「……、… …」
聖は尚も詠おうと口を動かすが、声も空気も唇まで届かず、血の池となった口がグチャグチャと開閉するだけだ
それだけの痛みと息苦しさは端からも見て取れるのに、それとはまるで不釣り合いな笑顔を湛えていた
突き刺した指先が星の掌に突き刺さったまま、恋人と指を絡める様に関節を曲げて握り締められた
掌の内側の激痛もまるで気にならず、星も聖の腕に爪を突き立てたまま握り締めた
出来るだけ、優しく
『グヒュル…ヒュルルル…グヒュルル…』
息を荒げながら視線だけで見下ろした先では、人間達が一様に両耳を押さえて顔をしかめ、こちらを見上げている
妖怪達の鬼火は彼方でようやく平地に入り
ナズーリンだけが、別の屋根に登って冷静に観察していた
…幾分驚いてはいそうか
そして目の前…錆臭い吐息のかかり合う距離に、聖がいる
この場に…会話が聞こえる距離にいるのは、私と彼女とアイツのみ
ならば
「…り、っ…、Reaper, reaper,That's what people… call “you”…」
(「死神、死神」…人々は“貴女”をそう呼びます…)
寅丸星の歌声は小さくも軽やかで、表情は落ち着いた悲しさに均されていた
頬の無い、牙のある口から溢れた音に 聖は今は無い息を詰まらせ、ナズーリンは足を踏み締め直した
それ程までに星の発音には淀みが無く、しかも内容まで組み換えると言う小細工までやってのけたのだ
当然だ どれだけ傍で聴いてきたと思ってる
下手をすれば念仏よりも沢山聴いたかも知れない
先の咆哮で耳をやられた信者達にこの小声は聞こえまい
…さっきまで聖と心中しようとしていた事を思えば、聞こえた方が都合がよかったのか
「 Why? 'Cuz they all…die When “you” sing, “you” end their lives. “I” act as…」
『何故かって? “貴女”の歌が皆を殺したみたいに決めつけるからです だから…』
とは言え…息が苦しいなぁ
頬肉だけでなく、先の戦いで肺や喉も潰れかけてるのだから
「though payback makes “we” a noble man. Is that a fact…?」
(“私達”は自分の身の丈に合った生き方をしなければならない…そうですね?)
だが止める訳にはいかない
私を真正面から見つめる女性は、私の手を取り詩の続きをせがんでいる
普段の私の様に
教えを乞う信者達の様に
聖は…聖はいつも応えてくれていたのだから
「Well, you're a goddamn philistine…」
(そう、貴女は…俗物でも、構わないんです)
けどやっぱり、聖が詠う様にはいかないなぁ…
「…ごめんなさい、聖」
治り始めた口から、震える声
対する聖は流石にそこまでの急速な治癒能力は備わっていなかった様だ
喉からの血が胸を腹を太股を濡らしていく
「私は…私、は…っぐ、ぅぅ…」
喉を喰い破った事への謝罪か
散々に殴り引っ掻いた事への謝罪か
聖を切り捨てる様な決定に事実上賛同した事への謝罪か
自分でも、何について謝ってるのかよく分からない
先程より余程喋りやすい筈なのに、声が上擦って上手く話せない
この段にもなって、また後悔や悔しさに表情を歪められる
「… 、」
しょう、と
口の動きで自分の名前が呼ばれたのが分かった
聖も泣いていた
星とは対称的に、心底ありがたそうな笑顔から流した涙が 喉の血に混じって融けていく
そうして声が出ないのを知りながら、聖は口を動かした
「 、… …?」
それでも何が聞きたいのか、今の星にはそれが分かった
「…素敵です」
…やっぱり、貴女には敵わない
『こんな質問、貴女が困ってしまいます…』
まさしく、あの日その台詞を思わせ振りに伏せた理由の通りだ
「楽しそうで、綺麗で…」
食い込んでいた右手の爪を抜いて聖の左手の指に絡め
「激しいながらも…ッ切なくて…」
貫かれた左手を引き抜き、聖の腰を抱き寄せた
「意味は…多分、今でも分からってないのかも知れませんが」
聖の頬が赤らんだ気がしたが、見間違いだろう
お互い顔中血にまみれているのだから
「無償に…心地好いんです」
初めて出逢った夜以来、添い寝した時にすらもあった距離を強く踏み越え
私と聖の距離が、限り無く縮まった
節度を弁えない恋人同士の戯れの様に
手が空いたにも関わらず、聖の喉の止血をしようとは考えなかった
怪我ならとうにお互いにさせ合ったし、これだけの大怪我を負わせるつもりで、意図して行ったのだから
如何に後悔が滲んで来ようと、それを償う様な真似はする訳にはいかなかった
「でも、聖…」
流石に無理に引き抜き過ぎたか
穴が空いた掌の痛みは徐々に強まり
それを誤魔化そうと力を込めれば聖を強く抱き締めてしまった
しかし、今の星にそれらを恥じらう事は無かった
もう、時間が無かった
「人を守り教えを説く貴女も、妖怪を庇い教えを説く貴女も…」
聖は先程から私に左手を取られ、右手も腰に回された腕に触れたまま、星の顔から目を離せずにいた
初めて聖に出逢った時の星の様に
「経を唱えていようと、詩を詠っていようと…」
視界の端、地上に感じた密やかな慌ただしさに、強い嫌悪を感じた
「私は…それら全部がっ 全ての聖が、聖らしいと思います…!」
その発見に応える様に
寺の敷地を囲う壁を、更に外側に現れた光る環が取り囲み
更にその外側には、手を合わせて読経する僧侶達の姿が
更にその外側には、こちらを見上げる人間達の姿が
それらの中心上空に浮かぶ二人が、主演と主賓
「ッ貴女には…こんな答え、が 欲しかった答えになっていないとは、思いますけど…!」
確信に近い予感から逃げる様に聖の頭を胸に閉じ込める、必死に言葉を繋ぐ
「でも、でも! 私だってどんな私が!…虎としての私と毘沙門天としての私と、どっちの方が私らしいのかなんてっホントは分かりません! 分かりませんし、聖にだって分からない筈ですよ!?」
なのにこんな、私の狂暴性を叩き起こす様な事をして
まるで置き土産を渡すかの様に
「ですから! 端から見て素晴らしい聖も!行儀の悪い聖も!どっちの方が良くて片方は駄目だなんて事はないんです! どっちも聖なんです!!」
環から数本の光が放たれ、中心に浮かぶ聖目掛け突き刺さった
光は星を貫き、聖の手足や体や首に巻き付いた
光…輝く経文は星を傷付けずすり抜けたが、逆に触れる事も出来ず、引き剥がそうにも空を掴むばかりだ
「ぐっ!?…それでも!聖がッ自分は“自分”のままでいたかったと!そう言って下されば!私はいくらでもお付き合いしましたのに!」
経文の巻き取る様な力は凄まじく、聖の身体を地面に引き摺り降ろそうと四方八方から手繰り寄せる
万全の聖ならばともかく、あちこちを壊された聖はまるで身動きが取れなかった
その為にも、星は殴り、引っ掻き、喰い千切ったのだ
もう自分では止まる事の出来ない聖を、封印に逆らわせない為に
「私が…わッ、私、私が…!“貴女”に気付いてあげてればこん、ッこんな事には…!」
沈み行く聖の身体を支えようとするが、無理に留めれば聖の身体が引き千切られてしまう
まぬけにも、聖と共にゆっくりと降りていくしかなかった
「ごめん…ごぇんね、聖ぃ…!」
毘沙門天の代理人でもない
聖から仏の教えについて学ぶ弟子でもない
野山でくたびれだ虎でも、ようやっと肉を食(は)んだ虎でもない
私でも知らない私が、泣きながら聖を抱き締め、詫びた
「貴女を!貴女をずっと!ひっ、独りにし、して…」
「私が!私だけでも!思い上がりでも何でも!貴女を知って!分かってあげなきゃなっ、ならなかったのに…!」
「なのに私ッ達は!自分達に都合のいい貴女を!都合のいい貴女ばっかり、ねだって!欲しがって!その癖恩もろくに返さないで!」
「こんな…我が儘の一つも、聞いてあげられなくて…!」
嗚呼、足りない 全っ然足りない
言葉も、時間も、理解も
「だから…だから、貴」
聖が笑った 素敵な笑顔
腹部に衝撃 息が詰まる
苦しさに手が離れる 本当に触れられていたの?
聖が遠ざかる 握り拳が解かれる
聖の笑顔 綺麗な笑顔
星の不意を突いた聖の一撃が、二人を突き放した
星を天に 聖を土に
「ッッ聖ぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」
落ちていく 墜ちていく 堕ちていく 聖がいってしまう
踏み留まる 踏み留まる 踏み留まる 星が中空に爪を立てる
間に合わなかった
聖が背中から寺の中心に叩き付けられたと同時に光が弾けた
星がようやく制動を掛けて止まり、地上を見下ろした瞬間の事である
聖が眠っていた
経文状の光で仰向けの身体を地面に縫い付けられ、御丁寧に喉や傷口にも応急手当の様に巻き付いていた
輝きがメキメキと迫り上がり、花の弁の様に折り重なり、蕾となる
敷地全体が震え、徐々に沈んでいくのが目に見えて分かる
命蓮寺と聖白蓮 二つの蓮が、泥へと沈む
「聖ぃ! ひじっ…ッ」
追い掛けなければ
その一心で飛び付こうとした星を、背後の気配が咎めた
「……」
そのまま星の隣に並び立ち、ナズーリンも沈み行く蕾を見下ろした
手には、一層眩く輝く宝塔が
「…“乱心した聖白蓮を毘沙門天が説得するも決裂”…」
…今、この遣いネズミを殺して宝塔を奪えば、封印を中断し聖を取り戻す事が出来る
「“毘沙門天が聖白蓮を抑え込んでいる間に、人間達の法力でこれを封印”…」
星は傷と血にまみれた右手を眺め、握り締め
…ネズミ一匹をくびり殺すには充分な力を、しかし全て手放した
今となっては、必要無い力だから
「“かくして悪徳に染まりし者は人々の手によって裁かれ、神はそれをひたすらに見守った”…と言った所だろうな、残す記録としては」
夜風がそよぎ、髪を梳き、血を渇かす
「よくやってくれた寅丸星 こう言ってはなんだが、聖白蓮相手に上手くいくのか心配していた」
「これで…これが、仏の道にとって、よかったと?」
「あぁ 妖怪に与する乱心者は封じられ、その立役者は信者達の御本尊だ 疑念を払拭し、信頼を取り戻せた」
…ナズーリンとて、いい顔はしていなかった
彼女とて自身が従う者の任を全うしているだけだ 他意は無い
少し考えれば分かる事だ 星のナズーリンに対する認識は、冷静でなかったが故である
…冷静でなかった理由と言うのが、あまりに大き過ぎたが
「…そうですか」
「あぁ」
「……」
聖は勿論、寺と敷地自体の姿はすっかり地の底に沈んでしまった