【その夜:命蓮寺】
口笛が、聴こえる
護身の為にと人間達と同じ訓練をした程度の槍を手にして駆け付けた我等が本拠、命蓮寺
普段は安心出来る住み処は異様に大きく見える満月に照らされ、重々しく黒く塗り潰されていた
昼でないから人は無く
夜にも関わらず妖怪もいない
そんな中、屋根の上に人影があった
稲穂の様な黄金を振り撒く黒髪
法衣や袈裟とはまるで印象が違う、短い裾から脚が覗くヒラヒラした奇妙な服
見るのを躊躇う程に均整が取れた顔立ちに
恐ろしくさえ見える満面の笑みを浮かべ
何度となく聴き続けた詩を、口笛に乗せていた
「…っ」
星も屋根へと一跳び
瓦をカタタンッと鳴らして屋根の端に降り立つ
聖白蓮は、反対側 星に横顔を向ける形で座っている
「…聖」
聖は応えない
屋根の淵に座って手をつき、ぶら下がった脚を子供の様に交互に揺らし、口笛を吹いている
穏やかに
「…人間達が、妖怪達との繋がりに気付きました 直に集団で押し掛けて来るでしょう」
ナズーリンから伝えられた事実を伝える
同時にドブネズミが星に渡したのは、村人達の署名と血判状だった
「この上は彼らに全てを明かして謝るか…あるいは、私と一緒に逃げて下さい」
聖は応えない
顔を上げて口笛を吹く様は、頭上に浮かぶ満月と会話している様だ
「……聖、は…妖怪と契約し、生気を貰っていたそうで…」
瓦についた五つの指先が、軽快に拍子を取る
「聖はいつも綺麗だなぁととか、意外と力持ちだなぁとかぼんやり思ってはいましたけど、まさか…ははっ、そんなウラワザがあっただなんて…」
…屋根から見下ろすと、意外と大きかったのだな この寺も
「…どうして、教えて下さらなかったんですか?」
聖は応えない
彼女の頭は、口笛に合わせて左右にユラユラと揺れていた
「…その詩…に使われている言葉、意味が分かると言う者がおりまして」
髪が夜風に巻き上げられ、金色が月明かりに透かされ、絹の幕の様になる
「その…あまり、行儀のいい詩じゃなかったんですね 聖は楽しそうに詠ってましたけど、あまり人前で詠うのは…」
聖が立ち上がった
「…どうして、ですか…?」
背を向けてしまった同志に問い詰める
「どうして、そんな…周りの人達を騙す様な、事を…」
何故そうも、不躾者の様に口笛を吹いていられる?
「…星」
ようやっと、聖が口を開いたら
普段から聞き慣れた呼ばれ方だった
なのに、普段と違って顔を向けてくれない
「何故、槍を?」
「、…」
尤もな質問だ
思わず槍を背中に隠そうとした腕に力を込め、堪える
「…毘沙門天様からの通達です 人々を欺いた罪…特に妖怪と通じていた報いとして、仏教への不審を濯ぐ為にも、貴女を封じろ と」
自分は一つも賛同していない決定
それでも自身の立場を考えればやるべき事は決まっており
しかし立場を考えなければ、可能性は無限とまで言わずとも、いくらでも考えられる様な気がした
「ですが聖、まだ間に合います」
寅丸星は、どちらも選びきれなかった
「人々に全てを打ち明け、謝りましょう 妖怪と通じていた理由…人妖共存の世界を作ろうとしていた事を知って貰えれば、納得はされずとも…害になる様な事ではないと安心させてあげられます」
長髪が風で巻き上げられているせいか、聖が大きく見える
いや違う
自分にとっての聖はいつだって大きかった
「それにより封印の命が解かれるかはともかくとして、人としてけじめをつけるべきです」
大きく息を吸い込む
夜の研ぎ澄まされた匂いの中に、彼女の香りが少しだけ混じっていた
それだけで元気付けられた様な気になるのだから、自分が一層情けなかった
しかし、覚悟は決まった
「そして…封印の時には、私もお供します」
ようやく
ようやく、聖が振り向いてくれた
「妖怪達を庇っていたのは私も同じ…そうでなくても、直下の崇拝者の行いを見抜けなかったとなれば、私も仏教への不審感を広めた一因…同罪です」
その表情は、意外な程素直に驚いていた
「毘沙門天様は聖一人を罰して事を納める様ですが…それだけで済むとは思いませんし、何より私自身が納得いきません」
一歩、二歩、と歩み寄り
「ですから聖 どうか、私と…」
三歩、四歩、と歩み寄り
右手を聖に差し出し
聖が槍を掴んだ
「…ッ!?」
素早く、自然で、だからこそ淀みない動きだった
星が槍の柄を握っている部分、その上下を井戸の釣瓶の縄を掴む様に両手で握り、“そのまま握り潰して”千切ったのだ
その間、前髪同士が擦れ合う距離にあった聖の顔は静かであり、吐息一つ乱さなかった
三つに分割された槍の残骸が屋根に落ちるより早く、星の身体が吹っ飛んだ
遠退いていく、足を踏み込み掌をこちらに突き出した聖
それを理解しきるより早く、しかし遅れてやってきた、腹部への痛みと苦しみ
それらと挟み撃ちにする様に背中に叩きつけられた、瓦の砕ける感触
「がっ…!ッッひじっ…!?」
それらの物理的衝撃より遥かな衝撃
聖に突き飛ばされ…いや、殴り飛ばされた…!
「…Reaper, reaper,That's what people call me♪」
『“死神!死神!”人々は私をそう呼ぶ』
ぁ
「 Why? 'Cuz they all…die! When I sing, I end their lives. You act as♪」
『何故かって?私の歌を聞いた者は皆、死んじゃうからよ! だから…』
ぃゃ やめて
詠わないで
「though payback makes you a noble man. Is that a fact?♪」
『あなたは自分の立場に見合った埋め合わせをしなきゃいけない』
かつては詠い主と共に好きで止まなかった詩も、今では意味が分かる
分かってしまう
だから…
「Well, you're a goddamn philistine!♪」
『そう、あなたは俗物に過ぎないのよ!』
寅丸星は、あの詩をあの笑顔で詠いながら歩み寄る彼女には、もう何を言っても無駄だと言う事を理解せざるを得なかった
最も信頼出来る人に言葉さえ届かない現実に、打ちひしがれた
「Reaper, reaper,That's what people call me♪」
『“死神!死神!”人々は私をそう呼ぶ』
屋根の上を歩き、両手を天に延ばし、踊る様に回りながら私に近付く聖
煽られる髪の合間から覗く表情は、酷く楽しそうな笑顔だった
あの日の様に
「 Why? 'Cuz they all…die! When I sing, I end their lives. You act as♪」
『何故かって?私の歌を聞いた者は皆、人生を台無しにされちゃうからよ! だから…』
躍りの回転に乗せられた蹴りが、ようやっと立ち上がった星の頭に襲い掛かる
瞬時に間に割り込ませた腕諸ともにぶち当たり、星を庭へと弾き出した
「though payback makes you a noble man. Is that a fact?♪」
『あなたは自分の立場に見合った埋め合わせをしなきゃいけない』
野生に生きた時代にもあまり取らなかった動きだったが、それでも虎としての血は動きを覚えていた
中空で姿勢を持ち直し、両の手足で地面を掻き、踏み留まる
「Well, you're a goddamn philistine!♪」
『そう、あなたは盲信の俗人なのよ!』
歯を喰い縛って上げた視線の先で、聖が庭石を踏み砕いて舞い降りる
槍も無く剣も無く、それでも星は構えを取った
聖白蓮を拘束する為…でもあるが、それより遥か以前に、自分の身を守る為であった
聖白蓮の立ち振舞いは、それを寅丸星に瞬時に判断させる程のものだった
「Requiem eternal…♪」
『弔いの歌は鳴り止まない…』
相変わらず聖は踊り詠い続け、星は手も足も出なかった
妖怪から受け取った若さと力の成せる業か、聖は詠いながら踊りながら、しかし韻律(リズム)と動きに合わせて次々と打撃を見舞った
「Bullets ride through the sternum…♪」
『放たれた矢の光は胸を貫き…』
対する星は、長命から力を得た妖虎であり、毘沙門天の元での修業で着実に力をつけた
間違いなく、相手が人間なら遅れを取る様な事は無い程である
にも関わらず、星は聖の振るう手足を防ぐだけで手一杯であった
恩人への情云々は勿論あるが、それを越えて聖と星の間には如何ともし難い実力差があった
「Lullaby to hell babe…♪」
『地獄の底で眠りなさい…』
寅丸星の精神は、争いに向いていなかった
ひたすら逃げの一手に徹した虎の頃
威厳と肩書きで全てがひれ伏した偶像の頃
戦おうとせず、戦う機会すら無くした虎は、相手を傷付ける術を忘れきってしまったのだ
(…それじゃあ…)
「reaper's got your name!♪」
『死神達はあなたを見つけたのよ』!
(聖は…どうしてこんなに、強い…?)
常日頃、妖怪の撃退を行っていたから?
戦い慣れていたから?
それとも…戦う事が好きなのか?
好きだから、楽しそうに詠って踊りながら、相手を傷付けられるのか?
聖は…他人を傷付けるのが…
(違う!!聖はそんな…!!)
後ろ向きな自分の問いを、虚勢を張った自分が否定し、それらをまとめて聖の掌底が打ち砕いた
顎を突き上げる破壊力
喰い縛った歯が軋み、脳が揺さぶられ、倒れそうになる身体を両足が必死に支える
「Margaret is greek you geek, It means a pearl, I'm a pure girl… Boys♪」
『マーガレットは神話の国の言葉よ、お馬鹿さん 真珠の様に純粋な女の子なのよ 坊や』
子供に言い聞かせる様な歌声
子供に歩み寄る様な…腰を屈めて手を後ろに回し、頭を左右に傾けて覗き込む様な近付き方
子供に向ける様な優しい笑顔
心身に受けた衝撃に目眩を抑えられない星は、その光景に一層吐き気が強まるのを感じた
居眠りをする時の様に、目蓋が重くなる
「cannot crack this oyster shell, So go on,♪」
『私の殻を破る事は出来ないわ だから…』
ビシンッ
「ぎっ…ッ」
頬を裂く様な痛み
それが四回五回と左右の頬に染み込めば、痛みは実際に頬を裂いていた
人知を越えた平手打ちと最後の回し蹴りが、妖虎の頬の肉を削ぎ落とした
「ギ…ぃえぁ、が…ぁぁぁ、ぁ…!」
血と涎と歯が溢れる頬(のあった所)を抑える星は、聖に対し睨む事も叫ぶ事も、ましてや反撃もしなかった
星は泣いた
痛みは最後の一押しに過ぎない
別たれた信頼関係、暴かれた真実、通じ合えない気持ち 大好きな人との理解し難い対立
ボロボロと血と涎と涙を流す星は、「泣くのは久しぶりだなぁ」と頭のどこかで馬鹿正直に考えた
修業に挫けた時、ヒトの世界での暮らしに参った時 大好きな人の期待に応えられなかった時
いつでも、あの人が傍で慰め、励まし、背中を押してくれ、立ち上がれた 泣くのを堪えられた
なのに、自分はその人を封じなければならず、その人は詠いながらそれに立ち向かい、傷付け合っている
(嫌だ… 嫌だ嫌だ 嫌だ 嫌ぁ)
分からない 分かりたくもない
どうして、どうしてこんな事をしなきゃならないんだ
人間が妖怪と仲良くしてはいけないのか
尼が品の無い詩を詠ってはいけないのか
それらは罰せられなければならない程の事なのか
一人の人間に責任を押し付けなければならない程、仏の教えは大切なのか
彼女はどうして、こんな時まで詠っているのか
なんで、私がやらなくちゃいけないの?
草地に転がって寝起きしてただけの虎が、どうしてそんな難しい事を考えなきゃいけないの?
「whip around that sword like you're the best? It's such a bore♪」
『頑張って近づいてごらんなさい? 大変でしょうけど』
無理だよ聖 出来ないよ
私は、私はこんなに戦いたくなくて、今でも聖が好きで、皆と仲良く静かに暮らしたいだけなのに
皆が近寄ろうとしない 皆が遠ざけようとする 皆が分かろうとしない
貴女も知らせようとしないし、近寄れば弾かれるし、嗤って詠っている
これ以上どうすればいいの!? 何を頑張れって言うのよ!?
「Another hero? Oh please?♪」
『次の救世主様は一体何時いらっしゃるのかしらね?』
(そんな奴、いない…!!)
いるなら、今すぐ私達を助けてよ!?
無論救いの手が差し伸べられる筈も無く、毘沙門天の代理人を勢いよく地面に弾ませ転がす程の正拳が突き付けられた