はどこまでも紫に追従してゆくつもりである。

「努々気をつけなさい。ただでさえ貴方はたまに式神であることを忘れているようだから」
「……はい」

承諾の意を示しながらも、藍は内心疑問に思う。
――貴方は自分が式神であることを忘れている。
紫は時々釘を刺すように言う。藍としてはいついかなる時も紫の式神として行動しているつもりなので、まったく心外というか、心当たりのないことで、果たして本当にそうなのか? と、納得がいかない。
無論、紫に告げることはない。藍にはわからずとも、紫がそう言うならまったくの見当違いというわけでもないのだろう。藍はただ紫の命令に従い、与えられた仕事をこなすまでだ。
紫への報告を終えて、藍は一人幻想郷の上空を飛んでいた。
時刻は深夜の二時・丑三つ時を過ぎた頃だ。晩春から初夏にかけてのこの季節は、夜になるとまだ寒さが残っている。眼下に見える山々はほとんど緑色で、すでに桜の季節は終わってしまった事実を実感させる。
あれから命蓮寺仏教勢力と神子率いる道教勢力が対峙したという噂は聞かない。双方共に宗教家なら人々や妖怪の心の安寧を目的としているはずで、血生臭い武力闘争は好まないだろう。紫も危険視はしておらず、仏教と道教の、聖と神子の確執に関与するつもりはないとわかったものの、藍にはまだ気がかりなことがある。

(――星は、今頃どうしているのだろう)

藍は命蓮寺の虎妖怪、毘沙門天の代理である星に思いを馳せる。
ふとした出会いから知り合いとなり、星の聖に寄せる思いに共感を抱いた藍は、星と仲良くなりたいと思うようになった。昨年の夏には、忙しい星に時間をもらって二人でマヨヒガに出かけた。紫に知られていた弾幕勝負もその際に行ったものだ。
また会おう、と藍は星に言った。藍はあまり命蓮寺の外に出かける機会のない星に、幻想郷の姿を見せたかったのだ。夏の晴天、秋の紅葉、冬の雪、春の桜。それ以外にも、もっと多くの美しく恐ろしい景色を星に知ってほしかった。
しかし、星とまた会うという約束は果たされなかった。
一応藍の式神を使いに星の元へ誘いの手紙を出したのだが、忙しくて都合が合わないからと立て続けに断られてしまった。そのため、藍は星にしばらく会えていない。
此度の異変は命蓮寺の絡んだ異変だ、思えば星を含む命蓮寺の妖怪達は、命蓮寺を構えてからずっと地下の霊廟を警戒していたのだろう。藍も今年の春は紫に代わって二つの勢力に眼を光らせていた。
命蓮寺は妖怪に仇なす勢力を恐れている。復活した聖人、豊聡耳神子らを仏教の敵、妖怪の敵と見做していたのだ。一度封印された彼女達は、再び地底や魔界へ追いやられるのを危ぶんでいる。いや、彼女達にとって何よりも恐ろしいのは、彼女達の縁(よすが)である聖を再び失ってしまうことだ。

(星は真面目だからな。再び異変のきっかけとなったのを気にしているのかもしれない。それとも、聖と敵対するものを警戒しているんだろうか……)

星のことを考えていると、不思議と藍の心は疼くのだ。普段は式として命令に忠実に従うことばかり考えているのに、藍は一目でいいから久しぶりに星の顔を見たい、と思っている。
今日は式神を飛ばしていない。夜は妖怪の時間だから命蓮寺も開いているだろうが、連絡もなしに突然訪問したら迷惑だろうか。そもそも今から式神を飛ばしたところで、返事をくれるかもわからないし、待つ時間も惜しい……。
考え続けているうちに、眼下には明かりが目立つ人里が見えてきた。無意識のうちに命蓮寺の方角へと飛んでいたようだ。
――会いに行こう。藍は心を決めた。元より迷い悩むのは得意ではないのだ。藍は命蓮寺へ降り立つ前に一体の式神を召喚し、命令を下してから、境内の灯籠の光を目指して降下した。



命蓮寺の外観はいつも通りだった。異変の影響で人間も妖怪も見る目が変わるかと思いきや、相変わらず客が絶えないらしい。寺の空気も藍が見る限りでは穏やかで、ぴりぴりと剣呑な気配はない。
一、二人の妖怪が通り過ぎる境内に足を踏み入れたその時、

「こんばんはー!」
「わっ」

真夜中にしては威勢のいい挨拶に驚くと、僧侶の一人である山彦が箒を片手に藍を出迎えてきた。

「人間も妖怪もあいさつは大事ですよ!」
「あ、ああ、こんばんは。……今、寅丸星はいるかな?」
「星さんに? あっ、なるほど! しばしお待ちくださーい!」

山彦は藍の顔を見て何かぴんとくるものがあったのか、要件も聞かずに寺の中へと駆けてゆく。
藍は少々拍子抜けしていた。前から顔を合わせる機会はあったが、相変わらず元気な妖怪だ。藍の正体を知っているだろうに、来訪の目的を疑うこともないらしい。

「はいはーい……あら」

しばらくして、寺の中から出てきたのは星ではなく、入道使いの一輪だった。傍らには雲山もいる。
一輪は藍を見て、本当にあの藍が来たのか、と一瞬驚いたような顔をする。しかし、すぐさまいつものにこやかな笑顔に変わった。

「藍さん、お久しぶりですね。うちの響子が騒がしくてごめんなさいね。星に御用ですか?」
「ああ。先約もないのに訪れて悪かった」
「いえ。今は日々のお勤めも落ち着いていますし、案内しますよ」

一輪に促されるまま、藍は後をついてゆく。一応聖に挨拶をしたほうがいいかと聞くと、用事があるからと断られてしまった。今回ばかりは、一輪も藍をまったく警戒していないというわけではないようだ。
寺の中に足を踏み入れて、藍はひどく嫌なにおいがすると顔を顰めた。寺の前に降り立った時から気配は感じていたが、中はいっそう濃くなっている。
藍の最も嫌う獣のにおいだ。命蓮寺にまた新たな妖怪が増えたとは聞いていて、正体はすでに知っているが、今は星に会うのが先決である。
星の私室の前まで来て、一輪は中へと呼びかけた。

「星、お客さんよ。今、響子にお茶を持ってきてもらってるから」
「――はい。どうぞお入りください」

久々に聞く星の声は、予想していたよりもずっと落ち着いていた。一輪や響子からあらかじめ話を聞いていたのだろうか。
一輪が襖を開けると、正座で座っていた星と目が合った。
星はいつもの偶像の毘沙門天を模した身なりで、宝塔や鉾、領巾を省いて簡略化した衣装だ。口元はかすかに微笑んでいるが、緊張しているのか、固い表情である。覚悟を秘めた金の瞳が、真っ直ぐに藍を見つめてくる。

「さ、あとは二人だけで問題ないわよね?」
「ええ、ありがとう、一輪」
「それじゃあごゆっくり」

藍が勧められた席に座ると、一輪は藍に一例して襖を閉め、部屋を後にした。
足音がだんだん遠ざかってゆく。――藍の案内を終えた一輪が、奥で心配そうに待ち構えていたムラサと交わしたひそひそ話は、藍の耳には届かなかった。

「やっぱりあのスキマ妖怪は私達を警戒しているんじゃないかしら。このタイミングで式神をよこすなんて」
「ちょっと待って、雲山が何か言っているわ。あの式神は胡散臭くない、だって」
「確かにあの人は星と仲がいいみたいだけど……」
「みだりに相手を疑うばかりじゃなく、好意を信じるのも大事よね。って言いたいみたいよ」
「もう、わかってるわよ。そういう一輪はどう思っているの?」
「雲山の見立てに間違いはなし。何より、星が簡単に騙されるようなたまじゃないでしょ?」
「……それもそうね」

さて、一方、いつかのように二人きりで向かい合っている藍と星はというと。

「……久しぶり、ですね」

星が笑顔を浮かべて声をかけた。その笑みが歪に見えるのは、気のせいではないだろう。星は表情を取り繕うのが上手い。それでも藍に違和感を与えるほどには、星の心中は穏やかでないのかもしれない。

「ああ、久しぶり。元気だった? って、聞くのも変な話か」
「せっかくお誘いをいただいていたのに、すべて断ってしまってすみません。何かと立て込んでいたもので」
「貴方が忙しい身なのは知ってるよ。私も似たようなものだし、お互い様だろう」

交わす言葉は、どこかぎこちない。藍の言葉を最後に、二人の間には沈黙が訪れる。
藍は思い切って命蓮寺へ足を運んだはいいものの、いざ星の顔を見たら、どのように話していいのかわからなくなってしまった。
伝えたいことならある。星が安心するかはわからないが、紫の意向を伝えれば、少しは命蓮寺の警戒も解れるのではないだろうか。けれど、久々に会ったというのに、いの一番に話すことが事務的な報告でいいものか。藍が話したいのは、もっとシンプルで明確なものだったはずなのに。紫がちゃんと頭を使えと小言を言うわけである。
思い浮かぶ言葉が頭の中でうまく繋がらない。天文学的な数字の処理ならいくらでもできるのに、言葉選びだけは相変わらず苦手なのだ。

「あの」「その」

意を決して口を開くと、言葉がかぶさった。まったく同じタイミングで、星も沈黙を破ろうとしたらしい。それに気づくと、星はますます申し訳なさそうに身を縮こませてゆく。

「ごめん、星から先にどうぞ」
「い、いえ、藍がお客さんなんですし、藍の要件から聞きますよ」

お互い譲り合いが始まってしまい、藍はどうしたものかと困り果てる。
昨年の夏、二人でマヨヒガに出かけて、少しは距離が縮まったと思ったのに。藍さん、から藍、と呼び捨てになったのは今も変わらないが、星が前よりも遠くなったような気がする。
――むしろ、あの日の交流で星のことを理解できたというのが、そもそも藍の思い過ごしだったのか? 思えば二人の付き合いは決して長くないし、いくら共通点を見つけても、知らないことの方が多いのは当然である。
それでも、藍は星を知りたいと思ったから誘いの手紙を出したのであり、星だって藍のことを知りたいと思ってくれたのではなかったのか。煮え切らない思いのまま、藍がどうにか気まずい空気を壊そうとした、その時だった。

「星や、ちっと失礼するぞい」

何の前触れもなしに、がらりと襖が開いた。確か、響子がお茶を持ってくると一輪が言っていたが、現れたのは緑の髪に獣の耳を生やした響子ではなく、老人じみた喋り方をする妖怪であった。
途端に部屋中に満ちた獣くさいにおいに、藍は眉間に皺を寄せる。命蓮寺を訪ねた時からずっと気になっていた、藍の最も嫌う妖獣。先の異変で、命蓮寺が外から呼んだという妖怪――大きな縞模様の尻尾を生やし、丸眼鏡の奥に狡猾そうな黒い目を光らせた、化け狸である。

「ま、マミゾウさん? どうしてここに」

星にとっても化け狸の乱入は予想外であったのか、狼狽えてマミゾウと呼んだ化け狸を見つめている。マミゾウは星の問いには答えず、藍の姿を認めると、丸い目をわざとらしく大きく見開いた。

「おや、うちの寺から狐のにおいがぷんぷんするかと思うたら、本当にもぐりこんでおったのか」
「ちょ、ちょっと、マミゾウさん。お客様ですよ」
「おっと、これは失礼した。なぁに、助っ人として呼ばれたからには、ちっとは寺の役に立とうと思ったまでよ。儂は狐には特に敏感じゃて、あのずる賢い狐妖怪のことじゃ、何か奸計でもあろうかと心配でのう」
「……名乗りもせずに割り込んできて無礼な口ぶり、それが狸の礼儀とやらなのか?」

人を食ったような物言いに耐えかねて、藍は思わず強い口調で化け狸を批難していた。
口では命蓮寺のためだと言いたげだが、その実藍への敵意がむき出しであり、あまりのわざとらしさが、藍の神経を逆撫でする。星が困惑しているのに気づいてはいたが、この化け狸を追い返さない限りは藍の気が済まない。
化け狸ことマミゾウは、藍の批難などどこ吹く風と言わんばかりの態度で、

「おや? もう知っとるものかと思っとったんじゃが。儂は佐渡の二ッ岩。皆はマミゾウと呼ぶよ」
「……八雲藍。スキマ妖怪、八雲紫様の式神だ」
「おお、あの賢者と名高いスキマ妖怪の手先かえ。こりゃまた珍しい狐を見たもんじゃ。お前さんほどの妖怪を倒せば、儂の助っ人としての面目躍如となるかのう」
「ずいぶんと舐められたものだ。お山の大将だか島の大将だか知らないが、式神という私の立場の意味をわからないのか?」
「ほう、では試してみるかい? 狸八化けなどとケチくさいことは言わん、マミゾウ十変化の弾幕を……」
「――マミゾウさん!」

星の鋭い声が、険悪さを増す二人の諍いを引き裂いた。星は怒ったようにマミゾウを見つめている。星が声を荒げるところを見るのは初めてで、藍は殺気立っていたのも忘れて呆気にとられる。

「先ほども言ったはずです。ご心配はありがたいのですが、この方は私の客なのです。狸妖怪として思うところもあるのでしょうが、今はお引き取りください」

星は金の瞳をつり上げ、普段より一段と低い声でマミゾウに言い放つ。先程までの大人しさとは一転して、獰猛な獣の如き迫力がある。虎に睨まれた狸は、喧嘩腰な口調を引っ込めてあっさり白旗を上げた。

「いやはや、参った参った。そんなに怖い顔をせんでくれ。確かにお前さんの客人を横取りするのは失礼なものじゃ。儂が悪かった。今日のところはひとまず引き上げるとするよ」

マミゾウは苦笑いを浮かべ星にぺこぺこ頭を下げて、襖に手をかけた。部屋を出る瞬間、マミゾウがちらと藍を一瞥した。
――また、いずれな。
マミゾウの瞳はそう語っていたが、藍ももう怒りは治っていて、挑発に乗る気もなかった。
落ち着いてみれば、星の前で何をみっともない真似をしたのか、と後悔が滲んでくる。振り返ると、星は心底申し訳なさそうな顔をしていた。

「藍。ごめんなさい。マミゾウさんが失礼なことを」
「いや、私も大人気なくつっかかってしまった。こちらこそ、貴方の仲間への非礼を許してほしい」

藍もまた頭を下げた。古来より狐七化け狸八化けというように、狐と狸は化け力を争う妖怪として因縁がある。藍もまた世の狐の習いとして、狸が嫌いだった。
マミゾウが去ってからも、響子という山彦がやってくる気配はない。おそらくマミゾウが代わりに茶を出すなどと申し出て出し抜いたのだろう。食えない狸である。マミゾウが明らかに挑発に来ていたとはいえ、星が止めに入らなければ藍はあのまま弾幕勝負に乗ってしまっていたかもしれない。星に感謝こそすれ、謝られる筋合いはないのだ。
マミゾウが出て行って藍も落ち着いたが、狸の獣くさいにおいが一段と濃くなって部屋に漂っている。たぶん星には気にならない程度のものだろうが、藍は狸のにおいに囲まれていると気が休まらない。また、マミゾウの発言は極端に藍を煽るものだったが、一方で命蓮寺の抱える不安の代弁でもあるのだろう。

(……このままゆっくり話の続きを、なんて無理だな)

藍は命蓮寺に向かう途中で使いに出した式神の行先を思う。おそらく、星を連れていっても問題ないはずだ。無論、星が了承してくれれば、の話ではあるが。

「星。よければ、お寺の外に出て話さないか? このままだと少し落ち着かないんだ」
「外に、ですか?」
「もちろん、星が忙しいならここでも構わない」

星は考え込むように眉を寄せた。狸が気になるのも本音だが、半ば口実に近く、藍は星を連れ出したいのである。
昨年の晩夏に星に伝えたことは、今も変わらない。星に見せたかったもの、出かけたかった場所へ、今までのぶんも取り戻す意味で行きたかった。

「……わかりました。私も、命蓮寺では話しにくいと思っていたんです。聖に声をかけてからでも構いませんか?」
「うん、いいよ」

星はやがて、意を決したように答えた。
部屋の外に出ると、廊下の突き当たりに不思議な羽を持つ少女がうろついていた。確か、命蓮寺には鵺という妖怪が居候でいたはずだ。名前もそのまま“ぬえ”である。
ぬえは驚いたように藍と星を交互に見つめた。大方、部屋に乱入したマミゾウが気になって様子を伺いに来たのだろう。藍はぬえの横を通り過ぎる際、平然と告げた。

「ちょっと星を借りるよ。聖白蓮にもよろしく伝えておいてもらえないか」
「すみません、ぬえさん。少しだけお寺を空けます」
「え? あー、うん」

ぬえはぽかんとしたまま曖昧に頷いた。その後は命蓮寺の外で聖の元へ行った星を待ち(やはり藍は聖には会わせてもらえなかった)、星が以前のように宝塔だけを持って出てきたのを見て、

「それじゃあ、行こうか」
「あの、今日はどこへ行くんですか?」
「冥界の白玉楼だ」

藍が前もって式神を飛ばしていた行き先を告げると、星は固まった。

「冥界って、死者の世界ではありませんか。生者の私達が行っても構わないのですか?」
「ずいぶん前に冥界と顕界の間に穴が空いて、そのままになってるんだ。今じゃ生きた人間や妖怪が冥界へ行くのも珍しいことではない」
「……しかし、此度の件で冥界にも神霊が湧いたと聞いています」

星は暗い顔をしている。人々の欲望の声が形となった神霊は、聖人の復活に伴い、冥界にも現れた。白玉楼の主が元凶ともいえる命蓮寺に対して不満や猜疑心を抱いているのではないか、と心配なのだろう。

「大丈夫」

いつかのように、藍は星の手を取った。星はびくりと肩を震わせ、目を丸くして藍の顔を見つめている。

「白玉楼の主、幽々子様はおおらかな方だ。今回の騒動もさして気にしておられない。紫様のご友人だから、私も冥界には何度も足を運んでいる。私を信じてついてきてくれないか」

星の不安を取り除くように、藍は拙い限りの言葉を尽くす。
信じてほしい。ろくな根拠を示せなくて、口にするのは結局どこまでも他力本願なそれだ。けれど藍が今伝えたいことなど、突き詰めればそれ以外にないように思われた。
星はしばらくためらうように藍の顔と握られた手を交互に見つめていた。やがて、

「藍がそう言うのなら……大丈夫なんでしょうね」

いささか弱々しいものではあったが、笑みを浮かべて承諾してくれた。藍は意図せずに、星の手を握る力を強くしていた。



白玉楼へ続く石段には、無数の幽霊達がふよふよと漂っている。彼らの白くぼんやりとした光のおかげで、夜中でも足元はいくらか見やすかった。

「この石段の先が白玉楼だ」
「なんだか、古寺を彷彿とさせる風景ですね」

星は物珍しげに辺りを眺めている。仏教では死後に成仏して浄土へ行く目的がある。日々修行に励む彼女には、死者の世界が興味深く映るのだろう。

「大陸風の塀に囲まれた和式の家屋があるんだ。……さぁ、もうすぐ石段を抜けるよ」
「あ……」

長い石段の果てに広がっているのは、広大な日本屋敷の庭である。その広さに反して手入れのよく行き届いた庭には何本もの桜の木が植えられているものの、花の見頃はとうに過ぎ、皆緑の葉をつけている。しかし名物の桜は散っても、遣水や枯山水、築山に植え込みなど見所は多い。
さて、先によこした式神を呼ぶか、幽々子に仕える妖夢を呼ぶか、と考えていると、屋敷の奥から一人の亡霊が顔を覗かせた。

「あら、こんな時期にお客様? 花見のシーズンはもう終わりよ」

現れたのは白玉楼の主、西行寺幽々子である。星の周りの空気が張り詰めたのがわかった。幽々子は水色の着物に黒い帯を閉め、いつものように儚げでありながらどこか暢気な雰囲気をまとっている。紫色の扇子を片手に、幽々子は藍とその隣にいる星をしげしげと見つめた。

「お邪魔しております、幽々子様」
「……お邪魔します」
「誰かと思えば藍じゃない。さっきの式神は庭にいるわ。それで、そちらは?」
「私の客人です」
「貴方に? へぇー……」

幽々子は稀少な生き物でも見つけたかのように、桜色の瞳を細めた。

「私はてっきりお友達かと思ったわ」
「はい?」
「だって仲良く手を繋いで並んで歩いてくるんですもの、ねぇ?」

ころころと子供のように笑う幽々子の言葉で、藍はまだ星の手を握ったままだったことに気づいた。
途端に真っ赤な顔になった星がものすごい勢いで手を離す。気まずいのはわかるが、そんな振り払うようにしなくてもいいじゃないか、と思う。

「すっ、すみません、初めてくる場所でしたので迷わないようにと」
「ふふふ。彷徨わない亡霊の元に彷徨ってきたのは虎柄の毘沙門天。うーん、一気にうちがお寺みたいになったわ」
「あの、先日の神霊騒動では……」
「ああ、いいのいいの」

恐る恐るといった調子で切り出した星に対し、幽々子はあっけらかんと笑ってみせた。

「おかげさまで妖夢が土産話をたくさん持ってきてくれたし、私はじっくりお花見を楽しめたし。妖夢は愉快なことになっているし、今年は一段と素敵な春だったわ」
「幽々子様……」

幽々子の満面の笑みを見て、藍はここにいない妖夢を気の毒に思った。
先日の神霊騒動の調査に妖夢も乗り出したのだが、どうやら尸解仙を名乗る神子らと話しているうちに、自分まで仙人だと思い込むようになってしまったらしい。言うまでもなく、妖夢は半人半霊であって仙人などではないのだが、報告を受けた幽々子が面白がって方々に言いふらしたのである。
それを知った妖夢の顔面蒼白ぶりを想像するだけで哀れになる。ここに来てからちっとも妖夢を見かけないと思っていたが、まだその影響を引きずっているのかもしれない。
ぱちん、と幽々子が扇子を閉じる。このぶんでは藍の予想通り、幽々子は命蓮寺に対して、星に対して思うところなどまったくなさそうである。

「庭なら好きなだけ見て行けばいいわ。桜は散ってしまったけど、春の花は桜ばかりじゃないのよ」
「ええ。少しの間、散策させていただきます」
「式神を連れ帰るのは忘れないでね。花の下に帰らむことを忘るるは美景に因ってなり」

古い漢詩を口ずさんで、幽々子は鼻唄混じりに屋敷の奥へと消えていった。
星はほう、と長いため息をついた。幽々子ののらくらとした態度を見て、ようやく何のお咎めもないと安心したのだろう。

「……白玉楼の主は、不思議な方ですね」
「あの紫様のご友人だからね。何を考えていらっしゃるのか、私にもわからない時が多々ある」

亡霊という種族ゆえか、幽々子本来の気質なのか、天衣無縫でつかみどころのない性格である。
それにしても、藍は幽々子の『お友達かと思った』という言葉が今更のように気になってきた。今まで藍は白玉楼に友人など連れてきたことがないし、手を握って(これは逸れないためだったが)現れたら、確かに友達同士に見えてもおかしくない。
星の方はどう思ったのだろう、と聞こうとしたところで、星が口を挟んだ。

「ところで、式神とは誰のことですか?」
「え? ああ、私の式神を連絡に飛ばしていたんだよ。たぶんこの庭のどこかに……」
「あっ、藍様、やっと来た!」

噂をすれば何とやら。庭の植え込みから、藍の式神である橙が飛び出してきた。

「もう、遅いですよ。私こんな幽霊だらけの中でずっと待ってたのに」
「ごめんよ。ちょっとばかし予期せぬアクシデントがあってね」

橙はつり上がった丸い猫目をふせて、ふてくされている。藍があやすように頭を撫でると、むくれた表情のまま大人しくしている。星への問いは聞きそびれてしまったが、今は橙の紹介の方が優先だろう。案の定、星は突然現れた橙を見て目を白黒させている。

「あの、藍。もしかしてこの子が、橙さん?」
「そう。私の式神で、化け猫の橙。前に言っただろう? 橙を紹介するって」

藍が以前マヨヒガで言ったことを持ち出すと、星は金の瞳を大きく見開いて藍の顔を見た。そして、自分よりだいぶ背の低い橙の視線に合わせるように身をかがめる。

「はじめまして。私は寅丸星。命蓮寺の本尊、毘沙門天の代理です」
「……橙です。あなたが、藍様の言う星さんなのね?」

橙は好奇心を抑えかねた様子で、星の姿を頭からつま先までじっと見つめていた。

「藍様、本当に虎の妖怪なんですね。私と似たにおいがしますよ」
「虎は猫の仲間だからね。もういっぺん言うけど、この人は恐れ多くも本物の毘沙門天の弟子となって代理を務めているんだ。失礼のないようにね」
「いえ、そんなに畏まらなくて大丈夫ですよ」

命蓮寺での催事ならともかく、私的な場で崇め奉られても困る、と星は慌てて首を振った。星は改めて橙と目を合わせ、にこやかに微笑んだ。

「よろしくお願いします、橙さん」
「橙さん……?」

橙は首を傾げる。橙は藍の式神だが、妖怪としてはまだまだひよっこの部類だ。さん付けで呼ばれることなんて滅多になくて、戸惑っているのだろう。星の丁寧な対応がおかしくて、藍は吹き出した。

「星こそ畏まらなくていいよ。気軽に橙と呼べばいい」
「いえ、今日が初対面なんですし……ちぇ、橙ちゃん、でどうでしょうか?」
「橙ちゃん? またえらく可愛らしい呼び方だな。橙、どう思う?」
「うーん。橙さんよりはマシかなぁ」

橙が事あるごとに藍の顔を見上げてくるので、今は話し相手の星を見なさいと促す。橙は星に向き直ると、ぺこりとおじぎをする。

「いいですよ。それじゃ、こちらこそいつも藍様がお世話になっています、星さん」
「はい、よろしくお願いします」

二人の自己紹介が済んだところで、藍はこれからの予定を考える。
橙の紹介もそうだが、藍も星も話があって命蓮寺から場所を変えたのだ。広大な庭の散策ついでに、話を聞けたらいい。ここにいるのは幽霊ばかりで、話を聞かれたところで冥界の外には漏れない。橙が気になるなら、白玉楼の迷惑にならない範囲で自由に散歩してもらうことになるだろう。……またマタタビを使うことになるかもしれないが。

「それにしても藍様、どうして星さんをお花見に誘ってあげなかったんですか? ここの桜、とっても綺麗なのに、もうみんな葉っぱになっちゃいましたよ」
「あ、それは……」
「橙、そのことは前にも話しただろう?」

星の顔が再び曇ったのに気づいて、藍は橙に優しく言い聞かせる。

「春のお寺は忙しいんだ。灌仏会――花まつりといって、お釈迦様の誕生を祝う催しがあるからね。それに今年の春はお寺の墓地にも神霊が現れて、いろいろ立て込んでたんだよ」
「だけど藍様、星さんにも桜を見せてあげたいって言ってたのに」
「それは……」

橙には今回の異変のことは、まだ詳しく説明していない。けれど橙なりに何か察しているところがあるのだろう。思ったままを口にしているようで、ちゃんと言葉を選んでいる。
藍は改めて星に向き直る。星はもうとうに覚悟を決めているようだった。藍としても、いつまでもたわいのない世間話でお茶を濁すつもりはなかった。

「……星、歩きながら話そうか。幽々子様もおっしゃっていたとおり、桜以外にも庭には花がとりどりに植えられているんだよ」
「……ええ、せっかくお邪魔したんですもの、この機会に冥界を見学させていただきます」

藍は先立って歩き出す。葉桜が並ぶ晩春の庭には、山吹や藤の花が美しく設られている。庭師でもある妖夢が、幽霊達の手を借りながら手入れをしているのであろう。橙は虫(無論、冥界だから幽霊である)を追いかけたり、気ままに過ごしている。

「ここは桜の名所でね。本来なら死後のお楽しみなんだが、私も毎年花見に来てるんだ。……紫様もね」

紫の名前を出すと、星の表情が固くなったのがわかる。藍は襟を正して星に向かい合う。紫の従者、式神としての顔である。

「紫様は今のところ、貴方達の諍いに関与するおつもりはない。……そうでなくても、いつも寝てばかりいらっしゃるお方だからね。貴方が心配しているようなことはないはずだ」

以前、星は藍が命蓮寺に足を運ぶのは、新興勢力を警戒してのことではないかと暗に言った。当時も、藍は同じように弁明したのを思い出す。
わかってくれるだろうと、藍は期待していた。藍はいつだって紫の式神だが、背後にはいつも紫がいるわけではないと、星は知っているはずだ。

「藍、私は」

藍の言葉を受けて、星もまた話し出す。切羽詰まったような顔をしていたが、金の瞳は真っ直ぐに藍を見つめている。

「今日、藍が誘ってくれて、嬉しかったです。いえ、今日だけじゃなくて、今までのお誘いが全部。だから、誘いを断るのは心苦しかった。……上辺を取り繕うのは得意なつもりです。かれこれ千年近くも毘沙門天の代理を務めてきましたから。でも、ともすれば私達の秘密がばれてしまいそうで、だけど藍に隠し事をするのは、嘘をついているかのようで」

星は唇を噛み、左手の拳を強く握りしめていた。
仏教には不妄語戒という戒がある。そうでなくても、根が真面目な星だ。隠し事を続けるのは、辛かったに違いない。

「黙っていてごめんなさい。隠していたのは、幻想郷を混乱させるためじゃありません。私の大切なものが再び排除されてしまうのが怖かったんです。確証もない、相手の明確な正体もわからない、だけどそれらが私達を脅かすかもしれないと思うと……そんな恐れが、結果的に異変の元凶になってしまいました。ですが、こちらもあちらも、無闇に争うつもりがないのは事実です。相手は想像以上に強力な聖人ですし、マミゾウさんを呼んだところで、こちらに勝ち目があるかもわかりません」

藍はちらと胡散臭い化け狸のことを思い出した。口では命蓮寺のためと言っていたが、あの手の力のある妖怪は力を合わせて一丸となって、なんて統率を取ったりはしない。ただ自分の好きなように、自由気ままに動くだけだ。
命蓮寺からしてみれば頼みの綱だったのだろうが、あいにく化け狸が切り札として使われることはなさそうだ。それがきっと、無闇な争いを避けたいという命蓮寺のためでもあるかもしれない。

「わかってくれなんて虫のいいことは言いません、だけど、せめて藍には。私と同じように尊い方に思いを寄せる貴方には、私の思いを知ってほしかったんです」

切羽詰まった眼差しを向けられて、藍は戸惑った。
星の抱えている心配事は、藍の予想していた通りだった。けれど、星ならわかってくれるだろう――藍が暢気に考えている横で、星は想像以上にずっとずっと思い詰めていた。
星と似ているところがあると藍は思っていた。星も共感する部分があると思っていた。それでも、二人はやっぱり別々の考え方を持った、別々の妖怪なのだ。

(そうだよな。どれだけ似ていても、全部が同じであるはずがない)

だからこそ、藍は知りたいことがある、と星に手を伸ばすのだ。

「わかっているよ」

藍は自ずと微笑んでいた。伝えたいことなら、もう頭に浮かんでいる。

「星にとって聖や命蓮寺の仲間が大切なのも。星をここに連れてきたのだって、紫様の言伝だけが目的じゃない。――会いたかったんだ。しばらく星の顔を見ていなかったから」
「藍……」
「本当は、橙の言うように、桜の時期に星をここに連れてきたかった。綺麗なんだよ、冥界の桜は。我を忘れてしまいそうなくらい、この世のものとは思えない幻想的な風景だ」
「……私も、できることなら藍の誘いに頷きたかったです」
「忙しいのかな、とは思ってたんだ。だけど、星の心苦しさなんて、私は全然わかってなかったよ。気づかなくてごめん」
「いえ、藍が謝ることなんてありませんよ、悪いのは私の方で……いけませんね。修行を積んだ身なのに、感情を乱して」

伏せられた金の瞳がゆらめいた。心許なげに光をたたえたそれは、いつか荒屋の中で見た色だった。虎目石、という名前の宝石が存在するという。星の瞳はどんな表情でも宝石のように美しいけれど、今は星に笑ってほしかった。

「星はよくやっているよ。それに、大切なものが脅かされそうになったために心穏やかでいられなくなるのは、私にもわかるから」
「……聖は、私の知る中で最も偉大な人間です。いえ、私と会った時には、もう人間をやめていたのですけれど。私が今ここにいるのも、聖のおかげですから。聖は私に生きる意味を与えてくれた、かけがえのない恩人なんです」

星は胸元に手を当て、愛おしいものに思いを馳せるように目を細めた。
聖は星にとって大切な人だと、恩人だとは聞いていたが、聖にかける思いは並大抵のものではないようだ。
橙は少し離れたところでくつろいでいる。こちらの気配を察したのか、近づいてくる様子もない。

「星。聖白蓮のこと、もっと詳しく聞いてもいいかな?」

藍の好奇心が疼いた。命蓮寺の親玉のことではなく、星がそれほど大切に思う相手のことを知りたかった。

「長くなりますよ」
「構わない。貴方の大事な思い出なんだろう?」
「――昔の話です。今から千年以上前になるでしょうか」

星は、ゆっくりと話しはじめた。



その昔、日の本の国に“虎”という獣は存在しなかった。大陸より伝来した書物に記されたまだ見ぬ“虎”に、人々は畏怖と好奇心から想像を膨らませていたのである。
見たこともない、恐ろしい獣。野蛮で、獰猛で、鋭い牙と爪を持ち……。
やがて人々の恐れから、一匹の妖怪が生まれ落ちた。それがかつての星――“虎”であって“虎”でない、想像上の虎の妖怪だ。
虎は膨んだ恐れを結実させたかのような巨体を持ち、見た目は成獣といっても遜色ないが、しかし生まれたてという意味では赤子であった。虎と呼ばれていたものの、それは決して彼女の名前ではない。名もなく、自我もなく、虎が持つのは本能という原始的な欲求のみだ。
虎は本能の赴くままに人を喰らった。空腹による飢えと渇きを癒すため、出会う人間を恐怖させ、その血を啜り、骨を噛み砕き、肉を貪った。やがて虎の噂を聞きつけた人間が何人も退治せんと挑んできたが、ことごとく返り討ちにし自らの餌とした。
しかし、どうしたことか、虎は何人もの人間を喰らっても、腹を空かせていた。確かに人の肉の味を感じているのに、満たされることなく飢え続けていたのである。
飢えを満たすべく、さらに人を襲い、しかしいくら喰らっても満たされず、虎は本能に操られる哀れな獣だった。
その日は月のない夜だった。月の光が強ければ、即ち満月に近いほど妖怪は力を増す。
またも虎を退治せんとする者がやってきた。月のない日を選んだのは、虎の力が強まるのを恐れてのことだろう。

「まぁ……これが虎の妖怪? 果たして、大陸の虎は本当にこんな姿をしているのかしら」

虎を見て、おっとりと、抑揚のある声を発したのは、一人の僧侶であった。見た目は若い女性で、長く伸びた髪は紫と金の混じった不思議な色をしている。
虎は直感的にこの僧侶が只者ではないと見抜いた。若い見てくれに反して成熟した老人のような佇まい、彼女の身から漂う不可思議な力。人間の姿だが、おそらく人間ではあるまい。奇妙な髪の色も人の道から外れた物の証左だろう。人ならざる者だからか、よほどの修行を積んだのか、今まで見てきた僧侶の中でも飛び抜けて力の強い高僧であることが窺い知れる。
妙な法力を使うかもしれない。しかし名だたる高僧相手であろうと、虎の頭には、ただ肉体を喰らうことしかなかった。
今にも襲い掛からんとする虎を前にして、僧侶は落ち着き払っていた。そして、あろうことか、手を差し伸べ、菩薩の如き笑みを向けたのである。

「可哀想に。ひどくお腹を空かせているのね」

僧侶は虎の首元に頬を寄せ、巨大な虎の体を抱きしめていた。少しでも顎を開ければ牙が僧侶の首に突き刺さるというのに、虎は動けない。僧侶の法力によるものか。いや、僧侶は何もしていない。何もしていないから、虎は襲いかかることも吠えることもできないのだ。

「昔、釈迦は前世で自らの身を飢えた虎に布施したというけれど……ええ、もちろん私は貴方に肉体を明け渡しにきたわけではありませんよ。たとえ貴方が何百、何千の人の肉を喰らおうとも、貴方の飢えは決して満たされることがないのだから」

僧侶の言葉に、虎は呆然としていた。なぜ猛々しい獣を前に平然と話を続ける。なぜ人々から恐れられる人喰い虎に憐れみを向ける。なぜ幼児を愛しむ母のような目で見つめてくるのだ。
触れ合った肌の温度が虎に伝わってくる。人ならざる者のくせに、人間と同じ温かさだった。

「哀れな虎の子よ。本能に突き動かされ、力ばかりを持て余して、その実体はいつ消えてしまうかもわからないほどに儚い。せめて心が平らかならば、飢えに苦しむこともないのに、貴方は心の拠り所すら見つからないのね」

手は虎の体を撫でたまま、僧侶は顔を上げた。再び虎は僧侶と目が合う。僧侶の細められた目には、憐憫と慈悲の情が浮かんでいた。反射的に唸り声を上げると、僧侶はまた虎の体を抱きしめた。

「怖がらないで。私は貴方の力になりにきたのだから」

虎には僧侶の言葉の意味がわからなかった。力になる? 僧侶のくせに、妖怪を退治しないというのか。肉体を食わせてくれるわけでもないのに、何をしようというのだ。

「貴方に心の在り方を、平らかにする術を教えましょう。貴方が真に飢えているのは、腹ではなく心なのよ。拠り所がないのなら、私を拠り所にすればいいわ。だから……どうか、私の弟子になってくれませんか?」

虎は金の瞳を大きく見開いた。
この僧侶は気が狂っているのかと思ったが、僧侶はどこまでも真剣である。
戯言だ、こちらを油断させる方便に違いない。そう判断して頭から喰らいつくこともできたのに、虎は僧侶と見つめ合ったまま動けなかった。
虎を撫でる手はどこまでも優しく、向けられる微笑みはどこまでも温かい。生まれてこの方、虎が一度ももらったことのないものである。
僧侶を喰らえば、それらはたちまち幻のように消え失せてしまう。――虎はなぜか、僧侶から与えられる温もりを失うのが惜しいと思ってしまった。
僧侶が妖怪を弟子に取る。なんとも酔狂な話だが、僧侶が人ならざる者なら、人ならざる弟子を求めるのもまた自然なように思えた。
その刹那、虎の中から僧侶に対する殺意が消えていた。虎にはどうしてもこの僧侶を喰らう気にはなれなくなったのだ。
僧侶は虎の気配を即座に察して、喜色の滲んだ笑みを浮かべた。

「わかってくれたのね? いい子」

僧侶は嬉しそうに虎の毛皮に顔を埋めた。幼児をあやす母親のようでありながら、はしゃぐ様は無垢な少女めいてもいる。本当に不思議な僧侶である。

「……そうそう、呼び名が虎の子では不便だわ。確固たる名前があれば、貴方の荒ぶる力も治まるはず。そうね、虎であって虎ではない、生まれたての妖怪だから……」

僧侶は無邪気に喜んで、今度は真剣に考え事を始めた。
僧侶は顎に手を当てながら、ふと空を見上げた。つられて虎も見上げると、やはり天上に虎を狂わせる月はない。あるのは無数のまばゆい星ばかりである。そのまま僧侶は空を眺めていたが、やがて、目を輝かせて虎に語りかけた。

「“寅丸星”。……こんな名前はどうかしら?」

僧侶から提案されたその時――形容しがたい感情が、堰を切ったように虎の中に溢れ出した。
虎に名前はなかった。名を与える者もいなかった。“虎”という呼び名さえあれば事足りると思っていたのに、名前を与えられるという行為が、どうしてこんなにも虎の胸を揺さぶるのだろうか。

「――私にはあまりにも勿体ないものです」

気がつくと、虎は獣から人の形に姿を変えていた。虎が僧侶の言葉遣いを真似て喋ると、僧侶はまた嬉しそうに笑った。僧侶の笑顔を見ると胸の奥が温かくなって、虎は初めて『心が満たされる』ことの意味を知った。虎は、もう飢餓を感じなかった。
それが虎と聖白蓮の出会いであり、“寅丸星”が生まれた日であった。



「――それじゃあ、星の名前は聖が?」
「ええ。聖に名を頂いて、私は弟子になりました。後に寺を守る役目を与えられて、毘沙門天の代理に推薦されて……私はようやく心の安寧を得たのです」
「そうか……」

星の眼差しは遠くを眺めているようだった。過去の大切な思い出に心から浸っているらしかった。
前から感じてはいたが、星の在り方は妖獣より妖怪に近い。藍や橙のように長生きした動物が妖力を得て変化したものではなく、人々の恐れという曖昧な概念から生まれたせいだろう。のんびりしている藍と違って、星の精神が繊細な理由も納得がいった気がした。
それにしても、星も名前をもらったのか。藍は聖と星の絆に、縁を感じていた。“八雲藍”は、紫に与えられた名前だ。紫と出会う以前の名前は、もう記憶の彼方に封じてしまった。八雲藍――境界を意味する八雲紫の、すぐそばにいる者。その意味だけを、藍の矜持としてずっと大事に抱え続けていた。
聖は、どんな願いを込めて彼女に“寅丸星”という名を与えたのだろうか。名前には必ず意味がある。その意味が与えられた者の生き方や行く末を左右してゆく。星の言う通り、聖は星に生きる意味を与えたのである。

「ですから、私が私であるために、聖はかけがえのない存在なのです。聖のためなら、私はなんだってするでしょう」
「うん……話してくれてありがとう。星の気持ちは、少しだけわかる気がするよ。名前をもらうのは、嬉しいことだからね」
「では、やっぱり、藍の名前も紫さんにもらったものなんですか?」
「そう。私が紫様の式神になった時に、与えられたものだよ」

藍がしみじみとつぶやくと、星は眩しいものを見るように目を細めていた。

「同じ姓に、共通する名前。きっと、藍は紫さんからとても大切に思われているんですね」
「そうかな? そうだといいんだけどね」
「そうに決まってますよ!」

星の真っ直ぐな言葉に照れ臭さを感じて頬をかいていると、橙が飛び込んできた。どこから話を聞いていたのか、別に聞かれてもかまわないが、橙は一人遊びに飽きたのか、しきりに藍の尻尾をいじって引っ張る。痛くはないので好きにさせておいた。

「私に橙という名前をくれたのは藍様だもの。私だって、ちょっとぐらいは藍様の特別ですよね?」
「決まってるじゃないか」

藍が得意げに答えると、橙は嬉しそうに尻尾を握りしめた。さすがに痛いので、尾の先で軽く振り払う。橙がじゃれつく様を見て、星はくすくす笑う。色々なことを打ち明けて、少しは心が軽くなっただろうか。藍は安堵した。

「それにしても、星と聖は穏やかな出会いだったんだね」
「お、穏やかですか? 私は危うく聖を食べてしまうところでしたよ」
「食べなかったんだろう? 私は紫様と戦って、完膚なきまでに叩きのめされたからね」
「あ、それ、私は前に聞いたことある!」

藍が昔の話をほんの少し持ち出すと、星は目を見張った。

「戦ったんですか。あの八雲紫さんと」
「星にもいつか話すよ。けど、それはまた別の機会にしよう。もう夜が明け始めている」
「あっ、もうそんなに時間が?」

気がつくと、東の空が白々と色を変え始めていた。朝日が昇れば妖怪の時間から人間の時間に交代だ。幽々子は特にいつまでに帰れとは言わなかったが、長居は失礼であろう。
藍は星の昔話のお礼に、自らの昔話もいずれ聞かせるつもりでいる。それにかこつけてまた次に会う約束をしようか、という魂胆もあるのだが。

「さて、帰る前に幽々子様に挨拶しておかないと。橙、行くよ……橙?」
「藍様、何か空を飛んでますよ?」
「どうせ虫か鳥の幽霊だろう。追いかけるのは今度にしな」
「いえ、藍、あれは虫でも鳥でもないですよ」
「え?」

帰り支度を始めようとしたところで、橙だけでなく星までそろって空を指さすのである。
二人の指先をたどると、雲の切れ間にちらちらと謎の光る物体が漂っていた。謎の物体は次第に大きくなって、心なしか、こちらへ向かって飛んできているようだ。咄嗟に藍が思い出したのは、未確認飛行物体もとい飛倉の破片である。

「え? な、何だ? 前の飛倉の破片はすべて回収したんじゃなかったのか?」
「ええ、おそらくあれは……」
「やっと見つけたわ!」

謎の光が藍達の目の前に降りると、光の中から一人の少女が現れた。鳥のような蛇のような虎のようなそいつは、命蓮寺を出る前にすれ違った妖怪、ぬえである。
ぬえは腕を組み、怒ったように星を睨んでいた。

「もう、探すのに苦労させてくれちゃって!」
「ぬえさん、どうしてここに?」
「どうしたもこうしたもないでしょ?」

今日はやたらと妖怪に出会う日である。などと藍が考えていると、ぬえは藍をじとりと睨む。怒りの矛先を向けられているらしいが、藍はぬえの恨みを買うようなことをしただろうか、と首を傾げる。

「だって、この妖狐がいきなりあんなこと言って星を連れ出すから! ムラサも一輪も大丈夫としか言わないし、かと思えばマミゾウがあやつは星をたぶらかそうとしてるとか言うし!」

憤慨するぬえに、またあの狸か、と藍はため息をつく。どうも藍はマミゾウに敵視されているようだ。命蓮寺の妖怪としてではなく、マミゾウの個人的な理由でだ。そしてぬえはマミゾウの(あからさまに嘘の)囁きを聞いて星のピンチかと思い込み、慌てて星の行方を追ってここまできたというわけだ。幻想郷中を飛び回っていたのなら大した行動力であり、仲間思いなやつである。

「藍様、あれはなんの妖怪ですか?」
「正体不明の鵺という妖怪だよ」

橙は突然現れたぬえを警戒して藍の後ろに隠れている。
外の世界からマミゾウを呼び寄せたのはぬえだという。化け力が自慢の狸に、正体不明が売りの鵺。お互いに馬が合うところがあるのだろう。外の世界へ行く伝がどこにあるのか気になるが、この様子では聞いたところで素直に教えてはくれなさそうだ。
藍に代わって、星がぬえの誤解を解くようにたしなめる。

「ぬえさん。大丈夫ですよ。マミゾウさんは誤解しているようですが、藍はそんな人じゃありません」
「じゃあなんなの。寺に来る客かと思ったら、一緒に出かけたりして、かと思えばしばらく会わなくなったりして。あんた達はどういう関係なの? まさか友達だとでも?」

ぬえの追及に、藍と星は思わず顔を見合わせる。先刻も幽々子に同じようなことを言われたばかりだった。
藍は幽々子に星を客人だといった。星もマミゾウに藍をお客様だといった。けれど、思い返せば、手紙を交わして、一緒に出かけて、談笑して。世の言う“友達”の範疇に入る行動だろう。藍は幽々子に言われた言葉を星がどう受け取ったのか、改めて確かめてみたくなって、口を切った。

「友達、で、いいのかな……?」
「友達、で、いいんでしょうか……?」
「いや、質問してるのは私だっての。なんであんた達が不思議そうにしてるのよ」

ほとんど同時に発せられた言葉は、まったく同じ内容だった。ぬえが呆れた、と肩をすくめる。星も同じことを考えていたのかと目を瞬くと、星がほんの少し目元を赤らめた。

「え、お二人は友達じゃなかったんですか?」

橙まできょとんとしている。これじゃあとんだ間抜けじゃないか、と藍は内心失笑する。
灯台下暗しというか、岡目八目というか。二人の関係なんて、側から見れば簡単に名前をつけられる、非常にわかりやすいものだったのだ。思えば藍が星に興味を抱くのも、仲良くなりたいと思うのも、それで説明がつく。
星は気まずそうに俯いている。付き合い切れない、と言わんばかりにぬえはため息をついた。

「まあ、私は聖が寺にいていいっていうからいるだけで、仏の教えとやらには興味ないし。星が誰と付き合っても私には関係ないはずだわ」

関係ないならさっき私につっかかってきたのはなんなんだ、と藍はおかしく思う。少々ひねくれているが、ぬえはぬえなりに星や命蓮寺のことを気にかけているらしかった。

「ぬえさん。結果はともかく、命蓮寺のためにマミゾウさんを呼んでくださったこと、聖共々感謝していますよ」
「……居候増やしちゃったけどね」

星に礼を言われて、ぬえは居心地悪そうに目を逸らす。マミゾウもまた聖の弟子ではない。気ままにのらくらと他人を引っ掻き回す、それがぬえの気質と合っていて、なるほど仲がいいわけだ。あの化け狸は気に入らないが、それなりの人徳はあるらしい。でなければぬえの呼びかけで遠路はるばるやってきたりしないだろう。藍は狸の親玉など呼んでほしくなかったが。

「で、そこの狐妖怪」
「私は八雲藍だ」

ぬえは平安時代の妖怪だからそれなりに長生きなのだろうが、藍は千年以上前から生き続けている。星の仲間だから最低限の礼は払うが、勝手に侮られる謂れはない。藍が少々強気に言い返すと、ぬえはものともせずに口元をつり上げた。

「マミゾウは狐が嫌いなのよ。佐渡から狐を一匹残らず追い出したように、この幻想郷でも狸の天下を築くつもりだわ。いずれ幻想郷の狐達ともぶつかり合うかもしれないわね。今度こそマミゾウ十変化をとくとご覧に入れよう、それが狸と狐の化かし合いの雌雄を決する時じゃ――って、マミゾウが言ってたわ!」

高らかに宣言すると、ぬえは再び正体不明の光の玉になって、空へ飛び立った。
一方的な宣戦布告をされて、藍は呆気に取られていた。一応、ぬえは星にとって藍が危険ではないと認めてくれたのか。それともマミゾウがいるから安心だと踏んだのか。藍以上にぬえが『虎の威を借る狐』に見えたが、気のせいだろう。

「……もしかして私は、今後あの狸に延々と喧嘩を売られ続けるのか?」
「あの、マミゾウさんには私からよく言っておきますので……」
「藍様が狸なんかに負けるわけないですよ!」
「いや、そもそも私は狐だが、幻想郷の狐達の親分になったつもりはないんだがな」

勝手に盛り上がられて、藍は辟易している。とはいえ、狐のさがとして、個人的に狸は嫌いだ。佐渡の団三郎狸といえば大物であるし、外の世界でも妖怪として存在を保っていたほどの実力だ。確かにこれから藍は穏やかではいられないかもしれない。

「あの、藍。ぬえの言ったことですけど」

星がおずおずと藍を見上げる。マミゾウの件か、と思ったが、

「私は、藍のことを、友達だと思ってもいいんでしょうか?」

思いもよらぬことを問われて、藍は一瞬口ごもる。いいも何も、藍はわざわざはっきりした言葉にせずとも、そうだということでよいと思っていた。だが星はまだ遠慮しているらしい。言葉にしないと不安なこともあるか、と、藍は眉を下げて微笑んだ。

「言われてみれば友達かもね」
「ですが……私、藍に嘘をつきましたよ?」
「誰にだって言いたくないことの一つや二つはある。隠し事をするのと嘘をつくのは似て非なるものだ。私は嘘をつかれたなんて思ってないよ。それとも、私と友達になるのは嫌?」
「いえ! そんなことはありません」

ならば、と藍は星に右手を差し出した。藍が一方的に手を取るのではない。星の方からも手を伸ばしてくれるのを待っているのだ。
星は藍の行動の意味するところを察して、宝塔を左手に持ち変え、同じように右手を差し出した。

「星、友達になろう」
「――はい!」

二人の意志で、互いの手が固く結ばれる。
手は繋いだのに握手は初めてなんて、不思議な感覚だった。改めて確認するなんて小っ恥ずかしいが、悪い気はしない。
そんな二人の様子を、橙がにこにこと見守っていた。

「何だい橙、そんなにニヤニヤして」
「えへへー。だって、私、藍様の友達って初めて見たんですもん」
「ちょっと」

いくらなんでも正直すぎやしないか。とはいえ紫にとっての幽々子や萃香のような存在が藍にいたかといえば、答えはノーだ。幻想郷中を周る結果として顔は広いが、付き合いは広く浅い。藍もさして必要としていなかった。……決して藍の人格に問題があるわけではないはずだが、少し不安になってきた。

「今更だけど、星こそ私が友達でいいの?」
「とんでもない。私にとって命蓮寺の仲間達は、ほとんどが付き合いが長くて家族ようなもので……外に友達を作るのは、幻想郷に来て初めてです」

星が照れたようにはにかむ様を目の当たりにして、藍の胸の奥が熱を帯びる。
お互い長い年月を生きてきたのに、友達作りは初めて。交流を初めて三年目になるというのに、ずいぶん暢気なものだ。けれど、互いに譲れないものを持つ自分達には、ちょうどいいペースなのかもしれない。
――ゆっくり仲良くなっていけばいい。人ではない自分達には、時間が有り余るほどあるのだから。

「星、また時間のある時に出かけようよ。今度はどこへ行こうか?」
「猫の里に来てくださいよー! 星さんならきっと一瞬で猫達を従えられるはずです」
「こらこら。自分のしもべは自分の力で手懐けなさい、いいね?」
「そうだ、私もナズーリンを紹介するって言ったんですっけ。ですが、ナズーリンが藍達に会ってくれるかどうか……」
「ああ。貴方の部下、鼠だものね」
「鼠!? 鼠がいるんですか!」
「橙、食べちゃ駄目だよ」
「食べませんよ! うう、でも考えたらよだれが……」
「まったく。ほら、これをあげるから大人しくなさい」
「あっ、マタタビ!」
「……ふふっ、本当に橙ちゃんにもマタタビを使うんですね」

打ち解けあったせいか、話題は尽きない。本当ならすぐに星を送らなければならないのだが、もう少しだけならいいだろう。遠くで藤の花が風に揺れている。花の下で帰りを忘れるのは、美景のためではないのだが……。
そのまま日が昇るまで、三人の穏やかな談笑は続いた。

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