『旅に出るならどこまでも』
彼女は彼らの遊びによく混ぜてもらっていた。鳥とか虫とか、妖精とか。かくれんぼとかそういう、彼女自身も幼い頃の話だ。里などでばったりと出くわすことが減ってから、それ以降の彼らのことは何も知らない。別に大切な思い出というわけではなかった。それでもたまに、結界やらなにやらについて学ぶ日々の中、ふいに思い返してしまうのは、彼女がその単調な日々に不満を抱いているからだろう。彼女、橙にとって八雲藍は悪い人物ではなかった。藍は当然のように橙に〝よく〟した。主人の主人にしても、そう変わりはなかった。だからこそ、橙は溜息のひとつ吐かずに暮らせている。それは秋にしても、冬にしても、そしてこの春にしても変わらない。
枯れ朽ちた木の葉の山は雪の混ざった木枯らしに吹き飛ばされて、銀世界もいつか暖かい日のにわか雨にやられて綺麗さっぱり消えていた。とどのつまり、広い畦道には青空のミニチュアのような水たまりのいくつかが残るのみだった。その水たまりたちにしても、連日の晴天にはみるみる縮んでしまっていて、あと半日もしないうちに消えてしまうだろう。現に橙の靴底といえば綺麗なもので、地面はぬかるみさえ残してはいなかった。
畦道から引き返し、里を抜け、柳を抜けて森を越え、するりするり、といったふうにマヨヒガに辿り着く。太陽は未だ畦道でみたのと同じ位置にある。橙は馴染みの廃墟たちを一瞥しながら玄関の戸に手をかける。がらがらと音を立てる引戸の先、土間には藍の靴がちょこんとあった。橙は無いはずの忘れ物に足止めを食らったときみたいにきょとんとした。そしてすぐに、確かめるまでもなく懐にある財布に気づいたとき程度にハッとする。
「いま戻りました。すみません、少し出ていて」
靴を脱ぎながら、茶の間にいるであろう藍に聞こえるくらいの声で言った。廊下を軋ませて障子を開けると案の定、座布団の上、綺麗な居住いで藍はそこに居た。円卓には急須と湯呑みの一式が置かれていて、藍はその綺麗すぎる居住いのまま、せんべいやなんかを齧っていた。橙はお茶菓子の備蓄をしない。それは藍が持参したものなのだろうな、と橙はそんなふうに思った。開いた縁側から陽がさして、畳をくっきり照らしている。
「おかえり。来たらいないもんだから、待たせてもらってたよ」
「そうですか」
棚の上、逆さまの湯呑みをひとつ取って、対面の座布団に腰を落ち着ける。「いいですよ、自分で汲みますから」橙は藍が伸ばしかけた手よりはやく急須を取って、湯呑みにお茶を注ぐ。「そうか」と、藍はそう言って、やおら湯呑みに手を伸ばしてそれを啜った。何の気なしに、といったふうに、目元は縁側の方へ伸びていた。橙も二、三口をつけてひとごこちつく。
「あ。すみません着たきりで。着替えてきます」
返事ともない返事を聞き流しながら奥の襖を開ける。そのとき、何の用だろうか、などと橙は考えたが、別に用などあるはずもない。橙と藍の関係といえば、埋没した主従という語句以外は、ほんの少しだけいびつな母子みたいなものであり、用などあろうがなかろうがなんだってよかった。橙が着替えを済ませて居間に戻ると、藍は例の、何の気なしに、の顔を橙に向けて口を開いた。
「部屋着、ってやつだな」
「まあ、そうとも言うんでしょうけど」
へえ。とまたせんべいに手を伸ばす藍といえば、一貫して〝何の気なしに〟だった。橙も同じようにせんべいを口元に運ぶのだが、なんとなく居住いを正してしまうような、なんだかぎこちない感じでいた。
「もうすっかり暖かくなりました。向こう、桜も咲く頃でしょうか」
言うと、藍は口元まで運んでいた湯呑みをそのまま止めて、何の気なしなその目元で、橙をじっと見る。そこらの小鳥がチッ、チッ、と鳴いて藍はようやく湯呑みに口をつけた。「いや、まあ」そして卓に戻した湯呑みから手は離さずに、神妙な声色で言う。
「特に用はないよ」
「はあ。そうですか」
ぬるくて緩い風が吹いていた。二羽の小鳥がばたついて、地べたから屋根に移動した。水たまりは、濡れて変色した土がなければそれとわからないほどちいさくなっていた。
「紫さまはなにか言ってませんか」
「いや、なにも」
それからいつも通りにお茶をして藍は帰って行った。藍が帰れば、それから橙は雲が流れるようにして、その日の暮らしをやった。
振り向いた視線の先、広い畦道に水たまりはもう無い。代わりに小さな石ころがあった。これといって特徴のない、ただの石ころだ。橙はふいと向き直って、そのまま歩く。細かな砂利は一歩ごと、微かな砂埃をたてている。脇の草花に白い花弁をつけた、花柱の黄色い花がちらほらあった。その花の白や黄色ときたらいかにも雨風にうす汚れたふうでいて、たくましさよりも侘しいような感じがした。
「まあ、好きなようにやるといい。近頃は平和だから」
橙はひとりごちて、また歩く。それは帰りしな、藍がいつも口にする言葉だった。昼間っぱらあてもなく畦道をゆく橙なら、もちろん好きなようにやっている。住んでいる土地柄、金銭に困ることもなかったし、数日を外食のみで済ませることさえある。橙はうす汚れた草花を見送って、気のすむまで歩き続けた。近頃は陽も伸びて、空はいつまでも青かった。だから、ひょっとすると、この青ときたらどこまでも続いているのではないか、と橙は思った。
それから程なく畦道を引き返して、橙は人里に紛れ込んだ。遅めの昼食でも摂ろうかという算段でいた。里はちょうど買い物どきのようで、そこかしこに人がいて、店の者は各々声を上げて客を集めたがっている。橙は眉をひそめて早足で店を探した。橙は里が嫌いで、里を歩くときはいつもふしぎと苛々していた。飲食店にしても、八百屋にしても、菓子屋にしても橙は嫌いだった。いま橙が探しているのは今日の舌に合う昼食で、つまりは飲食店なわけなのだが、一口に飲食店といってもこの里では高級な料亭のように、一つの店でいろいろな品を出す店は少なく、結局、食べたい物が決まっていなければそれだけ歩かなくてはならなかった。
各々が各々の椅子にぽつりぽつりとちいさく収まっている。里とはいうなればそんなところで、橙はそれが嫌でたまらなかった。早足をかけながらふと、橙はいつか主人らから聞いた、外界の、コンビニエンスストアについてを思った。そんな便利なものが、とそこまで考えると、橙はことさら苛々として、走り出したいような、いっそその場に倒れ込みたいような、異様な面倒さに取り憑かれた。もうなんだっていい、と入った喫茶店の軽食は、それなりに橙の空腹を癒した。
外界には里以上に、人も店もひしめいているという。どこかにはなにかがあり、だれかがいて、またなにかをしている。橙は想像するだけで聞き齧りの外界を嫌った。夕飯の材料を提げながら歩く帰途は夕暮れて、つまらないような感じがしたが、橙はやっとひとりになって人心地のついた気分だった。辺りには見向きもしない。それほどに慣れた帰途であって、ここを歩いて帰る最中だけ、橙は真に落ち着けるような気がしていた。だから、実際に家に着くのが億劫に思えて、ときどき立ち止まって、道の脇に座り込むことがあった。けれどその度に、誰かが探しに来るような、そんないやな焦りを感じて、橙はすぐに立ち上がって歩き始めるのだった。今日も橙はじっと座り込んでみようかと思ったが、その先を考えると、ただ陽が落ちて夜が来るだけなのがつまらなくて、結局はしなかった。道の端に咲いた花々は畦道のそれと同じように、ひた歩く橙の背を見送るのみでいた。
マヨヒガに帰ると橙はいつも猫の一匹だけに餌をやった。餌をもらうのはいつも茶色の斑で、橙がその他大勢いる猫たちに餌をやることは一度としてなかった。その斑に愛着があるわけでもなかったし、他が嫌いということもない。それは本当にただなんとなくの、いわば橙の習性のようなものだった。こんなふうに、すべてがなんとなくだったらいいな、と橙は思った。玄関の前、餌をもらった斑が鳴く。
「さあねぇ」
橙は猫に応じるように呟いて、戸を閉めた。何に手間取ることもなく、橙は暮らしをやって、にべなく床に着くのだった。
夜が更け、空が白み始めたころのことだった。橙はけたたましい騒音で飛び起きた。音はどうやら玄関の方から聞こえてくる。泥棒でも入ったのかもしれない。橙は神経を尖らせて、できるだけ足音を立てぬよう、慎重に玄関へと向かった。するとどうも泥棒ではないことがわかる。横開きのガラス戸はけたたましく揺れていたが閉じていた。鍵は閉めていなかったから、押し入ろうという気はないらしい。ともすれば騒音は、正体不明の、粗野な来訪者のノックによるものらしかった。ノックをするだけ礼節をわきまえていることがわかって、橙はひとまず息をついた。けれどまだ安心はできなかった。橙にはこの空の白む早朝に押し掛けてくる人物の心当たりが一切ないのだ。交友など、このところの橙には一人だって思い浮かばない。せいぜいたまに会うのは何を考えているのかわからない主人程度なもので、その主人、八雲藍が訪れたならノックなどせずに勝手に入ってきているところだろう。橙は廊下にじっと立って、しばらく様子をみることにした。
「すみません! すみません! 橙ちゃんのお宅でしょうか!」
声を聴いた途端、橙の記憶がじくりと刺激される。聞き覚えのある声だった。なんだか懐かしいような、ぜんぜん、そんなこともないような……そんな女の声だった。しかし声の様子といえば焦りに焦りまくった感じでいて、どことなくあどけなさの残る、どちらかといえば少女の声だった。橙はぎゅっと目を瞑り、額を手で覆って記憶を辿る。戸口は未だ叩かれて、叩かれるたび、ガシャンガシャンと鳴っている。
「違ってたらごめんなさい、でも、違っててもいいから、はやく戸を開けてはくれませんでしょうか!」
ひどく切迫した様子で、ドアの向こうの少女は言う。誰だったか、誰だったか。こんどは両方のこめかみに掌底をぐりぐりとして、橙は声の主を思い出そうと必死になっていた。本当に幼いころ、一度か二度か、会って話をしたような……おぼろげな記憶はぼやけたままでいて、切迫しているらしい少女はおそらく窮地に立たされたままでいた。
「お願いします、お願いだから! 怪しいものではないんです! 正義感が強いんです! かねてよりの人助けの返礼に、賞をいただいたことがあるんです!」
とんちきめいている! 橙はさらに混乱した。もはや頭を抱えていて、今にもうずくまってしまいそうなほどだった。こんな知り合いがいたとは思えないし、むしろ思いたくないような感じもした。平穏、おだやかな日々、冷たい静寂の午後、例の、気まずいお茶の時間……そんな自分の空間に、なにかやかましいのが割り込んでくる。橙はなんだかぞっとして、眩暈と似た感覚を覚える。戸口の向こう、少女がまた口を開けば橙はおそらく応対をする。しなければならなくなる、或いはさせられてしまう。戸はガシャンガシャンとけたたましい。それだけ焦っていて、家主の許可なしに押し入らないのが不思議なほどだ。
「すみません! すみません! 説明をします! 迷子なんです! 里におつかいを頼まれたんです! よし帰ろう! そう思ったらいつのまにか夜になってて……でも、おつかいの品はぜんぶちゃんと買ってあるんですー!」
橙は急に苛々としてくる。ガシャンガシャンはいつまでも鳴り、要領を得ないその声はだんだん悲鳴に近づいてゆく。一、二、三秒……不意に橙はカッとなって、ずかずかと戸口へと突き進み、そのままぴしゃりと戸を開けた。
「あ、あぁ……! 橙ちゃん、橙ちゃん! おはようございます。それから、おひさしぶり……」
正体不明、粗野な来訪者、厄介なとんちき。さまざまあるが、その騒音の正体は半人半霊の庭師だった。橙を見るやいなや、おひさしぶり、とそう言って、魂魄妖夢は目を回したかのように、きゅうとその場に倒れこんだ。橙はすべて合点がいって、頭のなかにだけ妙な快さが満ちていた。胸中では面倒くささが渦を巻いて、それがそのまま顔にでていた。ひとに会えた安心からか気を失った妖夢を前に、橙は思いっきりに顔をしかめていた。
「やだなあ。だから、あげると言っているんです。だって困るでしょう、お客様が来たのに、お客様用のお茶とお茶菓子がなかったら。だからあげると言っているんです。わたしが買ってきたこの、お茶と、お茶菓子を」
昼過ぎに目を覚ました妖夢はにこにことして、ご満悦といった感じで、座布団に座りお茶をたのしんでいた。対面の橙といえば顔をしかめて、苛々している、ということを世界中に知らしめるべく頬杖をついて妖夢の口元あたりをみていた。その口元には次から次へと茶菓子が運ばれてゆくから橙はやりきれない。おつかいの品ではなかったのか、どうしてゆったりくつろいでいるのか、何故そうまでして橙に茶を汲ませたのか。疑問はさまざまあった。「ねーねー覚えてますか? ちっちゃい頃、うちのお庭で遊びましたよねー(遠い目、茶菓子食べる)」橙にとって妖夢ははた迷惑な人泣かせだったが、妖夢自身はあくまで自分をお客様だと思っていた。「あのころ橙ちゃんってば、ちっちゃくて……ま。わたしもちいさかったんですけどね(へらへら)」そのところが、橙がお茶汲みへと貶められた要因といえるだろう。橙はさっさと話を進めてしまおうと口を切った。
「それで? 帰らなくていいの。こんな、ゆっくりしてるけどさ」
「なにを。帰れるわけないじゃないですか」
「なぜ?」
「わたし、おつかいを頼まれて出て来たんですよ? お客様用のお茶と、それからお茶菓子。あげちゃいましたもん、橙ちゃんに。ぜんぶ」
「じゃあ、里に戻っておつかいの品を買って、とっとと帰ったらいい。こんな真昼間だ、その……妖夢、ちゃん、の言うところの、お化けなんてでやしないだろうから」
橙の言葉に妖夢は本当に不思議そうな顔をして首をかしげる。――目を覚ました妖夢に橙は、まず何をあそこまで切迫した様子だったのかを尋ねた。返答と云えば、お化けがでるから、ということだった。ふわふわの化け物を引っ提げて何を言っているのか、橙は理解に苦しんだが、なんとか気持ちを飲み込んだ。それから妖夢は橙に、自分を、妖夢ちゃん、と呼ぶように強制した。まったく応じる気のなかった橙だが、あんまりにしつこく訂正されるものだから、それもしかたなく面倒さと一緒に喉の奥へと押し込んだ――
「? ……だから、帰れませんよ。迷子だって、言いましたよね? あれ? 言ってない……?」
妖夢は真剣に悩み始める。橙は真剣に自殺についてを考え始める。「いや……いいえ! わたし言いましたね、ぜったい! 迷子だってことは、たしかに伝えていました!」橙は殺鼠剤の入手経路まで考えて我に返る。では、結局いったい、妖夢は自分に何を求めているのだろうか。頬杖をついたまま、橙は無意識的に目をまん丸にして宇宙の方角を眺めていた。「それにぃ。お化けって夜とか昼とか。そういうの関係ないんですよ。迷子になったらでるんです。迷子のもとに化けてでるんです。夜でも昼でも、オールウェイズってやつですよ。ご存じありませんでしたかね。ふふん」広義的かつ好意的に解釈すればあながち間違ってはいない戯言も、橙は耳をただの穴にすることでなんとか聞き流した。宇宙は常に膨張を続けているらしいが、同時に常にしぼんでいるらしい。宇宙は底知れぬ暗闇と未知とで飽和していた。暗中模索、橙はまん丸お目目のまま言った。
「じゃあ。道案内をするよ、私が。そしたら里で買い物ができる。そしたら帰れる。私ももどれる」
「どこにもどるんです? というか。道案内はいりませんよ。やめてください!」
「じゃあ。着いていかなくていいのか。買えるのか。帰れるのか」
「? ……着いてきてくれなきゃ帰れませんよね?」
「道案内いらないって言った! 言った言った! ぜったい言った!」
「アハ。落ち着いてくださいよう。道案内はいりませんけど。でも着いてきてくれなきゃお化けがでるんです」
「夜でも昼でも、オールウェイズって言った! 私道案内しない、昼でも夜でもお化けでる、私着いていく意味ない!」
「ふふん。ま。そこが橙ちゃんとわたしの違い……といったところですかね。わたしは迷子なんです。そして、橙ちゃんは迷子じゃない。土地勘がある。橙ちゃんが着いてくる。お化けでるにでられなーい!」
「道案内を拒む意味がわからない」
「わたしが頼まれたおつかいですよ。わたしが頼まれたおつかいはわたし一人で済まさなきゃいけません。そして、おつかいは帰るまでがおつかいです。道案内がいたんじゃ、一人でおつかいができた! って、そう言えないじゃないですか。そんなの、お嬢様に面目が立ちませんよ。あははは!」
急に笑いだしたと思えば、妖夢は湯呑を一気にあおって、からになった湯呑をダンと机に叩きつけて立ち上がる。
「さあ行きましょう! 橙ちゃんがいれば百人力。さしものお化けたちも手出しはできますまいて。だからしっかり、遅れずに、わたしの後を着いてきてください。いいですね!」
瞬く間に身支度を終えた妖夢は、出発、と威勢よく吐いて家を飛び出してゆく。半ば取り残されたかたちの橙はどうしようかしばらく迷ったが、結局は――行かなければどうせ戻ってくるので――しかたなく、ゆっくりと身支度を始めるのだった。
「橙ちゃーん! 遅いですよう、遅れないでくださーい!」
もう遠くの方から声が響く。ふいに、橙の足元に例の斑猫が寄って来ていた。
「なんだか、一日かかりそうだなぁ。そうだお前に、餌やっておかなきゃな、っと……」
橙は棚からいつもの餌を取り出して、斑の近くへとさっと放る。そして、ひとまず大きく伸びをして、それから家を後にした。
マヨヒガを抜けるのにも苦労した。そして雑木林を歩けば四辻にぶち当たるものだから最悪だった。なにより辛辣なのは橙が一切の口出しを禁止されていることだった。マヨヒガを出るときも、橙がそれとなく方向を示唆しようものなら妖夢はハッとして「もしかしていま誘導しようとしてませんか!」と鳴くから、橙は本当に心がつらかった。そしていま、林の四辻でも、橙は同じ歯痒さを噛み締めている、言いたいことを言えないというのは、ほんとうにつらい。
「ここ、前に通ったことがあります。だから、多分こっち!」
……橙は沈黙を保ったまま、過ちを繰り返す妖夢の背を追った。背後の方角から里が自分を、大声で呼んでいるような、後ろ髪を引かれるような、そんな忸怩とした気分で林を歩いた。妖夢の選んだ道は例の、あの畦道へと続いている。揚々と歩く妖夢のうしろで、橙はため息を吐いた。その、例の畦道というのはどこかへ行くための道ではなく、どこへも繋がっていない、どこまでも続く道だった。歩めども歩めども、後方の石ころひとつ振り切れやしない、橙にとっての孤独の道だった。慰めにもならない薄汚れた花々を思い出す。鮮やかではない、濁った白色、黄色い花柱――。
「わ。道がひらけましたよ。一本道です。ゲンフウケイ、みたいな感じ。空が広くって、青い!」
妖夢の声にハッとして顔を上げると、すでに橙は例の、どこまでも続く、どこへも繋がっていない畦道にたどり着いてしまっていた。
ざ、ざ、とふたりの靴底がそれぞれ砂埃をたてる。気分良さげな大股とは対照的に、橙はその後ろをとぼとぼ歩いた。ちらと脇道を見やれば草花はいつもと同じく薄汚れていて、ふと振り向けば小さな石ころがある。橙はふいと向き直って、蛇口をゆっくり捻るみたいに、不満げな声をこぼした。
「ねえ。本当にこのまま、こっちに歩くのかい。……妖夢ちゃん、この道しってんの」
「歩きますよう。なんですか、あにはからんや藪から棒! ま。しらない道ではありますが、すべての道はある場所に繋がっているんですよ。安心でしょう」
「ローマか、マヨヒガにだろう。言わせてもらうが、この道はどこにも繋がっちゃいないよ。どれだけ歩いてもいっしょ。いつでもすぐに元へもどれる」
「ええ。でもたしかローマ……。あ。マヨヒガはローマにも繋がってるってことですか?」
「悪いね。ローマなんて場所、ほんとは無いのさ」
ほら。といって、橙は後方を指し示した。そこには石ころがひとつ転がっていたが、妖夢はきょとんとして、橙の意を解さない様子でいる。あれだよ、あれ! 言いたげに、橙は何度かそれを指さした。すると、妖夢は怪訝そうに顔をしかめて、橙に言った。
「もしかして、こわい話ですか」
「……いや。おばけなんていないさ。行こうか、わたしが黙ってついてゆくんだ」
「? ……あ! なるほどいやだなぁ、橙ちゃんってば。結局合ってるじゃないですか」
そうして、ふたりは歩き始める。
かれこれ数時間歩いて、すこし陽の陰った道の上。現在、橙はじっと地面にへばりつくように座り込んでいた。
「橙ちゃーん! はやく来てくださいよーう! 置いてっちゃいますよーう!」
「いやだ! 歩かない! もう一歩も動かないんだわたしは!」
あれから橙は何度も妖夢に説明をして理解を促した。はじめこそ振り切れない石ころを無言で指し示すのみに留めていたが、一向にきょとん顔の妖夢に痺れを切らして、階段を上るみたいにだんだんと、その説明のボルテージを上げていった。石がついてきているのではない、わたしたちが進んでいるようで進んでいないのだ。と、橙は大音声をもって何度も何度も怒鳴ったりした。その都度、妖夢はおばけが近くにいるのではとビクビクするので、橙はとうとう不貞腐れて地面に座り込んでしまった。もうテコでも動かないつもりでいる。
「橙ちゃーん、困りますよーう。おばけ、でちゃいますよーう! そんな、石ころみたいに座り込んで……素行が不良でならず者、ですよーう!」
「はああ? ふざけんな誰が石ころだてめえそこ動くなよ今から走っていくからよ!」
素行不良未満からの素行不良という指摘にバチバチにキレて橙は駆け出した。殴りに行くためだ。テコにでもなったつもりか何故かいい気になって待ち構えていた妖夢の頬に、橙は、ばか、あほ、と二度ビンタを入れて、足に足を引っ掛けてそのまま妖夢の身体を突き倒した。そして橙は間髪入れずに走り出す。突然の暴力に困惑した妖夢を置き去りにして全力で走った。急ブレーキで振り返って、橙は石ころのように小さくなった妖夢を指差して叫ぶ。
「どうだ! 誰が石ころだ! わたしか? おまえだよばーか! ……あああっ!」
その瞬間、橙の頭に電流が走った。それはイカヅチが如き閃きで、思い出すべき冷静さも、鑑みるべきジョウキョウも忘れたままに、橙は続けざま妖夢へ叫ぶ。
「おい! おい妖夢! 妖夢ちゃん! 後ろ、後ろみてくれ! さっきわたしが座ってたとこ!」
しかし、妖夢は怯えた様子で、橙には聞こえないほどの声で「なんなんですかいったい、も、もしかして……」と言う。この状況においては困惑も狼狽も動揺もすべてが許されるだろう。橙は妖夢に暴力を行使したのだ。妖夢は「う、うそつき……!」とうそぶいてから、やっとの大声で橙に応えた。
「橙ちゃんの嘘つき! やっぱり、やっぱりこわい話じゃないですか、でたじゃないですか、おばけが! ぜ、ぜったい振り向きませんよ、私!」
どうやら先に振るわれた暴力のことは気にしていないようだ。妖夢はその場に座り込んで、両腕を組み、ふん! と、そっぽを向く。テコでも動かなさそうな意固地さを感じる居住いだった。
「んだよあいつは……! ばか、ばか……あああっ!」
その瞬間、橙の頭に電流が走った。それはイカヅチが如き閃きで、そっぽを向く妖夢を思い通りの方向に振り向かせられる妙案だった。
「妖夢、妖夢ちゃん! そうだ、おばけが本当にでた! いまわたしの隣にいるから、絶対にこっちを見るなよ!」
「い、いわれなくてもみませんから! だって、そっぽ向いちゃってますから! ふん!」
「あ! おばけが妖夢ちゃんの視線に回り込もうとしてる!」
「ふ、ふーんだ!」
妖夢はそっぽを向きながら全霊でおばけを恐れ、首をそっぽへそっぽへと回した。当然、身体もいっしょに回って、今ではもう完全に橙に背中を向ける形になっている。橙の作戦どおりだった。
「妖夢ちゃん、おばけがそっち向かってるよ」
「ふ、ふーんだ! ……そそそそんなぁ! たすけて! 助けてくださいよう!」
「妖夢ちゃん、おばけは石ころが苦手なんだよ。石ころを探して投げつけるといい。それか花、あいつも苦手」
「ええと、ええと……!」
妖夢は泡を食って、地面を這い回るようにして石と花を探した。橙は不思議と昂揚していた。正体不明の期待感が胸中で空騒ぎしていた。それが長く続かないこともわかっていたが、その空しさでさえも、期待感と一緒になって胸中を踊るみたいにのたくった!
「……な、な、ない! ないですよう! 石も、花も! どこにも! ひとつも!」
ない、ない、無い。そのひと突きで橙の昂揚は爆ぜて消えて、すーっ、と冷静さがもどってくる。「そうか、無いのか」と独りごちて、遠くの、石ころと呼ぶには落ち着きのない半人に声をかける。
「ごめんね。おばけは消えたから、もどっておいで。先へ進もうよ」
「よ、よかった。もうだめかと……」
言いながら、妖夢は立ち上がって、ふらふら橙のもとに歩く。気がつけばまた陽がつよくなっていて、妖夢はまるで熱射病にやられた犬のようにもみえる。なんとかもどってきた妖夢に、橙は重ねて謝罪した。
「ごめんね。大丈夫かい、青ざめちゃって……。水持ってきたんだろう、飲むといいよ」
「大丈夫です。こわかったですけど……。それに橙ちゃんが謝ること、ないですよ。おばけが悪いんですから、おばけが……」
「いや、ごめんっていうのも、なんというか。嘘ついたんだな、わたし。妖夢ちゃんにさ。おばけ、まだいるんだ。後ろから追っかけてきてるよ」
「う、うそつき!」
妖夢は脱兎の如く駆け出した。駆けてゆく妖夢の背中にはもちろんおばけなどくっついてやしなかった。橙はゆっくりと妖夢の背を追う。だんだんと距離が開くと、妖夢は不安がって振り向いては、ちゃんと着いてくるようにと促した。しかし橙はもう走らなかった。現在、遠くから自分を呼ぶ妖夢の立っている地点が、結局のところの限界点であることをわかっていたからだ。きっといま、橙が振り向けばそこには例の石ころが転がっているに違いない。けれど、橙は振り向かなかった。理由は判然としなかったが、とにかく妖夢の気がすむまで歩き続けることにした。
「橙ちゃーん! はやくきてくださいよう! おばけに追いつかれちゃいますよう!」
「妖夢ちゃん、こっち向いちゃだめだよ」
「な、なんでですか!」
「振り返ったときにおばけがでるからさ」
「え、えええ!」
妖夢は後ろ早歩きで前進した。橙は緩徐として妖夢の後ろ向きの足跡を辿る。それは妖夢がおつかいのことを思い出す夕暮れまで続いた。
結局、自力でのおつかいを諦めた妖夢は橙に案内役を頼んだ。畦道を引き返すとき、すぐに例の石ころに出くわしたが、橙はそれに躓くこともなくコツンと蹴り飛ばしてみせた。蹴られた石は転がって、脇の草花に紛れ込んで見えなくなった。「知ってますか、オオイヌノフグリ!」花をみてはしゃぐ妖夢と隣り合って、橙は里へと向かうのだった。
妖夢のおつかいはすんなりもすんなりに終わった。そもそも迷子になるような距離でもなかった。おかげで、まだ空のオレンジのうちに橙はマヨヒガへ帰ってきていた。里で買った――買わされた――お客様用のお茶とお茶菓子、それから夕飯の食材を手提げに入れて、橙は玄関の戸に手をかける。がらがらと音を立てる引戸の先、土間には藍の靴がちょこんとあった。
翌朝、いつもより多く作ったため余ってしまった夕飯をやっつけて、橙は食器を洗っていると縁側の方で猫が鳴いた。いつもの斑が餌をもらいにやってきたのだろうと、棚からお茶菓子を取り出して縁側へ向かう。するとやはり斑はそこにいて、橙を見るや否や甘ったれるようにみゃあごと鳴いた。橙は昨夜のことを思い出して、じくじくと、胸の奥からなにか込み上げてくるような感覚を覚える。
「おまえ、自分で獲れるか。こういう、餌をさ。……勉強、しろ!」
橙は思いっきり遠くへと餌を放り投げる。斑がそれを、すごい速さで追いかけてゆく。四つ足の俊敏さといったらない。斑は遠くで小さくなって、どうやら獲物の茶菓子と格闘している。
「料理の勉強をするといい。近頃は平和だから……」
結局のところ、ひとはひとの目以上遠くへはいけないらしい。思い出すと、橙は困ったように――けれど声を出して笑った。
獏の話が好みです。真面目だけど邪なドレミ―がとても魅力的でした。