【数日後:人里の屋内】
「まずは…斯様に粗末な場所に御御足を運んで頂いた無礼、御許し下さい…」
なんだ これは
今日も聖の説法を終え、幾人から拝まれ言葉を交わしていた時
眼前で頭を下げたある老人がボソリ、と何かを二つ呟いた
人里の茶店の名前と、一人で来る様に と
痩せこけた老人にも関わらず、大岩を押し退けられるかの様な眼力が向けられ、内心怯んだ
その後、聖の休憩に合わせて言われた茶店に行くと、星を視認した店の女将さんは鍛治屋の名前を呟いた
鍛治屋の親父さんは寺子屋について呟き、寺子屋の娘っ子は無邪気に私の手を引き「おっとぉがお呼びです」と、この家に引き込んだのだ
手を引いてる間、娘っ子は聖が詠う詩を詠っていた
子供には難しいのか歌詞も音程も滅茶苦茶だったが、それでもあの詩だと分かった
その人家はまだ夕方なのに雨戸を閉め切り、しかし蝋燭は多過ぎる位に灯されていた
その蝋燭に照らされるのは、人里の親御や重鎮の年代の男女達が寿司詰めにされた部屋
皆肩を寄せ合う事も気にせず、毘沙門天を前に膝を着いて拝み、頭を下げていた
「…呼んだからには、理由があるのだろう?」
そんな異空間の中、一人一段高い広々とした位置に招かれた星は、ひとまず普段通りに毘沙門天としての威厳を示す
…示したが、人間達はそれどころでは無さそうに見えた
「…聖様に、ついてです…」
一人の主婦が、身体も声も震わせて応えた
「ひじッ、…白蓮が何か?」
何故震える 何を畏れている?
「里の…オラのせがれが、畑に仕事道具を忘れ、取りに行ったんですが…」
*****
【前日の夜:あぜ道】
「ふ~ふんふ~ふんふ~ふ~ふ~ふ~ー…っと」
(ったく…おふくろも鍬一つで騒ぎやがっ …あん?)
最近人里で流行りの鼻歌を適当に歌いながらとぼとぼ歩いていたら、音痴な歌とはかけ離れた涼やかな音が耳に混じった
“ …”
女の声…?
“ 、 ”
(…、聖さん?)
今やこの近辺で聖白蓮の顔や声を知らない者はいない
仏門、相談、農作業、料理、寺子屋、妖怪退治と 八面六臂の活躍ぶりこの辺りの生活に深く根付いたものになっていた
男は道から外れて森に入り、姿勢を低くしながら声に近付く
(やっぱり聖さんじゃねぇか)
葉の隙間から見えたのは、黒髪に月明かりを反射させた寺の尼僧
(こんな時分に…妖怪避けの見回りか?)
うら若き身でありながら、聖が退治した妖怪の数は日に日に増していた
(でも一体誰と話してッ…!!?)
男は両手で口を抑えた
昼間大根を届けた時にどぎまぎする様な眩しい笑顔を見せてくれた憧れの女性は、同じ笑顔を…
何やら…こう、“水を含んで腐った何か”に向け、会話をしていた
“身体、は どう、なの? ひじ、り”
船の碇の様な形の岩にこびり付いたブヨブヨの腐肉から鈍い声が響く
“お陰様で元気よ 昔はこの時間には起きてもいられなかったわ”
“私達も、聖のおかげで気を抜きやすくなった……だそうだ”
幼児を包む不穏な…霧?から低く重い声が響く
(あ、ぁあ、あ…)
何 何だ 何だよ 何なんだよ こいつぁ、一体…
「それでも見逃してあげられるのには限度があります…皆出来るだけ早く余所に移れればいいのだけれど」
「仕方、無い、ねぇ… 退治された、筈の、妖怪、が いつまでもいたら、ねぇ…」
退治された…筈?
聖さんは…退治してなかったのか?
「もう少し…あと少しだけ待っていて下さい」
聖が笑顔を解き、思い詰める
「必ずや、妖怪達も共存出来る世界を…」
男は走った
出来るだけ音を立てずに 全身に汗をかいて 鍬を置いた場所も忘れて
不気味な女から、逃げた
背後から追い立てる様に様に聴こえて来る詩に、叫び散らしたくなった
*****
「……」
胡座の上に肘をつき、額を抑える
居並ぶ人間達は、毘沙門天が聖の秘密…裏切りにもあたる諸行を問題視してくれたものと、ひとまず安堵した
しかし、当の毘沙門天代理が頭を抱える理由は真逆であった
(気取(けど)られた…)
妖怪達に“も”味方していた事が
妖怪達を退治する様に見せ掛けて逃がしていた事が
いずれは人妖が手を取り合い暮らせる世界を作ろうとしていた事が
最も厄介な誤解を招く形で
…星に相談に来たと言う事は、星もその事実に荷担している事はまだバレていない様だが
「…無視出来る話ではないな」
改めて人間達を見渡す
すがり付く視線は全て信じていた聖に裏切られたと言う方向で固まっており、この上毘沙門天様にまで裏切られたら と怯えていた
まずは人々を安心させねば
「…手を、打たなければなるまい」
動揺を押し隠す星の演技がどれ程のものかはさておき、毘沙門天の一声は人間達には頼もしいものであり、一様に肩から力を抜いた
「畏れながら毘沙門天様…」
だが一人、目付きの揺るがぬ男がいた
周りの反応を見るに、男が口を挟むのは折り込み済みだった様だ
「実は…先日、通いの街の港に外来の一団が来訪しまして」
外来…となると、海を渡って来たのか
…じゃなくて
「それがどうした」
「はっ 毘沙門天様は聖…様、が時折詠う詩が、里の者達の間で流行っているのを御存知で?」
「…それがどうした?」
「街で子供達がそれを詠っていた所、その一団が興味を示し、その上音だけを真似た歌から推察し、聖様の様にスラスラと歌詞を読み上げたのです」
「ッ分かったのか!?聖の詠う言葉が!?」
思わず身を乗り出し、人々が驚く
聖が妖怪と通じていた話を聞いても(見た目には)動じなかったのだから当然か
「は、はい 何でも彼らの母国の言葉らしく…彼らの中にいろはの分かる者がいたので、紙にしたためてもらいましたが…」
「それを!…」
差し出した手が相手の肩を掴まんばかりの勢いで、男が仰け反る
「…こちらに」
呼吸を整えゆっくり話せば男が懐から取り出し、受け取った紙を努めてゆっくり受け取り、開く
ついに
ついに、あの詩の意味を理解出来る
周囲に暮らしている人間や妖怪ですら、あの詩は頭に残るものであった
ましてや常に傍らに寄り添っていた星は、最早無音の中でも幻聴の様に頭に響いて来る程に聴き続けていた
ただでさえ未知の言語による奇妙で印象に残る詩である
加えて、星にはあの詩を詠う時の聖の微笑んだ顔が 初めて出会った時のあの衝撃が深々と刻まれていた
聴いているだけでもよかった
あの詩を詠う時の聖はとても綺麗で、幸せそうで、そんな顔を見られるのが嬉しかった
だがもし…その詩を理解出来たら その詩を自分も詠う事が出来る様になったら
そう考え無かった事は無い
それが今、思わぬ形で叶う運びとなった まさか異国の言葉だったとは 人の言語とあれば、習熟する事も現実的に可能であろう
聖の危地も半ば忘れ、毘沙門天の代理人としての立場も疎かにし、星はその和訳に喰らいついた
(……え)
だからきっと、これはその天罰だったのだろう
喰らいついた紙には猛毒が染み付いていた
紙にあったのは、如何にも書き慣れていそうな未知の文字による文章が一行と、書き慣れていない書体の日本語が二行 恐らくは歌詞の音をいろはにしたものと和訳が、横向きに並んで綴られていた
死神 死の渦 糞野郎
俗物 くたばれ
およそ聖が…と言うよりまともな人間が、少なくとも楽しげに歌いはしない下劣で苛烈な言葉が並んでいた
読み進めるに比例し、困惑した
詠う聖の姿や音色からはまるでかけ離れた、支離滅裂な内容だった
(聖…)
真っ暗になった視界で、清楚で優しい聖の、温かい包まれる様な笑顔が頭に浮かぶ
その時に詠っていた詩が口から溢れる
(ひじり…)
聖はそれを人間達に、妖怪達に、私に詠って聞かせていた
(ひじ、り…)
楽しげで切なく思えた詩は、強烈な悪意に満ちていた
聖の笑顔が歪んで、塗り潰されて 歪んで 消えた
「まさか…まさか、聖さんがそんな詩を詠っていただなんて…」
「こんな詩を真似て詠っていただなんて…もう、恥ずかしくて恥ずかしくて…」
「てっきりお経の一つかと…」
「慎ましそうな顔して、なんつぅう尼だ」
「恥ずかし気もなく、人前であんな詩を…」
村人達の憤りに充ちた声が行き交う
道で擦れ違った見知らぬ人に、謂れの無い罵声を浴びせられたかの様に、頭が理解に追い付けなかった
最早内容すらも頭に入らない歌詞を読み終えた星は、絶望と嘲笑に充ちた紙を持った手をガクリと降ろした
家の外から、さっき自分を道案内した娘っ子があの詩を詠う声が聴こえ
すぐに親が「そんな詩を詠ってはいけません!」と怒鳴りつけるのが聞こえ
娘っ子の泣き声が聞こえ
あとはもう、何も聞こえなくなった