4 WITCH OF DEATH POTION
空飛ぶ魔女の話を聞いたことのある人は多い。大体童話には、魔女が箒に跨がって、すごいスピードで夜空を駆けるなんて描写があるはずだ。これがキノコやハーブの混合物から出来る薬の幻覚作用だとか、自慰行為によるエクスタシーだとか、そういうのはどうでも良い。空を飛ぶ、というのは人類によって、長い間、夢で有り続けた事象だったのだ。
何故、私がこんな子供じみた空想をしているのかというと、もはや空想ではなくなってしまったからだ。私は今、空を飛んでいる。正確には、ちゆりとともに、姫海棠はたての手によって空高く航行しているのだ。彼女の背中にあった黒い翼は、記者であり天狗であるというその肩書に偽りなく、私達を運んでいる。
ここ一時間。何だか信じられない話がポンポンと出た。
“幻想郷”という異世界の話。八雲紫と名乗るメリーに似ている管理者。お伽話で語られるような絶大なる力を持った神々と妖怪。信じ難いが、本当に居たのだ。……本当に居る! なんて、モキュメント映画の誇大広告みたいだ。けれど、目の錯覚では空は飛べないだろう。彼女に云わせると、今、2つの動きが幻想郷を二分しているらしい。
ひとつ。八雲紫の復活を目論んで、その身体を探している者達。彼らは幻想郷の節制? なるものを奪還するべく行動しているらしい。何だかピンと来ないが、向こう側の住民にとっては一大事なのだろう。何故メリーが八雲紫やらに勘違いされて攫われたのかは解らない。もしかしたら、同じ容姿の人間を片っ端から神隠ししている中のひとりなのかもしれない。迷惑な話だ。
ひとつ。この世界に巨大な結界を敷き、何かをやらかそうとしている者達。その理由と方法は超最速ジャーナリストも知らないようだが、恐らくは、隔絶された京都と関係あるのだろう。同時に現れて敵対をしている事から、こちらも幻想郷の節制? を目的にしている可能性は高い。同じ理由なら協力しそうだが、対立関係に陥るというのは、きっと思想が相容れないからだろう。
事態は私達人類の枠の外で蠢動している。リアリティはないが、懐にある携帯端末から送られてくる情報曰く、真実のようだ。驚きである。だが、この情報交換で最も驚嘆したのは、私ではなく、騒動側に居た姫海棠はたてであった。
今、地球人口は4億人存在している。はたてにはそれが何よりも信じられないらしい。彼女の言を拾うと、本来ならば60億も生きているはずなのだ。私が馬鹿にするように60億人なんて二千年掛かっても無理だ、と現実を突き付けると、子供のように、何故? と首を傾げてきた。私は両親がそう教えてきたように、妖怪に懇切丁寧に教えてやる。
まず、一人っ子政策。余程の辺境の地に住んでもいないかぎり、法律で子供はひとりしか持てない。そもそも人間は妊娠確率が異常に低いし、都市部を離れた場所では、日本国内ならまだしも、アフリカ大陸や南米大陸のような厳しい環境で人が生きていける訳がない。住む場所も少ないし、増える要素がない。稀に冒険家が旅して人類の痕跡を見つけるが、住居や文字記録はもぬけの殻である。しかも、長く滞在すればするほど風土病 での死の確率は高まるので、考古学者ですら調査を渋っている。この風土病というのは非常に厄介で、原因不明の脳の萎縮と心臓発作で、旅人は突然死するのだ。ウイルスや寄生虫、挙句の果ては呪いや宇宙人の襲撃など様々な仮説が出ているが、真相はわからない。人間以外の動物は平然としているため、遺伝子説が有力となっている。
人類が厳しい自然環境と折り合いをつけて生きていくのは不可能に近い。世界で初めて人類が繁栄したと謂われる肥沃な三日月地帯周辺、北緯35度線下周辺に大きな都市が集中するのは当たり前だった。そもそも、人間の寿命はたったの50年に過ぎないのだ。人間は弱い。踏破された大陸は少なく、資源は限られているが、実はそう不便でもない。ドローンやロボットが発達したおかげで、人類未踏の地からの発掘も容易になった。地球は豊かな星だ。ロボットを使った遺跡調査があればロマンチックで面白いと思っているのだが、コストや意義の面からそんな無駄遣いをしてくれる大富豪は未だ出てきていない。
はたてはそれを聴いて「えっ、古典小説の話?」 ととぼけた。彼女の知る地球曰く、人口は60億人居て、それから経った年数を考えると今は180億人に増加していないとおかしい。人間は北極から南米のジャングルまで冒険しつくし、月にまで到達した。その代わり、自然環境は破壊されて砂漠化が進み、温暖化により海面が上昇、沈む島も出てきて、大気汚染物質により間接的に植物の菌根菌が死滅して枯死、殺虫剤による蜜蜂の大量失踪、核開発と国、民族対立が激化して紛争地帯は絶え間なくどこかに存在し、石油がついに枯渇して核戦争の前触れが始まっているらしい。……そっちこそどこのSF小説だ。当たっていたのは元携帯電話が総合端末化したのと、銀行員と政治家が汚職だらけなのぐらいだ。
何かがおかしいと感じた。
もし 、何もかもが真実なら ……――――
なんて、有り得ない。2つを繋げられる要素なんてない。
この相違に興味を抱いたのか、はたては提案してきた。
「宇佐見蓮子、と言ったわよね。あなた八雲紫に関係してるみたいだし、暫くパパラッチさせて貰っていい? 拒否されてもするけど」
私に拒否権なんてなかった。だが快諾する気でいた。メリーを探し出すために、彼女は必要だと思った。寝込みを襲い、人間の肉を食らうような怪異ではなさそうだし、そもそも、妙に世話焼きなのだ。京都には戻れず、行先は東京しかなかった。今やるべきこと。それを伝えると、はたてはニッコリ笑い、私達二人を小脇に抱えて、そして今に至る。空を飛ぶ。
最初はとても冷たかった。それは風の話だ。2月の寒期の中を、空を飛んで進むのは至難の業だった。頬が凍り付きそうになる。時速何km出ているだろうか。ちゆりがやんわりと苦情を申し立てると、はたては一言ごめんと謝って、何やら羽根を揺らして、次々と飛びかかってくる気流を選ぶような動きをした。途端、私達は風の影響を受けなくなる。空気の流れを操ったのか? 謎だが、寒さに苛まれなくなった私達は、一望できる日本の遠景に目を丸くした。
山岳の稜線と海の繋がる場所が見える。人々の営み、建造物が大地の色に呑まれて、ひとつの標本に感じられた。雲は上空では視覚対象物にならず、相対的に私達のスピードがどれだけなのか、検討がつかない。しかし東京圏内に入るのに、日が暮れるのを待つ必要はなかった。太陽はまだ高い。私のナビゲートに従って、はたては郊外にある一軒家前に降り立った。
「じゃ、私は遠くから観察してるから」 とはたてが上空へ去っていき、私は里帰りの終着地点へと辿り着いた。宇佐見、の表札が玄関前のブロック塀に掲げられている。軒先には父の自慢のガソリン車が一台止まっていた。電気駆動を使用しないビンテージの高級車だ。
総合端末から両親に着信を入れると、すでに実家内に戻っているようであった。私が、何年ぶりかの自宅に入り込むと、そこには、旅立つ前に送った3人分の滞在荷物が届いていた。父と母との挨拶を交えた簡単の身の上話のあと、私はちゆりを連れ、子供の頃のままになっている自室に上がり込んだ。
「蓮子。どうする?」 秘封倶楽部は片割れとなり、私はちゆりに掛けられたその言葉に黙りこくってしまった。
母が部屋の扉をノックする。その手にはお盆があり、簡単に作られたおにぎりと冷凍食品のたこさんウィンナーが皿に載っていた。私達が昼食を摂っていない事にどうやって気付いたのだろう。母は事故に巻き込まれた私達を、ひどく心配していたようだ。「メリーさんは?」 という彼女の問いに私は「少し遅れて来るって」 と嘘を吐いて答えた。
再び私達は部屋に二人となり、声なきまま、差し入れられた食糧に手を伸ばした。ひとくち食べると、あとは止まらなかった。精神的ショックのあとは食欲がなくなると云うが、私は、まだ完全な絶望に囚われていなかった。美味しい。食べることは、人生に与えられたひとつの救いのようだ。
「ちゆり。私は――――」
私は答えた。もし“幻想が幻想と繋がっているのなら”東京地下の都市伝説を調べることで、メリーに近づけないだろうか? 藁にもすがる思いで考えていた。京都市に戻れず、かつクニヨシの怪異が一方通行だとすれば、手掛かりなんて片手で数えるくらいだ。あの列車内で殺人を行った怪物も東京を目指した。そいつは廃都東京を『人が集まる』 と例えた。はたての話もあるし、きっと何かの真実、幻想への手掛かりが見つかるはずだ。まだ望みはある。蜘蛛の糸のように細いが、私はまだ振り落とされてはいない。
だが、その前に、ひとつやり残した事があった。
私は立ち上がると、ちゆりにその用事に連れ添うかを聴いた。彼女は答える。
「私は元々教授に言われた通りに、お前に着いていくつもりだ。だが、メリーのように言葉や気持ちを受け止められないぞ? それでもいいのか? 何なら家で待っているぞ」 私は了承して、彼女の同行を許可した。
玄関に向かう。家を出ようとして家奥に声を響かせると、居間から父が現れて「行くのか」 と私に確認し、そして一枚の手紙を渡してきた。その署名は祖母のものだった。宛先は両親となっている。母は「あまり遠くへ行かないでね」 と念を押して心配してくれる。私はゆっくりと靴を履き直し、玄関戸を開け、軒先にある自転車に跨った。ちゆりを後ろに乗せて、ふらふらと走り出した。
行き先は郊外最大の病院。
祖母は死んだ。しかし、身体はまだ生きている。脳だけが、意識だけが消え、私に看取られる時を待っていた。
病室では、心音のモニタ音がひとつ響いていた。ちゆりは外で待つと言って部屋を出ていき、私と祖母だけになった。もう、肉親というより、痩せて死にかけているお年寄り、といった感じだ。過去の面影はあるが、それを探すのを脳が拒否した。
人の死を間近にするのは、こんなに辛い事なのか。思い出が浮かんでくるが、そのどれも虫食いだらけで、途中で回想は、今見たその老人の顔に塗り替わってしまう。脳の血管が破れ、意識中枢を破壊したせいで、もう目覚めることはないだろう。祖母の、だらんと力無く横たえられた腕に触れる気が起こらなかった。何だか、怖ろしい。知ってしまうのが。理解してしまうのが。
腕は、触れたら冷たいだろうか、暖かいだろうか? それを確認してしまえば、どちらの結果が訪れようとも、私は後悔に塗れるだろう。ああ。ああ。
手の中で握り締めてぐしゃぐしゃになった手紙に、水滴が幾つも斑の染みを作った。時間は止まったかのようだった。モニター音が確かに時を進めていて、こうしている間にも、今日一日という時間は過ぎ、私はまた一歩、死に近づいているはずだ。しかし、時は異常に緩慢に流れていた。
平均寿命を超えて、祖母はこんなにも長生き出来た。喜ぶべきことなはずだ。だが死に目は見られなかった。それに、最期に話し合う事もできなかった。あまりにも唐突だった。すぐに悪化し、すぐに脳死した。私は小さく語り掛けた。何を言ったのだろう。覚えていない。しかし、感情が祖母にいくつも話をした。まるで子供の私に、世界の不思議を語り掛けてくれるかのように。
やがて、頬や目元が乾ききって、私の涙が止まった。それが脳機能だとでも云うように、ぴたりと消えてしまった。茫然自失とし、徐々に落ち着いてきた。何故、人の死の前で、私は冷静になれるのだろう。父から渡された手紙を開けてみる。祖母の字だ。遺書ではない。ほんの僅かな文章だ。それを読んだ私は、膝を折って座り込んでしまった。書かれていたのは次のこと。
『もし私が動けなくなったら、蓮子に決めさせてあげて』
それは尊厳死に対しての回答だった。
私に。
私に、祖母を殺せというのか!
◯
彼女が望んだのは、何だったのだろう。どうして、私に決断を任せたのだろう。私が何を選ぶと思ったのだろう。その結果、私がどうなると考えたのだろう。
私はちゆりに一日時間を与えてくれるよう、懇願した。それはいとも簡単に成就して、旧都心探索は明日に回された。私の顔色を見て心配するちゆりを制して、独りにしてくれるよう願った。それも簡単に叶えられた。
自転車を押して、思い出を巡っていく。私の育った町。不思議が溢れていた子供時代。自宅前を横切り、通学路を遡っていく。ここは東京郊外だが、これでも最も賑わっている町だ。私の通っていた小学校は以前のままだった。校門を通り過ぎ、小さな公園へ向かう。遊具がほとんど取り外されてしまった公園に寄る子供は少なく、犬の散歩のついでに来るご近所さんしか居ない。藤のツタの巻きついたベンチに、ピンク色の丸いドーム、あとはブランコ。ポツポツとある街路樹に包まれただけの、本当に小さな公園だ。私は自転車を隣接させて、ブランコに座り込んだ。
幼い頃、メリーではない、色んな友達とここに来て遊んだ。大体はゲームを持ち寄ったり、何もする事がない時にウロウロしているだけだったが、記憶に色濃く残っている。今ではみな京都へ上京してしまって、故郷よりも向こうのほうが旧友に遭いやすい。何だか変な話だ。
ひとつ、深呼吸。空はまだ暮れない。しかし、やがて陽は落ちるだろう。決断か。明日が想像できない。もし一日だけの生命であったなら、私は何をやり残すだろう?
私は再び自転車を押して、道を進み始めた。幼い頃に通っていた美容院はもうない。スーパーは軒並み整体や古着屋に変わっていて、ローカルコンビニは姿を消していた。商店街は店を閉める場所がかなり増えており、人々は閑散としている。なにひとつ変わらないのは郵便局と団地くらいだ。元クラスメイトの住んでいた階層までエレベータで意味なく上がってみる。今その子は東北へ引っ越してしまっているが、団地の通路を歩いてみると、子供の頃の思い出が如実に蘇ってきて、私に語り掛けてきた。何度も通ったな。ここ。
正直、京都に移ってからは、このあたりの町並みを夢で見ることが多くなった気がする。ノスタルジーなのか、それとも幼少の記憶をもとに記憶整理を行っているのか――――
川辺を行き、時間が近付く。心が締め付けられていく。
私は何を選ぶのだろうか? 選ぶのだろうかって、また他人みたいに自分を見ている。私だ。私が、しなきゃならないんだ。
再度商店街へ戻ってくる。このまま私は家へ帰る。ふと、目に留まるものがあった。未だ営業を続けられている電気屋の店頭にあるテレビのディスプレイに、おかしなものが映っている。
報道のさきは、東京旧都心だった。中継車に載ったままのカメラと、アナウンサー? ニュース番組のようだが、臨時のようだ。一瞬ずれていたピントが合い、一人の人間がズームアップされる。
――……死んでいる? 頬が痩けて黒ずみ、瞳は白く濁っていた。口からは粘り気の多い血を垂れ流し、ふらふらとカメラに向かって進んできている。死者だ。死者が歩いていた。
『今、機動隊が――』 第一印象はフィクションだった。液晶を跨いで見える世界では、機動隊がゾンビに向かって発砲するという、映画やバラエティ番組のような光景が繰り広げられている。が、ドラマティックな創作物とは違い、機動隊の装備を持った人物がカメラに近づいてきて、それを取り上げようとした。映像は乱れ、声が錯綜する。目を離し、私が怖ず怖ずと通信端末に手を伸ばすと、すでに反響は多くのニュースとして流れていた。京都の隔絶に続き、東京にも異変が訪れつつある。
振り回されていたテレビの映像が落ち着き、再び光景を映すようになる。どうやら死者は銃弾では倒せないらしく、隊員がひとり掴みかかって、そして素手でひねり殺されたらしい。歩く死者の姿は5~6倍に増えており、カメラを確保しようとした隊員も応戦に向かったようだ。異常な出来事。もとより、何処で掴んだスクープか判らないが、機動隊の足並みが揃う前に現場に訪れて生放送をする当たり、報道陣も正気ではない。京都の出来事が影響しているのか? 脳が爆ぜ、腕がもがれても死者は動き続ける。劣勢になった機動隊はじりじりと後退していく。手っ取り早い餌達が戦闘を繰り広げてくれるおかげで、報道車周辺の安全は保たれ、黙示録のような景色は延々と垂れ流されていく。
「どういう事……」 私は独りごちた。すると、
「あー、グールね」 それに答える声が後ろ、すぐそばから飛んできた。
いつの間にか、姫海棠はたてが私の背後に出現していた。同じジャーナリストだから何か惹かれるものがあるのか。私と目が合うと、前と全く変わらない、ニッコリとした顔を向けてくる。
「……姫海棠さん。何か知っているの?」 私は聞く。
「あー慣れない呼び方は困る。呼び捨てのはたてでいいわ」 そう答えると彼女はマイペースにも一拍置いてこちらを覗き込み、私が頷くまで待ってから、続きを話し始めた。
「グールというのは吸血鬼に襲われた人間の末路よ。意識がなくなって昼夜問わずに肉を喰らおうと徘徊するの。つまり、この映像の箱の向こうには吸血鬼が……あ、見て見て」
誘導されてテレビに目を戻すと、もはや放送事故と言っても良いような血と肉の惨劇の中に、血痕ひとつない西洋風のドレスを着た背の高い女性が不自然にもぽつんと立っていた。彼女は自身の白髪も含め、顔を包帯でぐるぐる巻きにしている。その姿は、ただでさえリアリティの無い放送を更に空想へと押し込んでいた。指先から手首ほどまでもある刃物のような長い爪を持ち、機動隊の静止も聴かずにグールの群れに飛び込んでいく。次の瞬間、本当に現実なのかと疑うほどに、あまりにも簡単に人間の首が飛んだ。グールの首だ。ドレスの女性は凄まじいスピードで動き、あっという間に死者を駆逐していく。その最大の焦点は、機動隊の攻撃とは違い、傷つけられたグール達が完全な死を迎えたことだ。どう見ても、“こちらの人間”ではない。背中には、身の丈より大きく広がる、黒い、蝙蝠のような翼。
見える範囲の全てのグールを倒し終わったのち、その女性は報道クルーの前まで歩いてきて、
『私はスカーレット。これは環境テロリストの仕業によるものです。京都の異変含め、私が全てを解決します』 こう言い放ち、駆け寄ってきた機動隊の生き残りに触れられる前に、文字通り姿を消した。本当に一瞬の出来事だった。
「何なのよ……。はたて、彼女は何者なの」 恐らく、向こう側の住民ならば知っているはずだ。私は訊く。
「わかんない。ただ、候補は絞れてるけどね。けどそれをアナタに教えたところで、何も好転しないと思うのよね。アナタ自身、自力で解決しなきゃならない問題があるでしょ?」
そいつ、羽毛のある黒い翼のジャーナリストは、まるで何もかも知っている風にニヤニヤと私を眺めてくる。
「笑い事じゃないわ。もしこれが、オーソン・ウェルズのUFO襲撃報道みたいに手の込んだ捏造じゃなきゃ、現実に何人も死んでるのよ? あなた達の世界の問題でしょ。どうにかしてよ!」
柄にもなく街頭で大声を上げてしまう。目の前にある全ての問題から目を逸らして、当たり散らかして、忘れてしまいたい。今、感情は私の理性を押しのけている。
「まあまあ落ち着いて。色んな問題が一気に押し寄せて大変なのは何となーく察せるわ。とにかく、変な目で見られちゃうから人気のない場所に行きましょう?」
テレビのディスプレイがついに環境映像へと差し替えられてしまった。私ははたてに従い、人影が無くなるまで並走し、適当に見繕った空間に腰を落ち着けた。それは自宅に近い、あの馴染みの公園のベンチの上だった。
「此処でいいかな。で、蓮子。蓮子でいいんだよね名前?」 爪先を地面から離し、彼女は私を見下ろしながら云った。
「人間の生命たった一個で、何も悩む必要なんてないわよ」
それは彼女なりの気の使い方なのだろうか? 私には解らない。溜息が出てしまう。私は自分なりの解釈を彼女に伝える。
「私の生命だってたったの一個よ」
すると、子供を嘲るような、欺瞞に満ちた顔をしてはたては答えてきた。
「だから悩む必要なんてないの。それに、アナタから見たら寿命も生産性も少ない人間でしょ?」 明らかにその言葉には含みがあった。これはグールの話じゃない。
「何が言いたいの? あなたは私の何を知ってるの」
「んー。もっと直接的に謂えばよかったかな」 考える素振りはあるが、見るからにただのフリ だった。元々、そう謂うよう決めていたのだろう。流暢に、いとも容易く彼女はこう言い放った。
「アナタの祖母。死なせるべきね。そんな事に手間取ってたら、いつまでも前に進めないよ」
「………………ッ!」
最初に湧いたのは怒りだった。だが、自制が効くとすぐにも消失して、抑鬱が私の現実を襲ってきた。再び、考える。祖母のことを考える。医師が提唱した死に対する5つの受容プロセスから「否認」と「取引」が抜けているのは、その死自体が、すでに実行されており、変えられないものだと自覚しているからか。
彼女はすでに、動物的には死んでいるのだ。
私は声を絞り出す。「……どうして、あなたは軽いのよ。何でそんなに残酷な事私に言える訳?」
はたては述べる。間を置かず、簡潔に。
「そりゃ自分の事じゃないから。それにさ。肉体残してたら、魂が縛られて冥界に行けないじゃない。アナタこそ、一刻も早く死なすべきなのに、自分の感情のために悩んで彼女の死期を遅らせるなんて残酷な事してるじゃないの」
「ふざけないで!」
私の叫びは、木々に止まった小鳥達を公園から追い出した。
「死ぬことは、単純じゃない! あなたには居ないの? 大事なひとが! 確かに、誰かに意義を見出すことは自分本位の出来事よ! けど、けどさ、けど……」
「けど、何? 人道的に無理? それとも、罪悪感がある? 大丈夫大丈夫。アナタの魂は彼女と繋がってないから。周りの目が気になるなら、家族だけの秘密にしちゃえば? 私も黙ってるからさ」
「違う! 違うよ……」 喉が詰まる。見上げていた視界が涙で歪む。何を言いたいのか、自分でも判らなくなってくる。
ただ、死が怖いし、死なせたくないし、迷いがある。
ああ、……否認か。死の5つのプロセスの最初のひとつ目。私は抜け出せないだけか? 心理学にある現象を認めて、第三者視点で自分を俯瞰して、合理的に考えるべきか。嫌だ。嫌だ嫌だ。
「あなたにとって、死って何なのよ……」 顔が濡れてぐしゃぐしゃになって、手で拭っても溢れてきてしまう。目も見れず、独り言のように俯き、尋ねた。はたては答える。
「そっか。こっちの人間とは死の価値観が違うのね。輪廻転生ってわかるよね? 幻想郷には冥界も地獄もあるし、魂魄もある。だから、人間にとって死は消失じゃないのよ」
……そんな伝承知っている。
「ただ、私天狗なんだけど、私達妖怪にとっては死は消滅。肉体が滅されるか、存在が忘れられると消えてしまう。前者はまだいいけど、忘却は死んだ事にすら気付けないからキツイのよね。アナタの祖母、さすがに妖怪じゃあないでしょ?」
解ったことがある。彼女は、彼女なりに私に道を示したり、励まそうとしているのだ。余計なお世話をしているんだ。
「信仰によって魂魄を扱う存在が生まれ、その幻想によって人間は無限の螺旋、輪廻転生というシステムを創り上げる事に成功した。人間やそれに近しい生物に限って、また生まれ、安心して死ぬ事ができるようになった。神や妖怪は絶大な力を持つけれど、人間の心なくして存在はできない。だから蓮子。人間の蓮子。アナタには信じて欲しいのよ。祖母のご冥福を」
何だか、笑えてきてしまった。悪徳新興宗教から壺を買わされるための説法を受けてるみたいだ。その思想関係なく、少し背中が軽くなった気がした。彼女に、鬱屈していた思いをぶつけたからだろうか。私は、自分なりの声で問い掛ける。
「私の世界ね。はたて。科学の世界なの。輪廻はないし、死んだらそれまで。けど私はそんなの面白く無いから、冥界も地獄も信じてるし、魂だって、あって欲しいなって思ってる。何よりも、メリーの存在が、不思議の存在を肯定してる。だけど、やっぱり死ぬことって、怖ろしいし辛いの。輪廻転生で再会する運命が約束されてても、別れは嫌なのよ……。あなたは別離を恐れないの?」
「そうね、私は、」 そこで初めて、はたては言葉に詰まった。
「私は常に変化を追い続けるるジャーナリストだから、麻痺しちゃってたのかもね。ごめんね。なんかテンパっちゃったみたい」
「……おせっかいなのよ、あなたは。これ結局、私自身の問題って、あなた自分で言っちゃってたしね。――けど、少しだけ楽になったわ。ありがと」
結局、結論は出ていない。きっと決断のとき、また泣いてしまうだろう。
はたてとはそれから、少しだけ話をした。向こうのジャーナリスト生活で作ってる新聞の事や、都心に現れた“スカーレット”なるものの情報だ。中身が誰かは知らないが、吸血鬼関連である事と、グールがフェイクではなく本当に起こる怪異である事。そして、これから取材しに都心へ行くという彼女の行動の事。
私は遠ざかっていく彼女の黒い翼を見ながら、暮れていく空をしばらく眺めていた。時間はいずれ訪れる。私は家へ帰る。
両親におかえりと声を掛け、部屋に戻り、戻っていたちゆりと話す。祖母の事は触れず、都心の怪異や、これからの予定をひとつひとつ提案し、精査していく。どうすればいいか。ちゆりに推奨されたのは、事態が改善するまで人任せにして、待つことだった。私は納得できずに他に何か、特にメリーに対して働きかけられないかと相談した。今のところ、手掛かりは2つ。京都と都心。グールが現れたという事は、都心には京都隔絶に近しい物があるに違いない。教授から託された調査――地下街の少女の話と関係があるはず……。夜は深まっていき、お風呂に入って、食事を摂り、部屋にちゆりのための布団を敷き、また語り……
風が強くなり始め、窓枠がガタガタを揺れていた。やがて夜10時を過ぎると、部屋にノック音が訪れる。父だ。彼はまた再び、私に一枚の手紙を渡してくる。祖母の署名。私の宛名。それは、実の子供である両親にではなく、孫の私に対して残した、特別なものらしい。封は開けてはいないが、父は私に渡すかどうか最後まで迷ったとその場で語った。父と末期の祖母にどんな会話があったのかはわからない。胸騒ぎがする。
父が余所余所しく去っていった。まるで自分の子供を恐れているような印象すら受ける。ちゆりは黙していた。決意を抱くまで、さほど時間は掛からなかった。私は躊躇なく、それを開封した。
祖母の文字。両親とのやり取りを記した遺書とは違い、義務的ではなく、感情的な文字が目立った。それは『私の蓮子』 という書き出しから始まった。
『私の蓮子。悲しまないで。テレパシーでは伝えきれないのであなたに手紙を残します。あなたがこれを読む頃には、私の脳は退化しきっているのでしょう。
生物は脳で記憶し、分泌と代謝でのみ思考が許されます。しかし、散逸した情報を統一する意思は、宇宙より垂れた一筋の雫なのです。魂魄とは身体に宿り、私の抜け殻にはもはや“魄”はなく、輪廻転生に拒否された“魂”の一部しかありません。あなたが迷うのもわかります。しかし乗り越えなさい。
あなたと過ごした日々は私の幼少期に似た、素晴らしいものでありました。あなたは私に生き甲斐を与え、あなたは私を慕ってくれました。それは何よりも、世界で最も儚く、素晴らしいものです。共にあるものを大事にしなさい。
世界は幻想により動かされています。私が空に還ることもまた、幻想それそのもので、あなたに訪れるものもまた、ひとつの夢なのです。引き金を引くのを躊躇わないで。あなたにそうして欲しいから、私はすべてを託したのです』
まるで、はたての言うような“何か”を知っている風であった。そして最後に一文と、小さな鍵が添えられていた。
『もしあなたが幻想を恐れる日が来るのなら、科学世紀の人間らしくあらゆる理不尽を覆すというのなら、イズモを復活させなさい。箱を開けて、私達の夢見た末永き幻想を終わらせて』
イズモ? 私達 ? ああ。ああ。私の体験してきた世界観が崩れていくのを感じる。鍵は、恐らく京都に置いてきたあの秘密箱のものだろうか。無意識に力が入り、私は手紙をくしゃくしゃに握り潰した。わからない。何もかもが、わからない。
私は、一体、誰に育てられたんだ。私に幻想を教えた彼女は、何者だったんだ。ああ。メリー。会いたい。
メリー………………
◯
無常にも日は昇る。
白い霜が降り、凍りついた下草が陽光を反射してキラキラと輝いていた。此処は標高が高い。幻想郷が一望できる。
険しく、常緑樹と冬の枯れ木の混じったマダラの山に、小さな神社があった。黒色の鉄鳥居の前に、守矢神社、と刻印された石碑が立っている。四本の鉄の柱に周囲四方を囲まれ、日本古来の諏訪信仰を未だ残したその場所は、すでに無人であった。
雪解け水によって流れ着いた小枝や枯れ葉で汚れた参道に、ひとりの女性が空から降り立った。青い髪……メリーを襲撃した青蛾という名前の仙人であった。彼女は、薄い埃の積もった境内まで足早に歩いてくると、虚空に声を掛けた。
「八坂神奈子。居るんでしょう?」
問われ、拝殿の屋根の上に薄っすらとその姿が現れる。濃い紫の髪をし、胸に鏡を下げた女性だ。人間ではない。背中に、羽衣のように巨大な締め縄を纏った彼女は、この神社の主神であった。
「ああ。……霍青娥か」
「神奈子。未来を憂いている暇はないわよ? あなたは遠夢や私達と協力するって決断したじゃあない」
神奈子はそれを聞くと、諦めたような溜め息をつき、ゆっくりと境内前まで降りてくる。目を伏せ、苦虫を噛みしめるような表情をして青蛾に答える。
「ああ。判っている」
それを聞くと考え察したように仙人は微笑んで、
「東風谷佐奈伎を心配しているの? 仕方ないじゃあない。血は薄れて雑魚も雑魚だけど、遠夢の結界を破れる唯一の子なんだから。私や、賛同した他の妖怪に喰べられても文句は言えないわよ?」 神奈子の周りを回るようにして言ってみせた。彼女は続ける。「それとも何? 神話上同じ血族だから、この神社の巫女を代替わりしても続けてくれたから、自分で保護したい? けれど神奈子。あなたの身体が透けている通り、佐奈伎の力では、信仰によって神の死を止めることはできなかった。あなたが生き残る道はひとつ。遠夢に従って、世界を変え、自分達を布教する事でしょう? あなたが佐奈伎を囲ってくれたら手間が省けたんだけど、失踪した彼女は計画の邪魔になるの」
「……もし、佐奈伎に手を出したら、お前を殺す」
「それでも構わないわ。黄昏れた神に仙人が殺せるかどうか、試すのも面白そうだし」
神奈子は振り向き、背後に回った青蛾に強い視線を向けた。
「……なあ。お前の目的は何だ。私達とは違い、遠夢の齎す“幻想”を求めているように見えん」
すると、青い仙人は朗らかに、日の出の明るい太陽を背に、こう宣言したのだ。
「面白そうだから 。人間なんてのは、生きている間に何を感じるかが華なのよ。その為には、何だって出来る 」 そして肩を竦め、自嘲のように声を上擦らせた。「まあ、私は飽き性なんだけどね。奪われて奪われて、追い詰められた人間は、何が出来て、何を選んで、どうなるのかしら?」
それは誰に対して言った言葉なのだろうか。逆光で表情は見えなかった。世界に黎明が訪れ、真意は光に覆われた。
* * * *
――――中編に続く