たたっと、私の靴が石畳を叩き心地良い音を鳴らす。箒で空を飛んできた速度そのままに赤い鳥居を潜り抜け、踏鞴か、あるいは陽気なステップでも踏むみたいにして足を地面に敷かれた石畳に付ける。
博麗神社。幻想郷の東の果てにある、いつも閑散としている神社。そこには、派手な色合いの服を着た女がいた。赤と白の目出度い格好のくせに、ここの景色にすっと溶け込んでいる。陽の光が地面を照らすように、木々が風に揺れるように、それがごく自然であることのように竹箒で石畳の上をゆっくりと掃いている。
その姿を私が見間違えるはずもない、あいつだ。
私の華麗なステップを聞きつけてか、あいつは箒を動かす手を止めてゆっくりとこちらを見る。私の顔を見て嬉しそうな表情でも見せればいいものを、あいつが私に見せたのは『またこいつか』とでも言いたげな不躾な目だった。
「あら、また来たの」
「またとは、随分なご挨拶だな」
霊夢は私のことなんてお構いなしとでも言いたげに箒を振るう。閑散とした神社に、箒が石畳と擦れて鳴る雑音と、皮肉の込められたその声が妙に響いた。箒を振るうあいつの前に私が降り立ち、何と無しに駄弁る。いつものやり取り、いつもの光景だ。
「あんたが賽銭の一つでも入れてくれるっていうなら、私だって愛想の一つくらい振り撒いてあげるわよ」
「愛想? ははっ、お前が冗談なんて珍しいな」
私が霊夢を笑うと、あいつは不服だとでも言いたげに手の中の箒を大きく振るう。乱暴に振るわれた箒が石畳と擦れる耳障りな音とともに、地面に積もっていた埃が舞い上がる。そこで笑顔を浮かべて聞き流せないなら、やっぱりお前には愛想良くなんて無理だな。
「で、何しに来たの?」
「理由がなくちゃ、私はここに来ちゃいけないのか?」
霊夢の問いに対して私が逆に問い掛けると、霊夢はふんと鼻を鳴らす。初対面の人間はあいつがそうするのを見て機嫌を損ねたのではと不安に感じるらしいが、そうじゃないことを私はよく知っている。
あれは機嫌が良いのを表に出さないようにするときの仕草だ。こいつは自分の中の他者への感情を表に出したがらない。顔に感情が出やすいタイプのくせに無駄に押し殺して。だからあいつは他人には興味がないなんて巷で噂されるんだよ。
「……せっかく来たんだし、お茶くらい飲んでいくでしょ」
「そうだな。ついでに甘味も頼むよ。今日は餡蜜の気分だ」
「そんな高価なものはない。ただで茶を飲めることに感謝してほしいくらいだわ」
「へいへい」
霊夢は箒を持ったまま神社裏にある社務所……あいつが普段寝食している建屋へと足を向ける。ほんと、箒を両手で握ってしずしずと歩くその後ろ姿だけは、巫女というか、年相応の女の子ってかんじだな。
私は、自分の箒にくくり付けていた風呂敷をその背中へ投げる。
「だったらこれをやるよ。土産代わりだ。茶請けにはならんが、酒の肴にでもしてくれ」
ここに来る前に魔法の森で適当に拾ってきた食用のキノコたち。風呂敷に包まれてぱんぱんに膨れ上がったそれがふわりと宙を舞う。振り返ると同時、わたわたと慌てながら霊夢は箒を投げ捨て胸の中に飛び込んできたそれを抱きかかえるように両手で受け止めるが、袋の隙間から親指ほどの小さなキノコたちがいくつかぽろりと落ちる。きょろきょろと落ちたキノコを見て、どうしていいか分からないとちょっと動転しているその顔を見て、私はにやりと笑う。これが異変の最中ならあいつはあんな顔を絶対にしないだろうに、日常のあいつはどうも抜けているところがあって、見ていて実に面白い。
あいつは何とか受け止めた袋を大事そうに抱き抱えながら私を強くきっと睨み、それから風呂敷の隙間から中身を覗き込んで中を確認する。しばらくじっと風呂敷の中身を見ていたあいつはふんと小さく鼻を鳴らし、石畳に転がったキノコを一つ残らず拾い上げて風呂敷に押し込んで、地面に転がる箒を拾ってから社務所へと足を進める。心なしかその足取りはさっきよりも軽くなったように見える。やっぱりあいつのあれは機嫌が良い証拠だ。私は詳しいんだ。
私は霊夢の横を付いていく。何か話そうかとも思ったが、顔を覗き込むと鼻歌でも歌いだしそうなくらい良い笑顔を見せていたので、私は黙ることにした。私が何か言ったらまたあの仏頂面に戻ってしまいそうだから、それよりもその顔を黙って眺めていたいと思った。
社務所へ辿り着くと、あいつは玄関から扉を引いて中に入っていく。私はその後に続いて入る。靴を脱ぎながら横を見ると、さっきの箒が傘に紛れて傘立てにささっている。
「ほら、私はお茶用意するからさ、あんたは適当にしてて」
「そうさせてもらうぜ」
霊夢とは違う廊下を通り、縁側へと向かう。勝手知ったるなんとやら、もはや我が家同然に知り尽くした家、当然ながら迷うこともなく縁側にたどり着いた。
縁側に腰掛け、ぱたぱたと足を揺らしながらあいつが来るのを待つ。きっと今頃、あいつが茶を入れるために湯でも沸かしているところだろうか。しかしここからでは湯を沸かす音もあいつの足音も声も聞こえない。
静寂。
ここには私しかいない。縁側の目の前に広がる庭と森を眺めるが、風で枝が揺れてかさかさと音が鳴る以外には変化はない。一分も眺めていればその変化も景色の一部となり、変化ですらなくなる。葉擦れの音も、しばらく聞いていれば脳が自動で遮断しささやかな雑音へと変わる。
退屈。
口から大きなあくびが出るが、それを咎める人間は誰もいない。手持ち無沙汰になって、縁側の先に鬱蒼と広がる森と青々とした快晴の空を眺めながら帽子からミニ八卦炉を取り出して手で弄ぶ。
……暇だ。
(こんな無駄な時間を過ごしていいのか?)
ぱたん、と。
背後から障子を閉じる音が聞こえた。
ばっと振り返ってそちらを見れば、あいつがお盆を手に私の後ろに立っていた。いつもの感情の乏しい目が私を見下ろしている。
「なんだ、随分と遅かったじゃないか」
「別に、遅いって言われるほど時間は経ってないでしょ。なに? もしかして寂しかった?」
「はっ、馬鹿言え」
霊夢が私の隣にお盆を置き、さらにその横へと腰掛ける。
お盆の上には湯気の立つ湯飲みが二つと、羊羹の乗った皿が置かれていた。羊羹は薄く切られており、その内の一切れには二本のつまようじが刺さっている。
「なんだ、美味しそうなものがあるじゃないか。甘味なんてないって言ってたくせに」
「それ、貰い物。里の人から貰ってね。ほら、一人で食べるのも……あれだから」
「ふうん、貰い物ねぇ」
こんな辺鄙な神社に供え物をする物好きがいるなんてな……なんて言葉を口に出す代わりに、羊羹の一切れを指でつまんで口へと放り込む。もちっとした食感に、こってりとした小豆の甘味が口の中に広がる。羊羹独特の、ずしりとした甘み。ふむ、悪くない。羊羹はこうでなくちゃ。
霊夢が品がないとでも言いたげにじとっとした目をこちらに向けて、そして大きな溜め息を吐き出してから羊羹を口に運ぶ。もちろん、あいつはちゃんとつまようじを使って。
そしてずずりと二人同時に茶をすする。暖かさと渋みが、口の中にしつこく残る甘ったるさを喉の奥へ流し込む。
うまい。自然と、だが心からそう思えた。
「これ、夢味庵の羊羹か?」
「夢味庵?」
「知らないのか? ほら、人里のど真ん中にある甘味処だよ。確か人里で今一番人気の店だって聞いた覚えがあるぜ」
「ふうん、そうなんだ」
「お前、妖怪の敵で人間の味方って自分で言うくせに、人里のことあんまり知らないよな」
「はいはい。どうせ甘味処なんてハイカラな場所、私には縁なんてないですよ~だ」
「別に不貞腐れることはないだろ。この神社に甘味を楽しむ金の余裕がないことくらい、私だって知ってるさ」
「そっちの方が失礼ね……まあいいけど。で、その夢味庵がなに?」
「別になにと聞かれて話すこともないが……そういえば、あそこで妖怪が人間のフリして働いてるのを見たぜ」
「妖怪が?」
「ほら、面識あるだろ? 赤蛮奇だよ。あのろくろ首……飛頭蛮だっけ?」
ふうん、と興味なさそうに呟く霊夢を見て、私は話を続ける。
人里で妖怪が人間のフリして働いているだとか、こっそり人里で買い物したりする妖怪が増えただとか、そういえば最近妖怪がなんだか大人しいだとか。
別に、博麗の巫女である霊夢にこんな話をしてその妖怪をとっちめてやろうとか思っていない。なんなら特に意味なんてものすらない。羊羹から話が始まって、夢味庵のことを思い出して、気がつけばこんな話をしているだけだ。
何でもないことから会話が始まり、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。水が流れるように、気の向くままに話題を見つけてはそこへと向かう。一方的に私が喋り、霊夢も空返事ばかりだが時々質問を返してくるあたりちゃんと聞いてるには聞いてるのだろう。
何か目的があって会話をしているのではない。ただ、私は霊夢との会話をしているだけ、楽しんでいるだけだ。約体もない会話、意味のない時間。私はこれを楽しんでいる。それは紛れもない事実だ。
(本当に? こんな時間に何の意味がある?)
「あーやめだやめだ」
私はそれまでの会話をぶった切り、湯飲みの中身をぐぐっと一気に飲み干してから弾かれるように立ち上がる。靴下越しに足の下にある踏石の冷たさが伝わってくる。体が疼き、私は座っていられなかった。
「どうだ霊夢、久しぶりに弾幕ごっこといかないか?」
呑気に茶をすすっていた霊夢にミニ八卦炉を突き付けて私は決闘を申し出る。霊夢は湯飲みを口から離してきょとんとした目を一瞬した跡、嫌そうにしかめっ面を浮かべた。
「えぇ……嫌よ面倒臭い」
「そんな嫌そうな顔するなよ。ここしばらく異変がなくて色々持て余してんだ」
「私は忙しいの」
「縁側で茶を飲んで羊羹食いながら駄弁ってれば、説得力があるな」
「いいでしょ別に。あんたはこうしてのんびりするのが嫌なの?」
その言葉に私は、思わずんぐと黙らせられてしまう。
嫌だ、と言えば嘘になる。
だが、その言葉を今は肯定したくなかった。
しかし私が言葉に詰まったのを霊夢は肯定と受け取ったらしく、ほらねとでも言いたげにまた茶をすする。
「じゃあいいでしょ。今日の私はのんびりしたい気分なの」
「そんなに私とお喋りしたいのかよ。照れるな」
私は冗談めかして言ったのだが、霊夢は何も返さず、そっぽを向いて湯飲みから口を話す。立ち上がって霊夢を見下ろしている私の目からはその顔は見えない。
「なんだ、図星か?」
「うっさい」
私はぐるりと回り込んで霊夢の顔を覗こうとするが、霊夢は私に見せたくないとでも言いたげに逃げるように首を動かす。そんなに恥ずかしがることないだろうに。まるで霊夢が初心な生娘で、私がその恋人みたいだなと思って私がくすっと笑うと、霊夢がキッとこちらを睨み付けてきた。心無しかその頬は赤く見える。
(そんな日和ったみたいな顔をするな。何を私は絆されているのだ)
「だいたい、なんで私なのよ。喧嘩ならそこらの妖精か妖怪にでも売って頂戴」
「そう言うなよ。お前じゃないと張り合いがない。なんなら、夕飯の当番を賭けてもいい」
「……えぇ~」
「私に負けるのが怖いのか?」
そこまで私が言葉を並べると、ようやく折れてくれたのか霊夢が大きな溜め息を吐き出す。まるでもう諦めたと言わんばかりの態度に、私は心の中でぐっと拳を握る。
「……そう。仕方ないわね。付き合ってあげる」
しかし私のその余裕も、次の瞬間には私の心から消え去った。
霊夢が湯呑みを置いて立ち上がる。ゆらりとした動きは、まとっていた空気の色を変える。春の日差しのようにのほほんとした暖かい色から、冬の風のように鋭く冷たい色に。しかし、これでも彼女が本気ではないことは分かっている。本当にあいつを怒らせた時は、こんなものじゃない。
だが、やる気だということは隣に座る私にも伝わってきた。
「魔理沙のキノコ料理、結構好きなのよね。夕飯が楽しみだわ」
口調こそ可愛げがあるが、表情は変わらない。まるで最初から結果が分かっているからこその勝利宣言であるかのようにも聞こえる。
「知ってるか? そういうのは捕らぬ狸の皮算用って言うんだぜ」
「そうかしら? 別に、勝敗に関係なく魔理沙が夕食を作ってくれてもいいのよ? その方が手っ取り早いし」
霊夢は軽口を言うが、まとう空気は変わらない。まるで馬鹿なことを言った子供を躾けるような、私が霊夢に敵うはずがないと分かっていた上で黙らせようとしているような、そんな目をしている。
けど、それじゃ私は止まらない。私の中で疼くこの感情を、どこかにぶつけなきゃ気が済まない。
「さ、行くわよ。すぐに終わらせてあげる」
霊夢は境内へと向かう。博麗神社で決闘と言えば境内だ。あそこほど広くて弾幕ごっこに適した場所はない。どこから取り出したのか、右手でお祓い棒を、左手で御札を握りしめながら悠然と歩く彼女の後ろを着いていく。
さあ、修行と研究の成果を見せてやる。
今日こそは、こいつに勝ってやる。
§
「ははっ。……意外と、善戦しただろ?」
「そうね。口だけは達者だったわ」
石畳の上で寝転がりながら、私は吠えた。首を起こすと、霊夢がこちらをじっと見ている。疲れて立ち上がることも出来ない私を見下すように、あいつは二本の足で立って、私を見ている。いつものあの無感情な目。まるでこうなると分かっていたのにと、そう言いたげな顔。
結論から言おう。私は負けた。
何も一方的な蹂躙ってわけじゃない。それなりに善戦はしたさ。霊夢の服も所々が焦げているし、あいつのスペルだって何枚か破ってやったさ。
でも、そんなものは所詮、敗者の負け惜しみ。
私が1をあいつにぶつければ、あいつは3を私に返してくる。
私が負けて、あいつが勝ったんだ。
私は、石畳に寝転がったまま空へと手を伸ばす。背骨と肩甲骨が固い石畳に当たって、背中にごりごりとした感覚と痛みが走る。
空には大きな太陽があり、さんさんと私を照らす。春の始まり、卯月の陽気は暖かく、強い光が目に眩しい。
「ちぇっ。今度こそお前に勝てると思ったのに。お前、さてはこっそり修行でもしてるんじゃないのか?」
「嫌よ面倒くさい。なんで自分で自分の腹を減らすようなことしなくちゃいけないのよ」
あっけらかんと言う霊夢に、自分の体が脱力して乾いた笑いが出る。まるで自分の努力を全て否定されたような気分だが、いつものことだから笑いしか出てこないし、私がそう思うのも、あいつにとってはどうでもいいことなんだろう。
そうだよ、あいつは修行なんてするタマじゃない。なのに私が修行して強くなってもあいつはお構いなしに強くなっている。あと一歩だと思わせてくるくせに、一歩私が進めばあいつはその一歩先に進んでいるような、そんな気分。ほんと、ずるいぜ。
「腹が減るだけって、お前そんな言い方……」
「あらあら、また喧嘩?」
私の不満が誰かに遮られる。おっとりとした女の声が、地面に寝転がっている私にも聞こえてきた。この胡散臭そうな声を聞けば、顔を見なくたってあの何考えてるか分からない笑みが頭に浮かんでくる。
八雲紫だ。
「喧嘩じゃないわよ人聞きの悪い。弾幕ごっこ。夕飯の当番を賭けていたの」
「それはそれは、仲のいいことで。羨ましい限りだわ。なら私はお邪魔だったかしら」
「……別に、あんたも食べていけばいいじゃない。二人分も三人分も変わらないでしょ」
おい、勝手なこと言うな。作るのは私なんだぞ。
「ふむ、それじゃ御相伴に上がろうかしら。私、霊夢の作る煮物が食べたいわ」
「だから作るのは魔理沙だっての。まあ……一品くらい私も作るわよ」
寝転がっていたってその声色を聞けば分かる。紫は霊夢じゃなくて私が負けたってことを微塵も疑ってなくて、霊夢は紫が飯を食いに来るって聞いて頬が緩んでいる。素っ気ないフリしてたって丸わかりだよ。
あいつらは楽しそうで華やかで、なのに対して私はこうして地面に寝っ転がって……。
(あいつの目には誰が映っているんだ? その目に私は映っているのか?)
「……ああっと! いっけね、思い出した!」
私はわざとらしく大声を上げた。あいつらが怪訝そうにこっちを見ているのを感じる。
「何よいきなり叫んで」
「ちょっと用事を思い出した! 私は帰るぜ!」
地面から跳ね起き、箒に跨って地を蹴る。私の体はふわりと持ち上がり、空中に浮かぶ。
「ちょっと、賭けを忘れたの? 夕飯はどうするつもり?」
「また今度、忘れてなければいつか思い出してやるよ! じゃあな!」
霊夢の声に、私は彼女の顔を見ずに適当に手を振る。あいつが仕方無いとでも言いたげに溜め息をつくのが聞こえた気がしたが、振り向いて確認したいとは思わなかった。
「……行っけぇ!」
箒に力を込める。
私の体は箒から星屑をまき散らしながら空を翔けた。最初から全力、全速力で。鳥居を潜るとさらに速度を増して、まるで博麗神社から射出された弾丸みたいにまっすぐ飛んでいく。博麗神社からどんどん離れていく。
家に帰って……何をしようか。
そうだ研究だ。新しい魔法の開発中だった。こいつはすぐに取り掛からなくちゃいけないんだ。なんせ私は思いついたが吉日がモットー。一日でも早く完成させて、自分のものにするんだ。ゆっくり霊夢と駄弁ったり夕飯作ったりしている時間なんて今この瞬間に消えた。だから賭けを無視してでも帰らなきゃいけないし、あいつから逃げたりなんてしていない。
高速で空を飛ぶと空気の壁が顔に当たる。風圧に目も開けていられなくなって腕で顔を庇い、風に煽られ痒くなった目元を手の甲で撫でるように搔く。
そうだ。痒いんだよ、私は。痒いから掻いているんだ。
だから、腕についた雫はきっと汗か何かなんだ。
§
魔法の森の瘴気をも吹き飛ばす速度で我が家へと帰ってきた。我が霧雨魔法店の事務所でありながら、一つ二つしか部屋のない掘っ建て小屋みたいな一軒家。博麗神社をぼろ神社だと私はよく口にするが、この家に比べれば遥かにマシだと思う。
私は玄関を跨いだその足で、物で散らかった床も気にせず踏破しながら椅子へと腰掛け、開いたままの本に向き合いペンを掴む。
今、私が向かい合っているこいつこそ、私が執筆中である魔導書だ。あの大図書館にある蔵書と比べれば可愛らしいものだが、それでも片手で持つには難しい程度には厚さと重さを持ち合わせている。いや、持ち合わせるまでに私がしたのだ。
ここにある全てのページは私の手で記したものであり、魔法を学び始めたその日からずっとの付き合いだ。そして、これからもページは増えてゆく。この魔導書は私がこれまで生きてきた証であり、歴史であり、未来なのだ。私がここに刻むのは、私自身なのだ。
魔法は素晴らしい。他の魔女連中がどう考えているかは知らないが、私が思うに魔法とは即ち想像の、幻想の具現化なのだ。自分の頭の中にあるものを、この書に、現に映し出す。それはきっと絵を描いたり、小説を書いたり、あるいはスペルカードを考えるのだって同じだ。自分の力で美しい景色を描くのだ。それに心が躍らないはずがないだろ?
なのに。
「……はぁ」
溜め息が漏れる。
既にペンを握って半刻。目の前の魔導書に書かれた文字は半刻前と何も変わらない。インクにペンを浸してばかりで、その黒が紙の上に移されることはない。
ペンを手の中でくるくると回し、鼻と唇の間に挟み、机の上に何度も転がしてはそのたびに拾って握り直すが、そんなことをしたところで紙に書かれている文字は何も変わらない。
考えがまとまらず、集中できない。頭の中にある靄が何もかもを覆い尽くし隠してしまう。
その靄の中に立っているのは、あいつだった。靄の中でもその赤い派手な服は苛立つほどによく目立つよ。
ずっと、ライバルなはずのあいつ。異変が起きたとなれば、私は誰よりも先んじて箒にまたがって駆け出してきた。私が異変を解決することもあれば、あいつが異変を解決することもあった。人里の連中はどうせあいつが全部の異変を解決したんだと思っているんだろうが。
私は、別に名前を売りたくて異変に関与したんじゃない。人里を、幻想郷を救った英雄だと称賛されたいわけでもない。そこらのやつからの名声なんて、さして欲しくもない。じゃあこの幻想郷を守りたくて異変に立ち向かったかと聞かれれば、私はNOと答える。そりゃあ、自分の今の住処が破壊されるのは勘弁願うが、そんなけったいな異変が起こったことなんて数えるほどだし、大体は異変の細事なんてよく分からないままに首を突っ込んでいる。
だから、大層な名目なんてきっとありはしない。
ただ、私はあいつに――
(あいつに……どうだっていうんだ?)
こんこん、と。
扉を叩く音が響く。
「開いてるぜ」
私はペンを握ったまま適当に扉へ言葉を投げる。こんなぼろい家に尋ねておいてわざわざ律儀にノックするやつなんて、私は一人しか知らない。
がちゃりと扉が開く音が机の前に座る私にも聞こえる。玄関がそのまま部屋に直結しているほどに小さい家なのだから、それも当然だが。
「調子はどうかしら」
「あー最高だぜ最高。絶好調だ」
私はペンを机の上に投げて、来訪者の人形遣いの顔を見ずに嘘を付いた。自然に出た言葉だったから、口から出てからようやく嘘だと気付いた。
アリスは「ふうん」と声とも息ともつかない音を口から吐いた。私は来訪者の言葉の続きを待ったが、次の声はいつまで待っても来ない。私の指が机をこんこんと断続的に叩く。
「それで、何の用だ」
いつまで経っても口を開かないアリスに苛立ちが募った私は、体をアリスへと向けて不満混じりに言葉を投げる。アリスがわざわざ私の家を訪ねる理由なんておおよそ想像はつくが、無言で玄関に突っ立ってこちらを見られると人形に見られているみたいな不気味さに居心地が悪くなる。
だが、私が声を荒らげてもアリスは私が見返してからもしばらくじっと無機質な目でこちらを眺めていた。あいつと同じ、まるでこちらの全てを見透かそうとするようなその目に私は不安と苛立ちを感じてしまう。
「な、なんだよ……」
「仕事の依頼よ、何でも屋さん」
しかし、再びその口を開いたときにはその異質な目も消えていて、私は少し拍子抜けしてしまう。
「ああ、そうだろうな。お前がここに来る理由なんてそれしかないもんな」
仕事。
魔女として、アリスは格上だ。それは、単に私と違って捨食の魔法を会得し人間を辞めたから、というだけではない。技術、知識、繊細さ、魔力……全てではないが魔女として有すべき大概のものは私よりも上回っている。
そんなアリスが、わざわざ格下である私に依頼してくることといえば。
「また、本を盗んでこいってか?」
「ええ、お願い出来るかしら」
アリスがこちらへ手を伸ばし、そこに付いている細い指を緩やかに動かす。私に向けての手招きではなく、何もないはずの手の上の物を弄ぶような仕草。それと同時、アリスの懐から小さな人形が飛び出す。そいつは私の元へと飛んできて、小さな紙切れを渡してきた。もっとも、その紙は私にしてみれば小さいというだけで、手のひら大のほどの人形からすれば丸めたものを抱き抱えなければならない程度には大きなものだったが。
受け取った紙を広げてじっと見ると、そこには小さな、しかし綺麗な字でいくつかの蔵書の名前らしきものが書かれていた。『死奥の書』、『死霊術書』、『グリモワールオブシェイネ』、それと私には読めない言語で書かれたものが二行と……
「……『浦島太郎』? なんだ? 絵本が欲しいなら貸本屋か寺子屋にでも行ったらどうだ?」
「あのね、私が欲しいのはそんな子供騙しのものじゃないわ。……気になる話を聞いてね。一説によれば『浦島太郎』において海は三途の川、亀は死神をそれぞれ暗喩していると言われているの」
浦島太郎。いじめられた亀を助けた青年、浦島太郎が亀に連れられ竜宮城へと向かう。最後は乙姫が開けるなと言って渡した玉手箱を開けた浦島太郎は、お爺さんになっておしまい。約束は破ってはならないという教訓が込められた、今更説明するまでもない御伽噺だ。その後鶴となり乙姫も何故か亀となって蓬莱山だかに旅立った……みたいな話は聞いたことがあるが。
「なら竜宮城は地獄か冥界ってことか。それにしても、子供にいじめられる死神なんてのも間抜けな話だが……で?」
「察しが悪いわね。この符号を物語に当てはめれば、浦島太郎は蘇生、黄泉帰りを成した人物であるという解釈が出来るの。それを解析出来たのなら……」
「死者の蘇生や不老不死だって可能……ということか? ……ふむ、私もそういうのに興味がないわけじゃないが、なんたってお前はそんなものを欲しがる? お前はもう魔女で妖怪なのに、月の連中みたく死なない肉体でも欲しいのか?」
「……企業秘密よ」
「まさか、人形の素材に人間の死体でも使う気か? さすがにそれは……まあ、人の趣味にどうこう言うつもりはないが、なら本を頼るよりどこかの邪仙にでも聞いてみれば早そうだがなぁ」
墓場で脳みそが腐ったみたいな発言を繰り返していたキョンシーを思い浮かべながらそんなことを聞くと、アリスは小馬鹿にしたみたいにはぁと短く溜め息を吐く。
「冗談。あんなやつに聞いて対価に何を要求されるか分かったもんじゃないわ。何をしたいかは企業秘密ということにしておいて頂戴。いつかお披露目出来るといいけど」
「確かに、あれの世話になるのはごめんだな」
あの青い仙人に借りでも作ろうものなら、どんな対価を求められるか分かったもんじゃない。
まあ、依頼人の事情を詮索しないのが霧雨魔法店のモットー。アリスがどういう事情でその本を欲しているのかはこの際問題ではないし、死体を使おうが知ったことではない。魔女である以上、私も似たようなことはやっているのだから……人間の死体はさすがに使ったことはないが。
つまりは。
「こいつらを拝借してこいと……いつものだな」
アリスの依頼。それはパチュリーのいる紅魔館の大図書館からこれらの本を取って来いというものだ。
アリスは時たまこうして窃盗……もとい、レンタル代行の依頼を私に持ってくる。あの大図書館は古今東西あらゆる蔵書が存在しており、我々魔女にとっては垂涎の的だ。私もよく忍び込んでは蔵書を盗み……もとい借りているが、アリスも可能なら大図書館の恩恵に預かりたいのだろう。
私は既にパチュリーに嫌われてしまっているので素直に借りるのは難しいからこっそり拝借させてもらっているが、アリスなら頼めばパチュリーのやつも気軽に貸し出してくれそうなものなのに。
「ええ。頼めるかしら」
「まあ、いつもの仕事だし、払うもの払ってくれたらな。……で、報酬は?」
報酬の話をするや否や、アリスはぱんと手を叩く。まるで執事を呼ぶお嬢様のような仕草だが、玄関から入ってきたのは人間ではなく人形だった。
人形は人間換算で一抱えもある大きな袋を一人(一体か?)でその身にぶら下げるようにして運んでくる。その体躯で支えるには袋は不釣り合いなほどに大きく、思わず椅子を立ち上がり袋を抱きかかえるようにして受け取る。
ずしりと重い感触が返ってくる。中を覗くと、金銭に魔法触媒、それに食糧。こちらもそれなりに危険なことをしている以上は生半可な報酬では引き受けるつもりはないが、アリスの出す報酬は正直なところ労力以上のものがある。霧雨魔法店唯一のお得意様と言ってもいい。
それに、ここまで前払いで報酬を積まれては、私とて無下に出来ない。
箒を掴み、いつもの帽子を被る。
「じゃあ、ちょっと待っててくれ。なあに、お目当てのものはすぐに持って来るさ」
ぼうっと扉の前に立つアリスを押しのけ、箒片手に家を出る。手を強く握りしめると、指がぽきぽきと心地良い音をたてる。
箒に跨がり、地を蹴る。私の体は空に浮かび上がる。
目指す先は紅魔館。簡単だがスリルのあるミッション。高い報酬。実に心躍るじゃないか。
アリスには感謝しないとな。
分かりやすいやることが出来て、気が少々楽になった。
私の頭の中の靄は、こうして面白いことでもないと晴れやしないだろうからな。
§
さて、無事に忍び込めた。
大図書館に忍び込んだ私は、悠然と本棚の間を歩く。ずらりと並ぶ本棚は私の体の何倍もの高さがあり、見渡すだけでも一苦労だ。紅魔館それ自体この幻想郷では一、二を争う巨大な建物だが、こうして図書館から見渡すだけでもこの場所が外から見える大きさ以上の広さがあることが窺える。パチュリーの術か咲夜の仕業に違いない。
しかし、上手く門番に見つからず侵入出来て良かった。門番に騒がれるとメイド妖精やら小悪魔やらが私の顔を見るたびに襲い掛かってくる。別に私ともなればそれをいなすことくらいわけないが、それでも騒がれるとやはり面倒だ。
しかし、上手く忍び込めさえすれば大図書館は平和なものだ。時折出くわすメイド妖精を黙らせる金平糖さえ切らさなければ、どうとでもなる。一応、賄賂の通じない連中と出くわさないよう警戒はしているが、悠々と歩くくらいわけないさ。
さて、これが最後の一冊だ。
私は、本棚から『死霊術書』と背表紙に書かれた本を手に取る。既に手の中にはアリスが要求している本を含め、十冊近い本が積まれていた。およそ半分は、アリスではなく私が欲しかったものだが、もう半分は私用だ。折角忍び込んだんだ。私だって欲しかった本をついでに盗んで何が悪い。いや、借りてるだけ借りてるだけ。
ずしりという手応え、本の重みが心地良い。
いやぁ、仕事が上手くいった時の気分の良さといったら。実に気分がいい。
あとはこのまま大図書館を悠々と歩いて出て、適当なところで箒に乗って窓を破って飛び出せばいい。その後のことは野となれ山となれ。門番に見つかろうがパチュリーに見つかろうが、箒で空を翔ける私に追いつけるやつなんてせいぜいあの天狗くらいなものだ。
本棚で作られた通路を歩く足が浮つく。気分が良い。頭の中もあの靄もすっかりなくなって実に晴やかな気分だ。まるで世界全てが思い通りになったみたいな万能感が私を支配する。鼻歌混じりでスキップでもしてしまいそうだ。
(ついさっきもあいつにコテンパンにされておいて、単純なやつだ。派手に負けておいて、何が万能感だ。笑えるじゃあないか)
「やめろ!」
嫌な思考が流れてきて、私は頭を振る。
ご機嫌な感情はあっけなく吹き飛び、声が飛び出した。何をやめろというのか、ここには自分自身しかいないのに。手の中の本がばらばらと床に落ちる。
それと同時、足元が光る。
「……は?」
行灯に群れる蛾のように、機械的に私は光った足元へと視線を落とす。
そこには、座布団ほどの大きさの魔法陣が煌々と自己を主張していた。私は今、魔法陣の中央に立っているのだ。その魔法陣がパチュリーの仕掛けたトラップであることは明白だった。
「しまっ……」
油断した。いつもの私だったらこんなのに引っ掛からないのに。
その魔法陣の上から逃れるよりも先に、そんな思考が頭を過ってしまったのが運のツキ。
そこから逃れようと箒に命令を出すよりも早く、魔法陣から放たれた何かが私の体を電流のように駆け巡る。トラップから逃れることも出来ず、柔らかい絨毯の上に体が横たわるよりも先に、私の意識は刈り取られた。
§
気が付くと、梁が剥き出しの天井があった。
知らない天井ではない。むしろ教えられなくても分かるほど、よく見知った景色だ。つい数刻前でいた博麗神社、その社務所の一室。首を横に向けなくても、そこにあの縁側、霊夢と羊羹を食べたあの縁側が障子越しにあるのが分かる。私は紅魔館の大図書館にいたはずなのに、今は布団の中で寝転がって見慣れた天井を眺めている。
しんと、静まり返った部屋の静寂が耳に痛い。
「何が……」
「あ、起きた?」
何がどうなったか分からず思わず口に出すと、言葉が返ってきた。全く気配を感じられなかった。ここにいるのは私だけだと思っていたから、つい驚いてしまう。顔を見ずとも、声色だけでそいつが誰が分かる。まあこんな場所にいるやつなんて、あいつしかいないのだが。
寝たまま首を動かすと、予想通り霊夢が布団の横に正座して私の顔を覗き込んでいた。無表情にぼうとこちらを眺めているところを見ると、今の私は心配されるような状態ではないのだろう。
「さっき、美鈴が来たのよ。あんたをおぶって」
「私を?」
「あんた、また大図書館に忍び込んだんでしょ。で、パチュリーに痛い目にあわされて、あいつがここまで運んできたのよ」
「……なんで?」
大図書館に忍び込んだ。パチュリーのトラップに引っ掛かった。そこまでは覚えている。だが、どうして美鈴が私を博麗神社に? そこが私の中で繋がらない。大図書館で意識を失った私を、パチュリーが捕まえてもおかしくないというのに。
「さあ? あいつが魔理沙の家を知らなかったんじゃないの?」
霊夢はどうやら『なぜ私の家ではなく博麗神社に運んだのか』と受け取ったらしく、私の聞きたかった答えとずれた返答が来た。だが訂正する気にもならなかった。霊夢も、私がここに運ばれてきたことについて、さして疑問に思ってもいないらしい。
「まあ、みんなあんたに甘いってことでしょ。後でパチュリーにでも謝っておくことね」
霊夢はすっくと立ち上がり、私を見下ろす。
「けど、まずは先に約束を守ってもらわないと。ほら、早く起きて。キノコ料理、作ってくれるんでしょ?」
いつもの無感情だが、どこか温かい目。まるで我儘な子供でも見て、仕方のない子ねとでも言いたげな目。その目が、今は私に刺さる。私がこういうやつだと分かっていて、それでも気にしてないと、そんな感情が伝わってくる。
(優しいな、お前は)
私は、脇に置かれていた帽子を手に取り、顔の上に置く。視界が黒に覆われ、あいつの顔も見えなくなった。自分の髪と汗の匂いがする。私の匂い。私だけの匂い。
私の匂いしかしないから、ここには私しかいない。
「すまんが、まだ体調が良くないようでな。もう少し寝させてもらうよ」
「何よそれ。ほんと、図々しいやつ」
「この幻想郷にいるやつなんざ、みんなそうだろうよ」
「……それもそうだけどさ」
しばらくして、ふんと鼻を鳴らす音が聞こえてきた。いつものあいつの、あの仕草。きっと仕方ないとでも言いたげな、そんな困りと呆れが混ざったみたいな顔をしているんだろうな。
ずずっと、襖が軋みながら滑る音が帽子越しに聞こえてきた。
「まあ、良いけど。布団は自分で片付けてよね」
「へいへい、分かったよ」
私には見えないあいつへ向けてひらひらと手を振る。ふんと、あいつがまた鼻を鳴らす音が聞こえた。ひとつ遅れて、ぱたんと襖が閉じられる。
それを最後に、霊夢の声は聞こえなくなる。静寂がやって来た。
あいつがすんなり立ち去ってくれて良かった。
今の私の顔、到底あいつに見せられるものじゃないからな。
(何やってんだ、私……)
博麗神社。幻想郷の東の果てにある、いつも閑散としている神社。そこには、派手な色合いの服を着た女がいた。赤と白の目出度い格好のくせに、ここの景色にすっと溶け込んでいる。陽の光が地面を照らすように、木々が風に揺れるように、それがごく自然であることのように竹箒で石畳の上をゆっくりと掃いている。
その姿を私が見間違えるはずもない、あいつだ。
私の華麗なステップを聞きつけてか、あいつは箒を動かす手を止めてゆっくりとこちらを見る。私の顔を見て嬉しそうな表情でも見せればいいものを、あいつが私に見せたのは『またこいつか』とでも言いたげな不躾な目だった。
「あら、また来たの」
「またとは、随分なご挨拶だな」
霊夢は私のことなんてお構いなしとでも言いたげに箒を振るう。閑散とした神社に、箒が石畳と擦れて鳴る雑音と、皮肉の込められたその声が妙に響いた。箒を振るうあいつの前に私が降り立ち、何と無しに駄弁る。いつものやり取り、いつもの光景だ。
「あんたが賽銭の一つでも入れてくれるっていうなら、私だって愛想の一つくらい振り撒いてあげるわよ」
「愛想? ははっ、お前が冗談なんて珍しいな」
私が霊夢を笑うと、あいつは不服だとでも言いたげに手の中の箒を大きく振るう。乱暴に振るわれた箒が石畳と擦れる耳障りな音とともに、地面に積もっていた埃が舞い上がる。そこで笑顔を浮かべて聞き流せないなら、やっぱりお前には愛想良くなんて無理だな。
「で、何しに来たの?」
「理由がなくちゃ、私はここに来ちゃいけないのか?」
霊夢の問いに対して私が逆に問い掛けると、霊夢はふんと鼻を鳴らす。初対面の人間はあいつがそうするのを見て機嫌を損ねたのではと不安に感じるらしいが、そうじゃないことを私はよく知っている。
あれは機嫌が良いのを表に出さないようにするときの仕草だ。こいつは自分の中の他者への感情を表に出したがらない。顔に感情が出やすいタイプのくせに無駄に押し殺して。だからあいつは他人には興味がないなんて巷で噂されるんだよ。
「……せっかく来たんだし、お茶くらい飲んでいくでしょ」
「そうだな。ついでに甘味も頼むよ。今日は餡蜜の気分だ」
「そんな高価なものはない。ただで茶を飲めることに感謝してほしいくらいだわ」
「へいへい」
霊夢は箒を持ったまま神社裏にある社務所……あいつが普段寝食している建屋へと足を向ける。ほんと、箒を両手で握ってしずしずと歩くその後ろ姿だけは、巫女というか、年相応の女の子ってかんじだな。
私は、自分の箒にくくり付けていた風呂敷をその背中へ投げる。
「だったらこれをやるよ。土産代わりだ。茶請けにはならんが、酒の肴にでもしてくれ」
ここに来る前に魔法の森で適当に拾ってきた食用のキノコたち。風呂敷に包まれてぱんぱんに膨れ上がったそれがふわりと宙を舞う。振り返ると同時、わたわたと慌てながら霊夢は箒を投げ捨て胸の中に飛び込んできたそれを抱きかかえるように両手で受け止めるが、袋の隙間から親指ほどの小さなキノコたちがいくつかぽろりと落ちる。きょろきょろと落ちたキノコを見て、どうしていいか分からないとちょっと動転しているその顔を見て、私はにやりと笑う。これが異変の最中ならあいつはあんな顔を絶対にしないだろうに、日常のあいつはどうも抜けているところがあって、見ていて実に面白い。
あいつは何とか受け止めた袋を大事そうに抱き抱えながら私を強くきっと睨み、それから風呂敷の隙間から中身を覗き込んで中を確認する。しばらくじっと風呂敷の中身を見ていたあいつはふんと小さく鼻を鳴らし、石畳に転がったキノコを一つ残らず拾い上げて風呂敷に押し込んで、地面に転がる箒を拾ってから社務所へと足を進める。心なしかその足取りはさっきよりも軽くなったように見える。やっぱりあいつのあれは機嫌が良い証拠だ。私は詳しいんだ。
私は霊夢の横を付いていく。何か話そうかとも思ったが、顔を覗き込むと鼻歌でも歌いだしそうなくらい良い笑顔を見せていたので、私は黙ることにした。私が何か言ったらまたあの仏頂面に戻ってしまいそうだから、それよりもその顔を黙って眺めていたいと思った。
社務所へ辿り着くと、あいつは玄関から扉を引いて中に入っていく。私はその後に続いて入る。靴を脱ぎながら横を見ると、さっきの箒が傘に紛れて傘立てにささっている。
「ほら、私はお茶用意するからさ、あんたは適当にしてて」
「そうさせてもらうぜ」
霊夢とは違う廊下を通り、縁側へと向かう。勝手知ったるなんとやら、もはや我が家同然に知り尽くした家、当然ながら迷うこともなく縁側にたどり着いた。
縁側に腰掛け、ぱたぱたと足を揺らしながらあいつが来るのを待つ。きっと今頃、あいつが茶を入れるために湯でも沸かしているところだろうか。しかしここからでは湯を沸かす音もあいつの足音も声も聞こえない。
静寂。
ここには私しかいない。縁側の目の前に広がる庭と森を眺めるが、風で枝が揺れてかさかさと音が鳴る以外には変化はない。一分も眺めていればその変化も景色の一部となり、変化ですらなくなる。葉擦れの音も、しばらく聞いていれば脳が自動で遮断しささやかな雑音へと変わる。
退屈。
口から大きなあくびが出るが、それを咎める人間は誰もいない。手持ち無沙汰になって、縁側の先に鬱蒼と広がる森と青々とした快晴の空を眺めながら帽子からミニ八卦炉を取り出して手で弄ぶ。
……暇だ。
(こんな無駄な時間を過ごしていいのか?)
ぱたん、と。
背後から障子を閉じる音が聞こえた。
ばっと振り返ってそちらを見れば、あいつがお盆を手に私の後ろに立っていた。いつもの感情の乏しい目が私を見下ろしている。
「なんだ、随分と遅かったじゃないか」
「別に、遅いって言われるほど時間は経ってないでしょ。なに? もしかして寂しかった?」
「はっ、馬鹿言え」
霊夢が私の隣にお盆を置き、さらにその横へと腰掛ける。
お盆の上には湯気の立つ湯飲みが二つと、羊羹の乗った皿が置かれていた。羊羹は薄く切られており、その内の一切れには二本のつまようじが刺さっている。
「なんだ、美味しそうなものがあるじゃないか。甘味なんてないって言ってたくせに」
「それ、貰い物。里の人から貰ってね。ほら、一人で食べるのも……あれだから」
「ふうん、貰い物ねぇ」
こんな辺鄙な神社に供え物をする物好きがいるなんてな……なんて言葉を口に出す代わりに、羊羹の一切れを指でつまんで口へと放り込む。もちっとした食感に、こってりとした小豆の甘味が口の中に広がる。羊羹独特の、ずしりとした甘み。ふむ、悪くない。羊羹はこうでなくちゃ。
霊夢が品がないとでも言いたげにじとっとした目をこちらに向けて、そして大きな溜め息を吐き出してから羊羹を口に運ぶ。もちろん、あいつはちゃんとつまようじを使って。
そしてずずりと二人同時に茶をすする。暖かさと渋みが、口の中にしつこく残る甘ったるさを喉の奥へ流し込む。
うまい。自然と、だが心からそう思えた。
「これ、夢味庵の羊羹か?」
「夢味庵?」
「知らないのか? ほら、人里のど真ん中にある甘味処だよ。確か人里で今一番人気の店だって聞いた覚えがあるぜ」
「ふうん、そうなんだ」
「お前、妖怪の敵で人間の味方って自分で言うくせに、人里のことあんまり知らないよな」
「はいはい。どうせ甘味処なんてハイカラな場所、私には縁なんてないですよ~だ」
「別に不貞腐れることはないだろ。この神社に甘味を楽しむ金の余裕がないことくらい、私だって知ってるさ」
「そっちの方が失礼ね……まあいいけど。で、その夢味庵がなに?」
「別になにと聞かれて話すこともないが……そういえば、あそこで妖怪が人間のフリして働いてるのを見たぜ」
「妖怪が?」
「ほら、面識あるだろ? 赤蛮奇だよ。あのろくろ首……飛頭蛮だっけ?」
ふうん、と興味なさそうに呟く霊夢を見て、私は話を続ける。
人里で妖怪が人間のフリして働いているだとか、こっそり人里で買い物したりする妖怪が増えただとか、そういえば最近妖怪がなんだか大人しいだとか。
別に、博麗の巫女である霊夢にこんな話をしてその妖怪をとっちめてやろうとか思っていない。なんなら特に意味なんてものすらない。羊羹から話が始まって、夢味庵のことを思い出して、気がつけばこんな話をしているだけだ。
何でもないことから会話が始まり、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。水が流れるように、気の向くままに話題を見つけてはそこへと向かう。一方的に私が喋り、霊夢も空返事ばかりだが時々質問を返してくるあたりちゃんと聞いてるには聞いてるのだろう。
何か目的があって会話をしているのではない。ただ、私は霊夢との会話をしているだけ、楽しんでいるだけだ。約体もない会話、意味のない時間。私はこれを楽しんでいる。それは紛れもない事実だ。
(本当に? こんな時間に何の意味がある?)
「あーやめだやめだ」
私はそれまでの会話をぶった切り、湯飲みの中身をぐぐっと一気に飲み干してから弾かれるように立ち上がる。靴下越しに足の下にある踏石の冷たさが伝わってくる。体が疼き、私は座っていられなかった。
「どうだ霊夢、久しぶりに弾幕ごっこといかないか?」
呑気に茶をすすっていた霊夢にミニ八卦炉を突き付けて私は決闘を申し出る。霊夢は湯飲みを口から離してきょとんとした目を一瞬した跡、嫌そうにしかめっ面を浮かべた。
「えぇ……嫌よ面倒臭い」
「そんな嫌そうな顔するなよ。ここしばらく異変がなくて色々持て余してんだ」
「私は忙しいの」
「縁側で茶を飲んで羊羹食いながら駄弁ってれば、説得力があるな」
「いいでしょ別に。あんたはこうしてのんびりするのが嫌なの?」
その言葉に私は、思わずんぐと黙らせられてしまう。
嫌だ、と言えば嘘になる。
だが、その言葉を今は肯定したくなかった。
しかし私が言葉に詰まったのを霊夢は肯定と受け取ったらしく、ほらねとでも言いたげにまた茶をすする。
「じゃあいいでしょ。今日の私はのんびりしたい気分なの」
「そんなに私とお喋りしたいのかよ。照れるな」
私は冗談めかして言ったのだが、霊夢は何も返さず、そっぽを向いて湯飲みから口を話す。立ち上がって霊夢を見下ろしている私の目からはその顔は見えない。
「なんだ、図星か?」
「うっさい」
私はぐるりと回り込んで霊夢の顔を覗こうとするが、霊夢は私に見せたくないとでも言いたげに逃げるように首を動かす。そんなに恥ずかしがることないだろうに。まるで霊夢が初心な生娘で、私がその恋人みたいだなと思って私がくすっと笑うと、霊夢がキッとこちらを睨み付けてきた。心無しかその頬は赤く見える。
(そんな日和ったみたいな顔をするな。何を私は絆されているのだ)
「だいたい、なんで私なのよ。喧嘩ならそこらの妖精か妖怪にでも売って頂戴」
「そう言うなよ。お前じゃないと張り合いがない。なんなら、夕飯の当番を賭けてもいい」
「……えぇ~」
「私に負けるのが怖いのか?」
そこまで私が言葉を並べると、ようやく折れてくれたのか霊夢が大きな溜め息を吐き出す。まるでもう諦めたと言わんばかりの態度に、私は心の中でぐっと拳を握る。
「……そう。仕方ないわね。付き合ってあげる」
しかし私のその余裕も、次の瞬間には私の心から消え去った。
霊夢が湯呑みを置いて立ち上がる。ゆらりとした動きは、まとっていた空気の色を変える。春の日差しのようにのほほんとした暖かい色から、冬の風のように鋭く冷たい色に。しかし、これでも彼女が本気ではないことは分かっている。本当にあいつを怒らせた時は、こんなものじゃない。
だが、やる気だということは隣に座る私にも伝わってきた。
「魔理沙のキノコ料理、結構好きなのよね。夕飯が楽しみだわ」
口調こそ可愛げがあるが、表情は変わらない。まるで最初から結果が分かっているからこその勝利宣言であるかのようにも聞こえる。
「知ってるか? そういうのは捕らぬ狸の皮算用って言うんだぜ」
「そうかしら? 別に、勝敗に関係なく魔理沙が夕食を作ってくれてもいいのよ? その方が手っ取り早いし」
霊夢は軽口を言うが、まとう空気は変わらない。まるで馬鹿なことを言った子供を躾けるような、私が霊夢に敵うはずがないと分かっていた上で黙らせようとしているような、そんな目をしている。
けど、それじゃ私は止まらない。私の中で疼くこの感情を、どこかにぶつけなきゃ気が済まない。
「さ、行くわよ。すぐに終わらせてあげる」
霊夢は境内へと向かう。博麗神社で決闘と言えば境内だ。あそこほど広くて弾幕ごっこに適した場所はない。どこから取り出したのか、右手でお祓い棒を、左手で御札を握りしめながら悠然と歩く彼女の後ろを着いていく。
さあ、修行と研究の成果を見せてやる。
今日こそは、こいつに勝ってやる。
§
「ははっ。……意外と、善戦しただろ?」
「そうね。口だけは達者だったわ」
石畳の上で寝転がりながら、私は吠えた。首を起こすと、霊夢がこちらをじっと見ている。疲れて立ち上がることも出来ない私を見下すように、あいつは二本の足で立って、私を見ている。いつものあの無感情な目。まるでこうなると分かっていたのにと、そう言いたげな顔。
結論から言おう。私は負けた。
何も一方的な蹂躙ってわけじゃない。それなりに善戦はしたさ。霊夢の服も所々が焦げているし、あいつのスペルだって何枚か破ってやったさ。
でも、そんなものは所詮、敗者の負け惜しみ。
私が1をあいつにぶつければ、あいつは3を私に返してくる。
私が負けて、あいつが勝ったんだ。
私は、石畳に寝転がったまま空へと手を伸ばす。背骨と肩甲骨が固い石畳に当たって、背中にごりごりとした感覚と痛みが走る。
空には大きな太陽があり、さんさんと私を照らす。春の始まり、卯月の陽気は暖かく、強い光が目に眩しい。
「ちぇっ。今度こそお前に勝てると思ったのに。お前、さてはこっそり修行でもしてるんじゃないのか?」
「嫌よ面倒くさい。なんで自分で自分の腹を減らすようなことしなくちゃいけないのよ」
あっけらかんと言う霊夢に、自分の体が脱力して乾いた笑いが出る。まるで自分の努力を全て否定されたような気分だが、いつものことだから笑いしか出てこないし、私がそう思うのも、あいつにとってはどうでもいいことなんだろう。
そうだよ、あいつは修行なんてするタマじゃない。なのに私が修行して強くなってもあいつはお構いなしに強くなっている。あと一歩だと思わせてくるくせに、一歩私が進めばあいつはその一歩先に進んでいるような、そんな気分。ほんと、ずるいぜ。
「腹が減るだけって、お前そんな言い方……」
「あらあら、また喧嘩?」
私の不満が誰かに遮られる。おっとりとした女の声が、地面に寝転がっている私にも聞こえてきた。この胡散臭そうな声を聞けば、顔を見なくたってあの何考えてるか分からない笑みが頭に浮かんでくる。
八雲紫だ。
「喧嘩じゃないわよ人聞きの悪い。弾幕ごっこ。夕飯の当番を賭けていたの」
「それはそれは、仲のいいことで。羨ましい限りだわ。なら私はお邪魔だったかしら」
「……別に、あんたも食べていけばいいじゃない。二人分も三人分も変わらないでしょ」
おい、勝手なこと言うな。作るのは私なんだぞ。
「ふむ、それじゃ御相伴に上がろうかしら。私、霊夢の作る煮物が食べたいわ」
「だから作るのは魔理沙だっての。まあ……一品くらい私も作るわよ」
寝転がっていたってその声色を聞けば分かる。紫は霊夢じゃなくて私が負けたってことを微塵も疑ってなくて、霊夢は紫が飯を食いに来るって聞いて頬が緩んでいる。素っ気ないフリしてたって丸わかりだよ。
あいつらは楽しそうで華やかで、なのに対して私はこうして地面に寝っ転がって……。
(あいつの目には誰が映っているんだ? その目に私は映っているのか?)
「……ああっと! いっけね、思い出した!」
私はわざとらしく大声を上げた。あいつらが怪訝そうにこっちを見ているのを感じる。
「何よいきなり叫んで」
「ちょっと用事を思い出した! 私は帰るぜ!」
地面から跳ね起き、箒に跨って地を蹴る。私の体はふわりと持ち上がり、空中に浮かぶ。
「ちょっと、賭けを忘れたの? 夕飯はどうするつもり?」
「また今度、忘れてなければいつか思い出してやるよ! じゃあな!」
霊夢の声に、私は彼女の顔を見ずに適当に手を振る。あいつが仕方無いとでも言いたげに溜め息をつくのが聞こえた気がしたが、振り向いて確認したいとは思わなかった。
「……行っけぇ!」
箒に力を込める。
私の体は箒から星屑をまき散らしながら空を翔けた。最初から全力、全速力で。鳥居を潜るとさらに速度を増して、まるで博麗神社から射出された弾丸みたいにまっすぐ飛んでいく。博麗神社からどんどん離れていく。
家に帰って……何をしようか。
そうだ研究だ。新しい魔法の開発中だった。こいつはすぐに取り掛からなくちゃいけないんだ。なんせ私は思いついたが吉日がモットー。一日でも早く完成させて、自分のものにするんだ。ゆっくり霊夢と駄弁ったり夕飯作ったりしている時間なんて今この瞬間に消えた。だから賭けを無視してでも帰らなきゃいけないし、あいつから逃げたりなんてしていない。
高速で空を飛ぶと空気の壁が顔に当たる。風圧に目も開けていられなくなって腕で顔を庇い、風に煽られ痒くなった目元を手の甲で撫でるように搔く。
そうだ。痒いんだよ、私は。痒いから掻いているんだ。
だから、腕についた雫はきっと汗か何かなんだ。
§
魔法の森の瘴気をも吹き飛ばす速度で我が家へと帰ってきた。我が霧雨魔法店の事務所でありながら、一つ二つしか部屋のない掘っ建て小屋みたいな一軒家。博麗神社をぼろ神社だと私はよく口にするが、この家に比べれば遥かにマシだと思う。
私は玄関を跨いだその足で、物で散らかった床も気にせず踏破しながら椅子へと腰掛け、開いたままの本に向き合いペンを掴む。
今、私が向かい合っているこいつこそ、私が執筆中である魔導書だ。あの大図書館にある蔵書と比べれば可愛らしいものだが、それでも片手で持つには難しい程度には厚さと重さを持ち合わせている。いや、持ち合わせるまでに私がしたのだ。
ここにある全てのページは私の手で記したものであり、魔法を学び始めたその日からずっとの付き合いだ。そして、これからもページは増えてゆく。この魔導書は私がこれまで生きてきた証であり、歴史であり、未来なのだ。私がここに刻むのは、私自身なのだ。
魔法は素晴らしい。他の魔女連中がどう考えているかは知らないが、私が思うに魔法とは即ち想像の、幻想の具現化なのだ。自分の頭の中にあるものを、この書に、現に映し出す。それはきっと絵を描いたり、小説を書いたり、あるいはスペルカードを考えるのだって同じだ。自分の力で美しい景色を描くのだ。それに心が躍らないはずがないだろ?
なのに。
「……はぁ」
溜め息が漏れる。
既にペンを握って半刻。目の前の魔導書に書かれた文字は半刻前と何も変わらない。インクにペンを浸してばかりで、その黒が紙の上に移されることはない。
ペンを手の中でくるくると回し、鼻と唇の間に挟み、机の上に何度も転がしてはそのたびに拾って握り直すが、そんなことをしたところで紙に書かれている文字は何も変わらない。
考えがまとまらず、集中できない。頭の中にある靄が何もかもを覆い尽くし隠してしまう。
その靄の中に立っているのは、あいつだった。靄の中でもその赤い派手な服は苛立つほどによく目立つよ。
ずっと、ライバルなはずのあいつ。異変が起きたとなれば、私は誰よりも先んじて箒にまたがって駆け出してきた。私が異変を解決することもあれば、あいつが異変を解決することもあった。人里の連中はどうせあいつが全部の異変を解決したんだと思っているんだろうが。
私は、別に名前を売りたくて異変に関与したんじゃない。人里を、幻想郷を救った英雄だと称賛されたいわけでもない。そこらのやつからの名声なんて、さして欲しくもない。じゃあこの幻想郷を守りたくて異変に立ち向かったかと聞かれれば、私はNOと答える。そりゃあ、自分の今の住処が破壊されるのは勘弁願うが、そんなけったいな異変が起こったことなんて数えるほどだし、大体は異変の細事なんてよく分からないままに首を突っ込んでいる。
だから、大層な名目なんてきっとありはしない。
ただ、私はあいつに――
(あいつに……どうだっていうんだ?)
こんこん、と。
扉を叩く音が響く。
「開いてるぜ」
私はペンを握ったまま適当に扉へ言葉を投げる。こんなぼろい家に尋ねておいてわざわざ律儀にノックするやつなんて、私は一人しか知らない。
がちゃりと扉が開く音が机の前に座る私にも聞こえる。玄関がそのまま部屋に直結しているほどに小さい家なのだから、それも当然だが。
「調子はどうかしら」
「あー最高だぜ最高。絶好調だ」
私はペンを机の上に投げて、来訪者の人形遣いの顔を見ずに嘘を付いた。自然に出た言葉だったから、口から出てからようやく嘘だと気付いた。
アリスは「ふうん」と声とも息ともつかない音を口から吐いた。私は来訪者の言葉の続きを待ったが、次の声はいつまで待っても来ない。私の指が机をこんこんと断続的に叩く。
「それで、何の用だ」
いつまで経っても口を開かないアリスに苛立ちが募った私は、体をアリスへと向けて不満混じりに言葉を投げる。アリスがわざわざ私の家を訪ねる理由なんておおよそ想像はつくが、無言で玄関に突っ立ってこちらを見られると人形に見られているみたいな不気味さに居心地が悪くなる。
だが、私が声を荒らげてもアリスは私が見返してからもしばらくじっと無機質な目でこちらを眺めていた。あいつと同じ、まるでこちらの全てを見透かそうとするようなその目に私は不安と苛立ちを感じてしまう。
「な、なんだよ……」
「仕事の依頼よ、何でも屋さん」
しかし、再びその口を開いたときにはその異質な目も消えていて、私は少し拍子抜けしてしまう。
「ああ、そうだろうな。お前がここに来る理由なんてそれしかないもんな」
仕事。
魔女として、アリスは格上だ。それは、単に私と違って捨食の魔法を会得し人間を辞めたから、というだけではない。技術、知識、繊細さ、魔力……全てではないが魔女として有すべき大概のものは私よりも上回っている。
そんなアリスが、わざわざ格下である私に依頼してくることといえば。
「また、本を盗んでこいってか?」
「ええ、お願い出来るかしら」
アリスがこちらへ手を伸ばし、そこに付いている細い指を緩やかに動かす。私に向けての手招きではなく、何もないはずの手の上の物を弄ぶような仕草。それと同時、アリスの懐から小さな人形が飛び出す。そいつは私の元へと飛んできて、小さな紙切れを渡してきた。もっとも、その紙は私にしてみれば小さいというだけで、手のひら大のほどの人形からすれば丸めたものを抱き抱えなければならない程度には大きなものだったが。
受け取った紙を広げてじっと見ると、そこには小さな、しかし綺麗な字でいくつかの蔵書の名前らしきものが書かれていた。『死奥の書』、『死霊術書』、『グリモワールオブシェイネ』、それと私には読めない言語で書かれたものが二行と……
「……『浦島太郎』? なんだ? 絵本が欲しいなら貸本屋か寺子屋にでも行ったらどうだ?」
「あのね、私が欲しいのはそんな子供騙しのものじゃないわ。……気になる話を聞いてね。一説によれば『浦島太郎』において海は三途の川、亀は死神をそれぞれ暗喩していると言われているの」
浦島太郎。いじめられた亀を助けた青年、浦島太郎が亀に連れられ竜宮城へと向かう。最後は乙姫が開けるなと言って渡した玉手箱を開けた浦島太郎は、お爺さんになっておしまい。約束は破ってはならないという教訓が込められた、今更説明するまでもない御伽噺だ。その後鶴となり乙姫も何故か亀となって蓬莱山だかに旅立った……みたいな話は聞いたことがあるが。
「なら竜宮城は地獄か冥界ってことか。それにしても、子供にいじめられる死神なんてのも間抜けな話だが……で?」
「察しが悪いわね。この符号を物語に当てはめれば、浦島太郎は蘇生、黄泉帰りを成した人物であるという解釈が出来るの。それを解析出来たのなら……」
「死者の蘇生や不老不死だって可能……ということか? ……ふむ、私もそういうのに興味がないわけじゃないが、なんたってお前はそんなものを欲しがる? お前はもう魔女で妖怪なのに、月の連中みたく死なない肉体でも欲しいのか?」
「……企業秘密よ」
「まさか、人形の素材に人間の死体でも使う気か? さすがにそれは……まあ、人の趣味にどうこう言うつもりはないが、なら本を頼るよりどこかの邪仙にでも聞いてみれば早そうだがなぁ」
墓場で脳みそが腐ったみたいな発言を繰り返していたキョンシーを思い浮かべながらそんなことを聞くと、アリスは小馬鹿にしたみたいにはぁと短く溜め息を吐く。
「冗談。あんなやつに聞いて対価に何を要求されるか分かったもんじゃないわ。何をしたいかは企業秘密ということにしておいて頂戴。いつかお披露目出来るといいけど」
「確かに、あれの世話になるのはごめんだな」
あの青い仙人に借りでも作ろうものなら、どんな対価を求められるか分かったもんじゃない。
まあ、依頼人の事情を詮索しないのが霧雨魔法店のモットー。アリスがどういう事情でその本を欲しているのかはこの際問題ではないし、死体を使おうが知ったことではない。魔女である以上、私も似たようなことはやっているのだから……人間の死体はさすがに使ったことはないが。
つまりは。
「こいつらを拝借してこいと……いつものだな」
アリスの依頼。それはパチュリーのいる紅魔館の大図書館からこれらの本を取って来いというものだ。
アリスは時たまこうして窃盗……もとい、レンタル代行の依頼を私に持ってくる。あの大図書館は古今東西あらゆる蔵書が存在しており、我々魔女にとっては垂涎の的だ。私もよく忍び込んでは蔵書を盗み……もとい借りているが、アリスも可能なら大図書館の恩恵に預かりたいのだろう。
私は既にパチュリーに嫌われてしまっているので素直に借りるのは難しいからこっそり拝借させてもらっているが、アリスなら頼めばパチュリーのやつも気軽に貸し出してくれそうなものなのに。
「ええ。頼めるかしら」
「まあ、いつもの仕事だし、払うもの払ってくれたらな。……で、報酬は?」
報酬の話をするや否や、アリスはぱんと手を叩く。まるで執事を呼ぶお嬢様のような仕草だが、玄関から入ってきたのは人間ではなく人形だった。
人形は人間換算で一抱えもある大きな袋を一人(一体か?)でその身にぶら下げるようにして運んでくる。その体躯で支えるには袋は不釣り合いなほどに大きく、思わず椅子を立ち上がり袋を抱きかかえるようにして受け取る。
ずしりと重い感触が返ってくる。中を覗くと、金銭に魔法触媒、それに食糧。こちらもそれなりに危険なことをしている以上は生半可な報酬では引き受けるつもりはないが、アリスの出す報酬は正直なところ労力以上のものがある。霧雨魔法店唯一のお得意様と言ってもいい。
それに、ここまで前払いで報酬を積まれては、私とて無下に出来ない。
箒を掴み、いつもの帽子を被る。
「じゃあ、ちょっと待っててくれ。なあに、お目当てのものはすぐに持って来るさ」
ぼうっと扉の前に立つアリスを押しのけ、箒片手に家を出る。手を強く握りしめると、指がぽきぽきと心地良い音をたてる。
箒に跨がり、地を蹴る。私の体は空に浮かび上がる。
目指す先は紅魔館。簡単だがスリルのあるミッション。高い報酬。実に心躍るじゃないか。
アリスには感謝しないとな。
分かりやすいやることが出来て、気が少々楽になった。
私の頭の中の靄は、こうして面白いことでもないと晴れやしないだろうからな。
§
さて、無事に忍び込めた。
大図書館に忍び込んだ私は、悠然と本棚の間を歩く。ずらりと並ぶ本棚は私の体の何倍もの高さがあり、見渡すだけでも一苦労だ。紅魔館それ自体この幻想郷では一、二を争う巨大な建物だが、こうして図書館から見渡すだけでもこの場所が外から見える大きさ以上の広さがあることが窺える。パチュリーの術か咲夜の仕業に違いない。
しかし、上手く門番に見つからず侵入出来て良かった。門番に騒がれるとメイド妖精やら小悪魔やらが私の顔を見るたびに襲い掛かってくる。別に私ともなればそれをいなすことくらいわけないが、それでも騒がれるとやはり面倒だ。
しかし、上手く忍び込めさえすれば大図書館は平和なものだ。時折出くわすメイド妖精を黙らせる金平糖さえ切らさなければ、どうとでもなる。一応、賄賂の通じない連中と出くわさないよう警戒はしているが、悠々と歩くくらいわけないさ。
さて、これが最後の一冊だ。
私は、本棚から『死霊術書』と背表紙に書かれた本を手に取る。既に手の中にはアリスが要求している本を含め、十冊近い本が積まれていた。およそ半分は、アリスではなく私が欲しかったものだが、もう半分は私用だ。折角忍び込んだんだ。私だって欲しかった本をついでに盗んで何が悪い。いや、借りてるだけ借りてるだけ。
ずしりという手応え、本の重みが心地良い。
いやぁ、仕事が上手くいった時の気分の良さといったら。実に気分がいい。
あとはこのまま大図書館を悠々と歩いて出て、適当なところで箒に乗って窓を破って飛び出せばいい。その後のことは野となれ山となれ。門番に見つかろうがパチュリーに見つかろうが、箒で空を翔ける私に追いつけるやつなんてせいぜいあの天狗くらいなものだ。
本棚で作られた通路を歩く足が浮つく。気分が良い。頭の中もあの靄もすっかりなくなって実に晴やかな気分だ。まるで世界全てが思い通りになったみたいな万能感が私を支配する。鼻歌混じりでスキップでもしてしまいそうだ。
(ついさっきもあいつにコテンパンにされておいて、単純なやつだ。派手に負けておいて、何が万能感だ。笑えるじゃあないか)
「やめろ!」
嫌な思考が流れてきて、私は頭を振る。
ご機嫌な感情はあっけなく吹き飛び、声が飛び出した。何をやめろというのか、ここには自分自身しかいないのに。手の中の本がばらばらと床に落ちる。
それと同時、足元が光る。
「……は?」
行灯に群れる蛾のように、機械的に私は光った足元へと視線を落とす。
そこには、座布団ほどの大きさの魔法陣が煌々と自己を主張していた。私は今、魔法陣の中央に立っているのだ。その魔法陣がパチュリーの仕掛けたトラップであることは明白だった。
「しまっ……」
油断した。いつもの私だったらこんなのに引っ掛からないのに。
その魔法陣の上から逃れるよりも先に、そんな思考が頭を過ってしまったのが運のツキ。
そこから逃れようと箒に命令を出すよりも早く、魔法陣から放たれた何かが私の体を電流のように駆け巡る。トラップから逃れることも出来ず、柔らかい絨毯の上に体が横たわるよりも先に、私の意識は刈り取られた。
§
気が付くと、梁が剥き出しの天井があった。
知らない天井ではない。むしろ教えられなくても分かるほど、よく見知った景色だ。つい数刻前でいた博麗神社、その社務所の一室。首を横に向けなくても、そこにあの縁側、霊夢と羊羹を食べたあの縁側が障子越しにあるのが分かる。私は紅魔館の大図書館にいたはずなのに、今は布団の中で寝転がって見慣れた天井を眺めている。
しんと、静まり返った部屋の静寂が耳に痛い。
「何が……」
「あ、起きた?」
何がどうなったか分からず思わず口に出すと、言葉が返ってきた。全く気配を感じられなかった。ここにいるのは私だけだと思っていたから、つい驚いてしまう。顔を見ずとも、声色だけでそいつが誰が分かる。まあこんな場所にいるやつなんて、あいつしかいないのだが。
寝たまま首を動かすと、予想通り霊夢が布団の横に正座して私の顔を覗き込んでいた。無表情にぼうとこちらを眺めているところを見ると、今の私は心配されるような状態ではないのだろう。
「さっき、美鈴が来たのよ。あんたをおぶって」
「私を?」
「あんた、また大図書館に忍び込んだんでしょ。で、パチュリーに痛い目にあわされて、あいつがここまで運んできたのよ」
「……なんで?」
大図書館に忍び込んだ。パチュリーのトラップに引っ掛かった。そこまでは覚えている。だが、どうして美鈴が私を博麗神社に? そこが私の中で繋がらない。大図書館で意識を失った私を、パチュリーが捕まえてもおかしくないというのに。
「さあ? あいつが魔理沙の家を知らなかったんじゃないの?」
霊夢はどうやら『なぜ私の家ではなく博麗神社に運んだのか』と受け取ったらしく、私の聞きたかった答えとずれた返答が来た。だが訂正する気にもならなかった。霊夢も、私がここに運ばれてきたことについて、さして疑問に思ってもいないらしい。
「まあ、みんなあんたに甘いってことでしょ。後でパチュリーにでも謝っておくことね」
霊夢はすっくと立ち上がり、私を見下ろす。
「けど、まずは先に約束を守ってもらわないと。ほら、早く起きて。キノコ料理、作ってくれるんでしょ?」
いつもの無感情だが、どこか温かい目。まるで我儘な子供でも見て、仕方のない子ねとでも言いたげな目。その目が、今は私に刺さる。私がこういうやつだと分かっていて、それでも気にしてないと、そんな感情が伝わってくる。
(優しいな、お前は)
私は、脇に置かれていた帽子を手に取り、顔の上に置く。視界が黒に覆われ、あいつの顔も見えなくなった。自分の髪と汗の匂いがする。私の匂い。私だけの匂い。
私の匂いしかしないから、ここには私しかいない。
「すまんが、まだ体調が良くないようでな。もう少し寝させてもらうよ」
「何よそれ。ほんと、図々しいやつ」
「この幻想郷にいるやつなんざ、みんなそうだろうよ」
「……それもそうだけどさ」
しばらくして、ふんと鼻を鳴らす音が聞こえてきた。いつものあいつの、あの仕草。きっと仕方ないとでも言いたげな、そんな困りと呆れが混ざったみたいな顔をしているんだろうな。
ずずっと、襖が軋みながら滑る音が帽子越しに聞こえてきた。
「まあ、良いけど。布団は自分で片付けてよね」
「へいへい、分かったよ」
私には見えないあいつへ向けてひらひらと手を振る。ふんと、あいつがまた鼻を鳴らす音が聞こえた。ひとつ遅れて、ぱたんと襖が閉じられる。
それを最後に、霊夢の声は聞こえなくなる。静寂がやって来た。
あいつがすんなり立ち去ってくれて良かった。
今の私の顔、到底あいつに見せられるものじゃないからな。
(何やってんだ、私……)