Coolier - 新生・東方創想話

短編集

2022/03/02 21:30:00
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   主題「美」より
 
 男は売れない画家であった。つい先日父親から勘当を言い渡され、家を追い出された所であった。肌を刺す寒気と空腹に悶えつつ、男は当てもなく里を彷徨い続け、それから五日ほど経った頃、彼は自殺をする事に決めた。
 なけなしの金をはたいて縄を買った。存外に高くつき、せめて最後の晩餐はなどといった甘い考えは無情にも会計に足を運んだ時には霧散していた。最早後戻りは出来なかった。男には金を貸してくれる友人など居なかった。萌やしすら買う金も尽きた今、彼が明日を生きる術も気概も存在しなかった。
 昼間の里を出歩くと、男は好奇と軽蔑の眼差しを向けられた。大抵の者は仕事や買い物に勤しんでいて、何もせず死んだ目付きで里をふらつく浮浪者の彼は一層目立つ存在であった。しかし、男はそれを気にする事はなかった。幼少の頃からそういった視線は慣れたものであった。男は里に流れる川沿いを歩いていると、一本の大きな柳があるのを見つけた。それには、少し登れば自分がぶら下がっても折れないであろう枝もあった。周囲を見渡すと民家も少なく、人目が少ない場所でもあった。
 男は夜になるまで柳の下で眠る事にした。いくら人目が少ないと言っても日が上っている間には誰かに止められてしまうだろう。それを恐れて、男は夜を待つ事にした。余計な延命などしたくはなかった。仮に誰かに助けられたとして、その者がこれからの自身の将来をも保証してくれる筈がなかった。里の殆どは自分達が暮らすので精一杯で、他人の命に何の見返りも無く世話を焼ける様な者は、それこそ片手で数えられる程にしかいなかった。
 昼間から眠る事は、男にとって難しい事では無かった。初めは日頃の生活習慣と空腹による苦痛が邪魔をしたが、三日も経てば、昼夜の境も曖昧になり、空腹を感じなくなった訳ではないが、それを苦痛に思わなくなる程には慣れる様になった。
 
 肌寒さを感じて目を開けると、すっかり闇に塗られた空があった。雲が星々を陰り、満月とも半月とも言えない半端に欠けた月は、朧に男を照らしていた。最期の光景も酷くつまらないものである事に、男は落胆と納得を抱いていた。
 男は手にした縄を持ち、柳に登って枝に縄を括ろうとした。元々脆弱な肉体が、空腹によってさらに弱った体になったが為に上手く力が入らず、子供でも出来るような簡単な作業にすら中々の苦労を要した。それでも、辛うじて枝に縄を縛り付ける事を終えて、今度は首を括る為の輪を作った。
 これで全ての準備が整ったと思った。このまま輪の中に首を入れ、枝から飛び降りれば直ぐにでも彼岸へ渡る事となるだろう。そう思った途端、男の手は次第に震え始めた。死への恐怖と、自身の人生への後悔が、死体から這い出てくる蛆の様に、醜く湧き出していた。最期に抱く感情が、ありきたりで何の代わり映えもない事に、男は自分がなんの才能もない凡人であった事を改めて思い知らされていた。
 
 男は生来から病弱で頭の弱い者であった。それ故碌に運動も勉強も出来ない彼は、寺子屋に居る同世代の子供からは罵られ、父親の営む畑仕事も手伝えずにいた事で父親からも疎まれていた。しかし、男には唯一他人より優れていると自負できるものがあった。それが絵を描く事であった。
 切っ掛けはまだ寺子屋に通う以前の頃、大抵の幼子がこれといった理由も無しに、家族や身の回りの事を絵に起こす様に、彼も同様の行いをし、それが母親に褒められた事であった。彼はそれ以降、何かある度に絵を描いては母親に報告する様になった。
 幸い男の感性と手先の器用さは他人よりも優れていた事もあり、絵の技術は上達の一途を辿った。暫くすると、男の絵は誰が見ても上手いと言われる様になった。皆、彼の絵を一様に褒め称えた。いつもは自分を馬鹿にする寺子屋の子供達も、彼の絵には文句をつけなかった。
 男はそれがひどく嬉しかった。何か嫌な事がある度、絵を描く事に逃げ出した。男は常に美しいものを描く事に憧れていた。他人と同じように出来ない醜い自分と、それを取り巻く暗鬱な環境に対する反逆、もしくは救いを見出す為であった。
 男は将来を画家になる事を両親に伝えると、父親からは苛烈な反対を受けた。自分の味方だと思っていた母親にも望んだ反応はされなかった。男は自分の絵に絶対の自信を持っていて、それで生活をしていけると信じて疑わなかった。両親の反対を押し切り、実際に絵を売りに出すと、それは信じられない程に売れなかった。
 数年が経っても男の絵は殆ど売れなかった。売れたとしてもそれは散々渋った挙句、一日の食費にすらならない程に安くしたもので、結局のところ彼は自立が出来なかった。そうして、彼は漸く気付いた。仮に芸術趣味を持っていたとして、そういったものを買える程に余力のある者は限られている。そして、その者達が買っていく物を見るに、自分よりも優れている様に見えるのが殆どで、上には上が居ると思わされた。
 所詮他人よりも多少絵が上手いだけであって、自分には特別才能がないのだと自覚した男は、それでも絵を描く事をやめられなかった。男にはそれしか出来なかったから、引き返す事は出来なかった。そこから先はもう、後の祭りである。

 多分、男は走馬灯を見ていた。自分の人生をあれ程までに鮮明に思い起こすのは初めてであった。そのプロセスを踏まえて、男はようやっと自分の命を絶つ覚悟を済ませた。
 そんな折、彼は少し離れた先から足音がするのを聞いた。暗闇で姿は見えなかったが、それは着実に此方へと向かってきていた。見つかったら邪魔をされると思い、男は咄嗟に身を縮こませて息を潜めた。足音が少しずつ此方に近付き、ついにその正体が視界へと映った。
 それは年端もいかない様な少女であった。赤を基調とした派手な服装とそれに似た髪色をしているものの、それを除けばどこをどう見てもごく普通の少女に思えた。
 男はそれを心底奇妙に思った。もう日が沈み、それでいて人目につかないような場所をこんな少女が出歩くなんて、この里では考えられない事だと。普段の生活をしていた彼なら、その頭の弱さ故に気付けなかったかもしれないが、空腹と自死への決意で何処か思考が鋭敏になっていたのだろう、彼は人並みの洞察力を手に入れる事に成功していた。
 いくら里の中で妖怪が人間を襲う事が禁止されているとしても、その掟が破られないなんて保証はなく、何より妖怪以外にも夜道に女を襲う様な暴漢の存在だってない訳ではない。それ故、こうして歩いているあの女は余程の馬鹿か、もしくは人外であるという事になるだろう。
 男はそれに気付いて、少女の様子を見張っていた。その途中で、これから死ぬ人間が何をしているのかと呆れたが、もし仮に彼女が妖怪であったとして、妖怪に襲われて死ぬのは嫌だと思った。恐らく、首吊りよりも惨い痛みと恐怖を与えられて死ぬのだから、それを最期とするのは気が引けた。せめて、死ぬ時くらいは出来る限り楽に逝きたいと思った。
 少女は男に気付いた様子は無く、そのまま男の居る柳の横を過ぎ去ろうとしていた。男は、彼女が一刻も早く立ち去ってくれる事を願いながら、足音が離れていくのを待った。それは時間にしては僅か十数秒程の出来事であったが、人並みに得てしまった思考回路が、可能な限りその体験を引き伸ばしてしまい、その間男は凄惨な妄想と戦い続けていた。
 足音が彼の横を去り始めた時、彼は何年振りかにも思える安堵に包まれた。しかし、まだ危険が完全に去った訳ではなかった。まだこの距離では、物音を立てれば気付かれてしまうだろう。最低でも少女の姿が闇に紛れて見えなくなるまで、溜め息の一つも零してはいけなかった。
 
 そうして、それを確認する為に男は再度少女に目を向けた。そしてそのあまりの光景に、男は元々鞭を打って無理矢理に回転させていた脳味噌を焼き切ってしまい、悲鳴も発せずにただ無様に柳から転がり落ちた。
 少女の頭は空を飛んでいた。自然と、然もそうであるかの様に頭は身体の周りをまるで石鹸玉の様に軽々と浮いていた。それは既に限界が近かった男には到底理解の及ばぬ光景だった。
 男が柳から転がり落ちた音を聞いて、少女の頭が此方に振り向いた。男は自分の想像が現実になる事を覚悟し、それでいて結末は同じであるのだからと自身を慰める事しか出来なかった。
 しかし、いくら待っても一向に襲ってくる気配が無い。それどころか、男が少女の頭が飛んだ事に驚愕した様に、少女もまた男が現れた事に両目を見開いて驚きを隠せていない様であった。まだ事態を飲み込めていないと見える彼女は、何をするべきか迷ったのか、ふと頭を緩やかに落としていき、そして胸元に広げられた両手へぴたりと収めた。
 その情景を視界に写した途端、焼き切れた筈の男の脳が再び稼働を始めた。身体中が熱を帯び、強い衝撃を受けたかの様に自身の鼓動が波を打った。
 その光景はまさしく、男が追い求めていた「美」そのものであった。肉体から首が離れた状態は死という概念を色濃く表していて、それは男の世界にとって最も陰鬱で穢れた存在であった。しかし、男も含め誰もが死を恐れる中、その象徴と言っても過言では無い生首という状態で、少女は何の苦痛も感じておらず、それでいて自然体のまま生き生きとしていた。それは不完全な人間が夢想する、死という穢れを超越し、恒久に至った完全という存在の表現であった。
 その事実は男に深い感銘を与えた。男は咄嗟に少女に名前を聞かなければいけないという観念に襲われた。男は少女の前で跪き、少女に向かって名前を問うた。
 
 「え? えっ? 名前?」
 
 少女は男の奇行によって余計に混乱の渦に囚われていた。本来妖怪である彼女は、正体が暴かれた以上このまま男を脅かす事をしなくてはならないのだが、その思考に微塵も辿り着けない程に、男の勢いは凄まじかった。そして何を間違えたのか、彼女は男に対して赤蛮奇という名前を名乗ってしまった。
 男は彼女の名前を聞くと、何度か呟く事を繰り返し、蛮奇に向かってどの字を用いるかを尋ねた。彼女はそれについても正直に答えてしまい、男はそれを忘れるまいと必死に脳内に焼き付けた。
 そして、男は蛮奇に向かって彼女を題材に絵を描かせて欲しいと頼み込んだ。彼は美という概念を絵に起こす事を求めていた。その為、その象徴ともとれた光景を絵に起こさない訳にはいかなかった。
 
 男の必死の形相に蛮奇は気後れしていた。ここまでくると冷静になっていて、少し脅かして追い返してやろうと思ったのだが、彼の落ちてきた柳を一瞥すると首吊り用の縄があったため、諦める事にした。死をも恐れない人間には殆ど何をやっても無駄である事が分かっていた。元々蛮奇は人を食べる妖怪では無く、里の中で人を襲うのは本来御法度である為、殺すという選択肢は存在せず、彼女が男を追い返せる術は残っていなかった。
 蛮奇は男を、大方思い詰めた芸術家だったのだろうと推測した。自分の姿を描かれる事で、正体が世間に晒されて今後の営みが妨害される事を予期したが、また同時に、自分の姿が恐怖の象徴として描かれる事で自身を潤わせる事が出来るのではないかとも期待した。
 蛮奇は仕方なく、男の申し出を受け入れた。男はそれを聞くと狂った様に喜んだ。
 
 「そ、それで、何処で絵を描くっていうの? あんまり人目のつく場所は困るんだけど」
 
 蛮奇の問い掛けに対して、男は最早その答えは決まっているといった様子で彼女をその場所へと案内した。
 
 男が自身のアトリエとして彼女を連れて来たのは、寂れた家々の隅にある路地裏であった。この近辺は里の中でも貧困層が多く住んでいる区域であり、浮浪者も多く滞在している。男は家を追われた後、里の人間達から怪しまれる事がないようにとこの区域に居座る事を選んだ。その時に一応の拠点として選んだのがこの路地裏である。
 蛮奇はてっきり、この男の自宅に招かれるのだとばかり考えていた為、最早雨風すら凌げない場所に連れて来られるとは些かも考えていなかった。それにこの区域周辺は、不衛生なのが特に目立っていて、蛮奇は男の申し出を引き受けた事を心の底から後悔する他なかった。
 男は蛮奇の不快そうな様子を全く意に介さず、彼女に対して、明日の日暮れから半刻程経った頃、この路地裏に来るように言った。蛮奇はその取り決めに対して気乗りはしなかったが、変に断って自分の正体を言いふらしたりでもしたらと考えるとそれを承諾したのだった。
 
 男は蛮奇との約束を交わした後、急いでかつての自宅へと向かった。それは自身の画材を取りに行く為であった。勘当を言い渡された時、男は父親にすぐ家から追い出されてしまった為、自分の道具は自宅に置いていたままになってしまっていた。その後は、もう絵を描く気力も存在せず常に諦観に見舞われていたが為に道具を取りに行こうとは思わなかった。
 男はかつて両親と暮らしていた家へと辿り着いた。夜はとうに更けていて、日を跨ぐ頃になっていた。両親はとっくに寝ている時間の筈だった。一緒に住んでいた頃、彼等の生活習慣は健康そのものであり、自分もかつてはそうであった事を思い出した。
 男は玄関に手を掛けた。鍵は閉まっていない。元々里の者の大半に鍵を閉める習慣は無く、それは彼の両親も同じだった。彼は昔から酷く他人を警戒する節があり、両親に向かって鍵を掛けないことは不用心であると怒る日々を送っていた。
 男は、自分が家を出て以降も両親が変わっていない事に何処か安堵と悔しさを覚えつつ、音を立てぬ様に玄関の扉を開けた。家に入ると、一切の物音はせず、両親が既に就寝している事が分かった。男は両親を起こさぬ様、慎重に足をかつての自室へと向かわせた。
 男はその際、自分の画材がもうとっくに捨てられているのではないかと不安に駆られていた。もし仮にそうだったとしても蛮奇を描く事は辞めるつもりは無かったが、何処か画材が売っている店で盗みを働かなくてはいけないと思った。そして盗みが発覚して捕まったとしたら、二度と彼女描く事が出来なくなってしまう。男はその結末が一番恐ろしかった。
 かつて自分のものであった部屋に着き、男は扉を開けた。彼の道具はもれなく全て、最後に見た時と全く同じ配置に置かれていて、埃を被っている様子も無かった。一目見て、母親のお陰だと確信した。男の母は彼が家を勘当される事を最後まで反対していた。父親には敵わず、男は家を追い出されたが、せめて彼の残した道具だけはと、捨てるのを拒んだのだろう。この家にいるのが男の父だけであったら最早私物など一つも残っていなかった筈だ。
 男は口には出さなかったが、母親に対して感謝の意を表し、持てるだけ自分の画材を運び始めた。
 
 約束の時刻を迎え、蛮奇はあの薄汚れた路地裏へと向かった。目的の場所に到着すると、男はキャンバスを威圧するかの様に睨みながら座っていた。
 蛮奇が男に一声掛けると、途端に男の眉間の皺が取れ、目を爛然とさせて喜びに打ち震えた様相に変貌した。男は蛮奇に来てくれた事に対する感謝を伝え、彼女を指定の位置に立たせると、昨日の夜に見せた様に、外した頭を胸元で広げた両手の上に置いて欲しいと頼んだ。
 蛮奇はそれを受けて、あの格好がこの男の感性の何処に刺さったのかと疑問に思いながら、渋々彼の望む様な体勢をとった。男は、微調整を施す為に細かい指示を重ねながら、彼女が自身の思う理想の姿勢をとった事を確認すると、キャンバスに向かって筆を動かし始めた。その際、男は周囲からの音が遠く離れていき、視界がキャンバスのみに狭まっていく様な錯覚に至った。男にとってその感覚は酷く心地の良いものであった。
 東の空が白んできたのを蛮奇が発見した事で、その日は終了となった。蛮奇は妖怪であるが故、体力も人間よりずっと多く貧血の心配も無い。しかし、それでも何時間も体勢を変えぬまま立ち続けるのは、流石に精神的な疲労が大きかった。その為、途中何度も馬鹿らしくなって帰ろうとしたが、男が自分を描く気迫に押され、終ぞそれが叶うことはなかった。
 一方の男は全く休憩をとる様子はなかったが、それを気にする素振りも見せず、ただひたすらにキャンバスに向き合っていた。実際男に疲労や飽きといったものはなく、寧ろ描く事に対して快楽すら感じていた。しかし、男の肉体は当然それに付いて行ける筈もなく、目元には濃い隈ができ、連日の飢えによって頬がこけ始めていた。
 
 翌日もまた同じ様に、蛮奇が路地裏にやってくる事でそれは始まった。男はキャンバスに蛮奇の姿を描き出し、蛮奇はひたすら立つばかりであった。それは暫くの間、何ら変わりなく進んでいたが、途中蛮奇が、数時間にも及ぶ沈黙を再度経験しなくてはならない事に痺れを切らし、男に向かって話しかけた。
 
 「ねえ、あんた何でこの前死のうとしてたの?」
 
 それを聞いた男は不意に筆を止めた。そして徐に顔を彼女に向けると、つまらない話だから聞かない方がいいという旨を話した。事実、男は自分の話をつまらない物と思っていたし、絵を描く事に集中したいが為に、口を動かす事をしたくなかった。しかし、それに対して蛮奇はどんなにつまらない話でも、沈黙のまま立ち続けるよりかはましであると言い、男に身の上話をする様に強く言った。
 男はやむを得ず、自分が家を勘当された事、生きていく手段を見つけられず、数日の間里を彷徨い続けた事、そして自分の人生に従事する事を諦め、自死を決意するに至った事を話した。蛮奇にとって、それはありふれた話で実際本当につまらないものであったが、何も聞かないでいるよりかはずっとましなものであった。
 男の話を聞いている間、蛮奇は男の様相を眺めていた。頬はこけ、唇や肌は乾ききっている事からも男がここ暫くは全くの飲まず食わずである事が見てとれ、このままでは死にゆく身体である事は間違いなかった。途中何度も男の目は虚ろになり、既に身体は限界を迎えていることは明らかであったが、絵を描く事に対して、執着心にも似た強烈なまでの精神力がそれを止めることを許さない様であった。蛮奇は自分の姿が彼の何を呼び起こしたのかずっと気になってはいたが、それを聞く前に空が明るくなっているのを見つけてしまった。
 
 その翌日、蛮奇は急に出来てしまった用事の所為で、約束の時刻より少し遅れて路地裏に向かった。蛮奇が男が居るであろう場所に着くと、男はもう既に絵を描き始めている様であった。蛮奇が自分が居なくても描けるのかと問いただすと、男は、ある程度は覚えているので描けるようになったが、それでも本物がいてくれないと描き切る事は出来ないと言った。蛮奇は、この苦行から解放されるかもしれないという淡い期待を抱いていたが男の返答によって霧散され、失意に暮れる事となった。
 そうしてまた蛮奇が男の前に立つ事で、描画の続きが行われたが、それから程なくして男が崩れる様に倒れ込んだ。蛮奇はそれを見て、無理もないと思った。男は、当人の精神性により体を騙して動かしていただけであって、最早前日の時点で絵を描ける様な状態ではなかったのだった。
 しかし、男はすぐに手をついて立ち上がり、再びキャンバスに向き合う姿勢をとった。息も絶え絶えであったが、それでもその形相は未だ死んでいなかった。蛮奇はその光景を見て、前日まで抱えていた疑問がずっと大きくなったのを感じた。そしてとうとう、それを男に向かって告げる事にした。
 
 「なんでそこまでして私を描きたいのよ?」
 
 男はそれを聞いて口を篭らせたが、しかし今まで付き合わせた事に対する罪悪感からか、正直にその訳を話した。彼女の様相が男にとって「美」という概念そのものであるのだと。また、彼は自身が考える「美」についてを蛮奇に論じ、いかに初めて出会った時に見せた体勢が美しいものであるかを語った。蛮奇はそれを微塵も理解出来ず、自分が彼の言う美の存在である事を否定した。
 男はそれに対して同意した。そして、蛮奇自体が美の存在なのではなく、蛮奇が見せた頭を抱える体勢が美を象徴するものだと言った。蛮奇はそれを聞いて余計に訳が分からなくなった。
 
 「芸術家は意味が分からない事ばっかり言うわね。もう聞くのはやめとくわ」
 
 男はそれに対して微笑を浮かべ、再び筆を動かし始めた。蛮奇もこれ以上男への詮索をやめ、路地裏に沈黙が戻る事となった。
 
 蛮奇が気が付くと、空は既に青く染まっていた。いつの間にか立ったまま寝てしまっていたらしかった。妙な特技を身に付けてしまった事に一抹の気持ち悪さを覚えつつ、彼女はもう既に帰らなくてはならない時間である事を思い出した。蛮奇は男に帰る旨を伝えようとして前を向くと、男が項垂れる様にして座っている様子が視界に映った。ぴくりとも動かなかったので近くに寄ってみると、男は既に事切れていた。大方、自分が寝ている間に絵を描き終え、それによって気が抜けて逝ったのだろうと思った。元々死にゆく筈だった身体に更に鞭を打っていたのだからこうも早く死ぬ事には然程驚きはなかった。
 そういえばと、蛮奇はこの三日の間一度も自分が描かれた絵を見ていない事に気付いた。これ程時間が掛かったのだから、悪くない出来である事を期待した。
 蛮奇が絵を見ると、それは彼女にとってただの自画像にしか見えなかった。散々、美だの完全だのと語っていた癖にと思ったが、よくよく見ると自身が思っているよりも自分の顔が整って描かれていた為、嬉しく思う反面、何処か羞恥に駆られたような気分になった。
 男は生前、この絵が完成したら売れようが売れまいが世間に公表したいと述べていたが、蛮奇はこの絵が世に出た場合を思うと、やはり自分が利益を得る事は無いと確信して、自宅へと持ち帰る事にした。自分が描かれた絵を処分するのは勿体なかったし、何より顔が綺麗に描かれていた為、蛮奇は気に入って自宅の廊下に飾る事にした。

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