1.発端
"願い"とはなんであるか。
思考を巡らせるのは人ではない。暇を持て余した賢人や仙人でもなく、意図せず高尚足り得る疑問を抱いた童でもなかった。
全身を覆う濡羽色の外套。そこから覗く深紅の双眼はある男の背中を見ている。人里から外れ、月明かりさえ阻む森の中で子の刻も過ぎた今、彼は何も見えず、だのに何かを見て恐れ戦き必死に脚を動かしている。
外套に身を包んだそれは思考を中断し、しばしの観察の後、背後から男の頭を鷲掴み地面に叩き付けた。
およそ人と思えぬ呻きを上げもがく男は、おぞましくも言い訳を口にする。
「俺はただあの人とねんごろになりたかっただけだ! それなのにッッ!」
男は願った。"向かいの家の女とまぐわいたい"と。
夫から彼女を奪ってやりたい、何故あんな男が彼女と。そんな怨恨渦巻く芳醇な嫉妬の願いだ。
人とは、いつの時代も変わらぬ。外套のそれは、そんな人が堪らなくいとおしいと感じている。
気が付けば、舌なめずりをしている己に気付く。
「あ、あぁ、お願いだ……、死にたく……」
残念。願いは叶えた。
それに、腹が減ったんだ。
「天狗……様……ッ」
断末魔、男は下半身から徐々に胃の腑に落ちながらそう言った。
そう、"私は天狗である"。
最後の髪の毛を啜りながら、再び天狗は思考を巡らせ夜の闇に消えていった。
◇◇◇
それは遥か天上をたゆたい、地上を視る。
黒い双翼は夏の陽射しを受け少しだけ青みを帯びていた。
人を寄せ付けぬ禁制の山から、口許を嫌味に吊り上げた彼女はやってくる。
かつて畏れられた者たちが蔓延る、ある種の楽園『幻想郷』においてもっとも里に近いとされる。
彼女は、天狗である。
力を持ち、それがゆえに力を行使せぬ鴉天狗、射命丸 文にとっての最大の武器はペン。ペン先から紡ぐ情報という力は昨今、外の世界と同じく『幻想郷』でも重要視されはじめていた。
今日という日もまた取材日和。
文は翼を力強く羽ばたくと、多くが集う人里へと体を向けた。
◇◇◇
文は驚愕した。
自身が発行している〈文々。新聞〉を委託し販売している人里の妖書屋――もとい貸本屋『鈴奈庵』に、見慣れぬが見慣れた別の新聞が堂々と鎮座していたのだ。
店主に聞けば、委託された部数は同じであるという。
指で厚みを計る。どう見たって〈文々。新聞〉の方が〈花果子念報〉より残っている。
由々しき事態だ。
「つかぬことお聞きしますが、いつから?」
「前回あなたが新聞を置いていった直後です。なんかこそこそしながらやってきたんですよ。姫海棠さんって言う人…というか天狗さん」
喧嘩を売られている。明白だ。
文が渋い顔をしていると、店主の本居 小鈴は何の邪気もない笑顔でこうのたまう。
「実は最近そちらの新聞の方が人気なんですよ! なんでも幻想郷の新たな名所のレビューがあって、それが若い人達に受けているようで…」
言う小鈴の熱も高く、どうやら本当に人気になっているらしい。
正直触れることすら憚られるライバル紙を開くのは思うところが有りすぎるのだが、敵情視察も仕事の内と割り切り〈花果子念報〉を開く。
基本は取るに足らない記事の集まりなのだが、その中で視線を惹き付けるものが一つ。
〈姫海棠的名所探訪〉と銘打たれた、例の新名所記事である。
《今回の『幻想郷』新名所は、以前にも紹介し大反響を得たこちら! 一見するとただのちょっと大きめの石、しかしこれは願いが叶う石! この真相に特派員は迫ります!》
ここまで読んで、深い嘆息と共に新聞を閉じた。何故こんなものが人々の心を掴めたのか、まるで理解できなかった。
エンターテイメント性は乏しく、客観的ではなく、何より何故願い事が叶うなどと適当を吹聴するのか。
しかし事実として〈文々。新聞〉より数が出ている。
相手が宗教家にも似た胡散臭い商売に出るならば、こちらは正攻法で行くべきだろう。
さっそく取材だ! そう息巻く文は中々に怪しい笑みを湛えていて、それを傍目に見る小鈴は軽い怖気を覚えたのだった。
◇◇◇
「すいません、もう一度いいですか?」
カーキ色の帽子、同色のジャケットにパンツといういかにもステレオタイプな取材人スタイルに着替え、極力人間に正体が見破られぬよう人里に入った。
まぁバレたところで、と内心思っているのは内緒。
しかし話はバレることがかなりの危険信号に繋がるように転がり始めていた。
最初に尋ねた疲れた顔をした男性や、次の暇そうに茶屋の外席に座る青年、子供連れのご婦人は口々に「天気が悪い」「仕事が無い」「この子に魚を食べさせたい」という何でもない日々の愚痴ぐらいしか聞けなかったのだが、今まさに話を聞いている八百屋の女将の話は息を呑んだ。
「だからね、こう羽がワサワサーってした天狗がこの辺の人を拐ってるの! この間は漁商の旦那さんが帰ってこなかったって話だし…」
かく言う私も天狗ですが――という言葉をぐっと飲み込みつつ、そんな話があるのか? と思考を巡らせる。
確かに天狗は戯れや弟子の候補として子供を拐かすことはある。いや正確にはあった。だがそれは『幻想郷』などという隔離世界が必要になるずっと前の話だ。
人と妖怪のバランスが崩れ、種の存続すら危ぶまれる外の世界であればともかく、『幻想郷』においては安易に人々に危害を加えればむしろ種を脅かさんとする行為だ。
ただでさえ先の〈四季異変〉の件もあり、天狗社会は今緊張状態であるのだ。
第一、羽がワサワサとした天狗など聞いたこともない。
「それが天狗である根拠はあるんですか?」
「"人を拐かすのは天狗しかいない"って。あと拐われた人の家や、事件現場には黒い羽が落ちてたそうだからね。そりゃあ間違い無いってもんさぁ」
なるほど、文花帖に走らせていたペンを口許に持ってくる。
状況証拠や人間側の心情から来る何とも雑な断定に少し眉根をひそませながら、情報を整理していく。
今からおよそ一ヶ月程前から、性別・年齢を問わず複数人が突如として失踪している。
最初の被害者は寺子屋帰りの女の子であり、異変を察した教師が飛び立つ黒い影を見たという。子供を拐かす黒い影という特徴から、犯人は天狗という憶測が立った。
次の被害者は猟師の男。酒を呑みかわす約束があったとかで、猟師仲間が家を尋ねると既に荒らされた部屋に男はいなかった。また黒い羽が部屋に落ちており、天狗の犯行が人々の中で確信に変わる。
そこからはパタリと失踪は無くなるも、つい数日前に一人の男が失踪する。慌てて森の方に走っていくのを薬売りが見ていた。
現状犯人を断定する材料は無いのだが、 恐怖心や猜疑心から人里の者らは人ではない天狗の犯行という依り代にすがっている。天狗からすればなんとはた迷惑な話しかとも思うが、同時にこれは好機でもある。
里を恐怖に陥れる怪異をつまびらかにする輝かしい記事の載った新聞があれば、はたての雑なカルト新聞になど後れはとらないだろう。
そんなことを考えていると、八百屋の女将が怪訝な表情でこちらを見ていることに気付く。
「こほん。あ、いいキャベツですね」
誤魔化すために適当に品物を誉めたのがバレたのか、はたまた突然過ぎたか、女将は少し小首を傾げていたが、それでも誉められたのは気分が良かったらしく「上手いこと言って」とカラカラ笑っていた。
これ以上はあまり収穫が無さそうだと踏み、一礼して八百屋を後にしようとする。
「あぁ、待ちなって」
「はい?」
「はいこれ。あんた細いし、食べなきゃ取材なんてやってらんないでしょ?」
渡されたのはいくつかの野菜が入った籠だった。
突然のことで面食らう文の顔を見て女将は嬉しそうにまた笑う。
「他の野菜は農家さんから仕入れて来るんだけど、このキャベツだけは自家製でね。旦那が作っててモノに自信が……まぁちょっと今あるのは微妙かもねぇ」
「そんなことはありませんよ。ありがとうございます」
再び会釈し踵を返す。
肩にかけた籠から覗く野菜を一瞥すると、脳裏に鍋料理のビジョンが浮かび少しだけ歩が軽やかになるのだった。
◇◇◇
およそ道とは言えぬ道で、軽快な木槌音を鳴らす。
まさに断崖。落ちれば御陀仏。唸る水音死を孕む。
そんな獣さえも尻尾を巻く滝の飛沫が飛ぶ岩場を、一人の少女が慣れた身のこなしで進んでいく。木槌の音は高下駄の歯が岩を打つそれであった。
無造作な白銀の髪を掻きむしり、不機嫌そうな相貌で深い嘆息。
彼女の名は犬走 椛という。天狗が実質支配する『妖怪の山』の哨戒任務を主とする白狼天狗の一人である。下っ端の椛にとって、必要なのは無遅刻無欠勤――仕事内容は問わない――ぐらいだが、今日という日はなんとも――
「あぁ、気が重い」
日頃から腰に差している刀も、普段はそう思うことなどまず無いのだが、何となくズッシリと重い気がした。
その要因は、今から少し前に遡る。
厳かな内装。だだっ広い割に物が少なく、妖怪密度もあまりに低い。そして正面に視線をやれば屏風を背景に主がいない厚畳が敷かれている。そんな部屋の真ん中に一人座らせられていて落ち着けという方が無理な話。
特に椛はこういう場には疎い。この手の部屋が使われる際は大方外で千里眼を効かせているのだから。
そもそも哨戒役の中でも一介の使い走りがこの部屋に、しかも単身で呼びつけられるのは事であり、そういう意味でも体は自然と強張った。
面倒にならなければいいのだが。
「待たせたか」
襖を開けて、身の丈が椛のニ倍はあろうかと言う巨大な者が現れ厚畳に腰をおろした。
天狗にはいくつかの種類と、その種類には固有の役割がある。前述したように、椛は白狼天狗で哨戒を主とする。鼻高天狗は事務勤め、印刷業務の山伏天狗、鴉天狗は情報収集――新聞記者はその一環――だ。
そしてピラミッド型の天狗社会において二番目に位置するのが大天狗である。
半ば天井とも言える存在からの名指し、一体どのような。
「そう緊張せずとも。別段重要な話でもないのだ。いや個人的には、まぁ」
歯切れが悪い。何かあるのか。
「昨今、人里を騒がせている事件は知っているか?」
「いえ…」
「神隠し、いや明確に犯人が目撃された拐かしが横行している。それであれば我々には関する理由は皆無なのだが……」
大天狗は立ち上がり、窓から外を眺めつつ言う。
「それが天狗のものだという噂が立っている」
まさか。椛は出そうになったその言葉を呑み込み、一度落とした視線を上げた。
「秘密裏に調査はした。が、結果は天狗による仕業ではないという裏付けばかり。しかし被害は増える一方だ。他の大天狗は捨ておけと言うが、どうしたものか胸騒ぎが治まらぬのだ」
確かに放っておけばいずれ解決する案件だ。巫女も人ではない何かしらの所業と分かれば動くだろうし、自ずと真犯人も挙げられよう。
が、彼の大天狗には引っ掛かるものがあるらしく、やはり納得がいかぬらしい。
「しかし、何故"天狗"なのだ。我々を貶めて利を得る者などそうおるまい。まして今は摩多羅の件もある。これ以上の面倒は御免被るのだが……」
摩多羅隠岐奈。永年に渡り天狗を消す者として悩みの種であった彼女。そんな神物(じんぶつ)が突然提示してきた平和協定は天狗の里を混乱の渦に叩き落としていた。
そこに加えて今回の件。大天狗ならざれど、その心痛は想像に難くない。
「……人里に降り、調査をすればよいのですね?」
話が中々進まぬため、椛はそう切り出す。すると大天狗は黙って頷いた。
一つ頭を下げ、座ったまま一歩分下がってから立ち上がり、踵を返そうとすると声が掛かった。
「まぁ待て。実はな、個人的に事件について調べている天狗がいてな。その者にも協力を仰ぐように」
嫌な予感がして、眉根がピクリとする。
「その者の名は――」
何故、よりにもよってあいつと。
大天狗の基を後にしてから、ずっとそのことを考えていた。
何かと嫌がらせをしてくるあの鴉天狗。刀を勝手に持ち出したり、突風を吹かせたりは序の口で、かつて山に神が突如として現れた際には《スペルカード》を隠されなんとも情けない様を晒してしまった。
正直なところ、関わっていないはずがないとは思っていた。ブンヤ業は事件を察知する嗅覚があってこそ。あの鴉天狗はその辺りに関しては特筆すべき才があったからだ。
であれば、出来るだけ顔を合わせないように立ち回るつもりだったのだが、協力を仰ぐようになどと言われてしまっては下っ端の身分で不満を口に出来るわけもなく。
もうすぐ人里、変装用の外套の頭巾を目深に被り天狗であることを隠す。
早く終わらないかなぁと、内心辟易としながら森に足を踏み入れた。
瞬間、違和感を覚える。同時に木々、動物達がざわめいているのを集中せずとも感じた。
いかんともし難いその違和感は、まるで何かに見られているような。
「これは、あいつがどうこうなんて言ってる場合では無さそうだ」
独り言つ。
最大級の警戒を張り巡らして、椛は森の向こう、人里を目指すのだった。
◇◇◇
一先ずの取材を終わらせ、人里から天狗の里のある『妖怪の山』への帰路につく文を、凛としつつ刺のある声が引き留めた。
「あ、犯人発見」
なんとも物騒な内容である。
「私が拐かしなんてすると思います? それにそんなことしたら我々の立場が無いでしょう」
彼女は野分(台風)の件で天狗が人間に対してどのようなスタンスであるかを知っている。同時に小鈴のこともある。
日頃妖怪たちの甘言をのらりくらりとかわしていても、こちらが人間にとってのメリットを与えている以上はそこまで否定することは出来ようはずがなかった。
一つ嘆息すると、相変わらず紅白色の派手な身形の少女、博麗霊夢は怪訝な表情そのままに文に続けた。
「そりゃ私だってあんたらを疑ってるわけじゃあないわよ。"妖怪の仕業じゃない"って話だしね。ただブンヤのあんたなら何か知ってるかなーって」
肩をすくめ、「生憎と」と否定を示す。
その際、手に持った籠を伺う霊夢に文は気付いた。
「これですか。先程取材した八百屋の女将からいただいたものです。なんでもキャベツは店主の――」
途中まで説明して、気付いた。霊夢の表情が怪訝なものから複雑な、何か含みのあるようになっていくのを。
「まぁ、知らなくても無理はないわよね。その野菜美味しくいただくのよ?」
「は、はぁ」と抜けた返事をする。少々面食らったが、次の瞬間には(取材チャンス!)という思考が文の頭を駆けていた。
「かくいう霊夢さんは今回の神隠しとも言える事件に関してどうお考えで?」
「取材はお断りよ」
「いえ、これはあくまで天狗という種としての詰問です。我々も濡れ衣を被せられていては鴉の濡羽色をした自慢の翼も萎れてしまうというもの」
嘘である。
「余計に濡れていい感じになるかもよ?」
「本当に濡れては毛羽立つだけ。濡れていないのにさも濡れているかのような鮮やかさが売りですから」
売り言葉に買い言葉――とは違うが、皮肉の投げつけあいに折れたのは意外にも霊夢であった。
霊夢自身、思うところがあったのかもしれない。文に話すことで見えるものもあるかもしれない、と。
「前から拐かしの相談はあったのよ。ただ妖怪が関わってるか曖昧な以上私が動く理由も無いし、聞くだけ聞いて放置していたの。でも最近になって突然相談の数が激増してね、しかも目撃例も出て来た。正直あまり気が乗らないのだけど、珍しく紫にも釘刺されたし」
八雲紫、『幻想郷』の賢者にして管理者。空間にスキマを開き自在に移動する神出鬼没の妖怪。
疑われている天狗であればいざ知らず、彼女が釘をわざわざ刺しに来るほどの事案なのか。
背中が少しざわめく。
「先程"妖怪の仕業じゃない"と仰りましたが?」
「これも紫が言ってたのよ。「これは妖怪の仕業ではないから気を付けなさい」ってね。犯人わかってるなら教えてくれればいいのに」
犯人は妖怪ではない。かと言って人が行うには無理な証言の数々。
なるほど、確かに"天狗の仕業"と丸投げしてしまいたい気持ちもわからなくはない。もっとも迷惑な話であるのは変わらないが。
「こちらは大体喋ったのだから、今度はそっちの番よ。さぁ洗いざらい話しなさい」
この言い様、まるで恫喝であるがここは大人しく従っておくのが良いだろう。幸か不幸か、大した情報の持ち合わせが無いのだから。
文は天狗らしき者の目撃証言、被害者などの情報を口にする。
「――最後に犯人の容姿ですが、全身に羽が生えたような、ワサワサっとした奴で…」
「待った」
霊夢は文の口を制止する。
「私が聞いたのは鼻が長くて顔の赤い天狗だって話よ。まるで違うじゃない」
確かに。どちらかと言えば霊夢が聞いた方が分かりやすく天狗と言える。
目撃証言など常に曖昧な物だが、天狗という共通性を維持しながらもここまで特徴に差が出てしまうものだろうか?
考えを巡らせていると、その思考を断ち切るようにして嘆息が聞こえた。
「魔理沙や早苗も動いてるみたいだけど、まるで何も出てこない。こちらに勘づいて隠れたみたいに思えるのよ。小狡い天狗らしいわよね」
文はわざとらしい挑発に苦笑しつつ、「そんな天狗、小者ですよ」と返した。
情報とは、商売道具であり交渉材料だ。情報交換の際は価値の低いものから順々に出していき、相手からもう成果物が出てこないならば出さずに秘しておく。これこそが記者業界を生き抜くコツのようなもの。
詰まるところ、一つだけ霊夢に伏せていた情報がある。
――嘘である。霊夢と別れた後、情報整理をしていたら気づいたのだ。これをあえて伏せていた方がカッコいいに決まっている。
して、その情報だが、事件現場の傾向、及び逃走経路についてだ。
人里は縦長の形であり、大通りを中心に左右に大小様々な軒が連なっている。
南東側の入口、その程近くに聖白蓮が建立した『命蓮寺』のある方を犯人は避けている節――お経が苦手なのかも――があり、事件の起きた家や道、逃走した方向も北西の『妖怪の山』へ続く道を隔てるように生い茂る森に近い。
つまり、犯人は森を根城にしている可能性があったのだ。
情報として見れば曖昧な上、文の想像を出ないものだったが、確実でないとしても調べてみる価値はある。
腰のケースからカメラを取り出し、帽子を脱ぎ隠していた長耳を露にする。
森に入ってから少しして、木々の放ついつもとは違う異様さが瞬時に体を駆け巡る。これではまるで檻にでも入れられたような、そんな圧迫感や閉塞感。
眼を細め、周囲を警戒する。人ではない、妖怪でもないそんな視線が背中に刺さっている。
ザリ。
地面に擦れたような音が背後より聞こえた。
瞬間、翼を顕現させ地を蹴り超速の身のこなしから、潜む何かにレンズを向けた。
が、
「……子供?」
木の幹に隠れていたのは、うずくまる二人の子供だった。少女と少年。見慣れぬ身形をしているが、それは以前、都市伝説が『幻想郷』にやってきた際に姿を現した宇佐見菫子と雰囲気を同じくしている気がした。
そこでピンと来る。天狗の姿の差違に関してだ。
都市伝説とは作り話、口伝によってその内容は変化し、より力を持つ。つまり、今回も――
いや、未だ未解決の都市伝説異変は曖昧な存在が具現化するものだ。つまり、"天狗と言う存在そのものが明確"である以上は機能しないはず。閃きはあっと言う間に座礁してしまった。
うんうんと唸る文に、少女は「あの……?」と声をかけた。
「あ、あぁごめんなさいね。考え事をしていました」
「いやあの、羽……」
「おっと失礼」
慌てて翼を隠す。今ここで天狗が森にいたなどと人里で言い触らされては情報にノイズが生じる。
「私はただの新聞記者です。今人里で騒ぎになっている拐かしの天狗ではございませんので」
「天……狗?」
少女と少年は顔を見合せ、改めて文を見る。その表情は奇妙なものを見た、というものだ。
確かに妖怪が力を持つ『幻想郷』において文を含む妖怪とは奇妙なものだろうが、そこまでジロジロ見るほどだろうか?
少女は立ち上がると、文に言う。
「ここはどこですか?」
妙な話だ。人里からまだ大して離れていない森の入り口付近。山側から来た、何てことはまずあり得ない。
では何故場所を尋ねたのか。
「ここを真っ直ぐ行けば人里に続く参道に出ますが」
「そ、そうではなく――」
少女が文に詰め寄り二の句を継ぐより前に、ある声が二人の会話を遮った。
それは人ではない。
妖怪でもない。
強いて言うなら鴉であるが、まるで違い、らしく真似ただけの意思無き咆哮だった。
傍らの二人は肩を震わせる。
瞬間、それは枝をその身で折りながら、上空より粗暴に姿を現した。
一瞬だけ視界が"ブれた"が、確かに眼前のそいつはこの世ならざる怪物であり、天狗に仇なす"天狗もどき"であった。
濡羽色の外套にも見える全身を覆う羽毛に、鋭い嘴、深紅の瞳。およそ天狗と見紛うなどありえぬその姿を見て、文は"これは確かに恐怖の対象だ"と考えた。
カメラから天狗扇に持ち替えると、一扇ぎ、暴風が地面を撫で、土塊が辺りに激しく飛び散った。
こちらに向かって飛ぶ土を風のベールで防ぎつつ、人間の二人に言う。
「向こうに走って。全力で」
少女は少し躊躇いを見せつつ頷くと、少年の手を引き走り出した。
目眩ましの効果も切れる頃、羽毛を汚した怪物は変わらずそこにいた。地面が吹き飛んだにも拘わらず、まるで狼狽える様子がないのはなんとも不気味だ。
瞳をギョロと動かし、何かを探している。どうにも文には用向きが無いらしく、首をぐるりと回し狙いを定めたのは逃がした二人の背中だった。
それを察し、直ぐ様その歩を繋ぎ止めるが如く風弾を撃ち出す。圧縮された風は命中と同時に破裂。鋭利な足爪を折り飛ばした。
「何無視しようとしてるのかしら。あなたの相手はこちらですよ。偽者」
不遜、かつ高慢な態度で挑発する。が、馬の耳に念仏。怪物は文を一瞥することもなく、砕けた爪を気にも留ず、両腕より翼を顕し飛び立つと、二人を追い始めた。
地団駄を踏みたい気持ちを堪えつつ、追撃。『幻想郷』において最速を自負する翼が飛ぶ。
数瞬にして追い越し、弾が逃げる二人に当たる可能性を考慮して怪物の正面に回り込んで一閃、扇より鎌風を放った。
文の放つ弾幕は早く鋭い。そこに加えターゲットはこちらに猛スピードである。避けるという思考が生まれるより先に風弾は命中し、弾け、暴風は辺りの木々を軋ませた。
――が、
「今のはちょっと自信があったんですが……?」
飛翔を止めることは出来たものの、砕いた爪と同じく翼に大きな傷を負ったのもどこ吹く風といったところ。
痛みを感じていない?
なんにせよ、これ以上人里に近付けるつもりなどない。
扇を構え直し改めて偽物の天狗――怪物と向き合うと、怪物ははじめて文を見た。その眼がこちらの瞳を捉え、笑うように下瞼が釣り上がる。
何を笑っているのかと文句を言ってやろうと右足を前に出す。
出した、はずだった。
押さえ付けられているように四肢は重く、心臓は畏縮し冷たい指に撫でられている感覚、だのに心拍は上がり視線は定まらない。呼吸も荒くなっていた。
怪物は視線を外し、立ち竦む文の横を通る。
そのすれ違いざま、鴉の嘴にも似た口を開いて、
「 イハ エタ」
再び怪物は翼を――傷は無くなっていた――顕し、大きく羽ばたき飛び立つ。
羽ばたきが遠退いていくに連れて呼吸は落ち着き、動悸は収まり、身体の強張りは解けていく。
大きく呼吸し、肩を落とす。汗ばんだ頬に張り付く髪を払いながら地を蹴り怪物を追撃。しばしの後に姿を捉えた。
既に数瞬あれば届く距離には、逃げていた二人の人間と怪物が対峙していて、嘴を大きく開き不似合いな牙を剥き出しに咆哮した怪物は今にも二人を襲わんとしている。
再び動悸が早くなる。だが歯を食い縛って耐える。今目の前であの人間たちを殺されでもしたら寝覚めが悪い。
なにより、そんなネタは新聞に相応しくないだろう。
休息の娯楽として見る一面は面白可笑しく、痛快であるべきなのだ。
鋭利な腕爪が体を引き裂くよりも早く、文はふわりと風を発生させ、宙に浮かせることで二人を横から拐い取った。
「夕食の材料、落とさないでくださいね」
「えっ? わっ!?」
籠を持たせ、少年少女を脇に抱えて一目散に逃げる。方向は今までとは反対側。『妖怪の山』へ向かう。人里へ逃げれば必然的に怪物を人間たちの元へ誘導してしまう。それはいけない。
突然獲物を奪われた怪物は黙ってはいない。怒号を撒き散らしながら追いすがってくる。
スピードではこちらが有利を持っているはず。だのに、何故か距離が縮まっていく。人間二人分の重量を差し引いてもだ。
"追い付かれる"
その不安の種。まるでそこに付け入られたよう。
両手は塞がっている。荷物を風で飛ばすのもありだが、人間の体では文の出すスピードに追い付ける突風に耐えられるはずもない。
今出来ること、せめて足止めが出来れば。
ふと思い付き、右足に力を入れる。と、高下駄の爪が開き目映い光が瞬いた。怪物は目がくらみ、飛行態勢を維持出来ず両手で顔面を覆いながら墜落。
光の正体は高下駄の爪に組み込まれた仕込みカメラのフラッシュ。これは被写体に背を向けた際――被写体から逃げることが多いので――にも写真が撮れるようにと採用したものだ。対衝撃処理など、随分河童には怒られ搾られたが。
まさかこんなタイミングで使うことになるとは。だが結果は良好。
が、そんな考えなど捻り潰すが如く、"追い付かれる"という不安の種は急速に根を伸ばし萌芽した。
再び冷たい指が心臓を、今度は鷲掴みにしたのだ。
全身ざわつくかのような感覚、ともすれば失速し墜落しかねない。
一人ならまだいい。しかし今は――
おぞましき声が、羽ばたきが、確実に迫っていた。
体が軋む。蜘蛛の糸が絡んだ虫のようだ。 逃げ出そうと前へ進めば進むほど絡む糸は増えていきがんじがらめになる。
歯を食い縛るが、ついに力が抜けてしまう。だが墜ちたりはしない。最後の力でブレーキをかけ、足で地面をしっかりと踏む。
しかし同時に、怪物に対して完全に無防備になるということでもあった。
飛行速度の乗った爪による斬撃は、易々と文の翼を傷付ける。口から溢れそうになる悲鳴を必死に堪えた。
視界の端で振るえる二人をより不安にさせてしまう。
でも――
「参りましたね……」
片膝をつき、広げた翼で人間を背後に隠しつつ、扇を構える。
本当に参った。中々無い体験であるが、さて記事にはしづらいことこの上無い。
何故か――
旋回し再び文に向かってくる怪物。そこを待ち構え、阻むかのようにあったのは、無数の光弾。
こと『幻想郷』においてもっともポピュラーな決闘法であり、少女たちの遊戯。
博麗の巫女が制定し、人と妖怪がフェアに戦う唯一無二のルール。スペルカードによる弾幕遊びだ。
聞き知った声が、カードを宣言する。
「狗符、〈レイビーズバイト〉っ!!!」
無数の光弾はその言葉に呼応しある形を作り上げた。
何もかもを噛み砕く、巨大なアギト。巨狼の大口だ。
――自分自身が部下でもある白狼天狗に助けられただなんて、情けがなくて鼻が折れても記事に出来まい。
巨狼は吠え猛け、天狗を名乗る不貞の者に牙を剥く。
一瞬の閃光、開かれた大口は確実に怪物を胃の腑に落とす。弾幕が消えた頃には、既に偽者は消え失せていた。
翼を仕舞い、緊張の糸が切れた文は手で顔を覆い、絞り出した言葉をひとつ。
「疲れた……」
スペルカードを片付けながら近付いてきた椛は、最初何か悪態でもついてやろうという面持ちであったが、眼前で消沈する我が上司があまりにもいたたまれなくなり、ただ一言、
「お、お疲れ……」
と声を掛けたのだった。
"願い"とはなんであるか。
思考を巡らせるのは人ではない。暇を持て余した賢人や仙人でもなく、意図せず高尚足り得る疑問を抱いた童でもなかった。
全身を覆う濡羽色の外套。そこから覗く深紅の双眼はある男の背中を見ている。人里から外れ、月明かりさえ阻む森の中で子の刻も過ぎた今、彼は何も見えず、だのに何かを見て恐れ戦き必死に脚を動かしている。
外套に身を包んだそれは思考を中断し、しばしの観察の後、背後から男の頭を鷲掴み地面に叩き付けた。
およそ人と思えぬ呻きを上げもがく男は、おぞましくも言い訳を口にする。
「俺はただあの人とねんごろになりたかっただけだ! それなのにッッ!」
男は願った。"向かいの家の女とまぐわいたい"と。
夫から彼女を奪ってやりたい、何故あんな男が彼女と。そんな怨恨渦巻く芳醇な嫉妬の願いだ。
人とは、いつの時代も変わらぬ。外套のそれは、そんな人が堪らなくいとおしいと感じている。
気が付けば、舌なめずりをしている己に気付く。
「あ、あぁ、お願いだ……、死にたく……」
残念。願いは叶えた。
それに、腹が減ったんだ。
「天狗……様……ッ」
断末魔、男は下半身から徐々に胃の腑に落ちながらそう言った。
そう、"私は天狗である"。
最後の髪の毛を啜りながら、再び天狗は思考を巡らせ夜の闇に消えていった。
◇◇◇
それは遥か天上をたゆたい、地上を視る。
黒い双翼は夏の陽射しを受け少しだけ青みを帯びていた。
人を寄せ付けぬ禁制の山から、口許を嫌味に吊り上げた彼女はやってくる。
かつて畏れられた者たちが蔓延る、ある種の楽園『幻想郷』においてもっとも里に近いとされる。
彼女は、天狗である。
力を持ち、それがゆえに力を行使せぬ鴉天狗、射命丸 文にとっての最大の武器はペン。ペン先から紡ぐ情報という力は昨今、外の世界と同じく『幻想郷』でも重要視されはじめていた。
今日という日もまた取材日和。
文は翼を力強く羽ばたくと、多くが集う人里へと体を向けた。
◇◇◇
文は驚愕した。
自身が発行している〈文々。新聞〉を委託し販売している人里の妖書屋――もとい貸本屋『鈴奈庵』に、見慣れぬが見慣れた別の新聞が堂々と鎮座していたのだ。
店主に聞けば、委託された部数は同じであるという。
指で厚みを計る。どう見たって〈文々。新聞〉の方が〈花果子念報〉より残っている。
由々しき事態だ。
「つかぬことお聞きしますが、いつから?」
「前回あなたが新聞を置いていった直後です。なんかこそこそしながらやってきたんですよ。姫海棠さんって言う人…というか天狗さん」
喧嘩を売られている。明白だ。
文が渋い顔をしていると、店主の本居 小鈴は何の邪気もない笑顔でこうのたまう。
「実は最近そちらの新聞の方が人気なんですよ! なんでも幻想郷の新たな名所のレビューがあって、それが若い人達に受けているようで…」
言う小鈴の熱も高く、どうやら本当に人気になっているらしい。
正直触れることすら憚られるライバル紙を開くのは思うところが有りすぎるのだが、敵情視察も仕事の内と割り切り〈花果子念報〉を開く。
基本は取るに足らない記事の集まりなのだが、その中で視線を惹き付けるものが一つ。
〈姫海棠的名所探訪〉と銘打たれた、例の新名所記事である。
《今回の『幻想郷』新名所は、以前にも紹介し大反響を得たこちら! 一見するとただのちょっと大きめの石、しかしこれは願いが叶う石! この真相に特派員は迫ります!》
ここまで読んで、深い嘆息と共に新聞を閉じた。何故こんなものが人々の心を掴めたのか、まるで理解できなかった。
エンターテイメント性は乏しく、客観的ではなく、何より何故願い事が叶うなどと適当を吹聴するのか。
しかし事実として〈文々。新聞〉より数が出ている。
相手が宗教家にも似た胡散臭い商売に出るならば、こちらは正攻法で行くべきだろう。
さっそく取材だ! そう息巻く文は中々に怪しい笑みを湛えていて、それを傍目に見る小鈴は軽い怖気を覚えたのだった。
◇◇◇
「すいません、もう一度いいですか?」
カーキ色の帽子、同色のジャケットにパンツといういかにもステレオタイプな取材人スタイルに着替え、極力人間に正体が見破られぬよう人里に入った。
まぁバレたところで、と内心思っているのは内緒。
しかし話はバレることがかなりの危険信号に繋がるように転がり始めていた。
最初に尋ねた疲れた顔をした男性や、次の暇そうに茶屋の外席に座る青年、子供連れのご婦人は口々に「天気が悪い」「仕事が無い」「この子に魚を食べさせたい」という何でもない日々の愚痴ぐらいしか聞けなかったのだが、今まさに話を聞いている八百屋の女将の話は息を呑んだ。
「だからね、こう羽がワサワサーってした天狗がこの辺の人を拐ってるの! この間は漁商の旦那さんが帰ってこなかったって話だし…」
かく言う私も天狗ですが――という言葉をぐっと飲み込みつつ、そんな話があるのか? と思考を巡らせる。
確かに天狗は戯れや弟子の候補として子供を拐かすことはある。いや正確にはあった。だがそれは『幻想郷』などという隔離世界が必要になるずっと前の話だ。
人と妖怪のバランスが崩れ、種の存続すら危ぶまれる外の世界であればともかく、『幻想郷』においては安易に人々に危害を加えればむしろ種を脅かさんとする行為だ。
ただでさえ先の〈四季異変〉の件もあり、天狗社会は今緊張状態であるのだ。
第一、羽がワサワサとした天狗など聞いたこともない。
「それが天狗である根拠はあるんですか?」
「"人を拐かすのは天狗しかいない"って。あと拐われた人の家や、事件現場には黒い羽が落ちてたそうだからね。そりゃあ間違い無いってもんさぁ」
なるほど、文花帖に走らせていたペンを口許に持ってくる。
状況証拠や人間側の心情から来る何とも雑な断定に少し眉根をひそませながら、情報を整理していく。
今からおよそ一ヶ月程前から、性別・年齢を問わず複数人が突如として失踪している。
最初の被害者は寺子屋帰りの女の子であり、異変を察した教師が飛び立つ黒い影を見たという。子供を拐かす黒い影という特徴から、犯人は天狗という憶測が立った。
次の被害者は猟師の男。酒を呑みかわす約束があったとかで、猟師仲間が家を尋ねると既に荒らされた部屋に男はいなかった。また黒い羽が部屋に落ちており、天狗の犯行が人々の中で確信に変わる。
そこからはパタリと失踪は無くなるも、つい数日前に一人の男が失踪する。慌てて森の方に走っていくのを薬売りが見ていた。
現状犯人を断定する材料は無いのだが、 恐怖心や猜疑心から人里の者らは人ではない天狗の犯行という依り代にすがっている。天狗からすればなんとはた迷惑な話しかとも思うが、同時にこれは好機でもある。
里を恐怖に陥れる怪異をつまびらかにする輝かしい記事の載った新聞があれば、はたての雑なカルト新聞になど後れはとらないだろう。
そんなことを考えていると、八百屋の女将が怪訝な表情でこちらを見ていることに気付く。
「こほん。あ、いいキャベツですね」
誤魔化すために適当に品物を誉めたのがバレたのか、はたまた突然過ぎたか、女将は少し小首を傾げていたが、それでも誉められたのは気分が良かったらしく「上手いこと言って」とカラカラ笑っていた。
これ以上はあまり収穫が無さそうだと踏み、一礼して八百屋を後にしようとする。
「あぁ、待ちなって」
「はい?」
「はいこれ。あんた細いし、食べなきゃ取材なんてやってらんないでしょ?」
渡されたのはいくつかの野菜が入った籠だった。
突然のことで面食らう文の顔を見て女将は嬉しそうにまた笑う。
「他の野菜は農家さんから仕入れて来るんだけど、このキャベツだけは自家製でね。旦那が作っててモノに自信が……まぁちょっと今あるのは微妙かもねぇ」
「そんなことはありませんよ。ありがとうございます」
再び会釈し踵を返す。
肩にかけた籠から覗く野菜を一瞥すると、脳裏に鍋料理のビジョンが浮かび少しだけ歩が軽やかになるのだった。
◇◇◇
およそ道とは言えぬ道で、軽快な木槌音を鳴らす。
まさに断崖。落ちれば御陀仏。唸る水音死を孕む。
そんな獣さえも尻尾を巻く滝の飛沫が飛ぶ岩場を、一人の少女が慣れた身のこなしで進んでいく。木槌の音は高下駄の歯が岩を打つそれであった。
無造作な白銀の髪を掻きむしり、不機嫌そうな相貌で深い嘆息。
彼女の名は犬走 椛という。天狗が実質支配する『妖怪の山』の哨戒任務を主とする白狼天狗の一人である。下っ端の椛にとって、必要なのは無遅刻無欠勤――仕事内容は問わない――ぐらいだが、今日という日はなんとも――
「あぁ、気が重い」
日頃から腰に差している刀も、普段はそう思うことなどまず無いのだが、何となくズッシリと重い気がした。
その要因は、今から少し前に遡る。
厳かな内装。だだっ広い割に物が少なく、妖怪密度もあまりに低い。そして正面に視線をやれば屏風を背景に主がいない厚畳が敷かれている。そんな部屋の真ん中に一人座らせられていて落ち着けという方が無理な話。
特に椛はこういう場には疎い。この手の部屋が使われる際は大方外で千里眼を効かせているのだから。
そもそも哨戒役の中でも一介の使い走りがこの部屋に、しかも単身で呼びつけられるのは事であり、そういう意味でも体は自然と強張った。
面倒にならなければいいのだが。
「待たせたか」
襖を開けて、身の丈が椛のニ倍はあろうかと言う巨大な者が現れ厚畳に腰をおろした。
天狗にはいくつかの種類と、その種類には固有の役割がある。前述したように、椛は白狼天狗で哨戒を主とする。鼻高天狗は事務勤め、印刷業務の山伏天狗、鴉天狗は情報収集――新聞記者はその一環――だ。
そしてピラミッド型の天狗社会において二番目に位置するのが大天狗である。
半ば天井とも言える存在からの名指し、一体どのような。
「そう緊張せずとも。別段重要な話でもないのだ。いや個人的には、まぁ」
歯切れが悪い。何かあるのか。
「昨今、人里を騒がせている事件は知っているか?」
「いえ…」
「神隠し、いや明確に犯人が目撃された拐かしが横行している。それであれば我々には関する理由は皆無なのだが……」
大天狗は立ち上がり、窓から外を眺めつつ言う。
「それが天狗のものだという噂が立っている」
まさか。椛は出そうになったその言葉を呑み込み、一度落とした視線を上げた。
「秘密裏に調査はした。が、結果は天狗による仕業ではないという裏付けばかり。しかし被害は増える一方だ。他の大天狗は捨ておけと言うが、どうしたものか胸騒ぎが治まらぬのだ」
確かに放っておけばいずれ解決する案件だ。巫女も人ではない何かしらの所業と分かれば動くだろうし、自ずと真犯人も挙げられよう。
が、彼の大天狗には引っ掛かるものがあるらしく、やはり納得がいかぬらしい。
「しかし、何故"天狗"なのだ。我々を貶めて利を得る者などそうおるまい。まして今は摩多羅の件もある。これ以上の面倒は御免被るのだが……」
摩多羅隠岐奈。永年に渡り天狗を消す者として悩みの種であった彼女。そんな神物(じんぶつ)が突然提示してきた平和協定は天狗の里を混乱の渦に叩き落としていた。
そこに加えて今回の件。大天狗ならざれど、その心痛は想像に難くない。
「……人里に降り、調査をすればよいのですね?」
話が中々進まぬため、椛はそう切り出す。すると大天狗は黙って頷いた。
一つ頭を下げ、座ったまま一歩分下がってから立ち上がり、踵を返そうとすると声が掛かった。
「まぁ待て。実はな、個人的に事件について調べている天狗がいてな。その者にも協力を仰ぐように」
嫌な予感がして、眉根がピクリとする。
「その者の名は――」
何故、よりにもよってあいつと。
大天狗の基を後にしてから、ずっとそのことを考えていた。
何かと嫌がらせをしてくるあの鴉天狗。刀を勝手に持ち出したり、突風を吹かせたりは序の口で、かつて山に神が突如として現れた際には《スペルカード》を隠されなんとも情けない様を晒してしまった。
正直なところ、関わっていないはずがないとは思っていた。ブンヤ業は事件を察知する嗅覚があってこそ。あの鴉天狗はその辺りに関しては特筆すべき才があったからだ。
であれば、出来るだけ顔を合わせないように立ち回るつもりだったのだが、協力を仰ぐようになどと言われてしまっては下っ端の身分で不満を口に出来るわけもなく。
もうすぐ人里、変装用の外套の頭巾を目深に被り天狗であることを隠す。
早く終わらないかなぁと、内心辟易としながら森に足を踏み入れた。
瞬間、違和感を覚える。同時に木々、動物達がざわめいているのを集中せずとも感じた。
いかんともし難いその違和感は、まるで何かに見られているような。
「これは、あいつがどうこうなんて言ってる場合では無さそうだ」
独り言つ。
最大級の警戒を張り巡らして、椛は森の向こう、人里を目指すのだった。
◇◇◇
一先ずの取材を終わらせ、人里から天狗の里のある『妖怪の山』への帰路につく文を、凛としつつ刺のある声が引き留めた。
「あ、犯人発見」
なんとも物騒な内容である。
「私が拐かしなんてすると思います? それにそんなことしたら我々の立場が無いでしょう」
彼女は野分(台風)の件で天狗が人間に対してどのようなスタンスであるかを知っている。同時に小鈴のこともある。
日頃妖怪たちの甘言をのらりくらりとかわしていても、こちらが人間にとってのメリットを与えている以上はそこまで否定することは出来ようはずがなかった。
一つ嘆息すると、相変わらず紅白色の派手な身形の少女、博麗霊夢は怪訝な表情そのままに文に続けた。
「そりゃ私だってあんたらを疑ってるわけじゃあないわよ。"妖怪の仕業じゃない"って話だしね。ただブンヤのあんたなら何か知ってるかなーって」
肩をすくめ、「生憎と」と否定を示す。
その際、手に持った籠を伺う霊夢に文は気付いた。
「これですか。先程取材した八百屋の女将からいただいたものです。なんでもキャベツは店主の――」
途中まで説明して、気付いた。霊夢の表情が怪訝なものから複雑な、何か含みのあるようになっていくのを。
「まぁ、知らなくても無理はないわよね。その野菜美味しくいただくのよ?」
「は、はぁ」と抜けた返事をする。少々面食らったが、次の瞬間には(取材チャンス!)という思考が文の頭を駆けていた。
「かくいう霊夢さんは今回の神隠しとも言える事件に関してどうお考えで?」
「取材はお断りよ」
「いえ、これはあくまで天狗という種としての詰問です。我々も濡れ衣を被せられていては鴉の濡羽色をした自慢の翼も萎れてしまうというもの」
嘘である。
「余計に濡れていい感じになるかもよ?」
「本当に濡れては毛羽立つだけ。濡れていないのにさも濡れているかのような鮮やかさが売りですから」
売り言葉に買い言葉――とは違うが、皮肉の投げつけあいに折れたのは意外にも霊夢であった。
霊夢自身、思うところがあったのかもしれない。文に話すことで見えるものもあるかもしれない、と。
「前から拐かしの相談はあったのよ。ただ妖怪が関わってるか曖昧な以上私が動く理由も無いし、聞くだけ聞いて放置していたの。でも最近になって突然相談の数が激増してね、しかも目撃例も出て来た。正直あまり気が乗らないのだけど、珍しく紫にも釘刺されたし」
八雲紫、『幻想郷』の賢者にして管理者。空間にスキマを開き自在に移動する神出鬼没の妖怪。
疑われている天狗であればいざ知らず、彼女が釘をわざわざ刺しに来るほどの事案なのか。
背中が少しざわめく。
「先程"妖怪の仕業じゃない"と仰りましたが?」
「これも紫が言ってたのよ。「これは妖怪の仕業ではないから気を付けなさい」ってね。犯人わかってるなら教えてくれればいいのに」
犯人は妖怪ではない。かと言って人が行うには無理な証言の数々。
なるほど、確かに"天狗の仕業"と丸投げしてしまいたい気持ちもわからなくはない。もっとも迷惑な話であるのは変わらないが。
「こちらは大体喋ったのだから、今度はそっちの番よ。さぁ洗いざらい話しなさい」
この言い様、まるで恫喝であるがここは大人しく従っておくのが良いだろう。幸か不幸か、大した情報の持ち合わせが無いのだから。
文は天狗らしき者の目撃証言、被害者などの情報を口にする。
「――最後に犯人の容姿ですが、全身に羽が生えたような、ワサワサっとした奴で…」
「待った」
霊夢は文の口を制止する。
「私が聞いたのは鼻が長くて顔の赤い天狗だって話よ。まるで違うじゃない」
確かに。どちらかと言えば霊夢が聞いた方が分かりやすく天狗と言える。
目撃証言など常に曖昧な物だが、天狗という共通性を維持しながらもここまで特徴に差が出てしまうものだろうか?
考えを巡らせていると、その思考を断ち切るようにして嘆息が聞こえた。
「魔理沙や早苗も動いてるみたいだけど、まるで何も出てこない。こちらに勘づいて隠れたみたいに思えるのよ。小狡い天狗らしいわよね」
文はわざとらしい挑発に苦笑しつつ、「そんな天狗、小者ですよ」と返した。
情報とは、商売道具であり交渉材料だ。情報交換の際は価値の低いものから順々に出していき、相手からもう成果物が出てこないならば出さずに秘しておく。これこそが記者業界を生き抜くコツのようなもの。
詰まるところ、一つだけ霊夢に伏せていた情報がある。
――嘘である。霊夢と別れた後、情報整理をしていたら気づいたのだ。これをあえて伏せていた方がカッコいいに決まっている。
して、その情報だが、事件現場の傾向、及び逃走経路についてだ。
人里は縦長の形であり、大通りを中心に左右に大小様々な軒が連なっている。
南東側の入口、その程近くに聖白蓮が建立した『命蓮寺』のある方を犯人は避けている節――お経が苦手なのかも――があり、事件の起きた家や道、逃走した方向も北西の『妖怪の山』へ続く道を隔てるように生い茂る森に近い。
つまり、犯人は森を根城にしている可能性があったのだ。
情報として見れば曖昧な上、文の想像を出ないものだったが、確実でないとしても調べてみる価値はある。
腰のケースからカメラを取り出し、帽子を脱ぎ隠していた長耳を露にする。
森に入ってから少しして、木々の放ついつもとは違う異様さが瞬時に体を駆け巡る。これではまるで檻にでも入れられたような、そんな圧迫感や閉塞感。
眼を細め、周囲を警戒する。人ではない、妖怪でもないそんな視線が背中に刺さっている。
ザリ。
地面に擦れたような音が背後より聞こえた。
瞬間、翼を顕現させ地を蹴り超速の身のこなしから、潜む何かにレンズを向けた。
が、
「……子供?」
木の幹に隠れていたのは、うずくまる二人の子供だった。少女と少年。見慣れぬ身形をしているが、それは以前、都市伝説が『幻想郷』にやってきた際に姿を現した宇佐見菫子と雰囲気を同じくしている気がした。
そこでピンと来る。天狗の姿の差違に関してだ。
都市伝説とは作り話、口伝によってその内容は変化し、より力を持つ。つまり、今回も――
いや、未だ未解決の都市伝説異変は曖昧な存在が具現化するものだ。つまり、"天狗と言う存在そのものが明確"である以上は機能しないはず。閃きはあっと言う間に座礁してしまった。
うんうんと唸る文に、少女は「あの……?」と声をかけた。
「あ、あぁごめんなさいね。考え事をしていました」
「いやあの、羽……」
「おっと失礼」
慌てて翼を隠す。今ここで天狗が森にいたなどと人里で言い触らされては情報にノイズが生じる。
「私はただの新聞記者です。今人里で騒ぎになっている拐かしの天狗ではございませんので」
「天……狗?」
少女と少年は顔を見合せ、改めて文を見る。その表情は奇妙なものを見た、というものだ。
確かに妖怪が力を持つ『幻想郷』において文を含む妖怪とは奇妙なものだろうが、そこまでジロジロ見るほどだろうか?
少女は立ち上がると、文に言う。
「ここはどこですか?」
妙な話だ。人里からまだ大して離れていない森の入り口付近。山側から来た、何てことはまずあり得ない。
では何故場所を尋ねたのか。
「ここを真っ直ぐ行けば人里に続く参道に出ますが」
「そ、そうではなく――」
少女が文に詰め寄り二の句を継ぐより前に、ある声が二人の会話を遮った。
それは人ではない。
妖怪でもない。
強いて言うなら鴉であるが、まるで違い、らしく真似ただけの意思無き咆哮だった。
傍らの二人は肩を震わせる。
瞬間、それは枝をその身で折りながら、上空より粗暴に姿を現した。
一瞬だけ視界が"ブれた"が、確かに眼前のそいつはこの世ならざる怪物であり、天狗に仇なす"天狗もどき"であった。
濡羽色の外套にも見える全身を覆う羽毛に、鋭い嘴、深紅の瞳。およそ天狗と見紛うなどありえぬその姿を見て、文は"これは確かに恐怖の対象だ"と考えた。
カメラから天狗扇に持ち替えると、一扇ぎ、暴風が地面を撫で、土塊が辺りに激しく飛び散った。
こちらに向かって飛ぶ土を風のベールで防ぎつつ、人間の二人に言う。
「向こうに走って。全力で」
少女は少し躊躇いを見せつつ頷くと、少年の手を引き走り出した。
目眩ましの効果も切れる頃、羽毛を汚した怪物は変わらずそこにいた。地面が吹き飛んだにも拘わらず、まるで狼狽える様子がないのはなんとも不気味だ。
瞳をギョロと動かし、何かを探している。どうにも文には用向きが無いらしく、首をぐるりと回し狙いを定めたのは逃がした二人の背中だった。
それを察し、直ぐ様その歩を繋ぎ止めるが如く風弾を撃ち出す。圧縮された風は命中と同時に破裂。鋭利な足爪を折り飛ばした。
「何無視しようとしてるのかしら。あなたの相手はこちらですよ。偽者」
不遜、かつ高慢な態度で挑発する。が、馬の耳に念仏。怪物は文を一瞥することもなく、砕けた爪を気にも留ず、両腕より翼を顕し飛び立つと、二人を追い始めた。
地団駄を踏みたい気持ちを堪えつつ、追撃。『幻想郷』において最速を自負する翼が飛ぶ。
数瞬にして追い越し、弾が逃げる二人に当たる可能性を考慮して怪物の正面に回り込んで一閃、扇より鎌風を放った。
文の放つ弾幕は早く鋭い。そこに加えターゲットはこちらに猛スピードである。避けるという思考が生まれるより先に風弾は命中し、弾け、暴風は辺りの木々を軋ませた。
――が、
「今のはちょっと自信があったんですが……?」
飛翔を止めることは出来たものの、砕いた爪と同じく翼に大きな傷を負ったのもどこ吹く風といったところ。
痛みを感じていない?
なんにせよ、これ以上人里に近付けるつもりなどない。
扇を構え直し改めて偽物の天狗――怪物と向き合うと、怪物ははじめて文を見た。その眼がこちらの瞳を捉え、笑うように下瞼が釣り上がる。
何を笑っているのかと文句を言ってやろうと右足を前に出す。
出した、はずだった。
押さえ付けられているように四肢は重く、心臓は畏縮し冷たい指に撫でられている感覚、だのに心拍は上がり視線は定まらない。呼吸も荒くなっていた。
怪物は視線を外し、立ち竦む文の横を通る。
そのすれ違いざま、鴉の嘴にも似た口を開いて、
「 イハ エタ」
再び怪物は翼を――傷は無くなっていた――顕し、大きく羽ばたき飛び立つ。
羽ばたきが遠退いていくに連れて呼吸は落ち着き、動悸は収まり、身体の強張りは解けていく。
大きく呼吸し、肩を落とす。汗ばんだ頬に張り付く髪を払いながら地を蹴り怪物を追撃。しばしの後に姿を捉えた。
既に数瞬あれば届く距離には、逃げていた二人の人間と怪物が対峙していて、嘴を大きく開き不似合いな牙を剥き出しに咆哮した怪物は今にも二人を襲わんとしている。
再び動悸が早くなる。だが歯を食い縛って耐える。今目の前であの人間たちを殺されでもしたら寝覚めが悪い。
なにより、そんなネタは新聞に相応しくないだろう。
休息の娯楽として見る一面は面白可笑しく、痛快であるべきなのだ。
鋭利な腕爪が体を引き裂くよりも早く、文はふわりと風を発生させ、宙に浮かせることで二人を横から拐い取った。
「夕食の材料、落とさないでくださいね」
「えっ? わっ!?」
籠を持たせ、少年少女を脇に抱えて一目散に逃げる。方向は今までとは反対側。『妖怪の山』へ向かう。人里へ逃げれば必然的に怪物を人間たちの元へ誘導してしまう。それはいけない。
突然獲物を奪われた怪物は黙ってはいない。怒号を撒き散らしながら追いすがってくる。
スピードではこちらが有利を持っているはず。だのに、何故か距離が縮まっていく。人間二人分の重量を差し引いてもだ。
"追い付かれる"
その不安の種。まるでそこに付け入られたよう。
両手は塞がっている。荷物を風で飛ばすのもありだが、人間の体では文の出すスピードに追い付ける突風に耐えられるはずもない。
今出来ること、せめて足止めが出来れば。
ふと思い付き、右足に力を入れる。と、高下駄の爪が開き目映い光が瞬いた。怪物は目がくらみ、飛行態勢を維持出来ず両手で顔面を覆いながら墜落。
光の正体は高下駄の爪に組み込まれた仕込みカメラのフラッシュ。これは被写体に背を向けた際――被写体から逃げることが多いので――にも写真が撮れるようにと採用したものだ。対衝撃処理など、随分河童には怒られ搾られたが。
まさかこんなタイミングで使うことになるとは。だが結果は良好。
が、そんな考えなど捻り潰すが如く、"追い付かれる"という不安の種は急速に根を伸ばし萌芽した。
再び冷たい指が心臓を、今度は鷲掴みにしたのだ。
全身ざわつくかのような感覚、ともすれば失速し墜落しかねない。
一人ならまだいい。しかし今は――
おぞましき声が、羽ばたきが、確実に迫っていた。
体が軋む。蜘蛛の糸が絡んだ虫のようだ。 逃げ出そうと前へ進めば進むほど絡む糸は増えていきがんじがらめになる。
歯を食い縛るが、ついに力が抜けてしまう。だが墜ちたりはしない。最後の力でブレーキをかけ、足で地面をしっかりと踏む。
しかし同時に、怪物に対して完全に無防備になるということでもあった。
飛行速度の乗った爪による斬撃は、易々と文の翼を傷付ける。口から溢れそうになる悲鳴を必死に堪えた。
視界の端で振るえる二人をより不安にさせてしまう。
でも――
「参りましたね……」
片膝をつき、広げた翼で人間を背後に隠しつつ、扇を構える。
本当に参った。中々無い体験であるが、さて記事にはしづらいことこの上無い。
何故か――
旋回し再び文に向かってくる怪物。そこを待ち構え、阻むかのようにあったのは、無数の光弾。
こと『幻想郷』においてもっともポピュラーな決闘法であり、少女たちの遊戯。
博麗の巫女が制定し、人と妖怪がフェアに戦う唯一無二のルール。スペルカードによる弾幕遊びだ。
聞き知った声が、カードを宣言する。
「狗符、〈レイビーズバイト〉っ!!!」
無数の光弾はその言葉に呼応しある形を作り上げた。
何もかもを噛み砕く、巨大なアギト。巨狼の大口だ。
――自分自身が部下でもある白狼天狗に助けられただなんて、情けがなくて鼻が折れても記事に出来まい。
巨狼は吠え猛け、天狗を名乗る不貞の者に牙を剥く。
一瞬の閃光、開かれた大口は確実に怪物を胃の腑に落とす。弾幕が消えた頃には、既に偽者は消え失せていた。
翼を仕舞い、緊張の糸が切れた文は手で顔を覆い、絞り出した言葉をひとつ。
「疲れた……」
スペルカードを片付けながら近付いてきた椛は、最初何か悪態でもついてやろうという面持ちであったが、眼前で消沈する我が上司があまりにもいたたまれなくなり、ただ一言、
「お、お疲れ……」
と声を掛けたのだった。