よく晴れた夏の日のことだった。
例によって稗田邸にやって来た小鈴は、麦湯を一気に飲み干すやいなや、勢いよく身を乗り出してくる。鈴の髪飾りがチリリンと鳴った。
「ねえ、阿求。川に行こうよ」
「悪いけど、今日中にまとめてしまいたいから」
「えー!」
文机から顔を上げずに言うと、小鈴は不満げな声をあげた。そちらを見ずとも頬をいっぱいにふくらませている姿が目に浮かぶようだ。さらさらと筆を走らせながら、阿求は続ける。
「それに、こんな暑いのに外に出たら、体調を崩してしまうかもしれないもの。他を当たってください」
「ええー!」
小鈴が、そんなあ、とか、ちょっとくらい平気よ、とか言いながら、背後をちまちまはいまわる。以前、こちらの気を引こうと着物の袖を引っ張って、盛大に書き損じた阿求から叱りとばされたのを覚えているのだろう。触れてこそこないが、気が散るったらありゃしない。
このままではまた書き損じてしまいそうだ。筆を置いて息をつき、阿求はなるべく険しい顔でふり返る。
「小鈴、邪魔をするなら」
帰って、と言おうとしたのに、目に飛びこんできた笑顔があんまり嬉しそうで言葉に詰まる。そうまでして顔をいっぱいに綻ばせられると、話を聞かないこちらが悪者のようだ。
「あー」と言葉にできない不満をはきだして、やれやれと首をふる。
「なんで川なの」
「寺子屋で男の子たちが話してたのよ」
「うん。で?」
「で?」
「…………。それだけ?」
「ん? うん。気持ちよさそうだなぁって」
うっとり目を細める小鈴にため息がこぼれる。またこのパターンか。
「里の子どもたちに正しい歴史と十分な教養を」という目的で、慧音が開き稗田が後援をしている寺子屋は、まだまだ試運転の段階ではあるものの、徐々に受け入れられている様子だった。
半人半獣の慧音が教壇に立つというので陰で心ないことを言う声も聞こえてはくる。しかし、多くの里人は、この小さな寺子屋を期待をこめて見守っているように感じられる。九代目阿礼乙女が全面的に支援をしていることや、慧音が誠実な人物であること、彼女のこれまでの里への貢献が一定以上の評価を受けていることなどが味方しているのだろう。それに、なんといっても、心身の成長を感じさせつつも商売の手伝いをさせるにはまだ幼く、大人の目が必要な年頃の子どもを、週に何日かでも、決まった時間預かってくれる場所というのは貴重なのだ。
小鈴は、その寺子屋に初期の頃から通っている。
彼女は読み書きに関しては(阿求ほどでないとしても)堪能なので、全員での授業は退屈だと愚痴をこぼすが、個々で行う際に慧音が与える教材が絶妙に好奇心を刺激するらしく、なんだかんだ楽しく通っているようだ。「慧音先生が教えてくれた、古事記伝ってのが面白くってさー」と報告してきた時は、さすがにどんな顔をすればいいか困ってしまったが。
閑話休題。
もうひとつ、寺子屋に通うことで訪れた大きな変化が、小鈴の交友関係が広がったことだ。
これまで、小鈴の活動範囲は鈴奈庵か稗田邸に限られていたらしく、同い年くらいの知り合いは阿求の他にいなかった。それが、寺子屋に通うようになってから、話をしたり遊んだりする相手が増えたと言う。花屋の娘や棟梁の息子など、阿求も親しく付き合っている相手の名を嬉しそうに挙げる小鈴の反応から察するに、歓迎すべき変化だろう。
しかしながら、ひとつだけ困ったことがある。寺子屋で見聞きした遊びごとにどうしてか阿求を誘ってくるのだ。せっかく(少ないとはいえ)友人ができたのだからそちらを誘えばいいのに、毎度真っ先に阿求を誘いにやって来る。
今の阿求には、小鈴の誘いにほいほい乗れるような余裕がない。書庫に保管されていた書物は全て頭に入れたので、今度は文章を書く練習を進めているのだ。お竹や松爺をはじめ、徐々に数を増やしている小間使いたちから、前日あったことを聞いて記録に残すこの作業は、なかなかどうして時間がかかる。慣れてくればまた違うだろうが、少なくとも、今は無理だ。
ということを、口を酸っぱくして説明しても、小鈴は阿求を誘いにやって来る。忙しいとの理由を素直に受け入れ大人しく本を読みふけるならまだ良いが、あんまりしゅんとするものだから、ついつい無碍にできずに付き合ってしまい、後になってその日の課題を必死に終わらせることもままある阿求である。
ここで甘い顔をするわけには──
「……だって、すっごい涼しかったって」
楽しげに身を揺らしていた姿から一転、小鈴はしょんぼりと肩を落とす。阿求が乗り気でないのを察したのだろう。
唇を尖らせ俯くその頭と尻のあたりに、しゅんと垂れる子犬の耳と尾を幻視した。
「…………」
阿求は天井をふり仰いだ。
「すこし出かけてくるわ」
「ありゃ、お嬢様? こんな暑いのに大丈夫ですかね? 松蔵さんかお竹ちゃんに」
「いらない。すぐ戻るから」
「いってきまーすっ」
「お気をつけてー……?」
不思議そうな草次郎の見送りを受けて道を行く。
カンカンに照りつける太陽が容赦ない熱を注いでくるが、お竹にも松爺にも内緒で屋敷を抜け出している興奮で、あまり気にならなかった。阿求の手を引く小鈴も似たようなものなのだろう。悪戯めいた笑顔を浮かべ、阿求をふり返る。
「大成功! ね!」
「よくあんな道を知っていましたね」
「だっていつも通ってるもの。ま、私にかかればこんなもんよ」
「まったく、呆れるわ」
「えー」
きゃらきゃらと笑いあいながら細い道を行く。小道に沿って生える木々は生い茂り、入道雲の浮かぶ空は真っ青だった。見慣れたはずの道なのに、付き人がいないからか、妙に目新しく、眩しく光って見える。
「ねえ、それで、どこに行くの?」
「鈴奈庵(うち)近くの水車小屋。最近気づいたんだけど、茂みを抜けたら川に降りられるのよ」
「深かったりしない?」
「だーいじょうぶ! 来るときにたしかめたんだけど、底に手がついたし、冷たくって気持ちよかったよ」
「へえ、いいね」
はしゃいだ声が出て気恥ずかしくなる。けれど、小鈴は気にした風もなく、楽しそうに阿求の手を引く。
四半刻(三十分)足らずで川に辿り着くと、阿求も小鈴も汗だくだった。麻の浴衣に木綿の袴という涼しげな格好の小鈴はまだしも、阿求は、夏用とはいえ上掛けまで着てきたものだから、水を被ったようなありさまだ。頬に当てた手ぬぐいが即座に汗を吸って重くなる。
「あっつい……」
川縁にへたりこむ阿求を尻目に、小鈴は靴と靴下を脱ぎ捨て、ぱしゃぱしゃと川に飛びこんだ。
「ひゃーっ」楽しげな悲鳴を上げる。顔を上げたら、満面の笑みを阿求に向けた。
「ほら、あんたも早くきなさいよ! きもちいいよ!」
「わかった、わかったから」
立ち上がろうすると軽い目眩が阿求を襲った。
驚いたものの、じっとしているとすぐに治まったので川縁に腰かけ、雪駄と足袋を脱いでそろそろと水に足を浸す。キンと冷えた川の冷たさに飛び上がりそうになった。
「つめたっ」
「あはは、変な顔」
「し、しかたないでしょう、驚いたの」
言い返しながら手もつける。氷水に触れているようだ。火照った肌を清水が冷ましてゆく感覚が快い。両手で水をすくって顔に当ててみたら、汗がスッと収まっていく。あまりの心地よさに頬が綻んだ。
袴が水面につかないよう軽く持ち上げ立ち上がると、緩やかな水の流れがすねのあたりを優しくなでた。足を取られないよう気をつけながら小鈴の元へ行く。
「気持ちいいねぇ」とまなじりを綻ばせる小鈴に頷こうとしたら、またクラリとした。あれ、と思う。小鈴が変な顔をする。
「……ん? 阿求、なんか、顔色悪くない?」
「そんなこと」
ないわよ、と言おうとしたのに、言いきることができなかった。不意にズキリと目の奥が痛む。再三目眩が襲ってきたと認識した直後、強烈な吐き気がこみ上げてくる。
視界が揺れ、体中から力が抜けた。立っていることができずに阿求はその場にうずくまった。着物の袖が水の流れに乗って体を引きずろうとする。抗えず倒れこみそうになった阿求を、凍りついたように立ち尽くしていた小鈴がすんでのところで抱き留めた。
「阿求!!」
悲鳴染みた叫び声に大丈夫だと言おうとして、荒い呼気しか返せなかった。ガンガン痛む頭の奥から薄暗い闇が忍び寄ってくる。呑まれてはいけないと本能的に悟るも、四肢からは力が抜けていくばかりで、明確な意識を保っていられない。
「阿求、ねえ、阿求ってば! どうしたの、どうしたのよ! 阿求!!」
必死に呼びかける声が遠くなっていく。なんとか安心させようと、大丈夫、と呟いたと思ったのを最後に、阿求の意識はふつりと途切れた。
阿求は畳の上に寝かされていた。
ずいぶんと体が軽い。それに涼しい。額と首元、それから腋と足の付け根のあたりに冷たい何かが当てられている。時折柔らかな風がそよぐのも爽やかだ。
冷たい布で頬を拭われたのを感じて、阿求はそっと目を開けた。視界がぼんやり霞んでいる。何度かしばたくと徐々に意識がはっきりしてきた。「阿求さま」と安堵したような声が届く。
「……おばさま」
目をやると、本居夫人が枕元に詰めていた。持っていた団扇と手ぬぐいを置いて、額に乗っていた氷嚢を取り除く。
「よかった、気がつかれて。麦湯を用意しましたけども、飲めそうですか?」
ゆっくり身を起こそうとすると目眩がする。夫人は慌てて後ろから阿求を抱きかかえ、姿勢を固定させてからコップを渡してくれた。麦湯を一口、二口と飲みこむと、目の奥に巣くっていた鈍痛が大分楽になる。
ほぅと息をつく。「もうすこし休まれていたほうがいいですよ」と阿求を静かに横たえ、薄手の掛け布団をかけてから、本居夫人は優しげなまなざしを向けてきた。
けれど、不意に人の良さそうな丸顔を悲痛に歪める。座ったまま静かに後ずさり、両手をついて額を畳にこすりつけた。
「このたびは、うちの馬鹿娘が大変なご迷惑をおかけ致しました。申し訳ございません」
「そんな、やめてください」
慌てて起き上がり顔を上げさせようとするも、夫人は頑なに伏したままだ。言葉を交わした回数こそ両手の指で足りてしまうが、いつもにこにこと気のいい笑顔を浮かべ、何かと阿求を気にかけてくれる本居夫人であった。こんな態度を取られるなど(互いの立場を鑑みれば極自然ではあるのだが)思ってもいなくて、阿求は狼狽える。
「あれから一部始終は聞きました。阿礼乙女様のお身体のことはよくよく説明したつもりでおりましたが、浅はかだったようです。あれには、連れあいが今一度、言い聞かせておりますので」
「今回のことは、私も承知の上だったのです。どうか、そう重く受け止めないでくださいませんか」
本居夫人が小鈴を「あれ」呼ばわりするところなんて聞きたくなかった。「阿礼乙女様」と呼ばれるのも嫌だった。その意をこめて、いっそおもねるように窺うが、夫人は地に伏せたまま首をふる。
「幸運にも大事には至らなかったとはいえ、一歩間違えれば、……誠に、申し開きもできません」
「おばさま……」
強情なまでに顔を上げようとしない態度に途方に暮れてしまう。同時に、これから先のことがありありと想像できて、冷え冷えとした気持ちになる。
小鈴が、これまでのように気軽に阿求の元を訪れることは無くなるだろう。阿求が鈴奈庵に赴いても、滑稽なほど慇懃に迎えられるようになり、丁寧で穏やかな態度が何もかもに覆い被さってしまう。些細な世間話で時間を潰す代わりに、用件だけをもってまわったやりとりで確認し合い、用事が終わればそそくさと別れる。
寒々しい想像に身が竦む。けれど、詫びるように、請うようにひれ伏している本居夫人を見ていると、仕方のないことでしょう、と理性が囁きかけてきた。
本居夫人は小鈴の母親だ。阿求が知る限り、たいていの母親は自分の子を、自分の家族を一番に考えるものである。仕方のないことだ。時には、理屈や冷静さをかなぐり捨てるさえもする「親」という者の一途な想いに、阿求は、諦念とも憧憬ともつかない気持ちを抱いているのだから。
阿求が無事だったのは本当に幸運だった。そうでなかったら小鈴は、本居夫妻はどうなっていたかなど、考えたくもない。
くっと唇を噛みしめる。膝を整え、背筋を伸ばした。
「……そうですね。よくよく考えれば、此度は、小鈴さんに唆されてのこと。お役目のある身として、け、軽率な、行動は控えるべき、でしょう」
なるべく平らかになるよう努めたのに声が震えてしまった。夫人が怪訝そうに顔を上げ、阿求を見、雷に打たれたように目を見開く。何かを言われる前にと、阿求は急いで息を吸う。
「今後は、」
「ただいま!」
裏口の扉が物凄い音を立てる。同時に、けたたましい叫び声が阿求の言葉を遮った。
思いもよらぬ大声にあっけにとられ、本居夫人と顔を見合わせる。
「……小鈴?」
「です、ねぇ。うちの人とお屋敷へ人を呼びに行ったはずで。……さっき出て行ったばかりなんだけども」
訝しがるあいだにも、軽い駆け足の音が近づいてくる。スパアンと障子が開かれた。
「おかあさん、阿求は」
駆けこんできた小鈴は、全力で走ってきましたとばかりに髪も服もぐちゃぐちゃだった。呆然と見上げる阿求を認め、鬼気迫る顔つきから一転、ほにゃほにゃと眉を下げる。
「こす」
「あきゅー!!」
「うっ」
「危ない!?」
名を呼ぶよりも早く、文字通り飛びつかれた。強烈な体当たりを全身に受けて意識が遠のく。とっさにだろう、夫人が支えてくれたので倒れずに済むも、一瞬息が止まった。
「……けほ」
「阿求、阿求! よかった、目が覚めたのね! よかった! よかった!」
「こすず、ちょっと、おちつ」
「よかったぁ……!」
馬鹿のひとつ覚えみたいに良かったとくりかえしながら、阿求の頬や頭や腕や腹部をぺたぺた触ったと思ったら、本格的に泣き出してしまう。先ほどとは違う衝撃で息が止まった。心臓がひっくり返ったみたいになる。
「ちょっと、小鈴」
慌てて体勢を整えようとするも、両腕を掴まれているせいで身動きが取れない。解こうと身じろいでみたがわずかばかりも離してくれない。こんなに細い腕のどこにこれほどの力が潜んでいたのか。
「小鈴ってば」
弱りきって名を呼んでみても、言葉になっていない意味不明な単語を漏らしながらわんわん泣くばかりで、落ちつく気配がない。大粒の涙が雨粒となって阿求に降りかかる。ああ、鼻水まで。一応女の子なのだからもう少しくらい淑やかにできないのか。
「小鈴。ねえ、小鈴」
「あきゅ、ごっ、ご、ごめんねぇ」
「…………」
ようやく聞き取れたのは絞り出したような謝罪の言葉だった。心臓のあたりが鉄の棒を突き刺されたみたいに痛くなる。どうしてだか阿求も泣きたくなってきた。
なんと返すのが正解なのか、どうやって宥めてやれば泣き止んでくれるのか。阿求は必死で記憶を探る。けれど、頭に入っているおびただしいはずの知識は、これっぽっちも働いてくれない。反物屋の主人を悩ませる体の不調も、金物屋の娘にせがまれた昔語りも、大概のことは期待通りに解決できたのに、目の前で泣きじゃくる少女を泣き止ませる術が分からない。
困り果てる阿求の元に、ようやく追いついたのだろう、肩で息をする本居氏と松爺とがやって来る。天の助けと視線で状況の打破を求めたが、本居氏は弱ったように目をそらし、松爺は「泣いた子の相手は無理です」とばかりに俯くだけだった。頼り甲斐のない。
挙げ句の果てに、本居夫人が「松蔵さん」と立ち上がったので、全身でへばりついてくる小鈴を支えきれなくて畳に倒れこんでしまう。したたかに打った背中が痛い。あわあわと狼狽えるばかりで頼りにならない大人たちと、一緒に倒れたのにまだ泣き止まない小鈴とを見ていると、だんだんむかっ腹が立ってきた。
「小鈴、」
「ごめん、あきゅ、ごめんね」
その一言で堪忍袋の尾が切れた。それはもう、ぶちりと。
「いい加減に──落ちつきなさい!」
ゴンッと鈍い音が部屋に響いた。
唯一自由に動かせた顔を使った渾身の頭突きを額に受け、小鈴はのけぞる。「ぅ」と呻いて額を両手で押さえた。未だ涙をはらはらとこぼしながら、ビックリしたように阿求を見下ろす。
「……あきゅう」
「なによ」
「痛い」
「私だって痛いわよ」
手加減などこれっぽっちも考えなかったものだから、焼けつくように額が痛んでいる。ようやく自由になった手で小鈴のまなじりを拭うと、それ以上涙はこぼれてこなかった。
「とりあえず、のいて。重い」
「あ、うん」
「それと鼻水拭きなさい」
「うん」
ちーん、と盛大に鼻をかんで顔を拭った小鈴は、泣きはらした形跡は残るものの、ようやくどうにか見られる顔つきになった。額を検分すると赤い上に若干腫れている。こぶになるかもしれない。まあ、こちらも似たようなものだろうから、お互い様ということにしよう。
「阿求」
「なに」
「痛いよ」
「だから、私だって痛いって。……思いきりやったのは、その、悪かったわ」
「そうじゃなくて」
もどかしそうに首をふった小鈴は、阿求の頬を両手ではさみ、その手をずらして前髪をかき上げ額に触れた。熱を持っている額をそっとなでられる。
「……死んじゃうかと思った」
「……ちょっとした暑気あたりで死ぬわけないでしょ」
「そうかな」
「そうなの」
小鈴はうんと頷いて、もういちど阿求の頬をよしよしとなでる。「よかった」と呟く緩んだ声が何故だか気恥ずかしい。
「ふたりとも、話は終わりましたね」
かけられた声に慌てて小鈴と並び正座すると、本居夫人からため息交じりに氷嚢を渡された。
「ちゃんと冷やさないとこぶになりますよ。それから、小鈴。体調崩した人に体当たりかますんじゃないの。阿求さまも。泣き止まないから頭突きなんて強引なこと、慧音先生だってしませんよ」
「……ごめんなさい」
「……すみません」
ぺこりと頭を下げると、夫人はやれやれと首をふり「母屋にいますからね」と立ち上がった。阿求たちを見守っていた本居氏と連れ立って部屋から出て行く。
入れ替わりに入ってきた松爺は、障子を閉めると、ふたりの前に腰を下ろした。
「──さて」
低く静かな声に常の穏やかさはない。阿求は唇を引き締め、小鈴はぶるりと震えた。
「本居殿から大筋は聞いております。大胆なことをなさったものだ。爺は驚きましたぞ」
「ごっ……ごめんなさい!」
小鈴がガバッと頭を下げる。
「私が無理を言って、阿求を連れ出したんです。阿求はちゃんと、こんなに暑いから駄目だって言ったのに、」
「こら、小鈴。松爺、悪いのは私なの。話を聞いていたら、どうしても行きたくなってしまって。川遊びなんて反対されると思ったから、小鈴に頼んで連れ出してもらったの。ちゃんと理由を話して、誰かについてきてもらうべきだったのに」
「そ、それを言うなら、私だって、おとうさんたちに言えばよかったんです。でも、ふたりで出かけてみたいなって……」
「私だって同じよ。……その、いちどくらい、誰にも付き添われずに出歩いてみたくて、……ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げると、ふむ、と腕を組んだ松爺は、
「おふたりとも、お顔を上げなされ。勘違いをされているようですが、爺はお説教をする気などございませんよ」
淡々と言われ、小鈴と顔を見合わせる。そんな阿求たちに松爺はほろりと笑った。
「そも、此度のことは、私どもにこそ責任がございます。お嬢様も、小鈴殿も、様々なことに挑戦したいお年頃。危険がないよう陰に日向にお守りするのが、我々の役目ですのに」
松爺は表情を改める。
「お竹が、お嬢様のご不在にもっと早うに気付いておれば。草次郎がお嬢様たちを止めておれば。そして、草次郎から報告を受けたこの爺が、すぐに後を追っておれば、このようなことにはならなかったでしょう。誠に申し訳が立ちませぬ」
畳に手をつき深々と頭を下げられ、小鈴が息を詰まらせるのが分かった。一歩先に思考を進めていなければ阿求とて同じように言葉を失しただろう。禁を破ったのは、悪いことをしたのは自分たちなのに、親しい大人に許しを請われる。その苦しさ、いたたまれなさが、こんなに辛いとは思わなかった。
「まさか、責任を取って暇を、だなんて言わないでしょうね」
阿求の言葉に小鈴は青ざめる。幸いにも松爺は首をふったが、続く言葉に阿求は思いきり眉をしかめた。
「犯した罪は、これまで以上のご奉公でそそぐ所存。ですが、阿求お嬢様が体調を崩されたのに、罰がないでは気が済みませぬ。我ら三名、ひと月の減俸と、食事の内容を飯と香々に削らせて頂きとう存じます」
「わかりました。ならば、私も罰を受けるべきでしょう。小遣いと食事を、」
「阿求様」
ぴしゃりと遮られて阿求は口をつぐむ。対峙する阿求と松爺を、小鈴はおろおろと見守っている。
「奉公人は我々だけではございませぬ。主人が粗末なものを食べているのに、下の者がそれ以上の食事を取れるとお思いですか」
この言葉には沈黙せざるを得なかった。
端から見れば、たかだか食事で大げさなと思うだろう。だが、阿求には、そうと引けない理由がある。
稗田家の奉公人は基本的に住みこみだ。朝から晩まで忙しい、気の抜けない毎日を送っている。もちろん、定期的に交代で休みを与えているが、月に数回程度に限られる。
そんな彼・彼女らにとって、日々の楽しみといえば三度の食事である。阿求もそれは分かっているので、食に関しては多少の贅沢でもかなり大目に見ている部分が大きい。
その唯一の楽しみをひと月も削り、夏場という厳しい気候の中を働き通すと松爺たちは言っているのだ。罰と言うけれど、そもそもの原因は阿求と小鈴の悪戯心で、終わってみれば何事もなかったというのに。
静かに阿求を見据える松爺を、納得させるだけの理屈は思いつかない。だが、稗田家当主として、奉公人に余計な苦労を味わわせるわけにはいかない。考えろ、考えろ、と顎に手を当てる阿求を、小鈴は弱りきった様子で見つめている。
そんなふたりを交互に眺め、松爺がふっとまなじりを綻ばせたのに、ふたりとも気がつかなかった。
「……そう、おねがいするつもりでしたが」
「え?」
「へっ?」
視線を上げると、松爺は、いつの間にやら好々爺めいた面差しに戻っていた。変化についていかれないふたりの前で、禿頭をぺろりとなでる。
「阿求お嬢様も、小鈴ちゃんも、我々が罰を受けることを望んでおられぬどころか、心痛を抱かれるご様子。それは本意でありません。此度のことは、教訓として各々の胸にしかと刻み、いっそうのご奉公に励むこと。それで手打ちといたしましょう」
「ほ、ほんとうですか?」
勢いこんで身を乗り出す小鈴に、松爺はゆっくり頷いた。
「阿求お嬢様は、体調を崩された張本人です。そして、小鈴ちゃんは、そんなお嬢様をご両親の元へ連れていき、大事にならないよう身を粉にして働かれました。これ以上痛い思いをせずとも良いでしょう」
松爺は背中を曲げ、阿求と小鈴とに温柔なまなざしを向けた。
「今回のことは──堪えたでしょう」
こくん、と頷いたのは同時だった。目を細め、「さあ、それでは」と松爺は立ち上がる。
「母屋にお邪魔いたしましょうかな。ご両親が西瓜を準備してくださっておりますよ。暑気あたりには、塩を利かせた西瓜がいちばんの薬です」
「はい! あ、阿求はゆっくり来るのよ。たおれたら大変なんだから。私は先に行って準備してるからね?」
「わかった、わかったわよ。おねがいします」
偉ぶった小鈴が駆けて行くのを見送って、阿求もゆっくりと立ち上がる。松爺にそっと背中を支えられた。見上げると、和やかな目で阿求を見下ろしていて、言おうと思っていた言葉を見失ってしまう。
「……もっと、体力をつけようと思うの。手伝ってくれる?」
悩みに悩んだ末出てきたのはそんな言葉で、けれど、松爺はなんとも嬉しそうに目じりに皺を寄せた。
「承知いたしました、阿求お嬢様」
数日後のことである。
阿求の部屋を訪れた小鈴は唇を尖らせていた。曰く、珍しく玄関口で声をかけたのに結局庭側から回るよう言われたらしい。不満げな小鈴が手に持っている物を見て、阿求はなんとも言えない表情を浮かべる。
「……そりゃ、そんなのもって屋敷の中をうろつかれたら困るわよ。なに、それ」
「なにって、タライだけど」
「いや、見ればわかるけど」
両手ほどもある大きなタライを示して得意気にされても。頭突き所が悪かっただろうか。というか、もしかして、このタライを持ったまま、えっちらおっちら稗田邸にやって来たのだろうか。絵面を想像すると愉快だが、変な噂が立ったりしないだろうか。
小鈴が来たと、一足早く告げていたお竹が表現しがたい顔だった理由が今さら知れた。阿求は軽くため息をつく。
「それで?」頭の上にタライを掲げる小鈴を促した。
「そのタライでなにをするつもり?」
「うん。本で読んだんだけど、外の世界では、こういうタライに水を張って涼を取るんだって。プール、とか言ったかしら。これなら、川まで歩くこともないし、松おじいさんたちにも心配かけないし、いいんじゃないかなって」
「なるほど。でも、どうやって水を張るの?」
「えっと……井戸?」
「この炎天下の下、水くみ?」
タライを井戸の近くまで運び、汗をかきかき結構な量の水をくむことを考えたのだろう。小鈴が沈黙し、次いで項垂れた。
「だめかぁー。いいアイデアだと思ったんだけどなぁ」
思い出したように汗を拭い、畳にほにゃーっと寝転がる。その横にしゃがんで阿求も苦笑を浮かべた。
「実行に移すとしても夕方くらいがいいね。帰りは送らせるから、それまで涼んで行ったら?」
「そうねぇ。読みかけの本もあるし、そうしようかな」
「あそこにたまってるの、あんたが読みきってない本だからね」
「はーい。読み終わったら片付けまーす」
小鈴が転がるのと一緒にちりちりと鈴も鳴る。なんとも気の抜けた様が可笑しくて笑みをこぼす阿求に、「そういえばさー」と小鈴は身を起こした。
「その浴衣どうしたの? そんなの持ってなかったよね?」
とんとんとん、と反対側の襖のほうから聞こえてきた足音が止まるのを聞きながら、阿求は袖を広げてみせる。
今の阿求が身に纏っているのは、褪せた藍色の木綿の浴衣に簡素な細帯だけだ。常と比べるとあまりにも身軽なこの格好は、本日の来客予定がない影響もあるし、先日の暑気あたりの一件で「阿求お嬢様が涼しく過ごせるように」と奉公人たちが盛り上がっている影響もある。
長年使いこまれて大分よれた浴衣は、普段阿求が身につけている着物より質が落ちるが、阿求は頬を綻ばせた。
「いいでしょう。お竹のお下がりなの」
「へえ、お下がり?」
「新しい夏服が来るまでは、っていくつか仕立て直してくれたのよ。やっぱり木綿はいいわね。扱いも楽だし、涼しいし」
実際、さらりとした着心地の浴衣を身につけていると、体感する温度が大分異なる。お竹から、新しい夏服をと言われた時は大げさだと思ったが、こうして着てみると今までの自分は中々の暑苦しさに耐えていたのだと実感できた。
小鈴は目を細める。
「そうかー、言われないとわからなかったわ。さすがお竹さんねぇ。似合ってるよ」
「ふふ、ありがとう」
部屋の前で立ち止まった足跡が、きびすを返して遠ざかっていくのが聞こえる。阿求は笑う。
今回の騒動では、反省点も多々あったが、新たな、そして大いなる収穫も得ることができた。これまで、付き合いの長さの割には縁遠く感じていたお竹が、翌日の朝一番に丈を直した浴衣を差し出してきたのだ。仏頂面が通常装備の女中が、がちがちに緊張していた姿を思うと胸の内がじんわり満たされる。こういう時、求聞持の力があって良かったと、素直にそう思える。差し引きゼロ、どちらかといえばプラス寄り。そんな気持ちだ。
普段よりも遅く出された麦湯には小鈴の好きな茶菓子がたっぷり添えられていた。不思議な幸運に万歳と手を上げる小鈴とすまし顔のお竹の前で、阿求は、かなりの努力をして表情を取り繕わなければならなかった。