『獏の散歩』
一
「うわ! 誰ですか、あなたは!」
もし十年前のドレミー・スイートなら、面倒も感じずに、この質問にも様々な注釈を付けつつ快く答えただろう。どうせ起きたら、夢の大方を忘れてしまう―この事実と膨大な時間の集積が、ドレミーの生真面目さを摩耗させた。しかし、一体誰が彼女を責めることができるだろう。世の中には同じ話を二度聞いただけでうんざりする人もいるというのに。
「私のことは気にしないでください。畳に敷かれた座布団か何かだと思ってください。八百屋の軒先に並べられた大根か何かだと思ってください」
「えっと」
幽谷響子は釈然としない面持ちで、再び幽霊に追われ始めた。その幽霊は青白い球状の塊であり、走っても、走っても一定の距離を保って響子を追い続けた。しかし、先ほどのやり取りのせいで、段々と響子は逃げるのが馬鹿らしくなった。
ドレミーは大口を開けて、そこら中のものを食べ始めた。それはまるで掃除機のような食欲で、彼女よりも遥かに巨大な蔵もどういう訳か、一頬張りで口の中に納まった。ドレミーは五分ほどかけて、夢の中をあらかた荒廃させると、今度は被っていたナイトキャップを外し、その中からテーブルとチェア、ティーカップ、ポットやケーキスタンドを取りだして、そこで英国貴族よろしくアフタヌーン・ティーを始めた。
響子は憑かれたようにひたすら走っていた。やがて、幽霊がどこにもいないことに気が付くと、元来た道を引き返し、恐る恐るドレミーへ近づいていった。
「あの」
「どうぞ、そこに座ってください。私が注いであげますよ」
ドレミーは目の前の椅子を指さした。響子は警戒したようすで、じろじろと椅子とドレミーの好奇に満ちた表情を見比べると、ゆっくりと腰かけた。
「えっと、助けてくれたんですよね?」
「まあ、そんなところです。それよりも、さあ! 飲みましょう! 飲みましょう!」
ドレミーはポッドを傾けた。響子はティーカップに注がれた、紅い液体を訝しげに覗くと、一気にそれを呷った。何の味もしなかった。ドレミーは、響子の不服そうな表情に喜びを覚えた。
「さあ、このケーキもどうぞ、美味しいですよ」
今度は置かれたフォークを乱暴に突き刺し、響子はモンブランに似たそれを口の中に放りこんだ。同じく何の味もしない。響子の呆れたような表情で、ドレミーは又もや喜んだ。目の前の妖怪に飛び付きたい心地になった。そして、いつものように自分の感情を悟られないよう居住まいを正すと、ドレミーは両手で頬杖をついてじろじろと無遠慮に、響子の顔を観察した。
「あの、私の顔に何かついてますか? 何か怖いんですけど」
「いえいえ、気にしないでください。それより何かお喋りしましょうよ。私のことでなく、貴方のことを教えてください」
「まあ、いいですけど」
響子は、不満気にぽつぽつと身の上話を始めた。ドレミーは聞いているのか、いないのか、身じろぎせずに黙っていた。徐々に響子の不満は不安へと変わった。ドレミーはひたすら幸福だった。
ドレミーが空いたカップに紅茶を注ごうと、ポットに手を伸ばしたところで事は起こった。過って、自分のカップに肘の先が当たり、テーブルの下に落ちて割れたのである。中の液体はぶち撒かれ、足元に小さな水たまりをつくった。すると途端、そこを中心に辺り一面に波紋が広がり、歪み、周囲の景色は硝子細工のようにがらがらと崩れ去った。ドレミーの体はぽーんと夢の世界に投げ出され、その拍子に背中を強く打ち付けた。響子は布団の上で目を覚ました。
これは気性の落ち着いたドレミーらしからぬ間違いだった。そしてこの出来事は、失敗とは縁のない彼女の心に暗い影を落すことになる。その失敗一つのせいで、彼女の長年培われた重厚な自信の壁に亀裂を生んだのである。
二
「……ということがありまして」
稀神サグメはドレミーの話を黙って話をきいていた。ドレミーはサグメが無口な性格だということは知っていたが、それを踏まえても、彼女の心遣いが伺えるようで、その配慮が心地よかった。サグメは終わりまで聞くと、合点がいったという意の手話をした。
ここは月の都の外れにある、サグメの住居。ドレミーは月に一度ほど、世間話や茶を飲みに訪れた。最も、サグメ自身あまり自分のことを話せない立場にあったため、ほとんどはドレミーが喋っているのをサグメが聞くというのが“お約束”になりつつあったのだが。
しかし、ここ最近は件の出来事のせいで、ドレミーはこのお茶会に参加する気力を失っていた。普段生活しているうちは何ともないのだが、時折何の前触れもなく、彼女の頭の中にふわりとあの失敗が羽を下ろし、その度に彼女を参らせた。酷い時は自身の太ももを思わず手のひらでぴしゃりと叩き、羞恥を痛みで塗りつぶすほどだった。
今回の集まりは実に三か月ぶりであった。サグメはドレミーの来訪がない事に不安を覚えたが、いつもはドレミーがふらりと夜の時間にやって来るので、こちらからは連絡の取りようがなかった。
『それで調子を取り戻せたから、久しぶりにこちらにいらしたのですね』
「まあ、多少は良くなりましたけど、それでも万全じゃないんです。上手く言えませんが、突然今まで自分の歩いてきた道が、実はつり橋だったことに気づいたような。そのような感が泥のようにこびりついてどうしても拭えないんです」
目の前の友人が切実に困っているのは、サグメには当然分かっていたが、それでも幼稚な悩みだと思わずにはいられなかった。同時に、官僚的な冷笑を加える自分の側面が感じられ、それが不愉快だった。
『完璧なのは重要ですけど、別に焦る必要はないと思いますよ。自分の能力を疑うのでしたら、貴方の優秀さは私が保証しますし、それに一番大切なのはその失敗から何を学ぶかということでしょう』
サグメ自身、最後の一言はあまりに月並みだったと、手話で伝えた後に痛く感じた。しかし、言葉で伝えるのと動作で伝えるのでは、伝わり方が異なるのも事実である。これが直接の原因かは不明だが、ともかくその一連の動きから、ドレミーは何か神懸り的な啓示を受けた気がした。
「素晴らしい! その超然としたお考え。私が欲しかったのはまさしく、そのような助言ですよ!」
『こんなのでいいの? 地上の本屋にもこんな文言、溢れてるでしょう』
「いえいえ、そのような深遠なアフォリズムなんて地上にはありませんよ。やはり月は進んでますね」
サグメは一瞬、馬鹿にされているのかと訝しんだが、ドレミーの明るい表情を見る限りどうやらそうではないらしい。そうと分かると今度は彼女が心配になった。目を瞑るとドレミーが怪しげな壺を持って飛び跳ねている様子が、ありありと浮かんだ。
「しかし、実践するのは容易ではなさそうですね。サグメ様は何か大きな失敗をした時、どうやって対処をするんですか」
サグメは返答に窮した。そういえば失敗をしでかした時、私はいつもどうしていただろう、そもそも私は”失敗”したことがあっただろうか。サグメは過去の任務を振り返ってみたが、失敗と呼べる失敗は一つも思い当たらなかった。しかし、この事実をそのまま伝えるのは、ドレミーの神経質を明らかに悪化させる。
『失敗すなわち、悪いことだと決めつけないことですね。そういう普段の心づもりが、囚われず、問題を客観的に捉える第一歩だと思いますよ』
サグメは手話をしながら自己嫌悪に陥った。何という月並みな教訓! しかし、ドレミーの頭の中では、一体どのように翻訳されたのか。彼女は目を輝かしながら、その動作一つ一つを咀嚼していた。
三
サグメとドレミーの間には一つの暗黙の了解があった。それは、サグメの夢を決して覗かないこと。サグメの秘密主義を鑑みると、これは至極当然な配慮だが、ドレミーは今、この禁を破ろうとしていた。その理由は単純で、先のやりとりの影響で、サグメを人生の先生のように考えるようになったからである。その思想の源泉を、夢を通じて欠片でも掴もうとしたからである。
ドレミーはサグメの夢を見つけると、辺りに人などいる筈もないのに盗人のように周囲を見渡して、その中に足を踏み入れた。夢の世界から夢への移動。唯の無秩序から、誰かに所有される無秩序へ。こんな移動は楽しいわけもなく、夢を見ている人が無意識に侵入者を排除しようとする働きから、ドレミーは酷い精神的負荷に晒される。物理法則は尋常であるにも関わらず、崖から落ちるような浮遊感を、数倍も不愉快にしたような感じを受けるのである。ひたすらに終わりのない夢の世界で、何回もこのような拷問じみた感触に晒されていれば、常人なら半年で気が狂ってしまうだろう。しかし彼女の強靭な忍耐の屋台骨には、ほとんど陶酔に近い自己肯定感が使われていたことを忘れてはならない。
サグメの夢の中はひたすらに暗かった。ひたすらに闇に覆われていた。通常の暗闇なら、その中にしばらくの間身を置くと、瞳孔が開きぼんやりと辺りの様子が見えるようになるものだが、この夢はそんな気配が全くなかった。暗闇を網で濾して濾して、……そのビンの底にいるような。明らかな悪夢だった。
悪夢の代名詞として、暗闇で不審者に追いかけ回されるのがよく挙げられるが、こういった漠然とした種類のものを見るのは、大抵子供の頃だけである。歳をとるほど、時間に対する怯えや人間関係の悩みといった、現実に即したものを見る機会が多くなっていくものである。そういった理由もあって、ドレミーはこの夢に対して珍しさを感じたが、それもサグメの純粋さの裏打ちであるとして満足を覚えた。
「サグメさーん! いますかー!」
当初の目的は、サグメに見つからないところから、こっそりとその姿を観察することだった。しかしこんな暗闇の中では、それどころかサグメを見つけることも難しい。無論、自分の力でこの暗闇を掃うこともできたが、ドレミーはサグメの悪夢―すなわち問題に対する対処法が見たいのである。明日出直すことも考えたが、後日に回すとずるずると先延ばしになしそうな気がしたので、とりあえず合流しようと、目の前の暗闇向かってサグメの名前を呼び続けた。しかし、返って来るのは静寂のみ。自分の姿どころか、声すらも暗闇に飲み込まれてしまう。この視覚と聴覚両方の欠如から、ドレミーは初めてこの夢に恐怖を感じた。ストレスのせいか、ここしばらく悩まされた耳鳴りの症状が再発した。トライアングルの音色を数段不細工にして引き延ばしたような音が頭の中で反響する。いつもは煩わしいそれも、今ここに限っては、虚無に対抗するために自身の生命力が生み出した防衛策のように感じられ、何も無いよりは遥かにましだった。
しかしながら、サグメの夢であるにも関わらず、当の本人が一向に現れないのは一体どういうわけだろう。自分の夢で自分が出現しないという話は聞かないこともないが、極めて稀であることは間違いない。そんな夢をドレミーが来た時に偶々見るなんてことが、果たしてあるだろうか。「私が呼んでも返事が聞こえない。これはサグメさんが、ここにはいないからだと思っていたけど、実際は彼女が意図的に黙っているだけではないでしょうか。よく考えて見ると、真っ暗闇の中で恐ろしいのに、そこからさらに、自分の名前がどこからともなく聞こえてくる。果たしてそれに返事をする余裕なんてあるでしょうか。そもそも、サグメさんって無口だから返事しない可能性の方が高いじゃないですか。どうして私はこんな簡単なことを失念していたのでしょう」
同じ空間にサグメがいると考えるといくらか楽になった。かくれんぼの鬼をしているような心理的な余裕が生まれた。サグメの夢の中で一番恐ろしいのは、暗闇でなくドレミーなのだ。
「やっほー! サグメさーん!」
肩で風を切って、ドレミーは快活な気分で暗闇の中を進んでいった。何物にも代えがたい、自分だけ安全圏にいるというこの全能感。ドレミーは久しぶりに響子の時のような、しばらくぶりの幸せな気分を味わった。
ドレミーが歩き回ってしばらく経つと、サグメの夢に進展があった。何がきっかけでそうなったのだろうか。周囲が段々と明るくなり始めたのである。ぼんやりと、今歩いている床が見えてくる。奥にたたずむ壁のようなものが見えてくる。先ほどまで充満していた黒とは打って変わって、どこから入って来たのか、白い光が辺りを包み込み始める。暗闇に長く留まり過ぎたドレミーは、その眩しさに思わず目を瞑った。瞼の裏からも外の明るさが伝わってくる程だった。
次にゆっくりと目を開くと周囲の景色は一変していた。ドレミーが立っていたのは、病人のように白い無機質な壁と床に囲まれた、体育館大の部屋だった。どれにも升目状の黒い線が引かれており、人工物であるのを強調しているようだった。長時間いると、眩暈を覚えそうである。天井には無数の穴が開いており、そこから強い光が注ぎ込んでいた。そして、この部屋で何よりも目立っていたのは、中央に設置された、明らかに仮設トイレに見える灰色の扉のついた白い立方体だった。
これが月の標準的な建物だろうか、とドレミーがぼんやり考えていると、その中央の物体に取り付けられた扉が開き、中からサグメが現れた。
「あれ、ドレミー、どうして貴方がここに?」
サグメに遭えたのはよかったが、それとは別に、彼女が普通に言葉を発しているのを聞いて、ドレミーは裏切られた気分になった。先ほどの愉快な気分が一遍にどこか遠ざかっていくようだった。
「どうもサグメさん、……いえ、私もここに迷いこんでしまったみたいで」
「そうなのですね、でしたら一緒に出口を探しましょうか。このままですと、二人とも飢え死にですからね。そうだ、ここは手分けして探した方がよいかもしれません。私はこちら側を壁伝いに歩いていきますので、貴方は逆をお願いします。ぐるっと一周しましたら、もう一度合流して情報を共有しましょう」
「……そうですね」
サグメは踵を返して、せっせと歩いて行ってしまった。ドレミーも仕方なく、壁伝いに進んでいった。
こんな訳の分からない状況に陥ったのにも関わらず、サグメは平常時と変わらずに至極落ち着いていた。自分が今何をするべきか考え、適格にドレミーに指示を与えた。先ほどまでのドレミーなら、これらのサグメの行動を称え、この冷静な人格と、件の金言の共通点が発見できたと喜んでいたかもしれない。しかし、今のドレミーは心ここにあらずといった状態で、サグメが言葉を発した事実に頭を悩ましていた。「今さっき喋ったのは本当にサグメさんでしょうか。何だか私に冷たい気がしますし、第一、手話を使わないサグメさんなんて、サグメさんじゃありません。大体、今私がやっていることも全て茶番です。だって、夢なんですからこんなことやっても意味ないじゃないですか。とにかく出口を見つけ出そうという考えも、何だかサグメさんらしくありません。もしここが現実ならば、まずはサグメさんが出てきた箱について何かしら言及した筈です。夢にいるサグメさんと現実にいるサグメさんを混同してしまうなんて! そもそも、夢の処世術を現実に持ち込もうとする、当初の私の腹積もりが甘かったんです」考えれば考える程、次第にイライラが募っていった。
ふと、ドレミーはサグメの方に目をやると、彼女は壁に手をついて、懸命に脱出の手がかりを探っているように見える。すると、視線に気が付いたのかサグメは手を止めて、ドレミーの方へと向き直る。距離があったのではっきりとは分からないが、ドレミーはサグメが笑っているような気がした。
ドレミーは思わず、少し強めに壁を手のひらで叩いてしまった。
四
「誰だい、君は? 人の家に突然上がり込んできて。ちょっと非常識じゃないか。大体、私は急いでいるんだ、早く出て行ってくれないか」
「初めまして、私の名前はドレミー・スイート。夢の世界の支配者です。以後お見知りおきを」
「夢? ということは、私は今、夢を見てるのか? 何だ、何だ、そうだったのか。へぇ、じゃあこれが噂に聞く明晰夢ってやつか。昔、チベットの僧たちがこぞって研究したという」
ナズーリンは面白がって、机を軽く叩いてみる。マグカップを床に落とそうとしたところをドレミーに止められた。
「そんなことをしてはいけません。夢というのは繊細で、僅かな衝撃で消えてしまうものなのです。ですから、赤ん坊を扱うように、優しく接しなければなりません。―しかし、お話が早くて助かります。詳しくお話しても納得してもらえないことの方が多いですから」
「これだけ変なことが立て続けに起きれば、誰だって気づくさ」
「いえ、現実そのものを疑うのは想像するより難しいことなのです。どれほど奇妙なことが起きようが、目の前で事が起きれば大抵の人はころっと受け入れてしまうものなのです」
ドレミーは両手を合わせて、ニコニコしている。ナズーリンは若干その色は薄まったものの、依然警戒していた。しかし、先手を打たれるのも癪なので、ナズーリンは努めて快活であろうと心掛けていた。
「それで、夢の支配者様がどうして私の夢に?」
「私の仕事は夢の管理ですが、時々こうして他人の夢に入り込み、見回っているのです。いってしまえばパトロールみたいなものですね」
それから、ドレミーはナズーリンに、最近明晰夢ばかり見ているから、もっと日頃運動を心がけて、夢も見ないほどぐっすり眠るように忠告をした。ナズーリンは明晰夢なんて今まで見たことがないし、今日見たのが初だと抗議したが、ドレミーは、それは単に忘れているだけだと説明した。
「ふぅん、そんなもんかね。こんな不思議な夢を見たら逆に覚えていそうなものだけど」
「明晰夢は何でもできて愉快ですが、悪用すれば他人の夢に干渉することができます。それに、睡眠中もずっと頭を使っているわけですので、疲れもとれず目覚めがとても悪いです。私の仕事も増えますので、なるべく見ないようにお願いしますね」
「そうはいっても、見覚えのないことをするなっていうのは、ちょっと難儀な話じゃないか。まあ、できるだけ心掛けるようにはしてみるけど」
その後、ドレミーとナズーリンは軽く世間話をした。近頃の幻想郷で何が起きたか。季節がばらばらになった異変について。それから最近人里で流行りの芝居の賛否を話し合って、二人は別れた。
目が覚めるとナズーリンは布団の中にいた。先ほど見た夢の中身は大方覚えており、現実が二つに分かれたような奇妙な気分味わった。しかしそれも束の間の話で、眠気覚ましの行水により、寝汗と共にその内容のほとんども湯の中に流れ出てしまった。
今日も一仕事終えたドレミーは爽快を伴う疲労感を伴って、満足げに床に入った。先月のサグメの夢の出来事はドレミーを酷く落ち込ませたが、それも丸二日寝込んだだけで、響子の例と比較すると、意外なほどあっさり落ち着いた。最もドレミーは、一日目には立ち直っており、二日目は惰性で寝ていたので、実際回復したのはもっと早かったのだが。
この出来事の反動か、ドレミーは以前の生真面目さを取り戻した。ふとした拍子に例の失敗を思い出すこともあったが、そこからは特に何も生まれなかった。どうしてあれ程心を掻き乱されたのか、今となっては不思議で仕方がなかった。
五
夢の管理というこの仕事は、人々が毎晩夢を見る以上、基本年中無休であるが、一つだけ例外―すなわち一年に一度休日が存在する。それが元旦である。この日人々がどのような夢を見たか、一部の神様は初夢を使って占いを行う為、ドレミーが干渉することは許されていない。
ドレミーはこの貴重な日をどう過ごすのか、一か月前からああでもない、こうでもないとこと細かに予定を建てる。そして、毎回予定の半分も消化することができず、若干の後悔に苛まれるのが恒例だった。しかし、今回のドレミーは予定を立てなかった。もう少し雑に、この日を過ごしても良いような気がしたからである。この姿勢を降参と断じる人がいるかもしれないが、それは正確ではなく、むしろこれは諦観に近いものである。
正月当日、ドレミーは自室でソファーに深くもたれかかり、天井の模様を眺めていた。それに飽きると、傍のマガジンラックかのナショナルジオグラフィックの昔の号を取りだし、何をする訳でもなく、パラパラとページを捲り、イルカやサンゴ礁の写真を眺める。何だか少し眠い気がするので、再びソファーに体を預け、軽くまどろんでみる。この無気力こそが既に予定調和であり、それに加えて世間と同じ過ごし方をしているという安心感が、ドレミーを幸福にした。見ていないのに、テレビを点けたままにして、時折聞こえてくる芸能人の笑い声を背景に何も行わない。働き者のドレミーは、無駄な行動こそが最高の贅沢だと確信した。ふと、使わないのに水道の蛇口を開けたままにしたら、さぞ楽しいだろうという、飛躍した論理が頭を掠めたが、結局実行までには至らなかった。
昼時になっても、わざわざ料理を作る気にはならなかった。そこで、古新聞に挟まった広告を引っ張りだすと、ドレミーは電話でピザ屋へ出前を頼んだ。マルゲリータとチーズピザとはちみつピザで迷ったが、結局全部注文した。実際に届くと、想像以上に大きく各種二切れ食べたところで飽きてしまい、残りはラップに包んで冷蔵庫に入れた。
五時頃になると、いつものようにアフタヌーン・ティーを一人で始める。冷蔵庫を覗くと、昨日拵えたハムサンドと、はちみつクッキーが奥に眠っていたので、それらを取りだし、スクラップ帳に挟んだ雑誌の写真を参考に、綺麗に皿に盛りつけた。湯を沸かし、ティーポットに茶葉と湯を入れてそれを蒸らし、並べられた二つのティーカップに均一に注ぐ。そして、それらを溢さないよう慎重にテーブルへ運んで、ドレミーは満足気に席についた。
一つ目のカップを飲み干したので、二つ目のカップに手を伸ばす。口元へ運ぶ最中、持ち方が悪かったのか、指の間から持ち手の部分が滑り落ち、床に勢いよく叩きつけられ、花柄のカップは粉々に割れてしまった。中の液体はぶち撒かれ、足元に小さな水たまりをつくった。ドレミーは無言で破片を拾うが、慌てていたせいで、軽く指を切ってしまう。
「痛っ」
ドレミーの指の先から溢れた液体が、紅い水たまりに一滴落ちる。そこを中心に波紋が広がり、……