Coolier - 新生・東方創想話

それでも僕らは息をしよう

2018/08/26 12:09:43
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 天高く馬肥ゆる秋。そんな言葉が脳裏に浮かぶほど澄みわたった秋空の下、阿求は川沿いの床机に腰かけ、矢絣柄の表紙で覆った手帳に目の前の風景を写し取っていた。歩く人々は意図して描かず、川縁に生える木々や立ち並んだ問屋を線で追う。
 調子に乗って書き進めていたら距離感がつかめなくなったので、鉛筆を立て、風景と手帳との縮尺を確認する。正しいものを計算し直してから再び手帳に目を落とした。誤った部分を練り消しで消す。記憶を頼りにしてはこうはいかない。出てきて正解だった。
 絵を描く練習もすると言い出した時は、執筆の息抜きかと首を傾げられたが、今ではお役目のひとつとして受け入れられている。当初は何かと気を回そうとした分家や里の面々も、阿求がスケッチをしている時は集中を妨げないほうが良いと判断したらしく、放っておくようになった。里に出るたび人に囲まれることが多かった阿求にとって、これは嬉しい誤算だ。この調子で、阿求ひとりで出歩くのが普通の光景になってくれると、取材が行いやすいのだが。
 完成した絵と実際の風景とを見比べる。人知れず苦笑が浮かんだ。初期の頃よりは見られるようになったとはいえ、まだまだ巧みとは言い難い。
「言ってもしかたないわね」
 一言で気持ちを切り替え、今度は川向かいだと座る向きを変える。「冷えたらいけませんから」とお竹から押しつけられたひざ掛けをかけ直し、鉛筆を立てて縮尺を計算する。

 絵を描こうと思い至ったのは、寺子屋で取材をしている時に言われた「幻想郷縁起、もっと読みやすくならないの」の一言からだった。
 準備に十分な時間をかけ、いよいよ本格的に幻想郷縁起を書き始めるにあたり、阿求がまず取材に赴いたのは寺子屋、もとい慧音のところだった。彼女の人となりはよく知っているし、距離も近い上、噂に聞く竹林で暮らす人間との面識もあるという。とっかかりとしてはちょうど良い。
 そこで、取材を受け、面白そうに色々と話していた花屋の娘から「そういえば」と指を向けられた。
「幻想郷縁起って、挿絵つけたりしないの?」
「挿絵?」
 思ってもみなかった言葉に阿求は目を白黒させる。隣で聞いていた棟梁の息子も「そうな」と頷く。
「前、おまさんとこで見たやつ、文字もふにゃふにゃで、なにが書いてあるかさっぱりわからんかったぜよ」
「ね。あれじゃあ、いくら便利な本だって言われても読む気しないよ。せめて妖怪の絵とかがついてたら、こんな格好のヤツには気をつけなきゃって思えるけど」
「格好……」
 思わず考えこんでしまう。
 ふたりの言うとおり、歴代の幻想郷縁起は今の自分たちが読むには難解だ。だからこそ、数百年に一度単位でその時代の人間が読めるものに更新するのだから。当代の書き手である阿求も、小鈴の意見も聞きながら、印刷する文字(楷書)やデザイン(一文を短くするとか段組とか)、書き方(砕けた口調で書くとか)など、工夫をするつもりだった。
 けれど、挿絵という発想はなかった。
 博麗大結界に区切られた幻想郷は、これまでと比べるとかなり平穏だとはいえ、妖怪の姿をイラストで表現するなど、なんだか重々しさが一気に無くなる気がする。更に、いちばん重大な問題が、
「私、絵なんて描いたことないんだけども」
 教養として絵画を味わう雅は解していても、自分が描こうとは考えたことすらもない。版木職人は下描きを渡せば仕事をしてくれるだろうが、肝心の下描きがなければどうしようもないだろう。
 ぽかんとする阿求に、棟梁の息子が「なぁんだ」と笑う。
「なら、俺が教えてやるぜよ!」
「え」
「家建てるときだと、お客さんに完成図を見せたりしよるからな。絵は得意なんだ」
「あ、じゃあ、私も手伝う」
「えっ」
 花屋の娘まで名乗りを上げてきた。
「絵はあまりうまくないけど、こいつひとりに任せたら、阿求ちゃん困っちゃいそうだもんね」
「なんでだよ。ちゃんと教えられるぞね」
「じゃあ、この机を描くにはどうすればいいの?」
「そりゃあ、形から描いて、陰をバーってすればいいんよ」
「……ね? 手伝うよ」
「うん……助かるわ」
 なんでだ、と首を傾げる姿に、思いきり苦笑をしたのが始まりで。
 予想通り、感覚的な説明を理解するのには苦戦した。だが、多種多様な文章を、すなわち意味が分からない悪文をも理解してみせた阿求に、できない仕事ではなかった。棟梁の息子曰く、己は絵を描く才にも恵まれたようで、基本を身につけるのも早かった。
 そして、こうして里の風景を切り取っていると、挿絵の提案は有用なものだと実感する。
 絵があると、なんと言っても想像がたやすくなり、ひいては文章の理解も容易になる。幻想郷縁起は、本を読む習慣があまりない里人の手にも渡ってほしいものなのだから、形式に囚われすぎず、読みやすくする工夫を追い求めるべきだろう。人間と妖怪の関係性が変わりつつあるこの時代なのだ。必要に応じて、幻想郷縁起も変わらねば。

 帳面に目を落として川沿いの商店を描きこんでいく。川は簡素でいいだろう。風にしなる柳の木をざっと描き、商店の屋号と看板の大きさをもういちど確認しようと顔を上げて、阿求は動きを止めた。川を挟んだ向かい側の右手にある問屋からひとりの女性が出てきたのだ。
 その女性が誰なのかを認識した途端、鉛筆が手から滑り落ちた。それを意識の端で捉えるも、自由を失した身体は縫いつけられたように女性を見つめるばかりで、ぴくりとも動かなかった。
「……かあさま」
 知らずのうちに言葉が落ちる。地に落ちた帳面が立てたばさりとした音で、己が立ち上がっていたことに気がついた。歩み寄ろうとして、すんでのところで川に挟まれているのだと体を叱りつける。けれど、目が離せない。
 小物入れをのぞきこみ、なにかを弄っていた女性は、食い入るような阿求の視線には少しも気づかなかった。暖簾が揺れて細身の男性が女性の傍らに立つ。喉が詰まったように息苦しい。全力で走った直後のように、心臓が痛いくらいに早鐘を打っている。
「とうさま。かあさま」
 喘ぐようにこぼれた声は、幸いにも、己以外の耳には届かない。呆けたように立ち尽くしたまま、阿求は、別れ際の記憶よりも幾分老いたふたりを見つめる。変化も当然か。自身が阿求になってから、もう、片手では足りぬほどの月日が過ぎているのだから。
 見送りに出てきた店員と言葉を交わす仕草は穏やかだ。遠目からでも、ふたりが美しく歳を重ねているのが見て取れた。店員に丁寧な会釈をして、男性が女性をそっと促す。並んで歩く様子は睦まじい。息を詰め立ち尽くす阿求の向かい岸を、穏やかに、和やかに頬を緩ませ、言葉を交わしながら歩いて行く。
 姿が見えなくなるまで見送って、足下に落ちてしまっていた諸々を拾い床机の上に置く。それから、もういちど川岸に立ち、阿求はしゃんと背筋を伸ばす。
「──どうか、お達者で」
 静かに呟いて、深く深く頭を下げた。


 それからどうやって家に帰ったのか、あまり覚えていない。
 いや、その表現は正しくないか。どのような道筋をたどったか、誰から声をかけられたか、それに対してどう返したかは覚えている。覚えているが現実感がない。地を踏みしめているはずの足下は頼りなく、涼やかで心地よいはずの冷えた空気は阿求の四肢にまとわりついて、水をかき分けながら歩いているようだ。
 草次郎に迎え入れられ、門をくぐると、狂っていた身体感覚が徐々に正常に戻っていく気がした。重厚な造りの屋敷に足を踏み入れ、出迎える小間使いたちと言葉を交わす中で、頭の働きも明瞭になってゆく。お竹だけは、阿求を見て眉をひそめたが、かといってなにかを言うでもなく「おかえりなさいませ」と頭を下げた。
 この後の予定、夕食の時間、湯浴みの時間と小間使いたちの問いかけに答えてから、渡り廊下を歩いて書斎を開ける。畳に寝そべった小鈴が灯りも無しに本を読んでいた。室内に視線を走らせる。お茶などの類はない。阿求はため息をついた。
「灯りくらい点けなさい。目を悪くするわよ」
 引き出しからマッチ箱を取り出し、火をつけた行灯を小鈴に差し出す。
「んー……おかえりー……」
 こちらを見もしない。頭でもはたいてやろうかと一瞬思う。やらないけれど。
「はいはい、ただいま」言いながら、行灯をもうひとつ引っ張り出してきて火をつけ、文机の脇に置く。まずは今日描いた絵と聞いた話とを整理しよう、と懐から手帳を取り出したものの、そこで手が止まってしまった。まだ新しい手帳の表紙をそっとなで、俯く。
「あれ、あんたどうしたの?」
 唐突な問いかけに肩が跳ねる。ふり向いたら、小鈴は、本を開き寝そべった体勢のまま訝しげなまなざしだけをこちらに向けていた。
「どうしたって、なにが」
「なんだか……うーん、変じゃない? なにかあった?」
「意味わからないんだけど」
「えーっと」
 本を閉じ、のそのそ起き上がった小鈴に頬をなでられる。高めの体温に心臓がギュッと握りしめられたように痛んだ。手のひらから逃れて視線を逸らしたら「やっぱり変だよ」と大きな目を瞬かせる。
「どうしたの? 怖いことでもあった?」
「……そんなわけないでしょう」
「じゃあ、どうしてそんな顔してるの?」
 ぐい、と無理矢理小鈴のほうを向かされる。しかめっ面になったであろう阿求を気にした風もなく、ふふん、と薄い胸を偉そうに張る。
「ネタはあがっているのよ、白状しなさい」
「また変な本を読んだのね。小説に影響されるのもほどほどにしなさいよ」
「えー、変な本じゃないもん。れっきとした売りものよ。……って、そうじゃなくて。話逸らさないでよー!」
「ばれたか」
 もう、と肩を怒らせる小鈴に肩を揺らされた。ガクガク揺れる視界に「わかったわよ」と手を上げる。気分が悪くなってしまいそうだ。
「まったく、困ったらすぐに実力行使なんだから」
「そんなことないもん」
 ぷー、とふくれっ面になる小鈴にため息をつく。
 誰に言っても仕方がないことだし、口に出すつもりはなかったのだが、小鈴は納得できないといつまでもしつこい時があるから、適当に興味を満たしてやればいいだろう。
「大したことじゃないのよ。里で親を見かけただけ」
 小鈴がはたと動きを止めた。大きな目を更に丸くして「あんたの?」と尋ねてくる。
「ほかに誰がいるのよ」
「だって、阿求のご両親の話なんて……てっきり……じゃあ、話とかしたの?」
「するわけないでしょ。あっちは気づいてすらいないんだから」
 冷静に言ったつもりだったのに、放った言葉には僅かな棘が含まれていた。その棘を消そうと、変な顔をする小鈴には構わずに「だいたい」と手をふる。
「もう何年も会っていないのよ。今さら話って言われても、ねえ」
「なんねん、も? ねえ、あんたん家がなんか色々あるってのは知ってるんだけど、もうちょっと事情を説明してくれない? 何年も会ってないって、どういうこと?」
 妙に食いついてくる小鈴に胸の底がザワリと騒いだ心地がした。僅かばかり嫌な予感がするも、気のせいだろうと踏んで「言葉通りの意味よ」と息をつく。
「御阿礼神事を終えた御阿礼の子は──つまり私なんだけど、住居をこの、稗田本家に移すの。親とはそのとき別れたのが最後。ふたりとも、当主補佐を勤めるほどの立場じゃないから、訪ねてこないしね」
「まって、まってよ。全然わからない。お父さんとお母さんでしょう。会っちゃいけない決まりでもあるの?」
「べつにないけれど、会う用事なんてないもの。お互いに。あちらにはあちらの生活があるし、私だって、編纂の邪魔をされても」
「阿求!!」
 強い言葉と畳を叩いた音に遮られ、阿求は口をつぐんだ。怒っているような、泣き出しそうな、複雑な内心をまなじりに浮かべる小鈴を見てようやく、己が感情的になっていたことに気づく。両膝の上で固く握っていたこぶしをほどき、静かに息をはいて「ごめんね」と頭をふった。
「とにかく、そういうことだから。大したことじゃないんだけど、久しぶりだったからすこし驚いてね。それだけよ」
 ひと息で言いきって文机に向き直る。手帳を脇にのけ硯を出した。変な風に跳ね回る心臓を落ち着けるには、墨をすって書き物をするのがいちばんだ。
 引き出しから白紙の紙を取り出し文鎮を置く。硯に水を置いて、墨を持ち、円を描くようにさりさりとすっていく。慣れ親しんだ膠や香料の香りが立ちのぼる。
 一心に墨をすっていても、背中に小鈴の刺すような視線を感じていたが、努めて無視をする。小鈴が、ふう、とひとつ息をついたのが聞こえた。「阿求」と落ちついた声で名を呼ばれ、幾分か安堵する。
「なに」
「分家ってどのあたりにあるの?」
「ちょっと、」
 全然落ちついてなどいなかった。慌てて墨を置きふり向くと、小鈴は腕を組んで考えこんでいる。
「里の中心あたり、ってことは知ってるんだけど、あのへんあまり行かないからさ」平らかな声で続ける小鈴の、明るい色の瞳に心を定めたような光が宿っている。先ほどよりも明確に嫌な予感がした。
「小鈴、余計なことしないでよ」
「余計なことなんてしないわよ。これでも鈴奈庵の看板娘なんだからね」
「あいさつ思いっきり噛んだくせに」
「いっ、いまそれは関係ないでしょ!」
 素っ気なく肩を竦める仕草にも安心できない。
 小鈴は好奇心をそそられると、考える前に行動してしまい、事を起こしてからどうしようと頭を抱えるきらいがある。阿求がどうにかできる範囲で収まっていた時は良かったが、この頃は、阿求でも驚くようなことをやらかした事例もいくつかあるので警戒せざるを得ないのだ。
「ねえ、ほんとうに、変なことを考えるのはよしなさい。べつに、今の境遇に不満があるわけじゃないし、あんたがどうこうできることでもないんだから」
「うるさいなぁ、言われなくたってわかってるわよ。ただちょっと行ってみようかなって」
「やめてよ。迷惑かけたくないの」
 火花が弾けたように飛び出た悲鳴に、小鈴は虚を突かれたように固まり、阿求は思わず唇に手を当てた。自分の口から出た言葉が信じられない。迷惑、迷惑だって? そんな殊勝で健気なこと、想像したことすらなかっただろうに。
 父母はどうしているかなんて考えても無駄なことだ。訃報はこない。阿求の知識を求めて訪れることもない。つまり生活は順調なのだろう。稗田阿求になった以上、感傷に浸ったり、届かぬものに手を伸ばしたりするような、無益なことをしている時間はない。親への未練など、いちばん最初に断ち切ったはずなのに。
 混乱と動揺に呑みこまれた阿求の前で、小鈴が唇をわななかせる。彼女が阿求よりも早く立ち直ったのは、怒りや憤りによるものだろうと窺えた。小柄な体いっぱいにこめた力を躊躇もせずに爆発させる。
「迷惑って」
 小鈴が歯を食いしばる。
「迷惑ってなに!」
 部屋中を震わせるほどの絶叫に阿求は身を竦ませた。小鈴がこんなに大きな声を出すのは久しぶりで、もしかしたら初めてで、なによりもぽかんと呆気にとられてしまった。そんな反応をどう取ったのか、もう、と肩を怒らせた小鈴は畳を踏み抜きかねない勢いで立ち上がる。
「阿求の、ばか! 大馬鹿!!」
「なっ……」
 言い捨てるや否や障子を開け放ち、縁側に飛び降りて駆けて行ってしまう。
 小さくなる背中を追わなければと、そうしなければ今まで細々と結んできた何かが千切れてしまうと直感で悟るも、膝立ちになったまま見送ってしまう。だって、走って追いかけて、追いついても、何を話せば良いのか分からない。
 紅葉した木々に紛れた小鈴を見失い、阿求はへなへなとへたりこんだ。あらゆることに対して癇癪を起こしそうになる自分と、そんなことをしてもなんの意味も無いと一笑に付す自分と、ただ顔を覆って泣きだしてしまいたい自分とが入り交じって、心中が騒がしい。
 長い息をついて俯くも、静々とした足音を認めてすぐに顔を上げた。予想通り、最近やって来た小間使いが部屋を覗きこむ。
「あら……どなたかいらしていたのですか?」
 座りこむ阿求と、開け放されたままの障子を交互に見て、小間使いは首を傾げた。カラカラに乾いた口を笑みの形に動かし、阿求はゆるりと首をふる。
「なんでもないわ。あとは自分でやるから、そこにおいておいてくれる?」
「かしこまりました」
 文机の脇に紅茶セットを置き、小間使いは一礼して部屋を立ち去る。
 きちんと閉じられた障子を見てひとつ息をつく。ついでに頬を叩いた阿求は、しゃんと背を伸ばして文机に向き直った。手帳を戻し、中を開く。その横顔に、道に迷った幼子のような弱々しさは既に無く、ただ、芯の通った冷静さが戻っていた。
 稗田家当主として、御阿礼の子としての凜とした横顔を、ひとつだけのカップが寂しげに見つめている。


 その日から小鈴はぱたりとやってこなくなった。一週間が過ぎ、二週間が過ぎても軽やかな鈴の音は聞こえない。草次郎などは寂しそうにしていたが、阿求は「小鈴だって家業があるんだから、珍しいことでもなくなるわよ」と言うだけだった。他に理由があると分かっていても、それをどう説明すれば良いのか、説明して良いことなのかも自信が持てなかった。
 わだかまりを抱えていても、阿求の生活が大幅に乱れることはなかった。書を紐解き、人々の話を聞いて、纏めた内容を項目ごとにより分けていく。いつだって、阿求が成すべきことは変わらない。
 けれど、まったく情けないことだが、変化が少しもないではない。時折、今まで感じたことのない、息もできないような重苦しさが阿求にまとわりつくようになった。
 それが襲ってくるのは時間も、場面もまちまちだ。
 小間使いに指示を出して一礼された時もあれば、里に出た際に明るいあいさつを向けられた時もある。真っ暗な寝所でひとり床に潜りこんだ時もあれば、「阿求様が縁起編纂を始められたと聞いて、皆も楽しみにしております」と五年の期が過ぎ交代を終え、再会した当主補佐から笑いかけられた時もある。
 そういう時、阿求は決まってちらりと笑ってみせた。
 以前、鈴奈庵から借りてきた外来本に「人間は意外と単純」と書いてあったのだ。内心が態度や仕草に影響を与えることはよく知られているが、その逆もまた然り。どんなに重苦しい気分でいたとしても、無理矢理に口角を上げ、背筋を伸ばし、まっすぐ前を向けば、心が体に引きずられる。偽りの笑みだって、笑い続けていれば本物になる。
 そうして誤魔化し続けるのも、しかし、限界がきたようだ。じとりと重い気持ちが思考の一角を占めたまま、ぴくりとも動かなくなってしまった。生活できないほどではないが、身をつつむ重々しい苦しさに頭が痛くなる。胃の腑が痛むこともある。
 そんな調子で食欲がどうしても湧かず、朝餉の大半を残してしまったので、家人からはずいぶん心配されてしまった。おまけに、今日は午前中から来客の予定がある。急ぎどうにかしなければ。
 対処法を探そうと書庫に向かおうとしていた阿求だったが、気づけば、足は寝所に向いていた。
 身の回りの物をしまっている棚の奥に手を入れて、題名のない白い本を両手で取り出す。初めて読んで以来、なんとなく身近なところに置いていたそれの項をめくると、少しも変わらない内容が飛びこんできた。すなわち、歴代御阿礼の子の此岸での記録が。
 帳面に目を落とし、ざらりとした紙に触れる。
「……”わたし”は」
 こんな気持ちになることがあっただろうか。あったとしたら、どのように対処してきたのだろうか。
 不孝にも親との縁を切り、自身を案じてくれた友人を切り捨てて、幻想郷縁起の編纂を行う。それが稗田阿求の役割だ。幼い頃から分かっていたはずなのに、こんなにも些細なことでひどく動揺してしまう。この未熟さは、この身がお役目を受け止めきれていないからか、無駄なことばかりする不真面目な阿礼乙女だからか。
 思い悩む時間と余裕があるならば、ひとつでも多くの知識を得、それを活かす方策を練るべきだ。分かっているのに帳面をなでる手が止められない。
 この記録帳を、御阿礼の子自身が作れたはずはない。きっと、近しい誰かが項を重ねているのだろう。丁寧に書かれた筆跡から、落涙を堪えきれなかった形跡から、慕われていたのだろうと推察できる。稗田が今の立場にある事実からも先代たちの功績は窺える。
 ──ならば、阿求は?

「阿求様。そろそろお約束の刻限でございます」
 襖の向こうからお竹の声がした。応じる声に違和感を覚えたのだろう。「失礼いたします」の言葉と共に、お竹は寝所に入ってくる。
 本を持ったままの阿求の前に膝をつき「やはり、お身体が優れませんか?」と真顔のまま首を傾げる。厳しい顔つきに、長い付き合いの者にしか分からない不安そうな色を読み取って、阿求はゆるりと首をふった。
「ほんとうに食欲がなかっただけよ。夜更かしをしてしまってね、まだ眠かったから」
「ですが、ここしばらく、お嬢様は気落ちしておられるようにお見受けしました」
「呼びかた、呼びかた」
「……失礼いたしました、阿求様」
 取り繕うように頭を下げるお竹に笑いながらも、阿求は内心驚いていた。使用人がどんどん増えていることもあり、今のお竹は、付き人の仕事を他に譲り女中頭を勤めている。優秀な彼女とはいえ、この若さで皆をとりまとめる立場になるのは苦労が多かろう。いらぬ気遣いをさせないよう、気をつけていたつもりなのだが。
 まだ慣れませんね、とため息をついた女中頭は、真っ白な本に目を落とす阿求をじっと見上げる。見返した瞳は、思案に暮れるように揺れていたが、やがて覚悟を決めた様子で「阿求様」と姿勢を正した。
「わたくしはこの通り不作法者ですから、お悩みに添えるなどと思い上がってはおりません。ですが、なんと申せばよいか……阿求様を大切な方と思っていますし、いえ妙な意図はなく敬愛するお嬢様との意味で、ああそのお嬢様と申し上げたのは不慣れ故、その」
 仏頂面のまましどろもどろに言いつのるお竹にポカンとしてしまう。そんな反応にますます焦りが出たのだろう、お竹は「お困りのことがあれば、わたくしにできることはなんでも」と、つっかえながらも絞り出す。ようやく合点がいった阿求は、思わず噴きだしてしまった。
「お竹」
「は、はい」
「相談事があるときは、きちんと言うから。ありがとう」
「は」
 厳めしい顔が真っ赤になった。慌てて平伏しようとするお竹を笑いながら止め、膝を折って目線を合わせる。おろおろと阿求を見つめるまなざしに、心を縛っていた重みがふっと軽くなるのを感じて、阿求はひとつ息を吸った。
「あなたたちのこと、とても大切に思っているわ。もったいないくらいに優秀な奉公人だと、いつもありがたく思ってる。……だからね、すこしだけ怖いのよ。当代の縁起がどう評価されるか。私自身がそっぽを向かれるだけならどうでもいいんだけど、お竹たちがやりづらくなったらかなわないわ」
 それが全てではないが、重苦しさを呼び起こす理由の一端を担っているのは確かだ。
 阿求の言葉を、お竹は目を丸くして聞いていたが「第一に」と人差し指を立てた。姥を偲ばせる懐かしい仕草に、自然と阿求の頬は綻ぶ。
「ご自身のことをそのように仰るのはおやめくださいませ。あなた様の受けられるご評価は、そのまま、わたくしどもが受け取る評価でございます」
「うん、そうね。ごめんなさい」
 穏やかに笑んだ阿求に、お竹は「それから」と小首を傾げる。
「当代の縁起がどのような形を見るかは、阿求様のご尽力次第でしょう。今気にしても仕方のないことかと」
「うん」
 素っ気も媚びもない厳しい言葉に、阿求は満足して頷いた。お竹は正しく、容赦もない。切れ味の良い刀のような物言いが今の阿求には好ましかった。
「うん。あなたの言うとおりね。弱気になってしまって」
「たまにはようございましょう」
「そういうことにしておいてちょうだい」
 やれやれと首をふる。
 しっかと頷いたお竹は「蛇足でございますが」と口元を引き締めた。
「阿求お嬢様が精魂こめて書かれた幻想郷縁起ならば、わたくしにとって、それ以上のものなどございません。ご承知置きを」
 愛想を言える器用さがないお竹の、真っ正直な言葉は阿求の胸を打った。不覚にも目の奥がツンと熱くなる。
 そんな阿求を気にかけることもなく、お竹はさっと立ち上がり「阿求様、お時間です」と言い放った。この女中頭は、と苦笑して、目尻を拭いすっくと立ち上がる。視線が近くなったな、と頭の端でそんなことを思った。
「そうね。行きましょう」
 思考が久方ぶりに明瞭さを取り戻した気がする。まったく、お竹を始め、得がたい家人に恵まれたものだ。身の幸運を実感しながら、阿求はひとつ息をつく。
 歴代の御阿礼と自身を引き比べても仕方があるまい。「わたしは」などと考えても答えなど出ないのだから、できることをするしかないのだ。
 何を切り捨ててでも己の信じる道をまっすぐに進んでいく。阿求には、稗田家当主には、それしか。

 ──そう、腹を据え直したというのに。
「……だから、玄関から来なさいって」
 会談を終えて書斎の障子を開けたら小鈴がいた。図々しくも座椅子から外した座布団を枕にして、袴を着ているのに猫のように丸くなって眠っている。
 様々な感情がこみ上げてきて全身の脱力に襲われた。そのままへたりこみそうになったが、背にそよぐ秋風が冷たいことを思い出して急いで障子を閉める。
 ひざ掛けをかけてやっても小鈴が起きる気配はない。すやすやと上下する飴色の髪をなでてみたら、己の物とは異なる、綿のように柔らかい手触りが返ってきた。顔にかかっている髪をよけ、頬をなでる。もにゅとかむぐとか、表現しづらい声をこぼして、なんとも幸せそうに口元を緩めた。
 心の奥底にある、頑固に強張っていた箇所が優しくくるまれ、揺らされ、暖かいものでじんわりとほぐされていく。
「っとに、あんたって子は」
 声が震えるのは止められなかった。それでもいいか、とぼんやり思う。ここには阿求たちしかいないのだし、小鈴は眠っているのだし。要らぬ意地を張ることもない。

 どれほど経っただろうか。気を取り直して書き物を進めていると、不意に小鈴が身じろいだ。ちりん、と鈴が鳴る。
 ご機嫌窺いのように手が伸びてきたので、手帳を押さえていた左手で乱雑に頭をなでてやると、くすぐったそうな笑い声が聞こえた。小さくて柔らかな手が、阿求の骨張った手をそっとつかみ、形を確かめるようにぺたぺた触る。こそばゆいが好きにさせた。
 左手を弄られながら、手帳に記された話に番号を振り、整理していく。最後までふりわけたところで筆を置き、小鈴に視線を向けた。仰向けのまま、阿求の手を楽しそうに動かしていた彼女は、「うん?」と問いかけるように口元をほころばせる。そんな態度を嬉しく思うのに、口から出た言葉は天邪鬼なものだった。
「借りている本なら、松爺が明日にでも返しに行くって」
「べつに催促で来たわけじゃないしー。ていうか、借りるときだけじゃなくて返すときも自分で来なさいよ。松おじいさんに任せてないでさ」
「やることがたくさんあるんだもの」
「でも、そうしたら、店番してても会えるじゃない」
 あっけらかんと言われた言葉に小鈴をマジマジと見つめてしまう。「ここんとこ仕入れが立て続けに来てさぁ」とぼやいた小鈴は、ふわぁと気の抜けたあくびをする。なんと返せば良いのか分からなくて、阿求は眉を下げた。
「……もう来ないかと思ってた」
「なんでよ。稗田は常に好奇心を歓迎するんでしょう?」
「なにも読んでないじゃない」
「阿求に会いに来ちゃいけないの?」
「だって、……だって」
 言葉に詰まった阿求を見、小鈴は「変なの」と苦笑した。ずりずりと体をずらして膝に頭を載せ、両手をめいっぱい伸ばして阿求の頬に触れる。ぺちぺち叩かれた。くすぐったいんだか痛いんだか分からない。
「あんたのご両親見てきたわよ」
 そう、と頷く。
 頬に触れる手が阿求をやわくなでるのを感じながら、続きを待つ。小鈴は、笑顔とも泣き顔ともつかない複雑な表情を浮かべる。
「話とかはできなかったけどね。一目でわかったわ。……お母さんとそっくりね」
「そうかしら」
「うん。でも、目の感じとかはお父さんのほうが似てたかな」
「そんなこと初めて言われたわよ」
 頬をなでる小鈴の手を取り、万歳をさせるように頭の上に伸ばす。そのままパタパタ動かしてみたら「なぁによ」とくすぐったそうに笑った。
 両手を解放して手帳を見せる。
「この表紙」と布地をなぜると小鈴は「うん」と頷いた。
「分家から贈られたの。縁起編纂を始めるなら取材に必要でしょうって。全部覚えるからほんとうは必要ないんだけど、まあ、せっかくの気持ちだし、図を描いて相手に見せることもあるからね」
 ああそれで、と納得顔になった。手帳を小鈴に預け、柔らかい髪に指先を遊ばせる。
「分家からとしか聞いてないんだけどね。……屋敷に移る前に、この模様が好きだって話をしたことがあるのよ」
 誰に、とまでは言えなかった。けれど小鈴には伝わったらしい。くすぐったそうに目を細めて「そうなんだ」と口元を緩ませる。

 模様には意味があるんだよ、と幼い自身に言い聞かせた声を思い浮かべる。
「唐草は"発展"。蔓草は生命力が強いからね。格子は"繁栄"。見てごらん、柄が途切れずに続いているだろう」
 じゃあこれは、と矢絣を指さした己に、答える女性の声もする。
「矢絣は"出戻らない"です。弓で射った矢は戻ってこないでしょう。それから、"まっすぐに進む"という意味もありますよ」
 幼い頃の記憶はあれど、その時自分が何を思ったかまでは覚えきれていない。しかし、現在の阿求の感覚から逆算するに、おそらく、整然と並ぶ矢羽根の美しさが気に入ったのだろう。両隣の親を見上げ「わたし、これがいちばんいい」と笑ったのだ。
 実態はさておいて、御阿礼の子が表立って誰かと二世を契ることはない。子を成すことも、体と稗田家の相続システム両方の理由から、ほぼ禁じられているようなものだ。
 そのような立場を、そう遠くない将来に継ぐ娘から、矢絣が好きだと言われた両親の動揺はいかばかりか。頭をくしゃくしゃとなでられるのが嬉しくて目を細めていた自分には、父母がどんな顔をしていたかまでは分からない。
 もちろん、阿求が感傷に浸りすぎているだけで、父も母も少しも気にしておらず、ただ、娘が好きだと言った柄を選んでくれただけかもしれないけれど。そうだったらいいと思う。

「じゃあ、大事にしないとね」
 眠そうな声で、渡した手帳を大切そうに抱える姿に頬がゆるむ。
「そうね」阿求は小鈴をなでた。
「大事にするわ。できるだけね」


 その日の夜、阿求は数年ぶりに夢を見た。
 阿求はずいぶん小さくなっていて、肌は柔らかく髪は細く、全体的にふわふわと頼りない。そんな阿求を、少しでも力を入れたら傷つけてしまうのではないかと、里に住む男性にしては細めの腕がおっかなびっくり抱いている。父の気遣いは露とも知らず、いつもよりも高い目線からの眺めが楽しくて、阿求は無邪気にはしゃいでいる。
 怖々と阿求を抱く父と、満面の笑みを浮かべる阿求を見て、母は楽しそうに笑い声を立てる。物静かな母がそんな風に笑うのは珍しくて、ついつられたのだろう、父も弱ったなと言うように笑い声をこぼす。わけがわからなくても、父と母が笑っているのが嬉しくて、阿求は顔をいっぱいにほころばす。
 そんな夢を見た。

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