Coolier - 新生・東方創想話

それでも僕らは息をしよう

2018/08/26 12:09:43
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「阿求お嬢様、本居様がお越しになられました」
 襖の向こう側から女中が声をかけてくる。読んでいた巻物から目を上げて、阿求は「今行きます」と返事をした。巻物を閉じて座椅子から立ち上がり、厚手の肩掛けを入念に体に巻き付けてから襖を開ける。それでもひんやりと冷たい空気に、阿求は身を震わせた。
「今日も冷えますね」
「もう一枚、上掛けをもって参りますか?」
「いえ、そこまではしなくていいです」
「承知いたしました」
 淡々とした物言いにうんと頷く。稗田邸唯一の女中であり、阿求の付き人でもあるお竹は、それ以上何も言わずに阿求の先に立つ。長い廊下を歩きながら、相変わらず無駄に広い屋敷だとひとりごちる。

 阿求がこの稗田本家に居を移し、幻想郷縁起に手を付ける前段階の準備を始めてから、早二年近い時が過ぎていた。
 里の中心にほど近い箇所にあるふたつの分家と異なり、稗田本家は里の外れにある。巨大な書庫と使用人が寝起きできる離れ、いくつかの倉庫を持つ屋敷は、定期的に分家の者が手を入れていたが、長く主不在のまま置かれていただけあって、所々ガタが出ていた。
 そこで、阿求が転居するにあたり、大規模修繕が行われた。百数十年に一度の衣替えをした屋敷は、どこもかしこも美しく、おまけに贅を尽くした造りになっているものだから、あいさつに来る里の有力者はその見事さを盛んに褒め称える。
 しかし、阿求は、その賞賛を素直に受け入れることができなかった。
 もちろん、表面上は笑みを浮かべて謝意を述べる。「幻想郷の書記たる御阿礼の子の邸宅をしつらえる」とのことで、屋敷の普請には里の人間が多大なる寄付を寄せてくれたと聞いた。喜ばなければ罰当たりだ。
 けれど、阿求が屋敷の部屋で使っているのは、お勝手や風呂などを除けば、書庫と書斎に書斎近くの寝所、それから、来客があった時に用いる広間くらいだ。共に暮らす使用人と言っても、門衛の草次郎とその配下ふたりは大概が詰め所と離れで用を済ませているし、教育係の姥や女中のお竹、諸々の力仕事をこなす松蔵とその配下三人は、生活の中心を離れに置いている。
 阿求を含めても両手の指で足りてしまう住人に、ここまで大仰な屋敷が果たして必要なのか。幻想郷縁起を編纂するためならば、書庫があれば十分で、他は最低限に縮小したほうが、無駄もないし、出費も抑えられるのではないか。
 一度、姥にこの考えを伝えたことがある。姥は、ふむふむと興味深そうに頷いていたが、柔らかく、けれどきっぱりと、阿求の意見を否定した。
「阿求お嬢様。ものを考えるときは、今の状況のみならず、将来のことも考えなければなりませぬ。今、お嬢様が成すべきは、縁起編纂に必要な知識と技術を身につけること。なればこそ、この数の奉公人でこと足りているのです。お嬢様が執筆を始められたら、版木職人や、もっと多くの者が出入りすることもございましょう。人が増えれば、この婆とお竹だけでは家が回せませぬ。新たな女中も必要です。そして、幻想郷縁起の第一版が形を見たならば」
 姥は人差し指を立てた。
「そのときこそ、あなた様が"稗田家当主"としてお立ちになられるとき。稗田の知識を請う者、守護を願う者が屋敷を訪れます。お嬢様の身辺に付き、教養を身につけたいと望む者もおりましょう。十分な広さの屋敷が必要なのですよ」
 ここは里の知識の源泉となるのですから、と言い聞かせられ、反論できなかった。
 書の海に潜りこむこと、そこで泳ぐ術を学ぶこと、なるべく早く、正確に文字を書くこと。阿求の頭にあったのはそればかりで、先に目をやるなど思いつきすらもしなかったのだ。
 あの時のことを思い出すと、今でも己の浅薄さが身に染みて情けなくなる。だが、落ちこんでいる暇と余裕があるならば、少しでも多くの知識を身につけるべきだ。稗田阿求に立ち止まっている時間はない。

 薄暗い廊下を抜け応接間に辿り着く。しゃがんだまま襖を開けてお竹は小さく目を伏せる。ありがとう、と頷いて中に入る。火鉢で暖められた空気が阿求を包むと同時に、背後で襖が閉まる音がした。
 この応接間は広々とした庭に面しているので、反対側の襖を開けたならば控えめな雪化粧を施された庭が視界いっぱいに飛びこんできただろうが、この寒い日にそんなことをしたくない。本居氏が相手なのだし、大げさにかしこまらなくても良いだろう。
「お待たせいたしました」
 声をかけると、湯呑みで両手を温めていた本居氏が「いえ」と微笑を浮かべる。
 本居氏は、全体的にまだ幼い印象が勝るお竹よりは明らかに年上だが、「松爺とお呼びくだされ」とおどける松蔵よりは遙かに若い。だが、壮年と表するには枯れた印象が過ぎるように感じられる。落葉した木立を思わせる落ちついた雰囲気は不快なものではなく、むしろ好ましいものであったが、不思議な空気を纏っている人だった。
 上座に備えられた座布団に腰を下ろしたところで、本居氏の影になっていた少女に気付く。
 飴色のくせっ毛をちんまりとひとつに結わえ、大きな丸い目をぱちぱちさせながらこちらを見つめている。年の頃は、阿求と変わらないか、少し下くらいだろうか。この屋敷に移ってから、同い年くらいの子どもと会うのは初めてなので(いちばん歳が近いといっても、お竹だ)どんな反応をすれば良いのかと一瞬たじろぐ。
 無言のまま見合った阿求と少女に、本居氏は少々慌てた様子で口を開いた。
「小鈴、ちゃんとご挨拶しなさい。阿求様、申し訳ありません。この子はどうも、ぼんやりしたところがあって」
「いえ、気になさらないでください。ええと、小鈴……さん?」
 そもそもなんと呼べば良いのだろう。探り探り呼びかけてみる。
 同年代の子どもと接した記憶は居を移す前にしかないのだけれど、稗田家の子どもは三歳の誕生日を迎えるまで名を与えられないのだ。一のお嬢さんとか、二のお坊ちゃんとか呼ばれるので、自然、自分たちもそう呼び合うようになる。加えて、阿求は三歳の誕生日を迎えるのと時を同じくして居住を移したから、年若い彼・彼女らを名前で呼んだ覚えがない。
 苦肉の策を弄したものの、小鈴、と呼ばれた少女はこちらをぽやっと見つめるばかりで、反応らしい反応を示してくれない。
 やりづらい、と阿求は思った。たいていの来客は、礼儀正しくあいさつをして、こちらから水を向けてやれば、後は好きなように話をするものなのだが。
 なおもぽわわんと阿求を見ていた小鈴だが、本居氏が少し厳しい声で「小鈴」と呼びかけると、まるで夢から覚めたようにハッと身を震わせた。本居氏を見て、阿求を見て、あ、と口をポカンと開ける。ずりずりと本居氏の隣までにじり寄って、両手を畳につき、ぺちゃりと頭を下げた。
「はじめまして。本居小鈴です」
 待ってみるも、小鈴はそれ以上続ける気配がない。お顔を上げてください、と声をかけてみる。なおも床に伏したままだったが、本居氏に肘で小突かれおたおたと顔を上げた。不思議そうな瞳をのぞきこみ、微笑を浮かべる。
「こちらこそ、はじめまして。稗田阿求と申します。本居さんからお話は伺っていました。お会いできて光栄です」
 阿求の流暢なあいさつを聞いて、きょとんとした小鈴は、問いかけるように傍らの父親を見上げる。渋面の本居氏は「お尋ねしたいことがあるなら、自分で申し上げなさい」と突き放すように言った。小鈴は阿求をまっすぐに見つめる。
「阿礼乙女じゃないの?」
「小鈴!」
「大丈夫ですよ」
 血相を変えた本居氏を手で押しとどめながら、阿求も少なからず動揺していた。"阿求"の名を授かってからこちら、こんなに遠慮のない物言いをされたのは初めてだった。
 揺らぐ心を落ちつかせるため、幼子のすることなのだからと内心頷いて、自分とてその幼子とたいして歳が変わらないのだと思い出す。すっかり忘れていた。
「阿礼乙女とは別名のようなもの。私の本名は、稗田阿求ですよ」
「べつめい?」
「……あだ名かな?」
 称号にこめられた意味合いや厳かさがこぼれ落ちる気がするが、大意として間違ってはいるまい。納得したように頷いた小鈴に「呼びやすいように呼んでくださってかまいません」とほほえみかける。ぱあっ、と表情を明るくした小鈴は、
「じゃあ、阿求ちゃん」
「小鈴!!」
「だ、大丈夫、大丈夫です。呼びやすいようにと言ったのですから」
 今すぐにでも小鈴を抱えて表に飛び出し、説教を始めかねない本居氏を必死に制止する。
 阿求とて、遠慮が無いどころかあけすけな態度には面食らっているが、不思議と不快には感じない。常に穏やかな本居氏が取り乱している様は(彼の心情を思えば不謹慎かもしれないが)見ていて愉快でもあった。当の小鈴が、父の狼狽を引き起こしているのはなんなのだろうと、目を丸くしている様も面白い。
「ええと、それで、小鈴さん」
 楽しいことは楽しいが、今日はこの後にも人と会う予定があるのだ。あまり時間をかけていられない。
 いい加減本題に入ろうと小鈴に目を向けると、「なぁに?」と嬉しそうに首を傾げた。
「聞きたいことは、あだ名に関するものでしたか?」
「聞きたいこと?」
 ほけっと口を開ける小鈴に、話を振る相手を間違えただろうかと不安になる。しかし、幸いにして阿求の言葉を理解したらしい小鈴は、ああ、と頷いてこちらに視線を戻したが、なにやらマジマジと見つめてくる。興味深そうに、一生懸命に見据えられると、なんとなく居心地が悪い。
「なにか?」と促したら、小鈴は「ううん」と首をふって、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
「阿求ちゃんってかわいいねぇ。おどろいちゃった」
 ちょっと待ってほしい、どこから出てきたその発想は。
 唐突にもほどがある一言に、阿求は今度こそ固まり、本居氏は声にならない声を上げて口をぱくぱく動かしている。あれ? とひとり様子が分かっていないらしい小鈴に、硬直した思考を動かそうと、阿求は小さく息を吸った。
 落ちつこう。焦ることはない。出し抜けな言葉には驚いたが、その単語自体は向けられ慣れている。「将来を偲ばせる容姿端麗な」とか「おにんぎょさんのように愛くるしい」だとか、どうやら阿求の容姿は、そのように評されやすい姿形をしているらしいのだから。
 小鈴の言も、いつものようににっこり笑って謝意を述べれば──
「…………。ど、どうも」
 あまりにも不器用な己の返答は、その後三日ほど阿求の羞恥心を苛んだ。


 お竹の先導で書庫への道のりを歩く。阿求の一歩後ろを歩く小鈴は、父の手をしっかりと握りしめたまま、興味津々と言った様子であたりを見渡していた。
 あれから、小鈴に任せていては話が進まぬと、本居氏は進んで口を開いた。その口取りが自棄を起こしているように勢いづいていたのは、指摘しないが情けというものだろう。
 本居氏が切り盛りしている貸本屋「鈴奈庵」は、外来本を中心に扱っていることや、小規模ながら印刷ができることもあって、今後、色々と連携する予定になっている。そのうち、阿求の編纂した書物を取り扱うようにもなるだろう。
 父から受け継いだという本居氏の腕は確かで、商いにも正直、落ちついた人柄も相まって顧客からの信頼は厚く、万事順風満帆で──と言いたいところだが、長らく跡目の問題に頭を悩ませていた。
 貸本屋は、地味なようだが繊細な気配りを必要とする商売だ。顧客とうまくやりながら、出版情勢に気を向け、仕入れる品を考えなければならない。何冊もの本を一気に運ぶこともままあるので、案外力仕事なところがあるし、なによりも、本に囲まれ巻物を手入れし、書物と共に生活を送るのだから、並々ならぬ愛情が必要だ。
 跡目となる人物は、これらの条件を全て満たさなければならない。なかなかの難問である。
 その問題に終止符を打ったのが小鈴だという。
 阿求とのやりとりを思うと眉唾だけれども、「本に関してだけはたいしたもので」と本居氏は言った。
「無論、阿求様からすれば稚児の戯れでしょう。ですが、寝ても覚めても本で頭がいっぱいなようで、扱いもいちど言えばすぐに覚えるものですから。……父も私も、血縁などすこしもこだわっていませんでした。まさか娘が……」
 どことなく言い辛そうに、けれど誇らしさを隠しきれていない本居氏が、妙に遠く感じたのは何故だったのだろう。
 ともあれ、そんな具合で、本日稗田邸を訪れたのは小鈴の顔見せを兼ねていたそうだ。すぐにおいとまを、と頭を下げた本居氏の横で「そうだ、本は!」と小鈴が目を輝かせた。
 どうやら、鈴奈庵から離れようとしない小鈴を言い含めるために「阿求様のおうちには本がいっぱいある」と説明をしたらしい。初めての環境に置かれすっかり忘れていたらしいそのことを、父の説明で思い出したのだろう。
 頭を抱える本居氏と、わくわくと背筋を伸ばす小鈴に「まだ時間もありますから、書庫にご案内しましょう」と阿求が立ち上がったのが先刻のこと。

 寝室前の縁側から庭に降り、土蔵造りの書庫に父子を案内する。戸前を開けたお竹に屋敷内へ戻るよう言って、外履きを脱ぎ、本棚が連立する書庫に足を踏み入れた。身に馴染んだ墨と紙のにおいが阿求を包む。ふり返ると、小鈴は目も口もまん丸にして書庫を見上げていた。初めて案内した際の本居氏の反応と同じだ。
「小鈴さん、」
「す……っごい!」
 外履きを蹴散らした小鈴は、パタパタと音を立てて一番手前の本棚にへばりつく。本居氏が咎めるように名を呼んだが、「よろしければ、ご自由にご覧ください」と声をかけると、ぺこりと頭を下げそそくさと別の本棚に寄っていく。正直なのは良いことだ。
 三人分の履き物を整えてから小鈴の隣に立つと、意外にも彼女は本に手を伸ばしていなかった。うずうずと指先を動かし、大きな目を爛々と輝かせているくせに、辛抱強く背表紙を眺めるだけに止めている。
「読まないのですか?」
 問うと、小鈴は本から目を離さないまま、ふるふると首をふった。聞こえてはいるらしい。
「おとうさんが、いいよって言った本じゃなきゃ、さわっちゃだめだから」小鈴は言う。へえ、と思った。

 本棚をじっと見つめたまま、小鈴がぽつりぽつりと尋ねることに答えていたら、いつの間にか結構な時間が経っていたらしい。お竹が、次の約束の刻限が近づいていることを告げに来た。
 小鈴は本の前から離れがたいらしく両足を踏ん張っていたが、大人としての理性が勝った本居氏が強引に抱き上げると、ブツブツ言いながらも自分で靴を履いていた。
 せっかく外履きになったのだし、と庭側から帰ると言う本居親子を見送る。
「門まで送りましょうか」の一言を呑みこんだのは、本居氏が「次の客」の言葉に気を遣ったのだと推察したからだ。ぺこりと頭を下げ、手をつないで去って行く背中を見ていると、胸のあたりに冬の冷気がしんしんと忍びこんでくるような心地がした。
「……阿求お嬢様」
「ええ、そうですね」
 いつまでも見送っていても気詰まりなだけだろう。お竹の促しに素直に頷いた阿求だったが、
「阿求ちゃーん!」
「んっ?」
「阿求ちゃ……阿求ちゃん!?」
 不意に、ふり返った小鈴から大声で呼ばれて肩をびくつかせる。小鈴と阿求とを交互に見やったお竹はひとまず放っておくことにして、なに、と声を張ると、久々の大声に盛大にむせかえった。
 けほ、こほ、と咳きこむ背中をお竹になでられていたら、駆け寄ってきた小鈴が阿求の顔を覗きこむ。若干滲んだ視界に花咲くような笑顔が映りこむ。
「また、本見に来ていい?」
 なんだろう。寒々としていた胸の奥が、その一言でふわりと熱を持った。むずむずとくすぐったい口元を引き締めて、阿求はこくりと頷いてみせる。
「もちろん、いつでもどうぞ。稗田は常に好奇心を歓迎します」
 幼い頃から言い聞かせられてきた言葉を、誰かに言ったのは初めてだ。その相手が、阿求の言葉に顔中をくしゃくしゃにして喜ぶ目の前の少女で良かったと、なんとなく思う。
「うん! それじゃ、またね!」
 ぶんぶんと手をふって、本居氏の元へ駆けて行く小鈴を見送る。
 そうして、今度こそ屋敷に引っこんだ阿求は、応接室を整えていた姥に目を丸くされた。
「おやおや、そんなに嬉しそうになさって。なにか好いことでもありましたか?」
 はて、さて。自分はどんな顔をしていたのだろうか。

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