Coolier - 新生・東方創想話

星は藍色の空に輝く【上巻】

2021/10/11 21:36:10
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其の四 「地の底の蓮花」



「血の池地獄の味が忘れられないのよね」

まるで故郷の料理の味が恋しいのよね、とでも言うような調子でムラサがつぶやいた。寺の者にあるまじき発言に星は凍りつき、一輪はため息をつき、雲山は何も言わず目を泳がせていた。

「あのねぇムラサ。気持ちはわからなくもないけど、うちはお寺よ? ちょっとは建前ってものを考えてちょうだいよ」
「そうは言ってもね、一輪、私は血だまりの中じゃうまく泳げなくってさ。舟幽霊なのに液体の中で溺れてゆくのよ。もがけばもがくほど苦しくなって、けどなんかそれがだんだん癖になるというか」
「星。ムラサはもう手遅れだわ。悲しいことだけど、いざというときはせめて私達の手で成仏させてあげましょう」
「あんまり深刻な方に引っ張らないでくれる?」

無論、二人のたわいもない悪ふざけである。少しはわきまえてくれと言いたげな様子の雲山に、星も同調する。

「二人共、ふざけるのもほどほどに」
「わかってるよ。そもそも、なんで急に血の池地獄の話なんて持ち出したのよ?」
「妖怪の本能ってやつかしら。庭の椿を見てたら、なんだか血の色に似てるなーと思って」
「縁起でもない」

一輪は眉を顰める。命蓮寺の墓地に神霊が湧き、地下に眠る聖人の復活騒動が起きたのももう一年前になる。かつての宗教戦争は繰り返されることもなく、時は流れて季節は冬、三人(雲山も加れば四人である)はこたつで熱々の茶を啜りながらつかの間の休憩を駄弁って過ごしていた。窓の外は真っ白な雪で染まっており、椿の赤色がよく映える。

「というか、地底なんて思い出させないでよ。あの時のことはあんまり触れたくないのに」
「そう? 私は今でもたまに地底に行くけど」
「……まさかとは思いますけど、血の池地獄へ?」
「聖には内緒ね」
「いやもうそればれてるわよ、きっと」

珍しく一輪が頭を抱えている。星は二人の会話を聞いていて、はたと気づく。

(そういえば、私は地底に行ったことがなかったわ)

地底は忌まわしい過去にまつわる場所である。かつて聖は魔界の一角、法界へと封印され、仲間のムラサと一輪、雲山は地底へと封じられてしまった。己の正体を隠していた星だけが、地上に残ったのである。
聖は飛倉があった場所の確認に何度か足を運んだそうで、地底の妖怪達も気にかけてはいるが、今のところ進展はない。何でも地底の妖怪には地底のルールがある、とのことだ。
地底とは、どんな場所なのか。星は人伝にしか知らない。地底から命蓮寺に妖怪が訪ねてきたこともあったが、不純な動機ゆえにろくに話もせず帰してしまっていた。
忌み嫌われた妖怪の棲家、華やかな都市の築かれた地下の楽園、地獄に住まう咎深き怨霊達の根城。

「星? どうしたの」

ぼうっと思いを馳せていた星に、一輪が問いかけた。

「いえ。私は地底に行ったことがないから、どんな場所なのかと考えていて」
「……あんまり知らなくてもいいかもよ?」

ムラサが気遣わしげに見つめてくる。

「私達は過去のことだしもう笑って済ませられるけど、あそこが決していい場所ではないのは確かよ。すべてを受け入れるという幻想郷ですら、最近まで地上との交流を断じていたくらいだし」
「だけど、ムラサや一輪だって、地底に封印されて苦労したのでしょう?」
「いいのよ、気にしなくて。嫌な思い出もあるけど、結果的にぬえさんと知り合えたしね。星の方こそ、地上に一人きりで残しちゃって、大変だったでしょう」
「一人じゃないわ。ナズーリンもいてくれたから」
「ナズーリン、ねぇ」

星が部下の名前を挙げると、一輪は難しげな顔をした。
一輪達の前ではあまり表に出さないようにしているが、聖を復活させるまでに過ごした千年をあまり思い出したくないのは、星も同じだった。ほんの一瞬、暗く澱んだ思いが星の胸の底に湧き上がる。生きながら地獄を歩いたようなあの日々を思い出すと、言ってはならないことまで一輪達に言ってしまいそうなのだ。
だからナズーリンの名前を出して平気だと言おうとしたのだが、一輪はナズーリンのことをあまりよく思っていないらしかった。

「聖様の復活の時はいろいろ手伝ってもらったけど、あのネズミはいまいちそっけないのよねぇ。せめて星相手には、もう少し素直にならないのかしら」
「星が声をかけないとうちにも来てくれないからね。何というか、千年前から相変わらず他人行儀なのよ」
「それは仕方がないわ。私達とナズーリンでは信仰するものが違うんだもの」

なんだかナズーリンが悪く言われているようで、星はそれとなく庇う。
星は命蓮寺の本尊として聖の信仰を受けている身だが、本物の毘沙門天ではなく、ナズーリンが毘沙門天の部下なのである。星が毘沙門天の代理と認められた際、使い魔にと賜ったものだ。
そのため、ナズーリンは命蓮寺には住んでいない。仏は信仰の対象ではない、という理由で無縁塚の近くに暮らしているのだ。

「そもそもナズーリンって星の監視役でしょう? ナズーリンから何か言われてたりしないの?」
「大丈夫ですって。私に不足があるのなら、毘沙門天の代理だってとっくに罷免されてるわ」
「まあ、それもそうか。そうでなきゃ宝塔も取り上げられて、聖の復活もできなかったしね。星が優秀で助かったわ」
「え、ええ……」

まさか失くしてナズーリンに飛倉の破片と一緒に探してもらってました、なんて口が裂けても言えない。星は冷や汗を流す。
宝塔を探してほしい、と伝えた時のナズーリンの呆れた眼差しを思い出すと、星は口ではナズーリンを庇いつつも、確かにナズーリンには未だに毘沙門天の代理に相応しいか品定めをされているのではないか、と思うのである。星はナズーリンを信じて頼っているつもりではあるのだが、ナズーリンの考えは謎だ。

「そういえば、地底にも賑やかな場所があると聞いているわ」
「星、そんなに地底が気になるの?」

話を戻すように(というか逸らすように)星が切り出すと、一輪は鬱陶しげな視線をよこす。

「ムラサや一輪にとっては嫌な場所かもしれないけど、私は訪ねたことがないから。聖だってかねがね気にかけているみたいだし、私も自分の目で確かめてみたいと思うの」
「星はそういうとこ、ほんと真面目なのよねぇ。そりゃあ、私だって目を背けてばかりもいられないとは思うけど……あ、そうだわ!」

一輪はぽん、と手を叩く。

「藍さんと行ってくればいいじゃない。あの人なら地底だって何ともないでしょう」
「藍と?」
「って、またあの人なの?」

一輪がいいことを思いついたと提案する一方で、ムラサは心配しているようでもある。
八雲藍は時折命蓮寺を訪ねてくる客である。理由の一つは彼女の個人的な密教への関心から、もう一つは星に会うためだ。
星が藍と交流を交わし、友達となっていることはすでに周知の事実である。藍も星も仕事を抱えている身だが、互いの暇が重なった時に二人は幻想郷のどこかへ出かけている。

「いいじゃない、友達なんでしょう?」
「まあ、命蓮寺としてはいいお客さんでもあるからなぁ」

対照的な二人の反応に、星は苦笑いを浮かべる。
一輪は藍に対し好意的なのだが、ムラサは藍がスキマ妖怪・八雲紫の式神ということもあって、未だに警戒が解けないようである。

「一輪は藍のことをずいぶん買ってくれているのね」
「そうよ」

一輪は眩しいものを見るように目を細める。

「星は留守番役だから、あんまり外に出る機会がないじゃない。でも藍さんは星を出かけに誘ってくれる。貴方が楽しそうだと私も嬉しいのよ」
「ま、そこは私も同意しておくわ」

からっと笑う一輪に、肩をすくめてうなずくムラサ。藍と会う時、自分はそんなに浮かれているのか、と少し恥ずかしくなる。
ふと、星は藍の式神が訪れていたのを思い出した。
藍は星との連絡に自らの式神を飛ばす。真っ白な冬毛に変わった貂が藍の手紙を持ってきたのである。内容は猫の里へ出かけようか、という相談だ。行き先は藍が提案する時もあるし、星から希望する時もある。
返事はまだしたためていない。一輪の提案に乗っかって、猫の里に行った時、藍に地底へ行きたいと持ちかけてみよう、と星は思った。



「地底に行きたい?」
「はい」

雪の降り積もる猫の里で藍に打ち明けると、藍は険しい顔をした。
猫の里は、その名の通り猫が暮らす廃村である。かつて人間が暮らしていた屋敷があちこちにあるおかげで雨風をしのげるので、四季を問わず猫が集まってくる。
猫達は冬の寒さに耐えかねて、屋敷の奥のこたつで丸まっている。その中央にいるのが藍の式神、橙で、彼女もまた外の寒さから逃れているようである。古びたこたつは元からあったものではなく、橙が持ち込んだものだろう。

「地底はねぇ……あんまりお勧めしないかな。近年になって相互不可侵が緩んだとはいえ、元は断絶された場所だよ。私も滅多なことでは足を運ばない」
「そんなに危険なんですか?」
「地底には忌み嫌われた妖怪が住む。そいつらの能力も厄介だけど、さらに危険なのが怨霊だ」

藍の真剣な様子に、星は聖から聞いた怨霊の話を思い出していた。
怨霊は地獄にも行けないほどの罪を重ねた魂の成れの果てである。人間に取り憑けば人間の悪意を増幅させ、争わせるように仕向ける。さらに妖怪に取り憑けば、その妖怪の精神を怨霊が乗っ取ってしまう。精神に比重を置く妖怪にとって、精神の消失は、妖怪の死を意味すると聖は語っていた。

「星の実力を疑ってるわけじゃないけど、用心に越したことはないよ」
「だけど、昔からの仲間であるムラサと一輪が封印されて、聖も訪れた場所を、私だけが知らないんです」
「……仲間達の苦しみを、星だけ知らないのは不公平だと?」
「いいえ。決して罪悪感から、などではありません。私の仲間達がかつて過ごした場所を、私も自分の目で見て知りたいのです。前に藍は言ったじゃないですか、幻想郷には美しいものも恐ろしいものもあると。私達が暮らす世界のことを知るのに、美しいものだけを見ようとするのは違うと思うんです」

星は懸命に言い募った。
星が地底に関して持つ知識は、仲間達から聞いた断片的なものだ。知らないまま想像を膨らませるのは限度がある。
危険は承知の上だ。星の力は宝塔頼りなものだが、簡単に窮地に陥る程度の実力ではないと自負している。何より、ムラサが時折通っては帰ってくる時点で、よほどのことでもない限り問題になるとも思えなかった。
藍は星の様子に目を見張ったが、やがてふっと苦笑した。

「……地底も厳密に言えば幻想郷とは別世界かもしれないけどね。わかった。そこまで言うなら、行ってみようか。貴方の仲間と顔見知りの妖怪がいるなら、少しは融通が効くかもしれないしね」
「――はい! ありがとうございます」
「さて、橙、お前も地底へ行くかい?」
「ええー? こんな寒い中出かけるなんて嫌ですよ」

猫はこたつで丸くなる。橙はこたつから顔だけ出してぶるぶる震えている。藍はこたつの中から一歩も動こうとしない橙を見て、肩をすくめた。

「しょうがない。私達だけで行こうか。日取りは、そうだな……」

まだ見ぬ地へと胸を躍らせていた星はその時、藍と二人で行くつもりだったのだ。
橙の顔を見ていたら、まだ藍にナズーリンをきちんと紹介していないことを思い出したのだが、ナズーリンもやはり寒さは得意ではない。呼べば来てくれるかもしれないが、無理をさせるのもやめておこう。と、思ったのであるが。



「ははあ、ここから地底へ繋がっていると。風を吸い込んでいるようだ。それにここからでも、もう地下のにおいが……いいね、魅力的だ」

地底と地上を結ぶ縦穴の前でしきりにうなずく相手を前に、星はどうしたものかと困惑していた。
両手に携えた二本のロッドに、首から下げたペンデュラム。しもべの小鼠が入った籠を尻尾にぶら下げ、大きな獣の耳をぴくぴくとせわしなく動かしている小柄な妖怪は、星の部下であるナズーリンだ。
藍もまたナズーリンを見て首をかしげている。それもそのはず、事前にナズーリンも来るとは一言も伝えていないし、星だって今初めてナズーリンがついてきたことに気づいたのである。

「ええと、星。彼女も……ナズーリンも行くということでいいのかな?」
「地底には宝の匂いがする。無縁塚近辺にはないお宝だ。たとえ火の中水の中、私のダウンジングを舐めてもらっては困りますよ、ご主人様」
「……だそうです」

得意げに胸を張り、皮肉っぽい笑みを浮かべるナズーリンに、星は力なくうなずいた。
今日の約束をいつ聞きつけたのか知らないが、ナズーリンの嗅覚はどこからか宝の匂いを嗅ぎ当てたらしい。この様子では帰れと言っても勝手に地底をうろつきそうだ。なら行動を共にする方が賢明だろうと星は判断した。

「さて、貴方が策士の九尾と名高い八雲藍さんか」

ナズーリンは赤い瞳を光らせて、どこか挑発的に藍を見上げた。

「私はナズーリン。知っての通り、ご主人様の部下さ。お二人の邪魔はしないよ、馬に蹴られたくないんでね。そこは安心してくれ」

口調は平坦で、穏やかな笑みすら浮かべているが、ナズーリンは藍に挨拶をしつつも一定の距離を置いている。藍に対するあからさまな警戒が見てとれて、星は慌てふためいた。

「……私の何を警戒している?」
「ご挨拶かな。人間達は鼠の天敵は猫だと思い込んでいるが、鼠の敵はいろいろ多いんだよ。もちろん狐も例外ではない」
「心配しなくとも、貴方を襲ったりなんてしないさ。貴方は星の大切な部下だからね」

藍が戸惑いながらも冷静に返すと、ナズーリンは目を見張った。赤い瞳に浮かぶのは動揺である。しかしすぐさま何事もなかったかのように取り繕うと、口元をつり上げた。

「どうかな。貴方こそ、本当は豆腐の揚げ物なんかより、鼠の肉で揚げた油揚げの方がお好みなんじゃないのか?」
「ナズーリン!」

さすがに口が過ぎると思って、星はナズーリンを諫めた。

「あんまり失礼なことを言わないで。藍は私の友達なの」
「これは失敬。どうも警戒心が強いのが私のさがでしてね」
「いいよ、星。確かに狐と鼠、上手くやろうなんて言わない。けど、一緒に行くというなら構わないよ。貴方の部下のことは私も知りたかったしね」

藍は鷹揚に笑った。ナズーリンの物言いに気を悪くしていないようで、星はひとまず安堵する。
ナズーリンは藍と距離を置きながら、そのくせ宝探しには乗り気である。気が気でないが、進んで喧嘩を売ろうというわけでもないようだし、様子を見るのがいいだろう。仮にも自分はナズーリンの主人だ。しっかり見張っておかなければ。

「それじゃあ、行くよ。逸れないように気をつけて」
「はい」

先立って穴を降りた藍の後に続いて、地底へと続く縦穴をくぐった。
地上の明かりが遠くなるに従って、どんどん視界が暗くなってゆく。藍が狐火を(尾から放つ燐火である)、星が宝塔の光を掲げていなければ、夜目の効かない者であればすぐに道を見失ってしまうだろう。そういえばナズーリンは大丈夫なのか、と振り返ると、胸元のペンデュラムが光を放っている。用意周到である。
縦穴は想像以上に深く長い。地上から地底までどれほどの距離があるのだろうか。地上から届く光はもはや幽けきもので、星は気を引き締める。

「――着いたよ。足元に注意して」

気の遠くなるほどの道程を経て、ようやく地底へとたどり着いた。
ここが地上から地底への入り口にあたるのか。一応明かりらしきものが見えるが、地上に比べれば辺りは遥かに暗く、空気もじめじめと湿って陰気臭い。そして驚いたのは、地底世界は地下の空洞であるはずなのに、地上と同じように雪がちらついていることである。

「藍、雪ですよ」
「どういうわけだか地底にも雪は降るんだ。星、寒くない?」
「大丈夫です、あらかじめ着込んでおきましたから。ナズーリンは?」
「ちょっとばかし堪えますね。まあ、宝のためならなんて事はない」

ナズーリンは早くもロッドを地面に向けている。星はいつも通りの部下に呆れつつ、地底に降る雪を眺めていた。

「……あっ」

星は宙に漂う、雪以外のものの存在に気づいて目を瞬く。遠目にも、暗く澱んだ邪気を放つそれは、怨霊と呼ばれるものだ。怨霊は地底へ降りてきた者がいるのに気づき、興味をそそられたように近づいてきたが――間近に迫る前に、慌てて踵を返し逃げ出してゆく。

「あれ? 近寄ってこない……」
「宝塔のせいでしょう」

ナズーリンが横から口を挟む。

「宝塔の光は毘沙門天様の御威光であり、清浄なものです。悪意の結晶である怨霊は苦手なのでしょうね」
「そうか。なら不安は一つ解消したかな。星が宝塔を持っている限り、怨霊は手出しできない」

藍が得心がいったようにうなずく。星は改めて宝塔を握りしめた。
借り物とはいえ、やはりこれはなくてはならないものだ。藍も怨霊には注意を払っているだろうが、自分の身は自分で守らなければならない。自分から願い出たのだ、藍の重荷にはなりたくなかった。

「さて、どこへ向かおうか。やはり旧都かな。あの辺りは明るいし、通りがかる妖怪も比較的危険性は――」
「おや? 誰かと思えば、スキマ妖怪の式神にお寺の妖怪一味じゃないか」

藍が星に話しかけたその時、藍と星の間にぬっと顔を出す者がいた。突如現れた妖怪に、藍と星はぎょっとする。逆さまになったままこちらを見つめている妖怪は、よく見ると足に糸が絡みついており、糸を辿ると天井に繋がっている。星はこの妖怪を見たことがあった。以前命蓮寺を訪ねてきた、土蜘蛛の黒谷ヤマメである。
飛びのいてヤマメから距離を取っていたナズーリンは、現れたヤマメを見て顔をしかめる。

「出会い頭に土蜘蛛とは、縁起が悪いね」
「人を疫病神みたいに言わないでくれよ」

ヤマメは心外だ、と口を尖らせる。星は一応顔見知りとして挨拶をしておこうかと、口を開いた。

「あの、お久しぶりです、ヤマメさん」
「うん、久しぶり。見たところ、呆れ返るほどの無病息災だねぇ。地底に何か用かい? そっちの式神はお仕事かな?」
「いや、ちょっとした散策をね。地底の秩序を乱したりはしないから安心してくれ」
「あはは、別にそんな心配はしちゃいないさ」

星にも藍にも気さくな対応をするヤマメに、星は呆気に取られる。
寺を訪ねた目的が目的だったので、あまりいい印象はなかったのだが、案外愛想のいい妖怪なのかもしれない。

「しかし、結界を見張ってる式神はともかくとして、命蓮寺の妖怪がまた来るとはね。あんた、寺で見かけたけど地底じゃ見たことのない顔だよね」
「私は寅丸星、命蓮寺の本尊です。もしかして、地底でムラサや一輪を見たことがあるのですか?」
「そりゃあ、その二人はずいぶん長いこと地底にいたやつだからね。ムラサの方は今でも時々通ってきてるしさ。いやあ、二人共いいやつだったよ。いつかここを抜け出して聖を助けにいく、って張り切っててさ。そんなやつらに慕われてるのは、どんな徳のあるやつかと思いきや」

途中まで微笑ましげに思い出話をしていたヤマメは、そこでため息をつく。

「あの坊さん、妖怪救済を謳っておきながら、私の入門希望を断ってくれちゃって」
「貴方が弱った人間目当てだったからでしょう? それでは入門を受け入れることはできません」
「はは、やっぱり駄目かい?」

ヤマメは頬をかき、けろりとおどけてみせる。どうやら入門を断ったのを根に持っているわけではないらしい。

「しかし、虎と狐か。珍しい組み合わせなのはそういうことかい?」
「全然違う」

藍と星を不思議そうに見比べているヤマメを、藍がきっぱりと断ずる。大方、虎の威を借る狐と言いたいのだろう。確かに傍から見れば、なぜ藍と星が行動を共にしているのか不明だろう、と思う。当の星でさえ、藍のような主人である紫を第一とし、日々命令をこなすことを喜びとしている相手が、星と友達になりたいと言ってくれるとは思いもよらなかったのだから。

「ところで、そっちの鼠は話してくれないのかな。私、鼠はけっこう好きなんだけどねぇ」
「私は蜘蛛なんぞに好かれても嬉しくないがね」
「そりゃ残念。相性は悪くないと思うけどね。鼠は小さな体でどこにでも潜り込むから、あちこちに病気をばら撒いてくれる」
「正確には鼠につくノミやダニが、だろう? 風評被害だ」

ナズーリンは否定するが、どのみち、鼠は病気を運ぶ、穀物を荒らすと嫌われがちである。ナズーリンが藍に鼠の油揚げなるものを持ち出したが、あれも稲を食う鼠を、豊穣神、稲荷神の使いである狐に食べてもらえるように――という供物だという。
鼠は人間に嫌われる。だからこそナズーリンが人間に対して取る態度は尊大である。人間に嫌われるということは、妖怪として恐れられている証だからだ。
そこまで考えて、星はふと思う。地底に住む妖怪は地上の嫌われ者と聞いたが、ヤマメの性格は思いの外明るい。ナズーリンのように、嫌われることが、逆説的に彼女達の妖怪としての地位を確固たるものにするのかもしれない。

「ま、せっかく来たんだ、ゆっくりしておゆきよ。寒さは堪えるし、雪も降るけど、地底は地底でいいところさね」

ヤマメは笑顔で手を振って、糸を縮めてするすると天井へ帰ってゆく。

「まさか早速星の顔見知りに会うとはね」
「ええ。ヤマメさん、思ったより気さくな方で驚きました。まさかムラサや一輪のことまで買っていらしたとは」
「嫌われ者だからって、ひねくれ者とは限らないのさ。さて、いつまでもここに止まっていても何だし、先へ進もうか」
「どこへ向かいましょうか? 旧地獄の跡地にはあまり近寄らない方がいいんですよね」
「やはり旧都がいいかな。地底で最も妖怪が集まる場所だ。ヤマメの他にも、ムラサや一輪の顔見知りもいるかもよ」

藍の提案で、行き先が旧都へほぼ決まりかけた、その時だった。

「――何奴!」

藍が突然、低く鋭い叫び声を上げた。鋭く目を細めた藍はさっと身構え、真後ろを振り返る。

「ら、藍?」
「いったいどうしたっていうんだ」
「今、私の後ろに何かがいた。尻尾に触れたんだ。音もなく、気配もなく、私の背後を取った!」

藍の言葉に、星とナズーリンにも緊張が走った。星もまた宝塔を手に辺りを注意深く見回し、ナズーリンはロッドを手に険しい顔つきをしている。
神経を研ぎ澄ませていると、やがて藍の言う通りなんの前触れもなしに、星が今までに感じ取ったことのない気配が、突然藍の間近に出現した。
――まさか、怨霊がまだ星達をつけ狙っているのか? それとも、地上に疎まれた妖怪が、恨みをぶつけんと星達を見つけて忍び寄ってきたのか?
星は力を込め、宝塔の光を強く放つ。辺りがまばゆい光に照らし出されたが、そこにいるのは藍と星とナズーリンだけである。
正体を何もつかむことができないまま、現れた気配は忽然と消え失せた。まるで最初からそこに何もいなかったかのように。縦穴から吹き込む冷たい空気ばかりが辺りに満ちている。
藍は苦虫を潰したような顔をして、しきりに辺りを見渡していた。

「怨霊、ではないな。触れられる前に私が気づく。何の気配もなかった。だが、私の尾に触れた感触がある」
「気のせい、ではありませんね。一体何者なのでしょう?」

藍と星は額を付き合わせる。地底には危険がある、と言われたそばから得体の知れない者が星達の側に現れた。まるで出鼻を挫かれたようで、二人の間には不穏な空気が漂い、先行きが不安になる。

「引き返すのも選択肢としてはありだ。けれど、先へ進んだ方がかえって情報収集ができるかもしれない。私は細心の注意を払った上で、先へ進もうと思うんだが……星はどう思う?」

藍は慎重に危険と今回の目的を秤にかけているようである。星は充分に思考を巡らせた上で、藍に答えた。

「先へ行きましょう。正体を判断するにはあまりに手がかりが不足していますし、藍の言う通り、地底の妖怪に事情を聞くのもいいと思うんです」
「……本当にいいんだね?」
「はい。それに、もしかしたら相手は私が放った宝塔の光で逃げてしまったのかもしれません。大丈夫です。藍の足手纏いにはなりませんから」

星が宝塔を握りしめて藍を見つめると、藍は目を細めて笑った。

「わかった。まだ来たばかりなのに、こんなところで引き返すのもしゃくだしな。充分に気をつけて進もう」
「はい!」

藍と星が進むと決意した横で、先ほどから一切二人の会話に加わらなかった鼠はというと。

「ふむ……」

ナズーリンは一人、顎に手を当てて何かを考えていた。



橋姫が守るという橋を渡った先にある旧都は、ここが暗い地底だとは思えないほど華やかだった。あちこちに店が立ち並び、行き交う数多の妖怪達で活気に満ちている。地上と変わらない、ごく普通の街並みに見えた。

「縁日の屋台みたいですね。お店がたくさん……」
「旧都の店にはここでしか手に入らない珍しい品もある。衣食住に必要な生活必需品や、酒などの嗜好品もほとんど地底でまかなっているらしいからね。何か気になる店があれば、案内するよ」

藍の声は弾んでいる。気分を切り替えようというのだろうか。旧都の明るさと賑わいぶりに、星も少しだけ先ほど藍の尾に触れた何者かのことを忘れた。その時だった。

「む……!」

ナズーリンは突然ダウンジングを始める。ロッドをしきりに地面へかざし、しもべの鼠も騒がしくなる。

「ナズーリン? どうしたの?」
「来てる、来てるよ」

辺りをきょろきょろと見回したナズーリンは星を見上げて、得意げににやりと笑った。

「やっぱり私の勘は正しかったのさ。ご主人様、やはり地底には地上にはないお宝が眠っているんですよ。こうしちゃいられない、善は急げだ。というわけで、ちょっくら失礼しますよ。あとはお二人でごゆっくり」
「ちょ、ちょっと、ナズーリン!」

星が引き止めるのも構わず、ナズーリンは脱兎の如き素早さであっという間に喧騒の波に消えてしまった。残された星は呆然とするばかりだ。

「藍、ごめんなさい。ナズーリンが勝手な行動ばかりして」
「まあ、最初からナズーリンは地底の宝が目当てだと言っていたしね。彼女は宝探しが得意なの?」
「ええ。探し物にかけては右に出る者はいません。普段から無縁塚周辺で財宝を探しているようです」

ナズーリンは集団生活は得意ではないし、何となくこうなることは予想していたが、いくらなんでも自由奔放過ぎないか。探し物を見つけるのが得意とはいえ、どうしてそこまで宝探しにこだわるのだろう。星は肩を落とす。

「困ったものです。金銀財宝の類には注意するべきなのに」
「そういえば、星は財宝を集める妖怪なのに、あんまり興味がなさそうだね」
「ええ。私は財宝にさしたる価値を見出していないのです」

厳密に言えば、財宝が世の中において価値を持つのはわかっている。聖が封印され、地上に残された寺で暮らしていた頃、星とナズーリンで集めた財宝を売り払って生活苦を凌いだこともあった。重要なのは扱い方だ。使い方を誤れば、欲に目が眩んで簡単に身を持ち崩してしまう。
藍は星の答えが以外だったのか、目を見張る。

「それはまたどうしてかな?」
「そうですね……元より、財宝集めの能力はこの宝塔によるもので、後天的に授かった力なのです。もうずいぶん身に馴染みましたが、私本来の力ではありません。それに、真に価値のあるものとは、目に見えるものではないと私は思っているんです」

目に見えるものがすべてではない。
星にとって最も大切なものは、聖がくれた慈しみであり、名前の意味であり、仏や毘沙門天に対する信仰であり。命蓮寺の仲間達との絆もそうだ。
それらはすべて形はなく、目に見えない。それに反して、わかりやすいのだ、財宝とは。煌びやかな光は、見る者の目をいともたやすく奪う。

「確かに、財宝というのは誰の目にもわかりやすく価値のあるものだな。だからみんなこぞってありがたがる」
「ナズーリンにもそれをわかってほしいのですが、あまり伝わっていないみたいで」

時には主人らしく教えを説いてみよう、なんて試みても、ナズーリンには馬の耳に念仏といっても等しい。
星は嘆息する。部下とは主の鏡である。ナズーリンに伝わらないのは、すなわち星の器がその程度だということだろう。
藍はふと、思案げな表情を見せた。

「人間は昔、目に見えぬ鬼神――すなわち人ならざるものである私達妖怪を恐れた。見えないものを畏れ敬い、どんな姿をしているのかと想像を働かせていたんだ。しかし、時は流れて、人間は目に見えないものを存在しないものとして否定し、しまいには忘れてしまうようになった。そして私達は幻想になった、というわけだ」

星は藍の淡々とした語りに目を瞬く。藍が語ったのは幻想入りの仕組みであり、幻想郷における妖怪の存在意義だ。
外の世界で存在を否定されればされるほど、妖怪達が力を増す幻想郷の結界。星が幻想郷にやってきたのも、外の世界の人間に認知されなくなった、すなわち見えないものになってしまったからだ。

「外の人間達に否定されて、忘れ去られて、私達はここにいる。そういう仕組みの結界だからね。だけど、どれだけ外の人間達が否定しようが、私達は確かに存在しているんだ」

藍が己の胸に手を当てて微笑んだ時、星の頭にぴんとくるものがあった。
藍が言いたいことが手に取るようにわかる。目に見えぬものの価値を、藍もまた理解しているのだ。
藍と目が合うと、藍の金の瞳は優しい色を帯びていた。その色を見ていると、星の心は安らぎに満ちてゆく。
星一人が抱えている思いではないと、主を思い部下に悩むように、藍と星の間に共通する思いであると、藍が教えてくれるからだろうか。くすぐったくて、星はくすりと笑った。

「仏は常にいませども現ならぬぞあはれなる……聖が神も仏も妖怪も同じと言ったのは、そういうことかもしれません」
「それはまた極端だな。賛同しかねるけど、まあ、星の目に見えないものを重んじる姿勢は私も同じかな」
「それだけをわかってくれるのなら、充分です」

星は少しだけ浮かばれたような気がした。微笑みを返せば、藍は照れたように頬をかいた。
その時、藍がぴくりと耳を動かした。妖獣である藍はひどく耳がいい。星も耳をそばだてると、喧騒の中にからんからんと下駄の音が微かに聞こえる。旧都の喧騒の遠くからこちらへ歩いてくるものを認めて、藍は顔をしかめる。

「あの方は――うーん、少し厄介な妖怪が来たみたいだ」
「まさか、先ほど藍の後ろに現れたものですか?」
「いいや、あの方ならわざわざ気配を消したりなんかしないし、正々堂々真っ正面から挑んでくる。鬼はそういう種族だからね」
「鬼……」

星は以前、命蓮寺の妖怪を一撃で昏倒させた鬼のことを思い出していた。伊吹萃香という鬼は小柄ながら、鬼特有の出鱈目なパワーを持っている。背後から襲いかかってきた彼女のやり口が正々堂々かと言われると疑問だが、疎密を操る彼女の能力を駆使したもの、と考えれば彼女なりの理屈があるのかもしれない。
思えば旧都は多くの鬼達が住まうのだ。うかつに刺激しない方がいいかもしれない、と用心していた星と藍の前に、一人の鬼が盃を片手に大股で歩いてきた。
額から伸びた一本の角が明かりに照らされて光る。なみなみと注がれた酒を一口啜り、大きく息を吐く。酔っ払って赤ら顔の鬼が、藍と星の姿を見てにやりと笑った。

「へえ、本当に虎と狐が旧都を並んで歩いてる。珍しいこともあるもんだねぇ」

飄々としているが、星はこの鬼が只者ではないと即座に察した。
もしかして、さっきナズーリンがどこかへ行ってしまったのは、鬼の気配を察知して逃げたのだろうか? ナズーリンは頭が良く、要領がいい。危険な妖怪の気配を察するのも容易いことだろう。
目の前の鬼を前に、藍は身を正して袖の中で手を組んだ。八雲紫の式神である藍ですら敬服するほどの序列があるのかもしれない。

「あんたはあのスキマ妖怪の式神だね?」
「はい。貴方は萃香様の旧友、星熊勇儀様ですね。噂はかねがね伺っております」
「よしとくれよ、勇儀様だなんて。お前さん、それなりに強い妖怪だろう? 力があるなら無闇にへりくだるなよ」
「しかし、紫様のご友人のご友人ですから」
「敬意を払う対象だと? 主の友人の友人って、もはや他人じゃないか。いいから堅苦しい言葉遣いはなしだ。それとも力勝負で示さなきゃわからないと?」
「いえ――いや、申し訳ない。確かにこれではかえって無礼だったな」
「なんだ、普通に話せるじゃないか」

固い口調を崩した藍に、からからと笑って、勇儀はまた盃の酒を飲んだ。勇儀から漂う酒臭さに星は眉をひそめる。不快というより、酒の匂いで酒好きのさがをくすぐられたくないのである。

「さて、隣にいるのは命蓮寺の虎妖怪だね?」
「はい。寅丸星と申します」
「萃香のやつが、命蓮寺の妖怪達は挨拶もなしに寺を建てたと愚痴っていたよ」
「それは……」
「まあ、彼女達は地上で暮らし始めて間もないからね。地上に住む鬼の存在を知らなかったのも無理はないだろう?」

星が困っていると、すかさず藍がフォローに入る。同族とはいえよりによってあの萃香の友人だったとは、幻想郷は意外と狭い。何を話すべきか迷って、星はいつも出会い頭の妖怪に言う口上を述べていた。

「あの、もし困り事があれば、命蓮寺までどうぞ。ご相談に乗ります」
「おっと、宗教勧誘はお断りだよ。鬼が仏の戒めなんぞに縛られるかい」
「……それは残念です。嘘をつかないという戒律は、鬼に相応だと思ったのですが」
「あっはっは! 確かに鬼は嘘を嫌うさ。けど、仏教では酒は飲めないんだろう? 鬼にとっちゃ致命的だね」
「そうですか。誰も彼も、酒の魔力には敵わない。鬼すら殺すのですね」
「おっ、鬼ころしという酒にかけてるのかい? お前さん、ひょっとしていける口だったりしないかい?」
「えっ、いや、あの……」

ひどく楽しそうな勇儀に盃片手にずいと近寄られて、星は焦った。
寺の者が、それも本尊たる星が酒を飲むなど言語道断だ。……星は元は酒が好きなたちで、一輪やムラサに混じってこっそり口にしたことがあるのだが、普段は戒律を守るように努めている。しかし、盃から漂う甘く芳醇な香りにはどうにもそそられる。思わず生唾を飲み込んだ。星にとっては、財宝以上に争い難い魅力のあるものだ。

「まあまあ、そのへんで。鬼の酒とは珍しいが、あいにく今は用事があってね。実は、ここまで一緒に来ていた仲間と逸れてしまったんだ」

藍はさりげなく飲みの誘いをかわしつつ、別の話へ誘導する。無論、逸れた仲間というのもナズーリンを指していて、その場しのぎの嘘ではない。藍はずいぶん鬼の扱いに慣れているようだった。
藍の話を聞き、勇儀はふむ、と一旦酒を飲むのを止めた。

「おや、そいつは難儀だね。逸れたのはどんなやつだい?」
「ええと、私の部下で、鼠の妖怪なんですが……」

星がナズーリンの特徴を勇儀に伝えた、その時だった。
藍が九つの尾の毛を一斉に逆立てて、素早く身を捻った。

「まただ! 私の後ろにいる!」

星がその言葉に、緩みかけていた気を今一度引き締める。やはり微かで薄いものではあるが、再び何者かの気配が現れたのである。

「なっ、何だい、急にどうしたってんだ!」

勇儀は訳がわからないようで狼狽えている。星は宝塔を握りしめて、神経を研ぎ澄ませた。
気配はほんのわずかで、注意しないと見逃してしまいそうなほど弱い。その上――何というか、妖怪や怨霊などと違って、邪気や悪意というものをまったく感じないのである。何が目的で自分達に近づくのか。思考を巡らせているうちに、藍のそばにあった気配が、星の方に迫ってくることに気づく。

「星、こっちに!」
「わっ――」

藍が手を伸ばしたかと思うと、強い力で引き寄せられた。近づいてきた気配をかわすように、星の体は藍の間近に移動する。

「……またか。もう気配が消えてしまった。一体何をしようっていうんだ」

藍の険しい声が、真上から聞こえてくる。
星は顔を上げて、初めて藍の顔が、唇が触れそうなほどの距離にあることに気づいた。

「え?」
「あっ」

藍も、そこでようやく星を胸元に抱き寄せていたことに気づいたらしい。藍が珍しく焦った顔をして、慌てて星から離れてゆく。

「ご、ごめん、つい」
「い、いえ、ありがとうございます」

――くっついてしまうかと思った。今更のように頬が熱くなってゆく。
星ははやる鼓動を抑えながら、再び現れた何者かの気配を探ってみた。しかし藍の言ったとおり、またも気配は幻のように消え失せていた。
相手に気配を気取らせず、気づかぬうちに背後を取る何者か。一瞬、前に命蓮寺の妖怪を襲った萃香を思い出すが、仮に萃香であるなら最初の一撃で藍かナズーリンか星の誰かが倒れているはずだ。
勇儀もまた辺りを見回していたが、何も見当たらなかったようで肩を落とした。

「なんだろうね。ほんの一瞬だが、私も何かの気配を感じたよ」
「実はさっきも同じようなことがあったんだ。どうも、私達は地底に来てから何者かにつけられているらしい」
「なるほどねぇ」

勇儀は真剣に考え事をしている。酔っ払ってこそいるが、思考は極めて冷静なようだ。

「せっかく相互不可侵の不文律が緩んだってのに、また地底の妖怪が騒動を起こした、地上の妖怪に被害が出た、となれば厄介だ。私も探っておくよ」

と、勇儀は胸を叩く。赤ら顔ながら瞳は爛々と輝き、頼もしさを感じさせた。

「ありがとうございます。私達も、何かわかったら知らせますので」
「って、お前さん達、このまま散策を続けるつもりかい?」
「まだ来たばかりなんでね。仲間も見つけなきゃならないし、そいつの気配を探りながら見物を続けさせてもらうよ。貴方が認めたように、私達もそんなにやわな妖怪ではないのでね」
「ほう、そりゃあ大した度胸だ。いいね、気に入った!」

勇儀は豪快に笑った。彼女はずっと盃を持っているのに、酒が一滴もこぼれないのが不思議だった。

「気をつけて行きな。今度会った時は力比べをしようじゃないか」
「はは。今度会ったら、ね」
「勇儀さんもお気をつけて」

来た道を引き返して歩き始めた勇儀を、藍と星は見送る。力比べの誘いは本気だろうか。藍ならともかく、星は体術に自信がないので、弾幕以外での鬼との勝負はごめん被りたい……と考えていたところで、藍は長いため息をついた。

「さすがに緊張するな、鬼相手だと。しかし、私達を付け回しているあの気配……目的がわからないのが不気味だな」
「ですが、悪意はなかったように思うんです。怨霊とは明らかに異なります」

星は先ほど察知した気配について、思い当たることを述べてみる。そもそも邪気があれば、藍も星もすぐに気づくはずである。ただの愉快犯か、それとも藍にも星にも邪気を悟らせないほどに、隠すのが上手いというのか。

「仮に相手に邪気や悪意がなくとも、二度も尻尾に触られたら気が散るね。ナズーリンも心配だな」
「ナズーリンなら俊敏ですし、うまく逃げられると思います。いざという時は私が呼びますから」

呼ぶとは言ったものの、星はナズーリンが今、地底のどこにいるかわからないと気づく。
ナズーリンも耳がいい。いざとなったら叫んでみるべきか。きっと来てくれる、はずだ。ナズーリンが宝探しに夢中になっていなければ。

「それじゃあ、もう少し旧都の街並みを見てみようか。ナズーリンも案外近くにいるかもしれないし」
「はい」

藍は立ち並ぶ出店の前へと歩き出す。飲食物を提供する屋台に、飲んだくれの集う飲み屋。暖かそうな冬着を並べた呉服屋の隣にある、細工が美しい装飾品が並んでいる屋台の前で、藍は足を止めた。

「いらっしゃい。おや、珍しいお客さんだ」
「どうも。私の友人なんだ。ちょっと覗かせてもらうよ」

奥から出てきた店主の妖怪に挨拶して、藍は品物に目を向ける。星もつられて覗いてみた。
隣の呉服屋に合わせてか、かんざしなどの髪飾りが多い。桜、蓮、百合、椿、薔薇、さまざまな花の形をした飾りが屋台の明かりに照らされて煌めいていた。

「おやお客さん、お目が高いね。こいつは地獄に咲く桜の結晶から作られた貴重品で……」
「それより、私はこっちが気になるんだが」
「おっと、そいつに目をつけたか。それはだね……」
「ああ、星。私に構わず好きなように見ていていいよ。そうだな、街道の外れに番傘の立つ縁台があるからそこを目印にしておこう」
「藍は何か気になるものがあるんですか?」
「まあ、ちょっとね」

藍は真剣に品物を眺めていた。教えてくれるつもりはないらしい。
星もそうだが、藍も飾りっけはなく、普段から大陸風の藍色の装束を一張羅としていて、着飾る方ではない。よほどこの店の細工に惹かれるのか、それとも誰か贈りたい相手がいるのか。
星には、藍が贈り物をする相手は主である紫以外に考えられなかった。紫は派手好きで様々な衣装を持っているし、橙はすばしっこく動き回るので装飾品は邪魔になりそうだ。
星はふと、藍が見つめている蓮の飾りに目を留めた。蓮の花は神聖な仏の台座であり、聖とその弟の名にも蓮の字が入れられている。ガラスか何かの細工で作られたそれは、真紅に染まっているかと思いきや、光の加減で真逆の青色にも見える。
財宝に価値は感じない。藍に言った言葉は嘘ではない。それでも煌びやかな装飾品に心が惹かれるのは、乙女心というものだろうか。
だから扱いに気をつけるべきなのよ、と自分に言い聞かせて、星は装飾品の店を離れた。命蓮寺に土産でも買って帰ろうか、と考える。立ち並ぶ店を遠くから眺めてみるが、めぼしいものはない。藍の方を見るとまだ時間がかかるようなので、星は藍に言われた縁台へと向かい、腰掛けた。
簡素な休憩所のようだが、旧都の喧騒が一望できる。星は妖怪達の賑やかな様を眺めながら、知識として持っていた地底の妖怪達について思い起こす。
鶴瓶落とし、土蜘蛛、橋姫、鬼。地霊殿にはさとり妖怪に火車、地獄鴉が住むという。そのうち、土蜘蛛と鬼には今日出会った。片や命蓮寺の仲間を評され、片や旧友からの不満を告げられた。地底に住む妖怪達の、命蓮寺に対する考えはそれぞれのようだが、ひとまずムラサや一輪が地底で浮いた存在でなかったことにほっとする。

(嫌われ者だからって、悪い妖怪ばかりなはずがないのよね)

無論、星が今日見てきたのは、地底のほんの一部に過ぎない。もしかしたら地上に住む星が立ち入れない場所だとか、知られざる恐ろしい秘密があるのかもしれない。とはいえ、聖が程よい距離を探り、一輪が疎み、ムラサが時折足を運ぶ地底という場所を少しでも知れたのは僥倖だった。
それにしても、気がかりなのは行方知らずのナズーリンであり、付き纏い続ける謎の気配である。あの気配の正体は、ナズーリンに悪さをしないだろうか。何か企みがあるのか。今までに得た地底の知識を総動員して考えても、星にはわからなかった。

「ごめん、待たせたね」

藍の声がして、星は思考の海から帰ってきた。それなりに時間がかかったわりには、藍は手ぶらだ。結局何も買わなかったのか、どこかに仕舞い込んだのか。

「寒くない?」
「平気ですよ」

藍は星の隣に腰掛けた。地底には相変わらず雪がちらついている。二人はそのまま旧都の街並みを眺めた。

「地底には、色んな妖怪がいるんですね」
「ああ。中には鬼のように地上のルールに馴染めなくて、自ら地底に来た者もいるくらいだからね」

地底の妖怪達には、聖も手を出しかねている。聖としては救いの手を差し伸べたいが、曲者揃いでヤマメのように命蓮寺側から拒んだ者もいる。今日、地底の様子を見てわかったが、地底には地底の秩序で生きることを望む者も多いのだろう。

「星、どうかした?」
「いえ。聖が地底の妖怪と向き合うにはどうすればいいか、と考えあぐねていたことを思い出したのです」
「地底の妖怪とねえ。相変わらずお人好しなお坊さんだよね」
「藍はどう思いますか? やはり、聖の言うようにある程度の距離が必要なんでしょうか」
「幻想郷はすべてを受け入れる。けれど住む者達はその限りでない」

受け入れたくない者もいるのだ、と藍は言った。
地底は旧地獄の一部である。しかし、地上から追放された者、地上に馴染めなくなった者達の見方によっては、ここは地獄ではなく楽土なのだ。
地底に住む妖怪達も、無理な共生は望んでいないのだろう、と星も薄々察していた。すでに地底にも都市は築かれた。こっちはこっちで好きにやらせてもらうよ、という妖怪の笑い声が聞こえるようである。

「その辺りのことは、私より命蓮寺の仲間達と相談し合う方がいいだろう。それより、貴方が適切な距離をつかみかねている相手はすぐ近くにいるんじゃない?」
「……ナズーリンのことですか?」
「なんだかほっとけなくてね。私も橙の扱いに困ることがあるから」
「そうですね。私達、部下に手を焼くのも同じでしたものね」

二人は顔を見合わせて、笑い合う。
……藍になら、少し愚痴めいたことを話してもいいだろうか。星は視線を再び旧都の街並みへ移して、淡々と語り始めた。

「ナズーリンはよくできた部下ですよ。賢くて、俊敏で、私の元で賢明に働いてくれます。……たまに勝手な行動を取られてしまいますけどね。思えばもう千年近く一緒にいるというのに、私は未だにナズーリンのことがわからないんです」

ナズーリンは、星をどう思っているのだろう。結果的に過ごした時間は聖や一輪達よりも長く、千年もの年月を共に過ごした。星はナズーリンを信頼していたし、ナズーリンは仲間には言えない頼みを聞いてくれる。けれど言葉ばかり慇懃で、未だに態度は尊大である。たまに主人らしく諭してみても、空回りしてばかりだ。
信ずるものが違うと、見ているものが違なるのか。星が本物の毘沙門天ではないから、平行線を辿るように噛み合わないのだろうか。

「……やはり、本物の毘沙門天様には及ばないのでしょう」

星は力なく笑った。宝塔といい、財宝集めの能力といい、星の力は借り物だらけだ。虎の妖怪として生まれながら、持っていた本能は何も星を満たしてくれず、聖に優しく牙をもがれた。だから聖の元で修行し身につけた法の力だけが本物なのだ。
星にとって聖が一番大事な存在であるように、ナズーリンには本物の毘沙門天だけが頼りなのかもしれない。星の命令を聞くのも、それが毘沙門天からの司令によるからに過ぎないのだろうか。

「そうかな?」

藍は星の話を聞き、得心がいかない、というように首をかしげていた。

「仮にナズーリンにとっての第一が毘沙門天だったとしても、星を蔑ろにする理由になるだろうか?」

藍の金の瞳に真っ直ぐ見つめられて、星はたじろいだ。

「それは、私があくまで代理に過ぎなくて、宝塔も借り物だからで……」
「私だって借り物ばかりだよ。式神も、弾幕も、紫様のお力を真似たものだらけだ。さっき星に言った目に見えないものの話だって、ほとんどは紫様の受け売りなのさ。……だけど、心はどうにもならない。私だけのものなんだ」

藍の目が、優しく細められる。眼差しは遠くを見つめている。視線の先に紫がいるのだと、星にはすぐわかった。藍が紫のことを思う時、藍はとびきり美しい顔をする。

「私は紫様のことが一番大切だ。だけど、橙をかわいく思う。紫様と比べるわけじゃないけどね。それに」

振り返った藍は、金の瞳を一番星のように輝かせて笑いかけた。

「こうして星と一緒に出かけて話していると楽しいんだ。友達になるってうなずいてくれて、嬉しかった」
「そんな……」

藍に笑顔を向けられて、星は頬が熱くなる。
嬉しかったのは、こっちも同じだ。藍と出かけたり話したりするのは楽しくて、だけどこの関係を“友達”と名づけていいのか自信がなかった。藍はストイックで紫に一途で、それ以外のものは必要としていないのではないかと思っていた。
だから藍に“友達”と言ってもらえるのが嬉しくて、その響きを聞くだけで星の心は高鳴るのだ。

「ねえ、星。たとえ一番大切なものは譲れなくても、ほかに大切なものは持てるんじゃないか? たとえば、星が地底に来るきっかけになった、ムラサや一輪のことだとか」

藍に仲間達の名前を挙げられて――星は、目の前の靄が晴れたような心地がした。
星の手の中にあるのは、借り物ばかりではなかった。初めは獰猛な虎の本能しか持っていなかったのが、聖に出会って、名前をもらって、大切なものが次々に増えていったのだ。
星の頭に、屋台で見た蓮の花の飾りがよぎった。そうか、と閃く。

「九品蓮台と同じなんです」
「九品蓮台? ああ、仏の御座席のことか」

九品蓮台は上、中、下、さらに上の上、上の中……と九つに別れる。順番はあれど、神聖な浄土の蓮台であることに変わりはない。
星にとっての一番は聖だ。それは決して揺るぐことはない。けれどムラサも一輪も雲山も、響子も、信者や檀家でなくともぬえやマミゾウも、もちろんナズーリンだって、星にとって大切なのだ。

「私は九品蓮台に入れてもらえるなら何番でもいいんです。もし、ナズーリンが私のことを少しでも気にかけてくれるなら、それで充分です」

ナズーリンにとっての自分が何番目か、なんてどうでもよかった。星にとってナズーリンは確かに大切なものだし、今はナズーリンの心がわからなくとも、たまに気にかけてくれるのならそれでよかった。

「きっと、もう入っていると思うよ」

藍が優しくつぶやいた。相変わらず雪が降り続けているのに、二人の周りだけ空気が暖かかった。
その時――三度目の何とやら、またも藍の目つきが険しくなる。

「しつこい奴だな!」
「きりがありませんよ!」

ほぼ同時に立ち上がって、藍と星は身構える。
それにしても、異様だ。星のことはほとんど構わず、どうして藍の背後にばかり現れるのだろう。藍に恨みでもあるのか、尻尾に触れて……。

「――そこだ!」

刹那、見慣れたロッドが飛んできた。ロッドは藍の真後ろの地面に突き刺さる。間髪入れずに星の目の前に現れた影に、星は目を疑った。

「ご主人様、宝塔を! 早く!」
「えっ――ええ!」

ナズーリンの急かすような口調に、星は言われるまま宝塔の光を強く放つ。清浄な法の光が辺りを照らし出した。

「わっ、まぶしー!」

光に照らされて、ナズーリンが投げたロッドのすぐ側に現れたのは――帽子を深く被った、見知らぬ少女であった。
姿は地霊殿に住むサトリ妖怪、古明地さとりに似ている。けれど決定的に異なるのは、サトリの証たる第三の目が固く閉じていることだ。
藍は妖怪少女の存在を認めて、驚いたように目を見張った。

「あれが、私達をつけ回していたやつの正体か?」
「古明地こいし。あの地霊殿の主、古明地さとりの妹だよ。まったく、簡単に気配を消してふらふら動き回るから後を追うのも大変だったよ」

ナズーリンがやれやれとため息をつく。少女、こいしは目をしきりに擦って、自分を見つめているナズーリン達に気づくと、

「あら? 私が見えているのね?」

きょとんと小首をかしげた。仕草も口調も幼く、あどけない子供のようである。
傍から見れば人畜無害な少女だ。一体何の目的で、藍達に近づいたのか。藍は恐る恐る、こいしに話しかける。

「……まさかとは思うが、お前がさっきから私達につきまとっていた妖怪か?」
「やっと気づいてくれたの?」

こいしはうふふ、と無邪気に笑う。瞳はぼんやりと虚ろで、何を考えているのか読み取ることができない。

「だって、あなたはお姉ちゃんのペットよりも尻尾が多いんだもの。最近とっても寒いでしょ? ふさふさで、もふもふで、あったかそうだなーって思ってたら、いつのまにか触っちゃってたみたいね」

そんな他人事みたいに。藍は顔をひきつらせて、こいしに問いかける。

「……つまり、あれか? お前が私の後ろに現れたのは、私の尻尾を湯たんぽ代わりにしたかっただけだと?」
「あなたはほとんど隙がないのに、ちっとも私に気づいてくれないから、気を引くのが大変だったわー」

藍ががくりとうなだれているのも意に介さず、こいしはころころと笑っていた。
終わってみれば何とも脱力する話だ。ほとんど気配を感じられなかったのはこいしが瞳を閉ざし何者にも認知されないからで、無意識のうちに動いていた、というのも無意識を操る妖怪だからなせる技だ。
もしや危険な妖怪かと神経を尖らせていたのはなんだったというのか。星もまた力なく笑った。
そこで、くるりと振り返ったこいしの目が星を捉える。

「そっちの虎さんは最近までいた妖怪の仲間よね?」
「そうですけど。貴方、ムラサや一輪を知ってるんですか?」
「知ってるよ。私、たまに地上に出た時にお寺にも寄ったことがあるもの。舟幽霊が血の池地獄で溺れてたのも見たことがあるわ」

寺に来ていたと聞いて、星は驚きを隠せなかった。
命蓮寺に訪れる客の顔は一人残らず覚えていたつもりだが、目の前の妖怪少女を見た記憶はない。

「貴方がお寺にいらしていたとは、存じませんでした」
「お寺はお客さんがいっぱいで誰も私に気づかないわ。けど、生きた者と死んだ者のにおいが混じった素敵な場所ね。また行きたいなあ。ねぇ、いいでしょう?」

こいしはにっこり笑っている。
星はそこでようやくこいしという妖怪を聖が気にかけていたのを思い出した。聖は彼女の瞳を閉ざした状態、無意識の心に“空”を見出したのである。こいしの動機はいささか不純だが、引き入れれば案外聖にとっては願ったり叶ったりではないか。

「聖は貴方を歓迎してくれると思いますよ」
「ほんと? やったー」
「……とりあえず、そろそろ私の尻尾を離してくれないか?」

星と話している間、ずっと尻尾を弄ばれ続けていた藍は不服そうに声を上げる。こいしは無邪気に喜んでいるが、果たして本心からなのか、星にはわからない。ひたすら藍の尻尾をいじっているのも無意識なのかもしれない。
不意に、こいしの視線が星の手に掲げられた宝塔に移る。

「それ、とても眩しい光を放つのね。カンテラか何か?」
「いいえ、毘沙門天の宝塔ですよ」
「宝塔? じゃあ宝物なんだ」
「そうですね」

まさか、藍の尻尾の次は宝塔に興味を示したのか。そんな星の心を――第三の目は閉じているのに――まるで悟ったかのように、こいしはイーと歯を見せる。

「いらないよーだ。私は私の宝物を見つけるんだもん」
「貴方にとっての宝物とは、何ですか?」

興味本位で星が問いかけると、こいしは虚ろな目で笑って、

「うふふ、ないしょ!」

といたずらっぽく言うのだった。
何を考えているのかまったく読めないこいしが、大事にしたくなる宝物とはなんだろうか。考えているうちに、気がついたらこいしは消えていた。いや、星達の意識の外へ行ってしまったと言う方が正しいだろうか。
彼女はまだ近くにいるのかもしれないし、無意識に遠くへ行ってしまったのかもしれない。
聖はこいしに何か興味を持ったようだが、果たしてあれが“空”の境地なのか。星には合点がいかなかった。

「ま、一件落着ってことでいいんじゃないですかね。弟子が増えれば聖はきっと喜びますよ」
「ナズーリン。一つ、聞きたいことがあるんだが」

ようやくこいしから解放された藍は、尻尾の毛並みを整えていた。藍はナズーリンを呼び止めて、抱く疑念をぶつけるように問いかけた。

「貴方はもしかして、宝探しのふりをして、最初からあのサトリ妖怪を探っていたのか? ……星を守るために」
「さて、何のことかな? あの妖怪は貴方にばかり興味を示していたようだしね」

ナズーリンはすっとぼけて答える。
星はまさか、と驚きを隠せない。連絡もなしに地底へついてきたのも。途中で宝探しだといっていなくなったのも。そして三度目にこいしが現れた時に帰ってきたのも、すべては、星の身を案じての行動だったのか?

「ナズーリン、まさか、私を心配して、地底までついてきてくれたんですか?」
「やれやれ。ご主人様、貴方もたいがい鈍いお方ですね」

ナズーリンはいつもの皮肉な笑みを浮かべた。かと思えば視線を逸らし、そっぽを向いた。

「私を単なるスパイとでもお思いか。……いくらお目付役とはいえ、千年も経てば、少しは情が移るものですよ」

ぼそりと微かな声で呟かれた言葉は、星の耳にもしかと届いた。ナズーリンは決して星を見ようとしないが、大きな耳が落ち着きなく揺れ動き、ふちがほんのり赤く染まっている。
――ああ、わかっていなかったのは自分じゃないか。
星の胸に感慨が込み上げてきて、じわじわと目元が熱くなる。ナズーリンはただ監視のためだけ、毘沙門天のためだけに星に従っているのではなかった。ちゃんと星のことを思っていてくれた。目に見えない大切なものを、気づきもせず見ようとしていなかったのは、自分の方だったんだ。

「ナズーリン!」

思わず星は、ナズーリンの両手を握って上下にぶんぶん振っていた。いつも平静ぶっているナズーリンが珍しく目を丸くして慌てている。

「ちょ、ちょ! 手を握らないでください、宝塔落としますよ!」
「ナズーリン、お願いがあるの」

星の手から離れた宝塔はというと、藍がきっちり拾っていた。星が真っ直ぐにナズーリンを見つめると、ナズーリンは星の気迫にたじろいだ。

「ナズーリンがお寺に住みたくないならそれで構わないわ。ナズーリンの一番が毘沙門天様でもいいの。私は頼りないし、ナズーリンを困らせるかもしれない。だけど、もう少しだけ私の部下として、私の手伝いをしてくれる?」

星の頼み事を聞いたナズーリンは、しばしぽかんとしていた。やがて、仕方ないと言わんばかりにため息をつくと、

「……ま、これも乗りかかった船か。せいぜいお供して差し上げますよ」

いつもの皮肉めいた表情で、口元をつり上げた。星が手を強く握りしめると、うっとうしいと払われてしまった。けれど星はちっともそっけないとは思わなかった。

「星を鈍いと言うけれど、貴方もたいがい素直じゃないな」
「藍さん。少しいいかな」

二人のやりとりを見守っていた藍が苦笑混じりに言うと、ナズーリンは藍を招き寄せる。そのまま旧都の方へ歩いて行こうとするので、星が追いかけると、

「ご主人様、ちょっと待っていてくれませんか。私はこの人に話があるんだ」

と止められて、星はナズーリンが何を言うつもりなのか、気になりつつも大人しく待つことにした。
星から充分な距離を取ったところで、藍はナズーリンに尋ねた。

「そんなに星に聞かれたくない話なのか?」
「……ご主人様はね、ちょっとうっかりしているところもあるが、真面目で優秀なお方だ。だけど優秀すぎて、自分の本心まで見事に隠してしまう」
「星は一輪達と同じように、貴方を信頼しているように見えるけど?」
「さあね。対等な仲間と気を遣わなくていい部下相手とじゃ違うだろう。今は聖も復活して、仲間達とも再会して、ご主人様は楽しくやっている。けれど、友達だなんて言って寺の外へと連れ出す変わり者は貴方くらいだ」
「変わり者? 私が?」
「そうだとも。……藍さん、貴方の気が済むまで、ご主人様と仲良くしてくれないか。ご主人様は貴方に心を許しているみたいだから。聖に対するものとも、一輪達に対するものとも違う」
「あまり実感はないんだが……なるほど、貴方が初めに私につっかかってきたのは心配からくる対抗意識か?」
「策士の九尾ともあろう方が下衆な勘繰りをするんじゃないよ」
「素直になればいいのに」

藍は肩をすくめた。

「心配しなくても、これからも仲良くするよ。私にとっても、星は初めての友達といってもいい存在だからね」



あれからこいしが再び藍の後ろに現れることはなく、旧都の散策をあらかた終えたところで、三人は再び地上に戻ってきた。ナズーリンは縦穴をくぐり切るや否や、宝は見つからないし地底はもうこりごりだと言って帰ってしまった。役目を果たしたからか、二人に気を遣ったからかは不明だ。
地底にいると時間の感覚がわからなくなる。地上に出ると、冬の短い日がすっかり暮れていた。命蓮寺の前まで送ってもらって、星は藍に別れの挨拶をした。

「今日はありがとうございました。地底がどういう場所なのか知れてよかったです」
「それはよかった。だけど、やはり地底が危険なことに変わりない。あまり来ないようにしよう」
「ふふ、またこいしさんにじゃれつかれたら困りますもんね」
「そうなんだよ……」

藍はうんざりしたようにため息をつく。見慣れぬ妖怪に簡単に背後を取られた挙句、尻尾を弄ばれて藍は精神的にも消耗しているようだ。

「はらはらすることもありましたが、今日地底に足を運んだのは無駄じゃなかったと思います。見落としていた大切なことにも気づけましたから」

ナズーリンの少しふてくされたような顔を思い出して、星は微笑んだ。
名残惜しいが、そろそろ寺の中へ戻らなければ。星が踵を返そうとしたその時、藍が落ち着きなく袖の中で手を組んだり離したりしているのに気づいた。

「藍? どうかしましたか?」
「星……これを受け取ってくれる?」

藍が意を決したように懐から取り出し、星に差し出したものを見て――星は思わず己の目を疑った。
光の屈折で赤にも青にも見える細工の花は、地底の露店に煌めいていた、蓮の花の髪飾りだ。藍がじっと見つめていた、星がいっとき心を惹かれたものである。

「星は財宝の類に価値を感じないと言っていたから、ずいぶん迷ったんだけどね。蓮の花は、星に似合うと思って。その飾りに、少し似ているだろう?」

藍は照れ臭そうに頬をかきながら、星の頭上を指さした。
星の頭上の飾りは、毘沙門天が背負う炎を模したものだが、見方によっては確かに花弁をほころばせた花にも似ている。
あの髪飾りは、紫に贈るものではなかったのか。いつも滅多なことでは迷わず、その式神の頭脳で最適解を導き出す藍が、あんなに時間をかけて悩んでいたのは、星のためだったというのか?

「飾り物が嫌なら、ただ部屋に置くだけでもいいから。地底の土産ってことで、寺のみんなに見せたらどうかな?」

呆然としている星の沈黙を困惑と受け取ったのか、藍が焦ったように付け加える。
星の胸がきゅうと締め付けられた。鼓動は高鳴りを増してゆく。藍が自分のために悩んでくれたことが、迷いに迷って、それでも贈り物をしたいと思ってくれたことが、嬉しくてたまらなかった。
戸惑う藍の手から蓮の花を受け取って、星は満面の笑みで答えた。

「ありがとうございます。贈り物なんていつぶりでしょうか……大事にしますね」
「よかった……迷惑じゃなくて」

藍はあからさまにほっとした表情をする。迷惑だなんてとんでもない。もったいなくて普段から使うことはできないかもしれないが、藍がくれた思いの方が重要なのだ。

「それじゃ、そろそろおいとまするよ。星、寒いから風邪には気をつけて」
「藍こそ、気をつけて。……それじゃあ、また」

雪の降る空へと飛んで行く藍を見送って、星はまっすぐに自室へと向かった。仲間達に帰宅の挨拶をするべきなのだろうが、蓮の髪飾りのことで揶揄されるのが気恥ずかしい。
星の自室は簡素で必要最低限のものしか置かれていない。蓮の髪飾りを円卓の上にそっと降ろすと、格子の隙間から差し込む光で花弁がきらきらと光った。

「きれい……」

星はひとりごちた。殺風景な部屋に明かりが灯ったかのようである。
赤い光は燃える炎を。青い光は、その色を冠した藍を思い起こさせる。
暖房も入れてない自室は冷え切っているのに、星はじっと藍のくれた髪飾りを眺めていた。藍のくれる温もりは、優しいのに切ない。聖や一輪、雲山、ムラサ、ナズーリン、皆の好意は星の心を温かくするのに、藍のそれは少しだけ違う。

(藍が、私の友達、だから?)

星の九品蓮台には、とっくに藍も入っているのだ。藍もまた星にとって大切な人で、初めての友達で。友達というのは、思うだけでこんなに胸が甘く軋んだりするものなんだろうか。どきどきして、落ち着かなくて、頬は熱くなって、けれどそれが決して不快でなく、心が弾みすらする。
日が落ちて、外の雪はいっそう冷たさを増してゆく。星は枯れることのない地底の花を、いつまでも見つめ続けていた。

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