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入り口に誰かの気配がして私は目を覚ます。肩の痛みは大分ひいていた。このまま治ってくれると良いのだが。入り口の扉が開けられると天人がずかずかと入ってきた。
「ねえ、ご飯用意したけど食べる?」
「あら、ありがとう。でも私は神様だから物は食べなくても平気なのよ」
「そんなこと言わないで食べなさいよ! わざわざあんたの分も用意したんだから!」
そう言って天人は切った桃が乗った皿を枕元におく。もしかすると毒なんかが入ってると思えなくもなかったが、考えてみれば神様に効くほどの毒なんて言うのは、少なくとも自分は今までお目にかかったことがない。
強いて言うなら酒くらいだろうか。とは言うものの酒だって厳密には有害ではない。とりあえず毒が盛られているという事はないだろう。
皿を手元にたぐり寄せる。お世辞にも器用とは言えない盛りつけ方だ。おそらく彼女が切ったのだろう。わざわざ用意したと言うのはどうやら本当らしい。そう言えばこの屋敷は彼女以外に誰もいないのだろうか。
そんな事を思いながらその不揃いに切られた桃の切れ端に楊枝を刺す。
よく天界の桃は食べるだけで体が強くなると言うが、それは神様にも当てはまるのだろうか。肉体の増強まではいかないにしても、せめてこの怪我に効くというのなら十分にありがたいのだが。
まぁ、せっかくの機会なので細かいことは抜きにして一つ頂いてみることにしよう。早速その果肉を口に含む。口の中に広がる果汁は思ったよりも淡泊な味だった。もっと濃厚なものを想像していただけにちょっと意外な感じだ。
私が桃を食べる様子を天人はじーっと見続けている。それはまるで被検体の観察をする生物学者。あるいは飼ったばかりのペットに餌をやり、食べる様を興味深そうに見つめる子供のような眼差しだ。
私を猫か何かと勘違いしているのだろうかこの子は。ともかくじっと見られていると食べづらいし、何より気味が悪かったので、一つ提案を投げかけてみることにした。
「ねえ、良かったらあなたも一緒に食べる?」
「……え?」
「私と一緒に食べない?」
「いや、でも……」
誘いの言葉に思いの外動揺を見せる天人。これは脈がありそうだ。ここはもう一押ししてみることにしよう。
……何か、逢い引きの誘いをかける男女の駆け引きのようにも思えてきたが細かいことは気にしない。
「あなたの事色々聞かせて欲しいの。一緒に食べながらお話しましょう」
これは案外出任せの言葉ではない。実際、この子の事は興味あったし、例の刀の事も気になる。それに今は怪我の痛みもひとまず治まっているので話をするくらいは大丈夫だろう。
「あ、あんたがそこまで言うなら食べてやってもいいわ」
口ではそう言いながらも、いそいそと私の脇までやってくる。どうやらこの子は、言葉よりも行動や仕草から感情をくみ取った方が良さそうだ。まったく、とんだひねくれ者、いや天の邪鬼と言うべきか。
その天の邪鬼なお姫様は私のすぐ脇にちょこんと座ると、もそもそと桃を食べ始める。それにしても今の彼女からは禍々しさというものが全く感じられない。
何より目の様子が違う。あのらんらんと見開いたまるで妖怪のような目ではなく、少し強気そうではあるものの純粋な目の色をしている。
おそらくこれが彼女本来の姿なのだろう。となると、あれは例の刀のせいと見て良さそうだ。現に今、彼女が刀を持っていない所からもそう判断して間違いないだろう。
「ねえ。そういえば私のこと色々知りたいって言ってたわよね。具体的には何が知りたいわけ?」
「そうね。まずはあなたの名前ね」
「私の名前? そんなの前に会ったときに名乗った気がするんだけど」
「そんな気もするけど忘れちゃったわ」
「人の名前忘れるなんて最低ね」
「しょうがないでしょ。あの時あなた酔っ払ってて言ってる事が良く聞き取れなかったんだもの」
「失礼ねー。酔っ払ってなんかなかったわよ。仕方ないわね。今度は忘れないでよ。私の名前は、て・ん・し。比那名居天子よ」
「天子ね。覚えたわ」
「ねえ。私からも質問して良いかしら?」
「何かしら?」
「あんたの名前を教えてよ」
「あら、前に名乗った気がするけど?」
「そんな気もするけど忘れちゃったのよ」
「人の名前忘れるなんて最低ね」
「う、うるさい。いいから教えなさいよ!」
実際にはあの時私は名乗っていない。そんなに昔の事でもないのに既に記憶が曖昧という事は、やはり彼女は酔っ払っていたのだ。まったく意地っ張りな子だ。
「静葉、静かなる葉で静葉よ」
「静葉。へー良い名前ね」
「あら、あなたにこの名前の良さがわかるの?」
「バカにしないでよ。私は天人よ? 風流とかくらい多少は理解してるわよ! 多少は!」
そう言って天子は不満そうに頬を膨らます。
なるほど。確か天人というのは酒と踊りの日々を過ごしていると聞いたことがある。
故に皆が皆、風流人士とまでは言わないが、そういうものを嗜んでいても別におかしい事ではない。それでもこの子が言うと、妙にミスマッチに思えるのはなぜだろうか。
そもそもこの子は私が思い描いてた天人の姿とはかけ離れている。もっと浮世離れして超越したような仙人のようなものだと思っていたのだが、彼女からはそんなもの微塵も感じられない。
天人とはこういうものなのか。それとも彼女が特殊なのだろうか。
「ねえ、その桃おいしい?」
不意の問いかけに私は素直な感想を述べる。
「うん、そうね。思ったより味が薄いわね。もっと濃い味なんだと思ってたけど。でも嫌いな味じゃないわ」
確かに味は薄いがこれはこれで悪くない。むしろ水気が多くて喉を潤すには丁度いいくらいだ。しかし私の答えに天子は少し寂しそうな表情を浮かべる。
「私、この味あまり好きじゃない。まるでここを表してるみたいで」
「どういうこと?」
「ここにいる人等は皆、うわべだけで付き合ってる奴ばかりでさ。薄っぺらいのよ。そう、まるでこの桃の味みたいに……」
「そうなの? てっきり、飲めや歌えの陽気な道楽人ばかりだと思ってたんだけど」
「……それは見た目だけよ。愛想はいいけど、心の中では何を思っているのかわかったもんじゃない。そう、どいつも、こいつも。……どいつも……こいつも……!!」
突如ぞくっとした感覚が体を突き抜けた。彼女の様子がおかしい。思わず身構える。天子の手にはいつの間にか例の刀が握りしめられていた。いったいどこから取り出したのか。もしかして感情の高ぶりに呼応して現れるとでもいうのか。
「そうよ! どいつもこいつも、みんな私のことバカにしやがって!! 何が天人崩れよ!! この野郎!! 好きでそうなったわけじゃないのに!!」
天子はよく分からないことを喚きながら布団の枕に対して執拗に何度も何度も斬りつける。まるで親の敵とでも言わんばかりの勢いだ。ずたずたになった枕からは羽毛がはじけ瞬く間に部屋中へ飛び散った。
「天子。落ち着きなさい」
「うるさい! 指図するな!」
明らかに殺意がこもっている目で睨みつけられてしまう。だがここで押し負けるわけにはいかない。
「もう一度言うわ。落ち着きなさい」
「黙れ! 殺されたいの!?」
「あなた私を殺さないって言ったわよね?」
私の言葉を聞いて彼女の目が一瞬揺らぐのがわかった。
「天子。私のもう一つの問いに答えてくれるかしら?」
「何よ」
「その刀の事よ」
「ああ、これ? かっこいいでしょ」
「それは妖刀よ。今すぐ手放しなさい」
「うるさい! 指図するなって言ったでしょ!」
「その刀は確実にあなたを滅ぼすわよ。それでもいいの?」
「この刀を持ってると心が落ち着くのよ。安心出来るの」
天子は刀の刀身を指でさすりながら口元をゆがませ、笑みを浮かべる。
違う。彼女はこの刀に魅入られているのだ。このままでは刀に蝕まれ、いずれ命を落としかねないだろう。なんとか説得出来ないものか。とりあえず下手に挑発するような言動だけは避けたいところだが。
「ねえ、天子。もっと私とお話しましょう。私はさっきまでの穏やかなあなたの方が好きよ」
「う、うるさい! おまえだって……そんな事言いながら私の事をバカにしてるくせに……っ!」
彼女は汗こそかいていないが呼吸が激しく乱れてきているのがわかった。もしかすると寿命を削り取られているのかもしれない。
「こ、この刀さえあれば……みんなを見返せるのに……!」
彼女の体が大きくぐらつく。それをすかさず受け止めるとその体はまるで氷柱を抱いているのかと勘違いしてしまいそうなほど冷たかった。
いつの間にか刀は消えている。やはり感情の高ぶりによって現れるのだろう。とりあえず布団へ寝かせることにする。しかし、寝かせた所で熱源がないのにそうそう体が温まるわけがない。案の定、天子は顔面を蒼白させて震えていた。
近くに何か熱を蓄えるのに使えそうなものはないか。そう思いながら辺りを見回すと、入り口の扉が開かれているのに気づく。
……そうだ。今ならここから逃げ出す事も出来るのだ。
目線を天子に戻す。彼女は「寒い、寒い」と、うわごとのようにつぶやいている。
元々こいつは自分に危害を加えた悪い奴だ。彼女が今苦しんでいるのは、その因果とも言えるし、それをわざわざ救ってやるほどの義理はない。とは言うものの、このまま放って置いたら下手するとこの子は死んでしまうかもしれない。
流石にそれはちょっと気の毒過ぎるし何より夢見が悪い。
私は結局、ここに残って彼女の看病をする事を選択した。
我ながら甘いとは思うが、これが自分の性分であり、自分が出した答えなのだ。自分自身に嘘はつきたくない。
部屋を出ると、木目が美しい手すりのある廊下に出る。その手すりの先は大きな吹き抜けになっていて、そこから大きな絨毯が敷かれている下の階が見えた。
その奥の方には螺旋状の階段も見える。自分が思ったよりもこの建物の規模は大きいようだ。こんな建物に彼女は一人で住んでいるというのか。
螺旋階段を使って一階に降りると奥に部屋が数個あるのが見えた。
直感でそのうちの真ん中の部屋へと行く。その部屋はどうやら台所のようで、中にはかまどなどが設置されていた。そこで丁度良い大きさのゴム製の袋を見つける。おそらく出かけるときに水などを携帯するための袋だろう。これは湯湯婆代わりに使えそうだ。
早速お湯を沸かすためにかまどに薪をくべて火をつける。お湯は予想よりかなり早く沸きあがった。おそらく高所のため沸点が違うのだろう。
少しぬるいが、丁度これくらいが体に負担をかけない塩梅なのだ。お湯をゴムの袋に注ぎこぼれないように固く結ぶ。そしてその上からタオルを巻きつけてやる。これで特製湯湯婆の完成だ。
すぐに部屋へと戻り、天子の寝てる布団の足下の方に湯湯婆を入れてやる。あとは布団の中が温まるのを待つだけでいい。足さえ温まればひとまず大丈夫だろう。
こういう事は穣子の看病をしていて何度もやったので朝飯前だった。そう言えばあの子の具合が悪くなるのは冬に差し掛かる丁度今辺りだった。
多分今頃、鬱になりながら布団に寝込んでいるかもしれない。心配ではあるが、彼女の周りには雛やにとりなどの良い友達がいる。
特に雛は穣子の事を良く知っているので、きっと彼女が上手くやってくれている事だろう。そう信じたい。
ふと天子が「ううん」と唸りながら寝返りを打つ。顔色は大分血色が戻ってきているようだ。恐らく湯湯婆が効いてきているのだろう。これでとりあえずは一安心といった所か。天子は口元を緩めて赤子のように眠りこけている。
「……いく……おなかすいた……」
彼女の寝言だ。『いく』とは誰かの名前なのかもしれない。
それにしてもなんと幸せそうな寝顔な事か。見てるこっちも思わず和んでしまう。その寝顔を見て、自分のした事は間違ってないと改めて確認が出来た気がした。
さて、和んだ事だし、それじゃそろそろ始めるとしましょうか。この好機を逃すわけには行かない。
そう、彼女が寝ている間にこの建物の中を調べさせてもらうのだ。もしかしたらあの刀についての手がかりが見つかるかもしれない。
優しい姉さんのキャラはひとまずここまで。次は抜け目のない紅葉神様の時間よ。
布団の中の天子を見やる。彼女は依然として熟睡したままだ。これなら当分は起きないだろう。
彼女を一人残して、私は部屋をあとにした。