『水遊び』
一
守矢神社の石段から中腹あたりで左に逸れると、深く生い茂った木々の間に、小さな子供が通れそうな狭い小径がある。頭に注意しながらこれを奥へと進んでいくと、洩矢諏訪子お気に入りの、美しい広場につながっている。自然によって偶然できたのか、それとも誰かの仕業だろうか。その広場には、妖怪の山を流れる川筋の一つが流れこむ、澄んだ湖がある。その周りを囲むように、季節によってヤマツツジや菜の花が咲き誇る。晴れやかな空から太陽の光線が降り注ぎ、それが水面に反射して、磨かれた鏡のように輝いている。その奥には白い岩肌が、頭に緑を載せて、悠然とした面持ちで身を寄せ合っている。
諏訪子は置かれた岩に座り、この見事な景色を見るのが好きだった。観光地にされる程の完璧な風景は、一周してどこか人工的な感じか付きまとう。これを嫌う人もいるが、主観と客観のアンバランスが、逆に景色自体にさらなる奥行きを与えているようで、それも含めて彼女には面白く感じられた。
ある日、諏訪子はいつもの岩を椅子代わりに、早苗に作ってもらったおにぎりを頬張っていた。中身は塩昆布。ここ二日間の具は梅干しだったので珍しいな、とぼんやり思っていると、鳥の声に混じって後ろから茂みを掻き分ける音が聞こえてきた。諏訪子は驚いて、傍の岩に慌てて姿を隠して様子を伺った。
木々の間から現れたのは、二十代前後に見える若い人間の女だった。薄汚れた着物を身にまとい、辺りを見渡しながら湖に向かって歩いて行った。湖のほとりまでやって来ると、着物も脱がないで、そのまま湖に足を踏み入れ進んでいき、やがて体全体が水中に沈んでしまった。今世間を騒がしているの入水自殺の後追いだろうかと思い、諏訪子は緊張した。しかし、数秒も経たない内に女は水面に顔を出し、そのまま仰向けで浮かんで、水が揺れるのに身を任せていた。
安心するのと同時に、諏訪子は嫌な気分になった。ここは彼女にとって秘密の場所だった。いずれ誰かに見つかるとは思っていたが実際にそうなると、想像してたよりずっと面白くなかった。何か嫌がらせをして、二度と来たいと思わないようにしてやろうか、と思った。しかし思いついたのは、水浴びをしている間に着物を隠してしまうという古典的なものであり、既に着物がずぶ濡れの彼女には実行できないものだった。そもそもどうやって、あの女はここに来たんだろう、例の小径は女にとって明らかに狭すぎるし、私の知らない通り道があるのだろうか、と諏訪子は思った。すると途端に謎の女が神秘的に見え始め、気になって居ても経ってもいられなくなった。諏訪子は思い切って女に話しかけることにした。
諏訪子は岩の影から姿を現した。水辺へ真っ直ぐ向かっていき、湖に勢いよく飛び込んだ。女はぎょっとした様子で顔を上げると、バランスを崩して水の中に落ちてしまった。女が再び顔を出すと、諏訪子の顔を見て無邪気に笑った。諏訪子もそれにつられて笑った。二人は泳いで岸へと戻った。
濡れたまま、近くに置かれた平たい岩に二人は腰掛けた。日差しを受けた岩石はどれも触れると、ほんのり暖かかった。諏訪子は食べかけのおにぎりを頬張りながら、黙って一つ差し出した。女はそれを受け取り口へと運んだ。その女の受け取り方が、妙に芝居がかっていたので、諏訪子は自分の姿と言動のギャップが女に悟られていないと思い、この年齢差から生じる余裕の表れを微笑ましく感じた。
「いい所でしょ。水も綺麗で魚もいる。ここに来ると何だか妙に爽やかな気分になる。私の秘密の場所だったのに、どうやって知ったのさ」
「あらそうだったの、ごめんなさいね。ええと、お名前は?」
「諏訪子だよ。洩矢諏訪子。お姉さんは?」
「私は春子。皆にはお春って呼ばれているわ」
ふぅんと諏訪子は相槌を打った。春子は欲しい玩具を買ってもらった子供のようにニコニコしていた。諏訪子は彼女の悠々とした感じをちょっと崩してみたくなった。
「そうそう、どうやってこの場所を見つけたかって話だったわね。そうは言っても、何というか、道に迷っただけだから、偶然? てことになるのかしら?」
「じゃあ偶然ここに来て、偶然湖を見つけたから、後先考えず着物姿で飛び込んだってこと? 私はお姉さんがちょっと心配だよ」
それを聞いて春子は嬉しそうにした。
「お姉さんは人里に住んでるんでしょ?」
「あら、その言い方じゃ、まるでアナタは人里に住んでいないみたいじゃない」
諏訪子は自分のことを聞かれると、答えるのが少し面倒になった。春子の問いは置いといて、無理やり話題を変えることにした。
「お姉さん、仕事は何やってるのさ」
「私のことより、私は諏訪子ちゃんの話が聞きたいな。何ていうか、これは別に悪い意味じゃなくて、あなたと話していると何だか不思議な感じがして」
「じゃあ、お姉さんのこと教えてくれたら教えてあげる。でも、嘘ついたら駄目だよ。私にはその人が嘘をついているか、直ぐに分かるんだから」
春子は躊躇っていたが、やがてぽつぽつと自分は引手茶屋の芸者をしていること、歌や踊りが得意だが、その中でも特に三味線が得意であるといった内容のことを簡潔に話した。芸者とだということを聞いて、春子が持つ何となく俗離れした雰囲気の正体について、諏訪子は合点がいったような気がした。
「……ふーん芸者か。変な男に付きまとわれて大変じゃない?」
「諏訪子ちゃんったら大人びてるのね。でも大丈夫よ、私より可愛い子がいっぱいるから。それよりもほら、諏訪子ちゃんの事教えてよ、約束でしょ? 私、このために話したんだから」
「えー、私はただの子供だよ、山に住んでる」
「嘘、私だってお客さん沢山見てるのよ。とっても落ち着いている所とか、受け答えがしっかりしている所とか、何か秘密があると思うな」
どこまで話したものか、と諏訪子が悩んでいると、またもや後ろの方から茂みを掻き分ける音が聞こえてきた。木々の間から現れたのは髪に葉っぱをのせた東風谷早苗だった。
「もう諏訪子様、探したんですよ。諏訪子様のお部屋、まだ泥だらけじゃないですか。ちゃんと掃除されるまで、私、見張っていますからね。……あ、他の方もいらっしゃったんですね、これは失礼しました……」
早苗は逃げるように、諏訪子の手を引いて元来た道に帰ろうとした。諏訪子が振り返ると、春子はニコニコしながら手を振っていた。諏訪子も握られてない方の手を挙げて左右に振った。
二
春子が来たら何を話そうか、諏訪子は風呂の中で考えをまとめていた。しかし結局、一週間たっても春子は例の場所へ姿を現さなかった。再び湖が自分だけの秘密の場所に戻ったことは諏訪子にとって嬉しかったが、この喜びを共有できるのが早苗しかいなかったのはもどかしかった。この落ち着きのなさの正体を、素晴らしい風景を独り占めすることへの罪悪感であると諏訪子は解釈した。春子なら特別にここの出入りを許そうと思った。
人里にある引手茶屋といったら、裏通りにある備中屋の他にない。ある日、諏訪子はあまりにも退屈だったので何の気なしに春子の元を訪ねようと、一人で山を下り、人里へと向かった。
里に着くころには日が傾き始めていた。市場では大勢の人が夕食の材料を求めて賑わっている。あちこちから、販促の明るい呼び声が聞こえてくる。諏訪子は人々の活動を満足そうに眺めると、路地を抜けて裏通りを目指した。
裏通りは打って変わって活気がなかった。痩せこけた男が忙しなくキョロキョロと辺りを見回している。路地に下品な男が寝そべっている。諏訪子は嫌な気分になった。この嫌悪感は汚いものを見て生じたのではなく、活気ある風景とうらぶれた風景が同じ里に同居しているという事実から来たものだった。
目的の備中屋は直ぐに見つかった。適当に挙動不審な男に当たりを付けて、その後ろに付いていくだけで良かった。軒下には提灯が並んでおり、暖簾には葉のような家紋がある。欄干に芸者が一人、肘をついて煙管を吸っている。建物は赤い網目の柵に囲われている。綺麗だったが、少し装飾が過剰に思われた。茶屋の前には派手な着物に身を包んだ女達が、水飲み鳥のようにしきりに頭を下げていた。諏訪子は素早くその中から春子の顔を探したが見つからなかった。場所が場所だけに躊躇われたが、諏訪子は思い切って春子のことを聞いてみた。
「ねえ、お姉さんたち。お春さん今いない? お母さんに相手してもらえるように頼まれたの」
女達は怪訝な表情を浮かべ、互いに顔を見合わせた。やがてその中でも背の高い女が諏訪子に声を掛けた。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「諏訪子だよ。お春さんに伝えてくれる?」
「悪いけど、お春さんなら今、近くの居酒屋さんにお呼ばれされていないのよ」
諏訪子は、春子が居酒屋で男の相手をしている様子を想像すると、彼女の超然的な印象が損なわれるようで嫌な気分になった。
「そのうち帰って来ると思うから、よかったら中で待たない? ちょうど冷えてきたし」
諏訪子はちょっと迷ったが、折角なので茶屋の中で待つことにした。春子に会うのも勿論あるが、こういう店の中が一体どうなっているのか興味があった。
窓が少ないせいか建物の中は暗く、まだ日は出ているのに夜を思わせた。玄関に置かれた鯛の形を模した青銅の置物と目が合った。女中が慌ただしく部屋を出入りしている。背の高い女は廊下を進んで一番奥の部屋の前まで来ると、諏訪子を軽く一瞥して中に入った。諏訪子もそれに続いた。
案内されたのは八畳ほどの和室だった。部屋には箪笥があるだけだった。女はお茶菓子でも持ってくいくといって席を立った。諏訪子は断ろうとしたが、既に出ていった後だった。諏訪子は傍の座布団を掴むと二つに畳み、それを頭へあてがってごろりと横になった。壁越しに笑い声に混じって男女の話声が聞こえてきた。話を聞くとどうやら巻煙草を、誰が一番灰を落とさずに長く吸えるか競争しているようだった。馬鹿馬鹿しいと思って、諏訪子はそのまま目を瞑った。
諏訪子は襖が開く音で目を覚ました。音のした方を見ると、茶や菓子を載せた盆を持った先ほどの女が、申し訳なさそうに立っていた。
「ごめんなさい。起こしちゃったみたいね」
諏訪子は体を起こした。女から湯呑を手渡された。湯呑には「荘周夢胡蝶。胡蝶為荘周」と書かれていた。寝起きに読んで楽しい詩ではなかった。女の持ってきた皿にはかりんとうが山のように積んである。諏訪子はその中から三つ程つまむと一気に口の中に放りこんで、茶をすすった。
「諏訪子ちゃんだっけ? 私は妙子っていうの。さっきついでに電話を掛けたら、お春さんはもう居酒屋から出た後だそうなの。だからもうすぐ帰ってくると思うわ。それまでお姉さんと何かして遊ばない? おはじきでもいいし、お手玉でもいいし」
「じゃあお姉さん、花札でもやろうよ。こいこい分かる?」
諏訪子は滅茶苦茶に強かった。花札が久しぶりだったのと、自分が子供だと思われていることが新鮮だったので、いつもより張り切っていた。神通力を使いまくって、札を呼び寄せ続けた。
「ほい猪鹿蝶、こいこい」
「月見で一杯、花見で一杯、三光、勿論こいこい」
「やった、五光だ! もう一声。さらにこいこい」
妙子は御機嫌取りのつもりで始めたので、多少手加減して挑むつもりだった。しかし、あまりにカス札しか来ないので、段々とムキになった。その内あんまり負けるものなので、一周回ってどこまで点数差がつくか観察する学者のような心持ちになった。一方、諏訪子は退屈し始めていた。負ける勝負は勿論だが、必ず勝てると分かっている勝負にも一体誰が挑むだろう。やればやるほど、虫を駆除している時のような虚無的な爽快感を覚えた。
二人の点差が百点ほどになった時、部屋の外から声がした。
「春子だよ。中に入っても大丈夫かい?」
妙子は嬉しそうに返事をした。襖がゆっくりと開き、女が風呂敷を抱えて入って来た。諏訪子は驚いた。そこに立っていたのは、腰の曲がった老婆だった。
「今、諏訪子ちゃんと花札やってるのよ」
妙子はそう言って山札を捲った。柳のカス札が場に置かれた
三
翌日、諏訪子はいつもの湖で魚が泳いでいるのを眺めながら、昨日の出来事について考えていた。あの茶屋にお春さんと呼ばれている人はあの老婆を除いて居なかった。それが本当なら春子は諏訪子に対して嘘をついたという事になる。しかし、一体自分が芸者であると偽ってそれに何の意味があるのだろう。諏訪子は解せなかった。しかし、子供の悪戯に大人が本気にならないように、利害を度外視した行為に対して、諏訪子は怒る気にはならなかった。
魚が一匹跳ねて、銀の腹を自慢げに見せつける。強めの風が吹き、諏訪子の帽子を取り上げようとした。諏訪子が両手で帽子を押さえていると、後ろの方から、茂みを掻き分ける音が聞こえてきた。木々の間から現れたのは紛れもない春子だった。
春子の顔を見ると諏訪子は全く感じなかった筈の怒りを覚えた。春子は諏訪子がいるのに気が付くと、無邪気に手を振った。無視しようかと思ったが、相手があまりに機嫌がよさそうなので、それを台無しにしたくない気持ちを覚え、気が付くと諏訪子は手を振り返していた。
怒るタイミングを見失ったせいで、持ち前のものぐさな性格が働き、諏訪子は茶屋に行ったことを無かったことにしてしまおうか、と思った。加えてあの嘘は何か事情があったから咄嗟についたのであって、何かしら深い事情があったのでは、とも思った。しかし人間風情の事情について慮るのも、それとは逆に癪だった。どうしようか逡巡していたら、春子が先に茶屋の事を言い出したので、諏訪子は不意を突かれた。
「諏訪子ちゃん、私に会いに来てくれたんでしょ?」
「えっ! うん」
「ごめんね、あそこで働いてるなんて嘘ついちゃって。諏訪子ちゃんがあんまり特別に見えるから、普通の女中の私もそれに張り合わなくっちゃって何でか思っちゃって、咄嗟に変な嘘ついちゃったの。本当にごめんね」
「いいよ、別に。……それよりどうして私が行ったこと知ってるのさ」
「あそこの茶屋に春子っていたでしょ。私のお祖母ちゃんなの」
不思議がっていたのに蓋を開けて見ると大した話でも無くて、諏訪子はがっかりした。悩んだら悩んだ分ぐらいの真実は在ってもいいように思われ、それが不公平に感じた。しかし、ちょっと不自然な話にも思えた。実はこれが辻褄合わせのカモフラージュであり本当は…… 考え出すとキリがなかった。
「それより、諏訪子ちゃん泳ぎましょうよ。いい天気なんだし」
春子は考えている諏訪子を置いて湖に入っていった。諏訪子もそれに続いた。春先の水はまだ冷たく、それに反発しようとする力を諏訪子は体から出てくるのを感じた。諏訪子は次第に気分が良くなって、考えるのが面倒になった。春子の話で納得することにした。疑っても本当のことは分からないのだから意味がない、と思った。
「諏訪子ちゃん。迷惑かけたお詫びの印に魚取ってあげるわ」
春子はそう言って深く潜っていった。鞭のように体を動かし、するすると水を掻き分けて進んでいた。気が付くと、あっと言う間に春子の姿は水面から見て豆粒ほどの大きさになるまで遠ざかっていた。春子の泳ぎは異常に上手かった。明らかに人間離れしていた。
諏訪子は手のひらで水を掬い上げ、勢いよく顔を洗った。