『小野塚小町』
小町は正真正銘の「死神」、どちらかと言えば、私にとって彼女は商売敵である。私が患者を治すのに対し、小町は、患者の最期を待つ存在だ。職業柄仕方のない事だが、小町はよく永遠亭へと訪れる。人里を離れ、ここで療養に専念している患者を、迎えに来るのである。
基本的に私はありとあらゆる薬を調合出来る。しかし、それは人間の倫理を外れない範囲での話だ。やろうと思えば、私は肉体から死を、あらゆる病魔を忘れさせる事が可能だ。だが、それは愚かな行為である。故に、私に出来るのはあくまで人間の尊厳を削ぎ落さないレベルの治療だけだ。人間の身体を捨てる事を強要するような治療が必要になった時、私は、自らの意志で患者を見捨てるようにしている。あたかもそれが運命であるかのように装いながら――。死ぬ運命の人間を救うのは、法度。それが、人を助ける上での私の線引きであった。
ある日、我が永遠亭に一人の青年が入院する事になった。私に出来るのは薬を処方する事。私の患者は自宅療養が基本だ。永遠亭へ入院する、それは、もう先が長くない末期患者を意味している。
青年は、不治の病に侵されていた。手の施しようのない段階であった。延命の治療は出来るが、今のところ、彼を治す方法はこの世に存在しない。同じ頃に、小町が永遠亭へとやって来たのが何よりの証拠であった。
不思議な事に、青年には小町の姿が見えた。死神である小町は、常人には見えない筈なのに。小町は自分の正体を偽り、時折青年の様子を見るようになった。青年も、小町に親しげに接するようになった。小町もまんざらでもなさそうな様子だ。情が移らないように患者との過度の接触を避ける彼女にとって、それは珍しい事であった。あろう事か、青年は、小町に、死神に恋心を抱いていたのだ。
青年の仕事は画家であった。最期の入院だというのに、青年の荷物には画材があった。最期の時でも絵を描いていたいという。些細な小物のスケッチから風景画まで、青年の病室は瞬く間に多くの絵で溢れた。絵を描いている時は、死への恐怖を忘れる事が出来るらしい。
小町は、青年の描く絵が好きだった。芸術の良し悪しは分からない様子であったが、それが心を込めて描かれた絵である事は分かるらしい。小町に絵を褒められ、青年はますます絵を描く事に夢中になった。青年は嬉しそうに言う。
「元気になったら、貴女の絵を描きたい」
その日は訪れない。それを一番よく知っているのは小町であった。それに、青年は気付いていない。小町との距離が近くなる度に、小町と接する時間が増える度に、自身の命が少しずつ弱くなっている事に。それは、死神の性である。小町も、それを理解していた。それでも、小町は、青年の傍に居たいと願った。
だが、最期の日は唐突に訪れた。青年の容態が悪化したのだ。最後の最後まで、青年は筆を片手に絵を描き続けていた。ベッドの上に横たわった青年の鼓動が弱くなっていく。
だというのに、その日、小町は永遠亭に訪れなかった。青年の死が受け入れられないのか、それとも、単なる気まぐれなのか、結局小町は、青年の最期を看取る事はなかった。
三途の川にて、彼岸花が無数に咲く岸辺で、青年は小町と再会した。しかし、小町は極限まで感情を押し殺し、出来るだけ事務的に青年を船に乗せた。これから、青年の魂を黄泉の国へと送る為だ。青年には生前の記憶が無い。死んだ人間は、霊体となった時に生きていた頃の記憶から解放されるのである。小町にとって、それは悲しい事であった。
だが、青年は手に一枚の絵を抱えていた。死者が荷物を持って三途の川に訪れるのは珍しい事だ。青年は絵を見つめながら、驚いた様子で小町の顔を見た。そして、嬉しそうに笑ったのだ。死者は言葉を話せない。青年は無言のまま、嬉しそうに小町にその絵を見せた。
それは、小野塚小町の姿絵であった。
死神の絵だというのに、小町の背中には雪のように真っ白な羽が描かれていた。まるで、幸せを呼ぶ天使のようだ。
元気になったら描くと約束した絵である。彼は死ぬ間際にこの絵を完成させたのだ。その理由は、私の甘さにある。
……私は、彼が息を引き取る直前に、法度の治療を施してしまった。最期の日、その一日だけ、青年の身体を健康な状態に戻してしまったのだ。それは、たった一日だけの奇跡だ。その一日を使い、青年は、最後に愛した女性の絵を描いた。心優しい彼の想いが詰まった、愛のある絵が仕上がった。先の短い自分に寄り添い続けてくれた小町の事を、天使のように柔らかく描いたのだ。彼女の正体が、自身の命を奪いに来た死神だという事も知らず、青年は絵を描き終え、幸せに、眠るように亡くなった。
あの世へと続く三途の川、その船の上で、小町は大粒の涙を流しながら、ゆっくりと青年を抱きしめた。死神である自分を愛してくれた優しい青年の胸の中で、小町はひたすら泣き続ける。青年の愛は、死神の心に温かさを残し、いつまでも輝き続けた。青年にとって、小町は紛れもなく天使と呼ぶにふさわしい存在であった。彼女の傍で、青年は最後まで幸せに生きる事が出来たのだから。