Coolier - 新生・東方創想話

短編集

2022/03/02 21:30:00
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 『ランタナ』

 夕食どき、箸を動かしながら、河城にとりは出し抜けに「その……」と切り出した。
「その。仕事さあ。……やめたら?」
 鍵山雛は箸こそ止めるものの、突飛な冷たさには慣れた様子で、はにかみながら答える。
「まさか。やめないわ。それに最近は、お金だってうんと貰ってるんだから」
 ああそう、とでも言いたげににとりは止めていた箸を動かし始める。雛にしたって、何も気にしていないみたいにして箸を動かしていた。雨戸からこつ、と音がして「風かな」とにとりは呟く。
「夕方から雨が降るみたい。ハンガー、仕舞ってくるわね」
 そう言って立ち上がろうとする雛をにとりは目で止める。
「……なにも、食べ終わってからでいいよ」
 言ったきり、にとりは食事を進めるから、雛は仕方なく座って、にとりと同じように食事を摂った。
 こつ、こつり、と雨戸が鳴る。雨戸の外、ハンガーは風に吹かれて揺れている。かちゃり、かちゃりと、箸の音がときたま鳴って、黙々と皿のおかずは嵩を減らした。
「ごちそうさま」
 食べ終えて、にとりが席を立つ。「食器運んでおいて。あとで洗うから」そう言って、自室へと引っ込んでいく。
「いい。わたしが洗うから。にとりちゃんはお仕事がんばって」
 廊下の奥から、ありがとー、と薄ら響き、同時にぱたんと扉の閉じる音がした。居間にはかちゃり、かちゃりと、ときたま箸のあたる音がして、そして雨戸はこつ、こつりと鳴っていた。黙々と、皿のおかずは嵩を減らす……

 ――“小高い丘に太陽が光り輝いている。やわらかな風が吹き、草原はきれいな毛皮みたいにそよぐ。広い川にはたくさんものが流れていて、それを生命だと云うひともいれば、ゴミだというひともいた。パー、パー、とどこかでラッパが響く。何かの報せのようでもあって、誰かの道楽のようでもあった。なんだかおなかの減る匂いがした。万国旗の鉄板、はたまた木の実のような、草木と混じった、あの日のお弁当箱のような、とても懐かしい匂いだった。けれど、太陽は徐々に沈んでいく。太陽に照らされてまっさらだった丘に、だんだんと影が落ちてゆく。卵黄色の太陽から次第に薄っすら滲み始める茜色は、なんだか申し訳なさそうに、それでいて、何かを急かすようでもあった。けれど、この果てしなく限りある世界には何かを惜しむ者などいないし、もっと云えば、本当はそこには誰も、何もないのかもしれなかった。けれど、そんなすべてはいつもどこでも懐かしく、鈍く輝き続けている。”――

 朝。起床した河城にとりはおもむろに自身の暮らしを始める。同じ家に済んでいながら、にとりは雛とはまるで他人のような調子で日々を過ごしていた。かといって、雛はにとりの洗濯物を干す。食事も二人分用意する。にとりは自室にて山から委任された案件を詰めていた。にとりはこの案件が終われば、今度は自身の用意した企画を通すつもりでいた。大詰めを迎えた案件に注力するよりも、よっぽど、拵えた企画書の出来を吟味した。ほどなくして迎えた朝食は昨晩のソレよりも静かなもので、にとりは自分が食べ終わるが早いか「ごちそうさま」を吐いてさっさと自室へ引っ込んでいった。夕食なら或いは、朝食ならば毎日がこの繰り返しだった。雛は食器を洗い、身支度をし、戸の向こうに「行ってきます」を告げて仕事へと出かけてゆく。

 にとりと雛が暮らし始めたのは随分昔のはなしであって、にとりと雛がこうなったのも、同じく古いはなしだった。にとりはそぞろに企画書を眺める。こうなったのはいつからだろう。などと、そんなことを、考えるでもなく巡らせて、ぼんやりとしている。雛が家をでればにとりはいつもぼんやりとした。むろん、考えるのは昔のことだった。楽しかったこと、悲しかったこと、笑っていたこと。眩しい……まるで褪せた写真のように鮮明で、おぼろげな、古いことばかりを考えていた。
 いったいなにが変わってしまったのか、にとり自身判然としないでいた。ただひとつ、いま現状、にとりのなかで明確なのは時代の推移だった。それは雛の仕事についてで、昔なら無償の奉仕活動とさえ呼べたそれは、今の時代では立派な商売として成り立ってしまっている。にとりにとって、それはいつまでも振り払えない、のどにつっかえた骨のように思えていた。

 暮れて鍵山雛が帰宅する。玄関の戸が開く音と同時に「にとりちゃん、お昼は」と声が響く。うたた寝していたにとりはやおら自室から出ていって「適当に済ませた」と雛に答えた。実際は、長いかんがえごとの最中に眠気がきて、昼食は摂っていなかったが、そんなことは互いにさしたる問題ではなかった。雛は「そう」とだけ言って、すぐに夕食の支度を始めた。にとりはそのあいだ、手持ち無沙汰に慣れた様子で、居間の座布団に座っていた。

 カーテンを閉めた部屋は明るい。明るい和室には箸と食器とがあたる音がする。騒音に満たない騒音は静寂の影に引っ込んで、その影の濃さを深くする。
「ねえ。やっぱりわたし、やめたほうがいいかしら」
 口を開いたのは鍵山雛だった。箸を止めずに、するりと言ってのける雛に、にとりは狼狽してしまう。一瞬、なんのはなしか掴めなかったのもあった。けれどにとりはすぐにいつかのことを思い出して、平静に努めて言葉を返す。
「どうしてさ、やりたいんだろう。それに、やめられるようなことじゃない」
 にとりの言葉に、雛の箸が止まることはない。にとりはそれを目視して確認し、その時点で、自分が箸を止め、雛の顔を見ていることに気が付いて、慌てて目をそらす。ぎごちなく、箸も動かし始める。
「そうなんだけど。でも、にとりちゃんが、やめたら、なんて言うからわたし……」
 言葉尻で、雛は持った茶碗が沈ませ、すこし俯き加減になった。にとりは内心で、なにか優位のようなものを掴んだ気になって次々副食を口へ運んだ。そして雛の顔に目を合わせることもせずに言う。
「いいよ、別に」
 声色は例の冷たさを含んでいた。雛は俯き加減のままにとりの目をみつめた。にとりはその視線に気付かないふりをして、雛とは対極に箸を動かしつづけた。雛はおもむろに、そんなにとりを推し量るように、緩徐として口を開いた。
「……体のことでしょう。心配ないわって、いつも言ってるじゃない。生まれた時からやってることだし、今だってなにも変わらないのよ」
「でも、お金を稼いでる」
 にとり自身、口をついてでたその言葉の意味がわからなかった。それは雛にとっては明確なにとりの矛盾だった。雛はあからさまに眉をひそめ、ちらりと合った視線を刺すようにして、しかしあくまで穏やかな口調でもって言った
「ねえ、なにが問題なの。にとりちゃんだって、それでお金とれるようになったらいいねって。昔言ってくれてたんじゃない」
 一寸の間を持ってにとりは言う。
「そうだよ、そうさ。だから、なにも問題ないって、そういってるじゃんか」
 そしてにとりは平然とする。雛はそれ以上なにも言えずに、それから、いつもの静寂が訪れる。ふたりは黙って箸を動かし続ける。ふいに雨戸が、こつ、と鳴った。雨戸は何度も、こつ、こつり、としきりに鳴った。

 はじめに貨幣制度の具体性に目をつけたは山の神だった。増え続ける魑魅魍魎の巣のなか不意に現れたそれは有無を言わさず波及して、伝播して、自然淘汰の末ついに妖の世界にも行き渡っていた。何事も血など流れないことがいちばんで、楽園であるならばよっぽど、当然の行く末だったと云えるだろう。その時点で、既に山と密接だった河童は幸運だったな、とにとりは感じた。みながあくせくと始める頃に河童はもう一定の地位に立てていたからだ。飛び抜けて裕福というわけではないが、食べていくのには困らない。にとりにとって不幸なのはどこにも所属のない一匹たちで、にとりは自分と雛にはなんの類も及ばないと、それだけで安心だった。実際、二人の生活にはなんの不足もない。あるのは当人がなんとかしなければならない問題のいくつかのみだ。現に、世界は平和に廻っている。

 昼過ぎ、にとりが帰宅すると雛の姿はなく、食卓には蚊帳に覆われた昼食と書き置きがあった。書き置きにはいつも通りの文言が綴られており、にとりはそれを確認するともなく覆いを外し、冷めた昼食にありつく。雛はにとりが山に行く際はいつも昼食を作り置きにして、書き置きまで残した。温めて食べて下さい、と書き置きにはそうあったが、にとりの啜る味噌汁は冷たく、副菜は固く味気ない。半分程度食べたころ、にとりはハッとして箸を止める。じっと、食卓を眺めるように見つめる。ちらりと台所の方を見やって、すぐに戻した。ため息ともつかぬ声をふ、と出して、にとりはまた箸を動かし始めた。外はどうやら降りだしたようで、雨樋がけたたましくなってくる。大きな水滴が落ちて、強かに地面を打っている。その衝撃で跳ねた砂利が縁の下を汚していった。遠くでごろごろと雷鳴が響き始める。にとりは我関せずをぎくしゃくさせながら、昼食を摂り続けた。

 夕方になって雛が帰宅する。にとりは玄関が開くのを聞いて、自室からのこのこと出ていった。雛は傘を持って行かなかったから、昼過ぎの土砂降りに曝されたのではないかと心配していた。しかし、雛の濡れていない髪や服を見るに、どこかで雨宿りしてきたようだった。雨はもう止んでいる。にとりは玄関で靴を脱ぐ雛を前にして言葉に詰まった。おかえり、と、にとりがそう発するよりはやく、雛は靴を脱ぎながら「にとりちゃん、お昼は」と口にした。それは問いかけのようで、そうでないようで、にとりは返答に窮する。作り置きの昼食の味はとっくに忘れていた。
「ちゃんと食べたよ」
「そう。いまからお夕飯作るから、ちょっと待っててね」
 雛は忙しそうな口調で言って、似たような、慌ただしさのある所作で台所へと向かっていく。にとりは「あの!」と雛を引き留めた。
「あの。お風呂、なんだけど。もうたいてあるから。その……たかなくても、いいよ」
 雛は一瞬、きょとんとしてにとりを見た。にとりは合ってしまった目をそのままに、二、三こくりこくりと頷いてみせる。雛は首を傾げて、それから得心のいったような顔をして、にとりに言った。
「あら。じゃあ、ご飯できるまで入って待っててね」
 にとりはこくり、こくりと頷いて、そのまま風呂場へと向かう。風呂場で服を脱ぎながら、浴槽でぼんやりとしながら、にとりはえもいわれぬ脱力感を覚えていた。
「濡れてないなら、それがいちばん……」
 呟きは浴槽に響いて、にとりはなんだかハッとして、浴槽のお湯で、じゃぶじゃぶと顔を洗う。雨の降り止む前にたいた風呂のお湯はぬるまゆく、反対に、体の冷えるような感じもした。追い焚き、のような機能はなく、ぬるい風呂にお湯を足すくらいならば、そのままお湯をはりなおした方がはやい。にとりはさっとあがって、風呂の栓を抜き、浴室を出た。

 特段、よく動く仕事というわけではなかった。今日はたまたま例の案件、その提出に山へ赴いたにとりだが、普段ならば自室にてじっと企画書やら機械の部分品を眺めまわすのみでいる。昼食のおかげか、さほどの空腹感もない。風呂上り、にとりは緩やかに押し寄せる眠気を感じながら食卓につく。雛はすでににとりを待っていたようで、にとりが座るやいなや「それじゃあ」と手を合わせた。
「いただきます」
 そういって、ふたりは箸を動かし始める。食器と箸とが触れる、例のかちゃかちゃとしたあの音が居間を支配する。こうなると、にとりが感じるのはいつも気まずさだった。どうして、そんな気持ちを感じる必要があるのだろう。にとりは眠たい頭で薄らぼんやり箸を動かす。外で風でも吹いたのだろうか。閉じたカーテンの向こう、窓がこつ、となる。にとりはふ、と思い至って、何の気なしに口を開いた。
「おつかれさま。今日、雨降ってたようだけど。大変だったんじゃないか」
 雛は一瞬だけ目を丸くして、すぐに微笑んだ。
「いいえ。ちがうのよ。今日はお仕事じゃないわ」
 ふうん、とにとりは相槌を打つ。では何の用で外に出て、しかも濡れることなく帰ってきたのだろう。眠気とぼんやりはにとりから考える頭と興味を奪っていて、にとりはかろうじて、といったふうに目の前の食事にありつくのみでいる。そんなにとりに、今度は雛から声をかけた。
「にとりちゃんこそ。お仕事ひと段落したんでしょう? おつかれさまね」
 別に、まあ、など、そぞろな感じの返答はまた、どこか冷たいような感じがした。けれど、雛は気にする様子もなく話し始める。
「それでね。にとりちゃん今回の仕事が終わったら自分の企画をやるんだーって聞いてたから、たまには息抜きしてもらおうと思ってわたし、お花見にでもって思ってね。場所の下見に行ってきたの。でも、なんだか雨が降りそうになってきちゃって。喫茶店に入って様子見してたら案の定! どしゃぶりもどしゃぶりで、雷まで落ちてくるんだから、ひどいわよね。桜もずいぶん落ちちゃったみたいだし、残念だな。わたし」
 言いながら笑う雛に、にとりの箸は止まっていた。それは緩い後悔で、或いはなにか、取り返しのつかない失敗をしたあとの焦燥めいて、にとりの胸中をのたうった。眠気はさっと冷めて、にとりは自分が吐くべき言葉を必死に模索する。まずはお礼を言おうと考えた、次に謝罪をしようと考えてやめて、やっぱりお礼を言おうと思ったころにはもう、雛は硬直するにとりを眺めて不思議そうに首をかしげている。にとりはおもむろに、口を動かす。
「えっと。その……お風呂のお湯、流しちゃったよ」
「そう?」
 雛はまた不思議そうに相槌を打った。そのあとは、器の上の食べ物が嵩を減らすだけの夕食だった。

 夕食が終わってからしばらしして、にとりは自室にて企画書の見直しをしていた。本来であれば、夕食が終わったあとすぐに眠ろうと考えていたにとりだが、今回の企画はにとりにとって必ず通さなければならないもので、失敗を恐れ、にとりは入念に再確認をしていた。そもそも、にとりは企画を落としたことはなかった。受け持った案件についても、これまで大きな失敗はない。ただひとつ、最近のにとりは過剰に失敗を恐れている。確認、再確認、再々確認は殆ど毎日のことだったし、それに飽き足らず、出来上がったものはすべてほかの河童にも見てもらった。それはにとりには無自覚な発露であって、昔ならば、今ほどに念を入れるということはなかった。ただにとりは、一歩踏み外せばすべてが瓦解しそうな、そんな薄っすらとした焦りを常に感じていた。首を振り、頬を叩き、何度目かの眠気を振り払った頃、ふいにコンコンと、ドアを叩く音がする。にとりはハッとドアの方をみやって、無意識に、手元の企画書を隠すように机の奥へとうっちゃった。
「にとりちゃん、まだ起きてるでしょう? 入るわね」
 そういって、雛が部屋へと入ってくる。なんのようだろうか、とも思ったが、それよりもにとりが考えるのは自身の失敗についてだった。自分はなにかやらかしたのではないだろうか、確証のない焦りから出る言葉はいつもそれとない、当たり障りのない言葉だった。にとりは若干の眠気を演技で過剰に演出して、机から、敷いてある布団に体を向きなおす。
「うん。いまから寝るところ……」
「ふうん?」
 雛はなんだかにやにやと、なにかたのしいことでもあるように微笑みながら、にとりの方へ近づいた。にとりは俄然焦って、いろいろなことを考える。机の上、企画書、転がるペン……みられて困るものなどひとつもない。隠し事、後ろめたいこと、それから……考えれば考えるほどになにもなく、にとりはさっさと隠れてしまおうと布団に手をかけて、そのままもぐりこんだ。そして半ば雛を追い払うように目を閉じて、また眠気を強調してみせる。
「眠いんだ。なんだか昼からずっと。お風呂上りも眠たかったし、晩御飯のあともさ」
「そう。……ねえ、にとりちゃん」
 目を瞑っていても雛が布団のそばに座ったのはわかったし、布団にもぐりこんでくる感触ならもっと克明だった。咄嗟に、にとりの心臓は跳ねて、また当たり障りのない言葉を探し始める。対して、雛は両手で、にとりの二の腕のあたりをぎゅっと掴んだ。なんだか久しぶりの感触ににとりは戸惑う。そして雛は戸惑うにとりに追い打ちをかけるように、やおら口を開いた。
「にとりちゃん。ありがとね」
「な、なに、が……さ」
 不意の感謝の言葉と感触に、にとりは一気に脱力する。にとりは雛に抱きしめられていた。いったい何が起きたのだろう、何に対する感謝なのか、様々、さまざまが浮かんだが、もはやにとりにはすべてなんだってよくなった。さっきまで感じていた正体不明の焦燥だって消えている。雛の体の感触と、その匂いに一気にしてやられてしまう。
「今日、にとりちゃんわたしのためにお風呂たいてくれてたんでしょう。濡れて帰ってくると思って、心配してくれたんだ? そういうの、なんとなく久々で、なんか嬉しくなっちゃって……えへへ」
 雛の照れくさそうな笑い声に、にとりはとても嬉しくなった。今までのぎくしゃくした冷たいなにかが、一気にすべて融けていくような感じがした。このところ、どうしてこんなふうに話せなかったのだろう。簡単じゃないか! と、にとりは安心しきって、何だか懐かしい感覚をすぐに飼いならして口を開いた。
「そりゃ、心配するよ。だって雛のことだもの。それよりさ、ありがとうは私の方だよ。わざわざお花見の下見なんてさ。私の仕事なんて、その、いつものことなのに」
「だって。なんとなく気が向いたんだもん。ふふ、なんででしょうね。このところわたしもお仕事ばっかりだったから、にとりちゃんのためだけじゃなく、実は自分のためだったりして」
 そういって悪戯っぽく笑う雛に、にとりはたまらない愛おしさを感じた。つかまれている腕をいったん払って、体ごと雛に向き直る。
「それでもうれしいよ。……おいで、撫でたげる」
「えへへー」
 にとりは子供をあやすかのように彼女の髪を撫でた。にとりの胸のなかで、雛はわざとらしいまでにご満悦の顔をして、へらへらと甘ったれる。長いようで短い時が過ぎて、雛はおもむろににとりの瞳を覗き込んだ。にとりは一瞬おどろいたようにたじろいで、なんだよう、と照れた声でいう。雛は嬉しそうににやにやとして、にとりの目をみたまま言う。
「たまには。わたしがにとりちゃんのこと撫でたげる。ほら……」
「いいよ。別に……」
 言いながら、にとりは恥ずかしそうやらうれしいやら、待ち構える雛の胸に顔をうずめた。どれもこれも懐かしい感覚だった。
 そんなこんなを繰り返しているうちに、にとりはだんだんまどろんでくる。うつら、うつらとしながら、雛は今日もおやすみのタイミングを逃してしまいそうだ、などと考える。
「ねえ、ねえ。お花見の代わりにさ。今度どこかへゆこうよ……どこでも、どこでもいいな、私……。そうだ、あの湖なんか、いいかもしれない……」
 それから、もはや夢か空想か区別のつかない世界に訪れる。彼女はいつもそれをみて、そして朝にはそれを忘れた。小高い丘、まっさらにそよぐ草原、光り輝く太陽、やわらかく、すべてを包み込むよう吹き抜けるあの風……それが誰の故郷であるかも、誰の夢であるかも彼女はわからない。まどろみ、まどろみ……泣きたくなるほど優しくせつない茜色の影……。夢か現は、いつもそこで消えてしまった。


 湖。水面は夕日に焼けて揺れている。木々のざわめきはかすかに響いて、風はふたりの頬を通り抜けてゆく。湖畔の夕景は、感傷が鼬ごっこする芒の原のように郷愁と、遠すぎる思い出とで満ちていた。
「帰りたい……ねえ、わたし帰りたいの……。だって、こんなのって、うう、ううぅ、帰りたいよぉ……!」
 彼女は何も言えず立ち尽くして、追いすがる彼女の頭を包むようにしてやさしく抱いていた。
「いや、嫌ぁ……帰りたい、帰りたいよぉ……」
  風が吹いていつものシャンプーの香りがしていた。草木がなびいて、あのシャンプーと混ざって、当然みたいな顔をして頬のよこを滑ってゆく。なんども、きっとなんどかざわざわと草木はなびいて、そのうちに静寂よりもずっと深かったはずの、感傷的な橙の世界には影が降りて、暗く、影の帳のそれらすべてがじめじめとしていた。じー、と虫が鳴いて、皮切りに辺りは音を取り戻していく。ひゅうと吹き、ざわざわとなびく、水面は揺れて、小さな彼女の嗚咽は、不思議なほどたしかに聞こえた。とん、とん、とやさしく肩をたたいて、彼女は言った。
「……ね? ほら、行こうよ」
 うつむいたまま、何も言わずに頷く彼女をゆっくりと立たせ、ふたりは湖畔を離れた。


 長靴が泥でよごれていた。雨は降っていたが傘はささなかった。透明な合羽に雨粒は滴り落ちてゆく。それは古い記憶だった。焦燥の正体だった。そこに行けば何かがあり、どこかには誰かがいた。そして気が付けばどことなく何かが足りず、希望は絶望とない交ぜになってそこかしこに満ちていた。夕凪は穏やかさのみが欠けて、鮮烈な色彩のみをもって笑顔を照らしていた。夕立のなかをかけていた。雨が上がって、影の中には足跡がくっきりと残っていた。晴れ渡る空は青く遠い。木漏れ日が道に落ちて、水溜まりを照らした。その道は、きっとどこまでも続いている。木陰に腰を下ろすと、そこには白くて小さな花が、そっと寄り添うように咲いていた。


 夕食どき、箸を動かしながら、河城にとりは出し抜けに「その……」と切り出した。
「その、通ったんだ。企画……けっこういい感じでさ、お金、だいぶ使わせてもらえるかも」
 鍵山雛は箸こそ止めるものの。慣れた様子で、はにかみながら答える。
「そう。よかったじゃない。にとりちゃん前からやりたがってたものね。わたしもお仕事、がんばらなくちゃ」
 うん……と相槌を打って、にとりは止めていた箸を動かし始める。雛にしたって、何も気にしていないみたいにして箸を動かしていた。雨戸からこつ、と音がして「風かな」とにとりは呟く。
「夕方から雨が降るみたい。ハンガー、仕舞ってくるわね」
 そう言って立ち上がろうとする雛をにとりは目で止める。
「……なにも、食べ終わってからでいいよ」
 言ったきり、にとりは食事を進めるから、雛は仕方なく座って、にとりと同じように食事を摂った。
 こつ、こつり、と雨戸が鳴る。雨戸の外、ハンガーは風に吹かれて揺れている。かちゃり、かちゃりと、箸の音がときたま鳴って、黙々と皿のおかずは嵩を減らした。
「ごちそうさま」
 食べ終えて、にとりが席を立つ。「食器運んでおいて。あとで洗うから」そう言って、自室へと引っ込んでいく。
「いい。わたしが洗うから。にとりちゃんはお仕事がんばって」
 そしてにとりは平然とする。雛はそれ以上なにも言わずに、それから、いつもの静寂が訪れる。ふたりは黙って居間を離れる。にとりは自室へ、雛は台所へと去ってゆく。取り残された食卓の上には何も残っていない。ただ、雨戸が、こつ、と鳴った。雨戸は何度も、こつ、こつり、としきりに鳴って、居間にはそれだけが響いていた。

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