箒に乗ってマヨヒガを駆け抜ける。しんと静まり返ったこの場所に、ごうと風が吹き荒れる。
あんな異変がある中でも、マヨヒガは変わらず猫の楽園だった。オカルトボールは置かれていないので妖怪は寄り付かず、そもそも人間が寄り付くような場所でもない。あちこちに猫が寝転がっているが、風の唸り声と一緒にやって来た私を見るや否や一目散に逃げていく。日は暮れ始め、やや朽ちながらも並ぶ家々はどこも灯りが点々と灯っているが、マヨヒガとは本来そういうところであり、あの家の中には誰もいないことを私は知っている。
ここだけが、異変の影響の一切を受けていないようだった。
そんな場所に、私が土足で踏み込んで静寂を荒らしている。異変の種を持ち込んでいる。
だが、今はそんなことを気に掛けてはいられない。そんな気分に、私がさせてくれない。
「おい、化け猫! いるんだろ! 出てこい!」
私は箒の出す唸り声に負けぬよう、声を張り上げる。猫がまだここに残っているなら、きっと橙のやつがいるはずだ。あいつはここに住んでいる猫どもの親玉のようなものだから。
あの化け猫なら、どこにいるかも分からない神出鬼没のあの女、オカルトボールをばら撒いてからずっとだんまりのあの女の居場所を知っているはずだ。そうに違いない。
「マリサッチ……ここに何があるの? 私、お腹空いたかも」
「……」
菫子のぼやきを私は黙殺する。
こいつはここに来るのは初めてだったか。こんな状況じゃなければ、ここはピクニックには良い場所なんだが。
こんな状況で、なければ。
ずっとそんなことを考えてしまう。私だって腹は減ってるし、休めるのなら箒から降りて一息付きたい。霊夢と境内で駄弁りたい。菫子だってそう思っているはずだ。別に我儘とかじゃなくて、軽い雑談のつもりで言ったのだろうに、それに反応してやる余裕すら、私にはない。
……ほんと、なんでこんなことになってるんだよ。つい最近まで平和な幻想郷だったのに、いつからこんな殺伐としなければならないんだ。あいつから逃げなきゃならんのだ。
愚痴の一つでも喚いてみんな投げ出してその場に寝っ転がってしまいたいと、半ば本気でそう思う。
だが、止まればあいつが追い付いてくる。私たちはあの女の行方を追うのと同時、あいつから逃げているのだから。……だから菫子、今は我慢してくれよ。あいつを殴って、お前の目の前で謝らせてやるからな。
「……っと、見つけた」
ちらりと。
視界内の民家の一つ、茅葺屋根の上に仁王立ちしているやつがいる。その付近には沢山の猫の目が夕日を反射しこちらを睨んでいる。そいつの尻から伸びる二本の尻尾を見れば、怒鳴ってきたのがただの人間ではなくお目当ての化け猫だということは一目で分かった。
「お前、どういうつもりだ! 勝手にマヨヒガに入ってきて好き勝手暴れるなん……て……」
大層ご立腹なのか、仁王立ちで威勢の良いことをいうが、それで止まる私ではない。箒を握る手に力を籠め、体勢を低くして速度を増すと、その威勢の良い言葉がひくついて途切れた。
「……あ、こ……こっち来るな!」
「遅い!」
化け猫とその取り巻きが屋根の上から逃げるよりも早く、私は化け猫のその首根っこを捉えて空へと舞い上がる。突如空中に飛び上がった橙は驚きと衝撃で碌な抵抗も出来ず体をぶらんとさせている。私の目にその顔は映らないが、きっと何が起こったのかも分からずとぼけた顔を浮かべていることだろう。
橙を振り回しながら空中で旋回、そのまま速度を落としながら地面へと降りる。振り回されて目を回している橙を掴んでいた手を離すと、そいつは地面に尻を強かに打ち付け、「にゃっ」という悲鳴を上げた。
「お……お前! いきなり何すんだ!」
橙のごもっともな抗議の声。それに対し私が謝罪の言葉代わりにミニ八卦炉を突き付けると、生意気な化け猫はひくっと喉を鳴らした。黙ってくれるとこちらとしても話が早くてありがたい。私はとっとと本題を切り出した。
「八雲紫を出せ」
「ゆ、紫様を?」
「ああ、お前の御主人様だか御主人様の御主人様だか知らんが、あのスキマ妖怪をここに連れてこいって、そう言ってるんだ、私は」
「だ、誰がそんなことするか……」
私とミニ八卦炉から顔を背けながら、殊勝な態度を目の前の式神が見せる。……やれやれ、私は別にお前やその主人に危害を加えるつもりはないというのに。どうも私は危険なやつとこいつに認識されているらしい。
「なら、お前を痛めつければ親御さんが出てくるかな?」
だが、逆らうというのなら話は別だ。今、私は気が立っているんだ。お前を殴ってでも情報を吐かせるつもりだぞ。
地面に倒れる橙の胸倉を掴み、地面に押し付ける。人の子供のそれを変わらない薄い胸板、体の軽さを感じながら逆の手で拳を握りしめ、そしてその長い髭の生えた頬へ躊躇なく思いっきり振り下ろす。橙が「ひっ」という声とともに目を瞑るのと同時、
「……ダメっ!」
私の腕が空中にぴたりと止まる。まるで糸で固定されたかのように、力を込めても腕は僅かに振るえるばかりで橙を殴ることも拳を下ろすことも出来ない。辛うじて指を開くことが出来る程度だ。
この感覚、金縛りにも似た虚空に縫い付けられるような感覚には覚えがあった。
菫子の超能力。念動力とかいう名前だったか、手で触れずに物を動かしたりする力。それで私の動きを封じているらしい。首を菫子へと向ければ、想像通りこちらへ両手をかざしているあいつの姿があった。その顔は必死の形相で、涙まで浮かべていて……私が、こいつにそんな顔をさせているのか。
「邪魔すんな!」
だが、今は止まることなんて出来るわけがない。一度は冷静になりかけた頭に鞭打ち、僅かに湧いた罪悪感をも押し殺して、私は菫子を怒鳴りつけた。どうにか体を動かそうと身じろぎするが、体が沼に沈んでいるかのように動かない。
「ダメよ、こんなの……上手く言えないけどさ、そんなこと……小さな女の子をいじめるみたいなこと、していいはずがないよ……」
「今は綺麗ごとなんていらないんだ……痛っ⁉」
菫子に気を取られたその隙に、橙の胸倉を掴んでいた私の腕に鋭い痛みが走る。
それと同時、橙が私の下から飛び上がり、そのままぴょんぴょんと目にも留まらぬ速度で跳ねながら距離を取る。
痛みを発する腕を見ると、一筋の傷から血が滴っている。それが、橙の爪によって付けられた傷であることは自明だった。私が菫子に気を取られたその隙に、橙はその爪で私の腕を斬り付け、指から力が抜けたその時を狙い私の拘束から脱したらしい。
橙のやつはまるで猫のように、口から肺の空気を目いっぱい使って威嚇の音を吐き出している。さっき屋根の上にいたこいつを捕まえることが出来たのは、『まさか出会い頭に突っ込んでくるはずがない』という橙の思考の隙をついてのことだ。毛は逆立ち爪は伸び喉は唸り、明確な臨戦態勢を取るこいつをもう一度組み伏せるのは手間だろう。弾幕ごっこでこいつに負けるとは思っちゃいないが、逃げに徹されたら話は別だ。
それに何より、こうして菫子に動きを封じ込められた今、そもそも私には動くことすら出来ない。
「ちっ……」
思わず舌打ちが出る。
こうなってしまってはどうしようもない。菫子へ視線を送り、矛……もとい力を収めるよう促す。菫子は私のことを信じられないとでも言わんばかりに訝し気な視線を向けている。
「おいおい、なんだその目は。私のこと、信用出来ないか? 私はお前を助けるためにやっているんだぞ?」
「話して」
私は菫子の警戒心を解こうと言葉を並べるが、しかし菫子は私へ向けた手を下ろそうとはしない。目尻に涙こそ残しているが、それでも力を緩める気はないらしい。……日常を装うと、下手に軽い態度で言ったのがお気に召さなかったらしい。
「ちゃんと、全部話して」
話して。
その言葉の意味が分からない私ではない。私は自分の家であいつに襲われてから、こいつを連れて逃げだし、このマヨヒガで橙を捕まえるまでの間、私は菫子へ碌に現状を話さなかった。その理由は単に私には話している余裕も無かったというのもあるし、紫が真犯人だという確証も無いというのもあるが、一番の理由はこいつに伝えていいか分からなかった、というのが大きい。
菫子にとって友人であるはずの霊夢がいきなり家にやってきて、お前を出せと言ってきた。それも臨戦態勢で、私が断れば無理矢理に踏み入ろうとしてくるくらいには、あいつは殺気立っていた。それを安易に菫子へ告げていいものか、私には分からなかった。それを言えば、霊夢と菫子の関係は壊れてしまうだろう。……いや、単に逃げていただけかもしれない。自分の中で色々理由を並べて、菫子に言うのを後回しにしていた。自分じゃない誰かが、自分の代わりに言ってくれるのを。だってそうだろ? 言ったら菫子が傷付くのが分かっていて、わざわざ自分から言いたがるか? それが出来るほど私は図々しくはない。
だが、菫子も菫子で強情なやつだ。私が何か言ったところで自分が納得するまでその手を下ろしはしないだろう。その力を私に使い続けるのだって、いつまでも出来るものじゃないだろうに。
「……分かった、分かったよ。ちゃんと話すから。……おい、そこで唸っているお前は逃げるんじゃないぞ、まだ用は終わってないんだからな」
両手を上げるジェスチャーの代わりに、ひらひらと両手の指を動かす。橙は爪と唸り声を収めてくれたが、菫子はまだ私を離してくれないらしい。やはり私が話さないといけないらしい。
「なんだ、その……」
口を開き、それを言おうとして、言わなければならないと分かっていながら、それでも口籠ってしまう。あの菫子の反応を見るのが怖かった。
「あいつは……」
ええい、何を生娘みたいに怖じ気づいているんだ! 私が言わなくたって、菫子もどうせいつかは知ることになろうだろう。だったら、今伝えても同じだろうが!
「あいつは、お前を……」
声を、勇気を振り絞る。言いたくない気持ちを抑え、私は口を紡ぐ。
しかし、それを伝えるのは私の役目ではなかった。私は言うことすら出来なかった。
「まだ分かりませんの? 霊夢は貴方を殺そうとしたのよ。私の指示で」
あっさりと。
私よりも先に言われてしまった。私が言うのを躊躇った答えを、そいつはあっけらかんと言った。聞き覚えのある胡散臭い女の声だった。
重い首を動かし、その無礼な声が聞こえてきた先を見れば、予想通り紫のやつがいた。空間を切り裂いたみたいに虚空にぱっくり開いたスキマから、上半身だけ出してスキマの縁にもたれ掛かっている。相変わらずの、胡散臭い笑みだ。
「紫……さん?」
菫子の声が聞こえると同時、私の体が唐突に金縛りから解放され、踏鞴を踏みながらも体勢を立て直す。紫の登場に驚いて力を解いてしまった、というところだろうか。
「よお、まさか黒幕が自ら出てきてくれるなんてな。こういうの、外じゃなんて言うんだっけ……死亡フラグってやつか?」
私は紫に話しかける。……お前に聞きたいことは山ほどあるんだ。まさか顔だけ出して帰るなんて言わないよな?
「黒幕だなんて……失礼しちゃう。むしろ私は正義の味方よ? それを貴方、まるで私が悪みたいに言うだなんて、傷ついちゃうわ」
「お前が? 正義の味方? なんだ今日は随分と饒舌だな。真犯人というのは、決まって口数が多くなるもんなんだよ」
「現実と小説を混同するのは良くないことよ?」
牽制がてら自称正義の味方とそんな会話をしていると、紫の後ろでスキマがまた一つ開き、中から霊夢が飛び出してくる。空中でくるりと一回転してすたっと紫の隣に降り立ったあいつの手には、お祓い棒と御札が握られていた。最後に私の家で見た時と変わらない。
私は菫子とあいつら二人の間に立ち塞がるように動く。それを見てあいつは紫の前に立つ。奇しくも私とあいつが睨み合う形となった。……霊夢のやつ、すました顔しやがって。菫子と私を襲っておいて、なんとも思ってないってか?
「それじゃ、出てきてくれたついでに教えてくれよ。どうして菫子が殺されなきゃならんのか」
「何故、私が貴方にそんな親切を働かなければならないの?」
ついさっきは簡単に答えてくれたのに、今度はあっさりと私の言葉に逆らってくる。相変わらずよく分からないやつだ。
紫は懐から扇を取り出し、私に突き付ける。
「貴方は橙を、可愛い可愛い私の式の式を傷付けた。そのことに私が怒っているとは思わない?」
その言葉の割には、顔は笑顔で声も笑っており、怒りを感じさせるような仕草はない。にも拘わらず、その笑顔に私は気圧される。言葉通り橙を傷付けられて怒っているのか、それとも私が菫子を連れて逃げていることに怒っているのか、あるいはそもそも怒ってすらもいないのか、私には分からない。あいつほど表情が当てにならないやつを、私は知らない。
「ゆ、紫様……」
「可哀そうに。おいで、橙」
橙はとことこと歩いて紫の後ろに回る。怯えて飼い主の陰に隠れる猫そのものだった。
私が紫を睨むと、霊夢が睨み返してくる。にこやかに微笑む紫と、その影に隠れている橙。空気が停滞する中、それを破ったのは菫子だった。
「私は、知りたい」
気圧される私を、その声が奮い立たせる。あの紫に対峙してなお、菫子は臆していなかった。
「それは、冥土の土産に……とでも言いたいのかしら」
「そんなんじゃない、けどさ……」
言葉を選ぶように、菫子はぽつりぽつりと紡いでいく。
「やっぱり知りたいの。外で何が起こっているのか、ここで何が起こっているのか、どうして私が殺されなければならないのか。そこに謎があるのに、それが分からないままなんて……なんというか、納得いかない」
「貴方、自分が殺されると分かっていて、それなのに命乞いの一つもしないのね。もし知的好奇心だけでそれを言っているのなら、いっそ病的でもあるわ」
「別に、殺されたいって、殺されてもいいなんて言うつもりはないわ。私だって死にたくはない。でも……だったら、私を殺すって言うんだったら、せめて私を納得させてよ。私を殺すって言うんだったら、せめてそのご大層な思惑の一つでも教えてよ」
強いな。
涙を浮かべて足を震わせながら、それでも一丁前に大妖怪である紫に啖呵を切る菫子を見て、私はそう思った。誰よりも喧嘩沙汰に慣れてない癖に、臆している癖に、それでも退くことはしない。秘封倶楽部だか何だかは良く知らないが、こいつは秘密や謎を楽しんで暴きたがるやつだった。そんなやつが、分からないことを目の前にして黙っていられるはずがなかった。
紫は開いた扇で口元を隠す。僅かに見える目は私、そして菫子を見定めるようだが、ここからでは口元は見えずその感情を読むことが出来ない。
私は、霊夢を見る。
あいつはここに現れた時と何も分からず、御札とお祓い棒を握りしめてただ無言で私と菫子を見ている。いまだに、あいつが菫子を襲ったなんて信じられない……いや、信じたくはない自分がいる。それと同時に、あいつへの怒りも。
……なんでお前は、そんなやつの、そんな命令に従ってるんだよ。お前はもっと、自由なやつじゃ無かったのかよ。
こほん、という咳払いが聞こえて意識を紫に戻される。
「外の世界で何が起こっているか、もう知っているのでしょう?」
「ああ」
端的に肯定する。ドレミーから、あるいは菫子から十分に聞かされたよ。外で何が起こっているか。どうして幻想郷の妖怪がどいつもこいつも具合が悪そうにしているのか。そしてどうして、菫子がここにいるのか。
それらは一つに繋がっていて、そして幻想郷の……いや、外も含めたこの世界そのものの存続を揺らしかねない危機、異変だ。
「もしかして、外の世界で起こっていることと今の私に、何か関係があるの?」
「もちろん……と言いたいところですけど」
紫が言葉を濁す。
「先に言っておくけれど……残念だけど、外の世界が何でああなったのかは、私にも分からないわ。少なくとも、あれはたかが私程度、妖怪や神の一人二人が頑張ってどうにか出来るものじゃない」
「お前でも分からないことがあるんだな」
茶化してみるが紫は残念とでも言いたげに首を振る。どうやら本当に紫も分からないらしい。
「外にある、あらゆる研究機関が満足に研究出来ないまま機能不全になってしまったから。十分な時間と人員があれば原因も分かったかもしれない。けど、あれはあまりにも……侵攻が早すぎた」
「確かに、どこかのテロリストが世界中で同時に事を起こした、なんて話もあったけど……」
「所詮、私は科学者じゃない。私が出来ることなんて、せいぜいが外の情報を拾ってくることくらいだから。……話が逸れたわね。今となっては原因なんて重要じゃないの」
紫はゆるゆると首を横に振る。重要じゃない。ドレミーもそんなことを言っていたな。だったら何が重要なんだろうか。外の世界で人類が絶滅の危機に瀕している。幻想郷の人里じゃあそんな病だか黒魔術だかは起こってないから、遠い異国の話でも聞いているような気分になるのは分からないでもないが……だとしても、それより重要なことなどあるのだろうか。いつ、こっちにウィルスだかがやって来るかも分からないというのに。
「もう、この世界は駄目だということよ。この世界は沈みゆく船で、この幻想郷はそれに巻き込まれようとしている。私たちは一刻も早く、この船から脱出しなければならない。船が沈む原因なんて、そんなことを調べている時間も惜しいの」
「おい、待てよ。また話が壮大になってきた」
どいつもこいつも、世界だのなんだのとそんな言葉を軽々しく使わないでほしい。頭が痛くなってくる。
紫が言う通り、外の世界はもう駄目らしい。外の世界の景色を一度でも見れば、それが嫌でも分かる。夜でもあれだけ明るかったはずの外はもうどこにもない。外にあるのは、ただの空虚だけだった。
空を見やる。
そこは、何も変わらない、いつもの空がある。日の沈み始めた、いつもの美しい空。しかしその下は、この地上はこんなにも変わってしまった。
「外の人間がいなくなって、妖怪が次第に弱っていって……それは分かってるんだ。問題は、どうやってそれを……」
「待って、つまり……そういうこと?」
私の言葉を遮って、菫子が呟く。私にはまだ見えていない真実に菫子は気付いたはずなのに、その顔は喜びよりも困惑が強かった。有り得ないと、その考えを誰よりも信じられていないのは他でもない菫子自身のように見えた。
そんな菫子の姿を見て、紫が意地の悪い笑みを浮かべる。
「さすが、幻想郷を見つけただけのことはある。外の子は発想が柔軟ね。素晴らしいわ」
「でも……そんなことが本当に出来るの?」
「出来る。やらなければ、この幻想郷に未来はないわ」
「だからってそんな……映画か漫画みたいなことを……」
「おい待てよ。勝手に話を進めるな。一体何がどうなっているんだ」
二人で盛り上がるのは結構だが、せめて分かるように話してほしい。
「ああ、ええと……」
菫子はこちらと紫を交互に見やる。話していいか迷っているらしいが、紫は菫子に言葉ではなく表情で答える。にこりとした笑みに安心した菫子は、ゆっくりと話し始める。
「ええと、正直言うと、本当に合っているか分からないんだけど……」
「構わない。お前の推理、聞かせてくれよ」
「うん、ええと……」
菫子は、おずおずと話し始めた。
「マリサッチは……多元宇宙論って知ってる?」
「……は?」
多元……宇宙論?
そこから菫子が話し始めたのは、こんな小さな世界、幻想郷という箱庭で生きてきた私には到底及ぶはずのない現実だった。少々のことでは驚かないつもりだったが、私の予想を超えた理屈に、油断すると思考を放棄しそうになった。
「私もオカルトレベルの知識しか知らないんだけど、私たちのいる地球が存在する宇宙以外にも、複数の宇宙が存在するっていう考え方なの」
「……あれか? いわゆる……いろんな似たような世界がたくさんあるっていう……」
「平行世界」
「そう、それだ」
何が『それ』なのか。自分で言っておいてその言葉が持つ字面以上の意味を、私は知らない。
「この世界の外にはさまざまな世界が同時に存在している。可能性の数だけ存在しているとも言われれば、その世界は物理法則から何もかもが違う世界かもしれない。そんな世界が、私たちの世界の隣にある……かもしれない」
「かもしれないって……そこまで言っておいてお前……」
「仕方ないじゃない……私だって、平行世界なんてそんなの漫画か英語くらいでしか聞いたことないもの……物理学者のトップですら、あくまであるかもしれないって言ってるだけの、私からしたら都市伝説か夢物語と変わらないんだから」
そう答えた菫子は、話せば話すほど自信がなくなっているようにも見える。まあそれも当然か。こんな話、言っている本人が一番信じられないだろうに。
「それで……その多元宇宙とやらがなんだってんだよ」
私は紫の顔を伺う。いつも通りの胡散臭い笑みのおかげで、この話全てが嘘だったのではないかと思えてきてならない。嘘だと思いたい。
「ほら、この世界はもう人がいなくなりつつあるじゃない? だから……」
「察しが悪いわねぇ魔理沙は」
言い淀む菫子を遮って、紫が話し出す。自分の想像力の乏しさを非難されているようで少々癪だ。
「多元宇宙論。その言葉が出ただけで、貴方の推測は正解だと言ってもいいわ」
「やっぱり……そうなんだ」
「正解なのに、あんまり嬉しそうじゃないわね」
「そりゃあ……嬉しくは、ないわよ。複雑な気分。もしくは単に私が追い付いていないだけ」
「ここまで気付ているなら十分よ。あっちの子よりもね」
あっちの子ってのは……私のこと、なんだろうな。……ああそうだよ私はどうせ学もないやつですよだからやはやく私に分かるようにとっとと説明しろ。
その無言の願いが聞き届けられたのか、紫は私の方を向いてばっと手を振り上げる。
そして、まるで宣言でもするかのように高らかにそれが発された。
「この世界は旅立つの。沈みゆくこの世界から幻想郷を切り離し、新天地へと」
それを聞いて、ああ、と息が漏れる。
ようやく分かってきた。
幻想郷。今この場所は大結界で隔離こそされているものの、外の世界とは地続きで繋がっている。繋がっているからこそ、外の世界で忘れされたものがこっちに流れ着いたり、信仰の力が大結界を越えてこの世界を支えたりしていた。
それを、こいつは切り離そうとしている。幻想郷を外の世界から切り離して、平行する新たな世界に繋げようとしているのだ。そして新しい世界で、そこに住む人々から信仰を得る。
まるで船から船へ乗り継ぐように、この世界から幻想郷という存在を切り離し、多元宇宙とやらに存在するどこか新たな世界に接続する。まるでこの世界が箱舟で、外の世界が港のようだ。ならさしずめ、新しい世界の人々から得られる信仰は食料と水、というところか?
「幻想郷は、生きる場所を失った妖怪の拠り所。幻想郷がどの世界に存在するかなんて問題ではない。幻想郷は全てを受け入れ、揺り籠の如く世界を揺蕩い続ける」
ああ、お前にとってはそうなんだろうな。お前は幻想郷の賢者で、この地を作り出した妖怪だ。どこまでいっても、お前が大切なのは幻想郷と、そこで生きる妖怪たちだ。
「……で? その新天地ってのはどこなんだよ」
ここまで用意周到なやつだ。まさか『これから探す』なんて言わないだろう。
紫はにこりと笑ってから、手を軽く振ってまたスキマを作り出す。縦にまっすぐ、人の背丈ほどもあるそこから現れたのは、女だった。
初めて見る顔だった。白い帽子に紫のワンピース、そしてセミロングの金髪。その服装も相まって、隣に立つと紫とよく似ているが、私は紫よりも別のやつとの既視感をその女に抱いた。
「……アリス?」
アリス・マーガトロイド。先輩魔女にして友人であるあいつの顔が浮かぶ。
「あら、流石は魔理沙。分かるものなのねぇ。あの子にはどうせなら私をモデルにしてと伝えていたのに。やっぱり子は親に似る者なのかしら」
「そいつは……?」
「この子? ふふっ、いいでしょ」
まるで新しい玩具でも見せびらかすみたいに、嬉しそうに話す紫。私たちとの温度感の差に、変な汗が出てきそうだ。
「この子はね。平行世界探査用に作ったの。アリスの作った模造の肉体に、式をインストールした、人形」
「アリスの作った肉体……?」
「ええ、この子はアリスが作ったの。あらゆる世界線に行って調べてもらわないといけないんだもの。頑丈な肉体、情報の遠隔受信、現地生命体が見て同族だと疑わない精巧さ……たくさんの要件を、あの子は全て満たしてくれたわ」
「人形の、肉体なのか」
「平行世界ならどこでも良いわけじゃない。せっかく新しい世界と繋げたところで、その世界に人間……知的生命体がいなければ意味がない。オカルトという文化が存在し、人が恐怖という感情を持ち合わせている、そんな世界でなければならないの」
「……」
「だから、私はこの子たちを作り出した。数多存在する平行世界に送り込み、その世界の人間を観察し、この幻想郷を繋げるに足る世界を見つけるために」
紫は随分と饒舌だった。最初に渋ったとは思えないほどに、私の入る余地もなく饒舌に。目立ちたがりなくせに、いつだってこいつは私たちの知らない裏側で幻想郷を守ってきた。きっと今回だって、ずっと。もしかしたら、誰かに語りたかったのかもしれない。出来れば、酒でも交わしながら聞きたかった話だ。
私はその人形をじっと眺める。流石はアリスというべきか、まじまじと見ても人間との違いが分からない。
「じろじろ見ないでくれる?」
人形は私の視線を避けるように身をよじり、不躾なセリフを言ってくる。人形のくせに流れるように口にした日本語に、思わず「あぁ……すまん……」と口から謝罪の言葉が漏れる。
「成果報告を」
「はい」
紫の命令に、人形は機械的に喋りだす。その姿はやはり人形のそれで、混乱してくる。
「転移先仮名マエリベリー・ハーン。私の観測対象世界線は旧人類と精神、肉体構造、ともに酷似。DNAは旧世界人類種と相違あり。科学技術こそ旧人類より発展しているものの、霊障が多数観測されており、接続先としての要件は十分満たしていると考えられます」
「ご苦労様。下がっていいわ」
マエリベリー・ハーンと名乗った人形は小難しい言葉で何かを紫に伝えると、しずしずと下がる。どうやら、彼女(?)の見つけた世界が、幻想郷の新たな接続先となるらしい。
しかし、彼女一人で数多の世界を巡ったのだろうか。数多の世界を一人で調べつくしたのか、それとも存外早く見つかったのか。
「気になるかしら?」
紫が、背後にスキマを作る。地面と水平な、そして巨大な、空の一部を覆うようなスキマ。
そこから、瓦礫が降ってくる。紫の後ろに、瓦礫の山が築かれる。紫色の布と、肌色の肉と、金の髪と……。
いや、瓦礫じゃない。あれも人形だ。人の形そのままのものもあれば、腕が四つあるものや、魚みたいな鱗が貼り付いたものもある。幾つもの穴が全身に空いたものもあれば、胴体が鮫か鰐にでも食いちぎられたみたいなやつもある。
みんな、人形だ。アリスの作った、人形なんだ。
突拍子のない話、それが真実だと突き付けられ、しばし私は無言で呆けていたが、大事なことを思い出した。そもそもこんな話になった、発端を。
「……そうだよ、肝心なことを聞いてないじゃないか。別の世界に幻想郷を繋ぐ話から、一体どうして菫子が殺されんきゃならないって話になるんだ。こいつも、その新しい世界とやらに連れて行ってやればいいじゃないか」
「ああ……それね。教えてあげてもいいけど、その前に一つ、魔理沙に聞きたいのだけど」
紫はガラクタになった人形たちをスキマへと戻してから、世間話でもするみたいに問うてきた。
「貴方、人間を辞めるつもりはない?」
「……な、に……?」
それは幻想郷の賢者で創造主たる紫からは想像し得ない言葉だった。さっきまでの平行世界だの多元なんとかだのに比べれば遥かに分かりやすく、だからこそ紫がそんなことを言うなんて、思わなかった。
人間を辞めないか。それは即ち、腹の虫を捨てて魔女になれと、紫はそう言っている。私を、妖怪へと誘っている。
その言葉が頭に過ぎるのと同時、もう一つの言葉が頭の中で紫の言葉とせめぎ合う。
人間が妖怪になってはならない。
それは、人里で絶対不可侵とされているルール。人里を離れ魔法の森で暮らしている私にとっても例外ではないと思っていたのだが、まさかそれを紫が知らないはずがない。あいつ自身、そのルールを作る立場にある存在なのに。
ちらりと霊夢を見る。私がその理を破れば、いの一番に飛んできて退治しようとするやつが目の前にいる。きっとあいつは、私が「はい」と紫の言葉を肯定するや否やその手のお祓い棒を私の頭に振り下ろそうと突っ込んでくるのだろうか。
あいつが妖怪に対して容赦がないことも、妖怪に自らなろうとしている人間には慈悲もないことを、私は良く知っている。だから、あいつは私を睨んでいる。一挙手一投足を、口の動きすらもじっと見られている。
「どういう風の吹き回しだ? お前は、私が魔女になってもいいんだぞと、そう言うつもりか?」
「ご名答」
紛らわしい言い方で勘違いした私を弄んでいるのかとも思ったが、私の認識を紫は端的に肯定した。にこりと笑うその顔に、怒りよりも先に困惑が同時に湧いてくる。
「安心して。貴方がなんと答えようと、霊夢に手は出させないわ」
「今さらそんなこと言われたって信じられるかよ……それに、そんなの今はどうでもいいだろ。早く菫子を付け狙う理由を言えよ」
「どうでもよくなんてないわ。これはすごく重要なことよ。貴方が答えたなら、ちゃんと私も教えてあげるわ」
どうやら譲るつもりはないらしい。それが菫子の命よりどれだけ大事なのか、私には分からないが、少なくともこいつにとっては余程重要らしい。
(こんなの、なんて答えりゃいいんだよ……)
私は、紫を見る。
そいつの顔は終始にこやかだが、その裏で何を考えているのか、私には分からない。本気で私を魔女にしようとしているのか、それとも私が魔女になると言った途端にルール違反だとしてその扇で私の首を撥ねるのか、あるいはただ単に興味本位なのか、紫の顔から読み取ることは出来ない。
菫子の顔を見る。
菫子が殺される理由は私にも、そして菫子自身も分からない。菫子のその目は不安に揺らいでいる。あんな啖呵を切っておきながら、やはり死が、あるいは紫と霊夢が怖いのだ。私の答え如何によっては、彼女は殺されてしまうのだろうか。私の選択に、彼女の命運がかかっているのだろうか。
そしてあいつの、霊夢の顔を見る。
あいつは、ただじっと私の答えを待っている。今日、私の家を襲撃したあの目、あるいは異変と知って神社を飛び出して行く時の、あの感情を排した目。だが、それが無感情を意味するものではない。そこには、あいつの中には感情があることを、私は誰よりも知っている。だが、真にあいつが私に何を求めているのか、そこまでは私にも分からない。
何が正解か、何を答えれば菫子は助かるのか。どんな答えを紫と霊夢は求めているのか。
考えれば考えるほど、何を答えたらいいのか分からなくなる。あの白い靄が頭を覆い、また考えがまとまらなくなっていく。誰の目を見ても考えが読めない、答えが見えてこない。
いったいどこに、答えがあるんだ?
「……はっ」
そこまで考えて、私は鼻で笑う。自分を。下らないことをいつまでも考えている、自分自身を。
他人の表情見て考えるなんて、私らしくもない。他人の考えをあれこれ想像するほど、無駄なものはない。
そして私は、考えるのをやめた。
代わりに、空を見上げる。いつの間にか空はすっかり暗くなり、星が点々と光り始めている。私の目には誰の顔も映らなくなった。
私は、星が好きだ。特に一番星。誰よりも先に先人切って空で煌めき、やがてその周囲に、あるいはあちこちで星が光り始める。
私は、星空へ手をかざす。広げた親指と人差し指の間には、星が二つ見えた。一つは大きく、もう一つは小さい。きっと今日、この空で先に輝いたのは大きい星なのだろう。それが今日の一番星。私は、一番星になりたいんじゃない。その一番星よりも先に、空で輝きたいんだ。一番星に、私は勝ちたいんだ。
誰かの顔を見て、顔色を伺うなんてらしくもない。私は私だ。霧雨魔理沙だ。世界が滅ぶだの菫子が殺されるだのという話が出てくる前から、私はその問いの答えを持っていた。
そして今も、変わらない。
前を見る。私は紫と、それ以上にあいつに向けて、私の答えをきっぱりと言ってやった。
「ない」
「ど、どうして?」
誰よりも先に反応したのは、紫でもましてや菫子でもなく、霊夢だった。誰よりも私が妖怪になることに反対するだろうと思っていたやつが、信じられないとでもいうように目を見開いて尋ねてきた。……お前は私の答えに驚いているのかもしれないが、私はお前のその反応に驚いているよ。
「あんた、ずっと妖怪になりたかったんじゃないの? 知ってるわよ、あんたが魔法を学んでいて、その中に妖怪になる術だってあることも。仙人連中に不老の術について聞きまわってるのも」
「ああ、そういや華扇やら太子に聞いてたっけ」
「だったら!」
あいつの言葉が次第に荒くなっていく。まるで駄々をこねる子供だ。
「だったら! なんで魔女にならないのよ! 紫が良いって、妖怪になっていいって言ってるじゃない! あんたにとってこれ以上ない機会でしょ! 普通だったら殺されるのに、私が殺さなきゃいけないのに……! あんたが妖怪にならないと、そうじゃないとあんたは……」
「霊夢、そこまでよ」
あいつの口から雪崩のように出てきた言葉。それを紫が制する。霊夢が喉を詰まらせたみたいに喘ぎ、紫と私を交互に見比べている。
「どうして、貴方は妖怪への道を断るの? 魔女にとって、人の身はあまりにも脆弱で儚く、そして短い。せいぜい百年、貴方の研究はたったそれだけの時間で事足りるとでも?」
「そうじゃない。そうじゃないんだ」
紫の問いも、霊夢の激昂も、間違っちゃいない。私にとって魔女になることは魅力的だし、不老の道も諦めたわけじゃない。魔法の研究というのは地味極まるもので、時間がいくらあっても足りやしない。そんなことは分かっているさ。
だけどな、霊夢。
「お前だよ」
「え?」
私は、紫ではなくあいつのその呆けた顔へ向けて返してやる。
お前が私をどう思っているかは知らない。お前にとっちゃ、私なんてせいぜいその他大勢の一人かもしれない。自分だけが、お前にとっての特別だとは思わない。お前は平等なやつで、誰にも縛られないような、そういうやつだよお前は。
だけどな。
「初めて出会った時から、私はお前に憧れてた。親父にずっと押さえつけられていた私は、神社でお前を一目見た時から惹かれたよ。親父の意思じゃなく、自分の意思でお前と仲良くなりたいと、そう思った」
自分でも驚くほどすらすらと言葉が出る。ずっと、自分の中で言葉に出来ず、誰にも話せず、しかし漠然と、そして悶々と考えていたことが、今こうして本人を前に吐き出している。
「人喰い妖怪に襲われたあの時、お前はそいつを子供でもあしらうみたいに追い払った。私とお前は同じくらいの子供だったのに、私はただ逃げて泣くことしか出来なかったのに」
あいつは、私の言葉を聞いていた。口も開かず、ただじっと私を見ていた。
「今思えば、私にとってお前は遠い存在なのだと言われた気分だったよ。所詮、博麗の巫女様と商人の小娘、同じ幻想郷に生きていても、住む世界は違ったんだ」
紫も、笑みを消して私の言葉を真剣に聞いていた。少なくとも私にはそう見えた。
「だから、魔法という存在を知ったあの時、私はもっと欲張った。人喰い妖怪を簡単に追い払ったお前、商人の小娘と博麗の巫女は遠い存在だと思い知らされて、それでもお前の横に立ちたかった。ただ仲良くなるんじゃない、遠いと思っていたお前の横に……いや、お前よりも先に行きたかった。だから魔法を学んだ」
普段なら赤面して言えないようなことが、すんなりと出てくる。ずっと言いたかった。こうしてお前に言いたかった。言ってしまえば楽になると分かっていて、それでも言えなかった言葉だ。
「そこから、今の私が始まった。魔法を研究し、異変に首を突っ込み、お前に挑み続ける。ずっとお前を追い掛けて、私は生きてきた。そしてそれは、楽しかった」
私は、あいつの顔を見る。きっとこれは、愛の告白なのかもしれない。今まで恋の魔法だの恋符だのと謳ってきたが、恋の何たるかなんて何も分かっていなかった、恋に恋していた私の、初めてのラブレター。
「お前は私のライバルだ。お前が何と思おうとも、私にとってはずっとそうで、これからもそう。お前は誰を見ているか、お前の目には誰が映っているかなんて知らない。私なのか、紫なのか、それとも誰も見ちゃいないのか、そんなのは知らない。知ったことじゃない。これが私の独り善がりだとしても、それでも私はお前を見て、追い掛けて、勝とうとしてきた」
だから。
そう言ってから、息を吸い込む。自分の想いを、あいつへぶつける。
「だから、私は人間でいるんだ。人間の体で、同じ土俵でお前に勝つ。いつか勝ってやる。そのためにずっと頑張って来たんだ。それを今さら辞められるか。魔女だの捨虫だのは、お前に勝ってそれからいくらでも考えてやるさ」
そこまで言って、最後にはぁと息を吐く。
自分の想い、その全てを吐き出した。
何だか、妙にすっきりした自分がいるのが分かる。自分の想いを吐露し、全てをぶつけた。頭の霧も消え去り、安堵にもにた充足感が、私を満たしていた。
さあ言ってやったぞ。これで満足か? これが菫子とどう関係があるんだ。私は紫を睨み付けるが、紫より先に口を開いたのはあいつだった。
「なんで……」
霊夢は肩と声を震わせて叫んだ。あいつが、あんなに感情を露にするなんて、もしかしたら初めて見るかもしれない。あいつの激高に、私は気圧された。
「なんで……そんなくだらないことに意地張ってるのよ!」
「……くだらない?」
くだらない。
あいつは、私の想いをその一言で否定した。
分かってはいた。自分の感情なんて、押し付けられる相手からしてみれば迷惑極まりない話。そんなのは分かってはいたが、当の本人からそんな一言で済まされてしまうと、流石の私だって眉を引き攣らせてしまう。怒りの一つだって、内から湧いてくる。
「私、あんたにそんなの求めてない! ライバルなんて、そんなくだらない理由で異変に首を突っ込んでたっていうの⁉ 事あるごとに私に喧嘩売ってたの⁉ そんなの……」
「霊夢」
喚くあいつを、紫が制する。その一言であいつが納得いかないながらも口を閉じるのを見て、どうにもいけ好かない。……お前、何が言いたかったんだよ。そのどでかい感情を、お前は紫に一言制されただけで引っ込めてしまうのかよ。
「貴方の想い、聞かせてもらったわ。素敵ね。貴方が妖怪にならないのを、私も霊夢も残念に思っているわ」
「そうかよ。そりゃ悪かったな。……で、いい加減聞かせてくれよ」
「ああ、そうね。そういう話だったわね。菫子を殺すよう指示した理由、だったかしら」
「あ、ああ……」
殺す。改めてそう言われると臆しそうになる。なまじ平然と言うものだから、却って真実味がそこにはある。妖怪らしい、人間を養分としてしか見ていないような冷たさを感じる。
「まずは誤解なきよう、私が単刀直入に言いましょう」
紫は、扇を私へ突き付ける。それはまるで、判決を下す閻魔にも見えた。
「この幻想郷にいる人間。私は例外なくその全てを殺すつもりよ。人里に住む者も、菫子も、魔理沙もその対象」
「……なっ」
私も、菫子も。口を馬鹿みたいに開いて言葉を失う。人間を……全員? 私も、菫子も、阿求も、小鈴も、人里の連中も、私の親父も……まさか、霊夢も?
「なん……で……」
紫は淡々と、事実を伝えてくる。
「この世界は、これから別の世界へと接続する。そこにいるのは、同じ人のように見えて人じゃない。あくまでも別世界の理の中で生きる人間たちなの」
「違うって、どういうことだよ……その人形の見た目、どこからどう見ても人間と……私と同じじゃないか」
「多分、見た目の話じゃないんだと思う」
私の疑問に答えたのは、紫ではなく菫子だった。
「さっき、その人形の人が言ってたでしょ。『DNAは旧世界人類種と相違あり』って」
言っていた……かもしれない。そもそも私にはその……ディーエヌエーとやらが分からない。改めて聞かされたところで、その意味が分からないのでは聞いていないのと同じだ。
菫子もそれを察したのか、DNAが何か、親切にも説明してくれた。
「DNAっていうのは……生物の遺伝子を記録したもの……かな」
「……はぁ」
「私も、高校化学程度の知識しかないけど……えっと、簡単に言うと生き物の設計図みたいなもので、基本的には誰のDNAも違うものを持っているんだけど、ヒトはヒト、イヌはイヌでDNAのほとんどは同じなの」
つまり、どこまで見てくれが人に近かろうと、そのDNA……設計図レベルでは今の世界の人と新しい世界のヒトは違う生物だということか。その生物の設計図が違うとどうなるか。
「まあ、子作りとかは出来ないんだろうな」
「多分。外じゃ人間とサルを掛け合わせる研究とかしてたらしいけど……」
「まじかよ。外の人間は狂ってるぜ」
DNAとやらについてのお勉強が終わったのを見届けた紫がご高説を再開する。いい加減、流石の私も話が長くて疲れてくる。
「無論、ゆくゆくはこの人里で新しい世界の人間を受け入れ、妖怪や神たちの信仰の土台となってもらうわ。そこに、旧人類がいてもらっては困るの。新人類と旧人類の信仰が混ざったらどうなるかなんて分からないし、新人類と旧人類の対立なんて私は望んでいないわ」
「対立する必要があるのか? 仲良くすればいいじゃないか」
「そう、本気で思っているのかしら? 今日までの人里を見て、仲良く手を取り合えると、本気で思うかしら?」
「……いいや、思わないね」
妖怪が力を失った時、それを人里の人間たちが受け入れる仕草の一つでも見せてくれれば、紫の言葉を否定出来ただろう。しかし、それでも人里の人間にとって妖怪は敵で、異物でしかなかった。新しい、人間じゃない人が幻想郷へやってきて、手と手を取り合うことが出来るだろうか。……きっと、出来ないだろうな。
「だから、今の幻想郷の人間を皆殺しにして、きれいさっぱり掃除してから新しい人々を迎え入れると?」
「そのとおり。私は管理者であり、故に厳格であり平等でなければならない。人間を皆殺しにすると言えば、例外なくそうする義務がある。……そう、全ての人間が対象なの」
紫は、私へと手を伸ばす。まるでどこかへ連れて行こうとするかのように。
「でも、だからこそ貴方を含め一部の人間には権利がある。人を辞め、幻想郷とともに新世界へ来る権利が」
人を辞める。それは単なる意志の一つで出来るものではない。仙人は辛い修行の果てに成るものだし、悪霊や怨霊となるには相応の怨念や未練が必要だ。蓬莱の薬だとか吸血鬼の眷属になるだとかキョンシーに作り変えてもらうだとか、人間を辞める手段は他にも幾つかあるが、どれも簡単に出来るものではない。それは菫子だって同じだ。
しかし私には出来る。体の中の虫を捨てて魔女になることが出来る。それだけの知識と魔力、素養を私は十分に兼ね備えている。
紫から差し伸べられた手。その手は、私が握るよりも先に降ろされた。
「もし魔理沙が、魔女になると言ってくれたら、新しい世界に迎え入れてあげたものを……ええ、本当に残念」
「そりゃ悪かったな」
「一応聞いてあげるけど、魔女にならないと死ぬと知って、貴方の意志を変えるつもりは?」
「ないな」
「……本当に、残念」
紫は心底残念そうに言葉を漏らすが、私はそんなお前が恐ろしくて寒々しいよ。
人里のど真ん中に置かれたオカルトボール。弱小なれど多くの妖怪が済む魔法の森には置かなかったくせに人里のど真ん中に置いた理由が、今ようやく分かった。
あれは、妖怪が人里を闊歩するための大義名分だ。オカルトボールを人里の配置したのなら、たとえ明文化されていなかったとしてもそれは即ち『妖怪が人里に入りオカルトボールの恩恵を得ても良い』ということに他ならない。事実、そう考えて多くの妖怪が人里を闊歩し、時には人間を傷付けた。死人だって、片手に収まらない程は出ているだろう。
その理由は、人里から人間を間引くこと。
人間なんて、妖怪に絡まれれば簡単に死ぬ。今まで人里が妖怪に表立って攻撃されることが無かったのも、それが幻想郷のルールだからというのが大きい。幻想郷全体を支える農場である人里を勝手に荒らせば、領主たる賢者連中が黙っちゃいないと、乱暴に言えばそういうことだ。
そんな状況でいきなり『人間を間引く』なんて言って紫自身が惨殺を始めればどうなるか。すぐさま対立を生み、他の勢力が人間を守る、なんて自体にも成りかねない。
だが、オカルトボールを人里に配置すれば、どれだけ凶悪な妖怪だろうと人里に入る大義名分を得ることが出来る。妖怪が人里を出入りすれば、それだけ人間は怯え、傷付く。
そして、本来それを諫めるべき人間は、主犯の隣にいる。
自分の手を汚さない、最低な方法。
「お前……」
怒りがふつと湧いてくる。
紫に、じゃない。紫は妖怪で、幻想郷の賢者だ。こうして話している雰囲気こそ軽いが、所詮は妖怪。私のような人間とは価値観が違うのも必然、妖怪のこと、そして幻想郷のことが紫にとっての最優先事項だとしても、仕方のないことだと思わなくもない。……それが許せるか、と聞かれれば間違いなくNOなのだが。
それよりも、あいつだ。
「なんでお前……こんなやつの言うことに従ってんだよ」
私の怒りの矛先は、あいつへと向けられる。
菫子も、あれでそれなりの猛者だ。そこらの妖怪ごときで殺されるほどやわなやつじゃない。
だから、紫はあいつに命じた。菫子を殺すように。それがあいつにしか……実力があり、そして何よりこんな命令に従うやつにしか、出来ないのだから。
あいつは自由なやつ、何者にだって縛られないやつだと、そう思っていた。
……そう、思っていたのに。
「なんで……そんな命令に従ってんだよ! お前は、紫にそう命じられたから自分のダチを手に掛けるようなやつだったのかよ⁉」
「わた……私は……」
あいつはふらふらと私へと手を伸ばして一歩近づくが、それよりも先に、ふらりとあいつの体がぐらついた。そのまま倒れそうになって、紫が抱きかかえるように手を廻して支える。
「おい……随分と、具合が悪そうじゃないか」
私はその姿を笑ってやろうと思ったが、笑えなかった。
その姿に、私は既視感を覚えた。
紅魔館で見かけた美鈴、あるいは私の家を訪ねた影狼。そして……異変が明るみに出る前の、境内で辛そうに箒を動かしていた、あの時のあいつの姿に。
「あらら、もう時間切れかしら。あれだけオカルトボールの近くにいて、思ったよりもたなかったわね。それともオカルトボールが傍にある環境に、体が慣れ過ぎたのかしら。橙だって、今でもこの場所で暮らしているのに」
「……う、うるさい……」
霊夢の反論は掠れており、立っているのもちと辛いように見えてくる。
オカルトボール。
この場所にオカルトボールはない。オカルトボールがなければ、妖力は得られない。妖力がなければ、妖怪は……。
「あらあら?」
紫が、面白いものを見つけたかのような目をしている。そんなに、今の私は滑稽だったか。
「気付いていなかったの? そういえばそんなこと、さっき言ってたわね」
「紫、やめて……」
「何だったかしら。人間として霊夢に勝つ、だったかしら。叶うと良いわね。その願い」
「やめてって……言ってるでしょ!」
あいつが金切声を上げたが、そんな反応をあいつがすればするほど、私の疑念は確信へと変わっていく。
「霊夢、まさかお前……」
霊夢が顔を逸らす。もう隠せないと諦めていながら、それでも認めたくないと、あいつの目がそう言っていた。
それでも、私はあいつに指差し言った。
「もう、人間じゃないんだな?」
霊夢は、口を開かなかった。
ただ、私から視線を外し、斜め下へ逸らすその顔を見れば、私の言葉を何よりも肯定していた。
それを見て、体が勝手に動く。足が前へと踏み込み、爪が掌に食い込むほど強く握り、その頬へ叩きつけた。
あいつは、避けなかった。あいつならこの程度、簡単に避けられるだろうに、黙って殴られて、地面へ倒れた。私は息を荒げながら、地面に横たわって科を作るあいつを眺めている。遅れて、菫子の短い悲鳴が聞こえた。頭の熱が僅かに冷えた。
最初から、なのか。ずっとその力を使って、異変を解決してきたのか。人里には妖怪を退治するのは人間の役目だと、そう謳っておきながら。その方が何かと都合が良かったのか?
それとも、いつからか、なのか。新しい世界へと旅立つために、自分だけ先に妖怪になったのか。自分だけ妖怪になっておいて、人間である菫子は殺そうとしたのか。
それは私には分からない。どちらだと答えられたところで、ずっとそれを隠していたこいつらの言葉を信用出来るかも、分からない。妖怪になるもならないもあいつの自由なのに、どうしてこんな……裏切られたみたいにショックを受けているのだろう。
だったら、どうする? こいつら妖怪どもを、私はどうすればいい?
「さて、寄り道も多かったけど、これで私から話せることは全部かしらね。……どう? 納得してくれたかしら、菫子さん?」
紫の言葉に、菫子が肩をびくりと震わせる。紫は余裕を見せるが、そこには若干の苛立ちが見えたような気がした。もう十分だろうと、そう言外に含ませていた。
「わた……私は……」
対し菫子は、小動物みたいに怯えていた。口籠り、呂律も廻っていない。当然だと思うと同時、怒りが湧いてくる。
……納得?
「出来るわけ……ないだろ」
体を震わせる菫子に変わって、私が代わりに妖怪どもに向けて叫ぶ。
「お前ら妖怪のために……新しい世界に人間が邪魔だから死ねだって⁉ そんなもん、はいそうですかって私ら人間どもが納得出来るかよ!」
菫子を見る。
「それにこいつは……違うだろ」
菫子のその顔を見れば、叫ばずにはいられなかった。
「こいつは、外からここに非難してきた。だから人里の人間じゃない。お前が人里の人間をただの家畜としてしか見ていないとしても、こいつは別だろうが……! お前たち妖怪と同じように、外で生きられなくなって、幻想郷の住民、ドレミ―のやつに助けられて、ここに来たんだ。それを、お前たちは否定するのかよ!」
「なら、外に送り返すつもり? 死の街と化した外に、その子を帰すというの? それは、私がしようとしていることと、何も変わらないのではなくて?」
「だからあいつに……お前自身の手じゃなく、こいつの友達である霊夢の手で死なせてやるだって? ここで殺してやるのが幸せだって? ふざけんじゃねえ!」
「だったら」
紫が私を睨み付ける。先ほどの橙を庇った時のものとは違う、明確な怒りがその目に込められていた。
「貴方に、代案があるというの?」
「それは……」
幻想郷の妖怪たち。今はオカルトボールから妖力を得ているが、所詮それは一時療法にすぎない。そこから溢れる妖力も、いつかは底を尽きる。そうなれば幻想郷も外と同じ、死の街となる。そうでなくても、オカルトボールの恩恵を得られず苦しんでいる妖怪だっている。
考えれば考えるほど、紫の案が最適に思えてくる。新しい世界に人間を連れていけないというのなら、そうするしかないのかもしれない。だが、菫子諸共、人里の人間を皆殺しにする必要なんてあるのだろうか。
代案があるでもない。だが、納得するつもりもない。故に、退くつもりもない。
「……どうやら、私と貴方はいつまでも平行線みたいね」
「ああ、そうらしいな」
「だったら……幻想郷なら、どうすればいいか知っているでしょう?」
そう言って紫がスキマに手を突っ込み、何かを取り出す。鈍い紫の光を放つそれには、見覚えがあった。
オカルトボール。今の幻想郷における、妖怪の生命線。
「貴方も、病人みたいな状態のこの子に勝ったところでつまらないでしょう?」
「……ああ、そうだな。ここじゃ、それがルールだったな」
弾幕ごっこ。
この幻想郷で雌雄を決するための、決闘法。
つまりは。
「霊夢、お前が……私の相手になるのか」
「あんたが私に勝てるだなんて思わないことね」
あの狼狽も体調が悪そうにしていたのも嘘みたいに引っ込んで、お祓い棒と御札を握りしめた霊夢がこちらを見ている。その目には見覚えがある。
見下すような、馬鹿な子供でも見るようなその目は、弾幕ごっこで挑む私にあいつがいつも見せる目だった。私が負けると本気でそう思っている目だ。
あの時は、その目に呑まれた。臆し、虚勢を張って、そして負けた。
だが、今は。
「それはこっちのセリフだ。いつまでも、私がお前を追い掛けるだけだと思うな」
「魔理沙は随分と私を追い掛けるのが好きみたいだし、ずっとそうしていると良いわ」
今は、負けられない。……いや。
(負けたくない)
負けられないという考え以上に、今のあいつには負けたくないと、そう思えた。
最後にあいつと戦った、あの日。もしかしたら、あいつはあの時点ではまだ人間だったかもしれない。妖怪となった今の方が、過去のあいつより強いのかもしれない。
だが。
今のあいつには、かつて私が憧れたあいつではないのなら、自由じゃないあいつなら……どうしてだろうか、そう思えてくる。
私は、ミニ八卦炉を取り出してその手に握り、あいつへ向ける。
「なら、お前たちは異変の黒幕だ」
さしずめ、虐殺異変ってところか。随分と物騒な名前だ。
妖怪連中が人里の人間を虐殺しようとしている。そしてその魔の手は、私の後ろにいる菫子の命まで奪おうとしている。
なら、それを止めるのは、私の役目。妖怪が起こした異変を止めるのは、人間の役目。私だって、多くの異変を解決してきた。それとなんら変わらない。平行世界だの多元なんとかだのなんて所詮は枝葉だ。要は、私がこいつらを倒せばいい。菫子に手を出そうなんて思わない程にぶっ飛ばせばいいだけ。実にシンプルな話、分かりやすいのは好きだ。
輝き始めた星空の下で、私は箒をあいつに突き付けて宣言する。
「異変を解決するのは人間の役目。私が、お前らを退治して、この異変を終わらせてやるよ」