『わかさぎ姫』
期限は一日だけ。それを過ぎたら、貴女は元の人魚姫へと戻ってしまう。
まるで何処かの童話みたいだ。
私が人里の診療所から永遠亭へと帰る途中、川の畔で誰かが賑やかな歌を歌っているのに気付いた。それも、とても綺麗な歌声だったので、私は思わず聞き入ってしまった。それが、わかさぎ姫との出会いであった。
「貴女には、他の人には無い「特別」な雰囲気がある。貴女って、何者なの?」
わかさぎ姫が私に質問してきた。私は返答に迷った。私が老いる事も死ぬ事もない「不死」の存在だと分かれば、きっとわかさぎ姫の中で私に対する遠慮が生まれてしまう。それは避けたいと思った。何故か私は、この人魚姫とだけは対等の関係でいたいと思ったのだ。
歌を聞かせてもらう代わりに、私は地上での出来事をわかさぎ姫に話した。彼女は人魚姫、足が無い。故に地上での話題には興味津々な様子であった。人々の間で何が流行っているのか、何処に美味しい店があるとか、そんな他愛のない話ばかりだ。けど、わかさぎ姫は随分と楽しそうに私の話を聞いてくれた。
わかさぎ姫はよく「恋愛」を歌っていた。それも、愛する者をひたすら待ち続ける女性の気持ちを表した歌が多い。
「私はね、愛している人がいるの」
相手は里の人間だという。それに対し、彼女は人魚姫。こういう物語は大抵最後に悲劇が訪れる物である。それも、鬱陶しい教訓付きで。だが、それでもわかさぎ姫は毎日、嬉しそうに愛する者の話を私に聞かせた。彼女の歌に秘められた淡い恋心にまつわる話だ。ある種のライナーノーツのようで興味深く、私は彼女の恋物語に夢中になってしまった。
私がわかさぎ姫の元へ訪れる度に、彼女は一曲歌い、その歌が生まれた経緯となる物語を聞かせてくれた。とても甘酸っぱい馴初めである。その人間は、私と同様に、毎夜、彼女の歌を聞きに川の畔へと訪れていた。これは二人にとっての逢引きである。それも、人間と人魚姫、許されざる恋の逢瀬だ。
そんなある日、わかさぎ姫は言った。
「一日だけでいい。私も、人間と同じように、地上を歩いてみたい。それでね、今度は私の方から彼に会いに行くの」
それは叶わない事だと言わんばかりの表情を浮かべていた。とても寂しそうな顔であった。
……『人魚姫に足を生やす方法』、まるで何処かの童話みたいだ。
私は医者としてではなく、彼女の友人として、そのどこまでも純粋な願いを叶えてあげたいと思った。私は、わかさぎ姫の為に薬を調合した。薬の効力はたった一日、それも、一度の投薬によって身体に耐性が付いてしまう、最初で最後の薬であった。
「期限は一日だけ。それを過ぎたら、貴女は元の人魚姫へと戻ってしまう」
それでも、わかさぎ姫はとても嬉しそうに笑ってくれた。その日、彼女はさっそく薬を服用した。使い慣れていない人間の足を少しずつ慣らしていく。
「先生、一人で彼の元へ行くのは緊張するから、一緒に来てくださらない?」
わかさぎ姫は妙な事を言う。せっかくだから、私は彼女の意中の人間と二人きりにさせてあげたいと思っていた。だが、それでもわかさぎ姫は頑なに私に「ついて来てくれ」とせがんだ。疑問に思いながらも私はそれを承諾し、おぼつかない足取りのわかさぎ姫を支えながら、ゆっくりと人里へ向かった。
わかさぎ姫はその道すがら、穏やかな色の花束を買った。愛しい彼への贈り物だという。だが、花束を買った後、何故かわかさぎ姫は人里から出て、全く真逆の方向へと歩いていこうとする。
人魚姫の恋、しかし、これは童話ではない。わかさぎ姫の恋物語は、静かに幕を閉じる事になる。この道の先がどんな場所なのか、職業柄、私は知っている。
そこは、人間の為のお墓だ。
本当は随分と前から気付いていたが、私は、嬉しそうに愛を語るわかさぎ姫にどうしてもその事実を告げる事が出来なかった。わかさぎ姫が愛した男は、既にこの世を去っている。わかさぎ姫が何度も歌ってくれた愛の歌、その相手は人間である。人魚であるわかさぎ姫と同じ時間を刻む事は出来ない。わかさぎ姫の愛した者は、もういないのだ。
その人の墓の前に立ち、私は、自分のした事が本当に正しい事だったのか、分からなくなった。わかさぎ姫を、地上に連れ出すべきではなかった。わかさぎ姫は、ずっと、あの川の畔で留まっているべきであった。そうすれば、こんな悲劇に立ち向かう事も無かったはずだ。そう考えた時、わかさぎ姫は、いつもの柔らかい笑顔を浮かべて私に告げた。
「一度でいいから、あの人の墓参りをしたかったの。先生、私はこれを悲劇とは思わない。悲しくないと言えば嘘になるけど、それでも、私は、あの人に出会えてよかったと思っています」
最後の最後にそう思えただけで、私の恋は報われるんです。
そう言いながら微笑むわかさぎ姫を見て、どうして彼女の歌声が美しいのか、ほんの少しだけ理解出来たような気がした。
あのね、聞かせたかった歌があるんだ。
伝えたかった言葉があるんだ。
人魚姫の、誰にも知られない恋物語は、童話の通り泡沫と消えたけど、その暖かさだけは永遠に覚えていたいと思う。