がんばれ椛ちゃん 1
なんという大発明だろうか。夜の静けさの中で、犬走椛は感嘆した。刈り払いされた木々が椛の視界を滑っていく。生ぬるいはずの空気は塊のように顔にぶつかって頬を冷ました。五秒前の電灯はもう遥か後方だ。椛はふ、と満足げに息を吐く。こんなちいさな車輪でよく走るものだ。スクーターというらしい。さっそく寮が近づいてくる。まだ帰るには惜しかった。
寮を素通りして近くの東屋に座って、振動に痛んだ尻を休める。ちいさな車輪はヘッドライトの下、泥除けの中にちょこんと収まっている。それにしてもちいさな車輪だ、椛は里で行われた博覧会のことを思い出す。あれはいつのことだっただろうか。あの日はひどい暑さで、たしか三年、いや五年……とにかく暑い夏のことだった。
その博覧会で見た自転車の、車輪の大きさといえばなかった。大きな車輪と細すぎる車体に翻弄され、砂利道にすっ転んだ友人のことを思い出して、椛は笑った。どうしてそんなことになったのか、いきさつはもう曖昧になっていた。
「博覧会っていうのは我々にとっての言葉で、人間にとってこれは展覧会。さいきん、言葉に詳しいんだ」
そう云ったのは記憶の中の河童だった。やけに自慢げに云うものだから、椛はまた笑ってしまった。
それにしても、このスクーター! 椛はやおら立ち上がってにじり寄る。ちいさな車輪、丸みを帯びた泥除け、ヘッドライトだって丸い。椛はもうメロメロだった、もしかするとこの世のあらゆるものは丸いというだけですべて素晴らしくなるのではないか。シートが収納になるというのもいい。普段ならモノの“そとみ”なぞに頓着しない椛だが、今回ばかりはたまらなかった。坊主好きすぎて袈裟まで愛しかった。寮で支給された角ばった家具も鉛筆も、今度すべて丸にしてやろうと決めた。
「スクーターと原付の違いだって説明できるんだぞ。なんせ言葉に詳しいから」
うるさい! 頭の中でまたも自慢げな河童を追い払って、椛は収納からタオルを取り出して車体を拭き始める。こびりついた水玉模様の泥汚れには、黙ってそれらを拭き取った。
かの神社が山に来てからというもの、土は均され森は手入れされ、修験者や参拝客もよく見かけるようになった。人間でさえ歩きやすくなった山なら、椛は誰よりはやく動けた。そのぶん大変になったのは仕事だ。以前なら山のあちらまで超えて、用を済ませこちらまで帰るのにはおよそ三日を要した。手入れのない獣道を通るにはそれなりの準備と警戒が必要だった。しかし道が整った今なら、誰でも一日あれば簡単に往復できる。したがって、椛たちのスケジュールはより過密になっていた。とどめに河童の発明、スクーターである。これさえ使えば山の往復など半日足らずで可能になる
「こんなものが上に知られたら、大変なことになる!」
スケジュールの過密化を恐れた椛は、即座にスクーターを購入した。貯金は三分の一ほど減ってしまったが、その乗り心地には大いに満足していた。もしこれが駐屯地に配備されたら、機械に頓着しない同僚たちに酷い扱いをされただろうし、仕事量も倍増していたに違いない。
椛は満足げに車体を拭き終え、夜空を見上げる。普段ならまだ山の中腹で刺す虫にいじめられているころだろう、まだまだ続きそうな夜に椛はまたうれしくなった。どれもこれもスクーターのおかげである。家に帰ったらさっそく、ぜんぶの角をやすりで削り取ってしまおうか。時間はたっぷりある。
「ううっ」
ときに安心したときや満足したときに限って嫌なことを思い出すのは、いったいどういう仕組みなのだろうか。椛の大脳皮質後頭葉在中視覚野に突如飛来したのはいつかの苛立ちだった。
「ええ? サボってないですよ。仕事がはやく済んだから、休んでるだけ。羨ましいですか? じゃあ、はやく済ませたらいいじゃないですか。この私のように」
いけ好かない鴉天狗の声が椛の頭にフラッシュバックする。以前、素行不良で部署から追い出された鴉天狗が椛の部署で謹慎していた時期があった。神の手入れがなされた山にも旧態依然とした習わしが数多く残っており、白狼天狗以下の飛行を禁ずというのは、そのなかでも一等理解し難い慣習だった。身分にかこつけて、自分たちには禁止されている方法で割り振られた仕事をこなし、
「操れるんです、風を」
すまし顔でのたまう鴉天狗の顔を思い出すと、椛は血管がちぎれそうだった。
椛の頭に、鴉天狗の嫌味な声が再びよぎると、彼女の体中を怒りが駆け巡った。胸元から頭の先まで、怒りの炎が全身を包み込み、目の前の景色が真っ赤に染まったように感じる。まるで血管が煮えたぎるように膨れ上がった。
「く…許せない…!」
その瞬間、椛は心の中で溜め込んでいた感情が臨界点に達し、怒りが物理的な力となって彼女を襲った。視界が揺れ、頭が一瞬くらりとしたかと思うと、彼女の体はその場に崩れ落ちた。鋭い痛みが胸の中から溢れ出し、彼女の手足は痙攣を起こす。
「うっ…! ぐっ…」
血管が今にもちぎれそうな勢いで、彼女の体内で暴れまわる。心臓が鼓動するたびに、痛みが全身を駆け巡り、血が脈打つたびに頭が割れそうだった。手足は自分の意思とは関係なく痙攣し、転げ回るように地面を叩く。砂利が手のひらに食い込むのも感じられないほど、怒りが彼女の痛覚を麻痺させていた。
「う、うぐっ…!」
最後には、椛は地面に転げ回りながら、自分を襲うこの感覚に身を任せるしかなかった。息が切れ、頭の中で怒りが渦巻く中、彼女はただ荒れ狂う自分の体を、夜の静けさの中で感じるしかなかった。
気を持ち直して椛はスクーターに跨った。怒りは未だ払拭できていなかったが、ぶつける矛先を持っていた。今朝、事業所で業務報告書を提出した際のことだった。
「まあ忙しいと思うから、時間があったらでいいんだけど……」
そう切り出されたのは何とも奇妙な話だった。なんでも最近整備されたばかりの林道が妙、という話で、なにがどう妙なのかわからないが、とにかくそこを見てこいという話だった。あぶないかもだから複数人でいけ、とも言われた。歩いたら半日はかかる林道だった。時間があったら、ということはさして重要でもない。本当に気が向いたときまで放っておこうと考えていた椛だったが、今の自分にはスクーターがある。
「教えて差し上げましょうか? 風はですねぇ、こうピューっとやるんですよ。はは!」
ちぎれた血管からまた血があふれ出る。あの許しがたい怠惰に同化することは椛にとって耐えがたい苦痛だった。
スクーターのハンドルを握りしめ、八つ当たりのようにアクセルを捻る。木っ端にはね上げられた前輪が体を揺らす。知るもんか! 椛はさらにアクセルを回した。
椛の去った東屋にはぽつり電灯が取り残される。生ぬるい風がひとつ吹くと、電灯は息を引き取るように灯りを落とした。
なんという大発明だろうか。夜の静けさの中で、犬走椛は感嘆した。刈り払いされた木々が椛の視界を滑っていく。生ぬるいはずの空気は塊のように顔にぶつかって頬を冷ました。五秒前の電灯はもう遥か後方だ。椛はふ、と満足げに息を吐く。こんなちいさな車輪でよく走るものだ。スクーターというらしい。さっそく寮が近づいてくる。まだ帰るには惜しかった。
寮を素通りして近くの東屋に座って、振動に痛んだ尻を休める。ちいさな車輪はヘッドライトの下、泥除けの中にちょこんと収まっている。それにしてもちいさな車輪だ、椛は里で行われた博覧会のことを思い出す。あれはいつのことだっただろうか。あの日はひどい暑さで、たしか三年、いや五年……とにかく暑い夏のことだった。
その博覧会で見た自転車の、車輪の大きさといえばなかった。大きな車輪と細すぎる車体に翻弄され、砂利道にすっ転んだ友人のことを思い出して、椛は笑った。どうしてそんなことになったのか、いきさつはもう曖昧になっていた。
「博覧会っていうのは我々にとっての言葉で、人間にとってこれは展覧会。さいきん、言葉に詳しいんだ」
そう云ったのは記憶の中の河童だった。やけに自慢げに云うものだから、椛はまた笑ってしまった。
それにしても、このスクーター! 椛はやおら立ち上がってにじり寄る。ちいさな車輪、丸みを帯びた泥除け、ヘッドライトだって丸い。椛はもうメロメロだった、もしかするとこの世のあらゆるものは丸いというだけですべて素晴らしくなるのではないか。シートが収納になるというのもいい。普段ならモノの“そとみ”なぞに頓着しない椛だが、今回ばかりはたまらなかった。坊主好きすぎて袈裟まで愛しかった。寮で支給された角ばった家具も鉛筆も、今度すべて丸にしてやろうと決めた。
「スクーターと原付の違いだって説明できるんだぞ。なんせ言葉に詳しいから」
うるさい! 頭の中でまたも自慢げな河童を追い払って、椛は収納からタオルを取り出して車体を拭き始める。こびりついた水玉模様の泥汚れには、黙ってそれらを拭き取った。
かの神社が山に来てからというもの、土は均され森は手入れされ、修験者や参拝客もよく見かけるようになった。人間でさえ歩きやすくなった山なら、椛は誰よりはやく動けた。そのぶん大変になったのは仕事だ。以前なら山のあちらまで超えて、用を済ませこちらまで帰るのにはおよそ三日を要した。手入れのない獣道を通るにはそれなりの準備と警戒が必要だった。しかし道が整った今なら、誰でも一日あれば簡単に往復できる。したがって、椛たちのスケジュールはより過密になっていた。とどめに河童の発明、スクーターである。これさえ使えば山の往復など半日足らずで可能になる
「こんなものが上に知られたら、大変なことになる!」
スケジュールの過密化を恐れた椛は、即座にスクーターを購入した。貯金は三分の一ほど減ってしまったが、その乗り心地には大いに満足していた。もしこれが駐屯地に配備されたら、機械に頓着しない同僚たちに酷い扱いをされただろうし、仕事量も倍増していたに違いない。
椛は満足げに車体を拭き終え、夜空を見上げる。普段ならまだ山の中腹で刺す虫にいじめられているころだろう、まだまだ続きそうな夜に椛はまたうれしくなった。どれもこれもスクーターのおかげである。家に帰ったらさっそく、ぜんぶの角をやすりで削り取ってしまおうか。時間はたっぷりある。
「ううっ」
ときに安心したときや満足したときに限って嫌なことを思い出すのは、いったいどういう仕組みなのだろうか。椛の大脳皮質後頭葉在中視覚野に突如飛来したのはいつかの苛立ちだった。
「ええ? サボってないですよ。仕事がはやく済んだから、休んでるだけ。羨ましいですか? じゃあ、はやく済ませたらいいじゃないですか。この私のように」
いけ好かない鴉天狗の声が椛の頭にフラッシュバックする。以前、素行不良で部署から追い出された鴉天狗が椛の部署で謹慎していた時期があった。神の手入れがなされた山にも旧態依然とした習わしが数多く残っており、白狼天狗以下の飛行を禁ずというのは、そのなかでも一等理解し難い慣習だった。身分にかこつけて、自分たちには禁止されている方法で割り振られた仕事をこなし、
「操れるんです、風を」
すまし顔でのたまう鴉天狗の顔を思い出すと、椛は血管がちぎれそうだった。
椛の頭に、鴉天狗の嫌味な声が再びよぎると、彼女の体中を怒りが駆け巡った。胸元から頭の先まで、怒りの炎が全身を包み込み、目の前の景色が真っ赤に染まったように感じる。まるで血管が煮えたぎるように膨れ上がった。
「く…許せない…!」
その瞬間、椛は心の中で溜め込んでいた感情が臨界点に達し、怒りが物理的な力となって彼女を襲った。視界が揺れ、頭が一瞬くらりとしたかと思うと、彼女の体はその場に崩れ落ちた。鋭い痛みが胸の中から溢れ出し、彼女の手足は痙攣を起こす。
「うっ…! ぐっ…」
血管が今にもちぎれそうな勢いで、彼女の体内で暴れまわる。心臓が鼓動するたびに、痛みが全身を駆け巡り、血が脈打つたびに頭が割れそうだった。手足は自分の意思とは関係なく痙攣し、転げ回るように地面を叩く。砂利が手のひらに食い込むのも感じられないほど、怒りが彼女の痛覚を麻痺させていた。
「う、うぐっ…!」
最後には、椛は地面に転げ回りながら、自分を襲うこの感覚に身を任せるしかなかった。息が切れ、頭の中で怒りが渦巻く中、彼女はただ荒れ狂う自分の体を、夜の静けさの中で感じるしかなかった。
気を持ち直して椛はスクーターに跨った。怒りは未だ払拭できていなかったが、ぶつける矛先を持っていた。今朝、事業所で業務報告書を提出した際のことだった。
「まあ忙しいと思うから、時間があったらでいいんだけど……」
そう切り出されたのは何とも奇妙な話だった。なんでも最近整備されたばかりの林道が妙、という話で、なにがどう妙なのかわからないが、とにかくそこを見てこいという話だった。あぶないかもだから複数人でいけ、とも言われた。歩いたら半日はかかる林道だった。時間があったら、ということはさして重要でもない。本当に気が向いたときまで放っておこうと考えていた椛だったが、今の自分にはスクーターがある。
「教えて差し上げましょうか? 風はですねぇ、こうピューっとやるんですよ。はは!」
ちぎれた血管からまた血があふれ出る。あの許しがたい怠惰に同化することは椛にとって耐えがたい苦痛だった。
スクーターのハンドルを握りしめ、八つ当たりのようにアクセルを捻る。木っ端にはね上げられた前輪が体を揺らす。知るもんか! 椛はさらにアクセルを回した。
椛の去った東屋にはぽつり電灯が取り残される。生ぬるい風がひとつ吹くと、電灯は息を引き取るように灯りを落とした。