Coolier - 新生・東方創想話

鴉狼

2020/12/27 22:00:38
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3.姉弟




 ――夢を見た。
 まるでお伽噺のような、それなのに肌を撫でる風の感触は現実感に満ちていた。
 夢を見た。
 私はただ生きていたかった。希望の無い、まるで泥沼に浸かり続けながらも脚を前に、ただ一歩前に出すことすら阻まれるそんな世の中だとしても生きていたかった。
 ――夢を見た。
 一変した世界は自分達を受け入れ、そこの住人もまた許容したのだと知った。嬉しさから自然と心が弾んだ。
 夢を見た。
 自らを包んでいた光を無理矢理に剥ぎ取られ、まだ未成熟の体で硬い地面に叩きつけられた。歩みの後に肉片を残すように、這いずる。こんなに必死に前へ進んでいるのに周囲は言うのだ。何と生き汚いのだ、と。
 ――夢を見た。
 人ではないもの。でもその言葉は綺麗で、とても優しい。
 夢を見た。
 利用され、そして捨てられた。それでも生きていたい。
 ――夢を見た。
 生きたい。
 夢を見た。
 生きたい。
 ――夢を見た。
 生きたい。
 夢を見た。
 いきたい。
 生きたい。
 イキタイ。
 私はただ、生きていたかった。いくら辛くても、いずれこの手に希望が芽生えると信じていたから。
 だのに、残酷にも手は払われ希望の種は踏みにじられた。
 下卑た笑みを浮かべながら大人たちは口を揃えて言う。
 利用するだけ利用した、人の面をしたおぞましき怪魔らは言う。
 お前はもう必要ない、と。
 可哀想だと同情し手を差し伸べてくれたのも、少しでも笑おうと笑顔を向けてくれていたのも、嫌なことなど忘れようと楽しげに話をしてくれたのも、全ては欺瞞。目的が達された今ではそれらの皮を被ることすら煩わしいと鼻で笑われた。
 だからこそ、私は復讐しようと考えた。
 私たちを貶め、辱しめた奴等を。心を踏みにじった人成らざるものを、少しでも残酷な最後を迎えさせるために。
 だが、人を呪わばとはよく言ったものだった。
 まるで私の心を覗き見たように、ニヤニヤと悪魔は笑う。
 そこではたと気付く。あぁ、何故私は――

 ――こんなドス黒い感情を、肥え太らせてしまったのか。

 傍ら、ずっと笑顔を向けてくれていた者が絶望するのを見て、最期に私は自らを呪ったのだ。

◇◇◇

 目が覚める。窓から射し込む朝陽は眩しく、聴こえる鳥の声が心地良い。
 穏やかな朝である。
 言ってしまえば、寝坊した。が、登校や出勤時間を考えなくていい上、幸いなことにこの家にいる他二人は朝が弱いため多少寝坊したところで咎められない。
 長い髪をガシガシと掻き、まだ取れぬ眠気を楽しみながらも布団を出た。
 最初は戸惑ったが、慣れればどうということはない。およそ現代的ではない生活も、付き合い方さえわかれば何とかなるものだ。
 この家の主が用意してくれた服に袖を通す。唯一の私物だった制服はさすがに何日も着ていたら気分も悪くなる。
 用意された服はシャツにパンツと簡素であったが、作りや生地がしっかりしており、ネクタイもあるお陰で割とお洒落だ。サイズもピッタリとは行かないが、支障無く着ることが出来た。
 その上からエプロンを、髪を後ろに纏め、一言気合いを入れる。

「やりますかっ」

 朝食兼昼食の支度をはじめた。
 料理は比較的得意、らしい。
 記憶は名前以外変わらず靄が掛かったように不鮮明だったが、体は覚えていたらしく、難なくこなせた。
 学校に行っていたこと、弟がいること。この二つも結果論からの推測であるが、合っているのか今のところはしっくり来ている。
 いくつか軽めの昼食を作り終える頃、普段はきちんとしている髪を盛大に寝癖で爆発させた文が台所に入ってくる。
 「おはようございます」とまだ眠そうな様子で挨拶してくる文に、「もうすぐこんにちはですよ」と返す。

「また遅くまでお仕事ですか?」

 まさに右も左もわからなかった自分を助けてくれたのが彼女、新聞記者をしていて、この家の主人である射命丸文という天狗だ。
 記憶が無くても、常識の範囲は覚えている。例えばマッチを擦れば火がつくだとか、鉛筆の芯は力を入れると折れるだとか、台風の日に田んぼを見に行ってはいけないだとか。
 だからこそ、眼前の少女という非常識さも理解していた。
 翼を持ち、空を翔け、風を自在に操る。そんな人間がいれば、メディアの玩具にされることは必至。
 だが奇妙なことに、彼女はむしろ玩具にする側である。
 『幻想郷』というこの世界において妖怪は隣人であるという。決して知らなくても気がつけば隣にいるような、遠いながらに気安い存在。
 妖怪はマッチや鉛筆と同じで常識の範疇だ。
 つまり、それを知らなかったのは自分がこの世界の住人ではない証だと、文は言っていた。
 己が有している基本的な常識の外にある存在や、既に常識では無くなったものが、『幻想郷』には多くある。
 今の自分にはこれらは別段驚く必要の無い当たり前のことだと思えた。
 これは新たな、平々凡々な日常となるのだと。

「中々ペンが進まなくてですね。〆切も近いのですが……参ったなぁ」

 席につき、頬杖をついた文はそんな愚痴をこぼす。何でもないことだったが、そんなやり取りが嬉しい。
 愚痴を言ってもらえるぐらいの関係にはなれたのだから。
 自然と口許が緩む。それを見た文は少し驚いたような、でも嬉しそうな表情で聞いた。

「あやや? なにかよいことでも?」

 文の顔から視線を少し逸らし、照れ笑いを浮かべながらも手は休めず、出来上がった昼食を卓に並べつつ答えた。

「いえ! その、いい天気だなぁって」

「そうねぇ。まぁ我々に掛かれば野分以外ならどうにでもなるけどね」

 文はニヤリと口角を吊り上げ目許も笑みを湛える。まるでこちらの狼狽を楽しむような、全てお見通しと言わんばかりである。
 そのタイミングで弟が起きてこなければ、ジャーナリストの話術で根掘り歯掘りだったことは想像に難くない。

「色々聞くチャンスだったのに、残念だわ」

 そして気付く。

「文さんって、もしかして普段はそういう口調なんですか?」

 敬語が常だと思っていた彼女が、突然口調を尖らせたのだ。それに合わせてか、態度も少し不遜に見えた。
 文は一瞬キョトンとするが、すぐに表情をわざとらしい、嫌みのあるものに変えて言った。

「どうかしらね。でも○○○がこちらの方がいいならそうするのも一興かもしれないわ。ね? ×××君?」

 唐突に話を振られて目を白黒させている弟を見て、自然と笑みがこぼれた。
 まるで長い間感じていなかったような安堵が、今この空間にはあるような気がした。

「今日も取材ですか? えっと……」

「人里の事件については一旦様子見ね。今日はある方の……ご機嫌うかがいと言ったところかな」

 一旦様子見、という言葉を聞いて安堵した自分を感じ、不可解に思う。同時に続きを聞き、少し残念な自分もまた不可解で。
 文は何かを察したのか、先程の嫌みのそれとは違う、柔和な笑みを湛えて言う。

「心配しなくても夕食までには帰ってくるから、美味しいのをよろしくね」

 食卓に昼の軽食を置き、対面に座ると、苦笑混じりに「約束ですからね」と念を押す。
 彼女と約束などしたことはないが、口にしたことを覆したことはここに来てから一度も無かった。故に、念押しするのは何となく、だ。
 一方、隣に座った弟は少しだけ不満げな表情である。
 何を隠そう今日は文と遊ぶ約束をしており、カメラを使わせてあげると言っていたんだとか。
 さっそく口にしたことを覆していることに気付き、少し考えを改めることとする。

「あー……代わりのわんこが来ますから、それでお許しいただけませんか?」

 ばつの悪そうな文は手を合わせて弟に頭を下げている。わんことは椛のことだろう。
 いつも疲れた表情で、でも少し嬉しげにやってくる彼女はたまに弟の相手をしてくれていた。
 自分や文が家で遊ぶ一方で、椛は外に連れ出し走り回って遊んでくれるため、どちらかと言えば弟は椛の方になついている。それがわかっているからこその采配なのだろう。
 弟は一見むくれていたが、その下にある嬉しさを隠しきれていなかった。

「お許しいただけたようで何よりです」

 冗談めかしてそう言うと、文は弟の頭を優しくなでて笑った。
 賑やかでもなく、だからと言って嫌な沈黙でもない。そんな昼食はあっという間に終わり、文は後ろ手に手を振って出掛けていく。
 文と入れ替わりでやって来た椛――何だか少し様子が変だ――に弟を預けると、食器の片付けをはじめた。

「あ……」

 濡れた食器を布巾で拭いていると、食器が欠けていたのか、右手人差し指から血が出ていた。
 指を咥える。口内に広がる血の味。
 その味を、最近どこかで覚えた気がした。

◇◇◇

 吹き荒ぶ風が髪を乱し、自分を軽々抱えながら岩場を跳躍する様も相まって、幼眼に凛々しく映る。
 一見渋々と言ったような表情であるが、『幻想郷』に来てから最も見ていたのはこの横顔だった。
 今日は文とカメラを持って一緒に写真を撮りに行こうと約束していたが、反故となってしまった。ここ最近の奔走振りは幼いながらに理解していたため、納得はしていないものの我慢は出来る。
 それに、椛と遊ぶのが好きというのもある。
 最初は将棋をしようとしていたのだが、それが退屈そうだと分かるや頭を切り替え、外で身体を動かす形になった。
 気が付けば、一番遊んでくれているのはぶっきらぼうな彼女であったのだ。

「今日はなにするの?」

 そう聞くと、椛は少しひきつったような、下手な笑い顔を向けてくる。

「蹴鞠だ。前にもやっただろう?」

「ボールを落とさないサッカーだよね! 今度は上手く出来ればいいな」

「いつもの広場に着くぞ」

「えぇー。たまには別の場所行こうよぉ」

「仕方ないだろう。人間、しかもお前のような子供が安全な場所はあそこぐらいだし」

 言うと、帽子を目深に被せてくる。天狗の特徴は頭に出やすい。鼻や耳が特に分かりやすいため、そこを隠すために帽子は必須。
 広場に着くと、自分を下ろしてボールを放ってきた。それを受け取って地面に置くと、弧を描いて届くように軽く蹴る。

「ちょっと上手くなったか」

 椛は独り言つように言葉を漏らした。
 それから何度かボールを落としながらも、それなりに往復出来るようになった。
 が、それに喜ぶでもなく。椛はただ沈痛な面持ちになっていった。何かを言いたげでもあり、やがてボールは返ってこなくなった。
 疲れた、というわけではないらしいが。

「ここ一週程ずっと考えていた。お前のような子供に、聞くべきことではないとわかっている。でも私は駆け引きや隠し事が苦手らしいから」

 唐突のことでわからなかった。まるでそれは自分への言い訳と自嘲。
 しかし何故だろうか。胸のざわつきを覚えている。
 椛はボールを両手で強く掴み、口に含んだ言葉を決意と共に投げ掛ける。

「□□□、君は、君たち姉弟は……」

◇◇◇

 夕刻、文が帰って来た。随分と青い顔をしているのにぎょっとした。
 右手には紙袋が握られていて、だらんとした手になけなしの力を込めてこちらに手渡してくる。

「お、お土産。この間物足りなさそうにしてたから……」

 渡された紙袋。中は少し前に文がお土産として買ってきた団子であった。
 甘いものが好きな弟と分けたこともあって結局一本しか食べられなかったのだが、どうやら物足りないのを見抜かれていたらしい。

「今日は椛が×××君を連れて遊びに行っているし、二人でたくさん食べちゃおう」

 先程までの憔悴具合はどこへやら。にやりと笑う文に釣られて顔がほころぶ。

「お茶淹れますから、文さんは手洗ってきてください」

「あやや、まるで妹扱い」

「ちょっぴりだらしがないところとか、お姉ちゃんは心配ですから」

 まだ半月程の付き合いであるが、文はまるで以前から仲の良い友人のような、はたまた家族のような。

「妹的には、姉が太らないか心配というところ」

「文さんだってお肉はつくでしょ」

「私は日頃取材に、文字通り飛び回っているので大丈夫なのー」

「じゃあ今度取材に同行します。飛ぶときは抱えてもらうけど」

「私ばかり重労働過ぎやしない? それに怪我で今あなたを抱えて飛べないし……」

「じゃあ怪我が治ったら二人で飛行ダイエット!」

「あやや、なんと過酷な」

「約束ですからね? 一緒に飛んでくれるって!」

 そう言い、団子を遠慮なく貪った。
 今日もまた、文の日常――非日常的な話を聞きながら、なんでもない日を過ごしていく。

◇◇◇

 きっとこれは楽園だ。
 きっとこれが"願い"の成就だ。
 きっとこれも叶うだろう。
 だけれどきっと、これは夢物語に過ぎないだろう。
 "願い"とはなんであるかと夢想する。
 思考するのは人間だ。生きる意味の全てを"願い"に託す浅ましき生き物だ。
 全てを喪い、身が亡びても尚、そんなものにすがりつく。
 でも、それでも得たものがある。
 対等に付き合える、そんな尊き人。

 ――本当に?

 悪意を孕んだ声が耳許で囁く。

 ――それは本当に君を対等に思ってる?

 悪意が脳を麻痺させる。

 ――君は裏切られたよね

「そう、裏切られた」

 ――両親が事故で死んで、親類からは遺産目当てで近付かれ、お金を手に入れてからはすぐに厄介者扱い。酷い話だよね

「酷い」

 ――今回だってそうさ。いくら願っても変わらない。君は利用されるだけ利用され、捨てられる

「あの人は違う。普通の人では無いのだし」

 ――どうかな? 偶然手にした厄介な代物だと思われてやしないかな?

「私に利用価値なんてない。でもあの人は良くしてくれる」

 ――彼女は記者なんだろう? ネタにするために庇護下に置いているのでは無いのか?

 そんなことはない、とは否定し切れなかった。
 彼女は自分達にこんなに良くしてくれるんだろう。
 確かに"彼女に守って欲しい"などと考えた。事実そうなっている。
 正義ゆえ、そんな類いの者には見えない。むしろエゴと打算で動くタイプだろう。
 なら、何故?
 途端に心に黒い靄がかかる。燻っていた不安が今にも噴き出さんと蓋を内より叩く。

 ――マスコミなんてそんなものさ。他人が道を踏み違え、落ちる様を見たくて目を輝かせるような連中ばかり。散々経験してきただろう?

 悪意の声はせせら笑う。
 眼前に粘性の闇が広がり、顎を翻したような何かがその奥で目を細めた。
 無数の手が身体を押さえ付けてくる。
 口に手を突っ込まれ、心臓を引きずり出されるような不快感と危機感が全身に走る。
 あぁ、こんなところでもまた――

◇◇◇

 管理者とは、どこから見ているかわからない。
 だがそれは秘匿された事実ではなく、公に知られたものだった。
 『天狗の里』に関して言えば、管理名目の監視は秘匿された事実である。何故ならば、秘匿されなければ火種になってしまう危険性を孕むからだ。
 管理はする。が、公言すれば反感を持たれる切っ掛けになりかねない。監視されているかも、という噂程度で収まるならば、ある種の抑止力として機能するだろう。
 一方で、秘匿されざる事実としてある管理とは、一つの目的を持つ場合だ。
 多くの眼を世界に配し、多くの出入口をばらまくが、個人になど興味を示さずより大きな――世界基盤が対象。
 結界や、人里の管理が主ならば、妖怪からすればあって無きがごとし。文句など出るまい。
 だが、無いものであるそれら無数の管理システムは、ある種イレギュラーな使い方も出来る。それを期待して文はここを訪れた。
 獣ならぬ妖怪道。そこにそれはある。
 謎の空間に繋がる、厳かな雰囲気ある扉だ。
 本来そこにありはせず、しかし常にあるもの。
 やはり管理者側にこちらの意図や動きは筒抜であるようで、抉じ開ける算段も意味が無かったらしい。手土産が無駄になってしまった。
 ギギギと鈍い音を立てて、扉が開く。
 客として迎え入れてくれるのか、はたまた、以前のように戯れに敵に回るのか。
 文は扉をくぐる。そこは夜空を切り取ったような、遠近感を狂わせる異空間。『後戸の国』。無数の扉が乱立しており、その一つ一つが別の場所に繋がっているのだとか。
 痛む翼を労りながら少し行くと、安楽椅子探偵よろしく椅子にふんぞり返る者がいた。
 名を、摩多羅隠岐奈という。
 隠岐奈の口許。少しだけ口角をあげており、皮肉が今にも飛び出しそうな表情であったが、受け止める覚悟は空回りする。

「いやはや、お前には大変感心しているんだ。以前から他の天狗に比べ、人間に対して好意を持っているようだったが……まさか大天狗に人里の支援を上申するとはねぇ」

 こちらが口を開く前に、手土産を手から奪われた体だ。
 神経を磨り減らして大天狗と顔を付き合わせたというのに。
 そう、持参した手土産とは、飢饉手前の人里に備蓄した食料を開放する――その情報は文が号外として既に配布している――ことだった。
 今回の拐かしのことで、人間たちの天狗に対する不信感は計り知れない。その濡れ衣を払拭するには直接の支援が一番だと提案したのだ。
 勿論、それだけで天狗は動かない。もう一つの理由として、眼前の神の機嫌取りも含まれていた。平和協定において天狗がどの程度有利に立てるかというのは、大天狗のお歴々にすれば重大案件だからだ。結果として意図は成就したと言える。
 だがこれもまた、隠れ蓑であるのだが。

「いえ、我々もこの『幻想郷』に住む妖怪の末端とは言え、それなりの責があります。共栄共存は当然と……」

 控えるようにして言う。が、わざとらしかったらしく、キョトンとした隠岐奈は、次の瞬間カラカラと笑う。

「随分とまぁ殊勝に立ち振る舞うものだ。君は世渡りというものを理解している。相対する者によってはただの嫌味にもなるだろうが、私は嫌いじゃないよ。前に天愚などと言ったことは謝ろうじゃないか!」

 手すりに肘をつき、頬杖をしつつこちらを見下ろしてくる。何か、一物を抱えているような言い回しだ。
 引っ掛かりを覚えながらも、文は用件を済ますべく口を動かす。

「ありがとうございます。ただその件はほんの些細なこと。本題に入ってもよろしいでしょうか?」

 ふふんと、全てお見通しと言わんばかりの態度を隠岐奈は示す。少々鼻につくが、この際構わない。

「では、一つ。あなたはどこまでご存知なのです?」

「ほう、本題と言いつつこちらを探るのか。まぁ良いだろう……私は問答が好きだからね。さてさて、いくつか心当たりがあるのだが……、どの段階の話であろうね?」

「あなたが起こした四季異変、それを発端にした人里での騒ぎについて」

「あぁ、不作の話か。直に収まるし、現状は天狗が何とかするのだろう?」

 あからさまな惚け口上だ。もう少しカードを切る必要が出てきた。

「そこからもう少しだけ先の話です。そう、今回我々が動く理由にもなってしまった拐かしについて」

「天狗が人を拐うなど、今に始まったことでもないが……まぁ、あり得ぬ話よな」

「そう、あり得ぬ話なのです。だから真犯人について、あなたなら何かしらの知恵があるのではないかと。あの八雲と同じくこの世界の成り立ちに関わった賢者なのですから」

「紫が何か言ったのね。まったく、妖怪のことならいざ知らず、自然の摂理に根ざした類いのものは管轄外なのだけど」

 以前、霊夢は言っていた。紫曰く、これは妖怪の仕業ではないのだと。勿論、人の業とも思えぬ事象がある以上、超常的なものが引き起こしたのは間違いない。
 公に管理が認知されているシステム、かつ常に世界を見ていたのならば、怪物のことを知らぬはずがない。それに、文や椛が見てはいないことも知っている可能性は高かった。

「ある程度は二童子に調べさせているし、私自身も動きを見るため確認はしていた。分かる範囲であれば答えよう」

「素直ですね」

 摩多羅は額を押さえ、肩を落としながら言う。

「仕方ないだろう。まさか四季の力で作物に影響が出るだなんて……、いや妖精が影響を受けた時点で気付くべきだったな。私の不手際で人間に損害を与えた挙げ句、天狗に濡れ衣を着せた上に尻拭いまでさせたんだ。しかも事件解決にまで乗り出させてしまっている。ここで協力しなければ、私の立場はガタガタになってしまうよ」

 彼女なりに、気に病んでいたらしい。
 元来、人の味方である神なのだ。協力をしない理由も無いのだろう。

「では最初に、怪物についてです。あれは一体?」

「あれは古来から存在する人間の天敵だ。神や妖怪のように人の想像から生まれ、信仰や認知の差で力が左右されることはない。世界の裏側に根を張り、人間を喰らうことで生きてきた化け物だよ。元来妖怪には縁遠い連中だから、知らなくても無理はないな」

 予想はしていたが、やはり人を喰らうのか。ならば拐かされた人達は既に……。
 文の脳裏に八百屋の女将の苦悩に満ちた表情が浮かび、苦虫を噛む。

「私は何者かが怪物と結託し、今回の事件を起こしたのだと考えています。しかし天敵という話を聞くと、その説は微妙かもしれませんね」

「その考えに至った明確な理由はあるのかい?」

 文は〈花果子念報〉をスクラップしたものを取り出した。例の、〈願い石〉に関する最初の記事である。

「願いの叶う石。これを餌に怪物は人を誘き寄せていたのではないかと」

「なるほど。確かに筋は通っているし、遭遇した怪物から知性を感じることが出来なかったのならば背後にブレーンとなるやつがいると考えるのが自然だろう。……私はあくまで扉の隙間から客観的に覗きをしていた、そんな見方をしていたからこそ奴の術中に嵌まることが無かったのだな」

 首をかしげた。何を言い出したのだ。

「分からないと言った顔だね。推理を根底から覆すようで申し訳無いのだが、君にはその記事に写っている物が、ただの石に見えているのかい?」

 その言葉を聞き、改めて記事に視線を落として驚愕した。
 確かにこの〈花果子念報〉の1コーナー、〈姫海棠的名所探訪〉のスクラップには件の石と、それに纏わる文章がつらつらと書かれていた――はずなのだ。

「じゃあ、答え合わせのためにゲストをお呼びしようじゃないか」

 隠岐奈が指をパチンと鳴らすと、上方に扉が現れ、そこから一人の天狗が落ちてきた。
 突然のことで受け身を上手く取れなかったらしく、背中から諸に落ち「ぐへっ!」という痛烈な声が喉から絞り出される。
 トレードマークのツインテールを揺らし嘔吐きながら起き上がったのは誰であろう、〈花果子念報〉の発行者の姫海棠はたてだった。

「ごほっ、えぐぅ……、ここどこ!? げほっ!」

 落下に伴う痛みと、視界が突如として入れ替わったショックからか、半ばパニックを起こしている。
 文は肩をポンポンと叩き、まるで子供をあやすが如くはたてを落ち着かせた。
 はたては文の少し後ろ、隠岐奈に対して背中に少しだけ隠れつつも、完全には隠れない位置に立った。プライドと恐怖心と頑張り屋な部分が攻めぎあった末に出した妥協案である。

「さて隠岐奈さん、答え合わせとは?」

「お前が欲しかった私独自の情報を当て嵌め――」

 隠岐奈は手ではたてを指す。文はその指先を視線だけで追った。

「推理をより高純度に高めるのだよ」

 文は息を呑む。
 隠岐奈の持つ、扉の隙間から見たもの。それは一体?

「まずは、そうだな……お前、名は?」

 隠岐奈は指した指をくいくいと動かし、自己紹介を促した。
 はたてはその動作にはっとし、もつれる舌を必死に動かし名乗る。

「ひ、姫海どぅ……はてゃて」

 露骨に笑いを堪えている隠岐奈。文も同様、肩を震わす。
 にやける口許を隠すように右手を鼻先に当てながら、隠岐奈は続けた。

「お前はその記事を書く少し前、人里近くを彷徨いていたな。深夜で外れた道とは言え、特に変装するでもなく堂々と」

 その話を聞いた文は思わず声を上げる。そりゃあそうだ。あまりに無用心、かつあまりに無思考な振る舞いであったからだ。

「ちょ、はたてあなたそんなことを!?」

 突然の暴露から、突然の叱責により狼狽えるはたて。自分は悪くないというアピールなのか、必死に両手を胸の前で振り乱す。

「仕方ないじゃない! なんか知らないけど念写は上手くいかないし、ネタは思い付かないし、仕方ないからちょっと外を歩こうかなー、なんて? 変装しなかったのはほら……わ、忘れてたというかー、夜だったし……ね?」

 最早怒るのを通り越して呆れて物も言えない。同業者として、同種として、情けない限り。何かあれば他の妖怪に天狗という種そのものが笑い者になろう案件だ。
 言い合う文とはたてを見かね、隠岐奈は一つ咳払い。

「続けるよ。して、その時何か言っていたよね。思い出せるかな?」

 はたては腕を組み、はてと首をかしげた。何度か思い出そうとするジェスチャーをし、そして一つ思い至ったようである。
 それがあまりに嬉しかったのか、声を張り気味に答えた。

「そう! 歩き回ったけど結局なーんも無くて、その辺りにあった変な形の石を見ながら『"これがなんでも願いが叶う石なら、文より読まれるチョーイイ記事を代わりに書いて"って頼むのになぁって』テキトーなこと言ってた!」

「ほほぅ、それで?」

「そうしたらそれがほんとになったのよね! いや書いたのは私だけど、何かに取り憑かれたみたいにビシッとした文体でさ。しかも念写もばっちり! 実際文の新聞より売り上げは良くて最高だったわー!」

 軽く馬鹿にされたのは後で報復すると心に誓いながら、文は文花帖を取り出し思考を纏めに掛かった。
 スクラップの状況と、はたての話。そして不漁不作の人里、願い石、横行した怪物による拐かし、人によりまちまちな天狗の外見と消えた痕跡、全てが一つの線で繋がる。

 あと一つ、謎を残して。

 文花帖をパチンと閉じると、深紅の瞳で隠岐奈を見据えた。何を思っているかは分かろうはずもない存在だが、にこりと笑った彼女の表情は、まだ何かあるのだろう? と言わしめている。

「私がここに来た最大の理由は、知恵を借りることではありません。ぶっちゃけ事件解決のための謎解きとかどうでもいいんです。だって主犯は分かりきってるわけですし、仮に影の協力者がいても絞めて吐かせますし」

 何故こんなにも熱くなるのか、自分でもわからなかった。
 天狗らしく俯瞰で、客観的に、そして決定的に。新聞記者としてはそれが正しいし、実際そうであるべきだと常々思う。必要以上に被写体、取材相手に肩入れするべきではない。

「ただ相手は今までに経験したことの無い相手です。正直、恐ろしいと感じてしまった。だからこそ――」

 でも、せめて。
 今まで我を通せなかったのならば、せめて一つや二つぐらい我を通させてあげるべきだ。
 これは新聞記者ではなく、天狗でもなく、一人の友人として。
 いや、今は――

「天狗とあなたの平和協定とかどーでもいいんです。私が胃を痛めてまであなたに恩を売ったのは他でもない……」

 一人の、妹として。

◇◇◇

 ――夢を見た。
 己ではない誰かの目を通して、己を見ている。
 隠岐奈の元から帰り、仮眠を取っていた文は夢を見た。最近の寝不足の要因は原稿が捗らないなどではない。この夢にある。
 言ってしまえば、とんでもない悪夢だ。寝てる隙に頭に他人の記憶や感情を流し込まれるのだから当然である。
 だがそれが、彼女の声無き叫びであったのだ。
 辛い現実は一人称として見えるとより辛く、息苦しく思えた。
 本人は、目の奥から覗き見る文の何倍も辛く苦しい日々を送っていたに違いない。

 これは○○○……、彼女の、一生の記録だ。

――――――――――――――――――――――――――

 人は一人では生きられない。一人で生きていると勘違いしている人達は多いけれど、生きるための糧を得る方法には大体誰かの手が加わっている。今踏みしめている地面にしても、人の手が加わっているからこそ快適に歩けるというものだ。
 本質的に一人で生きるのは現代においては不可能に近い。だから私は常に他人に感謝する。そして思う。
 生かしてくれてありがとう、と。
 そんな話を、かつて母にしたことがある。あれは中学生の頃だったか。母は随分と心配していたのを今でも覚えている。一方で、父は「哲学の話をするとは○○○は頭がいいな」と笑いながら誉めてくれた。
 学校は楽しかった。多くはないが、友人もいた。成績は目立たない程度だが悪くは無かった。叔母はそれらを咎めたが、父は言うのだ。

「普通の友人はいた方がいいに決まっている。そして成績も普通でいい」

 両親は会社を経営していた。貿易の仕事をしているという。名前もそれなりに売れていた。
 叔母は役職こそ無いものの秘書のような役割を担っていて、両親の仕事を支えてくれている。だからこそ、私の学業に対する消極具合と交友関係に対して苦言を呈していた。父はいつもかわしていたが、母は度々叔母と言い争いをしていた記憶がある。
 高校――別段普通の公立校だ。制服が可愛い――に入ってから、家族が増えた。一人の男の子がやってきたのだ。年齢は10歳ぐらいだろうか。
 父は私に微笑み言った。

「親友の一人息子でね。迷ったんだけど、○○○の言葉を思い出して、引き取るって決めたんだ」

 私は面食らった。すっかり忘れていた戯れ言。
 人は一人では生きられない。
 聞けば、不慮の事故で両親が亡くなられたらしい。引き取りを申し出る親類もいなかったことから、天涯孤独な身となっていたのを父が見かねて手を挙げたそうだ。
 事後承諾にも拘わらず、母も賛成している。
 私も勿論賛成だ。むしろこんな選択か出来た二人を誇りに思うほどである。
 亡くなった両親の穴を埋められるよう、しっかりお姉さんをやらなくては。
 私は積極的に弟、×××と遊ぶことにした。最初は暗く心ここにあらずと言った感じだったが、次第に歳相応の好奇心が見え隠れするようになり、やがて笑顔が戻った。
 その時の喜びは口では表現しきれない。
 だがその1年後、私の両親が死んだ。
 車による出勤中、急性の発作で亡くなったのだという。
 突然過ぎた。あまりに突然。
 弟が泣くのを抱き締め落ち着かせるのが姉の役目だ。泣いちゃいけなかった。
 メディアはこのことを大きく報道した。成長著しかった会社の社長とその妻の急逝は、格好のエンターテイメントであったのだ。
 勿論、毎日家の周りにはマスコミが押し掛けた。中にはメガホンを使い質問をぶつけてくる人までいた。これではまるで犯人扱いだ。
 そんな折、叔母が私と弟だけになった家を訪ねてきた。

「あなた達は私が責任をもって引き取ります。会社はあなたの名義で存続させ、学校卒業まで必ず私が守って見せるから。だから笑って。二人もきっと泣いてほしいなんて思っていないわ 」

 正直あまりいい印象を抱いていなかった叔母だが、この時だけは心強かった。
 それから暫くしてメディアの攻勢も収まり、長く休んでいた高校にも復学した私は真面目に勉強をはじめる。叔母の勧めで、英語と経済だけはしっかりと学ぶように努めた。
 アルバイトもはじめた。両親の遺産はあったが、それを食い潰すのは少し憚られたからだ。これからは弟と二人、生きていかなければいけないのだ。
 大学進学の話がちらほら聞こえてくる季節になる。新たな生活にも慣れ、社員の人達に手伝ってもらいつつも会社の仕事もはじめた。制服姿の社長見習いだ。
 順風満帆ではない。壁だらけだ。
 だが、それでも充実しているのは間違いない。
 人にも恵まれたのだ。やはり人は一人では生きられない。改めてそう感じた。

「申し訳ありませんが、あなたの居場所は、もう無い」

 ある日社員の一人が冷徹に、まるで簡単な報告を述べるが如く言い放った。
 社員証の登録は消され会社には入ることすら出来ない。
 慌てて叔母に電話する。すぐに反応があった。
 そして一言。

「あんたもういらないわ」

 胸に冷たい風が吹く。動悸の音が響く。
 何を言っているのか。
 スピーカーから、もう音は鳴っていなかった。
 両親の口座は既に空になっており、家は差し押さえられていた。
 気が付くべきだったのだ。両親がいた頃に話をしたことのある人が会社からどんどんいなくなっていたことに。
 思い付く親類に片っ端から連絡を試みたが、どこも相手にはしてくれなかった。
 会社の金や遺産を使い込んで追い出されたなどと、根も歯もない噂が広まっていた。情報源は週刊紙。
 コンビニで記事を立ち読みし、微妙に真実を交えた内容から、それは叔母が週刊紙にそうタレ込んだのだと察しがつく。
 週刊紙を買い、コンビニを出ると空を仰ぐ。腹立たしいほど高くて青い。
 何もかも、失った。
 あるのはアルバイトして貯めた少しの貯金のみ。それもインターネットカフェやカプセルホテルに泊まっていたらあっという間に無くなるだろう。
 傍ら、弟は不安を見せないよう笑顔を向けてくる。
 一緒に暮らしてわかったことだが、彼はとても心が強い。ここ数日の放浪生活に何も言わずにただついてきていた。重い荷物や先行きの不安な状況などに不平を漏らさない。理解はしているはずだ。それでも彼は笑顔を絶やさずにいた。
 この子を守らないと。
 私は決意をし、仕事と家を探した。
 幸運なことに、どちらもすぐに見つかる。商店街にあった個人経営の食堂だ。しかもニュース等でこちらの事情を知った上で、住み込みで働かせてくれるという。
 少々いぶかしむ私に、妙齢の夫婦は苦笑した。突然訪ねてきた人物の頼みを快諾し、しかも住まいまで提供するという話を鵜呑みにするのは難しい。
 だが、働きはじめて数日。二人の様子から、その疑心はあっという間に薄らいでいく。
 しかし一ヶ月が経った頃、店に怪しい男が訪れるようになった。そいつはゴシップライターであり、あの社長の娘は今どうしているのかという記事のために取材をしたいと言うのだ。
 夫婦は勿論断ってくれたが、半ば嫌がらせのように毎日やってきて、挙げ句に柄の悪い連中を連れて脅すかのような態度に出た。
 仕事が終わり、定食屋の二階にある空き部屋で膝を抱えて涙を堪える。
 また、こうなった。なんでこう、上手くいかないんだ。
 ふと、以前買った週刊紙が目につく。きっとここに来てるあの男も似たような雑誌の記者だ。
 人の不幸で飯を食べるハイエナのような人間。
 あぁ、なんと汚ならしい生き物であろうか。
 黒い感情が沸沸と溢れ出し、良からぬことを考えはじめていた。
 週刊紙の表紙、小さく見えた特集の煽り。そこには――

《今話題! 願いの叶う不思議な樹!!》

 その特集ページを開いた。衝動的に、もしくは何者かに操られるように。
 記事に目を通せばなんとも陳腐な内容だったが、比較的ここから近いということもあって、街を去る前に一度足を運んでもいいかもしれないなどと考えた。
 そう、もうあの夫婦に迷惑をかけられない。
 お礼の書き置きを残して、早朝、夫婦が起きるより前に弟と共に定食屋を後にした。
 始発のバスで途中まで行くと、雰囲気は一気に寂れたものとなる。今話題、というのはある種のマーケティングだったのかもしれない。実際、バス停から歩いて結構経つが誰一人としてすれ違うことは無かった。
 霧が濃く視界が悪い。
 しかも整備されていない林道を歩くことになったために体は悲鳴を上げた。体力の無さを呪う。
 一方で弟は割と平気な様子。むしろこちらを心配する素振りすら見せていた。
 情けない。
 息をあげながら、何とか目的地に辿り着く。
 不自然に開けた場所の中心、ポツンと樹が起立していた。そんなに立派なものではないし、あまり整備されていない道程を鑑みても大したスポットになっていないのを察してしまい嘆息する。
 しかし、不気味ではある。
 円形に何もない場所にたった一本。人工的だとしても趣味が悪い。まるで周囲の木々が眼前の樹を忌避しているかのようだ。
 さらに、樹自体が珍妙な形状をしている。螺旋状に走る幹、葉は無く、枝は何かを包むように放射状に広がった後に内側に曲がっている。まるで檻のようだ。

「お姉ちゃん、これが願い事が叶うって樹? なんかこう、気持ち悪くない?」

 まったくだと変な笑いが出た。
 願いを叶えると囃された樹にしては若干近寄りがたい異様な雰囲気を纏っている。
 そもそも期待などしていなかったのだから、これはこれでいいのだが。
 しかしいざ考え始めると、あまりいい願いは思い付かないもの。腕を組み、うんうんと唸りながら樹の周囲を歩き回る。
 パキと、何かを踏んだ音がした。
 足を退けて下を見れば、そこには腕時計。踏み割ってしまったためガラスが割れている。
 ふと周囲、地面を見回せば、霧と薄暗さで分からなかったが物が沢山落ちていることに気付く。よくあるお供えにしては乱雑、かつ置いてある物の傾向もよくわからないし、何より鞄丸ごと置いていくなんてことがあり得るのか。
 嫌な感じがした。
 弟を見ると、樹に向かって手を合わせ、願いごとをしているようだった。
 直感、というのはこういうものを言うのだろう。走り、弟を抱きかかえ跳んだ。体を丸めてゴツゴツした地面に転がる。肺から空気が一気に抜けるのを感じた。
 胸の中、弟を強く抱き締め樹に視線を向ければ、禍々しくうねった幹より真っ白で、胎動するかのように蠢く黒いタトゥーが無数に刻まれた腕が複数生えていた。それらの腕は、弟を捕らえられなかったのが不思議そうに指を動かしている。
 檻のようになっていた枝の中心部には怪しく光り、小刻みに動く眼球のようなものがあり、こちらを凝視していた。
 なんだあれは。
 私は今、何を見ている?
 死ぬのか。
 嫌だ。
 "私達は、まだ生きていたい"
 何かに頭をまさぐられたような気がした。
 聞こえてくる。
 悪意に満ちた、闇よりの声。

《願イハ、叶エタ》

 瞬間、白い腕が私の首を捉え、掌から出でた針が喉元を貫いた。鮮血が地面を汚し、私の体から力は抜けていく。
 最後に見たのは、胸に抱えた愛しい人。
 見れば、弟も同じように喉を貫かれていた。
 悲鳴も出ない。
 あぁ、私のせいだ。
 私が弟を殺してしまった。
 きっと、因果応報だ。
 悩んでいたなど嘘だからだ。
 だって、真っ先に思ったのは、叔母の死だったのだから。
 視界が白に覆われ、やがて意識が溶けていく。このまま闇の胃の腑に落ち行くのだろう。
 ろくなことがなかったなぁなどと、自棄にも似た感情が私の最後の思考であった。


 気が付くと、『そこ』にいた。森の中のようだ。
 何かが抜け落ちた感覚があったけれど、よくわからない。
 心配そうな面持ちで、少年がこちらを覗き込んでいる。
 彼は、誰だったか。
 あ、そうか。彼は私の弟だ。覚えているわけじゃない。でも、感覚的に理解した。
 そしてもう一つ、理解したことがある。
 この体は既に人間のそれではないのだと。
 見えるのだ。妙な糸が。それはよくよく目を凝らせば文字列で、誰かの願い事がツラツラと繋がっている。
 その糸は弟の瞳の端、丁度涙が出る辺りから漏れ出ていた。
 確認した瞬間、糸は蒸発でもしたかのようにフッと消えた。
 そしてその糸を知覚出来るのは弟もまた同じく、私の眼から願い糸を掬い取る。

「願いは叶えたって、こういうことだったんだ……」

 弟は何かを理解したらしいが、直前の記憶が曖昧である私にはまるで分からなかった。
 どういうことなのか説明を求めようとした。しかしそれは後回しにしなければいけなくなった。体が知覚する。あいつが近付いてきているぞと。
 弟と共に逆の方向へ逃げた。何故かあいつは私達を狙っている。
 どうして?
 少し走ると森を抜け、町らしきものが見えた。が、様子がおかしい。というよりも、明らかに時代が違う。いくら森の中にあり外界から孤立していたとしてもここまでの時代錯誤はありえない。
 撮影のセットとも思えぬ規模と人間の数だ。一時集まったのではなく、確実にここで暮らしているという空気感があった。
 いやそんなこと今はどうでもいい。助けを請うことは容易だ。きっと匿ってくれることだろう。
 だが、それでいいのか。
 私達が足を踏み入れたことで、町が災厄に曝されることになるのは明白だ。
 彼らはなにも知らず、突如として現れたあいつにその身を壊されていく。そんな光景が脳裏を過り、私は弟に一言、ごめんと言った。
 弟は首を振り、微笑むだけだった。
 方向を変え、さらに少し行くと今度は寂れた蔵があった。壁面は苔むし、観音開きの扉は蝶番が壊れて左側が開かなかった。ここなら人はいないし、隠れるにも最適だ。
 蔵に入ると扉を閉め、息を吐き、背を扉に預けながらその場にへたり込んだ。
 気配は遠退いている。こちらはあいつをある程度探知出来た。どうしてかは分からなかったが、都合がいいには変わり無い。
 とにかく、今は疲れていた。唐突に放り出された不思議な土地で、あいつに追われているのだから当然だ。
 小さな小窓から入ってくる月明かりを頼りに、中を物色する。やはりガラクタやゴミばかり。外見だけではなく、中を見れば既に使われていないのは瞭然であった。
 かつての持ち主に感謝を抱きながら、私と弟は微睡み、虫の声を背景にそのまま眠りに落ちたのだった。
 小窓から射し込む朝陽で目が覚める。眉間を揉み、瞼を開けば薄暗い蔵の中だと改めてわかった。
 夢ではなかったのだと。
 嫌な夢であればと嘆息した。しかし現実は非情である。
 唯一の救いは空腹感や喉の乾きが無いことぐらいだろう。妙な糸が見えるだけではなく、そういう部分までもが人間とは乖離してしまったと考えるべきだ。
 弟も目を覚ました。おそらくまったく同じ感覚に戸惑いを覚えているのだ。自分の腹を擦っている。
 と、倉の前に何かが来た音がした。大人の足音だ。私は胸に手を当てる。心音は静かだ。怪物ではない。
 扉が開くと、そこには目も体も細い男が立っていた。その出で立ちは時代劇に出てくる山仕事を生業としているような感じだ。
 男はほっと息を吐くと、安堵した表情となる。

「二週間ぐらい前ここに子供が二人入っていったなんて話を行商に聞いてな? いやよかった生きてた。立て付け悪くて出られないからどうなってるか心配だったんだわ」

 よかったよかったと半べそになっている男を尻目に、私と弟は目を合わせた。お互いに思ったことは同じだ。
 私達は長くても八時間程の睡眠を取った感覚しかない。しかしその実は二週間もの時間が過ぎていた。

「閉じ込められていたんじゃないにしても、お前さん方よく無事だったなぁ。最近じゃ子供どころか大人もこの森には入りたがらねぇ」

 普通の日本語。訛りが強いということもない。地方では無いのか。

「変わった服だけど、山向こうは今そんなもんなんか? でもこんな蔵ん中にいたんじゃホコリまみれだ。家来て風呂入ってけ。腹もすいたろ、飯も残りでよければ出してやる」

 私は迷った。動悸はない、もうあいつはいないのかもしれない。ならばこんなところにいつまでもいる必要はないだろう。
 しかし、なんとなくだが自分達に関わると何かしらの被害を被る。そんな内よりの警鐘が鳴り止まない。覚えていないだけで、そういうことがあったのかもしれないと思うと、素直に頷くのは憚られた。
 そもそも、あいつとは、なに?
 何故だろう、記憶に靄が掛かっているようだ。
 眉根をひそめていると、体を押されて半ば無理矢理に蔵から追い出され、私と弟は荷車に乗せられた。
 隠れる以前は夜だったからこそ分からなかったものがある。何だか物々しいお寺もその一つで、そこを横目に荷車は村に入った。
 村だと思っていたが、これは町のようだ。大通りを挟むように多くの町屋の構えをした店が並んでいる。お昼時、食事処は人で賑わっていた。
 荷車が止まると、そこは八百屋だった。空の籠が目立つのが気になるものの、数多の野菜が取り揃えられている。
 男は店の奥に入っていくと、誰かを呼んでいる。ここが彼の 自宅らしい。

「やれやれ、あいつまた友達とお茶しにいったな? 」

 一つ文句を言いながらも声色に嫌味はない。きっといい間柄なのだろう。
 連れられるがまま流されるがまま、家に上がり、気が付けば食事を頂いていた。決して豪華ではないし、むしろ貧相にも見えかねないものであったが、とても贅沢に思えた。

「すまないな、最近天候不純でね。中々いいものができないんだわ」

 申し訳無さそうに言う男に、首を振り否定する。
 とても美味しいと、弟と共にお礼を言うと男は邪気無く笑った。

「そう言って貰えると助かるわ。最近じゃあ神頼みしちまうぐらいだ。参った参った」

 そう言うと畳に投げてあった新聞を取り、一面を見せてきた。
 曰く、願いの叶う石というものがあるのだそうだ。
 場所は明確ではないのだが、何故か求めて里外れの森を行くと出会えるのだという。
 そんな話を少し前に聞いた気がしたが、思い当たらない。
 食事が済むと、私達に泊まっていけと提案する男。しかし弟は嫌だと駄々をこねた。
 しかし男は譲らない。帰るにしても里の外は今物騒であるし、明日の朝に荷車で送ってやるから今日は泊まれと。
 変わらず聞かぬ弟をなだめ聞かすと、不満げであったが泊まることになった。
 夜の帳が降りてくる。
 家族がまだ帰ってこないことに業を煮やした男は、迎えに行くと支度をはじめた。
 その背中を眺めながら、予感を覚える。
 確証もないただの予感、しかし何故か明確にさえ感じられる心の奥から聞こえた警鐘。
 もう二度と、この背中を見ることは無いのだと。
 しかし行ってはいけないと口に出すのも憚られた。何となく嫌な気分だから外に出るななどと、言ったところで戯れ言と一蹴されよう。
 後ろ手に手を振り、玄関を出て闇に消えていく男。
 一人は駄目だ。
 一人になってはいけない。
 見えなくなった背中に手を伸ばした瞬間、胃の腑が重くなり、背筋に寒い物が駆け昇る。
 気持ちが悪い。
 今にも吐き出しそうな最悪の気分。
 私は走り出し、家の外に飛び出した。
 口を押さえながらも、走る。月光で辛うじて見える男の足跡を追いながら。
 一定だった痕跡がある時から徐々に歩幅が狭まり、慌てたようになる。ついには村の外へ出てしまった。
 そして森の入り口に差し掛かったところで見た。
 ズタズタに引き裂かれた男の着物。月明かり程度でも分かる、血に濡れたそれを視認した瞬間、悲鳴をあげた。
 何故。
 どうして。
 また死んだ。
 明滅する二人の男女が死ぬ映像。
 曖昧だった記憶が甦る。
 私に関わると皆不幸になる。
 両親、弟、食堂の夫婦、そして眼前の――
 訳知り顔でのたまっていた。人は一人では生きていけないなどと。真理かもしれない。正論かもしれない。
 眼から零れる異様なもの。己のものとは思えぬ嗚咽の混じった慟哭。
 違ったのだ。人は一人では生きていけないが――私は一人で、目と耳を塞ぎ口をつぐんで生きなければならなかったのだ。
 瞬間、視界が暗くなり身体を支えていた糸が切れた。いや、切られた。
 頬から伝わる冷たい土の感触だけを感じながら、私は意識を手放した。


 手を引かれ、足場の悪い道をひたすらに駆ける。
 鬼は一人。逃亡者は二人。
 鬼さんこちら、手の鳴る方へなどと囃し立てればきっと楽しげに見えるかもしれない。
 耳を劈く咆哮と、森全体に広がる異常なまでの殺気は全ての生物達に畏怖を与え、生命体にとってあれは純粋な脅威であるということを直感的に感じさせるに十二分であった。
 曖昧な視界の中、私の手を引く少年が一人。
 何も分からない。
 何も知らない。
 何か、失くした気がするけれど、それもまた分からない。
 でも間違いないことがある。
 私は何度も死に瀕した。そして今も。
 私は何度も他を巻き込んだ。それは今も。
 何も覚えていない。でも、分かる。
 木の幹に隠れ、背後より迫る死の視界から外れると、少年は背中を上下させながら息を吐いた。
 直感的に感じる死と、直感的に覚える罪悪感に混乱しながらも、私はふと思った。

 "誰か、助けて"

 少年が何かを掴む仕草をするや否や、その翼は舞い降りた。

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 目が覚める。
 いつもなら気だるい感覚と戦いながら必死に瞼を抉じ開けるのだが、今に限ってはその必要はなかった。
 全容は把握した。まだ憶測もあるが、いずれ分かる予感から特に懸念はない。
 あまりに突飛で、あまりに人間らしい思慮を欠いた行動原理。それでも、一人称で覗いたからこそ理解出来た。

 なんと、胸糞の悪いことかと。

 文は布団から起き上がると、頬を両手で張る。軽快な音が部屋に響き、身体に熱が入った。

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