盆に載せたティーポットとカップを落とさないよう、慎重に渡り廊下を歩く。頬をなでる春先の空気は柔らかで、少し目を上げれば、地面から顔を出す草花の芽や鮮やかに咲き誇る桜の木々が美しい庭を見ることができただろうが、今の阿求にその余裕はなかった。
落ちついて、ゆっくり、と自身に言い聞かせながら、そろそろと書斎まで辿り着く。盆をいちど置こうとして障子が開いていることに気がついた。
またか、と思ったものの胸のあたりがことんと弾む。口元をむぐむぐと動かして、努めて厳しい表情を作ってから、阿求は部屋に入った。
「また、庭のほうから来たの」
「あ、阿求」
書斎の真ん中にぺたりと座りこみ、和綴りの本を見つめていた小鈴がほにゃりと笑う。障子にほど近いところに置いてある台にティーセットを置くと、小鈴は嬉しそうに寄ってきた。だが、盆の上に置かれていたカップがひとつしかないのを認め、すぐにぶうたれた顔になる。
「なんでひとつしかないの?」
「お茶がほしいのなら、ちゃんと玄関から入って、お竹や松爺にあいさつしてください。そしたら、あなたの分も用意してくれるから」
「だってお竹さんこわいんだもん」
「……えっと、うん、まあ」
誠実な働き者であることに間違いはないが、あの女中の無愛想具合には、阿求も馴染みづらさを感じている。松爺ほど茶目っ気を持てとは思わないけれど、二年近く共に暮らしているのだから、微笑のひとつを浮かべてくれても罰は当たらないだろう。
話が変な方向へ行きそうだったので、廊下側の襖を開けて「誰か、いいですか」と声を張る。即座に応える声があった。庭側の障子の向こうから。
無言のまま障子を開ける。好々爺という文字が人の形を取ったらこうなるのではないかと思いたくなる笑みを浮かべ、松爺が控えていた。「ご用ですか、阿求お嬢様」とほほえまれ、阿求は斜眼になった。
「……ひとりで運べると言ったはずです」
「おお、相変わらずのご明察。爺はうれしゅうございます」
「保険のつもりかもしれませんけれど、紅茶を運ぶ程度で付き添いが必要なほど、幼くないつもりなのですが」
「存じ上げておりまする。ですが、ほれ、万にひとつということもありますでしょう。お嬢様がお怪我をされては困ります。爺めの肝は小さいのですよ」
そう言われては反論のしようがない。いっそうのしかめっ面をした阿求の横からひょいと顔をのぞかせた小鈴は、朗らかに笑んでぺこりと頭を下げた。
「松おじいさん! お邪魔してます」
「はい、いらっしゃいませ。お嬢様、紅茶のご用意でよろしゅうございますか?」
「いえ、ほうじ茶で」
「ええー。阿求とおんなじのがいい」
「との仰せですが」
「そう言って、紅茶が苦いと残したのはどこの誰ですか」
「……そうだっけ?」
ぽかんと首を傾げる小鈴にため息をついてしまう。一昨日のことだというのに。
とにかくほうじ茶を、となにやら可笑しそうに自分たちを眺めている松爺を追いやり、ティーポットから茶葉を取り出して水気を切る。カップに琥珀色の液体を注ぐと、心静まるような芳しさがほんのり匂い立った。
一口飲んで、ほう、と息をついた阿求に、小鈴が羨ましそうなまなざしを向けてくる。
「……苦いって言ってましたよ」
「阿求は飲んでるじゃない」
「私はこの苦さが好きなの」
「じゃあわたしも飲む」
よく分からない理屈だ。
しかし、名目上は客への飲み物が、本人のせいといえまだ届いていないのに、主である自分だけが茶を楽しむのは筋違いかもしれない。そう思い直して「なら、どうぞ」とカップを差し出すと、小鈴は嬉しそうに表情を輝かせた。
ふー、ふーっ、と息を吹きかけ、カップの端に唇をつける。「……苦い」すぐに苦悶の表情を浮かべた。
「だから言ったのに」
「うぇー」
舌を出してじたじた悶える小鈴からカップを取り上げ、もう一口飲んでみる。たしかに爽やかな苦味はあるが、顔をしかめるほどとは思わないし、その奥に密やかな甘さが感じられる。十分においしいと思う。
どう宥めたものかと困っていたら、盆を持った松爺が戻ってきた。カップと一緒に焦げ茶色の粉末が入った小瓶も持っている。
「阿求お嬢様、こちらにも紅茶を頂いてよろしいですかな?」
「かまいませんが」
「こ、紅茶っ……」
びくっ、と肩を震わせる小鈴に笑顔を見せると、松爺はカップを紅茶で満たす。そうしてから「小鈴ちゃん、よく見てください」と小瓶を取り出した。
「こちらは稗田家秘蔵の、どんなものでもおいしく変えてしまう魔法の粉でございます」
「いや、ただのさと」
「今からこれを紅茶に入れます。さらさらさらー、とな」
妙に芝居がかった仕草で紅茶に砂糖を入れ、スプーンでかき混ぜる。なんだろうこの茶番はと思ったが、当の小鈴が目を丸くして食いつくように見入っているので、静かに見守ることにした。
「さあ、魔法の粉がとけました。はたしておいしくなっているか……どうぞ、おたしかめを」
松爺にカップを渡され、両手で抱えた小鈴は、松爺と紅茶を交互に見やる。意を決したようにおそるおそる口を付け、次いで、パアッと顔を輝かせた。
「おいしい!」
「ようござんした」
笑顔の小鈴に満足げに頷く。すごいすごいと、少ない語彙をこれでもかとフル活用して讃える小鈴に、松爺は禿頭をぺろりとなでた。照れているときの仕草だ。
きゃいきゃいはしゃぐふたりを見ていると、不思議なことに雨雲が胸の内に広がるような心地になってきて、阿求はひとり口をつぐむ。仮にも客人が喜んでいるのだから松爺を褒めるべきなのだけど、はしゃぐ小鈴を見ていると、どうしてか面白くないと思ってしまう。
あんな子ども騙しでこんなに喜ぶなんて、ずいぶんおめでたい話である。だいたい、紅茶に砂糖なんていれたら、せっかくの良質な苦味や芳香が損なわれてしまうだろうに。
そんなことを考える自分も気に食わず、阿求はそっと頭をふる。利かん坊でもあるまいし、こんなことで不機嫌になるなんて。
そんな阿求の様子は少しも気にならないようで、小鈴は「阿求、阿求」とカップを示してくる。無視してしまおうかとも思ったが、そんな大人げない態度を取っては阿礼乙女の名が泣くだろう。「よかったですね」と辛うじて押し出すと、小鈴は「うん!」と破顔した。
「これであんたとおそろいよ」
「おそろ、なに?」
予想外の言葉に目が丸くなる。ふふーん、と得意気になる小鈴にまなじりを下げ、松爺が誰に言うでもなく呟いた。
「まったく同じものは無理でも、すこし工夫をしてやれば同じものを味わえる。好いことですなぁ」
「はい!」
訳知り顔で頷いてるけど絶対わかっていないでしょう、あなた。
思ったが、言わずに堪える。代わりに少し考えて、小鈴、と名を呼んだ。
「せっかくですから、私も飲んでみたいな。一口くれる?」
「えー、だめ。松おじいさんがわたしにくれたんだもん」
「……さっきあげたのに」
「あ、そっか。……ちょっとだけだからね?」
ちょっとだけよ、ちょびっとだけだよ、と念を押しながらカップを渡され、釈然としない気持ちになる。眉をひそめて甘い紅茶に口を付ける阿求を、松爺は、やはり可笑しそうに眺めていた。
紅茶騒動も一段落ついたので、文机の上に置いてあった巻物を広げる。小鈴はと見ると、書斎の端に積まれている本の山から一冊取り出して畳に座りこんでいた。ウキウキと覗きこんでいる和綴りの本は、先々代、阿七が纏めた幻想郷縁起だ。初代にほど近い代のものに比べれば、幾分読みやすくなっているが、小鈴の年頃で読み解けるとは思えない。きっと内容は分かっていないのだろうなと思いながらも、何も言わずに自分のほうの巻物へ目を落とす。
初めて邂逅して以降、小鈴は、暇さえあればしょっちゅうと言っていいほど頻繁に、稗田邸、もとい阿求の書斎に通い詰め本を読んでいた。その頻度たるや、草次郎率いる門衛の面々が、小鈴と見ると用向きも聞かずに門を通してしまうほどだ。回数を重ねるごとにこちらへの態度もどんどん大きくなる一方なので、阿求のほうも、徐々にではあるが小鈴への扱いが雑になってきてしまっている。
本を読むといっても、小鈴が内容を理解できるものは多くない。鈴奈庵が扱っている書籍ならともかく、稗田邸に所蔵されているのは多くが歴史書の類だ。言葉遣いは堅苦しく、漢字も多く、ついでに、昔のものになればなるほど草書で書かれているものが多いから、読みづらいことこの上ない。阿求でさえ、一年以上の時をかけて、ようやく内容を解読できる書物がそこら中にあるのだ。
それでも、小鈴は、本を読む──眺めるのは楽しいと言う。
インクや墨の匂いの染みこんだ紙をなで、模様のような文字を追うだけでわくわくする。ほんの少しでも意味が分かる箇所があったら嬉しいし、それらが組み合わさって、本の内容を理解できた時はもっと嬉しい。初めての時は眺めるだけだった本を改めて読み返して、内容が分かるようになっていた時の喜びは言葉に言い表せない。
そう、身振り手振りで説明され、そういうものなのかと首を傾げた。
阿求にとって、本はあくまで知識を得、伝えるための手段のひとつだ。小鈴の感覚は分からない。記憶する役目を持っているでもないのに、読めないものを読みたがる欲求は、いったいどこから生じるのか。
しかし、何代も書を書き綴ってきた身として、書物への好意や熱意を示されるのは素直に嬉しいことだ。本居氏が跡継ぎにと言うだけあって扱いはきちんとしているし、「好奇心を歓迎する」の言に嘘はない。
結果、書斎に小鈴が忍びこむのすらも当たり前となりつつあるのは、少々見当が外れた形になっているが。
巻物を最後まで読み終え腕を伸ばす。これで、五十二の棚に仕舞われていた書物は全て読んだ。次は五十三の棚だ。
「小鈴、そちらは」
読み終わりましたかとふり向いたら、小鈴は畳に突っ伏すようにして眠りこけていた。いつの間に寝ていたのだろう、と記憶をたどるが本の内容しか見当たらない。
ひざ掛けを小鈴にかけてやってから、積まれていた本を竹籠にまとめて書庫に赴く。記憶を頼りに棚へ向かい、外光で背表紙を確認しながら書物を収め、隣の棚に移って新しいものを抜き取る。
身に馴染んだ動作を終えて外へ出ると春風が吹き付けてきた。とっさに目をつぶると仄かな草花の香りが漂ってくる。ゆっくり見上げたら桜吹雪が舞い踊っていた。花びらが書物につかないよう手で覆い、足早に書斎へ戻る。
文机の横に籠を置くと、振動で目が覚めたのか、小鈴がハッと頭を起こした。柔らかそうな頬に畳の跡がくっきりついているのが可笑しくて少し笑ってしまう。寝ぼけ眼で阿求を見上げていた小鈴だったが、「あ」と何かに気付いたように声を上げて手招きしてくる。
「どうしたの」
「頭に花びらがついてる」
「え、どこ」
「そっちじゃなくてー」
ぐ、と頬を押さえられた。思ってもみなかった行動に思考が固まる。小鈴の手が触れている箇所が妙に熱い。細い指先が頭皮をなでるように探るのがこそばゆい。
「……うん。とれたよ」
ぽんぽん、とついでとばかりに頭をなでられ、心臓が変な風に跳ね上がった。自分でも正体不明な衝撃に打ち抜かれ動きを止めてしまうが、小鈴は気にせずに指先でつまんだ花びらを見てほわりと笑う。
「きれいねぇ。わたし、桜の花がいっとう好き」
「……そう」
動揺を表に出さないよう頷く。阿求が持ってきた本を物色しだした小鈴の華奢な背中を、どうしてだか目で追ってしまう。
このままではよくない。
ふるふると首をふって、ついでにぴしゃりと頬を打った。じんとした痛みが思考を落ち着けてくれた。
「な、なに、どうしたの」
「気合いを入れただけです。ところで、その本はこれから読むから、読むなら別のにして」
「そう言われると読みたくなるのが人情だよ?」
「小鈴」
「……わかったわよぅ」
阿求を貫いた衝撃の正体が知れたのは小鈴が帰った後になってからだった。
行灯の光で本を読んでいた阿求に、姥が湯浴みの準備ができたと告げに来た。ここのところ不調で伏せっていた彼女の動きは緩慢だ。
体調はと問うと「この歳になると、どこもかしこもガタがきておりますのでねぇ。少々無理にでも動いたほうが、かえって調子がよくなるのですよ」などと朗らかに笑う。あまりに捨て鉢な言葉を咎めようとした阿求だが「ところで、阿求お嬢様」と先を越されてしまった。人差し指をピンと立てる。
「お顔立ちがいつもとちがいますねぇ。なにか変わったことでもございましたか?」
「……あなたの、その察しの良さは、特別な能力かなにかですか?」
「滅相もございませんよ。婆は、お嬢様にながーく仕えさせて頂いておりますから。自然とわかってしまうのです」
柔らかい声で促され、妙に心に残っていたやりとりをかいつまんで説明する。
小鈴に遠慮なしに触れられたこと、それからしばらく、変な風に心臓が飛び跳ねて落ち着かなかったことを話すと、姥は「あら、まあ」と目を丸くしてから、どこかが痛そうな顔で笑った。
「それは、それは」
言ったっきり口を閉じる。呼びかけてみたが、何かを思案しているように口をつぐんだままだ。この姥にしては珍しい姿に、阿求は内心首を傾げる。
「……そうですねぇ、盲点でございました。あまりに情けのない……いえ、是非も無いこと。地獄へ行くのはわかっていますからねぇ」
「ばあや?」
うまく聞き取れなくて聞き返すと、姥は一転、おてんばな少女を思わせる笑みを浮かべ、畳に膝をつくと「阿求お嬢様」と両手を広げて見せた。わけが分からない。
「どうしたんです?」
「れっつはぐ、ですよ、お嬢様。思い返してみたら、婆がお伝えしたのはお仕事のことばかりでした。ですが、稗田家当主たるもの、人のぬくもりを遠ざけるのは頂けません。血の通っていない知識ほど恐ろしいものはありませんからねぇ」
どうしよう、やはりわけが分からない。
阿求は大分戸惑ったが、この姥が阿求のためにならない言動を取るわけがないのだ。心を決め、おそるおそる身を寄せてみたら、しっかりと抱きしめられた。
初めての馴れ馴れしい行為に肩が跳ねる。布越しに感じるぬくもりに身が強張る。乾いた手のひらで頭がなでられ、小鈴の時が比でないほどに心臓がひっくり返る。
「ば、ばあや。これが必要なのですか?」
「さようでございます。さ、そんなに力んではいけませんよ。息をはいて、力を抜いてくださいまし」
言われたとおり深呼吸をすると、姥が身に纏う匂いが胸一杯に広がった。紙と、墨と、畳と、それから乾いた木の匂い。幼い頃から身近に存在しているものの匂いだ。
そう思うと、ふっと肩の力が抜けた。阿求の頭をなでながら、穏やかなしゃがれ声で姥が言う。
「阿求お嬢様は、さわったり、さわられることに慣れていないでしょう。なのに、小鈴さんがあんまり気軽にさわってこられたから、驚かれたのですよ。……悪いことじゃあありません。これから、時間をかけて慣れればいいのです」
「……慣れるのかな」
未だバクバクと落ち着かない鼓動を思うと、こんなに緊張すること、いつまで経っても慣れられない気がするのだが。
けれど、姥は明るく笑い「大丈夫ですよ」と阿求をなでる。
「お嬢様はがんばりやさんです。覚えもよろしく、優れた才をお持ちですもの。この婆が保証いたします。阿求お嬢様なら、大丈夫です」
何故か分からないが鼻の奥がツンとした。のど元からせり上がってくる熱を無理くり押しやり、うん、と頷く。涙声を隠しきれなかったろうに、姥は咎める言葉を言わずに、ただ薄く枯れた身で阿求を抱きすくめていた。
その年の秋、姥は暇を請い、数日後に彼岸に渡った。眠るように静かな最期だった。
きつく握る姥の手が力をなくした時、松爺が少し乱雑に頭をなで、お竹が労るように背中に手を添えてきたのは、きっと姥の影響だろう。それらのぬくもりを、阿求が素直に受け入れられたのも、きっと。