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第一章 幻想郷に舞い降りた癒しの葉
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第一節:博麗神社の夜
夜の博麗神社は、静かだった。
けれどその静けさは、安らぎではなく、どこか痛みを孕んでいる。
境内に立つだけで、空氣のざらつきが肌に触れた。
結界が傷ついている証拠だ。
私は御神木から受け継いだ氣を指先に集め、ひび割れた結界へそっと触れた。
淡い緑の光が、夜の闇に溶けていく。
光が結界の裂け目を縫うように流れ込み、ゆっくりと綻びを塞いでいく。
その瞬間、境内の草木がふわりと揺れた。
風ではない。
植物たちが、私に語りかけている。
『ありがとう、優葉』
『これで、しばらくは安心だよ』
私は小さく頷いた。
植物たちの声は、私の胸に優しく触れる。
それは、私がこの世界に生まれた意味を思い出させてくれる声だった。
「……よし。これで今夜は大丈夫」
振り返ると、ココアちゃんがふらふらと立っていた。
疲労で足元が覚束ない。
胸が痛むほど、無理をさせてしまった。
「ココアちゃん、もう休もう。今日は本当に頑張ったね」
「……はい、優葉さん……」
弱々しい声。
その震えが、私の心を締め付ける。
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◆ 博麗神社の客間にて
霊夢さんの住居の客間に足を踏み入れた瞬間、
胸の奥がきゅっと痛んだ。
――この部屋。
霊夢さんが昼寝をして、
文句を言いながら掃除して、
時々、縁側でお茶を飲んでいた場所。
私は御神木として、そのすべてを見てきた。
風に揺れる髪も、
眠そうに欠伸をする姿も、
誰もいない境内で小さくため息をつく背中も。
季節が巡るたびに、
霊夢さんは少しずつ変わっていった。
背が伸び、声が落ち着き、
笑う時の表情が大人びていく。
その変化を、私はずっと見守ってきた。
ただそこに立ち、枝を揺らし、
霊夢さんの幸せを願い続けてきた。
けれど今の私は、
霊夢さんにとって“初対面の神霊”だ。
私がどれほど霊夢さんを知っていても、
霊夢さんは私を知らない。
その距離が、胸の奥にひんやりとした寂しさを落とす。
「ココアちゃん、ここで休んでてね」
布団に寝かせると、ココアちゃんは安心したように目を閉じた。
その小さな身体が震えているのを見て、胸が締め付けられる。
私はそっと彼女の髪を撫でた。
その指先に、御神木としての氣が静かに流れ込む。
「大丈夫。私が守るから」
その言葉は、ココアちゃんに向けたものでもあり、
霊夢さんに向けたものでもあり、
そして――
長い年月を経てようやく“人として立った”自分自身への誓いでもあった。
霊夢さんを守りたい。
この神社を守りたい。
そして、ココアちゃんの涙を二度と見たくない。
私はそっと布団を整え、
静かに息を吐いた。
夜の客間は、どこか懐かしくて、
けれど今は少しだけ遠い。
その距離を埋めるために、
私はここに生まれたのだと――
胸の奥で、確かにそう感じていた。
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◆優葉の手料理
私は台所に立ち、深く息を吸った。
博麗神社の台所は質素だけれど、どこか懐かしい。
霊夢さんがよく使っていた包丁の跡や、
少し欠けたままのまな板。
御神木として見守っていた頃の記憶が、ふわりと胸に広がる。
「……よし。今日くらいは、ちゃんとしたご飯を作らなきゃね」
私は指先に植物の氣を集めた。
淡い緑の光が広がり、空氣が柔らかく震える。
すると、
香草が芽吹くように姿を現し、
瑞々しい野菜が静かに形を成し、
森の奥で育つはずのキノコがふわりと生まれた。
『今日はスープがいいよ』
『この子、疲れてるからね』
『甘い香りの果実も使ってあげて』
植物たちの声が優しく響く。
私は微笑みながら、彼らの“氣持ち”を受け取った。
料理を作るのは好き。
植物たちが『食べてほしい』と微笑んでくれるから。
そして、誰かがそれを食べて笑ってくれると、
植物たちも嬉しそうに葉を揺らす。
鍋の中でスープが静かに煮立ち、
香草の香りが部屋いっぱいに広がった頃――
「……いい匂い……」
ココアちゃんが目を覚ました。
その声はかすれていて、でもどこか安心していた。
「ふふ、できたよ。食べよ?」
私はスープをよそい、ココアちゃんの前に置いた。
湯氣の向こうで、ココアちゃんの瞳が潤む。
「……優葉さんの料理、あったかいです……」
「うん。ココアちゃんの心にも届くように作ったから」
ココアちゃんは震える手でスプーンを握り、
ひと口食べた瞬間、ほっと息を漏らした。
その表情を見て、胸の奥がじんわりと温かくなる。
食後、私は香草茶を淹れた。
湯氣が立ちのぼり、ほのかな甘い香りが漂う。
「ココアちゃん。今の幻想郷のこと、ちゃんと話しておくね」
ココアちゃんはスープで温まった頬を赤くしたまま、
真剣な目で頷いた。
その姿が、
“守りたい”という氣持ちをさらに強くしてくれた。
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◆ 聖魔という存在
「まず……“聖魔”って呼ばれている存在について」
私は茶碗を両手で包み込み、
温かさを確かめるように指先へ力を込めた。
言葉を選ぶ時間が必要だった。
ココアちゃんの心を、これ以上傷つけたくなかったから。
「聖魔はね……“幻想郷の住民を取り込み、能力を模倣し、進化する存在”なの」
ゆっくりと、噛みしめるように続ける。
「取り込んだ相手の力をそのまま使えるし、
弱点も、癖も、戦い方も……全部学習していく。
まるで、相手の人生そのものを飲み込むみたいに」
ココアちゃんの肩が小さく震えた。
「紅魔館を襲ったあの……」
「うん。あれも聖魔。
しかも、まだ“下級”の部類だよ」
ココアちゃんは息を呑み、唇を噛んだ。
「下級……あれで……?」
「そう。
上位の聖魔は、もっと複雑で、もっと狡猾で……
取り込んだ相手の“思考”まで模倣することがあるの」
私は胸に手を当てた。
「聖魔は、ただの怪物じゃない。
“進化する災厄”なんだよ」
そこで、私は少しだけ言葉を区切った。
どうしても伝えておきたいことがあった。
「それに……聖魔は無作為に生物を襲うの。
妖怪でも、人間でも、妖精でも、
目に入ったものを区別なく取り込もうとする。
邪魔な建物があれば、ためらいなく破壊することもある」
ココアちゃんの瞳が揺れ、
その奥に恐怖と悔しさが混ざり合う。
私はそっと彼女の手に触れた。
「でもね……理由はわからないけど、
植物は“生物として見なされていない”みたいなの。
聖魔は植物を襲わないし、
森の木々や草花が破壊された例もほとんどない」
ココアちゃんは驚いたように瞬きをした。
「だから私は、植物たちの声を通して、
聖魔の動きや異変の氣配を知ることができる。
植物は襲われないから……
その分、たくさんのことを教えてくれるの」
私は優しく微笑んだ。
「大丈夫。
怖がっていいんだよ。
でもね……知ることは、戦うための第一歩だから」
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◆ 幻想郷の異変
「今、幻想郷は静かに崩れ始めてる」
私は窓の外、夜の境内を見つめた。
風が吹くたび、草木がざわりと揺れる。
その揺れが、どこか不安げに見えた。
「結界は弱まり、
各地で聖魔の出現が増えてる。
最初は小さな異変だったの。
森の中で動物が消えたり、
里の外れで妙な影が目撃されたり……」
ココアちゃんは息を呑む。
「でも、誰も氣づかなかった。
“いつもの異変”だと思ってたから」
私は続けた。
「でもね、違った。
これは“侵食”なんだよ。
幻想郷そのものが、ゆっくりと蝕まれている」
ココアちゃんの表情が曇る。
「そんな……幻想郷が……」
「でも、まだ終わってないよ」
私は優しく微笑んだ。
「守っている人たちがいるから。
戦っている人たちがいるから。
そして……私たちも、その一部になれる」
ココアちゃんは小さく頷いた。
その瞳に、ほんの少しだけ光が戻っていた。
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◆ 自警団の活動
「人里にはね、今“自警団”ができてるの」
私は湯呑みをそっと置き、
ココアちゃんが不安に飲み込まれないよう、
できるだけ柔らかく声を整えた。
「異変の最初の兆候が出た時、
ちょうど慧音さん、華扇さん、アリスさんが人里にいらしたの。
三人とも異変に敏感だから、すぐに“ただ事じゃない”って氣づいたんだよ」
ココアちゃんは目を瞬かせる。
「慧音さんは、里の人たちを守るために指揮を取ってる。
華扇さんは怪我人の救護や、里の外の巡回を担当してる。
アリスさんは人形たちを使って、結界の補強と監視をしてくれてるの」
「すごい……そんなにたくさんの人が……」
「うん。でも、それだけじゃないよ」
私は少しだけ声を落とした。
自然と背筋が伸びる。
“あの方”の名を口にする時は、どうしても緊張してしまう。
「紫さんの指示で、橙ちゃんも派遣されてる。
橙ちゃんは身軽で、氣配に敏感だから……
聖魔の動きや、里の外の異変をいち早く察知してくれるの」
ココアちゃんは驚いたように息を呑んだ。
「さらにね……
紫さんが隠岐奈様に“無理を言って”協力を頼んだの。
隠岐奈様も今回は静観できないって判断して、
里乃ちゃんと舞ちゃんを人里の防衛ラインに派遣してくださったの」
“隠岐奈様”と口にした瞬間、
胸の奥がきゅっと引き締まる。
大地を司る大いなる存在に対して、
生まれたばかりの私が名を呼ぶだけでも恐れ多い。
「里乃さんと舞さんまで……!」
「うん。あの二人は地脈の扱いに長けてるから、
人里の周囲の“土地そのもの”を守ってくれてる。
防衛の要だよ」
ココアちゃんの表情が少しだけ明るくなる。
「それに……鈴仙さんもいるよ」
「鈴仙さん?」
「異変の当初、人里で薬売りをしていたから永遠亭に戻れなくてね。
そのまま医療班として、怪我人の治療を続けてくれてるの。
鈴仙さんがいなかったら……人里の医療は崩壊してたと思う」
ココアちゃんは胸に手を当てた。
「そんなに……みんな、頑張ってるんですね……」
「うん。
そしてね……人里の人たちは知らないけど、
森の中で妹紅さんがこっそり見張ってくれてるの。
慧音さんにはバレてるけどね」
「妹紅さんまで……!」
「そう。
みんな必死に守ってる。
だから私たちも、そこに合流するつもりなんだよ」
ココアちゃんはぎゅっと拳を握った。
その瞳には、さっきまでの怯えとは違う光が宿っていた。
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◆ 霊夢と魔理沙の状況
「……でもね」
私は少しだけ視線を落とした。
この話題だけは、どうしても胸が痛む。
霊夢さんの名を口にするたび、
御神木として見守ってきた記憶が胸を締め付ける。
「霊夢さんと魔理沙さんは……今、人里で療養中なの」
ココアちゃんの表情が固まる。
「二人とも、聖魔との戦闘で重傷を負って……
まだ動けない状態なんだ」
「霊夢さん……魔理沙さん……」
ココアちゃんの声が震えた。
紅魔館の崩壊を経験したばかりの彼女には、
この知らせはあまりにも重い。
私はそっとココアちゃんの手を包んだ。
「大丈夫。
霊夢さんも魔理沙さんも、まだ生きてる。
そして……私が癒すから。必ず」
その言葉には、
御神木として霊夢を見守ってきた年月と、
“今度こそ守りたい”という私自身の願いがすべて込められていた。
ココアちゃんは涙をこらえながら頷いた。
「……優葉さん……信じます……」
私は微笑んだ。
「うん。一緒に行こうね。
みんなを助けに」
夜の静けさの中で、
その誓いは確かに響いた。
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◆ 初見殺しの手口と植物の視点
「聖魔の厄介なところはね……“初見殺し”が多いことなの」
私は胸に手を当て、ゆっくりと言葉を紡いだ。
ココアちゃんが怯えすぎないように、でも真実を隠さないように。
「初見殺し……?」
「うん。
例えば――最初に襲われたのは、ルーミアさんだったの」
ココアちゃんの目が大きく開く。
「ルーミアさんは闇を操る妖怪でね。
普通の相手なら、彼女の闇に触れることすらできない。
でも……聖魔は違ったの」
私は静かに続けた。
「聖魔は“相手の能力を知らなくても、対処法を学習する”の。
ルーミアさんの闇を破るために、
光を反転させるような奇妙な波動を放って……
彼女の闇を“無効化”した」
ココアちゃんは息を呑んだ。
「そんな……闇を……?」
「うん。
そして、闇を失ったルーミアさんは一瞬だけ隙を見せた。
その一瞬を、聖魔は逃さなかった」
私は目を閉じ、植物たちから聞いた“記憶”を思い出す。
「森の木々がね……震えてたの。
『闇が裂けた』
『光が逆流した』
『あの子が飲み込まれる』って」
ココアちゃんの手が震える。
「ルーミアさんは……?」
「取り込まれたよ。
そして聖魔は進化した。
“闇哭の小悪魔(ダークリング)”って呼ばれてる個体に」
私は続けた。
「ダークリングは、ルーミアさんの闇を完全に模倣してる。
闇を広げて視界を奪い、
氣配を消し、
影の中から急所を狙う……
まるで、ルーミアさん自身が戦っているみたいに」
ココアちゃんは唇を噛んだ。
「そんなの……どうやって対処するんですか……?」
私は胸に手を当てた。
「植物たちはね、闇の中でも“風の流れ”を感じてるの。
ダークリングが闇を展開する前、
空氣が一瞬だけ“逆流”するの。
光が吸い込まれるように揺れるの」
「……前兆……?」
「そう。
植物は風や光や氣の流れに敏感だから、
聖魔が能力を使う“直前の歪み”を感じ取れる」
私はココアちゃんの手をそっと握った。
「私はその声を聞ける。
だから、聖魔の初見殺しにも対処できるんだよ」
ココアちゃんは震えながらも、
その瞳に少しだけ希望の光を宿した。
「……優葉さんがいれば……闇でも、怖くない……?」
「うん。
植物たちが教えてくれるから。
ダークリングの闇も、咲夜さんを取り込んだ聖魔の時間停止も、
“前兆”さえ分かれば避けられる」
私は微笑んだ。
「だから大丈夫。
一緒に戦おうね、ココアちゃん」
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◆ 優葉にできること
「私にできるのは――」
私は胸に手を当て、
自分の中に流れる“御神木の氣”を確かめるように息を整えた。
「まず、結界の補強。
私は御神木の力を受け継いでいるから、
土地に刻まれた“結界の筋”を感じ取れるの。
ひび割れた部分に氣を流し込めば、
しばらくの間は崩壊を防げる」
ココアちゃんは静かに耳を傾けている。
「それから……癒しの薬効。
私は植物たちの薬効を“そのまま”使うんじゃなくて、
触れた相手の身体の状態を感じて、
必要な薬効だけを選んで、
氣の流れを整えながら送り込むの。
副作用もなくて、身体が本来持っている治癒力を優しく引き出す……
そんな癒し方」
ココアちゃんの表情が少し和らぐ。
「そして――プラントリンク。
これは、私が神霊として持っているいちばん大きな力」
私は指先を軽く動かし、
台所の窓辺に置かれた草花へ意識を向けた。
「幻想郷にあるすべての植物と、
視界や思考をリアルタイムで共有できるの。
森の奥の揺れも、
里の外れの風の乱れも、
遠くの山の草のざわめきも……
全部、私の中に届く」
ココアちゃんは息を呑んだ。
「植物たちはね、風や光や氣の流れを“ずっと”感じてる。
誰かが通った氣配、
戦いの衝撃、
聖魔が放った異様な波動……
そういう“記憶”も、葉や根に残ってるの。
プラントリンクを通して、私はその記憶を辿ることができる」
私はココアちゃんの手をそっと握った。
「だから、聖魔の動きも察知できる。
あの子たちは能力を使う前に、
必ず“氣の歪み”を生むの。
植物たちはそれを敏感に感じ取る。
私はその声を聞いて、仲間に伝えられる」
ココアちゃんの瞳が揺れた。
「私はね……
戦う力は強くないの。
葉弾だって、威力はそんなに高くない。
でも、速くて、正確で、
仲間の隙を作ることならできる」
私は微笑んだ。
「私にできるのは――
・結界の補強
・癒しの薬効
・プラントリンク(視界・思考・記憶の共有)
・聖魔の動きの察知
・仲間の支援
・そして……誰かの心に寄り添うこと」
「私は“前に立って戦う”タイプじゃないけど……
みんなを守るための力なら、たくさん持ってる。
それが、私に与えられた役目だから」
ココアちゃんは、そっと私の手を握り返した。
「優葉さん……
私、優葉さんと一緒に戦いたいです」
「うん。一緒に行こうね。
あなたとなら、きっと守れる」
その言葉が、夜の静けさの中で温かく響いた。
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◆ ココアを寝かしつける
ココアちゃんを客間の布団へそっと誘うと、
彼女はまだ不安が残るような目で私を見上げた。
「……優葉さん、そばに……いてくれますか……?」
「もちろんだよ。眠るまで、ちゃんといるから」
私は布団の端に腰を下ろし、
ココアちゃんの髪をゆっくり撫でた。
その細い肩が、少しずつ緊張を解いていく。
「今日は本当に頑張ったね。
もう大丈夫。ここは安全だから」
「……はい……」
まぶたが重くなっていくのがわかる。
呼吸がゆっくりと整い、
胸の上下が穏やかになっていく。
私はその様子を見守りながら、
胸の奥に静かに灯る決意を感じていた。
――守る。
この子も、霊夢さんも、神社も。
私にできる限りのすべてで。
ココアちゃんが完全に眠りについたのを確認すると、
私はそっと布団を整え、
彼女の頬にかかる髪を優しく払った。
「おやすみ、ココアちゃん」
声に出さず、心の中でそう呟いた。
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◆ 静かに立ち上がる優葉
私はゆっくりと立ち上がり、
畳が軋まないように足の置き場を選びながら部屋を出た。
神霊である私は、眠りをほとんど必要としない。
むしろ――夜は“私の時間”だ。
廊下に出ると、
博麗神社特有の静けさが全身を包み込んだ。
風もなく、虫の声もなく、
ただ夜の闇が境内を守るように佇んでいる。
その静寂は、
どこか懐かしく、
そして厳かだった。
「……さて。夜の仕事をしなきゃね」
私は息を整え、
足音を消すようにゆっくりと歩き出した。
神霊としての務め。
霊夢さんが眠るこの神社を、
今夜だけでも私が守らなければ。
夜の空氣は冷たく澄んでいて、
その中に漂うわずかな“穢れ”が、
私の肌に触れてざらりとした感触を残した。
――結界が弱っている。
だからこそ、今夜は私が整えなければ。
私は静かに台所へ向かった。
これから始まるのは、
能力とは違う、
もっと古くて、もっと神聖な“神霊の仕事”。
夜の博麗神社は、
私の足音すら吸い込むように静かだった。
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◆ 古(いにしえ)の結界術
客間を静かに後にし、私は廊下を抜けて台所へ向かった。
夜の神社は、まるで息を潜めて私を見守っているようだった。
台所に入ると、棚の隅に置かれた塩壺が目に入った。
霊夢さんがいつも料理に使っていた、素朴な陶器の壺。
私はそっと手を添え、心の中で呟いた。
「……少しだけ借りますね、霊夢さん」
蓋を開けると、白い塩が月明かりを受けて淡く光った。
私はひとつまみを掌に乗せ、ゆっくりと目を閉じる。
御神木から受け継いだ氣を、指先から塩へと流し込む。
淡い緑の光が、掌の上にふわりと灯った。
塩の粒がさらさらと震え、細かい星屑のように輝き始める。
――清めの塩。
古来から続く、人と神を繋ぐ最も素朴で、最も強い結界術。
私は深く息を吸い、次の準備に移った。
指先に木の氣を集めると、
空氣が柔らかく震え、小さな木片が芽吹くように形を成し始めた。
ひとつ、またひとつ。
掌の上で、薄い木皿が静かに生まれていく。
形は素朴で、どこか御神木の枝を思わせる。
節の模様が優しく揺れ、木の香りがふわりと漂った。
「……うん。これでいい」
私は木皿を両手に抱え、静かに廊下へ戻った。
夜の神社は、私の足音すら吸い込むように静かだった。
私はひとつひとつの木皿に清めの塩を入れ、
建物の四隅へ、廊下の角へ、
霊夢さんの部屋の前へ、
ココアちゃんが眠る客間の四隅へ、
台所、倉庫、縁側の下へ――
まるで見えない糸を紡ぐように、
丁寧に、丁寧に配置していく。
塩を置くたび、空氣がわずかに澄んでいくのがわかった。
結界の筋が整い、神社全体が静かに息を吹き返していく。
これは能力ではない。
もっと古くて、もっと根源的な――
神霊としての私が持つ、本来の力。
盛り塩が結界の要となり、
神社を包む氣がゆっくりと安定していく。
私は最後の木皿を置き、そっと手を合わせた。
「……どうか、この場所を守ってください」
夜の闇が、静かに応えるように揺れた。
――――――――――――――――――――
◆ 境内の掃除
盛り塩をすべて配置し終えると、
私は境内へと足を向けた。
夜の空氣は冷たく澄んでいて、
その中に漂うわずかな“淀み”が、
肌に触れてざらりとした感触を残す。
――掃除をしなきゃ。
私は物置から箒を取り出し、
境内の中央に立った。
月明かりが石畳を照らし、
影が静かに伸びている。
「……始めよう」
私は箒を軽く握り、
静かに掃き始めた。
しゃり……しゃり……
夜の神社に、箒の音だけが響く。
落ち葉、埃、そして目には見えない淀んだ氣が、
私の足元へと集まっていく。
その瞬間、境内の草木がふわりと揺れた。
風ではない。
植物たちが、私の動きに応えている。
『そこにもあるよ』
『こっちは任せて』
木々の葉がささやき、
草花が小さく震えて、
境内の隅々に残る穢れを教えてくれる。
「ありがとう。助かるよ」
私は微笑みながら、
植物たちの声に従って箒を動かした。
掃けば掃くほど、
境内の空氣が少しずつ澄んでいく。
やがて――
集められた穢れが、
“形”を持ち始めた。
黒い靄のようなものが、
地面の上でゆらゆらと揺れている。
風に逆らうように漂い、
まるで逃げようとするかのように
境内の端へと滲んでいく。
「逃がさないよ」
私は手をかざし、
御神木の氣をそっと流し込んだ。
靄は抵抗するように震えたが、
やがて力を失い、
ひとつの塊へとまとまっていく。
黒い靄が集まるたび、
境内の空氣がさらに澄み、
夜の静けさが深まっていく。
これは能力ではない。
もっと古くて、もっと根源的な――
神霊としての私の本質。
私は黒い穢れの塊を見つめ、
静かに息を整えた。
「……あとは、朝日を待つだけ」
境内はすでに、
夜の闇の中で静かに息をしていた。
――――――――――――――――――――
◆ 夜明けの祓い
境内の中央に戻る頃には、
東の空がほんのりと白み始めていた。
夜の闇がゆっくりと後退し、
世界が息を吸い込むように静かになる。
私は集めた穢れの塊を、
境内の中央にそっと置いた。
黒い靄は、まだかすかに脈打つように揺れている。
風に逆らい、逃げようとするように漂うその姿は、
夜の名残のようでもあった。
「……もうすぐ、朝が来るよ」
私は穢れの前に立ち、
両手を胸の前で静かに組んだ。
朝日の一筋が差し込む、その瞬間を待つ。
空氣が張りつめ、
境内の草木が息を潜める。
やがて――
東の空が、淡い金色に染まり始めた。
そして。
一筋の光が、
山の端からまっすぐに伸びてきた。
その光が穢れに触れた瞬間――
じゅっ……。
小さく、しかし確かな音が響いた。
黒い靄が光に焼かれ、
煙のようにほどけていく。
抵抗するように揺れ、
それでも朝日の力には逆らえず、
やがて完全に消え去った。
その瞬間、
境内の空氣がふわりと澄んだ。
結界の筋が整い、
神社全体が静かに息を吹き返す。
草木が一斉に葉を揺らした。
『ありがとう、優葉』
『これで今日も守れるよ』
植物たちの声が、
朝の光に溶けるように響いた。
私はゆっくりと目を閉じ、
胸の奥に広がる温かさを感じた。
神霊としての務めを果たしたという達成感。
そして――
ほんの少しの寂しさ。
「……ううん。ありがとう。
あなたたちがいてくれるから、私はここに立てるんだよ」
朝の光が私の頬を照らし、
影がゆっくりと薄れていく。
厳かな空氣の中で、
私はひとつ深く息を吸った。
夜は終わり、
新しい一日が始まる。
――――――――――――――――――――
◆ いつもの優葉へ
穢れが朝日の中で完全に消え去ると、
境内の空氣はまるで新しい命を吹き込まれたように澄み渡った。
私はしばらくその光景を見つめていた。
神霊としての務めを果たしたという静かな達成感が胸に満ちる。
けれど――
その厳かな空氣は、ふっと緩んだ。
「……さて。ココアちゃんの朝ごはん、作らなきゃ」
自分でも驚くほど自然に、
声が柔らかくほどけていく。
さっきまで境内を満たしていた神聖な緊張が、
朝の光とともにゆっくりと溶けていった。
神霊としての顔から、
“優葉”としての私へ。
その切り替えは、
まるで夜が明ける瞬間のように自然だった。
――――――――――――――――――――
◆ 朝食の準備
台所へ戻ろうとしたとき、
境内の草木がざわりと揺れた。
『優葉、これ使って』
『朝露をたっぷり吸ってるよ』
足元を見ると、
朝露を含んだ野菜や香草が、
まるで差し出すように葉を傾けていた。
「ありがとう。助かるよ」
私は微笑みながらそれらを受け取り、
台所へ戻った。
包丁を手に取り、
野菜を刻む音が静かに響く。
とろりとした香草の香り、
朝露の甘い氣配、
湯氣が立ちのぼる鍋の温かさ。
夜の厳かさとはまったく違う、
柔らかくて優しい空氣が台所に満ちていく。
「……うん。いい匂い」
自分でもそう呟いてしまうほど、
朝の神社は穏やかだった。
スープが煮立ち、
香草茶の湯氣がふわりと広がる。
その香りは、
夜の浄化を終えた神社に
“今日も大丈夫だよ”と告げるようだった。
◆ 目覚めるココア
「……いい匂い……」
かすれた声が、客間の方から聞こえた。
私は振り返り、
そっと微笑んだ。
「おはよう、ココアちゃん。
朝ごはんできたよ」
ココアちゃんは眠たそうに目をこすりながら、
ふらりと台所へ歩いてきた。
朝の光が彼女の髪を照らし、
その表情は昨夜よりずっと柔らかかった。
「……優葉さん……なんだか、安心します……」
「ふふ。いっぱい食べて、元氣になろうね」
湯氣の向こうで、
ココアちゃんの頬がほんのり赤く染まった。
こうして、
夜の浄化を終えた神社に
新しい朝が訪れた。
そして――
二人の“旅立ちの朝”が、静かに始まろうとしていた。
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