3 素敵な異界で暮らしましょ
私は実験記者、マエリベリー・ハーン。
これまで学んできた人類の叡智と、遺伝子に刻まれた私独自の欲望の見解を持って此れを描写す。
――とでも書けば良いのかしら?
蓮子と離れ離れになった私は、どうやら神隠しにあったようだ。普通誘拐なんて取引が本質で、人質にロクな価値を感じないものだが、それにしては、今、伽羅の香りが強すぎる……明らかに私は、向こう側に歓迎されている。部屋は、まるで時代劇の将軍様に通じる長い長い畳の間のような場所だった。
ここは、なんと謂えば良いのだろう? 順序立てて回想していこう。
初め私は死んだのかと思った。脳の画像処理の細胞が死ぬときや、麻薬体験や片頭痛をした時に、回転するようなトンネルや光の幻覚が見えるという。そういう、不可思議な暗黒のあと、私が放り出されたのは、一面の彼岸花の畑であった。風が凪ぎ、多くの赤い曼珠沙華が揺れていた。
今は2月のはずだ。花が咲く季節ではない。外気の冷たさは向こう側も同じで、私はコートの前を閉ざすように手で覆った。
「ホレ、懐かしの幻想郷じゃぞ? 喜ばぬか、紫」
私を攫った張本人らしき女が声を掛けてくる。眼鏡をかけて、茶灰の地味な田舎臭いどてらと、農作業に使うような袴を着込んで日本風を演じているが、腰辺りに生えた大きな生の尻尾は、それが化生の類だと云うのを表していた。
“幻想郷”に“ユカリ”。私はどうやら間違えられたようだ。相手は妖怪だ。事情を説明しても信用なんてされないだろうけど、とにかく無関係を訴え出る事にした。『私は違う』
「ふむ。此奴の丁寧な嘘か、それとも幽々子が紫に関してまだ隠し事をしておったのか……。お主。残念じゃがお主。お主で間違いないのじゃよ。説明はあとじゃ。まずは里まで着いてきて貰うぞ?」
私は彼女に手を引かれて、彼岸花の丘を下っていった。女、聞くところによると二ッ岩マミゾウという名前の化け狸は、私が何かを尋ねると、移動中の暇に任せて丁寧に解説をしてくれた。もっとも、一番知りたい情報を除いては、だが。
此処は、再思の道という場所らしい。“幻想郷”でも本来なら彼岸花は秋に生じるらしいが、『よからぬ理由』によって今咲き乱れているという。私達は里の方角へと向かったが、丘の向こう側に行った場合、無縁塚という共同墓地があるそうな。ここにも同じく、本来なら春に咲くはずの妖怪桜が、『よからぬ理由』で、こちらはもうすでに60年以上咲き続けているらしい。
『よからぬ理由』はまだ一杯あって、里と再思の道を繋ぐ、魔法の森には『よからぬ理由』で人間を捨てた魔女が住んでおり、森の環境は『よからぬ理由』で植物の枯死が相次いでいるという。里自身も『よからぬ理由』により干魃が続いていて、凶作は今年も起こりそうだと云う事、そして、備蓄の食料が減るにつれ、神々への祈りが増え、人々に混乱が訪れつつある事。
どうして化け狸が人間の心配をしているのだ? マミゾウは云う。
「神を含めて儂ら皆、人間の信仰によって存在するからのぅ。幻想郷は儂らにとって最後の楽園じゃからな。四の五の謂っておらず手を取り合わねばならぬのに、あ奴は――」
“あ奴”は『よからぬ理由』であるようだ。そして私自身も、『よからぬ理由』で紫としてある自分を見失い、地球で隠遁生活をしていた、なんて狸は言い切ってみせる。
誘拐犯の彼女が押し付ける理由なんてのは正直眉唾で、本当は妖怪の都合なだけで、私達人間にとっては至極真っ当な訳があるんじゃないか? とさえ感じる。だが、理由を除いたマミゾウの描写、咲き乱れる花や枯れゆく森林は真実であり、私の眼に如実に映り込んだ。
魔法の森は、見上げると空の青が一望できた。常緑植物に葉はなく、どれもこれも乾いている。死ぬ前のあがきなのか、異常に沢山の花や蕾をつけ、私の世界では見た事がないような、異様な光景となっていた。乾燥した小枝を踏んだはずが小動物の骨だったり、鳥の鳴き声が一切聴こえなかったりする、まさに魔女の住む森、といった様相だ。
里は、逆に妙に賑わっていた。マミゾウの言葉が嘘だったと笑い飛ばせるほどに賑やかで、大量の露店が出ていた。周囲を囲む水田はみな耕耘されて瑞々しい下土が露出しており、別段、干魃に見舞われた村には見えそうになかった。だが、古風な木造りの日本家屋が立ち並ぶ商店街を進んでいる内、次第におかしさに気付いてきた。
住民が、多すぎる。露店は、食料ではなく木彫や草を編んだ民芸品や、染め物、職人の押し売りばかりであり、村人と比較しても一目瞭然なほど、商人達はみな痩せていた。これは、飢饉の中、まだ裕福である場所に食料を求めてきた、貧しい近隣の村民達だ。物々交換が行われるさまは、金銭が役に立たなくなる前兆であろうか。
中央の広場には立派な竜神の像があり、そこでは小さな女の子が数人、巫女服を着て神楽舞を行っていた。多くの村民が両手を擦り合わせながら見守っており、祭りや出し物というよりは、雨乞いの儀式に思えた。ふと視線が捉えた像の目は赤く、住民を怖ろしい表情で睨んでいた。
私は怯える人間達の里の、最も奥にある屋敷に招待された。
齢90を越えるとも思えるような翁に連れられて、さきに言った将軍みたいな間に通される。吹きさらしの畳の上は寒く、私は正座を崩し、足裏を手のひらで暖めながら主人が現れるのを待った。
「お待たせしました。マミゾウさん。そちらの方ですね」
「そうじゃ。儂は時間がないので此処いらで失礼させてもらうよ」 化け狸が席を外し、間は私達二人だけになる。
屋敷の主は、案内係とは正反対の10にも満たない少女であった。襲のある本格的な和服を着こみ、お河童頭にした髪に牡丹の装飾のある簪を刺している。何やら良家のお嬢様のようだが、護衛はいらないのだろうか? 私は、仮にも“ユカリ”という人物に間違えられているのだ。ユカリは味方側?
「聴いた話によると、あなたは紫であった時の記憶を失っているようですね」
“あったときの記憶”ときたか。勿論、私の人生は物心つく3歳頃ほどまで遡れて、途切れたことなんて一度も無い。強いて云えるとすれば、境界の裂け目の中の夢を見た時間か?
「私はあなたの名前すら知らないわ」 問う。
「申し遅れました。私は稗田。稗田阿霊と申します。あなたは八雲紫とお見を受けますが……」 八雲。紫。私は知らない。
「私の名前はマエリベリー・ハーンよ。八雲何とかとは、人違いだと思うの」 単刀直入に私は答えた。ひとり残された蓮子は心配しているだろう。いや、逆に列車が止められた現場に残ったままの蓮子が、心配で仕方ない。胸の発信機を握りしめる。
「器は違うかもしれませんが、あなたの魂魄は同一なのです。さながら、私のように」
彼女、阿霊は私にお伽話を聴かせてきた。自分が稗田阿礼の生まれ変わりであり、これは輪廻転生を10回も繰り返したあとの姿なのだと。俄には信じがたい逸話だ。新都心では、そう言って自分の人生に箔を付ける不届き者がゴロゴロ居たからだ。
馬鹿馬鹿しいと感じた。確かに化け狸も、結界の向こう側も存在した。しかし、例え大妖怪がこの娘だったとしても、私の存在をすり替える事なんて出来ないのだ。
私はマエリベリー・ハーン。秘封倶楽部だ。
「残念ですが、幽々子さんに確認を取るために、私は此処で席を外させて戴きます。あなたには一日待って貰います。宿はこの屋敷を貸しますから、村から出ないようにお願いします」
「海外の警察ドラマ以来だわ。そのセリフ。事件が落ち着くまで街から出るなよっての」 私は最大限の皮肉を乗せて返した。
稗田阿霊が私に寄越したのは、3つの厄介事だった。
ひとつは確実に一日無駄にさせられる事。私自身帰還方法がわからないし、神隠しは人違いだという主張も却下された。異世界は慣れてるとはいえ、いつもとは違い、夢ではない。いつか醒めるとも思えない。なるべく情報を集めるべきか?
ひとつは変な箱を渡された事。蓮子が持っている秘密箱のような機構があるものではない。脇に抱えるには少し大きめの、桐の簡単な箱だ。蓋は施錠されておらず、開けてみると中には折りたたみ傘一本とゆったりとした衣服が入っているようだった。阿霊は『使ってしまえばそれなりの代償を払う事になるでしょうから、本当に必要な時以外は開けてはなりません』と、忠告したけれど、もうすでに確認してしまった。本当は屋敷に置いて出て行きたかったが、次の厄介事にそれは阻止されてしまった。
最後のひとつは、私に護衛が付いてしまった事。件の翁ではなく、もっと若い、私より頭ひとつ分は身長の高い武術家のような女性だ。パッと見る限りでも顔の皮膚にはまだ新しい傷がいくつか付いており、左腕が無い。黒の、丈の長いチャイナドレスを左右2つ重ねたような装束に身を包み、肌のほとんどを露出していないが、チラリと覗いた首筋には赤く滲んだ包帯が巻かれていた。彼女は無愛想で私にほとんど語り掛けてくれない。生涯一度も切ったことのないような、長く赤みがかった髪をひとつの三つ編みにしている。世間話から情報を得るために、私が髪について問うたところ、「別に」 と返されてしまった。
私の出来ることは、それこそ実験記者のように観光に徹するしか無かった。通信端末は県外だ。私が見聞きし、複数の情報源から得られた事実をまた、ひとつひとつ並べていこう。
……としても得られた情報は少なすぎたのだが。
なんと、総合すると一言で表すことが出来る。
ド田舎。この人間の里は、まるで鎖国の時の日本のように、先祖的な農業、商業、職人で成り立っている。家屋は押し並べて懐古的であり、鬼瓦が屋根上に乗っている始末で、飲食店にはテーブルのひとつもなく皆ゴザでお盆を囲んでいる。軒先には縁起物が飾られ、一歩侵入するとあろうことか博物館でしか見られないような囲炉裏が現存していた。人種は皆大和民族のようで、訛りは少ない。だが信仰の形態は多岐にわたっており、神道、仏教、道教、終末思想、様々な伝承が混合して人々を支配していた。博麗神社というものが村の外れにあり、数日前からその巫女の姿は見えないらしい。村人曰く、もうひとつ神社があるそうだがそちらは危険な山中にあるようでここ一ヶ月は様子がわかってないと云う。
妖怪に関しては本当に多くの証言を得られた。里から空を眺めて見える一番高い山は妖怪の山と呼ばれており、天狗や河童、豊穣の神やら妖精やらがいること。井戸の中から現れる幽霊に、土蜘蛛、凶悪なげっ歯類に超大きなオオコウモリ。挙句の果てには巨大ロボが出たという訳の判らない妄言も飛び出た。昔話か、創作の世界の中に迷い込んだかのようだ。
太陽が傾き始め、情報収集の足も辛くなってきた頃合いに、私はこんなものを見た。
それはひとの死だった。
村の離れで、貧しい家族の子供がひとり、病死したようだ。栄養状態が悪くなったところに、運悪くウイルス性肺炎を羅患し、衰弱してしまったそうだ。聖白蓮というお坊さんがその家で読経を行っていた。他人の法事に顔を出すなんて失礼で、普段なら覗いたりはしないのだが、私は、白蓮に強制されてその一部始終を見せられた。彼女は街道を歩く私を呼び止め、
「紫……八雲紫。あなたは自分のした事が解っているのですか? きなさい。あなたは目の当たりにしなければならない」
と、無理にも私を連れ出したのだ。人違い、とはとても云えない剣幕であった。遺族のすすり泣く声。私のせいなのか? 私? “ユカリ”は何をしたのか。
「無常と云うにはあまりにも悪巫山戯が過ぎます。紫。あなたが忘れようとも、その業は死して漸く結実するのです」
その後の白蓮の説法は、私に強力な情報を与えてくれた。
「あなたは、幻想郷を放棄したどころか、“陰陽玉”をひとつ破壊したのですよ? あれ以来、人間と妖怪のバランスが狂ってしまった。あなたの起こした行為でなく、あなたの広めた“思想”が原因なのです」
私が記憶を持っておらず、人違いを主張すると、彼女は確信を持った鋭い目で睨み、『此れ以上の説法は無駄なようですね』 と口を噤み、足早に去っていってしまった。
どうやら私は大罪人であるそうだ。夜が訪れ、阿霊の元に戻り、泊まるよう促されると、私は10代分の知識を持っている彼女に事情を伺う事にした。
八雲紫。妖怪。この異世界、幻想郷を作り出した創始者のひとりであるらしい。管理者として、地球から消えそうになっている信仰や怪異を蒐集して幻想郷で保護し、不可思議と人間のあるべき形を模索し続けた。そう、阿霊は語った。
全く馬鹿馬鹿しい……。しかし、気に掛かったのは八雲紫の性質である。彼女は、“物事の境界”を弄る事が出来るそうだ。私に何処かしら似ている。ただ、私とはその規模が段違いだ。
なんと、この幻想郷という異世界全域を隔離して、更にどこからでも結界を裂いて元通りにする能力を発揮したと云う。だが、彼女は何十年も前に幻想郷を放棄して、大結界で包まれたその先を地球と完全に断絶した。更に、強すぎる妖怪を調伏する秘宝“陰陽玉”をひとつ消失させて、こんな言葉を残したらしい。
「人間は、器を超えて多く繁栄するものではなかった」
それ以降、紫の姿を見たものはなく、西行寺幽々子、という人物が秘密を明らかにするまでは死んだものとされていたらしい。ともかく、紫の言葉の影響は絶大で、多くの過激な妖怪達に支持され、徐々にパワーバランスが崩れていき、妖怪社会は人間に比べ相当な発展を遂げたらしい。結果が、季節の乱れ、森の枯死……『よからぬ理由』であった。
幽々子が白状した秘密というのは、紫が生きており、地球に隠居していた事であるのは間違いない。ならば何故、今頃捜索を開始したのか。
お話はそこで終わりだった。夜が深まり、あくびを大きくした阿霊に、対話は明日だと止められてしまった。
あっという間であった。一日は、ほとんど一瞬で過ぎ去ってしまった。
現実感は皆無である。本当に夢のなかに居るようだ。
気付けば私は、布団の敷かれた和室に横たわっている。朝は4本。昼は2本。夜は3本。電灯のない里は、枕元の行灯の火を消してしまえば、真っ暗で何も見えなくなるだろう。遠くで祭り囃子のような、太鼓の音が聴こえる。竜神像のところでは、まだ儀式が行われているだろうか。目を開け、天井を眺める。暗い。静かだ。
護衛の女性はすぐそばで壁を背にして座り込んでいる。明日、蓮子はどうなるだろうか。家族に会えただろうか。間に合ったのだろうか。瞼が降りていく。思い出が、逆流する。ついさきほどに、里がこんな状態なのにも関わらず、きちんとした食事を採らされた事。トイレやお風呂に入った事。田園風景が目に焼き付いていた。私は旅をしている。長い旅。真っ暗な空の孔。蓮子。
眠りは私を沈ませていく。私はメリー……
◯
音無く忍び寄るものが居た。小型の行灯の明かりが、揺れている。部屋を包む2方の障子紙に映る影はない。だが、何かが近づいていた。内容物の入って膨れ上がった布団に、手が伸びる。
細い腕だった。だが、人間のものではない。幽霊のよう、床を音もなく突き抜けて現れた。簪を握った手は徐々に伸びていき、肘が床面から脱して、頭、肩、とそれは全身を露わにしていく。
青い髪の女が邪悪な笑みを浮かべていた。反対の腕には、人間の胴体を貫通出来るだけの刃渡りを持ったナイフ。溜めはなく、一気に振り下ろす。武術家の眼に止まり、動き出すなんて暇は一切与えない、ほんの数秒の出来事だった。マエリベリー・ハーンの胸部に、刃物は真上から侵入していき、そしてあっさりと床まで貫通した。
「コトが済むまで、私があなたの魂魄を飼ってあげますわ」
女はひとり優越感に浸る。しかし、徐々に広がるメリーの血を見ている内に、その顔は怪訝に曇り、怒りに満ちてくる。
「くっ。化かされたわね」
突き立てたナイフを振り払うと、布団の中から尻尾の毛を切られた狸が死に物狂いで抜け出し、障子を破って部屋を出て行った。布団に広がった赤い染みも消えている。
「穀潰しのタヌキが人間側に付いたって聴いたけれど、本当だったのね」
女は虚空に問い掛け、ぐるりと見回すと懐からもう一本のナイフを取り出し、そして僅かな光を発する枕行灯に向かって放り投げた。着弾する瞬間、行灯は自ら跳ねてその凶器を避けてみせる。途端、明かりは消え、月明かりもない部屋内は完全な暗闇に閉ざされた。
「見破るのがうまいのう。さすが仙人といったところか」
「タヌキの腕が錆びついたのではなくて?」
闇では妖魔二人の会話が続いた。互いの姿は見えないが、双方、息遣いだけでその場所を特定している。さきに動いたほうが、手の内を見せたほうが敗北する。
「青娥。おぬしが向こう側につくのは自明の理じゃった。だが、わからぬこともある。何故、八雲紫の復活を阻止するのじゃ?」
「貴女方は、復活した八雲紫が、幻想郷の節制をすべて正す作業に入るなんてお思いなの?」
「その通りじゃ。罪人は咎を清算せねばならぬ。無理であれば、そうさせるのみよ」
「気付いていないのね。魂魄とは満ちる気であり、3つと7つに劃たれる。乃ち、あの魂は不完全。三魂戻ろうが七魄は別物」
「おぬしの国の概念なぞどうでもよいわ。儂は“あの子”を傷付けたくはないのじゃ。“あの子”を止めるためには、幻想郷に八雲紫が必要なのじゃ」
「傷付けたくない? 歯が立たないの間違いでしょ? だから“あの子”を避けて、幽々子を言いくるめ、向こう側から八雲紫を連れ出したのよ。いえ、“八雲紫のようなもの”かしら?」
「謂いたいだけ謂えばよい。儂らは『平穏』を求め動くのみじゃ」
「では私は『革新』かしら? 貴女はひとつ勘違いをしている。確かに、八雲紫が復活すれば幻想郷は安泰し、私の仙人としての欲望、つまり末永く続く妖怪と人間の小競り合いを眺める“楽しさ”が得られるでしょう。けど“あの子”はそれ以上を齎してくれる。村社会の幻想郷はもうお終いよ」
「終いかどうかは、結果で判断すれば良い」
「そうねぇ。で、話は終わりかしら? 逃げ延びていればいいわね。金髪の子。僵屍に追われていなければいいけれど……」
「おぬしも詰めが甘いの。儂と護衛を合わせた2対1だと思っておったか? 今時の狸は人型に化けるなぞお茶の子さいさいじゃ」 隻腕の護衛の気配はいつの間にやら消失していた。
「……そう、けどアレ、“あの子”に片腕を吹き飛ばされたんでしょ? 屍尢へとチューニングした五体満足の私のかわいいかわいい芳香ちゃんに勝てるかしら?」
「自分の心配をするべきではないかのぅ。話の合間に敷石を敷いておいたわ」
「奇遇ね。私もそう。僵屍ってね。暗闇の中でも、相手が息をしていれば見つけられるのよ」
ドッ、ドッ、と床を叩く音が近づいて来る。体重の乗った足音だ。生者のそれとリズムが違うのは、僵屍は関節が固まっており、飛び上がりながら地面を進むからである。だが、一人につき、ひとつの足音になるはずが、不定期でバラバラに、しかもかなり短い周期で音は鳴っている。闇の中で青蛾は口元を歪ませた。
「貴女がどれだけ事前準備して化かせても、盲目の暗闇であれば無力。殺しはしないわ。魂だけ貰いましょう」
「当てられるものならな」
化け狸の敷石は、すでに夜闇に溶けていた。彼女は、時間を稼ぐだけで良いのだ。隠れ、牽制して、仙人の目を引き止める。
今や人間の里の外れまで到達したマエリベリー・ハーンを、より、遠くへと逃がすため――――
◯
二ッ岩マミゾウはこう言っていた。
「命蓮寺へ向かいなさい」
私は3つの厄介事の内のひとつを瞬く間に解消してしまった。命蓮寺は里の外に存在する。そこは、昼に私の前で説法を行ったお坊さんの住む幻想郷唯一の真言宗寺院で、小さな森林を挟んだ先の平地にあるという。追手に突かれて落ち延びた人間が寺に身を隠すなど、まるで大河ドラマのようだ。
睡眠を中断され、寝起きとなった足を働かせてするジョギングは、私には酷なものだった。厄介事の残り2つは、今もこの体を苛んでいる。両手で抱くようにして持つ微妙な重さの箱と、健脚で並走して、私の走りを鼓舞してくる無口な片腕の護衛。『死にたくなければ』 の枕詞だけで、私は今必死にさせられている。
祭り囃子の幻聴は止まっていた。月明かりが辛うじて田園のあぜ道を浮かび上がらせ、ほうほうの体で進んでいく。それにしても星が良く見える。電灯が無い世界観は、こんなにロマンチックなのか。
灯りはない。“敵”に見つかるから、という、もはや悪戯かと疑いたくなるような曖昧な理由で持つのを許されず、夜を走っている。やがて里の端まで来て、疎らな雑木林に突き当たった。護衛の女に連れ添い、寺へと繋がる街道に入り込む。駆ける靴裏の感触から、ただの踏み固められた土であるとわかる。そろそろ、膝が限界に達していた。がくん、と身体がよろめき、私は何もない場所で前のめって倒れ込んでしまった。目的の見えない放浪は、体の疲れを何倍にも増幅してしまい、一度止まると再び動き出すのは至難の業だった。私は肩で息をしながら宇宙を仰ぎ見た。蓮子ならば、こうして見上げるだけで、自分の位置が判るのだろう。欠けた三日月が綺麗だ。
少し、闇が振動した気がした。みしり。嫌な音が響く。次いで、べきべきという堅いものが破砕する音だ。視線を戻そうとした私の眼に、さきほど揺れたものが、姿を大きく変えて映り込んできた。
葉。枝。幹。月の逆光による黒く染まった、一本の樹からなるそれが、私に向かって猛スピードで倒れこんでくる。避け、――られない。硬直した足腰は、関節を軋ませるだけで駆動してくれない。身を縮め、目を瞑り、当たりどころを運否天賦に任せて被害が少ないように、と祈るしかない。落ちる。
しかし、あるはずの衝撃はなかった。恐る恐る目を開けると、護衛の女性が右腕一本で降りかかってきた倒木を支えている。いとも簡単に横に放り投げ、彼女は雑木林の暗がりに向かって、右の指先を向けた。何か居る。足音? むしろ跳躍のような……
「マエリベリー。逃げろ。巻き込まれるぞ」
護衛が初めて沈黙を破る。途端、木片が私の頬をかすめた。木片が散弾のように飛んできたのだ。ただ掠めただけで済んだのは、護衛の彼女が、身を挺してかばってくれたからであった。
闇の奥で蠢く何者かが、その伸ばしたまま腕を手近にあった樹木に添えた。鉛で出来ているのか、腕は太い幹にずぶずぶと埋まり、すぐにも木を穿ち倒してしまう。そこに無理に腕を差し込み、異常だと思える膂力で持ち上げた。あれが、振り下ろされる?
「芳香。意識はあるか? 私と比べて腕の数が6倍なんて、羨ましいじゃない」 護衛の女性は話しかける。しかし応答はない。
私はようやく立ち上がることが出来た。頬の痛みが強い。たったこれだけの擦過傷でも痛むのだ。私は言われた通り、その場から逃げ出すために太腿に力を入れた。だが遅い。巨大な丸太が横薙ぎで迫ってくる。
「把ッ!」 一瞬、周囲が真っ昼間のように明るくなった。見えたのは、七色の閃光を発する護衛の女性と、凄まじい勢いで吹き飛ばされる怪物の姿だった。
「早く! あれはもはや屍尢だ。鉄のような強靭さがある。今の私の力では足止めしか出来ない! 逃げなさい!」
再度促され、私は走り出した。進行方向を塞ぐようにすぐにも怪物が飛び出してくるが、護衛の右腕がそれを留めた。
「行け!」
私は進むしかなかった。異常なレベルの緊張が額に冷たい汗を浮かばせたが、五体はむしろ弛緩しきって、疲れを感じない。あるのは恐怖。ほんの一瞬見えた怪物は、腕が6本あり、目は血で赤く濁っていた。祭り囃子とは程遠い破壊音が背中を逆撫でしてくる。私は早く、より早く走るため、息を忘れていた。
姿が見えなくなるのはすぐだった。暗い。辛うじて道の輪郭がわかり、私は目的地へ近づいていく。
と。
明かりだ。一個の、小さな光が進行方向上に灯っている。誰だ。命蓮寺の人間か? わからない。行くしかない。次第に近づき、姿が見えてくる。
少女だ。齢12ほどの。赤いワンピースを着て、濃緑色の帽子を目深に被った女の子が手に持つ提灯に照らされていた。“幻想郷”は阿霊の談によれば妖怪と人間が混合して暮らしている。彼女もそうかもしれない。通り過ぎ、自分の力だけで寺院を探すか? 目の前の人物は、勢い良く駆けてくる私の存在に気付いたようで、なんと声を掛けてきた。
「あ。お待ちしてましたよ」
こんな夜更けに私の顔が見えたのか?
「あなた、私を知ってるの?」 おずおずと私は尋ねた。
「はい。あのひとから教わりまして。あなたを待っていました」
詰まらず、少女は滑らかに答えた。私はようやく足を止め、呼吸を思い出した。中腰になり、光の輪の中に入る。もしかしたら火の灯った提灯の光が届いていたのかもしれない。安心できるだろうか? 2、3質問する事にした。
「ねぇ、私、どうすればいいの?」
「着いてきてください」 少女は誘導してくる。私が護衛の女性のことを言及すると、騒ぎを聞きつけた増援がもうすぐ来てくれるらしい。私は彼女の進む足に従った。
道なりに、道なりに。暫く進むと、少女はその爪先を90度変え、雑木林を目指すようになった。疑問を発する私に、こちらが近道です、真っ直ぐに進むと1時間は掛かってしまいます、ときちんと理由を述べて彼女は笑顔で返した。私はその背中を追っていく。
やがて現れたのは小さな掘っ立て小屋だった。少女は言う。
「この中は安全です。騒ぎが収まるまで身を隠しましょう」
少し、ズレている。先ほどまでの理由は、近道であったはずだ。何かがおかしい。しかし、“安全”という言葉は、私の身体に蓄積された疲労を再認知させるのに相応しい威力を持っていた。肩が強張り、箱を持つ腕の痺れを思い出す。私は彼女の声に追従することにした。
小屋の中は完全なる闇であった。中央から垂れ下がったカギ状のフックに少女が提灯を吊り下げると、内部の簡素な様子が顕わになった。壁に座れるだけの木材が迫り出しているだけの休憩所であった。私は息荒く、座り込む。少女も隣に支えるように腰を下ろした。
「大丈夫ですか?」 私の状態を気にして、少女は布で額の汗を拭いてくれる。布が触れていった部分の皮膚が冷たく痛みを発した。そういえば、2月であった。
「ええ……」 答える。
「大丈夫なら嬉しいです。紫様 」
――紫。今、私を紫と呼んだか?
視線を少女に遣ると、帽子の下に隠れていたはずの彼女の目が、金色に輝いていた。獣の、2本ある猫の尻尾が彼女の後ろで踊っていた。
「ねぇ、紫様。どうして私達を捨てたんですか?」
肩筋をしっかりと掴まれ、私は身動きを封じられてしまった。彼女の話す唇から、鋭い犬歯が見え隠れしている。
「ねぇ。教えて下さい紫様。それとも紫様はもう居なくて、あのひと に言われた通り、この妖怪に食べられて、成り変わられちゃったんですか?」
ギリギリと指先が鎖骨を締め付けてくる。隠していた彼女の爪は長く、恐らくは化けた獣なのだろう。だが私を妖怪と見間違うとは、あまり頭は良くないようだ。
「私は、……あなたの求める人物ではないわ」 泡とともに声を吹き出して私は答えた。
「嘘を吐くな。私にはわかる。あなたの匂い、あなたの魂!」
次第に強くなっていく握力は、私の肩を今にも潰さんとしていた。紫の振りをする事で少女を躱せるか? 迷っている暇はない。本当を、嘘を塗り替えなければ――――
「なあ、橙。お前嘘ばっか吐くようになったな」 第三者の新しい声だ。
そこに現れたのは、全身黒尽くめの魔女だった。一目見て魔女だとわかるようなトンガリ帽子に、ボロボロのローブを着ている。来客に気づき、少女の力が弱まる。
「霧雨魔理沙。何をしに来たの?」
「いやちょっと、混ぜて貰いにな」
魔女は謂う。金色の髪を翻し、手持ちの箒を肩に担いだ。魔女、魔女……? 記憶を遡るにつれ、不安が大きくなっていく。朽木ばかりの魔法の森は、人間を捨てた魔女がいる。ああ、そうか。幻想郷の崩れたバランスとは、こういう事なのか。
魔理沙、と呼ばれた魔女が謂う。
「なあ、お前。お前は誰に言われたんだ?」 その言葉は私ではなく、少女――橙に向かって行使された。
「誰かなんてどうでもいい。紫様さえ戻れば!」 尻尾の毛を逆立てて返す。対する魔理沙はフフン、と鼻で笑い、
「おおよそ青い仙人にそそのかされたんだろ? 私には解るぜ。その人間を誘い込む時、ずっと嘘を吐き続けてたもんな。馬鹿正直なお前にそんなコトさせるのは青蛾くらいだ」 指で橙の頭を弾いてみせた。
「だったらどうなの!?」 今にも飛びかからんとする剣幕で橙が問う。その瞬間、彼女の体は小屋の壁面をぶち抜いて凄まじい勢いで吹き飛んでいった。
「だったらこう」 どういった方法かは判らないが、魔女が何かをしたようだ。魔理沙はこちらを振り返り、「なあ人間。あっちへいけ。お前達の盟友が待っているぞ?」 と雑木林の中を指差した。敵の敵は味方か? それとも獲物を争い合っているだけか?
私は半信半疑ながらも、動くしかない。弱い人間の力では、なにひとつ出来る事がない……。再び場から逃げ出す。
「待て!」
「いやお前はここまでだ橙。あの人間や八雲紫に興味はないが、“あいつ”に賛同してるやつに賛同してるやつは、敵だからな」
途端、逃げつつある私を背後から襲うように光が包んだ。私は無事だ。振り向くと魔女が眩いばかりの光を手に持って、幼獣と化した少女と戦っている。私は、闇の中へ逃げようとしている。また、怪異に出会うかもしれない。
感情を押し殺し、本能のままに私は暗がりに飛び込んだ。走り、止まり、走り、休み、一晩で掻き回された神経系は私をパニックに追い込んだ。時間の感覚が麻痺して、林を進む暗い光景が、同じ場所をぐるぐる回っているような反復に見えてくる。生きなければ。死にたくないから、生きなければ。
やがて、方角も見失い、足がもつれて私は大木に頭を打ち付けてしまった。しゃがみ込み、目を閉じると唐突に蓮子との思い出が蘇る。ああ、蓮子が居れば、ああ。
「なあ、盟友。探したぞ」 感傷に浸る暇もない。
私に声を掛けてきたのは、またしても少女。ああ。妖魔か。涙が滴り落ちそうだった。ブルーのレインコートを着た少女だ。リュックサックを背負い、緑の特徴的な帽子を被っている。痛む頭を抱える私に対して、気軽に掌を差し出してきた。掴んで立ち上がれと云うのか。
「あなたも、私をどうにかするつもりなの?」 私は彼女の手を取らなかった。化け猫の握力ですら、ほんの少しの加減で私の肩を砕きかねなかったのだ。幻想郷での人間は、圧倒的に弱い。
「大変だったねえ。マエリベリー 。私は河城にとり。命蓮寺に案内するよう、マミゾウに頼まれたのさ。急な言伝だったからこんな形になってしまったが、絶対に危険には晒さないよ」
彼女は云う。だが、まだ私の感情は拒否をし続けている。にとりは続ける。
「ふむ。ではそうだな。私の潔白を証明してみせようか」
にとりは伸ばした腕を、橙の握力によって赤く痣になりつつある私の肩に添えてきた。そのまま軽く押し込んできて、私は座り込んだまま後ろのめりになり、尻餅をついてしまった。そして、それを見るなり彼女はゲラゲラと笑い出す。
「はい。あんたの負け」
何が何だかわからずに私は惚けてしまった。ただ、何となく腹が立つ。私はすっくと立ち上がり、その少女に苦言を呈する。
「どういうことよ!」
「そう、それ。緊張が解けただろ?」
なおも笑いを止めないにとりに、私は苦笑するしかなかった。少しのち、再び差し出してきた彼女の手を私は握り返した。それから命蓮寺までは早かった。自ら河童を自称するにとりが、暗闇ではその効力を発揮できないであろう光学迷彩を私の上に掛け、隠すように移動した。明確な目的と道が判明した今、雑木林は小さな庭のように思えた。あっという間に寺院に辿り着き、私達は門戸を叩いた。現れたのは以前見た住職でなく、僧衣に身を包んだ尼であった。彼女曰く、こう。
「あなたがどなたかは関係ありません。ただ仏門に生きるものとして、あなたを受け入れましょう」
そう伝えられた時、知り合ってまだ間もないにとりと向き合い、私達は手を叩き合って喜んだ。
漸く、私に明日が訪れる。
◯
「見て。火を起こせなくなった人類って、みじめよね」
隔絶された新都心。京都タワーのてっぺんに、浮かぶように爪先を下ろす人物が居た。二人。ひとりは七星剣を持ち、あとのひとりは巫女装束に身を包んでいた。
「ふむ。人草の言葉を聴くに、みな火よりも雷を必要としておるようだぞ」
電気供給が消失して、街は真っ暗になっていた。至る所で車のヘッドライトが迷い、都市全体がざわめきだって居る。
「神子。あなたは人々を導いて。私は、天邪鬼と一緒にこの京都市から、全世界を幻想の色に染め上げるわ」 巫女が云う。
そこで答えたのは剣を持つ神子でなく、3人目、空中に逆さになり雲のようにフワフワと漂う角のある人型だった。
「私はお前を手伝うとは言っていないぞ。お前の動きに、私が気紛れに同調するだけだ」 ククク、とそれは意地悪そうに笑った。
「まさかお前が正邪と組むなんて、信じられんよ」 神子は眉根を寄せて、怪訝そうに巫女を見つめた。計画の発案者は視線のさき。その巫女である。
「私は破滅を回避したいだけ。幻想を守るためには、一歩踏み出して外の空気を浴びなきゃいけないの」
彼女は、陰陽の意匠が施された玉をひとつ手の上で弄んでいた。神子はそこに向かい、表情の見えない、口だけの笑みを向けた。
「ああ。期待してるよ。博霊、遠夢 」
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