もう一度座るのも何だか変な気がして、下を向いたままさっきの衣装ダンスまで行って、中を開けてみた。香霖堂はあちこち物色しまくったが、それでも景色に同化していてまだ見ていない場所は沢山ある。
中に入っていたのはドレスだった。黒くてシックな大人のドレスも、フリルたっぷりで可愛いのもある。
……が、どのドレスも、一箇所どうしてもぶかぶかになりそうだったので諦めた。
ぺたぺた自分の身体に触る。霖之助ってどんな女の子が好みなんだろう?
「なぁ、こーりん……」
「なんだい、魔理沙」
どのドレスが似合う? 試着してみてもいいか? お前が好きなのはどのドレスなんだ?
聞きたいことはいっぱいあるのに、どれも口から出てこない。静まりかけていた鼓動が、またとくとくと音を鳴らし始める。
そうして聞くか聞かないか迷っている内に、霖之助がこっちにやってきた。少し腰をかがめて、同じ目線に立ってくる。
「今日の魔理沙はどうもいつもの調子じゃないようだね? 具合が悪いなら奥で少し横になるか?」
「い、いや、平気だぜ? ただ、その、あの……」
怪訝な顔で霖之助が見つめてくる。彼はおもむろにメガネを外すと、髪を掻き上げてきた。
そして、おでこをぴたっとくっつけられる。
「ひゃぁぁ……」
「ちょっと熱っぽい? かな? 本当に大丈夫か?」
熱っぽいのは確かだけれども! 近い! 近い! 近い!
互いの吐息が聞こえる。ぼーっとするくらい頭の中で色んな感情がぐるぐる回っている。
「今日は──そうだ、朝一に仕入れ品が届いたから、布団を畳み損ねていたんだ。運がいいな、魔理沙? 僕の布団で悪いが、顔も真っ赤だし、少し休みなさい」
「こここ、こーりんの布団? やめろ、そんなところで寝たら……!」
頭が爆発しちゃう!
でも霖之助は人の話を一切聞いてくれず、ひょいと抱き上げてきた。
しかもお姫様抱っこで! もう好きにしてくれ!
さっきほどではないにしろ、霖之助の顔が近い。彼の腕に抱かれてじたばたもがいてみるが、下ろしてくれる気配はない。
「やめろ、あたしは元気だ!」
「元気じゃない人ほどそういうことを言うもんさ」
ヒザの裏と肩に、彼の力強い手を感じる。
初めて会ったあの頃は「絶対追い抜いてやる!」と思っていた。あれからかなり身長差は縮まったが、もう彼に届かない。
やがて魔理沙は抵抗することを止めて、大人しく抱っこされたまま寝室に来た。霖之助の布団が敷いてある。
「数刻したら様子を見に来るから、それまで安静にしているんだよ。もし熱が続くようなら永琳を呼ぶから」
彼は言うだけ言って掛け布団をふぁさりとかけてくる。そうして霖之助は出ていってしまった。
寝る気もないので天井を見上げる。
「バカこーりん……」
一言呟いて、ごろりと身体を横に向ける。軽く息を吸うだけで、霖之助の匂いが鼻をくすぐった。
何だかだっこされているみたいで心地良い。そういえば昔は、こうやって霖之助に抱っこされながら寝たこともあった。
あの頃はよくまぁ、無邪気に同じ布団へ入っていたもんだ……と、思い出すだけでまた顔が赤くなってくる。
「こんにちは」
誰か客が来た。この声色は……紫だ。
霊夢といい紫といい、なんでこんな時にばっかり来るんだか!
「新しい傘と扇子が欲しいの。それと包丁が刃こぼれしてしまって」
紫ががさがさとカバンから包丁を取り出す音が聞こえた。そんなこと、藍にでも任せたって構わないような買い物なのに、どうして自分で来るんだ?
「ふむ……これくらいなら今日中に修理できそうだな。しばらく待つか? それとも一旦帰るか? 帰るなら夜に裏口から来てくれれば渡すぞ」
「どうしようかしら? そうね、ここでお待ちしますわ」
紫はクスクス笑い始めた。この寝室からでも、襖は開いているから、二人の声が聞こえてくる。
「ところで魔理沙が来ているようね。外にホウキがあったけれど?」
「あぁ、ちょっと体調が悪いらしくてな、奥で休んでもらってる」
二人は世間話を始めた。それと同時に、霖之助は砥石を持ち出してシャリシャリと包丁を研ぎ始めたようだ。
「心配?」
「そりゃぁ心配だろう。知己が身体の調子を崩したのに何とも思わない奴なんてあるもんか」
紫がしきりに話しかけて、霖之助が応じる。そんなやり取りを何度も繰り返すのが聞こえた。
心の奥がモヤモヤする。霖之助と話しっきりになれるのは自分だけだと思っていたのに、まさか、こんなことが起きるなんて。
「ねぇ、今度一緒にお食事でもどうかしら? 招待致しますわ。藍も橙も会いたがっているのよ?」
魔理沙はぷくっと頬を膨らませた。この話、半分はこっちへ向けて喋っている。霖之助は紫の──妖艶な──誘いにホイホイついていくような男ではない! 断じて!
「ありがたい申し出だが、その内だな」
「あら、いけずな方ね? ダメよ、据え膳はしっかり頂かなくちゃ」
そんな据え膳、全部幽々子に食べられてしまえ!
布団の中でわなわなと震える。霖之助で遊んでる! いや、それもあるが……紫と話してばっかりだ!
紫が客なのは分かるが、たまにはこっちへ来てくれたっていいのに。
そこから先はまた無言になった。しゃりしゃりとまた刃物が研ぎ澄まされている音が聞こえる。それだけだ。
刃物を研ぐ音。仕事の音。本当に何の音もしなくなると不安になるのに、ほんの小さな音──霖之助が近くにいてくれる証拠──があるだけで、世界が広がって見える。寂しくない。
しばらくすると、彼女のクスクス笑いがまた耳に届いた。
「扇子は──この二つ。傘はこちらを頂きますわ。おいくらかしら? お支払いは身体でよろしくて?」
「現金だ。修理代と併せて一貫と六百文」
紫の発した言葉の意味が分かってしまう。ほんの何年か前までは「この店で皿洗いでもするってこと?」とか思っていたが、今は分かる……絶対にそんなことさせない!
「そうそう、これも頂こうかしら」
「ん、それくらいならおまけしよう」