Coolier - 新生・東方創想話

あいつ

2022/03/18 19:55:10
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 白い靄。
 ここ近年、私の頭はそれに包まれている。私はそれに悩まされている。
 そいつは脈略なく突然に私の頭の中に現れる。そして、それがひとたび頭に現れれば、何をするにも集中できず、思考がまとまらない。頭のリソースがその白い靄に圧迫される。ふらふらと考えが定まらず、手につくものも無くなってしまう。
 その原因は分かっている。あいつだ。あいつなんだ。
 いつも頭の中に、あの赤と白が存在している。白い靄の中に立つのはいつだってあいつで、それに私は悩まされ、苦しめられている。気付けば、いつもあいつのことを考えてしまう。
 手の中のペンを弄ぶ。
 大事な魔導書に向かい合ってなお、私の意識は目の前の文字ではなく頭の中の靄、その先にいるあいつへと向けられている。
 私にとって、あいつはライバルだ。神社であいつを一目見た時から私の心はあいつに囚われ、憧れた。仲良くなりたいと思った。魔法というものを知ってからは、あいつを追い抜きたいと、勝ちたいと、もっと欲張ったことを考えていた。そう思ってずっと追い掛けてきたんだ。
 なのに、ずっとそれは叶わない。何年と追い掛けてきて、それでもなお届かない。それどころか、あいつと過ごしているとそんなことは忘れてしまいそうになる。あいつとただ縁側で茶を飲み、益体のない会話をする。そんな何でもない日常が楽しいと思えてしまう。
 目の前の魔導書。魔法。私があいつと渡り合うための力。
 あいつと楽しく話していると、これらは必要ないんじゃないかと思ってしまう。あいつと過ごす日常があれば、縁側で茶を飲みながら益体もない会話をして、時々あいつと一緒に酒でも飲めば、それで十分なんじゃないかと思えてしまう。
 そして、それを頭がよぎるたびに、どうしようもなく私は苦しいんだ。自分が何をしたいのか、どこにいるのかも分からなくなってくる。
 だから、私は…………
「ねぇ」
 横合いから声が聞こえてくる。その声は私の意識へとすっと入ってくる。思考が空想から現へと帰ってくる。
 はぁと溜め息が口から出る。
 ここは私の家で、その家主である私は魔法の研究をしているんだ、それが見て分からないのかと私はそんな言葉を投げてきたアリスへと横目で訴えるが、当の本人はソファに腰掛けたまま視線を手元の本に向けており私の無言の訴えは届かない。
 そもそも、なんで平然とあいつは私の家に居座っているんだ。孤高が好きでこんな人里から離れた魔法の森なんかにわざわざ住んでいるくせに、どうしてこいつは頻繁にここに来ては勝手にくつろいでいるんだか。……よく考えたら博麗神社に足しげく通っている私も同じ穴の貉なのか?
 アリスのことは無視しようかと思ったが、そいつはただ無言で本を読みながら私の返答を待っている。こちらが反応するまでやいのやいの言われるのも困りものだが、無言でただ待たれるというのもどうにも気になる。アリスの声が聞こえた時点で、気持ちよく研究するためには私が反応せざるを得ない。手玉に取られているようでなんだか少々癪な気分だ。
「なんだ?」
 私が返答すると、アリスはテーブルの上のティーカップに口を付ける。私の研究の邪魔をしていることを理解しているのかしていないのかは知らないが、ゆっくりと優雅な時間を堪能してから私の返答に答えた。
「早く虫を捨てちゃえばいいのに。なんでいつまでも大事に持ってるのかしら?」
 またその話か、と私はやや辟易しながら思った。
 虫を捨てる、とは捨虫の魔法のことだ。こんなの魔女界隈なら常識だ。
 人間が魔女……『魔法を使う女』という意味ではなく『魔女という妖怪』になるには、二つの工程を踏む必要がある。
 一つは、捨食の魔法の習得。これにより、魔力を体内で生成出来るようになると同時、食事が不要になり、人間から魔女へと変わる。それをしていない私は食事が必要だし、魔力を補うために魔法の森に生えるキノコを煮詰めて作った汁やマジックアイテムを活用しているが、アリスやパチュリー含め魔女はそんなことをする必要もなくなる。だから今アリスが飲んでいる紅茶は完全なる趣味、無駄なのだが。
 そしてもう一つは、捨虫の儀式。寿命を喰らう腹の虫を殺して、生粋の魔女となるのだ。これにより長寿を手に入れ、名実ともに妖怪となる。記憶している限りでは、パチュリーは生まれながらの種族魔女で、白蓮は既に虫を捨てた元人間の魔女だったはず。アリスは……よく分からないが少なくとも捨食まではやっていたはず。成子の例がある以上、アリスは実は元人形であいつの体にそもそも虫なんていない、なんて言われても驚かないが。
 そして、私の腹の中にはまだ虫がいる。そいつは今日も元気に私の寿命を喰らっている。
 首だけ動かして横目でアリスを視界に入れるのを止めて、体をあいつの方へと向ける。ぎしり、と椅子がきしむ音が妙に静まった部屋に響く。
 アリスはこちらをじっと眺めている。それは暗に、私に虫を捨てさせることを迫っているようにも感じた。何もこれが初めてではない。理由は分からないが、アリスは私へたまに虫を捨てないのかと聞いてくる。それは同族としてのよしみなのか、それとも単なる興味本位なのか、私には分からない。
 だが、答えだけは常に同じだった。自分の中にある答えは分かっていた。
「だから、やらないって言ってるだろ」
 私は何度も聞かれた問いに、何度も言った答えを返す。アリスだって馬鹿じゃない。私がそう返すと分かっていて、いつも私の答えに「ふうん」と間の抜けた返事をしてそれで会話が終わる。まるで生存確認でもしているかのように、アリスが問うて、私が答えて、それで終わるはずだった。
 しかし、引き際だけはいつも素直なアリスが、今日は妙に食い下がってくる。
「そこが分からないのよ。貴方なら、弱い人間の肉体なんてすぐに捨てそうなものなのに、なんでそんな脆弱な肉体に執着してるのかしら」
「……何でもいいだろ」
「いいじゃない。教えなさいよ」
「誰が話すかよ」
 私にだってそう簡単に人に打ち明けたくないことの一つや二つくらいある。アリスはもちろん、香霖や成子、それにあいつにだって。アリスにきっぱりと意志を告げ、研究へと戻ろうとするが、それをアリスは許さない。なんだ、今日は随分と突っかかってくるな。
「もしかして決まりだから? 里の人間が妖怪になっちゃ駄目っていう、あれ? 貴方、里じゃなくてこんな辺鄙な場所に住んでるのにそんな細かいことを気にしているの?」
 その辺鄙な場所をわざわざ訪ねて我が物顔で居座ってるのはどいつだよ。というか、お前もその辺鄙な場所に住んでるじゃないか。
「意外だな。お前が人の事情に首を突っ込みたがるなんて」
「あら、友人のことを知りたいと思うのはそんなに不思議かしら」
「そう、なのか……」
 友人。私とアリスは友人という関係だったのか。
 そう言われても実感が湧かないような、なんだかむず痒いような変な気分になって頬を指で掻く。
「いいじゃない。魔女としての素質は十分なんだから、見てくれが可愛いうちに魔女になればいいのに。いつかいつかって、皺くちゃの老婆になってから魔女になろうとしても悲惨よ」
「結婚適齢期みたいに言いやがって……」
 お前がどれだけ言おうと、今は魔女になるつもりはない。話にならんと、書き掛けの魔導書へと再び向かい合い、ペンを走らせようと……
「もしかして、霊夢が理由?」
 したが、その言葉にぴたりと止まる。止まらずにはいられなかった。
「なんで……あいつの名前が出てくるんだよ」
「あら? どうやら当たりだったみたいね」
 私は冷静に返したつもりだったが、アリスは私の内なる動揺を見抜いていた。
 そしてまた、頭の中で立つあいつの影が大きくなる。アリスと話している間に霧の中に身を潜めていたあいつが、また頭の中を占領する。
 アリスの発言を認める気にはならず、黙殺する。それが何よりの肯定だと分かっていながら、それでも私は黙った。何も言えなかった。
「まあ、確かに霊夢は貴方……というよりも人間が妖怪になるのを許さないでしょうし、仲の良かったはずの相手に殺し殺されなんて、御免よね」
 そんな、簡単に私の心を見抜いてやったみたいに言うんじゃない。好き勝手言って自分で納得しているんじゃない。私があいつを恐れているみたいな言い方をするんじゃない。私が……あいつにびびってるみたいに言うな。
 文句ばかり頭に浮かぶが、口からは出ず、頭の中で渦巻くばかり。
 そんなのじゃない。殺されるとか禁止されてるとか、そんな軽い理由じゃない。
 私はただ、あいつに……
 気が付くと、アリスがじっと眺めていた。まるで何かを待っているかのような視線に、苛立ちが募り、喉の奥から掠れるような音が漏れる。
「なんだよ、話すつもりなんてないって言ってるだろ」
「……つまらない。話す気のないことを蒸し返すほど、退屈なことはないわ」
「へっ、そうかよ。そりゃあ悪うござんした」
 アリスはもう終わりかとでも言わんばかりに視線を手元の本へと戻す。……なんだよ、勝手に首を突っ込んで勝手に飽きられて。この行き場のないもやもやは、一体どこへ吐き出せばよいのか。
 アリスが自分の世界に戻ったのを確認してから、私も魔導書へと向き直しペンを取り、このもやもやを文字とともに出力してしまおう……と思ったが、やっぱりどうにも気分が乗らない。アリスがあいつのことを話したからか、先ほど以上に脳裏にあいつの影がちらついてしまう。
 ペンを片手に空いた手で頭を掻く。ペンを置き、両手で頭を掻きむしる。再びペンを握り、ペンの先端で書き掛けの魔導書を叩く。
「あぁもう止めだ止めだ!」
 私はペンを放り投げる。ペンが机の上でインクを点々と落としながらからからと音を立てて転がり、そして止まる。
「どこかに出かけるの?」
「気晴らしだよ、気晴らし」
 突然の大声に、珍妙なものでも見るかのような目をこちらへ向けるアリスの姿がちらりと見えたが、構うものか。そのままいつもの帽子と箒を手に取り、玄関へと向かう。
 扉を蹴飛ばすように開け、箒に跨って家を飛び出そうと……

「霊夢を追い掛けるの、やめたら?」
 
 したところで、がくりとその場に縫い付けられる。その言葉に、地を蹴る足が動かなくなる。
「……どういう、意味だよ」
 挑発とも取れるアリスの言葉を、私は聞き捨てることが出来なかった。だが、私はそれに反応してしまった。
「叶わない夢を追い掛けるのは楽しいかもしれないけど、時には諦めも肝心よ」
「私があいつに敵わないって、そう言いたいのか?」
「貴方が私の言葉をそう受け取ったのなら、きっとそうなんでしょうね」
「馬鹿言え、今度は勝つに決まってるだろ」
「今度ねぇ……また負けたのね。いい? あれを自分と同じ人間だと思っているなら、考えを改めたほうがいいわ」
 知ってるさ。あいつがそんじょそこらの人里の人間と同じだなんて思わないさ。あいつは規格外の……人間だからな。
「はっ、お前の自律人形だかも一緒だろ。お前は自律人形なんて無理だから諦めろって言われて、はいそうですかって諦めるのか?」
「無理じゃないわ。それに私には時間がある。私はそれを成すまで諦めるつもりはない。けど、貴方は違うでしょう、自称魔女さん?」
 売り言葉に買い言葉で返すが、アリスは平然としており、対して私はどんどんヒートアップしていく。まるであいつを追い掛けるのは時間の無駄だと、人の身で手の届くような存在じゃないと、そう言われてしまった。
 あるいは、魔女になれば。

(これ以上、こいつの話を聞きたくない)

 私は、縫い付けられた足を引き剥がし、地を蹴った。私の体はふわりと持ち上がると同時、真上へと跳ね上がり鬱蒼と生い茂る枝葉を抜けて空へと飛び出す。アリス一人を家に置いて飛び出してきたが、あいつは人のものを盗むような輩ではない。人に指示して別の誰かのものを盗ませる……もとい借りさせるやつではあるが。飽きれば勝手に私の家から出ていくだろう。
 春先の空は太陽の昇った昼前でもまだ肌寒く、風を切って飛ぶと寒さが身に染みてぶるりと体が震える。
 目指す先はもう決まっている。
 頭の中にはいまだにあいつが居座っている。おかげで何にも集中出来ないし手も着かない。この魔理沙さんの頭に勝手に居座るとは、良い度胸してるじゃないか。

 この借りは、お前で償ってもらうとするか。

§

「よっと」
 箒から飛び降り、博麗神社へと続く石畳へと足を付ける。
 いつもならこの時間、あいつは境内の掃除をしているはずだ。いつだって、誰もいない神社で一人、箒を動かしている。そこにはあいつ一人しかいないくせに、綺麗にしても見るやつなんて碌にいないのに、それを気にする素振りも見せず、凛として立っている。私はその景色が嫌いじゃない。
 そして予想通り、そこにはあいつがいた。相変わらず派手は巫女服を着て誰も居やしない神社で箒を動かし続けている。
「よお、誰も見やしないってのに、相変わらず精が出るな……」
 私は軽口の一つでも言ってやろうとしたが、あいつの姿を見て言葉が途切れる。
「……この神社に御座す神が見てるからいいの。それにあんたも見てるでしょ。よくここに来るんだから」
 箒を動かす手を止め、私の軽口に返す霊夢のその言葉こそ、いつもの皮肉交じりのものだった。だが、その声はか細く途切れそうだ。それに何より、そのやや虚ろな目と赤く染まった顔、そして時折左右に振れる体を見れば、声を聞かなくたって正常でないことは一目で分かる。
「お前、風邪でも引いたのか? ふらふらじゃないか」
「え? ……そうかしら」
「そうかしらって……お前、自覚ないのかよ。休んだ方がいいんじゃないか?」
「……別に、これくらいどうってことないわ」
「けどさ……」
 私は霊夢に休むよう促すが、霊夢は聞く耳を持たないとでも言いたげに箒をまた動かし始める。まるで平常と同じかのように振る舞ってはいるが、私でなくとも見知ったやつならその顔を見ていつも通りだとは思わないだろう。
「そんな顔して何が大丈夫だ」
 私は霊夢から箒を奪い取る。箒はもあっけなく霊夢の手から離れ、私の手に収まる。霊夢は一歩遅れて「あっ」と小さな声を漏らす。……なんだその、厳しい親におもちゃを取られた子供みたいな弱弱しい反応は。大丈夫だって言い張るなら簡単に奪われるんじゃあないぜ。
「ほら、大人しく今日は寝てろ」
「でも、掃除が……」
「一日やらなかったところで、どうってことないだろ。いいから、ほらほら」
 私は霊夢の背中を両手でぐいと押す。ふらふらと押されるがままに霊夢の足が動く。そのまま足がもつれて転ばないかと不安になる足取りだが、どうにか社務所まで辿り着くことが出来た。玄関を潜ったそのままの足で、私は部屋の一つへと霊夢の手を引いて連れていく。霊夢の口から何か不満らしき言葉が聞こえてくるが、引く手には一切の抵抗がなく、手を引かれるがままだ。
 部屋の一つ、居間へと霊夢を連れていた私は、勝手知ったる他人の家とばかりに押し入れから敷き布団を出して床に敷く。
「ほら」
 敷布団とぽんぽんと叩くと、霊夢ははぁと溜め息をついてからもぞもぞと布団に寝転び始める。てっきりごねられるかと思ったが、すんなり寝てくれて助かった。体調がいつもと違うという認識は内心あったのかもしれない。
 霊夢は敷布団の上で仰向けになったが、私と視線が合うと横にごろんと転がり赤ん坊のように手足を寄せる。霊夢の顔が明後日を向き、布団の横に立つ私からは霊夢の横顔しか見えなくなった。
「ねぇ。布団を掛けてよ。寝ているところを誰かに見られるのは落ち着かないわ」
「ああ、悪い」
 初めて見るかもしれない霊夢のしおらしい態度に、やや変な気分を覚えながらも、掛け布団を押し入れから引っ張り出して霊夢の上にそっと掛ける。そこまでしてようやく、霊夢の顔が落ち着いたような気がした。霊夢の枕元に座り、顔を覗き込む。霊夢が仰向けに戻り、また視線が合う。
「……この前と逆ね」
「美鈴が私を神社に運んだっていう、あの時か。言われてみれば確かにな」
 そういえば部屋も一緒だったか。あの時も、寝ている私をこうしてベッドの脇に座って霊夢が見ていたんだっけか。ちょうど今の私のように。
 私は、寝ている霊夢の額に手を置き、自分のそれと比較する。
「……うーん、熱があるって感じじゃないな」
「だから大丈夫だって言ってるのに」
「あんなふらふらだったくせに、まだ言うか。ちょっと手を引っ張ってやったら、ほいほいここまで着いて来たくせに」
「魔理沙が強引だから聞いてあげただけ」
「はいはい。そういうことにしてやるよ」
 原因が分からないなら、病気がうつる可能性もある。大人しく自分の家へ帰るかと私は霊夢の枕元から立ち上がる。心無しか霊夢の顔がやや残念そうに緩むのが見えた気がした。
「あんたがいてくれて、助かったわ。……ありがと、魔理沙」
 ……もう少しここにいても、いいかな。
「ちょっと台所借りるぜ。何か作ってやるよ」
「……言っておくけど、この前賭けたのは夕飯だからね。今は昼。これでチャラに出来ると思ったら大間違いだから。まだ、あんたのキノコ料理、待ってるんだから」
「………………ちっ」
「舌打ち? もしかして忘れたことにするつもりだったの?」
「よく覚えていたなって関心しただけだよ。それだけ元気があれば飯を食うには十分だな」
 部屋を後にして台所へ移動する。後ろから「そんなので誤魔化されないからね」という声が聞こえたが魔理沙さんはこれをスルー。病人らしく粥でもと思ったが、あの調子なら精が付くものにした方がよさそうだ。となると肉か魚くらいは食わせてやりたいが、残っているだろうか……なんて考えていたが。
「碌なもんがないな……」
 台所にあった食材は米びつの底に残っていた米くらいで、肉や野菜はもちろん、いつも余るほど作って貯め込んでいる常備菜すら僅かにしか残っていなかった。本人も(不服なれど)認めるほどの貧乏神社である以上、こういう状態になることもこれまでなくはなかったが……この惨状を見るに、買い出しにも碌に行ってなかった、いや行けていなかったのだろう。あるいは単にあいつが面倒臭がっただけか。ここ数日は博麗神社に来ていなかったから分からないが。
「……仕方ないなぁ。貸し一つだからな」
 こんな状態じゃ料理なんて作れないし、あいつも体調なんて回復するはずもない。何か、食材を調達しなければ。
「れいむー! ちょっと出かけるぜー! なぁにすぐ戻る!」
 私は間延びする声で叫ぶと、あいつの返事を待たずに玄関を飛び出し、箒にまたがり空を翔ける。
 さて、どこで食材を見つけてこようか。

§

「あらよっと」
 私が降り立ったのは、紅魔館にあるデカい正門前だ。森の中に忽然と敷地の近くに年中霧に覆われている湖があるからか、春だというのにここはどこか肌寒い。
 今回は忍び込む理由もないので正門の正面からエントリー。今日は何か盗み……もとい、借りに来たのでも喧嘩を売りに来たわけでもない。
 私がここに来たのは食料と料理人を確保するためだ。
 レミリアも咲夜も、何だかんだで霊夢のことを気に入っている。あいつが寝込んでいて腹を空かせていると知れば、すぐにでも博麗神社へと向かうだろう。宴会でもやるのかとでも言わんばかりの量の弁当を咲夜に作らせて。
 そしてあわよくば、私も博麗神社で御相伴に預かろうという寸法だ。認めるのは少々癪だが、咲夜の料理はそんじょそこらの料理屋なら引けを取らないほどに上手い。料理の最大のスパイスは愛情と、それと他人の労力ってな。他人が作って後片付けをする飯は美味い。病人である霊夢をダシにしているとも言えるが、それで負い目を感じているようじゃ幻想郷じゃ生きていけないぜ。
 だから、今日の私はあくまでの客。あの門番に取り次いでもらい、レミリアのやつと話をしたいところなのだが……。
「美鈴のやつはどこだ?」
 きょろきょろと付近を見渡すが、誰もおらずしんと静まり返っている。いつもなら美鈴が門の横に立ってキッとこちらを睨み付けてくるか、それともうつらうつらと門にもたれ掛かって舟をこいでいるか、そのどちらかなのに、今日は影も形も見えない。門番が門にいないなら、一体どこにいるというのか。
 とはいえ、いないなら仕方ない。門番がいないということは、誰でもご自由に(ウェルカムフリー)ということだろう。ならば遠慮する必要もあるまい。
「お邪魔するぜ~」
 私は小声でそう言いながら、無駄にデカい正門をちょちょいと開錠……してやろうと手を掛けた、その時だった。
「貴方の相手をしている暇は無いのだけど」
「おおっ! ……びっくりした。なんだお前か」
 至近距離から聞こえてきた声に、思わず肩を跳ねさせ素っ頓狂な声を上げてしまう。
 顔を上げると、私のお目当ての人物である咲夜が正門越しに立っていた。私を無駄に驚かせたそいつはそいつで、私のそんな態度が気に喰わなかったのかナイフ片手に腕を組んで、不満気に鼻を鳴らす。
「ここはお嬢様の館で、私はその従者。私がこの場所にいることに何の文句があるというのかしら」
「別にお前がここに住んでることに文句が言いたいんじゃないさ」
 私が文句を言いたいのは、どちらかというと音もなくいきなり目の前に現れてこの私を驚かせてくれたことだというのに。当の本人はそれに気付いているのかいないのか、訝し気な視線を向けてくる。
 だが、用があったのはこいつでもある。
「まあちょうどいい。それより聞いたか? 霊夢のやつ、神社で寝込んじまって……」
「ふうん? そう……」
「そうって……」
 なんだか咲夜のノリ……いや、機嫌が悪い。よく見れば足はぱたぱたと地面を叩き、心なしか苛立っているように見える。普段、自分で瀟洒を謳っているこいつにしては、どこか珍しい姿だ。
「何か、あったのか?」
「別に、大したことじゃないわ」
「そんな慌てて、瀟洒が売りのお前らしくもない」
「慌てているのが分かっているなら、とっとと帰ってもらいたいものね」
「そう言うくせに、屋敷に戻ろうとはしないんだな」
「盗人が目の前にいるのに、目を離す馬鹿がいるとでも? 貴方がそのまま帰ってくれれば、私も貴方から解放されて万々歳なのだけど」
 私も、ここに来て咲夜から歓迎されることは少ないが、しかしこいつの言葉にはいつもより棘があるように思えた。
「何か……あったのか?」
 私は、その態度が気になり聞いてみることにした。だが、咲夜ははぐらかすばかりで答えようとしない。私が粘れば粘るほど、咲夜は苛立ちをますます露わにする。少なくとも、いつもみたく何かレミリアが面白いことを企んでいてそれに巻き込まれている、という感じではなさそうだ。
「だから、何もないって言ってるじゃない……」
 咲夜が言い切る前に、横合いから声が聞こえてくる。
「……お前、また紅魔館に来たのか……!」
 その声の主は、本来この場所にいるべきやつだった。そいつはずかずかとやってきて私と咲夜の間に割って入る。西洋風の館には似つかわしくないはずの緑のチャイナドレスが、紅魔館を背負って立つと妙に風景に馴染んでいる。いや、こいつほどこの場所、紅魔館の門前が似合うやつはいないだろう。きっとここの主以上に。
 紅美鈴。紅魔館の門番。
 風に流されその長く赤い髪が揺れる。だが、私の目に留まったのは、その赤い髪に負けじと赤く染まった顔だった。つい先ほど見た霊夢のように、まるで風邪でもひいたみたいだ。
 美鈴は門番なんて荒事を任せられるくらいには武闘派だ。その癖、それがどうして、こんなにも体調が悪く辛そうな顔をしているんだ。
「美鈴、貴方はしばらくお役御免よ。小屋に帰りなさい」
「ですが咲夜さん、侵入者が……」
「そう思うなら、早く治してしまいなさい。死体の置かれた門だなんて、縁起でもない」
「はは、さすがに妖怪であるこの私が風邪なんかで死ぬなんて、あるわけないじゃないですか」
「そうね。そうだといいわね」
「……そうやって根拠なしに適当に肯定されるのが、一番怖いですよ……」
 風邪。
 私がぼうっと見ている間にも、咲夜と美鈴との間でそんな会話がされている。なるほど、美鈴が門の前にいなかったのは風邪を引いてたから……なのか?
「なあ、妖怪ってのは風邪を引いたりするものなのか?」
「え、まあこんなことは初めてですが……」
「症状が近いからそう呼んでるだけよ。もうしばらくすれば、パチュリー様が原因を特定してくれるでしょう」
「それと治療法も。皆さん元気に戻れればいいんですが……」
 ふうん、と間の抜けた感嘆の息が自分の口から漏れた。
 原因は分からないが病気だというのなら仕方ない。魔法バカのパチュリーなんかより餅は餅屋、永遠亭のところにでも行けばいいのに。
 ……まて、皆さん?
「おい、もしかしてこいつ以外にもこうなっているやつがいるのか?」
 この紅魔館には、当然ながら美鈴以外にも色々いる。吸血鬼や魔女はもちろん、目の前にもいる自称人間や住み込みで働く妖精、ホフゴブリンまで。もし同じ紅魔館の中で複数のやつで症状が出ているのなら……。
「おい、お前たちまさか病気持ちじゃないだろうな。私に感染したらどうするんだ」
 私は一歩二歩後退ってこいつらから距離を取る。冗談じゃない。貰えるものはなんでも貰うのがモットーの魔理沙さんも、病気だけは勘弁だ。
「それもまだ分からないから、貴方には帰れって言ってるのよ。お分かりかしら」
「あ、ああ……そうさせてもらうとするよ。お大事にな」
 これ以上こいつらに関わって余計なもの押し付けられるのはごめんだ。とっとと帰るに限る。
 私はそそくさと箒に跨り、地面を蹴って空へと飛び立つ。十分空の上まで上がってきてから元居た場所を見下ろすと、館へと戻っていく咲夜と館を囲む壁沿いに歩いていく美鈴が見えた。
 今日見たところでは、咲夜は風邪を引いている感じではなかったが……しばらくは早めに寝るようにしよう。
 空を飛びながら、片手で財布を取り出し中を確認する。紅魔館が当てにならない以上、自分で食べ物を調達せねばならない。
 風で飛ばされそうなくらい軽い財布は、見ているだけで寒くなってきそうで、溜め息が漏れた。

§

 そうして私は、また空を飛ぶ。
「やれやれ、どんだけ食うんだあいつは」
 あの後、人里で食材をごっそり買い占めてから博麗神社へ戻り、布団を抜け出して台所に立とうとする霊夢を押さえつけて料理を作った……まではいいのだが。
 あいつ、買ってきた食料をほとんど食いやがった。自分の明日の食材もまとめて買ってきたってのに、今はみんな霊夢の腹の中だ。おかげで手ぶら帰る羽目になっちまった。ほんとにあいつ病人かよ。よほど腹が減ってたのか知らないが、いつもより食欲旺盛じゃないか。
 ……まあ、元気になったのならそれでいいか。今朝見かけた、空元気だったあいつに比べれば、飯をもりもり食うくらいのほうがいい。
 飯を食わせ、社務所を掃除し、霊夢を布団に寝かせてから、私は博麗神社を飛び出し帰路に就いている。しばらく飛んでいると魔法の森近くまで帰ってきた。いつの間にか日も傾き、青かった空も赤く色を変えている。
 高度を下げて森へ突入。鬱蒼と生い茂る木々の隙間を縫うように通り抜けて自分の家へと帰ってくる。魔法の森は研究対象であるキノコが山ほど生い茂っており、その点ではこの家は便利な居住まいだが、人里や神社から遠いというのはやっぱり面倒だ。
 地面に降り立つと、ぬかるんだ腐葉土に靴が沈む。ここは年がら年中湿気に覆われた魔法の森。土はいつだって湿り、臭いような香ばしいような枯れ葉の匂いが足を持ち上げるたびに顔まで漂ってくる。
 ずむずむと土を踏み固めながら、私は自分の家へと帰ってきた。相変わらずガラクタに塗れた、出かける前と何一つ変わらない、いつもの私の家だ。
「……はぁ」
 溜め息が思わず漏れる。
 博麗神社に行ったらあいつが風邪を引いていて、紅魔館に行ったらそこでも何やらあったらしくて、人里に行って、食料を買って懐が寂しくなって、また神社へ飛んでいって飯を作って、そしたらあいつは何でもなかったみたいに平然とみんな平らげて。
 あっちこっち飛び回ったのに、金と時間が消えていっただけで何の益にもならなかった。あいつのことだ。風邪だの何だの言っていたが、どうせ私が来なくたって別の誰かがあいつのところへ行って看病していたか、もしくは誰の看病も借りずに明日には何でもなかったみたいにけろっとしているに決まっている。
 あいつはそういうやつなんだ。私がいなくたって、手前でどうにかしていたに決まっている。

(私がいなくたって、どうせいあいつは)

「……あ?」
 ぐにっと。
 家へと入ろうと扉に近付きドアノブに手を掛けたところで、私の足が何かを踏む。扉の下には中と外とを区切るための二段ほどの小さな石の階段があるが、その固い感触でもなければ降り積もった土や落ち葉の沈み込むような柔らかさでもない。柔らかいが、押し返すような弾力を私の足は確かに感じた。
 私は半ば反射的に視線を足元へ向ける。
 そこには、黒い蛇が足元で寝ていた。寝ていたところを、私が踏んづけていた。
「うわぁっ⁉」
 咄嗟に足を持ち上げようとして、そのまま後ろへひっくり返って盛大に地面へと尻餅をつく。積もった落ち葉と土が舞い上がり、太陽の光も届かず冷え切った地面が触れた手と尻に気持ちの悪い湿り気を押し付けてくる。
 こんなところに住んでいれば、蛇なんて珍しくもなんともない存在だ。だが、それが安全を意味するかというと違う。蛇は毒を持っているものも多いし、そうでなくても噛まれればその口の雑菌が傷口に侵入して病気になるかもしれない、危険なやつだ。だから私が大げさに蛇から遠ざかったのはそいつに驚かされたからではなく、日々こんな危険な場所で暮らす私が培った、防衛本能の賜物だ。決してビビったからではない。
「……なんだよもう」
 頭に積もった落ち葉を乗せたまま、地面に尻を付けたまま玄関をよく見れば、縄を適当に地面に投げたみたいに扉の前に居座る黒い蛇がいる。体は他の蛇と比べてもかなり長く、小さな踊り場程度では収まり切らずにはみ出している。そいつは踏まれておきながら身じろぎ一つしない。ふてぶてしいやつだ。
「ほら、さっさとそこをどけ。じゃないと焼いて食っちまうぞ」
 しっしっと手を振りながらその場を離れるよう蛇に命令する。私の言葉が通じているのかいないのか、蛇は一切の反応を示さない。
 私は適当な木からこれまた適当な長さの枝をへし折る。細く、腕ほどの長さの枝を手に持ち、いまだに図々しく玄関に居座る蛇へとその切っ先でつつく。
 すると、何度かつついてようやく蛇が身じろぎする。鎌首を上げ、その目が私を捉える。無感情な目は、私を敵として見ているのか得物として見ているのかも分からない。しかし蛇は逃げることもせず、持ち上げていた首をだらんと階段に投げ出し、背中の羽を力なく投げ出すみたいに広げた。
「……羽?」
 そこでようやく、私は目の前のそれがただの蛇ではないことに気付いた。手に持っていた枝を放り投げて近寄る。その羽……翼というべきか、コウモリに似た特徴的なそれが蛇の背中から生えている光景に、私は見覚えがあった。
「お前、あの時の蛇龍か?」
 蛇龍。
 私とそいつとの関係は、そう長いものではない。以前、見た目ただの白蛇だったそいつを森の中で見かけた私は、捕まえて色々と使ってやろうとした。貴重な魔力を生む白蛇は、魔女にとっては金の生る気、金の卵を産む鶏だからな。
 しかし偶然にも白蛇を家まで持って帰るのに使ったのが動物の声が聞こえる聴耳頭巾(ききみみずきん)だったおかげで、話は思わぬ方向に逸れた。白蛇を利用してやるはずが、逆に私が白蛇にいいように使われてしまい、最後には百鬼夜行絵巻に封印されていた白蛇の邪を解き放ち、見事こいつは龍の仲間入りを果たした。翼が生え、体も黒く染まった。
 高貴なるこの魔理沙さんを利用したこいつもこいつだが、最初にこいつをとっ捕まえて利用しようとしたのは私だ。こいつとの付き合いはそこで終わったが、決して悪い関係ではなかった。それなりにはお互い信頼していたからこそ、蛇竜は封印から解かれたし、その謝礼として私は貴重な龍の爪をもらった。
 しかしそんな龍が、龍の住処たる雲の上の上へと旅立ったはずのこいつが、今は薄汚いこの地上で力なく横たわっている。
「お……おい、お前! 大丈夫か⁉」
 そこでようやく、事態を頭が認識する。まさか天上住まいの身であるこいつが、わざわざ私の家を訪ねてこんな冷たい石の上で好き好んで寝ているはずがない。
 異常であることは、明らかだった。
 私はその体を抱きかかえる。ぐたりとしたその体が手から滑り落ちそうになり、慌てて手繰り寄せるように抱きかかえると、蛇龍もその長い体を緩やかに私の腕へ巻き付けてくれる。それでようやく、こいつがちゃんと生きているのだと実感出来た。
 そして扉を荒々しく開ける。そこには、目を見開いてこちらを見るアリスの姿があった。私お気に入りのソファに揺られながら、手に持ったティーカップが空中で固まっている。出ていく前の光景と全く同じまま、ノックもなくいきなり入ってきた私に驚いていた。私が今朝家を出ていってから結構な時間が経過しているだろうに、まだこいつは居座っていたらしい。呆れの言葉の一つでも言ってやろうかという考えが過ったが、今はむしろ都合がいい。
「アリス、湯だ。湯を沸かせ!」
「わ、分かった」
 私が指示を出すと、困惑しながらも律儀に答えて立ち上がる。
 龍の保護の仕方なんて私が知っているはずもないが、それでも何かやらなければこいつは衰弱死するだろうと、そう思わずにはいられなかった。
 蛇龍を抱きかかえたまま机の上に積まれている本たちを腕で押しのける。何冊かが床に落ちてばたばたと音を立てるが、それに構うのは後でいい。そうして生まれた空間の上に蛇龍をそろりと置く。
「お湯、沸かしたわよ!」
 さすがアリス、仕事が早い。もしかしたら紅茶用にと既に湯を沸かしているところだったのかもしれない。
 湯を湯たんぽに注ぎ、それを布でくるんで机の上に置く。そしてその上に蛇龍を乗せる。これであっているのかも分からないが、手当たり次第でもやらなきゃいけないと思った。
「ホットミルクでも飲むかしら」
「ああ、頼む」
 私が答えると、アリスはミルクを入れた小さな皿を蛇龍の前に置く。ミルクは湯気を立てているが、蛇龍のやつが口を付ける気配はない。そもそも蛇や龍がミルクを飲む物かも分からん。
 何をしていいか分からず、苛立ちからがしがしと頭を掻いていると、蚊の鳴くような、か細い声が聞こえた。低く、どこか人とは違う異質な声。
「迷惑を掛けるな、魔理沙殿……」 
 振り向くと、蛇龍はいまだ身じろぎすらせず湯たんぽのベッドの上に横たわっている。しかし心無しかその顔は安らかであるように見える。
「おい、大丈夫か……?」
 話し掛けると、蛇龍は震えながら首を持ち上げた。今はそれすらもやっとなのだと、そう訴えているようだった。
「ああ、何とかな……」
「私は何をすればいいんだ、蛇の世話なんてこっちは碌にしたことないんだぞ」
「……すまぬが、今はこのまま休ませてほしい」
 消えそうな声でそう言うと、持ち上げていた首をかくんと落とす。
 目はうつろに焦点が合っていないが、そもそも蛇は瞼を持たない。蛇龍もそうかは知らないが。だからこれは、きっと寝ているのだろう。
「……ひとまず、峠は越えたということかしら」
「ああ、そうだろうな」
 私は先ほどまでアリスの座っていたソファにどっかと座る。それと同時、体の中の疲労感がソファへと流れていくような感覚が全身を包む。ふぅと口から溜め息が漏れた。
「ねぇ、何があったの?」
「……さあな」
 アリスの問いに、私は手をひらひらと振りながら投げやりに答える。アリスはそれきり、質問をしなくなった。アリスからしてみれば、いきなり容態の悪い蛇を抱えて私が帰ってきて、しかもそいつが人語を話したんだ。ついて行けないのも止む無しだろう。だが、説明する気力もない。
 ソファに全身を投げ出して見上げる。天井が見える。
 今日は疲れた。なんとも騒々しい一日だった。
 あいつのいる博麗神社に行って、紅魔館に行って、人里に行って、また博麗神社に戻って病人の看病をして。家に戻ってきたらもう一匹病人が現れやがった。
 まだアリスがこの家にいるが、相手をする気にもならん。今日はもう寝てしまおう。
 帽子を顔の上に置き、目を閉じる。疲れが溜まっていたからか、湯を沸かしたりしたことで室温が上がっているからか、急激な眠気が私を襲ってくる。
 ソファに揺られながら、眠気眼で考えるのは、今日あったこと。
 これは多くの異変に首を突っ込んできた私の勘だ。あいつの勘ほど便利なものではないが、それでも私の勘は明確に警鐘を鳴らしている。

(これは、異変なのか?)

§

 蛇龍を拾ってから数か月が経過した、朝。
 こんこんと、私の家の扉がノックされる。
「んあ……、誰だよ朝っぱらから……」
 その音で、私は目が覚めた。窓の外を見る。まだようやく空が明るみ始めた頃だというのに、来客か。
 ごんごん。
「あーい、出るよ」
 ベッドの上でしばらくぼうと微睡んでいたが、さっきよりも大きなノックが鳴り、私は適当に返事をした。
 そして伸び一つ、私はネグリジェのままのっそりと起きて玄関へと向かう。寝ぐせで髪もあちこちが跳ねていて、だらしない格好だとは自分でも思うが、まあ気にする必要もない。
「はいはい、こちら霧雨魔法店ですよ~っと」
 扉を開けると、そこには女が立っていた。頭には赤いフードを深く被り、厚手のローブを着こみ、手には長い白手袋を付けている。口元以外に肌が露出している部分はない。もう夏も最中だというのに、見ているだけで暑苦しくなる格好だ。それはきっと、暑そうに絶え絶えな吐息を漏らす目の前の女が一番よく感じていることだろう。
 今泉影狼。迷いの竹林に住む狼女。
 狼女なんて狂暴そうな種族にも関わらず以前からなよなよしていて他の妖怪とつるみたがる珍しい妖怪だったが、今はそれに輪をかけて消えてしまいそうなほどに覇気の一つも感じられない。
 だが、今となっては珍しくもない光景だ。
「あー、いつものか?」
「う、うん。お願い……」
「分かった。準備するならちょっと待ってろ」
 私は扉の前に立つ影狼を外においたまま扉を閉める。洗面台でがしがしと髪を櫛で適当に直して顔を洗い、キッチンで適当にパンを幾つか口へと押し込み、服もいつもの魔女じみた白黒のそれに着替える。
 鏡をチェック。うむ、いつもの可愛い魔理沙さんだ。
「それじゃあ、少し出掛けてくる。なあに、すぐに帰ってくるさ」
 私は手に取った帽子をひらひらと振りながら、今やすっかり同居人となった蛇龍に一言告げる。蛇龍は身動ぎせず、まるで老犬のように尾の先をぷいっと持ち上げ、そしてぱたんとその場に落とす。どうやら私の意思は通じたらしい。
 扉を開けると、先ほどと変わらず影狼が律儀に立っていた。相変わらず所在無さげで、今にも消えてしまいそうだ。
「待たせたな。それじゃ、行くか」
「う、うん……」
 私が先を促すと、影狼は私の後ろをしずしずと歩き始める。まるで初心な女性と初めてのデートでもしているような距離感だが、私はこいつの恋人ではなく護衛なのだから影狼には私の後ろではなく前を歩いてほしいものだ。行き先は知っているから問題はないが。
 そう、護衛。
 蛇龍を保護してから数か月が経過し、あれから大きな変化が幻想郷に起きた。
 妖怪という妖怪が、力を失いつつあるのだ。
 個体によってはその影響はまちまちで、蛇龍のように立つこともままならないもの……多くは弱小妖怪だが……もいれば、私の後ろを歩く影狼のように人並み以下、人間の姿をしているやつなら見た目相応の少女のそれにまで衰えているやつもいる。どんなに腕っぷしの強い妖怪も、伝承で語り継がれる恐ろしい妖怪も、多少の個体差はあれど碌に飛ぶことすら出来なくなり、人間と同じように体が傷付けば簡単に命を落とす、そんなか弱い存在となった。
 アリスだって、今じゃベッドで寝ている時間が増えた。元々魔女というのは自前で魔力を作るのは不要な存在。引きこもっていても飯の心配が不要で、たまの見舞いで済むのは助かるが。
 そしてそれは、こと人間に対して大きな意味をもたらした。
 一部の人間が、妖怪狩りじみたことを始めたのだ。これまでは妖怪が跋扈し安易に立ち入ることの出来なかった森や山に自ら出向き、弱った妖怪を攻撃して回っているのだ。時には妖怪たちの命すら奪っている。
 そいつらは自治だの安全確保のためだのとご大層な言い分を並べているが、それが妖怪への憂さ晴らしが目的なのは、火を見るより明らかだった。そして、それを咎める人間は、人里にほとんどいない。表立って称賛する者はいるが、否定する者はほとんどいない。それどころか人里で妖怪を見かければ石を投げる始末。皆、妖怪の陰に怯え狭い人里で暮らすことに思うところがあったのだろう。人里は妖怪のための人間牧場なんて言われることもあったくらいだ。
 稗田家は妖怪寄り……というよりも人妖共存の立場を異変発生の当初から表明していたからか人々に受け入れられずその立場が揺らぎ、人に尽くしてきたはずの慧音ですら半妖と知れている彼女は人里にいられなくなって妹紅の家で厄介になっていると聞く。
 当然、そのような人里に妖怪が入り込めばどうなるか。ついこの前までは正体を隠し人として振る舞おうとする努力さえ見せていれば、妖怪だと看過されても邪険にされることはなかったのだが、今は違う。
 こんな時に真っ先に動くべきはあいつなのに、全く動く気配がない。神社に引きこもったままだ。今じゃすっかりぴんぴんしているくせに、職務怠慢だろ。
 だから、こうして影狼はじめ人里までの護衛を私に依頼する妖怪が増えた。人里で妖怪とバレないようにするための付き人として、あるいはバレた時に逃げ帰るための捨て駒として。
「にしても、人里に用事があるなら、自分から行かなくても誰かに依頼すればいいのに。どうせ買い物だろ? 私は払うものさえ払ってくれればそういうのも請け負っているぜ」
「……買うものはちゃんと自分で選びたいし、あと蛮奇ちゃんの顔だって見ておきたいし」
 弱弱しい声だが、意思を変えるつもりはないと表明するような、そんな強さを感じた。
 人間のフリをして、人の近くでないと生きていけない類の妖怪もいる。今は赤蛮奇のやつも人里で身を潜めているのだろうが、お前が会いに行くことによって秘密がバレる可能性も上がってしまうということを、こいつは分かっているのだろうか。
 しかし、こちとら金を積んで依頼されている身。雇い主の意向に逆らうつもりはない。
 飛べない影狼とともに足元の悪い魔法の森を歩いて抜けると、既に高く上った太陽がさんさんと照っている。陽が地面まで届かず気温の上がりにくい魔法の森とは違い、森を抜ければたちまち初夏を示すような、じりとした暑さを感じる。きっと、後ろで更に息が荒くなり犬のように口を開けて呼吸する影狼はそれを私以上に感じていることだろう。
 ……こいつ大丈夫か? この時期でこれだ。本格的な夏が始まれば、そんな服なんて来ていられないだろうに。
「なあ、やっぱり無理じゃないか? そんな厚着で苦しそうな息を吐いてちゃ、かえって人里で目立つぞ」
「……きょ、今日は、頑張る」
 それでも意思を変えようとしない影狼に、私は思わずぐしぐしと頭を乱暴に搔く。
 臆病なくせに、変なところで頑固なやつだ。これが友に会いたいという想いが故の行動だろうか。きっと、夏になってもこいつは友に会うためにこうして厚着して人里へ向かうのだろう。
 天を見上げる。
 そこには、今までと変わらない、いつもの空だ。太陽が照り、青々と澄んだ、平和な空だ。
 しかし、地上はそうではない。理由は分からないが、大きな変化、異変が幻想郷に起きている。そして、この綺麗な空にある蛇龍が元居た雲の上の上の地も、何かが起こっている。原因も分からないまま、ただ幻想郷が荒れていく。

「いったい、幻想郷はどうなっちまうんだ?」

 天へと呟いた声が、どこに届くともなく消えていった。

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