玄関から出ると身を切るような冷気が阿求をつつんだ。毛皮の上掛けをしっかりと身に巻きつけ、襟巻きを口元まで引き上げる。防寒具が無いよりはマシなはずだけれども、ここまで寒いとあってもなくても大差ないような気がしてしまう。
「阿求様、お出かけですかね?」
屋根や通り道に降り積もった雪を除けている面々の中から、草次郎が駆け寄ってきた。うん、と頷いて、
「鈴奈庵に」
と手に持った風呂敷を示す。
寒さで赤らんだ頬に朗らかな笑顔を浮かべ、草次郎はゆっくりと頷く。
「お気をつけて。お戻りになる頃までには、きれいにしておきますんでね」
「今のままでもきれいだけれど、まあ、無理しないでね。お竹たちが甘酒を作っているから」
「そりゃあ、ありがたい。なによりのご褒美です」
「留守を頼むわ」
はいな、と頷いた草次郎に見送られ、戸口をくぐる。背後で「阿求様!? この足場の悪い日にお出かけなど、ああ、この爺も供を、すこしばかりまってくださいませ、阿求様ー!!」と、松爺の叫び声が聞こえたと思ったら、一拍おいて、わっと弾けた大勢の笑い声も耳に届いた。きっと、草次郎がうまいこと言い負かしたのだろう。
やれやれ、と苦笑を浮かべてしまう。松爺の心配性ももう少し落ちついてくれるといいのだけども。だいたい、いくら悪路とはいえ、幻想郷生まれ幻想郷育ちのこの稗田阿求が、雪に足を取られるとでも──
「っ、とと」
新雪に隠されていた、踏みしめられ固くなっていた箇所を思いきり踏んで滑りそうになる。慌てて体勢を整えた。この寒いのに冷たい汗が頬を流れる。
「……危なかった」
慎重に行こう。足場を確かめながら、阿求はそろそろと歩を進める。
神経を尖らせながら歩いたので、鈴奈庵に到着する頃にはそこそこの疲労感が肩にのしかかっていた。早く定位置のソファに落ちついて温かい紅茶が飲みたい。
そう思っていたのに、表戸に貼られた「数百年ぶりの幻想郷縁起、第一版ついに入荷!!」と書かれた用紙に気づいて思考が固まった。赤い強調線も引かれた張り紙のまわりには「稗田阿求入魂の書!」とか「難解な"縁起"とはおさらば!」とか「一家に一冊幻想郷縁起!」とか「素敵な貴方に安全な幻想郷ライフを」とか書かれた紙が、ぺたぺたと貼り付けられている。
なんだこれは。なんだこの、大仰な煽り文の数々は。最後のなんてもろに序文からの引用じゃないか。もしかして、本を借りてきてくれた松爺が噴きだすのを全力で堪えていたのは、これが原因か。
あらゆる考えが同時に湧き上がったせいで、逆に、放心したように固まってしまった。鈴奈庵の入り口に立ち尽くした阿求だが、はたとあることに思い当たって指を折る。
幻想郷縁起第一版が完成を見たのが、昨年の師走某日。
その日から、世話になった家や団体への挨拶まわり、縁起を見に来た博麗の巫女等々の対応に加え、年明けの儀式やら行事やらにかり出されて、鈴奈庵を直接訪れるのは久方ぶりだ。当然、自身が来なかったあいだも鈴奈庵は営業しているのだから、訪問客は皆、このなんとも言えない煽り文を見ただろう。最初の数日ならともかくも、発行されて一月以上も経つのにこのありさまとは。
「っ──! 失礼します!!」
「あっ、いらっしゃいませー……って、なんだ阿求(あんた)か」
「こら」
「小鈴」
「ぅぐっ」
入店早々、看板娘がその両親から肘鉄を食らう場面を目にするとは。
勢いこんで踏みこんだものの、かなり面食らった阿求だった。が、どうにか気持ちを切り替える。
丁重な挨拶と幻想郷縁起を売り出してくれている謝礼を終えてから、表の張り紙をどうにかしてほしい今すぐに、と交渉にかかる。本居一家は揃ってきょとんとしていたけれど、必死の訴えの甲斐あって「まぁ……阿求が嫌なら」と張り紙を回収させることに成功した。やれやれである。
しかし、騒動はそれで終わらなかった。阿求が安心できたのは束の間で、ひとまず返却をと受付に本を置くと、小鈴が、新たな火種を打ち出したのだ。とはいえ、その時点では、小鈴も阿求も、自分たちのやりとりが火種になるとは思ってもみなかったのだけれども。
「そういえば、赤ちゃんってもう生まれたの?」
「すこし前にね。正月と被ったら困ったけれど、ギリギリ年内に生まれてくれてよかったわ」
「そっかぁ。やっぱ大変だった?」
「そりゃねえ。知識としては知っていても、実際にってなるとまたちがうわよ。特に、生きものは。最初は、私ひとりでもどうにかなるかと思ったんだけどね、結局お竹や松爺も動員したわ。かなり大変で……ま、無事でなによりってやつよ」
「そうよねぇ。ねえ、そのうち見に行っていいかしら」
「ダメって行っても来るんでしょ。まあ……今はまだ落ちつかないから、そうね、如月に入ってからならいいわよ」
「やった! 楽しみだわー」
……冷静に思い返してみたら、誤解を招きかねないやりとりだったかなとは、少しだけ思う。
それでも、このやりとりだけ聞いて、小鈴が言及した「赤ちゃん」が阿求の子どもだと解釈するのは、いくらなんでも早合点というものだ。
烈火のごとく怒り狂った本居夫妻が「阿求さまに狼藉を働いたのはどこの馬の骨だ」と飛び出して行こうとするのを必死に止め、勘違いに勘違いを重ねそうになるのを解きほぐし、最終的には「ふたりとも!」と声を張り上げざるを得なかった阿求である。
「おじさまも、おばさまも、ちゃんと話を聞いてください! 赤ん坊を産んだのはうちの猫です! 猫! 私じゃなくて、猫!!」
声を枯らしてようやく「……ねこ?」と呆けるふたりに、小鈴が、たった今返却した本を差し出した。此度稗田が借りていたのは、ゆりかごから墓場まで、猫と共に生活するノウハウが書かれたものである。夫妻の目が点になった。
半年ほど前になるか。小間使いのひとりが「目が合ってしまって」と泣きそうになりながら弱った子猫を連れてきたのを皮切りに、稗田の屋敷には結構な数の猫が居着いてしまった。
三毛猫から始まり、白猫黒猫キジトラ猫。お竹が目を光らせているので清潔だし、蔵のネズミを追い払うし、家人たちの癒やしとなっているしと、阿求もそれなりに可愛がっている。書き物をしているのにどこからともなく入りこんで、紙や巻物の上に寝転んだり、硯に手を出して書いた物を台無しにするのには辟易だが。というか、もっと甘やかしてくれる家人が大勢いるのに、なんだって彼奴らは阿求のまわりに寄ってくるのか。緩和休憩。
その中の一匹が、この秋にどこからか種をもらってきてしまったのだ。猫の育て方は知っていても出産を経験するのは初めてなので、慌てて松爺に頼んで鈴奈庵に資料を求めた阿求であった。
経緯の一部始終を説明すると、本居夫妻は、へたりこみかねないほどに安堵した。
「事前に言っておいてよ」と騒動の概要をいまいち理解していない小鈴にため息をつき「まあ、よかったさ」と満足げになんども頷く。そんな夫妻の言動に、ふかふかと温められる心から努力して意識をそらし「おふたりとも」と阿求は唇を尖らす。
「私をいくつだとお思いで」
「いえその」
「ついその」
「まったくもう」
つくづく思う。本居一家は気まずい時の誤魔化し方がそっくりだ。
紅茶を煎れに行った小鈴と、仕事に戻った夫妻を見送ると、阿求だけが残された。毎度のことなのでさほど気にしないが、売り場に客ひとりが残されるという状況を易々と作って良いのだろうか。
壁に守られ火鉢で温められている空気も、阿求にとってはまだ肌寒い。上掛けを肩に巻いたままソファに腰を下ろしたら、入り口付近に特設された幻想郷縁起に目が行った。店に残っている在庫が少ないことに思わずため息が出る。本居氏から、新しい縁起の評価は上々だと聞いてはいたが、こうして目に見える形で分かると抱く安心感もひとしおだ。
第一版が形を見たとはいえ、幻想郷縁起の編纂が終わったわけではない。情報はどんどん更新されるし、新たに幻想郷に流れ着く妖怪だっているはずだ。これからの阿求は、縁起を修正・更新することに時間を費やしていくだろう。
ああ、それに、縁起と直接の関係はない(と思いたい)が、近頃、小鈴が危険な趣味に目覚めてしまったから、そちらも注意しておかなければ。やることはまだまだ盛りだくさんだ。
それでも、と阿求は静かに肩を落とす。
半生をかけて取り組んできた第一目標が、ひとまず達成できて、概ね好意的に歓迎されているのはありがたいことだ。今この時だけは静かな満足感に浸っていたい。
「おっまたせー」
「……そんなささやかな願いは儚く消え去ったのだった」
「え、なに? なにかの小説?」
「いったいどうして、あんたはこんなにも間が抜けているのかしら」
「いきなり!?」
文句を言いながらもテキパキと紅茶の用意をする様は手慣れたものだ。十分に茶葉を蒸して、ふたつのカップに琥珀色の液体を注ぐ。カップを手にとって香りを楽しみ、温かい紅茶に口を付けると、いつも通り変哲のない味が舌に満ちた。
ほぅ、と息をつく。
「ほんとう、ここで飲むお茶は、良くも悪くもなく普通ねぇ」
「あんたの毒舌も相変わらずね。気にくわないならにがーい抹茶を出してもいいのよ?」
「気にくわないなんて一言も言っていないでしょう。それに、苦味のない抹茶なんてどこがいいのよ」
「はいはい、阿求お嬢様は大人の味覚の持ち主ですこと」
いちいち引っかかるなぁ、とこめかみをピクピクさせながら、小鈴は紅茶に砂糖をひと匙分落とす。
どうせさほど怒っていないのだし、尖った声音には頓着せずにもういちど紅茶を含む。おいしい、と独りごちた。
その言葉に嘘はない。特異なものや珍しいものも悪くはないが、日常の共にするのなら、際だったところはひとつもない、けれどどんな時でも変わらない、安定した凡庸さがいちばんだ。尤も、気になったことには一直線で、怪しいものや珍しいことに気を向けてばかりいる小鈴には、平凡さの重要性を説いても聞き流すだけかもしれないが。
お茶うけの金平糖をぱくつきながら互いの近況を報告する。「そうそう、聞いてよ」と小鈴が席を立った。母屋のほうを覗きこみ両親がいないことを確認してから、戸棚の奥から一冊の本を持ってくる。嫌な予感がする。
「じゃーん! 見て、新しい妖魔本を手に入れたの」
予感が的中してしまった。全然嬉しくない。
見て見てと、まるで「とってこい」をしてきた子犬のように嬉しそうに妖魔本を示されて、阿求は深く長いため息をついた。
「あまり手を広げないほうがいいって言わなかったっけ」
「だってお客さんが持ってきてくれたんだもん。買い取り依頼をされたら受けないわけにはいかないでしょ?」
「お客さんが?」
「うん。神社に行く途中に拾ったんだって。中身はわからなかったけど、私が"読めない本"を集めてるって話を覚えててくれたみたいで」
「……あんたねぇ」
ラッキーだったわー、とのほほんと笑う小鈴に頭が痛くなってくる。どうしてくれよう、この幼なじみ。
なんらかの形で妖怪が関わり力を持った本、いわゆる「妖魔本」が小鈴の手に渡った経緯は、実を言うとよく分からない。おそらく、小鈴本人も正確には把握していないのだろう。「阿求見て、変な本を見つけたの!」と書斎に転がりこんできた小鈴に尋ねても、彼女は新しく手に入れた謎の本に夢中で、返ってくる言葉は要領を得ないものばかりだった。
妖魔本を見つけただけなら、問題はない。真っ当な感覚を持つ里の人間ならば、本から発される妖気を(たとえ妖気と分かっていなくとも)怖れ、内容の読めない本など退屈がり、すぐに手放してしまうだろうから。
けれど、幼い頃から頭のねじが二、三本弛んでいるに違いないこの友人は、妖魔本という奇妙で不思議な存在に一発で心を奪われてしまった。それはもう、恋もかくやと言わんばかりに。書物に対しては並々ならぬ熱量を見せるとは思っていたが、こんな怪しげな本にも入れこむなんて、ストライクゾーンが広いにも程がある。
「ほんとうに、あまり深入りするんじゃないわよ。その本は、明らかに里に無いほうがいい力を持っているんだから。関わり続けていたらどうなるか、わかったもんじゃないわ」
「だーいじょうぶだって。扱いには十分気をつけているわよ」
かつて、これほどまでに信用できない「大丈夫」を聞いたことがあるだろうか。いや、記憶を探ってみたら結構あった。それでも「大丈夫」を押し通させてしまうあたり、阿求は小鈴との付き合い方を根本から考え直したほうが良いかもしれない。もっと厳しくするとか、甘い顔は見せないとか。
遠い目になった阿求は気にせずに、小鈴は「それでね」と隣に移動してくる。妖魔本を開いて阿求に示した。
「今回も、ぜんっぜんわからないんだけど」
「ええ」
「阿求はこれ、どう? 見覚えある文字とか、ある?」
小鈴に促され薄手の冊子を斜め読みする。幾何学模様がいくつも並べ連ねてあるようにしか見えない。稗田邸の書庫には「今昔百鬼拾遺 稗田写本」などのような妖魔本が何冊かあるし、書かれている文字も内容も覚えているが、この本の文字と一致するものはなかった。
わくわくと阿求を見る小鈴に首をふる。
「駄目ね。全然読めないわ」
「そっかー」
「なんでちょっとうれしそうなのよ」
「え? いや、そりゃ、書いてあること読めたらうれしいけどさ。読めないままってのも、それはそれであれこれ想像できて楽しいじゃない」
嬉しそうに目を細め、小鈴は冊子の表紙をなでる。
「なにが書いてあるのかしら。妖怪しか知らない秘密の抜け道とか? あ、道具ってのもありそうね。もしかしたら、これまで倒した人間の覚え書きとかかも! 人間の名前と、使っていた武器や背格好を記録しておくのよ」
「それで、九百九十九人まで記録したけど、千人目に敗れて以来、忠実な付き人になった?」
「そうそう! 一見普通の人間なんだけど、満月の晩には一騎当千の力を発揮するの。うーん、ロマンを感じるわー!」
「はいはい、楽しそうでなによりですわ」
「うん!!」
皮肉も通じぬほどに顔いっぱいで破顔した彼女を見ると、どうにも厳しい心持ちでいるのが難しくて笑ってしまう。小鈴ほど脳天気に構えていられない現状なのは重々承知しているが、底抜けに明るい笑顔を見てしまうと、なんの根拠もないのに、きっとなんとかなるだろうと思ってしまった。
「やっぱり、よくわからないわ、あんた」
「それでねぇ、私が思うにここの部分は、って、今なにか言った?」
「なんにも。で、その逆三角形に毛が生えたような塊がなんだって?」
「うん! 思うに、ここは武器の形を表してるのよ。だから──」
楽しそうに繰り広げられる突拍子もない空想の数々に相づちを打ちながら、阿求はやれやれと苦笑する。そのまなざしが、たとえようもないほど優しく穏やかに緩んでいることには気づかなかった。
>>サク_ウマ様
読み応えと捉えて頂き感謝の念が絶えません。ありがとうございます。
>>2様
ありがとうございます、精進いたします。
>>モブ様
できる限り無駄を削いだつもりでもこの長さになってしまい落ちこんでいましたが、そのお言葉を頂けて本当に嬉しいです。ありがとうございます。
姥や松爺やお竹もちゃんと「大人」として阿求を大事にしていて、それが阿求の今の人格にしっかりと何かを残しているようでとても嬉しくなりました。
”御阿礼の子”について考えれば考えるほど息苦しくなるけれど、阿求の隣に小鈴がいると思うと肩の力が抜ける。そんな感覚を突き詰めて書いた話でした
二次創作なのにほぼオリキャラを押し出さねば話が回らないことに頭を抱えていましたが、そう言って頂けると本当に嬉しいです。ありがとうございます