4.鴉狼
日頃写真に己が写ることはあまりない。そりゃあそうだ。被写体にレンズを向ける側であるのだから。
むしろ取材中に攻撃されても自分の弾幕はノイズになるので、一切反撃しないぐらいである。
だが、たまには写ってもいいのではないか――そんな感情に駆られた。
仕事使いのかしこまった物ではなく、もっとラフなカメラが相応しいだろうと考え押し入れを探る。
と、体がぶつかり積み重ねていた在庫新聞の山が崩れてしまった。
文は嘆息しながら散乱した新聞を拾い上げる。最初に手にした号は少し前に出した号外で、〈願い石〉に関しての警告を煽る内容である。
取材し裏が取れたのだが、やはり〈願い石〉に願った者はその過半数が不漁不作に悩まされていた。直接的な関わりの薄い最初の被害者である子供は、父が漁師であると話が聞けた。おそらく、父の力になりたい一心だったのだろう。
それら人里にある問題を交えた記事。結果として新たな被害者は出ていないと八百屋の女将は胸を撫で下ろして――巫女や魔法使いは無駄骨だったとぼやいて――いた。
正直、安堵している。
人里の者たちからしたら衝撃的な内容の記事であるが故に、石の魅力は恐怖に刷り変わったはずである。それでも願いを叶えたいなどと愚かな考えを抱く人間はここまでの被害が明確に提示されてしまえば出ようはずが無い。
一方、二人の人間の扱いは変わらず困りものではあるものの、案外と騒がしい日々は心地好く、また、椛も何だか悪い気がしていないようだった。
○○○と×××が帰りたいと言うまでは、一緒に暮らすのもやぶさかではなかった。
あの夢が、少女の記憶であると知るまでは。
夢の内容や隠岐奈とした話から推察するならば、あの石は"他の無意識下にある感情を具現化する力"があるようだ。
事実、文は最初八百屋の女将に言われた"羽が生えた天狗"に見え、天狗の仕業であると頭にあった人物には"鼻高天狗"に見えている。戦った痕跡が無いのも道理だ。そんな姿をしたものなど実際にはいなかったのだから。
そして極めつけとして"願いの叶う石と樹"である。外界と『幻想郷』において最も違ったのはその姿の差異。これは外のゴシップ雑誌では樹として記され、はたての花果子念報では石とされていたことが原因と思われる。
隠岐奈の住まう空間、『後戸の国』では影響が無いからか、花果子念報に載せられていた写真の石がおぞましい何かとなっていた。
さらに相対した際に怪物を"恐ろしい"と感じ動けなくなったのは、文の深層心理にあった恐怖を表出されてしまったからだった。
そして隠岐奈と話した際には唯一分からなかった姉弟のこと。夢を見たことでこちらも繋がった。
文は新聞を積み直し、見つけたポラロイドカメラを手に取る。すぐに現像が出来る、という意味でもこれが最適解だろう。
『後戸の国』にいる時、名前が出なかった。
姉弟の名前が。
つまり、二人は生き返るに当たり怪物と同様の力を持ち、その力で"外見からイメージした名前"を呼ばせていた、という推測が成り立つ。
これらのことから分かるように、この力は指向性に基づいた動きをする。相手からの思考が無ければ発現すら出来ない不便なものだ。
が、これが生命活動に直結している怪物はどうだ。
餌を遠ざけられ、そのままでいるか。
そんなはずはない。間違いなく何らかの行動を起こすだろう。
だから、もう、時間が無いのだ。
「羽……、治るまでは難しいわよね」
独り言ち、無理矢理に口角を上げて、カメラを両手に三人がいるはずの台所へと駆けた。
◇◇◇
三者三様の反応であった。
中でも一番景気のいい反応をくれたのは○○○である。
4人で記念写真を録ろう。そんな提案。文自身も出来るだけはしゃいで誤魔化したつもりだったが、心の端にはきっと感付かれているという確信があった。
皆が皆、わかっている。
こんな時間はこれきりになることを。
「いやはや私の物持ちは素晴らしいですねぇ。駆け出しの頃に使っていたポラロイドがまだ残っていました」
三脚を立て、カメラをセッティングする。
その様を興味深く眺めていた×××は文に聞く。
「なんで台所で録るの?」
「ふふふ、私達が一番会話をしていたのは間違いなくここだからです!」
「安易」
「はぁ!?」
突然の毒舌に思わず声を荒げた文は、傍らにいた椛の両肩に掴み掛かって問い質す。
「最近×××君が椛に似てきてる気がするんだけどなぁにこれ」
「さぁ? 文さんのだらしなさやどうしようもない諸々に気付いたんじゃないですか?」
非難しながら取っ組み合いの体勢に移行し本格的な喧嘩に発展しようとしている様を、○○○は嬉しそうに眺めていた。
そして自らに言い聞かせるような声色で、呟いた。
「こんな楽しい生活も、もうすぐ終わっちゃうんですね」
制止するでもない、ただ感情から来た言葉に文も椛も喧嘩をやめ、歯噛みした。勿論、二人には気づかれぬよう。
「文さんには全部見せましたよね。私の記憶」
「やっぱり、あの夢は……」
○○○はゆっくり深く頷いた。
×××が代わり口を開く。
「僕が取っていた記憶をお姉ちゃんに返したんだ。それで、文お姉ちゃんにも知らせなきゃいけないって……」
願いを叶える能力によるものか。
姉が願い、弟が叶える。
「なるほど。でも分からないのは、何故○○○の記憶を奪ったんです?」
×××は自嘲気味に話してくれた。
彼は平凡な家庭で生まれたが、ある時から両親の仲が劣悪となった。原因は分からない。しかしそれを何とかして止めたかった×××は、わざとらしい程の無邪気な行動で二人の態度を軟化させていたという。
が、そんなものは長く続かない。
どちらが先に手を出したのかは最早分からなかったが、争った後に父は母に刺され、母はその罪悪感から身を投げた。
そんな二人のことを蔑み嘲った親類達は×××を助けることはなく、最終的に○○○の両親が引き取ることになった。
○○○は×××の閉ざした心を融かす努力をしてくれた。
だから迷惑も心配も掛けたくない。泣くものかとも決めた。
しかし叔母には裏切られ、挙げ句藁をも掴む思いだった願いを叶える樹には命を一度喰われてしまう。
『幻想郷』に来てからも良くしてくれた人物を眼前で失ってしまった。
もうこれ以上、○○○に傷付いて欲しくなかった。
○○○はこちらに来たショックから記憶の混濁が最初からあったのだが、そのせいか願いを叶える力が無意識的に使われていた。
×××はこれを利用して、○○○から辛い記憶を全て奪った。
「記憶を消す直前に、"誰かに助けてほしい"ってお姉ちゃんの願いを叶えたのは、きっと僕もそう思ってたからかもね」
その願いは見事に成就し、文は不思議な後押しを感じながら二人を守ると決意したのだった。
だがそんな温かな思いが、もう終わってしまうという言葉の裏付けでもあった。
最初は人間を守ること自体が文自身疑問だったのだが、今は自発的に守ると決めている。
つまり、願いを叶えた効力は永続的ではない。
それは怪物の力によって甦った二人も例外ではない。
痕跡が消えたように、文から恐怖心が消えたように、守りたいという使命感が他から押し付けられた物から己の物へと変わったように。
きっと怪物を倒しても、二人は消えてしまうだろう。
きっと怪物を倒さなくても、いずれ二人は消えてしまうだろう。
「文さんは迷ってますよね。優しいですもの。でも、あんなのいちゃいけないんだって私は思う。それに私達の身体は分かってる……あいつは分けられた力ごと私達が消える前に取り戻そうとします」
○○○は俯く文の顔を上げさせ、微笑む。
「だからこれは事前の勝利を祝して録る記念写真です。目一杯笑って写りましょう!」
自分よりも圧倒的に年下であるはずなのに、本当の姉のようだ。文は内心少し弱気になった自分を恥じた。
結末は変わらない。変えようがないし、変えてはいけない。
ならば過程と結末に対して付与される情報を少しでも良いものにしていくべきなのだ。
勝つ算段はついている。
改めて、二人を助けると決めた。
◇◇◇
「で、なんで私はまた呼ばれたのでしょうか」
「なんでってそら……暇だったからだぁ。弟子二人は出払っているし」
団子をモグモグと貪りながら、眼前で椅子に座りふんぞり返っている神はそんなことを平然と口にした。
何故か正座で摩多羅隠岐奈の前に座るはたては全身から変な汗をかきっ放しだ。
天狗社会にとって今一番ホットな仮想敵、『幻想郷』を見守る賢者が一人、そして最も関わり合わない神物と二人きりという度しがたい状況なのだから無理もない。
「まぁそれは半分冗談として、君にはまだやってもらわにゃあならんことがあるんだよね。はむ……ほぅ、兎が作ってるとか言う団子、結構いけるな」
半分は本気なのか、という不満を呑み込みながらはたてはおずおずと聞いた。
「何のお手伝いが出来るのでしょう……? 見ての通り私は無能で役立たずな一記者でしかありませんが」
我ながら卑屈だと思う。文ならこういう場面でも自分を上げるための文言を入れただろう。
そんな自己嫌悪な思考に取り付かれていると、嫌な笑みを浮かべた隠岐奈から予想外の提案がなされた。
「その役立たずな君の力を借りたい」
◇◇◇
人とは行動を起こそうとする際、何かしらの思考を持っている。本能的な思考をはじめ、創作的な、啓発的な。善意的な、悪意的な。
そしてこれら行動動機はその人が脳内に保有する知識から成る。食事一つにしても、食事をしたいから料理をしようや食事をしたいから店に行こうという風に、その人固有の知識量から動機が形成される。
本能的な食欲は知識が無くとも弾き出される動機だが、料理や店はそれぞれ知識が無くては出てこない。
ならば次に思い当たるのは他の人に頼ることか、食えないものを口にすることだろう。
故に、知識が無ければ無いだけその行動は幼児のように稚拙になっていく。
無知だからこその愚かさ。そこから来る羞恥は、人が知識を得て行くためのある種の制御装置と言える。
ある男がいた。
その男は憂いていた。今のような状況に。
天候不純から職を失い、ひもじさを感じる人々を見て、あまりに酷く辛いと。誰かが動かねばならぬと。
が、男は特に何か出来るわけではなかった。
そんなある時、食糧の支給がはじまった。噂では天狗が状況を鑑みて備蓄を放出してくれたらしい。妖怪もそんなことをするのかと驚いたが、これは喜ばしいことだ。
しかし拐かし事件のこともあり、人手が足りずに大量の支給品の仕分けが滞った。
人手がいる。
男は自分が協力することはやぶさかでは無かったが、一人増えても大した貢献は出来ないだろう。
方策はないかと思案した。
そこで、誰かに頭の向きを無理矢理変えられた気がした。その向きとは、神頼みだった。
それも神社に通い詰めるだなんて無意味なことではない。
〈願い石〉と呼ばれる願いが何でも叶う石があるのだという。少し前に人里で話題になった。
男は手伝うことはなく、石を探した。
あっさりと、まるで引き寄せられるかのように石は見つかった。
何の変哲もないただの石。しかしそれが本物だと、男には確信があった。
男は願う。"人手が足りない。人手をくれ"。
石は願いを叶えてくれるだろう。
自分はいいことをした。
間違いなく皆は感謝してくれるはず。
帰路の際、男の心は弾んでいた。
背後より迫る異形の腕にも気がつかず。
無知とは、最も愚かで浅ましく、そして罪深い。
◇◇◇
記念撮影から数日後のこと。
『天狗の里』はざわめいていた。
常に俯瞰し高圧的である彼らにとって、内心の焦りや憤りを涼しげに見せることは茶飯事である。
山を侵せばつむじ風、森を侵せば吠え猛ける。天狗の支配領域を声高に主張するのは肥大した自尊心の表れでもあったが、同時に余裕を持つことで強きをより表装出来るというものだ。
そんな天狗が目に見えて狼狽しているのはただ事ではない。
出来るだけ足を運ばないようにしている統括管理棟に向かう。普段ならば静かな棟であるのだが、机には周辺地図が広げられ、何かを表す記号としていくつかのマーカーが配置されていた。
椛を連れて入ってきた文に視線が集まる。
「なにがあったの」
端的に聞く。
日頃の行いは悪くとも、いざとなれば防衛戦線に駆り出される実力者。特に皮肉もなく白狼天狗の一人が状況の説明をする。
「今から四半刻程前、哨戒していた白狼第二小隊からの定期打上信号が途絶えました。天候や山の状況は問題なかったため、偵察を向かわせたところ、小隊が黒い影と交戦しているのを目視。その特徴は、以前射命丸様と犬走が報告したものと酷似していたそうです」
白狼天狗をはじめとした哨戒の任務を帯びた者は定期的に信号弾幕を撃ち上げることになっている。悪天候や土砂崩れなどの山自体の異変、サボタージュもあるため信号の有無による信頼性は薄いのだが、偵察――チクリ屋が見たと言うのならば間違いはないだろう。
文はその報告にまさかと口にしそうになり、呑み込んだ。
まさかなどない、あの姉弟がいる以上考えられたことだ。
白狼天狗は報告を続けた。
「また少し前、遠見鴉部隊からも報告。人里の程近くで無数の黒い影が現れているとのこと」
予想外が過ぎた。しかし合点も行く。石は怪物の変化のようなものと考えてしまっていたのが落ち度だった。
あれはあくまで願いを叶えた結果の姿。誰かが"多くの者"の存在を望んでしまったとしたらこういう事態にもなり得る。
恐らく願ったそいつは既に生きてはいないだろうが、一度全力で殴りたくなった。
「大天狗様からの指令は?」
「まだです」
舌打ちを一つ。あまりに対応が遅すぎる。
長年頂点で胡座をかき続けた故の弊害か。そもそも上は状況を正しく理解しているかすらも怪しい。
椛曰く、拐かしに関して懐疑的だったのも一人だけだったと聞くし、お飾り程度の機能しか果たしていないか。
早急に動く必要がある。数は分からないが、まず里近くに現れた怪物を処理しなくては。
「白狼天狗は迎撃準備に入ってください。敵を捕らえる必要はないので、装備は実剣。緊急事態につきスペルカードの使用は自由。現着し次第、隊長及び同列の他天狗から指示を仰ぎ行動すること」
「はっ。文様はどちらに?」
「私は私の独断で動きます。最早上の判断を待つ余裕はありません。椛、行きますよ」
椛は一つ頷くと、踵を返し統括管理棟を後にする文に着いていく。
それを見送った白狼天狗達はお互いに顔を見合せ、口々に言った。
「たまにカッコいいんだよねぇ」
「日頃からあんなならいいのに」
そんな軽口もそこそこに、白狼天狗達は準備を進める。
彼女達も、射命丸文が出張るという事実に多少のヒリつきを覚えていた。
自宅に戻ると、文は押し入れに頭を突っ込んだ。ポラロイドカメラを探し当てた場所よりもっと深く、まるで日の目を見ないだろうと存在そのものを消していたように。
だがそういうものほど記憶には常にあり、消しきれないものだということを知る。何故なら、探していたそれはいとも容易く見つかったからだ。
息を吐き、両手に乗せるようにして押し入れより取り出した物を持ち、視線を落とす。
二度と使うつもりはなかったし、これからもそのはずだった。
かつて腰に常にあった刀。白狼天狗達が使用しているものより刀身は薄くしなやかであり、鋭い。
柄を持ち、鞘から抜く。驚くほどに手に馴染む。
なんと恨めしいことか。
しかし今は大変心強い。この刀は、この手は、今も変わらず力を持っているのだと。
鞘に刃を納めると、床に広げた衣装を見た。
デザインや作り自体は催事等で着用する天狗装束と何ら変わりはない。だが一点のみ、明確に違うものがあった。
本来の衣装は白を基調としていたが、これは逆に黒が基調となっている。
天狗は誰しも持っている。しかし使うことなどほぼ無いに等しい、そんな衣装。
いつものシャツとスカートから、黒の天狗装束に身を包む。
あぁ、気が滅入る。
少なくとも数百年は着た覚えの無い衣装に袖を通した感想は、最悪だった。
当然だ。
それは喪服であるのだから。
着替え終わったタイミングでノックが鳴る。返事をし、入室を促すと、椛は複雑そうな面持ちで姿を現した。
「文さん、こちらも支度終わりました。それで、あの……」
「結構似合ってるじゃない。私も悪くないでしょ? 黒」
「そう、ですね……」
珍しく椛は殊勝で、かつ歯切れが悪かった。だが察しはすぐにつく。
犬走椛という阿呆な程に天狗として真面目な彼女にも、思うことがあるのだろう。
そんな有り様を視界の端に見て、少しだけ落ち着けた。
「里に来ている怪物は哨戒天狗が押し留めてくれます。あと先程遠見鴉から報告があって、人里は巫女や魔法使いが何とかしているそうです。時間は少しありますよ」
腰に刀と天狗扇を挿し、背を向けつつ言う。
数度衣擦れの音をさせて、椛が部屋を出ていくのを耳で確認すると、振り返る。
椛にだけ言ったのではない。自分にも言ったのだ。
時間は少しある。
最後の時間としてはあまりに短すぎるが、致し方ない。
文は珍しく出迎えに来なかった少女の部屋に向かった。
◇◇◇
文の家に入った際、靴が無かった。つまり屋内にはいないということ。
千里眼を使うまでもない。どうせ彼はあそこにいる。
椛はいつもの広場に向かった。今日は鞠は無い。
広場に着くと、少年は大の字に寝転がり空を見ていた。椛がやって来たのを察して上体をお越すが、その背中にいつもの元気さはなかった。
「意外と慌てないんだなぁって。もうすぐ自分が消えてなくなるかもしれないのに」
少年はそう嘯く。
椛は喉元まで来ていた言葉を呑み込んだ。既に覚悟を極めた者に、何が言えるのか。
「本当言うとさ、死んでよかったって思ってる。そうじゃなきゃ毎日は辛いことばかりだったし……こうして新しいお姉ちゃんが二人も出来て、生きてる時は出来なかった遊びも出来て……」
声が震えている。
「慌ててはいないんだ。でもさ、こうして話してると思っちゃうんだよ。消えたくないって」
震えを噛み殺しているのがわかる。
覚悟がなんだと言う。
背伸びした子供の覚悟など、たかが知れている。
そんなもの、蹴飛ばして一笑いしてやるのが大人と言うものだ。
椛は拳を垂直に少年の脳天に叩き込む。鈍い音と悲鳴。そして横に腰を下ろした。
「青臭い子供風情が生言うな」
「叩くかな普通!?」
「外じゃどうか知らないけれど、保護者ってのは時として間違いを正すのに拳を使うだろ」
「そんなの古いドラマぐらいだよ……」
悲しみの涙が、痛みの涙へ。暗い雰囲気は吹き飛んだように思えた。
これならば少しは話せるかもと思った椛は、何でもない話をすることにした。
説教するのは閻魔と仙人だけで事足りている。
「前見せた写真あるでしょ。あれなんで持ってるかわかる?」
「知らないよ、聞いてないし」
「それもそうか。あの写真、御守りなんだ。私が哨戒天狗として配属される日は定例宴会が被っててね、偶然近くにいたんだよあいつ。その時他の鴉天狗が撮った写真を焼き増ししてもらったのがこれ」
「いつも喧嘩してる相手の写真が御守り?」
「なんかそんな感じになっちゃってるけど、元々あいつは一番憧れてた天狗なんだ。飄々として掴み処が無いけど、誰より強く、天狗らしく生きている。当時の私にはそう見えた」
椛は口許に人差し指を当てて「言うなよ?」と釘を刺す。少年は笑って頷いた。
「表立って言うことは無い。それでもそこにいるだけで心が奮い起つ。そんな相手ってのは貴重だ。君だってそう思われているかも」
少年は面食らっていたが、やがて首を振る。
「支えになんてなれなかった。支えられてばっかりで」
「確かめてみればいい。こんなところでいじけてないでさ」
「いじけてない!」
珍しく子供らしい言い種に、椛は思わず笑みをこぼした。
あまりこういう関係性の知人はいなかった故に、正直なところ毎日が楽しかった。だから名残惜しくはある。
立ち上がり、騒ぎが大きくなり里全体がビリビリとした緊張感に包まれつつあるのを感じとる。
時間だ。
「私はあいつと違って言葉を飾るのが苦手だ。だから率直に言う。最後かも知れない日ぐらい素直になれ。たった一人の親族なんだ、痴態の一つ二つぐらい晒したところでわけないだろう?」
その言葉に少年は応えなかったが、きっとわかってくれたはずと信じて。
椛は少年の頭をわしと軽くかき回し、踵を返して広場を後にした。
胸の内に怒りの炎が灯ったのを感じながら。
◇◇◇
ノックを二つ。
少し遅れてから掠れた返事。誤魔化しているが鼻をすする音もした。
開けず、そのまま扉に額を当て目を瞑る。
「今日は洗濯日和ですね。日差しがあるし風も吹いてる。まぁ風は私に掛かれば自在ですがね?」
他愛もないそんな言葉を紡ぐ。
反応はない。
「……、これから私達は元凶を叩きます。まるっと全て解決する運びです」
嘘だ。
解決なんてする筈がない。
仮にこれを解決と呼ぶのなら、何と心無いことであろうか。何と冷酷なことであろうか。
今自分がどんな顔をしているのか、思い浮かべるだけで腹が立つ。
そんな顔をするな。
それはお前がするべき顔ではない。
「そうなればそりゃあ遊びたい放題! もうすぐ秋も深まって、直に冬になります。『幻想郷』の冬は雪がすごいですよ。雪かき、手伝ってくださいね」
心臓が早鐘を打つ。
肩が震え、声が震えるのを必至に抑えた。
「秋も紅葉が綺麗ですけど、雪化粧もいいですね。その頃には翼も全快してるでしょうし、重いあなたでも運べるようになってるはず!」
そう出来れば、きっといい。
「だから待っててください。私が――」
――あいつを八つ裂きにしてやりますから。
そんな本心は口に出さず、内心で呟いた。
体が押される。額を預けていた扉が動いたのだ。
姿勢を正し、内側から扉が開かれると中から少女が現れた。少女は何かを言おうとしたが、すぐに口をつぐむ。
見れば随分とぐしゃぐしゃな顔だ。
文はふと、以前見た夢を思い出す。少女の見た現実を。
彼女の目を通して見た光景の他に、その時の感情も響いていた。そんな中で最も覚えている響きがあった。
人は一人では生きられない。
リアリストな考えだ。それでいてロマンチストでもある。こういう発想は自分を客観的に見ることなく生きてきた証。
少女は目尻を擦りながら微笑む。
「待ってます。夕食までには――」
「はい、勿論ですよ」
何でもない会話。
最後になるかもしれない会話。
一瞬、説教染みた言葉が脳裏を過るが、今は何を言おうが無粋に思えた。
心に芽生えていた迷いがあった。
確証の無い二人のリミット。もしかしたら消えないかもしれない。怪物を捕獲し隔離しておけば彼女らは生き続けることが叶うかもしれない。
でも、違う。
文は内心気取られまいと取り繕った笑顔を見せ、背を向け歩き始める。
そんな願いはエゴだ。
子供二人に、消滅の可能性すら呑み込ませた決意を踏みにじる程に身勝手な。
怪物は願いを叶える。
なればこそ、代わりに自身が二人の最後の願いを叶えて見せよう。
足りなかった覚悟は今、決まった。
◇◇◇
あの二人に比べれば、関わった時間は多くない。
時折家を訪れては少し話をした程度のものだったし、むしろあの飄々と立ち回る文がここまで首を突っ込んだのもそうだが、普段見えぬ一面が見えたのは正直驚きを隠せなかった。
椛にしてもそうだ。彼女は最近文とは険悪であったし、何とか仲を取り持たなければと思っていた矢先、今回のことが切っ掛けで文の家に頻繁に訪れていた。変わらず口喧嘩は絶えないようだったが、剣呑な雰囲気はまるで無いようになっていた。
共通の友人として、これらはありがたいことだ。
故に、間接的にでも手助け出来るのならば、それは名誉だと考える。
文は新聞記者であるが、元々戦い慣れた節がある。だが自分は前衛などまるで出来ない身。出歩くのも少々苦手であることから中々助力になれないのを歯痒いと感じていた。
摩多羅隠岐奈によってもたらされた、姫海棠はたての役割。それは、『幻想郷』内のどこに現れるかわからない怪物の位置把握である。
はたての念写する程度の能力は、携帯電話にイメージしたものを映像として出力することが出来る。
怪物の能力の関係上、『幻想郷』においてはこの力を使い写し出すことは不可能だった。しかし今いるのは『後戸の国』。ここまで怪物の影響が及ばないのは、はたて自身が作った新聞で判明している。
「まさか、写っていたのが石じゃなくてあんな気持ちの悪いやつだなんて、最悪よまったく」
誰に言うでもない悪態をつく。
同時に己の愚かさにも気付かされた。文の新聞は嘘だらけだが、妙な魅力がある。それは彼女の努力の賜物であると言わざるを得ない。
一方、自分はどうだ。他人に願い、書かせた薄っぺらな内容で阿保のように喜び騒いだ。
赤っ恥もいいところだ。自尊心など大して無いが、これは、これだけは違う。
姉弟のためにも、文と椛のためにも、そして自分のためにも――
「他人の頭ん中にズケズケ入ってきた報い……受けてもらうわよ!」
はたては携帯電話を握り締め、進行形で増え行く怪物を全て写し出していく。次々と出力されていくおぞましき怪異の写真群。
全部でどれぐらいまで増えているのか検討もつかない。
それでも、頭の回路が焼き切れようと、絶対にお前らから眼を離してやらないからなとほくそ笑む。
姫海棠はたてという鴉天狗の戦いがはじまった。
◇◇◇
文は人里と『妖怪の山』を隔て位置する森に来ていた。まるで人間を妖怪のテリトリーに入れないように見える鬱蒼とし昼間でも薄暗いここは、変わらず不気味な雰囲気を孕み、闇は今にもこちらを呑み込まんと手招きしている。
はじめて怪物と出会って以降も何度か調査のために足を踏み入れたが、特に何も感じることは無かった。
しかし今は違う。ヒリつくような空気と誰かに見られているような感覚は、間違いなくあの日覚えた不快感だ。
ここにいると思ったのは半ば当てずっぽうではない。
隠岐奈に持たされた端末から現在の位置情報が概算ながら送られてくるのだ。
時間が経つほどにその数を増やしていく怪物。それはまるで引こうと手を伸ばした先からハズレを増やされるくじ引きのようなもの。位置がわかろうが、そいつを倒そうが、当たりでなければ徒労である。
だから、半ば。
しかしある種の確信はあった。
本能のみで動いている? 知性がない? とんでもない。
文は見た。
邪魔者を排除し獲物を前にした時、笑みを浮かべたのを。
だからこそ、一定の信頼がおける。やつはわかっている。再び眼前に文が立ちはだかるのを。
陽が傾き、森がより闇を濃くし、深緑は朱を混じらせる。
そんなこの世ならざるものが目を覚ます刻限、生暖かな風を伴って、当たりくじは現れた。
想定していたが、いざ目の当たりにするとやはり驚く。
怪物は全身を羽で覆われた姿でも、鼻高天狗でも、勿論石でもない。およそ『幻想郷』に、しかもこのような森には到底似合わないスーツ姿の女性であった。
文は舌打ちをする。
今"最も会いたい相手"であるのだから、おあつらえ向きと言えるが、胸糞の悪い見た目をしている。
「随分余裕のご登場ですね。我々天狗を敵に回したのですからもっと焦って頂かないと張り合いがありません」
軽口を叩く。
無表情だった女性は一変、気味が悪い程の笑みを顔面に貼り付けて、以前とは違い流暢に話し始めた。
「この世界は度し難いほどに閉鎖的だと感じたが、在り方を理解した今では多少の"不便"で済む。"不便"とは、人間の性質とお前達の存在だ」
女性は右手を差し伸べると、掌より肉塊を表出。みるみる内に形は変容していき、男の顔を形作った。苦悶の表情をしている。
「私達は本来、陰にまみれた人間の魂を喰らう。しかしここの人間は外と違い、心の陰があまりに少ない。味には期待出来ないが、邪魔をする天敵がいないこととを天秤にかければ悪くない。これは死の瞬間を象ったものだが、あまりに薄味の恐怖だ。高級ではないが空腹を満たすには丁度良いインスタントな食材とでも言うのか」
口調は丁寧、表情にも嫌味はない。
ようは、本心からこんな戯れ言をのたまっているのだ。
頭が冷えていくのを感じる。
「陰が少ない代わりにここの人間は寄餌にすぐ喰らい付いたし、そういう意味でもインスタントな食事には適していた。しかしお前達という"不便"を呼び寄せたのは誤算だった。あの姉弟もイレギュラーだったが、"不便"なお前は完全に思考の外だった」
笑顔は変えぬままだが、明らかな感情の変化。
どうやら怪物には号外の内容がお気に召さなかったらしい。
「妖怪という不確かで、人からの認識が無ければ存在を維持すら出来ない弱きもの。それなら人間を減らす私達を疎んじく思うのも道理。だが――お前達は特に人間に寄り添い過ぎているように感じた。何故だ?」
その問いに対し、文は自らの中にある感情の歯止めがついに弾け飛んだのを聞いた。
わかろうはずがない。
内包した悪意のみを人間の存在意義とし、必死に今を生きようとする者すらイレギュラーと言い捨てるような外道には。
息を吐き、吸い、止め、再び吐いたと同時に地を蹴る。地面は操った風による爆発で抉れ、文の身体を加速させる。
抜刀。袈裟に振るう。火花が暗闇を照らし、鈍い音が響く。見れば刃は身体に至らず、女性の背より出でた異形の腕が受け止めていた。
鍔競るような形となった文と怪物、文は深紅の瞳でがらんどうの笑顔を睨み付けると、笑みを浮かべる。
そして最高に不遜に、最高に不敵に――
「ずっと昔からそうしてきた、ただ――それだけのことだ!!!」
刀身に鋭き風を纏わせ、柄を握る手に一瞬力を込め、刀を振り切った。異形の腕は裂かれるように両断され宙を舞った。
怪物は笑顔の仮面のまま、劈く悲鳴を上げる。
刀を振り血を払うと、鼻を一つ鳴らす。
剣先を怪物に向けて、言い放った。
「お前のようなやつが人間の価値性を問い質すな。もう1000年生きてから出直してきなさい」
左手を前に出し、刀の腹を甲に乗せ、引きの構えを作る。
怪物は胸糞の悪い女性の皮をいよいよ捨て、真なる姿をさらけ出す。それは花果子念報の記事に写っていたもの。西洋の悪魔にも似たおぞましき姿は、肌が泡立つような威圧感を放ち、文の心に再び"恐怖の種"を植える。
怪物がそれを見逃すはずもない。以前のように、深層心理から引き出したもの――恐怖を願いとして現実化するだろう。
が、そんなことは文も承知していた。
姉弟曰く、願いを叶えるプロセスとして相手の眼を見、そこから漏れ出る願いの糸を掴む必要があるという。
つまり、願いが成就してしまう前に"変わってしまえばいい"のだ。
突貫。馬鹿正直な太刀筋。
初撃に見せたそれより力強く、勇壮な一太刀は、斬撃というより打撃に近い。そしてスタイルに特化させた無骨な剣は、噛み砕き擂り潰す牙にも似た剛刃。
水平に振られた刀の威力を殺せず悪魔は薙ぎ払われ木々を折り飛ぶ。
瞬間、姿形、身に付けているものに至るまで別人へと変化し、文は一瞬にして椛となっていた。
完全憑依。
かつて依神姉妹が利用した現象。マスターとスレイブが入れ替わり立ち替わる、二人羽織の搦め手。
「完全憑依、ですか」
「はい、あなたにとっては不愉快な戦法ですが……」
「構わない、これが勝つための秘策なんだろう?」
「……ありがとう」
立ち上がった悪魔は腕を武器に変化させ、咆哮。斧と化した腕を振るとその勢いのままに伸長し、左より三日月型の刃が椛に襲い掛かる。
刀でその攻撃を受け流し、そこが隙だと椛は再び真っ直ぐ駆けた。
姉を慕い、素直になれぬ不器用な彼を解放してやらねばならない。その気持ちが力に変わる。
刺突の構え。
伸ばした右腕を受け流されたことで体勢が崩れた悪魔の心の臓に分厚く重い刃が突き立った。
粘度の高い血液がゴボリと音を立て身体の内より溢れ出す。
が、それが終わりではないことは分かりきっている。事実、悪魔は多少の反応はあれ、刀を掴む腕には驚異的な力が込められており、未だに健在だ。
普通であれば痛みにのたうつ負傷など、モノともしていないのは初戦で理解していた。
もっと深く、強く、押し込むしかない。
刀を抜くと同時に文に変わる。
牽制に地を這う風弾を放ち、距離を取る。爆発を伴う風は悪魔の足を弾け飛ばす。
悪魔は右足首から下を失いながらも倒れず、肩部左右の突起を分離、禍々しき様相の球から無数の刃を生やした浮遊体に変えて発射した。球には刃の他に剥かれた眼があり、文を凝視している。
その球を天狗扇からの鎌風で撃ち落とそうとするが、球は特異な起動で回避し、向かってきた。
誘導弾(ホーミング)。
紅白の巫女を想起し、厄介だと顔をしかめた。
しかも回避までしてくるのだから余計に性質が悪い。
文は牽制弾を放ちつつ飛翔し、球を視界の端に常に置きながら速度を上げていく。
未だ傷が治りきらぬ翼に激痛が走り、奥歯が割れるかと思うほどに食い縛り耐える。
もっとスピードを出さなければ――そう思った瞬間、いつそこにいたのか分からぬ程の速度で悪魔は文の直上、背後を取り背から下へ長く伸びた尻尾を振り文の背中を激しく打った。
肺から強制的に空気が漏れる。呼吸が出来ず、悲鳴にならぬ悲鳴を上げながら文は地面に叩き付けられる――直前、風のベールを展開し何とか潰れずに済んだ。しかし痛みからうつ伏せに地面に倒れてしまう。
悪魔は着地し、こちらへ近付いてきた。
内包する椛の焦りを感じる。
《すぐに変わって、早く!!》
頭の中で椛が叫ぶ。
変化した悪魔の刃が迫る。
口内は血の味がするし、背中の激痛は思考をかき乱した。
だが、そんな状況でも心は平静だ。
下げたくもない頭を下げた意味、とくと見せてみろと高圧的になれるほどに。
頭上より振り上げられる刃、背から胸を貫かんとしたその時、文の背中は大きく左右に開いた。
正確には、背中に取り付けられた扉が開け放たれたのだ。
扉より桜の花弁が舞い上がり、それは一枚一枚が爆ぜる魔力弾となって悪魔に殺到した。
「今や『幻想郷』じゃあ、他人の背中を見ることすら命がけなんですよ」
突然のことに動転した様子を見せる悪魔。なんと滑稽なとほくそ笑む。だが今こそ好機。
痛みをおして立ち上がり、再び風を纏った刀を振るう。左肩から右腹部へ、そして水平に。
十字に斬られた悪魔はついに断末魔と共にその場に崩れ落ちた。
背中の扉。摩多羅隠岐奈の力の一端。付けられた者の力を引き出し、さらに季節の力を操る代物だ。
「天狗とあなたの平和協定とかどーでもいいんです。私が胃を痛めてまであなたに恩を売ったのは他でもない……」
「?」
「私を頼ってくれたあの二人を……守るための助力を、お願いしたいのです」
「……ぷっ、あっはっは! お前さんは本当に面白いやつだねぇ!」
この力を体感するのは二度目だが、やはり強烈だ。
力が抜け、ぺたんとへたりこむ。
「心配かけましたね」
《心配なんてしていない》
見えずともそっぽを向く椛がわかる。
しかしこれで――
「冗談。いくらなんでもそれは……」
絶句した。
悪魔の亡骸は十字に断たれたお互いを再び結び、蠢いたのだ。
扉によって底上げされた文の斬撃を受けても尚、消滅することはなかったことに焦燥する。
力の抜けた文を押し退け半ば強制的に椛が表出した。
――翼の負傷に加えて、先程のダメージでは……
椛は刀を構え、今にも修復されそうな悪魔の首に振り下ろした。が、新たに現れた左剛腕により易々と受け止められると、右の剛腕の一撃によって椛の身体は吹き飛ばされた。
全身の骨が鈍く嫌な音を立て、地面に転がる。
咄嗟に受け身を取り衝撃を逃がして致命傷は避けたものの、一撃で肋骨を数本持っていかれたのがわかる。打ち据えられた感覚はまるで巨木を振り回したようであり、まともに喰らえば内臓が破裂してもおかしくない。
体勢を整える。軽く咳き込み、血に塗れた口許を拭う。
外見こそ違うが概念的な身体は一つ。扉の補助は椛にも適用されている。にも拘わらずこのダメージは、近付くことを躊躇わせるに十二分であった。
ゆらりと立ち上がった悪魔は、四肢に加えて左右肩甲骨より伸びる巨腕、尻尾と外見的な異様さは勿論、放つ殺気も段違いとなっている。
「我々は妖怪を取るに足らない存在と認識していた。多少の"不便"と。だが考えを改める必要がある」
生半可な火力では無意味と、最も出力の高い冬の力を使う。
椛の背後、扉より複数の魔方陣が展開。蒼白の収束した光が悪魔の黒き身体を焼く。が、焼き切られた傍から再生が始まり、まるで効いていない。
だからと言って懐に入って刀で攻撃を仕掛けても、その尋常ではない耐久力を崩せるには至らないだろう。
瞬間、悪魔は視界より消える。
否、腰部から表出した翼膜。鳥や天狗とは違う力強き翼により飛翔していた。トップスピードを出せないとは言え文に易々と追い付いたその俊翼は、瞬時に接近、漆黒の体躯の中で唯一白い両剛腕で椛を掴み、組伏せる。
額を鷲掴まれると、耳障りな音と共に椛の意識が離れていった。
剛腕の中、残ったのは息も絶え絶えの文。
掴まれた額より、暗い何かが雪崩れ込んでくる。
視界が侵食されていく。
闇が、被っていく。
恐怖と死の実感が今、叶っていく。
――――。
◇◇◇
少女は空を見ていた。
どこまでも高く、透き通り広い。
手を空に翳す。
指先から徐々に向こう側が見えるようになっていた。
実感が出てきた。私はまた死ぬのだと。
いや、消えるのだ。そっちの方がより辛い。何故なら死体すら残らず存在が無くなるのだから。誰の心からも、きっと消えて無くなる。
「お姉ちゃん」
少年の声が背後から掛けられる。
その顔には寂しいような、怖いような、それでも何かを決意したような、複雑な感情が見てとれた。
「僕はずっとお礼が言いたかったんだ。お父さんとお母さんが死んで、とても辛かった時に、笑って話し掛けてくれたんお姉ちゃんに」
少年は少女の横に立ち、共に空を仰ぐ。
「一人じゃ生きていけないって、助けられなきゃダメなんだってお姉ちゃんはよく言ってたけれど、それはきっと、助けてくれた人もおんなじなんだ」
「――あぁ、私は助けられてばかりって思ってたけど……ずっと前に、助けることが出来ていたんだ……」
人は一人では生きていけない。
父は何故この考えを誉めてくれたのか、少女には分かっていなかったが、今ようやく分かった。
与えられる側の自嘲なのか、与える側の矜持なのかで、意味合いがまるで変わってくるのだ。
父はきっと、それを誰かに投げ掛ける言葉と捉えた。受け取ることだけしかしない者の自虐的なものだとは、微塵も考えていなかっただろう。
結果として、少女は少年に手を差し伸べた。
助けてと叫びながらも、気付かぬうちに助ける側として振る舞っていたのだ。
「僕はお姉ちゃんに助けられた。だから僕は、お姉ちゃんの支えになりたかった」
「なれていたよ」
「本当に?」
「うん、きっと一人じゃ泣いてばかりだったな。私」
風前の灯は、消える瞬間が最も大きく輝くのだという。
「……支えられ次いでに、一つ頼んでもいいかな?」
「いいよ。僕に出来ることなら」
この呪われた身体にも、まだ使い道があるならば、最後ぐらいは――
「私は文さんを助けたい。あの人の想いに、応えたい。だから、手伝って」
「僕は犬のお姉ちゃんを助けたい。あの人は勇気をくれたから、今度は僕が」
この『幻想郷』は、外の世界において忘れられ、存在が危うくなった妖怪や神の楽園としてあるのだという。
人は一人では生きていけない、そしてそれは妖怪だって変わらない。人が妖怪を信じ恐れなければ、生きていけない儚いもの達。
そんな妖怪の、二人の天狗を助けたいと思った。
それは少年も同じだった。
少女が願い、少年は叶える。
これが二人の最後の"願い"。
「文さん、夕食のあとは夜の空中散歩と洒落込みましょうね!」
輝く言霊は、秋空に弾けて消えていく。
二人の想い、希望、欲望が入り交じった何とも複雑怪奇なれども、故に人らしく、美しい。
◇◇◇
目が覚めると、そこは自宅。いつものように作業机に突っ伏して寝てしまっていたらしい。原稿がよだれで濡れていた。
あやや、とよだれでインクの滲んだ原稿を捨てて、ボサボサの髪をかきながら居間へ向かう。
×××は起きたばかりのこちらに気付くや否や、今日こそはカメラを触らせてくれと懇願してくる。
子供は無邪気でいいな。そんなことを考えながら×××の頭をわしゃわしゃともてあそぶんでいると、台所より○○○が微笑みを湛えながら現れ、食事を運ぶのを手伝って欲しいと促してきた。
勿論、手伝う。○○○にはお世話になりっぱなしなのだから、これぐらいは。
「……あれ?」
なにか、違和感を覚える。
――ほら、二人が呼んでるよ
悪意の声は文に囁く。
そうだ、待たせてる。行かなきゃ。
でも何故だろうか。他にもっと大事なことがある気がしていた。
――ほら、家族が待ってる
温かな光が見える。向こうにはきっと幸せな時間が満ちているに違いない。
大好きな家族を待たせるわけには――
「椛、離してください」
背後、肩を掴み光に入らせまいとする椛に文は言った。
それは先程まで共にいた、椛の思考の残滓。
だがすぐに気付いた。椛は確かにそこにいたが、肩なんて誰も掴んでいない。
だというのに、身体は前へ進むのを拒んだ。
「なんで、動かないのかな」
「それは文さんならよく知っているはず。あなたは憎まれ口を叩くけれど、一番やるべきことを理解している人だ」
椛の言葉で我に返った文が見た世界は、まるで油まみれのおぞましい空間。光だと思っていたのは手招きする白い無数の腕だった。
ここは怪物の見せるある種の幻覚。人の欲望や想いを増幅して見せているようだ。成る程"願い石"の噂が蔓延するわけだと納得した。
椛の残滓は文を導くように白腕とは逆方向へ向かう。付いていくと、別の思考の残滓が待っていた。
それらはとても温かく、優しい光。
金色に輝く二つの光は文の身体に吸い込まれていく。
「文さん、行って下さい」
「……ありがとう」
椛の残滓も続けて文に入っていく。
見上げた空、曇天に入った亀裂を見据えた。二つの光が開けてくれた脱出口だ。
ほの暗い、泥のような悪夢など見ている場合ではない。
今自分が成すべきこと、そんなもの誰かに言われなくたってわかっている。
偽物なんかじゃない、本当の家族を救い、ただいまって挨拶して、明日またおはようと言う。
そんな日常を取り戻すこと。そんな願いを叶えること。
そこに超常的な助けなど必要無い。
身体の中にある三つの光を抱き、文は空の亀裂へ飛翔する。
傷付いた翼は金色の光を纏い、やがて光は"戦うに相応しい姿"へと転身させていく。
痛みは消え、より強壮となった翼を羽ばたかせ、幻想郷最速の名に恥じぬ速度は衝撃波を生む。
やがて文の身体は光の弾となり、見せ掛けの曇天を穿つ。亀裂はついに砕けるに至った。
空想世界を引き裂いて、見据えるは眼前、悪しき者。
幾風が身を包み、その一層一層が銘刀の切れ味。身体を拘束していた悪魔の腕に裂傷を刻んでいく。
悪魔は突然の事態にたじろぎつつも、額を掴む手に力を込めた。
今すぐ潰さなくては。今すぐ殺さなくては。
そんな焦燥が一目でわかる。
口許をにやりと吊り上げて、身を包む風を収束。一枚のベールとし、渦巻かせ、拘束する剛腕を駆け上がらせた。
風が通り過ぎ一瞬の静寂を挟んだ後、剛腕が風の軌跡に沿って切り裂かれていく。
幾重にも重なった風の刃。それは構成する細胞すらズタズタにし、即時再生を不可能にしていた。
故に、悪魔は上げたことのない声を喉より絞り出した。
それは、苦痛と驚愕による悲鳴。
剛腕より解放され天を舞い、いつしか出ていた月を背にする。月明かりに照らされた様は妖怪には無い神々しさを伴っていた。
鋭き眼光、しなやかさは鴉の如し。
しかし猛る咆哮、力強さは狼のよう。
その姿を形容するに、"鴉狼"(アロウ)。
鴉狼は優美に刀を抜き放ち、悪魔に切っ先を向け啖呵を切った。
「さぁ、手加減なんてしてあげないから……本気で掛かってきなさいっ!!!」
いつも手を抜いた。
いつも見て見ぬ振りをして事の顛末だけを見聞した。
いつも人の触れた物しか触らなかった。
いつも他の笠を着た。
それはきっと臆病だったからだ。力ある者は弱き者の"願い"を聞き入れる義務がある。
姉弟と出会い、事件を追うに連れて考えるようになっていった。
"願い"とはなんであるか。
思考を巡らせるのは人ではない。暇を持て余した賢人や仙人でもなく、意図せず高尚足り得る疑問を抱いた童でもなかった。
暇を持て余しているが賢くはなく、意図して高尚さを吹聴する。そんな粗雑であり愚かしく、稚拙で、だのに人に近しい存在。
彼女は天狗である。
そして思考するのは天狗の中でも強きを持ち、それを行使しない――いや、この瞬間だけ、ただの馬鹿になればいい。馬鹿は後先を考えない。
時に自らの業とエゴ、時に自らのささやかな"願い"の為だけに力を振るえばいい。
彼女は今、天愚である。
咆哮。轟音と共に鴉狼は瞬時、肉薄し刀を振るう。風圧の暴威が悪魔の身体を引き裂きながら吹き飛ばした。
木々を薙ぎ倒しながらも、悪魔は地に踏み止まり、全身から球刃を射出した。無数の球刃は特異な軌道を描きながら鴉狼に殺気を向けている。
一閃にして放たれた風弾は、無数の標的を一度に撃ち落とし、残った物も一太刀、二太刀、両断された。
球刃が血潮を吐き出すより速く、紅く燃える眼光は怯える悪魔を捉え、土を巻き上げながら疾走する。
悪魔は狼狽し叫んだ。
「何故だ何故だ何故だ! 分からない! お前達だって人間を喰らう側のはずなのに!」
鼻で笑う。
まるで、分かってない。
刀が悪魔の喉を貫き、そのまま刃を木に突き立てる。
「天狗は空を飛び、地を駆け人間を見ている。気紛れに浚って弟子にしたり、人間側の悪戯に頭を抱えたりもする。そんなラフな関係なのよ。一緒にしてもらっては困る」
悪魔は喉を破り、無理矢理刃から逃れる。そして鴉狼の眼を見た。
だが、最早紛い物を作るしか脳が無いものに、叶えられる"願い"など持ち合わせていなかった。
それを悟り、翼を顕現して飛び去る悪魔。
逃がすはずがない。追撃。刀を水平に構え、唱える。
「〈幻想風靡〉」
加速をそのまま刃に伝えた一戟。確実な手応えがあった。
翻り、再び悪魔に太刀を浴びせる。
二戟。
三戟。
四戟。
加速度的に増えていく斬戟。速度。
二〇戟を越えた頃には身体が赤熱したような光となっていた。
叫ぶ。
叫ぶ。
叫ぶ。
怒りや悲しみ。そんな安易なものではない、複雑でしかし馬鹿正直な感情の発露だった。
喉奥より血の味がしているのがわかる。それでも叫び続けた。
この声が、届くようにと。
最後の一戟を振るい、暫しの静寂が森を包む。
気が付けば周囲の木々は暴風により根より薙ぎ倒されており、まるで爆心地のようであった。
最早形が分からないまでに切り刻まれた悪魔が一面に散乱している。再生能力こそ健在であるが、それも身体と呼べる部位があってのこと。欠片同士が結合はするものの、結合した傍から機能不全を起こし、自壊していった。
強いて形状がわかるのは、頭ぐらいだろう。
転がる頭に近付き、切っ先を眼前まで突き出す。
悪魔の頭は事切れる前にも拘わらず、感情の薄い口調で言った。
「人間にとって、"願い"とはなんだ」
ブスブスと火花を散らし、焦げ付くような臭いを放ちながら、そんなことを聞いてくる。
最早反撃の目などありはしない。"願い"の力も二つの光の力か今は通用しない。ならば問答に付き合ってやるのも一興だろう。
人間の願い。
妖怪である者に分かるはずもなかった。
理解は出来る。が、根本的に違う存在であるからこそ、その気持ちを共有するのは難しい。
ならば人間でも妖怪でも、共通する願望とはなんであるか。
その答えに関しては既に得ていた。
「一人では生きていけないから、二人では叶えきれないから、上位存在に想いを託す。それが人にとっての願いよ。多分ね」
それはただの現実逃避。ロマンチストの発想だ。
でも、それでもいいではないかと思う。
人間はその身に余る夢を見る。短い生涯を全て捧げても届かぬ大きな夢を。
大きな夢は時に絶望を与えるが、大方は希望を与えてくれる。
尊大なまでの大きな夢を見、いずれ叶うかもしれないという小さな希望に夢踊らせながら、人は時に他と分かち合い、惑い、願うのだろう。
分かち合えば、道程は多少短くなる。
そして実際に叶うこともあるだろう。
仮に叶わずとも、叶える為に足掻くのは生きる糧となる。
安易に叶う外法を知り、それに溺れたりしなければ、きっとこの在方は幸福だ。
悪魔の頭に刀を突き立てる。目を見開き塵と化す頭に並行し他の肉片も塵と消えた。
「そんな理論立てればわかるような話では無いけどね。心情なんて面倒なものだし。まぁ少なくともお前が叶えていたものとは、雲泥の差があるでしょうね」
独り言ち、刀を納める。
と、周囲から青い光が立ち昇って行くのが見えた。
同時に身体の中にあった光も、その役目を終えたかのように分離し空に消えていく。
森で一人、光を眺める。これらが石に蓄積され可視化された願いの欠片であるならば――
「酒の肴には悪くないかもね」
――少しでもいい、半端でもいい。叶ったら素敵だろう。
いとおしき二つの光を目に焼き付けながら、文は暫く空を見上げて佇むのだった。
◇◇◇
目が覚める。
妙に寝覚めが悪いし、妙に全身が痛むのだが、"思い当たる節がない"。
そもそもが、何故こんなところで寝ていたのか、何故喪服に身を包んでいるのか、不自然極まりない。そう椛は思った。
見る限り、ここは鴉天狗であり厄介なブンヤ、射命丸文の自宅であると分かる。
起き上がり、屋内を歩き回る。家主はいない。だと余計に自分が今ここにいた意味がわからない。
台所には先程まで誰かがいた匂いがする。だがどうにも知らない匂いだ。
テーブルには食器が用意されており、メモ書きが添えてあった。
――お夕食です、温めて食べてください
見覚えの無い丁寧な字。文のものではない。
だが何故だろう。頭から"二人分"何かが抜け落ちた感覚がある。
ふとメモ書きを裏返す。
瞬間、込み上げてくる感情が制御出来なくなった。
子供らしい拙い筆跡。
溢れる涙、嗚咽が、抑えられなかった。
――ありがとう。犬のお姉ちゃんへ