『多々良小傘』
付喪神である多々良小傘が風邪を引いた。唐傘が雨に打たれて風邪を引いてちゃ世話無いわね。私はそう言いながら、だらしなく鼻水をダラダラと流す小傘に向かってティッシュ箱を投げつけた。小傘は面目なさそうに鼻をかんだ。
小傘が風邪を引く一か月前、彼女は人里でいつも通り子供を驚かせていたという。そんな時、一人の少年と出会ったのだ。小傘の驚かせ方があまりにも幼稚なので、少年は小傘をからかったのだ。
その日から、少年と小傘の勝負が始まった。一か月間、一日一回、小傘が少年を脅かし、少年が一度でも驚けば小傘の勝ち。一度も驚かずに一か月を乗り越えれば少年の勝ち……という、何とも不毛な戦いであった。
小傘はありとあらゆる方法で、少年に悪戯を仕掛けた。だが、そこは子供の柔軟な発想である。少年は小傘の手口を事前に察知し、封殺するのが得意だった。少年にはどんな仕掛けも通用しなかった。というより、小傘の用意する悪戯がどれもバレバレ且つコテコテな手法ばかりだった。そうして、一週間、二週間、ついに三週間が過ぎた。
小傘はこの勝負にある物を賭けていた。小傘が賭けていた物、それは、自身の命とも言うべき唐傘を少年に貸すという物だった。小傘は、他人に傘を使われる事を嫌っていた。
小傘は、元々忘れ傘の付喪神。忘れ去られたにもかかわらず、一人寂しく持ち主が迎えに来るのをいつまでも待ち続けた過去を持っている。それにより、小傘は自身の分身でもある唐傘を他人に使われる事を嫌っているのだ。だから、小傘は小傘なりに懸命に少年を驚かす事に専念した。いつしか、二人の勝負は日課のようにもなった。二人はこれを真剣勝負と呼んでいるが、内心では、共にこの驚かし合戦を楽しんでいたのだ。二人にとって、この勝負は何よりも面白い遊びだったのだ。
しかし、ついに約束の日が訪れた。勝負が始まって一か月、今日がその最終日だった。小傘は気合を入れ、今までとは比べ物にならない驚かし方を考えて、少年の元へと出向いた。だが、その日はいつもとは少しだけ人里の様子が違った。小傘は不審に思いながらも、足早に少年の元へと向かう。そこで、全てを知った。
少年の母親が難病を患ったのだ。
強い雨が降っていた。永遠亭に連絡が入り、私はすぐに人里に併設していた診療所へと出向いた。人里の医者では治せない病だ。少年が泣きじゃくりながら母の元に取りすがっている。治療には長い時間、少なくとも一晩かかる。この場に居られても妨げにしかならないから、私はその少年に帰るように告げた。
だが、少年は帰らず、土砂降りの雨の中、一人で泣き続けていた。雨曝しで待つ事なんか無いのに、それでも、少年は雨に打たれながら、母親の治療が終わるのを待ち続けた。あれは少年の、幼いなりの祈りでもあったのだろう。ずぶ濡れになりながら、少年は神か仏に拝むように蹲り続けた。まるで、苦しむ母の身代わりになれない自分を戒めるように。
そんな時、少年に傘を差す者がいた。
少年は驚いて、その傘の持ち主を見た。勝負の相手、多々良小傘であった。少年に傘を差す代わりに、小傘はずぶ濡れになりながら少年に微笑んだ。あれだけ他人に使われる事を嫌がっていたのに、小傘は何の躊躇もなく、少年に傘を差しだしたのだ。何故、と少年は小傘に問う。
「頼りない傘だけど、それでも、君を雨で濡らさせはしない」
それこそが、唐傘の生き甲斐であった。少年の代わりに、小傘は雨に打たれながら、少年と共に夜明けを待つ事にしたのだ。大粒の雨に打たれて震える傘を手に持ったまま、少年は小傘の顔を見た。大雨に濡れながら、小傘はとても嬉しそうに笑っていたのだ。長い時間、小傘は雨に打たれ続けた。だけど、小傘はそれを苦とも思わずに耐えてみせた。
彼女は忘れ傘。待つ事には慣れていた。
少年は唐傘を大事に握りしめ、泣きながら小傘に感謝した。結局、日付が変わり、一か月が経ってしまった訳だけど、小傘も少年も、勝負の事はすっかり忘れてしまっていた。強敵であり、友でもある少年の心を、冷たい雨で凍えさせる訳にはいかない。それは小傘の、唐傘としての意地であった。
明けない夜が存在しないのと同じように、止まない雨も存在しない。治療は無事に終わった。母親の身体は順調に回復に向かっている。少年は母親に抱き着き、治療を施した私に、そして、心細い夜、共に寄り添ってくれた小傘に向かって、何度も感謝の言葉を述べた。
その時、唐傘のお化けが可愛らしいクシャミを一つした。そりゃあ一晩中雨に打たれりゃ傘だって風邪引くでしょうね。
小傘は、鼻水を垂らしながら、だらしなく笑ってみせた。それは、自らの使命を全うした、誇らしげな笑顔であった。