2 未知の孔、魅知の怪
物事と云うのはいつも唐突で、例えると、物理現象なんてのもいきなり起きて、引力とか炎とか実は物凄い不可思議現象なんだけど、あまりにも有り触れてるからそれが当然となってて、それでも、やっぱり何事には原因が必ずあって……――
全然良い例えにならなかった。とにかく、原因と結果の法則が、当たり前のように成り立ってる世界で、私は結果だけを受け取ってしまったのだ。
2月。大寒も終わりを告げ、そろそろ暖かくならないかな、と冬の寒さの辛抱も限界に感じ始める頃。残雪のある大学キャンパス内で、私は、二人の教授の会話を立ち聞きしてしまった。
「全域を、ですか?」
「そうなんだよねー。あの子に関係ある話だと思う?」
敬語のほうが朝倉理香子、メリーの所属する相対性精神学を立ち上げた新進気鋭の若教授で、それに受け答えしているのが、私の恩師である岡崎夢美教授だ。この二人はジャンルこそ違えど、キャンパス内で有名になるほど仲が良く、よく会話や殴り合いをしているところを目撃される。
誰の話だろうか? 二人の教授は私達の秘封倶楽部の活動をよく知っていて、SNS上でアドバイスもくれるほど親密なので、もしかしたら、と気になって耳が嫌でも音を拾ってしまう。
「あのとき、私達は止めませんでした。覚えてますよね? だからあの子が居るのかもしれません。つまりどうであろうと――」
「関わらせるべきではないと」
深刻そうな表情だった。私が廊下を進む足を止められず、傍目に見ながら脇を通り過ぎようとすると、ふと、岡崎教授の眼に留まってしまって、軽い声を掛けられた。
「ああ宇佐見。ちょうど良いところに居た。少し、頼まれてくれないか?」
これが昨日の出来事だ。
「それでこの発信機を渡してくれた、と」 メリーは云う。
私達は、間に合わせの東京行き『クニヨシ98号』の新幹線に乗っている。私、宇佐見蓮子と、秘封倶楽部の相棒、マエリベリー・ハーン、そして教授が付けてくれた北白河ちゆり助教授の3人だ。櫛型の座席を展開して4人分座れる向かい合わせにし、私とメリーが隣同士、向かいにちゆりという形だ。
メリーは胸にある半ハート型のネックレスを見せてくる。それが、教授が渡してくれた発信機である。
「どうも、東京じゃ迷うからって、携帯とリンクしてすごい精度のGPSが使えるようになる発信機みたいなのよそれ」 これは私。
「それにしたって、このデザインは……アレでしょ? 2つ合わせるとハート型になるっていうペアネックレス…………」
「うん……何か恥ずかしいよね。私、東京に土地勘あるからいらないのに」
「お二人さん。そう言ってないでさ。ご厚意には甘えるもんだぜ? 何があるかわからない、魔都東京が目的地なんだから」
ちゆりが横から入れた茶々に、私は「そこ、私の故郷なんですけど」 と感情で頬を膨らませて答えた。助教授とはいえ、ちゆりとは、外見上ほぼ同年代に見える。
北白川ちゆりは、丈の長い冬用の、白色のセーラー服に同色のコートを羽織っていた。ツインテールに髪の色は金。教授のお気に入りの弟子らしく、何か思いつきの企画を始めるときは、絶対にお供をしている人物だ。年齢は不明だが、多分、若い。
私の隣にいるメリーも同じ金髪で、防寒具としてフリル帽子と茶系のオーバーコートを羽織っていた。青い瞳で、私やちゆりとは人種も違うけれど、子供の頃から親元を離れて日本で育ってきたおかげで、何処で生まれたかは、本人にも解らないらしい。私の最高の友人であり、また、能力も含めて、謎が多い人物だ。
最後に私なんだが、これはとても地味で、黒いカンカン帽に白ワイシャツ、黒のロングスカートに黒の厚手のマントと、全身モノクロで少し着てくる衣服を間違えた気分になっている。3人、みな同じ女性で、誰かに見せびらかす訳ではないのだけど、秘封倶楽部だからって、里帰りまでその、オカルト探求と同じ時の服装でなくとも良かったはずだ、と後悔していた。
岡崎教授に頼まれた用事とは、怪異の調査であった。
普段、ただの情報提供者であるはずの教授が、秘封倶楽部に直々に指示を飛ばしてくるという事自体珍しいのだが、更に、発信機に助教授ちゆりの同行と、今回は何やら大事らしい。
その怪異は、私には馴染みのものであった。
旧都心地下街に彷徨う金色の髪の少女の噂を、確かめてきて欲しいと云う。子供の頃、好奇心に任せて、何度も出入りしたあの廃墟の都市伝説だ。
正直、その話を教授に持ちかけられた時、私は“チープだな”と感じた。もし、それだけなら、私は動かなかっただろう。鼻で笑い飛ばして、『そんなもの居ませんでしたよ』 と過程を飛ばしていきなり結果を伝えたかもしれない。
何故私が快諾したかというと、その前日夜、私の携帯電話に着信があったからだ。
“祖母キトク、スグカエレ”
「けど蓮子。いいの? 私達、邪魔じゃない?」 隣のメリーが尋ねた。
「いいよ。里帰りする予定のついで だしね。もともと3日間くらいのはずだったけど、1週間分も休みもらったし……むしろ、私の用事に付き合わせちゃったみたいで何か悪いよ――」
「蓮子。辛かったら、全部聞くから」
メリーに手を握られる。……気を使わせてしまったみたいだ。私は、少し無理しているかもしれない。
ついで、というのは本当で、私が里帰りするのと、都市伝説を調査しに行くメリーとちゆりの行き先が偶然同じで列車に乗り込んだようなものだった。私が当惑した服装で家を出たのも、教授に“そっちも見てきます”なんて嘯いてしまったのも、どこか、変に強がって、現実を見ようとしなかったからなんだろう。
祖母は、多分、死ぬ。
「じゃあ、メリー。聞いて欲しいんだ。私の昔話」
ザワザワと胸騒ぎがし始めて、居た堪れなくなった私は、それを紛らわせようとして、祖母の思い出を話し始めた。生物学者の祖母に教わった沢山の逸話。私の不思議の根幹。
新幹線の壁面ディスプレイに映る静岡の山麓を眺めつつ、遠く、故郷へと秘封倶楽部は走っていく。ここはトンネルの中。地上路線の既存の鉄道ではなく、全線地下階に存在する、新しい未来列車だった。私は、約1時間のこの旅路で、どれだけ、人生を語れただろうか。
「それで、自転車が、ついに壊れちゃったの」
旧都心の悪路は、子供の私にとって転倒を誘発させる試練の道だった。膝や額に軽い擦り傷を負って、両親に怒られる。けれど、懲りずにまた繰り返して、怪我して、叱られる。そんな記憶を再生し始めた時の事だった。
ガタン!
新幹線が、何か路石を踏んだように小さく跳ねた。
突然の振動に、驚きの「あっ」という声を出す間もなく、新幹線は急ブレーキを踏む。私とメリーは慣性に従って前のめりになり、ちゆりの居る座席へ飛び込みそうになってしまう。徐々に制動が収まり、事態の確認へと意識が働くと、次は、視界奥、車内を照らす電灯が、パチ、パチパチと連鎖するように消えていった。
「嘘!? 何これ」 私が上げた声は、
「うーん……事故かしら」 隣のメリーと、
「何かおかしいぜ。アナウンスも来ない」 眼前に居るはずのちゆりに跳ね返って、その健在を知らせてきた。みな無事なようだ。
真っ暗だ。他の乗客達もお互いを確認しているらしく、ざわめきが止まない。車内側面のディスプレイは暗黒に飲まれ、まるでブレーカーが落ちたように近代機械は停止している。
携帯端末を使い、ライトを点ける。私がひとつ、続いてメリーもひとつ。相手の顔が浮かび上がる。と、急に、ちゆりの体全体が光に包まれた。
なんと、彼女は業務用と云えるのか、270度はカバーできる強力な携帯ライトを持っていたのだ。私達は「わっ」 とか、「きゃっ」 とか、まるで幽霊を見たかのように驚いてしまった。
「あの……ちゆりさん、何でそんなもの持ってるんですか」 私は尋ねる。
「あー? 私を誰だと思ってるのか。岡崎教授の助手だぜ?」
自信満々に笑顔さえ作りながら答える彼女の勢いに押されて、なんとなく納得してしまった。メリーは苦笑いを浮かべて彼女にこう返した。
「そんなに用意がいいと、レーザー銃とか持ってそうね」
「ハハハ。そうかもな……あっても内緒にするけど」
なんとか笑い合うことで私達は不安を紛らわせようとした。車内にはポツポツと光が生まれ始めて、席を立ち上がる人間も増えてきた。どうするか――私達は相談し、とにかく現状確認をする事に努めた。
電波は届く。だが、携帯端末に届いた最新のニュースには、クニヨシの4文字は無かった。そのかわり、普段見慣れない赤い大文字、地震や津波の速報と同じような見出しが表示されていた。
「なにこれ……京都市、断絶?」 私がひとり呟くと、
「他のニュースサイトもそればかり取り上げてるみたい」 メリーが上に重ねてきた。
どうやら、首都京都から連絡が途絶え、誰もその中の様子を知ることが出来ない状態らしい。インターネット上の情報は錯綜して、時間を経るにつれ増え続ける書き込みにより、何が真実か覆い隠されていく。異常な出来事が起きている、それだけは理解できた。
この日、東京に旅立った私達は運良く、最高のタイミングで危機を回避していた。だが、都内に取り残されることと引き換えに、静岡県のどこそこの地下で電車に閉じ込められている。何が起きているのか。教授と関係している? それとも偶然?
「ちゆりさん。なにか知ってます?」
私は単刀直入に聞こうとした。しかし、その瞬間、メリーの異変に気がついた。彼女が、虚空を見上げて、眼を丸くしている。
「なに、あれ……」 それは虚無だった。私には、ライトの落ちた電車の天井の暗がりにしか見えない。
「メリー。何が見えるの?」 問う。
「結界の裂け目が……こんな巨大で歪なの、初めて見たわ」
私には見えない。闇が巨大な口を開けている。
私は振り向き、ちゆりにもう一度言葉を掛けようとした。が、ぐらり、と彼女の像が揺れたと思うと、その五体は前のめりに倒れ込んでしまった。気を失っている。
「え……――!」
驚愕が喉を通る前に、再び、同じ程度の驚愕が目の前に飛び込んできた。ちゆりの放置した光源に照らされて、何者かが、天井からぶら下がってきていた。眼が白く光る。
「ふむ。百年振りじゃったが、追跡も結界破りも大成功じゃな。……まあちょっと加減がわからんかったが、あとで閉じれば良いじゃろ」
それは人語を解していた。人間、にしては規格が違う。巨大な体毛に包まれた尻尾がチラリと覗いた。絶句して怯えて動けなくなっているメリーに手を伸ばして、そして片腕だけで無理にも引き寄せた。
「誰かはわからぬ黒髪よ。此奴は貰ってゆくぞ」
私の身体に感覚が通い、怯えから振り払われた時にはすでに、それはまるで神隠しのようメリーを釣り上げて、闇に消えてしまっていた。慌てて指先を伸ばすが、あるのは空虚。私の手では何も掴むことはできなかった。
「メリー!」
その叫びに呼応するように反響したのは、列車の先頭で、鉄をひしゃげ、軋ませる異音だった。
「……え?」
「~~~~~~……!!」
先頭車両で騒ぎが起きているようだ。沢山の人間の声があり、徐々にけたたましい足音とともに近づいて来る。パニックになった乗客が私達の横を通り過ぎ、後部へと逃げ去っていく。何かが、来る。私の足は動かなかった。気絶したちゆりが、足元に転がっている。それすらどける力が湧かなかった。
ゆっくりと歩いてくる。黒い暗黒の中で、それは二本の足で歩いてくる。カツ、カツ。靴を履いている。徐々に影が鮮明になっていく。身長は、低い。
「お前、そこのお前」
通路の中央で止まり、私に声を掛けてくる。渦中の人物は、少女であった。色素の薄い黄の髪に麦わら帽子をかぶり、紫の糸で縫われたワンピースのような衣服を身に着けている。目は赤く発光して、その息は遠くからでも解るような、生臭い肉の匂いを漂わせていた。
「コチヤサナギを知っているか?」
首を伸ばすよう上体をかがめて、椅子に張り付いている私を覗き込んでくる。滴っている。頬から、指から、鮮血のような、いや鮮血そのものが。本人のものではない。ゲフ、と少女は目の前でゲップをした。
「なあ、聞いているのだ。答えろ」
ああ。これは、怪異だ。私の中の東京地下とクロスして思い浮かぶ。出逢えば、こうなるのか? いやそんな杞憂を考えている場合じゃない。答えなければ……おそらく殺される。
「……し、知りません」
「そうか。本当か?」
座席上部に置いた彼女の手が、背もたれを構成する鉄材をいとも簡単に変形させた。脅しか。しかし、私は本当に知らないのだ。
「は、はい」
「そうか……――このままでは効率が悪いな」
何かを思いついたようで、私の怯えきった声を聞くと彼女は踵を返していった。
「さきほどの無礼な贄を使おうか――……」 声は響き、闇に消えていく。だが、足音は一時的に遠ざかった後、何やら木が引きちぎれるような、ブチブチという嫌な音を挟んで、再びこちらに向かってきた。
「ようやくコチラに出られたのだ。早く探さねば、手遅れになる前に……――」
誰に話すのでなく、病的にひとり呟く彼女の眼には、用を終えた私の姿など映っていなかった。手には、目を見開いて、口より血の涎を垂らす男の生首があった。今、もいだのか。それは逃げ出した人間達を追うように車両を進み、悲鳴に歓迎された。
鉄をひしゃぐような音がまた聞こえて、対岸は静かになった。そのあと小さな話し声が何十と続いて、やがて用が終わったのか、少女が車内を逆走し始める。前と同じよう、今度は「諏訪に隠すとは思えん。人が集まる場所……東京ならば……――」 そう呟きを残して、少女は闇の奥地へと戻っていった。
10秒。20秒。1分。3分。息は早かった。心臓が壊れそうなほど早まり、恐怖は波形のよう、引いては押し寄せを繰り返して私を襲ってきた。
それから時が経つと後部に押し込められた人々がチラホラと戻ってきて、乗客による、まるで避難民のようなコミュニティが出来た。死者は、あんなに怖ろしい思いをしたのに、たったひとりであった。それは、勇敢にも侵入してきた少女を早くも化物だと判断して、戦いを挑んだ男だったらしい。
ちゆりも意識を取り戻して、私達、被災した乗客は少女の破壊した先頭車両の扉から列車を抜け出た。首のない遺体から目を逸らして、血の海に無数の靴跡を付け、ようやく死地から解放された私達に訪れたのは、当たり前のような、線路トンネルだった。電気は未だ復旧せず、向かいに電車が通る気配はない。暗く、ちゆりの持っていた電灯と、各々の携帯のバックライトだけが頼りだった。
「ちゆりさん。大丈夫ですか?」
「ああ、意図しない不意打ちだったよ。ところで、マエリベリーは?」 出来事はあまりにも唐突で、説明と状況把握だけで30分は掛かってしまった。
もしかしたら、あの化物がまだ線路の先に残って居るかもしれない、という恐怖が二の足を踏ませていたのだろうか。みな不安そうに携帯端末を操作し、連絡や確認を取っている。
「メリーは、多分連れ去られました」 電車の内部、線路の隅、被災者達の顔をひとりひとり見ても、やはりメリーの姿だけはなかった。私の言葉に、
「そうか。ヤバイ事になったな……どうする?」 考えこむようにちゆりは頭を抱えた。
京都市全域と通信できない。メリーも電話に出ない。教授から渡された通信機も、全く反応しなかった。恐らく、メリーの云う“結界の向こう側”が関係しているのだろう。
「このまま京都に戻っても、入れないかもしれませんね」
手元の端末にある、塗り替わったニュースがそれを示唆している。私はどうするべきだろう。京都に帰る? メリーを探しに行く? 東京へ行く? 地上の光は見えない。
「蓮子。私の意見を言っていいか?」
深刻そうな顔で、ちゆりは云う。今出来る事とは。
「はい」 続く言葉が怖かった。もしも、彼女が“何かを知っていたら“私の世界観は、いとも簡単に崩れてしまう。
「最適な道を進むべきだと思う」
彼女の言い分は、真実とは言えないものの、核心を突いていた。自分の命は続き、ここで絶望しても物語の終わりはなく、やはり、歩かなければ、前へと進めないからだ。
不通となった新幹線は、そろそろ報道の目に触れるだろう。私は、持っていた明かり代わりの携帯端末を見直して、躊躇っていた通話ボタンを押した。
私は、両親に生存の連絡を入れた。京都市がこんな事になっていて、しかも列車さえ止められたのだから、心配しているだろう。
ふと気付く。逆に、どうして、着信が無かったのだろうか。確かに怪物が居た時に鳴らなかったのは不幸中の幸いだが……
その理由を考えた途端、すぐにも思い付いた結論がある。
『――――――――』
電話の向こう、両親から伝えられた出来事は、その予感の的中を示していた。頭がクラクラする。精神的ショックが連続できたせいだ。ああ。ああ。ああ。
ひとりを除いた生存者のコミュニティは、互いに求め合い、トンネル工事のために存在するはずの、作業員出口を求めてあてなく歩いた。その中に、私も居た。
寒い。電車内にあった暖房は失われ、トンネル内は冷えきっていた。押し黙り、数十人の列に従っていく。両親には、怪我はない、車は出さなくていい、と言っておいた。地上は、どうなっているのだろうか? やがて、適応能力の高い大人達が建設中のホームのような空隙を見つけて、そこに全員を集めた。どうやら、相当昔に放棄された場所らしい。何故、“クニヨシ”のレールが此処に繋がり、また何のためにホームが作られたのかは解らない。
ともかく、私達は出口の手がかりを見つけたのだ。10分もしない内に地上へ戻る道を見つけ、ひとりひとり連なり、窮地から抜け出していく。明かり。しかし、寒い。
そこは、富士山の麓であった。昼12時を回らない、まだ早い太陽が空高く昇っている。もう一日が終わるような疲労が手足の指先を痺れさせている。
黄と黒の、工事中看板が放置されていた。途中建設になって放置され、瓦礫と埃、下草まみれになった地下道の階段を振り返る。まだ、現実感がない。
出口は閑静な住宅街にあり、近くに地上電車の線路とホームも見えた。だが、住民の気配はない。旧都心のよう地面にあるアスファルトコンクリートはひび割れ、自動車の姿はまるでなく、あるとしても錆だらけで放棄されていた。かつて賑わっていただろう町は、その痕跡である商業店の看板だけを置いて寂れてしまい、しん、と静まり返っていた。ここは、別世界だろうか。それとも実際にある廃墟なのだろうか。
集団を率いていたリーダー格が、みなに聞こえるよう大声を張り上げて、私達にもうすぐ救助が来る、と伝えてきてくれた。どうやら、携帯端末のGPSで特定した位置に、近隣の救助隊が来てくれる話になったらしい。
「現実、……現実なのか」 私はひとり呟いた。
私は、これからどうするだろう。どうなるだろう。がらんどうの駐車場に立ち尽くしている。他の皆が喜びに包まれる中、私は不安に押し潰されそうだった。
行方不明者として捜索を願い出るか? その行為に意味はあるか? 混乱して、考えがぐちゃぐちゃになっている。
「蓮子、なあ、蓮子!」
ハッと意識を戻すと、正面から、私の肩にちゆりの手が掛けられていた。眼前で強い眼差しを向けてくる。
「しっかりしろ! やるべき事をやるんだぜ!」
力を込めて身体を揺さぶられる。わかってる。わかってるけど、理解したくない。感情が拒否をする。私は意志ではどうにもならない衝動に駆られて、彼女の手を振り払った。どこへともなく走り出して、だがすぐにも萎えて、止まってしまう。
地下道を囲むフェンスの裏、ひとの視線に触れない場所で、私は自分の手のひらを見た。指が冷たい。しゃがみ込んで、自分を落ち着ける。ふと、目に入るものがある。黒ずんで朽ちた新聞紙、風雨に晒されてボロボロになった週刊誌、偶然、材質がプラスチックだったおかげで劣化せず残っているエンボス加工の手帳。その、発売年だけしか使えない手帳の日付が、60年前になっている――――
「あー、やーっと出られたわ。私鳥目だから大っ変」
まだ駅内には生存者が居たようで、そうひとり愚痴りながら地下道を上り終えつつある影があった。ただ通過するだけの一般人に思えたが、何故か、一瞥した私の視線に目を合わせてきた。ニコッと笑顔を作り、そいつは異様に踵の高いヒールの爪先をこちらに向け、瞬く間に近寄ってくる。
「いきなり発見! あなた友達?」
女子高生、に見えた。2月だと云うのに紫黒チェックのミニスカートを履き、灰茶のブレザーとマフラーに身を包んでいる。私よりも背が高く、更に黒の髪も長く、大きなリボンでツインテールに留めている。相当昔に廃れた、骨董品のような折畳式ガラパゴス携帯電話を手に持ち、私を見下ろしていた。表情だけでも明朗快活な性格だと解る。
「友達って、何よ……」 私は彼女を知らなかった。
「あれよ。胡散臭い金髪の女。結界くぐっていきなり“紫”を見つけるんだもの。びっくりしたわ。……攫われちゃったけど」
人違いだ。“ユカリ”とは何者だろうか。聞いた感じ、その人物に間違われてメリーは攫われたようだ。目の前の彼女はどうやら、怪異側について詳しく知ってそうだ。
「あなた、何者なの?」
愚直にもそのまま尋ねてみる。本当のところ、まともな返答が戻ってくるなんて、期待していなかった。しかし、彼女は私に怪訝な表情ひとつ見せずにこう答えた。
「私は姫海棠はたて。超最速のジャーナリストよ。何か面白い動きがあるからって、同僚にコッチ側の取材を頼まれてね。タヌキの結界破りのドサクサでコッチに来れたのは良いんだけど、まさかキーパーソンの紫が向こうに攫われたうえ、帰れなくなるなんて予想外でさ。さっきまでちょっと落ち込んでたけど、鉄の箱の中で、アナタ達ちっちゃい明かりを囲んで何かしてたでしょ? 取材しなきゃって思って」
再び頭を抱えたくなるくらいに、彼女は馬鹿正直に話してくれた。だが、信用できるか? メリーの見ていた異世界は、魑魅魍魎が跋扈する魔境なのではなく、意外ときちんとした文明のあるパラレルワールドなのか? その疑問は、私が戸惑いの溜息を吐き終わるまでには、一気に霧散していた。
彼女の背中に、黒い羽毛の生えた翼がある。それは伸びをするのと連動して一気に左右に開き、私の頬に羽ばたきの風を伝えてきた。姫海棠はたては、文化を持つ怪異だ。
「蓮子。その女は誰?」 遅れてちゆりが合流してきた。
「おっ、アナタも友達ね」
私達二人を見比べ、品定めをするよう鼻息を荒くしたはたては、宇佐見蓮子、私を選んで顔を近づけてくる。
「まずアナタにインタビューしたいんだけど良いよね? この世界の動向とか紫の話とかさ。確か100年ほど前に人口60億人突破したんだっけ? 資源大丈夫? 大都会東京行けば皆わかるかね?」
「あの……」 私は聞き返そうとした。メリーを探す手がかりはこの怪異にあった。ただ、何かがおかしい。
「あ、ごめん。一気に聞き過ぎだったね。まず紫の事をね……」
そうじゃないんだ。私は首を振って、彼女に伝えた。
最も違和感を覚えたのは、結界、怪異、紫、100年前、大都会東京という、結論の導きやすい些細な単語ではない。“人口60億人”それは、有り得ないんだ。
何しろ、私の住むこの地球上には、現在、4億人程度しか人間が住んでいない。
* * * *