「ここは……」
気付けば、よく分からない場所に立っていた。
空は朝焼けとも夕焼けとも呼べない暗い紫で、幻想郷じゃ中々お目にかかれることのない洋風の城、その歪な影がこちらを見下ろしている。周囲はだだっ広く、地平線が見えるほどここには何もものが存在しない。
まるで虚無のように、空虚で何もない。遥か遠くに浮かぶ、取ってつけたように意味もなく存在している巨大な城の影が、一層周囲の寒々しさを演出している。
そこまで考えて、ああと思い至る。
「ここは夢の世界なのか……」
「夢の世界、なんて安易な言葉で表現してほしくはありませんが……まあいいでしょう」
私の独り言に返事があった。だが驚くことではない。この場所に連れてこられた時点で、誰が返事をしたのか、誰がこの場所に私を連れてきたのか、私には予想がついていた。
「なあ、ドレミー?」
「こんにちは、魔理沙さん」
そこには予想通り、服に大量に毛玉のようなものをぶら下げた女が巨大な球体にうつ伏せに寝転がってふよふよと浮かんでいた。相変わらず、人を小馬鹿にしたような独特の笑みだ。
夢の管理者、ドレミー・スイート。夢と言えば、こいつをおいて他にいないだろう。
ドレミーがぱちんと指を鳴らすと、一人掛けの小さなソファがぽんと現れる。座れ、ということだろう。それならばと、私は遠慮なく座らせてもらうことにした。どっかと飛び乗るように腰掛けると、尻がソファに沈み込み、実に心地良い。私の家にあるへたったソファと交換してほしいくらいだ。
しかし、こんなものをわざわざ出してくるとは、長い話になりそうだ。……こいつの話はあまり好きじゃないんだよなぁ。話し方の問題かもしれないが、こいつの言うことは回りくどい上に胡散臭くてなぁ。
「おい、茶の一つも出してくれないのか? ここなら出すも出さないもお前の思うがままだろ?」
「私とてそうしたいのは山々ですが……生憎、そんな力もありません故、ソファだけですが我慢してください」
「……もしかして、お前も、なのか?」
ややぼかした言い方だったが、ドレミーはこくりと頷く。小馬鹿にしたような笑みは変わらずだが、心なしかその目の下には隈があるように見えた。どうやら、ドレミー自身も他の妖怪と同じように力が無くなりつつあるらしい。
「夢の支配者なんて言われてますが、私は獏。所詮、夢に住んでいるというだけの、しがない妖怪ですから」
「分かった。本題に入ろう。あんまり時間はないらしいしな」
「お気遣い、痛み入ります」
「で? 私をこんなところに呼び出した理由はなんだ?」
私がそう尋ねると、ドレミーは私の顔を覗き込むように見つめてくる。その見透かすような視線に居心地の悪さを感じ、「な、なんだよ」という抗議の声が思わず漏れる。
「魔理沙さん、貴方まだ異変の原因を追っていますね?」
「異変? ……ああ異変ね。まあ、いまだ尻尾も掴めていないがな」
今の幻想郷で異変と言われれば、幻想郷の妖怪が力を失うあの異変しかない。
あれから更に数か月。力が失われた妖怪たちと、そんな彼らを攻撃する人間という歪な関係が続いていたが、それが裏返った。
八雲紫のやつは、妖怪の力を補うためにいつぞやのオカルトボールを持ち出した。
華扇や霊夢はオカルトボールには強い霊力が宿っていると都市伝説異変の頃に話していた覚えがあるが、紫いわくそこに込められているのはオカルトの力、つまり人間が本来持つ未知への恐れや恐怖を宿したものだと言う。
妖怪の力の源、それは即ち未知への恐怖や恐れだ。どれだけ人を喰おうとも、妖怪自身の根源的な拠り所はそこなのだ。恐れられ、畏怖され、それでこそ妖怪は生きることが出来る。
オカルトボールの周囲に振り撒かれるのは、その妖怪の根源たる感情と認識の力だと、紫は言う。オカルトボールの近くにいさえすれば、妖怪はこれまで通り十全とはいかなくとも、そんじょそこらの人間には敵わない程度には力を取り戻すことが出来る。
オカルトボールは幻想郷の要所に配置された。七つあるそれら全ての配置場所までは覚えちゃいないが、いくつかはちゃんと覚えている。妖怪の森の頂に位置する守矢神社、妖怪の駆け込み寺となった命蓮寺、以前から妖怪が頻繁に訪れていた博麗神社、そして人里のど真ん中。
「そうです。人里に配置されたことで、これまで迫害を受けていた妖怪たちが我が物顔で人里を闊歩するようになりました」
「勝手に人の心を読むな。お前は覚か」
嫌味ったらしい笑みを浮かべているドレミーだが、実のところ彼女の言う通りだ。
今の人里に、人間の聖域と呼べる場所はもうない。妖怪たちはまるでこれまで受けた迫害の鬱憤を晴らすかのように人里を闊歩し、徒に人間を襲う。人間は道を歩く妖怪に怯えながらも人里でどうにか以前の暮らしを続けようとしている。そして時折り、ごく一部の人間がオカルトボールのない魔法の森などに出向いてはオカルトボールの恩恵を受けられない妖怪を迫害する。弱い者が弱い者を迫害する負の連鎖が出来ていた。
普通なら、人里で妖怪に人間が襲われているのなら私は妖怪退治と称して出向くべきなのかもしれないが、どうにもそんな気分にはなれなかった。そもそも先に手を出したのは人間だし、今だって人間はオカルトボールの恩恵をあまり得られていない弱小妖怪に手を出すのを止められないでいる。そんなやつらを守ってやろうという気にもならない、というのが本音だ。……もちろん、人里の人間全員がそうだとは思っていないが。
霊夢もこの異変については相も変わらず碌に動いておらず、まるで異変はもう終わったとばかりに社務所で茶を飲んでばかり。今や博麗神社はオカルトボールの妖力を求めて妖怪が四六時中たむろする、名実ともに妖怪神社と成り果てたが、霊夢は意に介していないのか追い出しすらもせず、博麗神社に半ば引きこもっている。今までのあいつなら参拝客が来ないと嘆き妖怪ともを蹴散らすだろうに。
異変はまだ終わってないぞと私があいつを問い詰めても暖簾に腕押し。なら、他でもない私が立ち上がり異変を解決しなければ……と思ってはいるのだが。
「して、魔理沙さん。此度の異変の原因は?」
私は肩を竦める。そのジェスチャーが、私のこれまでの調査結果の全てだった。
原因も、解消法も、何も分からない。
幻想郷のあちこちを飛び回っても尻尾すら見えず、賢者と呼ばれてるようなやつらとは碌に会うことも出来ない。まさに八方塞がりな状況。
私が肩を竦めると、ドレミーは特段驚きもせず「でしょうね」なんて呟きやがる。
「おい。まるで全部知っているとでも言いたげだな。そもそも、何で私が今ここに呼ばれたのかすらこっちは聞かされてないんだぞ」
私がドレミーに問い詰めると、ドレミーはその表情からニヤニヤとした笑みをすっと消す。こいつにしては珍しい、真剣な表情だ。
「魔理沙さん。私、ずっと見ていました」
「見ていましたって、何をだよ……」
「皆さんのことですよ。此度の異変、誰が一番信頼できるのか、託すに足る人を私はずっと探していました」
「信頼できるやつ? それが私?」
ドレミーはこくりと首で私の言葉を肯定する。それを見て私はソファにふんぞり返り、ふんと鼻を鳴らした。まあ当然だな。今回のみならず幾度となく異変解決に向き合ってきたのだから。私ほど滅私奉公で清廉潔白な人間もいないだろう。
「ええ、異変の解決のために動いておきながらその片鱗も掴めておらず、解決を目指して幻想郷をあてもなく右往左往するばかり。少なくとも異変に裏で関与している人間ではないことは、貴方を見ていればよく分かります」
「それ、褒めてんのか……?」
抗議の視線をドレミーへと向けるが、当の本人はどこ吹く風。まあ、信頼していると言ってくれるならそれに越したことはないんだろうが。
「で? お前はこの異変の何を知っているというんだ? 早く教えてくれよ」
いつまでも勿体ぶるドレミーに痺れを切らした私は、思わず語気を強めてしまう。ずっと探し続けてきた答えが目の前にあるのではと思うと、どうにも自分が急いてしまっていけない。
そんな私に、ドレミーは不快を露にすることもなく、淡々と話を進める。
「まずは、貴方に合わせたい人がいます」
「合わせたいやつ?」
はてと首を傾げる。こいつが紹介するやつなんて誰だろうか。頭をよぎるのは、綿月の姉妹連中にサグメ、後は鈴仙と同じような服を着た玉兎たちといった月の連中の顔ぶれだ。
確かに、流石の私も月はノーマークだった。しかし参ったな、正直、あいつらのことそれほど得意じゃないんだよな。悪いやつらじゃないんだろうが、どうにも馬が合わないというか、どこか冷たさを感じて好きになれない。
そんな私の杞憂をよそに、ドレミーはぱちんと鳴らす。先ほどのソファのように虚空からにじみ出るように人影が現れた。空中に寝そべるように現れたそいつは、意識がないのか手足がだらんとしており、両手を広げたドレミーの手の中へ吸い込まれるように降りていく。
お姫様抱っこされたまま目を閉じているその顔には見覚えがあった。赤い眼鏡に、紫色のチェックの服。忘れられるはずもないほどのインパクトを持ったやつなのに、今の今までずっと頭から抜け落ちていた存在だった。
私はソファからよたよたと立ち上がる。
「……す、菫子?」
私が突然現れた知人の名を呼ぶと、そいつは目でも覚ましたみたいにゆっくりと目を開ける。寝ぼけ眼で眼鏡を外して目を擦り、小さな呻き声を上げながら徐々に意識を覚醒へと促していく。しばらくすると、こっちを見ている目が大きく開かれた。
「……あ……ま、マリサッチ?」
「お、おう、久しぶりだ……なっ?」
私が言いきるよりも先に、菫子はじたばたと暴れてドレミーの手の中から脱すると、ドレミーに見向きもせずに私の体に抱き着いてくる。暖かく、柔らかい感触が私の体を包む。
「ずっと……ずっと会いたかった!」
「おいおい、泣くことないだろ。まるで子供じゃないか」
私の言葉が届いているのかいないのか、菫子は涙を浮かべながらぐしぐしと顔を私の胸にうずめるばかり。どうしていいか分からず、とりあえず菫子の頭に手を置いて優しく撫でる。
本人いわく、こいつは眠ると幻想郷に来る。その時間もまちまちだからか、タイミングが合わずに菫子と会えないまま過ごす時間も短くはない。今の今まで頭から抜けていたくせに、こうして久しぶりに再会すると懐かしさと嬉しさが勝るのだから現金なものだ。
しかし菫子は、こうして泣きながら再会を喜んでくれている。まるでずっと私と会いたがっていた、永い時を経てようやく会えたというように。それを思うとまた嬉しくなると同時、不穏なものを感じてしまう自分がいる。
「……で、どうして菫子がここにいるんだ? あと、なんで私に引き合わせた?」
顔を私の胸にぐりぐりと押し付けて泣きじゃくる今の菫子とは会話にならなそうだったので、代わりにドレミーへと話の続きを促す。
しかし、私の問いに答えたのはドレミーではなく菫子だった。こいつは私を抱きしめたまま首を上げ、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「そうだ、それより大変なの! こっち……この夢の中じゃなくて、幻想郷の外なんだけど、ウィルスで、みんな倒れて……あの、ウィルスっていうのは、何というか、目に見えないくらい小さな生物なんだけど、それが体の中に侵入して……」
「……なに?」
菫子の言葉はまさに支離滅裂だが、何か、とんでもないことが起こっているのだとその必死さ、剣幕が伝えてくる。ウィルス。倒れる。侵入。何やら不穏な単語が並んでいる。
「それで、ドレミーが私をここに匿って……」
「少し落ち着け。何が何だか分からないぞ」
私は菫子に落ち着くよう促すが、当の本人は「ああ……ごめん、ええと……」と今度は言葉に詰まらせるばかり。一向に進む気配のない会話に、私はドレミーに視線で喋るよう促す。
「そこから先は、私が話しましょう」
「ああ、頼むよ」
「発端はちょうど半年ほど前ですか……幻想郷の外で、ある病が進行していきました」
「病?」
「ええ。病。菫子さんはウィルスと言いましたが、実のところ本当にウィルスの仕業かは分かっていません。日本含め多くの国ではウィルスとされていますが、アメリカの一部の陰謀論者は宇宙人からの侵略だと本気で信じていますし、アフリカでは黒魔術なんて呼ばれることが多いです」
「つまるところ、病なのかすらも分からないと。アメリカ……黒魔術……一体、外じゃ何が起こっているんだ?」
「分かりません」
ドレミーは肩を竦め、ゆるゆると首を振るう。
「分からないって……」
「ともかく、今となってはもうそれは重要ではないんです。誰も、真実を暴くことは出来なかったんですから」
頭の中に疑問が浮かぶばかりで、解決されないまま話が進んでゆく。
そんな私を見かねたのか、ドレミーはまた指を鳴らす。それと同時に、大きな楕円形の物体……姿見らしきものが虚空から現れる。だが、そこに映し出されたのはそれを見ている自分の顔ではなかった。
山のような岩を真四角にくり抜いて作ったかのような建造物がずらりと並ぶ景色。太い通りは土ではなく石で固められている。まるで直線だけで書いたみたいなその景色に、私は見覚えがあった。私と同じものを見ている菫子の体が、ぶるりと震えたのが抱いた手を通じて伝わってきた。
あれは、幻想郷の外。石の大地と鉄の車、そして人に溢れる摩天楼。今まさに私の手の中で震えている菫子が引き起こした、都市伝説異変の際に私は大結界を越えて外へと飛び出し、あの景色を自分の目で見た。
夜でも常に光が瞬き、地上では昼夜問わず多くの人が行き交っている、眠ることのない地。無機質ではあったが確かにそこには人が存在し、ずっと動き続けていた。
だが、今はどうだ。
人の気配はなく、動くものは何もない。ドレミーの出現させた鏡に音を出す機能は無いのかもしれないが、それでも見れば分かる。かつて喧騒に塗れていたあの場所は、今はもう誰も存在せず、風の鳴る音しか響かない空虚な場所と成り果てていた。
その光景を見れば、どれだけの言葉を詰まれるよりもよほど簡単に理解できた。
「つまり……幻想郷の外に人はもう……?」
「全人類が、という意味ではノーですがね。少なくとも、もう人間社会というものは機能してない程度には」
やんわりと、ドレミーは首を振る。閉じられた目からは諦観が滲んでいた。
「自殺、暴動、精神病……ある日を境に、人々の心は荒れ、また人から人へ伝播していきました。それこそ、数か月で都市から人の姿がなくなるくらいに」
言葉にならない声が自分の口から漏れた。眩暈がする。自分は何を伝えられているんだ。
「は……ははっ。そうか、それは大変なことになったなぁ。怖い怖い」
声が震える。こいつの言葉が真実だとは信じられなかった。ただの冗談だと思いたかった。
「魔理沙さん、これは事実です」
「そうなの、本当なの」
ドレミーと菫子、二方向から諭される。荒唐無稽なことを言われているのはこっちなのに、まるで自分が聞き分けのない子供だとでも言われているようだ。私だってこいつらの言葉を信じてやりたいのは山々だが、脳は理解を拒む。私の常識が、理解を拒否しようとする。
「……なら、菫子がここにいるのは……」
「私、ドレミーに助けてもらったの。まだ日本で蔓延し始めたころで、ちょっとずつ、学校の連中がおかしくなり始めて……そんな頃に、私は夢の世界に連れてこられた。それから今日までずっとここにいるの」
今日まで。半年もの間、ずっと。
「そうか……」
どこか気の抜けた声が自分の口から出た。力が抜けて、空を仰ぐ。まるでこの世の終わりみたいな気持ち悪い紫色の空を眺めていると、菫子が話しかけてきた。
「私、ドレミーには感謝してるけど……これで良かったのかな? もっとこう……他の人を助けたり出来たのかな?」
確かに、菫子には超能力がある。人間でありながら、人間を超えた力を持つ少女。それを使えば他の誰かを助けることが出来たのかもしれない。
菫子を見ると、その目には涙が浮かんでおり、まるですがり付くように私の服を握りしめている。そこには、自分が助けられなかったという自責の念に加えて、自分だけがこうして安全圏に連れてこられたという罪悪感もあるのかもしれない。
自分だけが、助かった。偶然にも、外から隔離されたこの幻想郷という場所を知っていて、ドレミーとの接点を持っていたがために、自分だけが助けられた。自分だけが、逃げて、生き残った。
その目は、許しを乞うようにも、罰を求めているようにも見える。
「さあな。お前に何が出来たかは分からんが、まずは自分の命が最優先だろ」
「菫子さんは夢との繋がりが強い。肉体ごと存在を夢に連れてくるなんてこと、そう誰でも出来るものではありません。貴方には何度でも言いますが、私は貴方だから助けたのではありません。私が助けることの出来る人が、貴方しかいなかっただけのこと」
「そうだな。だから生きていることに感謝こそすれど、自分を卑下する必要はないだろ」
「そう、なのかなぁ……」
ほっとしたようにも、残念そうにも見える表情を菫子が浮かべる。
だが、ドレミーが助けられたのが菫子だけというのも仕方のないことだろう。それが出来るのなら既にここは人で溢れかえっているはずだし、菫子が持つという強い夢との繋がりが、あの都市伝説異変で形成されたものなのか、それとももっと以前から持っていたものかは分からないが、そんな人間が幻想郷の外にそう何人もいるとは思えない。それに、ドレミーも幻想郷の他の妖怪と同じように力が衰えているらしいし、理由を挙げればもっとあるのだろう。
「魔理沙さん、この件は幻想郷にも無関係ではありません」
ドレミーがぽつりと呟く。
「……そりゃあ、外の人間が軒並みいなくなれば多少は幻想郷にも何かありそうだが」
幻想郷には忘れ去られたものが度々やって来る。香霖のやつがそれを拾っては売る気もないくせに店に並べているが、果たして外の人間がいなくなったこの状況で、『忘れ去られたもの』は今後現れるのだろうか。
「多少なんてものではありません。大ありです」
ドレミーの目が真剣なものへ変わる。こんな話だ、もとより真剣だったのだろうが、今のドレミーにはやや鬼気迫るものを、有無を言わせず聞かせるという想いを受け取った。だから私は、まだ私の体を掴む菫子を一度引き剥がし、ソファへと座る。菫子は一瞬きょとんとした顔を浮かべた後、やや寂しそうに顔を歪めて所在無さげにソファの背もたれに寄り掛かる。
「知っての通り、妖怪は人の想いから生まれます。恐怖、信仰、探求心……人間には分からず、そして手に負えないものに人は意味を作り、それが妖怪となりました」
「ああ、知ってる」
妖怪の生まれ、外の世界と妖怪の関係、そして幻想郷の成り立ち。そんなことは幻想郷の住人は大体のやつが知っている。人里で生まれれば寺子屋で自然と教わるし、そうでなくても幻想郷で生きていれば自然と耳にする。
ドレミーの言う通り、妖怪は人の心から生まれてくる。嵐を龍神の怒りと捉え、音の反射を山彦と呼び、そして夜の森の恐怖を天狗だと騙った。そうしてこの世に妖怪が生まれ、そいつらは肉体と意思を持った。彼らは人々の噂、ある種の信仰心から生まれたのだ。
しかし科学技術が発展するにつれて、妖怪なんてものは存在しないのだと否定され、信仰は失われていった。
信仰が失われ自身が消滅することを危惧した妖怪たちは、小さな箱庭を作り、その中で生きるようになった。今でも時折外に取り残されていた妖怪や神が結界を越えてやって来る。そうして、今のこの幻想郷で妖怪が生きてきた。
外から切り離されて存在していた、幻想郷。
けど、そうではなかったとしたら。
「ちょっと待て、それってつまり……」
私がたどり着いた予感。ドレミーは首をこくんと頷いて肯定する。
「信仰は、幻想郷の結界を越えて私たちの糧になっていた、ということです」
「そんな……」
それは、ある種これまでの幻想郷観がひっくり返るような話でもあった。
幻想郷の外、そこにはもう信仰も妖怪への恐怖なんてものも無くなってしまったと、そう思っていた。それはきっと私だけでなく、人里の多くの人間がそう思っているはずだ。いや、そうだと教えられていた。
何故ならそのために、幻想郷という地が存在しているのだから。誰もがそう信じ、また親から子へ伝えられてきた。
それが、そうじゃなかった。
「ええ、信仰はまだ失われていなかったんです。その総量こそ大きく減ったものの、まだ人々の中には残っていました」
「けど、元々は信仰が失われていくって前提から幻想郷が作られたんだろ? 守矢の連中だって、それで幻想郷に避難してきたんだ。なのに、外に信仰が残っていて、それが無いと幻想郷でも妖怪が生きられないっていうのは、おかしな話だろ」
「私もそう思っていました。ですが、信仰なんてそんなものです。一人一人は僅かでも、皆、心の中に持っているものだったんです」
「それがあるなんて意識しないけど、しかし確かに存在する。空気と同じようなもんか」
「山の中に天狗がいるなんて誰も思ってないし、神社の奥に神様がいるだなんて誰も信じてない。けれど、墓の前では手を合わせるし、誰でもない神に漠然と祈ることもあれば、正月には神社へ参拝に行く。特定の何かは信じていなくとも皆、漠然と何かが存在していることは理解しているんですよ」
「そういうものか……なぁ」
「誰もが持つ、漠然とした信仰。本来何万何億という人間が持っていたその信仰心が、僅か数か月で失われたんです。そう考えれば影響が出たというのも、つじつまが合うというものでしょう」
以前、菫子から聞いた覚えがある。外の世界の人口について。日本だけで一億、世界で七○億。人里の人口と比べればこっちなんて吹けば飛ぶほどの、絶対的な差。
それが、瞬く間に消えてしまった。
「まあ、そんなことはどうでもいいんです」
「どうでもいいって……」
その事実を、ドレミーはどうでもいいと切り捨てる。
「重要なのは、妖怪の身に起こっている異変と同時期に、外での人口減少が始まったということ。そして今ここに菫子さんがいるということです」
その顔をドレミーがずいと近付ける。宙に浮かんだまま、私のすぐ目の前にまで接近してきて、私は思わずソファの上で顔を仰け反らせる。
「私は、ずっと探していました」
「……誰を?」
「信頼できる人を、です」
ドレミーがその場で跳ねると、寝転がっていた球体がぽんと消える。地面にすたっと直立で降り立ったかと思うと、そのまま頭を下げられる。
「もうその子を外に帰すことは出来ない。けれど、この夢の世界で匿うことだって限界です。どうか、その子をお願いします。守ってあげて下さい」
らしくないその態度に、後ろで立っている菫子を見やる。どうやら菫子も同じことを考えていたらしく、同じように私を見て困惑しているのが伝わってくる。
「おいおい、ちょっと待ってくれ。外で何があったのかは知らないが、人里で大量の死人が出たなんて聞いてないぞ。守ってくれって、一体何から菫子を守れって言うんだ?」
「それは……」
その答えを聞く時間は、私たちにはなかった。
ソファに沈めていた体がふわりと浮かぶ。それはどうやら菫子も同じらしく、空中で手足を振り回しているのがちらりと見えた。
「ごめんなさい、もう時間が無いみたいです」
夢の主が困り顔を浮かべている。
「どうか、その子をお願いします。私にとっても彼女は大事な人ですから」
「ドレミー……ドレミー!」
菫子が叫び手を延ばすが、ドレミーには届かない。ドレミーはその手を握ろうとしない。
「押し付ける形になってしまい申し訳ありません。どうか、良い現を」
その言葉を最後に。
全身を包む浮遊感とともに、意識が飛び去っていった。
§
気が付くと、目の前にはいつもの天井があった。
ベッドから見る天井。長年使いこんだ薄っぺらく固いベッドは私の体に合わせて形を歪めており、目を瞑っていたって感触だけでここが自分の家にあるベッドの上だと分かる。
窓の外から、小鳥の鳴き声が聞こえる。窓の外は木々によって陽の光が遮られて薄暗いが、それでも窓から差し込む陽を見ればおおよその時間が分かるくらいには、この森と家で長く過ごしてきた。どうやらもう昼近くらしい。
「夢……か」
いや、確かに夢ではあるんだが、と自分の独り言に心の中でツッコミを入れる。
ドレミーに招かれて夢へと行き、そこで今起こっていることを聞かされた。それが、単に自分の頭の中だけの夢とは違うことは分かっている。この異変についてドレミーから聞かされたことは、きっと紛れもない事実だ。
私は、隣を見る。
狭いベッドの上、いつの間に現れたのか、私の隣には今もまだ体を丸めて眠りこけているやつがいる。私も小柄な方だと思うが、こうして隣で眠っているのを見ると、こいつもこいつでかなり小柄なのが良く分かる。普段はマントのおかげで無駄に大きく感じるが、それがなければどこにでもいるただの小娘と変わらないように見える。
宇佐見菫子。こいつが私の隣にいることこそが、あの夢が真実であることの何よりの証拠だった。
私が簡素なネグリジェであるのに対し、こいつはさっき夢で見たのと同じ、いつもの紫のチェックの学生服そのままだ。皺にならないかと心配もしたが、その為にわざわざこいつを起こして着替えさせる必要も無いだろう。たださすがに眼鏡を付けたまま寝るのは危険かと思い、赤いフレームのそいつを菫子の顔からすっと取り外し、そこらのテーブルの上に置く。
「魔理沙殿、その子は?」
「ああ、後で話す」
男の持つ独特な低い声。私と縁のある男なんて香霖くらいだが、当然ながらあいつは私と違って朝っぱらに乙女の花園に勝手に入り込むような不埒な輩ではない。声の主は別の、いまやすっかり同居人と化した蛇龍のものだ。龍に性別があるのか、実のところそれもよく分からないが、こいつの声や喋り方はどう聞いても男の、それも紳士然としたそれだから、多分オスなのだろう。
私は適当に返事をして、ネグリジェを脱ぎ捨ていつもの魔女っぽい服に着替える。蛇龍のやつがオスだとしても、人間でもなければ姿形も人間とは大きくかけ離れた存在に肌を見られたところでなんとも思わないし、当のあいつだって蛇用の服なんてあるはずもなく常時全裸みたいなもんだ。気にすることもない。
髪を手櫛でぐしぐしと直しながらキッチンへと行き、食糧棚を開く。……くそっ、碌なものがない。焜炉の上にある鍋は自分が空でないことを匂いでこれでもかと主張しているが、自分で食うならともかく菫子に食べさせられるようなものではないためスルー。溜め息をついて食糧棚に残っていたねずみの死骸……もとい干し肉の尻尾を摘まんで取り上げる。
無論、自分で食うためのものではない。ねずみなんざ毛皮と骨ばかりで食えたものではない。
「ほらよ」
私は尻尾を持ったままねずみを振り回し、そのまま蛇龍へと放り投げる。放物線を描いて飛んだねずみは、ぱかりと開いた蛇龍の口へと飛び込んでそのまま丸呑みにされた。
こいつも、玄関で倒れていた頃に比べれば元気になったものだ。一時は他の妖怪と同様、妖力が失われて動けないほどにまで衰弱していたが、キノコから抽出した魔力汁を飯に混ぜたことで、それなりに飛んで喋ることが出来る程度には回復した。味はお気に召さないようだが。
しかし、これはあくまで代替手段。魔力と妖力は似ているようで違う。いつまでもこんなもので誤魔化せるわけではない。ましてや人間でもない動物の肉なんて、妖怪にとっちゃ微々たるものでしかない。
すっかり変わってしまったこの幻想郷、妖力を補給するには現状ではオカルトボールの付近に留まるしかないわけで。私としてはこんな辺鄙な場所じゃなくて博麗神社かどこかオカルトボールのある場所に暮らせばいいのにと思うのだが、こいつは私の家……私の元から離れるつもりはないらしい。
なら、久しぶりに博麗神社でも行って飯をたかりにでも行くか。菫子のことやドレミーから聞いた外で起こっていることもあいつに伝えておきたいし、博麗神社にはオカルトボールがあるから少しの間でも滞在していればこいつの妖力の足しになるだろう。
「ほら、起きろ菫子」
名前を呼ばれた寝ぼすけは、「う~ん」なんて可愛らしい呻き声を上げながらもぞもぞと動いてベッドを占拠する。郷に入っては郷に従え。この家では私がルールであり、そいつに従わないというのなら叩き起こすのもやぶさかでは……なんて考えていると、蛇龍のやつが菫子へと顔を近づけ、その細長い舌で菫子の頬をちろちろと撫でる。
「う、ううん……」
「小娘、起きんか」
菫子は蛇龍の舌から逃れようと寝返りを打つが、それで逃がす蛇龍ではない。その細長い体を菫子の上で波打たせ、執拗に顔を舐め続ける。
「……んあ? ……うわぁ蛇⁉」
「ふん、ようやく起きたか」
「シャァベッタァ!」
蛇龍に驚いてベッドの上で跳ね起き、そのままベッドから落下しホコリを舞い上げる。起きたら起きたで騒がしいやつだ。
菫子は頭を手で押さえながら、周囲をきょろきょろと見渡す。
「あれ、何ここすっごく散らかってて汚い……ここどこ?」
「人のベッドで寝ておいて随分な言い草だな」
「あ、マリサッチ……じゃあここはマリサッチの家? ……私、やっと幻想郷に来たんだ」
どこか懐かしむみたいに見慣れてないであろう天井を眺めながら、菫子がそっと呟く。
こいつ、外での異変が起こってからずっと、夢の世界に囚われていた。あれほど憧れていた幻想郷へ、その長い間来ることが出来なかった。異変でなければ、単に長らく幻想郷とご無沙汰だったというだけのことであれば、こいつも飛び跳ねて喜んでいただろうに。状況が状況だから迂闊に喜んでいいのかも分からないのだろうか。
などと考えていると、お勤めを終えた蛇龍が私の肩へとにゅるりと戻ってきた。
「さ、さっきの蛇⁉ マリサッチ蛇飼ってるの⁉ 信じらんない!」
それを見た菫子が素っ頓狂な声を上げる。
「別にこいつはペットでもないんだがな……」
「私を蛇などと矮小な生物呼ばわりするな。私は龍であるぞ」
菫子の言葉を侮辱と受け取ったのか、蛇龍は翼を広げて自分の存在をアピールする。元気になった今ならその翼で空も飛べるだろうが、どうやらこの蛇龍は元居た空に帰る気もないらしい。奇妙な同居人からすっかり私の相棒みたいなポジションに居座っている。私も悪い気はしないが。
「龍⁉ それって……凄い! ドラゴンなんて初めて見た!」
さっきまでは蛇に怖がっていたくせに、こいつが龍だと分かった途端に目を輝かせている。その変容っぷりにさすがの蛇龍も「お、おう……分かればよいのだ」と戸惑っているのが分かる。魔女でもない菫子に蛇と龍の違いが分かるのだろうか。
「まあいい。とにかく、出かけるぞ。準備しろ」
「出かけるって、どこに?」
「博麗神社。お前も、霊夢に会いたいだろ?」
あいつの名前を出すと、菫子の顔に笑顔が咲いた。しかしすぐに真剣な顔になる。あいつは、菫子にとって友人であり恩人でもある。外の世界がこんなでなければ、それこそ先ほど見せてくれた笑顔のまま博麗神社に向かえただろうに。
「ほら、とっとと仕度しろ。眼鏡ならテーブルの上だぞ」
私はいつもの帽子を手に取り、そのまま頭に被せようとするが、しゅるりと蛇龍のやつが手慣れた様子で私の頭と帽子の隙間へと滑り込んでくる。どこか散歩前の犬を思わせるその仕草に、私はくすりと笑ってしまう。
さて出かけるか……と箒を手に取ったのと同時。
こんこん、と扉を叩く音が響く。
「……また影狼か?」
私は菫子に洗面台の場所を伝え寝癖でぼさぼさの髪をどうにかするよう伝えてから、玄関へと向かう。「ふぁい」と間の抜けた菫子の返事が聞こえてきた。
ごんごん、とまた扉が鳴る。今度はノックの感覚が短くなり、まるで急かしているようだ。随分とマナーのなってないやつが来たらしい。
「今出るよ」
いったいどこのどいつが……なんて思いながら扉を開くと、そこには見慣れた顔があった。
赤い巫女服に黒い髪。手に握られたお祓い棒の先端が風に揺られている。見間違うはずもない、その姿は。
「れ、霊夢?」
いつも博麗神社で箒を握っているか畳の上で寝ころんでいるあいつが、私の家を訪ねていた。普段、霊夢が私の家を訪ねることなんて滅多にないから、やや面食らってしまった。
だが、都合が良い。
「ちょうどよかった。お前に合わせたいやつがいて今から博麗神社に行こうと……」
「菫子、いる?」
「あ? ……ああ、いるけど」
私の言葉が霊夢に遮られる。どこか有無を言わせないその言い方に、咄嗟に肯定してしまう。だが、すぐにその違和感に気付く。
「待て、お前……なんで菫子のこと、知っているんだ?」
そうだ。ドレミーは私に菫子を託したんだ。あんなに警戒して私の行動まで観察しておいて、霊夢にも話していたなんてことがあり得るだろうか。もし伝えていたのなら、私じゃなくて霊夢に菫子を託しているはずだ。私なんかより、よっぽど強いんだから。
「そんなこと、別にいいでしょ。ここにいるのは知ってるんだからね」
有無を言わせようとしないその言い方に、心に宿った違和感は疑念へと変わる。
私が扉の前にいるというのに霊夢は家の中に入ろうと迫ってくる。強引というか人の話を聞かずに踏み入ろうとするその行為こそいつもの霊夢だが、私にはどこか切羽詰まっているように見えた。
「おい、ここは私の家だぞ。勝手に入るな」
「何よ。あんただって勝手に神社に来るでしょ。何が違うのよ」
何が違うかと聞かれれば、間違いなくお前の態度がだろうに、それに気付いているのかいないのか、霊夢は私を押しのけてでも入ると言わんばかりだ。
霊夢は一歩を踏み出そうとするが、私がミニ八卦炉を手に構え霊夢に突き付けると動きを止める。
ミニ八卦炉。触媒と魔力を注ぐことで、自在に火と光を放つことが出来る。鍋を沸かすとろ火も、山一つ薙ぎ払う炎も、闇夜を照らす灯りも、そして……相手を穿つレーザーだって思うが侭の、宝物であり武器を、あいつに突き付ける。
『どうか、その子をお願いします。守ってあげて下さい』
ドレミーの言葉が、頭をよぎる。
まさか守るって、こいつから……?
霊夢はミニ八卦炉をじっと眺め、それから私の顔をじっと見る。多分、今の私は恐れと敵意を隠せていない、引きつった顔をしているんじゃないかと思う。自分が今どういう感情なのか、自分ですらよく分からない。
ただ、私のこれを霊夢は敵対と受け取ったのだろう。手に握られていたお祓い棒をゆるりと構える。ここで訂正の一つもしないあたり、霊夢もそのつもりでここに来たのだろう。
「マリサッチ、ドライヤーとかある? 髪、乾かしたいんだけど」
「ばっ、馬鹿お前、こっち来るな!」
後ろから呑気な声が聞こえてきて、思わず振り返る。振り返ってしまう。
それを見逃すほど、あいつは呑気でも愚鈍でもない。
霊夢は私の腹を蹴り飛ばす。その細い足のどこにそんな力があるのか、私はごろごろと転がって家の中に叩きこまれ、テーブルの脚に背中からぶつかる。積まれていた本がテーブルからばらばらと落ち、床の上で音を立てる。
「あ、え……レイムッチ?」
菫子のとぼけた声と同時、霊夢が土足のまま部屋へと帰ってくる。右手にはお祓い棒、左手には御札。あいつのあれ以上ない臨戦態勢だ。霊夢を止めようと立ち上がろうとするが、蹴られた腹に痛みが走り床に倒れてしまう。首を動かすと、真っすぐに菫子を見据える霊夢と、それとは対照的に一目で混乱していると分かるほどに視線をあちこちに向ける菫子。
逃げなければ。
「お前の好きに……させるかよっ!」
私は、テーブルの裏に向けてミニ八卦炉を掲げ、籠めた魔力を爆発にして放つ。蹴飛ばされた時に箒もミニ八卦炉も手放してなかったのは幸運だった。ミニ八卦炉から放たれた爆風はテーブルを上に載っていたものごと吹き飛ばす。テーブル、本、薬品入りの試験官が宙を舞う。
薬品入りの、試験管。
試験管は床に落ち、ぱりんと割れて中の液体が漏れ出す。それも一本二本ではなく、合計十本もの試験管の中にあった色とりどりの液体が、床の上で触れ合う。
それと同時、ぼしゅうという音とともに白い煙が爆発かのように立ち込める。混ざり合った液体が反応して気体となり、部屋の中に充満し、視界が白で埋め尽くされる。
私はそこらに落ちていた布切れで口を覆い立ち上がる。吸い込んだところで大きな害のあるものではないが、念のため。既に白一色となった家の中で、直前に見た光景、その記憶を頼りに霊夢へタックルをかまして押し倒し、菫子の手を掴んで玄関へと走る。
半開きだった玄関の扉を肩で殴るように開き、外へと飛び出す。後ろで菫子がえほえほとむせているが、背中をさすってやる余裕はない。
「飛ぶぞ、掴まれ!」
走りながら箒にまたがり、菫子を私の背中に乗せる。私の腹に菫子の廻した手の感触を抱くと同時、私は地を蹴り森を翔ける。加速感が体を包み、小刻みに箒を操りながら木々の間をすり抜ける。一歩間違えば木に衝突するか蔦に引っ掛かって盛大に投げ出されるだろうが、今はそれよりもこの場を離れたかった。
「ねぇ……私、レイムッチに嫌われるようなこと、したかな?」
「そんなわけねぇだろ」
森を縫うように飛びながらも、菫子の世迷い言を私は切り捨てる。
「あいつが誰かを嫌いになった程度で、あんな敵意を剥き出しにして襲ってくるはずがない」
「随分と、きっぱり断言するのね」
「ずっと、見てきたからな」
森を抜ける。朝日は昇り始め、秋の日差しが私たちを照らす。相変わらず、空はいつも青く澄んでいる。
「ねぇ、どこへ行くの?」
「決まってるだろ。まさかあいつが、腹の虫の居所が悪いから私の家を襲ったと、本気でそう思ってないだろうな?」
「それは……」
そうだ。
震えながら私の背中を掴むこいつを、霊夢が伊達や酔狂で誰かを、それも人間を襲うはずがない。都市伝説異変は既に終わっていて、霊夢が私怨で菫子を攻撃する理由なんてどこにもないはずだ。あいつにとって、菫子もまた数少ない友人のはずなのだから。
こいつが異変の張本人だと思っているのならあの態度も分からなくもないが、それは違うと思った。それは直感だ。あいつの神がかった直感を信じる、私の直感。あいつが迷いなくとんでいるのなら、大抵その先に元凶がいる。だから、あいつの勘が鈍ったんじゃなく、明確な根拠か理由があって襲ってきたはずだ。
根拠か理由。あの霊夢がこれをやるだけの何か。あるいは……あの霊夢にこれをやらせた、誰か?
誰がやらせた? 本人の意思でないとするならば、一体誰があいつに、菫子を襲わせるなんてことを命じた?
そんなのは決まっている。
あいつを動かせる存在なんて、この世にただ一人。
箒を掴む手に力が篭もる。ぎりと柄がきしむ。森を抜け、木々という障害物がなくなった今、私を遮るものは何もない。
「飛ばすぞ」
菫子の間抜けな「え?」という声よりも早く、私は箒に魔力を込めて速度を増す。空気の壁が厚くなり負けてそのまま吹き飛ばされそうになるが、姿勢を低くして堪えながらも速度は落とさない。
(くそが、こんなの許せるかよ)
怒りがこみ上げる。
あいつにあんなことをさせておいて、何が幻想郷の賢者だ。一発殴ってやらなきゃ気が済まない。
八雲紫。
あいつにこんなことをさせられるのは、紫を置いて他にいない。
紫が、あいつにそう命令したに違いない。