【とある夜明け前:星の部屋】
「…ッ聖」
「、星…」
鈴虫の鳴き声が外から染み込む満ちる命蓮寺
その一室で人の気配を感じて目覚めた星は、枕元で膝を着いて自分を覗き込む美女に驚いた
「勝手に入ってしまってごめんなさい 理由は無いのだけれど、目が醒めてしまって…」
白襦袢に綿入れを羽織った姿でそう言う聖は、しかし呂律はたどたどしく、頭もコクコクと船を漕いでいる
星が鼻を鳴らして大気を探れば、夜明け前の白んだ空気を捉える
「朝までまだ時間がありますね…寝直されては?」
「…そうね そう、しましょう…」
そう言って聖は綿入れをスルリと落とし、私の掛け布団を持ち上げ、白い足を入待て待て待てい 待てぇい
「ひじ、り!? おへっ、お部屋に、戻らにぇば…!?」
目覚めたばかりの頭には、憧れの尼が自分の褥(しとね)に潜り込んで来ると言う一大スペクタクルに対応するだけの回転数を持ち合わせていなかった
会話不全もやむ無しである
「んー…廊下が…寒いわ…」
口ごもろうが肩を抑えようが尼さんは意に介さず、星の寝ていた布団に身を収めた
布団の主は入れ違いに布団から抜け出そうとなけなしの打開策を敢行したが、寝惚けた尼僧のどこにそんな力があるのか、星の寝巻きの袖を掴んで放さなかった
「?しょーう?」
それでも最後の抵抗にと、肘をついて起き上がろうとする
「私は、大丈夫です 目が醒めてしまいましたから、起きます、よッ」
一切偽りの無い理由である
「寒いでしょう…?」
「いえ、全く」
これも偽り無き否定である
心臓がお祭り騒ぎを起こし、熱い血液を頭や頬、全身に送っている
「一緒に寝ましょう…?」
近距離で横向きにこちらを見上げて誘う聖の唇が、自身の髪を擦り上げる
…勝ち鬨ならぬ、負け鬨を上げざるを得ない
慎重に身体を布団に沈め、しかし聖に背を向けて縮込まる
「私と一緒じゃ嫌…?」
あまりに あまりに軟らかな五体が背中から包み込む様に抱きつき、首筋に吐息が掛かる
やばい、溶ける 何がって訳じゃないけど溶ける
「寝、惚けて引っ掻いたりしたら大へ…」
あ
そうか この手があったか
ドロンッ
「きゃっ」
モクモクと舞い上がった煙が散った後には、布団が座布団に見える程の大きな妖虎が…寅丸星本来の姿があった
『寝惚けて引っ掻いたりしたら大変ですから 私は部屋の隅に…』
何より虎は布団では寝ないものだからな
うん、我ながら機転が利く
これで聖も諦めてく
「温か~い…」
駄目でした
丸まった体勢の妖虎が立ち上がるより早く胴体にしがみつき、そう容易くは痛まない毛皮をむんずと掴み、お腹に頬を乗せて擦り付ける
毛皮の抱き枕とは僧侶らしからぬ贅沢じゃ、お縄につけーい
(…はぁ)
諦めよう
元より頑固な所がある聖だ、寝惚けて理性が効かないとあっては歯向かうだけ無駄だ
妖虎は子供でも抱える様に溜め息と共に身を沈め、掛け布団の端を啣えて聖に掛け直した
「大丈夫よ星、貴女は…」
聖の細い指が肉球を分け入り…ぁ駄目そこくすぐったい…、分け入り、引っ込んでいる鋭い爪を撫で上げた
「走る時でもなければ、爪を出さないでしょう…?」
『…ですから、寝惚けていては何をするか分からないので…』
「寝惚けていたら」
肉球からあっさり指を引き抜くと、今度は私の口に(避ける間も無く素早い動作で)差し入れ、唾液まみれの歯茎をなぞった
「私でも食べられちゃうのかしら…?」
…本当に寝惚けているのだろうか
『……そうですよ 寝惚けていたら、何をするのか分かりません』
その手をうっかり傷付けない様、言葉を念ずる事に注力する
「ふふっ 恐いわ、ね…」
笑いながら牙の先端、尖った部分に指の腹を当てる
「ふふっ、くふふ…」
らしくもない、からかう様な笑い方
『なんですか聖…』
それだけに、聖程ではないが穏和な星でも気を悪くした
「だって…っふふ」
牙の先端を、親指と人指し指で摘まむ
「口に手を入れられ、無抵抗に牙を触られるなんて…獣なら最大の屈辱の筈よ…?」
揺すられた牙の根元が、一瞬ぐらついた 気がした
『っ!!?』
慌てて口を頭ごと離せば、ぬたぬたになった手が糸と音を立てて引き抜かれた
『ぁ…その、すいませ…ッ駄目ですよ聖!?ばっちぃです!』
ぼんやりと指同士の間で練り飴の様に唾液を弄び、それを舐め取ろうとした聖を慌てて制止する
聖は驚いた様子も無くそれに応えてピタリと止まり、そして星の眼前にゆっくりと手を差し出した
「綺麗にして下さいな?」
『……』
舐め取る…のは本末転倒、意味が無い
毛皮で拭かせる…のは、星自身が嫌悪した
ならば布団で…それも嫌だ
手拭い…うん、それが一番現実的だ
だが…
(なんだか…策にはめられた気分だ)
ボフンッ
「…どうぞ」
人の姿に戻った星の手には、机に畳んであった手拭いが
虎の口では汚してしまい、前足では傷付けてしまうので、人の手を使うしかなかった
「ありがとう」
今の聖が自分で手拭いを取りに行ってくれるとは思えないし
「ごめんなさいね星…人の姿にしてしまって…」
肩まで掛け布団に潜って横たわり、顔の前で一本一本指を拭う聖が詫びる
「ぃぇ、お気になさらず…」
…そもそも私は何で虎の姿に戻ったんだっけ?
あぁもう 分からん
星は聖の枕元で頭を抱えるしかない
「あの日の事よ」
「え…?」
蝋燭の灯りも途絶えて久しい暗闇の中、一瞬聖の双眸が黄金色に輝いて見えた
「あの日…私は貴女と出会い、人の…神仏の姿や、力や術を与えた …ぁあ勿論、毘沙門天様の御力添えもありましたけど」
生臭くなった手拭いを、聖はぼんやりと見つめていた
「でも、それさえ無ければ、貴女は虎として生きられたんじゃないか…虎らしく、牙や爪を剥く事を覚えられたんじゃないか、と 考えてしまいます」
「…私が腑抜けなのは何百年も前からですよ」
「昨日駄目でも明日には、去年駄目でも来年には、百年間駄目でも百一年目には…出来たかも知れない…」
手拭いを抱き締め、それを中心に縮み込む聖
「私は未来の貴方を…もしかしたら、本来の貴方を奪ってしまったのかも知れません…」
自己嫌悪に陥った美女と言うものは、何故こうも魅力的なのだろう
と、雌の星でも考えてしまった
「…仮にそうだったとしても 私はこれでよかったと、感謝しています」
虎として牙を剥けるか否か等、川底の石が流されて転がるか否か程度の下らない問題だ
「聖に出会い、貴女と共に目標に向かって努力し、踏み締めていったこの数年間は…これまでの数百年間など比較にもならない素晴らしいものでした きっと、これからも」
聖のしてくれた事は謂わば、川底から自分と言う小石を拾い上げ、磨き、杖や草履や笠の様に旅の友として共に様々な景色を見せてくれた様なものだった
その中で、石ころ風情が旅の役に立てたとはまるで思えないが
「弱虫だの臆病者だの言われた私が…まぁそこは直りませんでしたが、それでも人や妖怪や…その、聖の役に立てたとするならば きっと、天命だったのでしょう」
聖が顔を覗かせる
「毘沙門天としての勤めは…辛くない…?」
「澄まし顔でじっとしているのは慣れてますからね 私らしさは存分に活かせているかと」
苦笑混じりにおどけて応えれば、聖も釣られてクスクスと笑い、やはり釣られて星も笑う
嗚呼、なんだか…いいなぁ
「自分らしさ…かぁ」
ひとしきり笑い終えた聖は、縮み込まった姿勢を解いていた
「…星」
「なんです?」
「……やっぱり、いいわ」
「なんですかぁ、気になるじゃないですか」
「だって…こんな質問、貴女が困ってしまいます…」
「私で宜しければ、何なりと」
「でも…」
虎の自分は暗闇でも目が利く
掛け布団を胸元まで引き寄せる聖の仕草は、彼女らしくもない踏ん切りの弱さが見て取れた
聖がそんなだから、そして和やかな雰囲気に後押しされ、星は柄にも無く胸を張った
「立場上のみの事とは言え、私は貴女が崇拝する神仏です 悩みを聞いてあげるくらいの事はしてあげませんと、ね」
「……では…」
絞り出された返事と同じ位に頼りないおぼつかなさで、布団から手が延びた
私は無意識の内にそれを両手で受け取り
引き倒された
ボフッっと、布団の上に 聖の目の前に
「一緒に寝て下さいますか?毘沙門天様」
星を引き倒した手は、星の頬に添えられていた
(ッッッ謀られた…!!)
と言うより、からかわれた
目には映らずとも赤々と照る頬を庇う
「~~~、分かりまし、た…」
尻尾がへたり込む
抗う気力も敵う目算も無い
三度目の降伏である
「じゃあ、聖、中に…」
一人用の狭い布団に二人で収まる訳だが、これも聖の計算の内なのか否か
私の性格からして、如何に布団の主が私でも聖が夜の冷気に当たる事は許せない
故に、布団からはみ出した彼女の髪と背中を布団の中に抱き寄せてしまい
「 」
「っ…ふふっ、ありがとう」
自分でやっておいて、固まる
聖は聖で肩に手を置く形で鎖骨に額を寄せて来るしもうもうもう…
「…聖」
あぁもう、どうにでもなれ
「はあい?」
「……詩を、詠ってくれませんか?」
自棄になって口を突いて出たのは、本音だった
「子守唄ですか?」
「いえ、普段詠っている、あの」
「あぁ」
成程、と
「星は好き?あの詩」
「…はい 激しいながらも、切なくて」
「意味は分からないのでしょう?」
「はい… ですが、耳に心地好いので」
私の短い髪の毛先を弄る聖の表情は見えにくい
「それに…」
ここで「聖は意味を知っているのですか?」「知っているなら教えて下さい」等と聞くべき流れだろうに
「それに、あの詩を詠っている聖は、…ぁー、普段とはまた違う風に、楽しそう、と言うか 綺麗、で…」
このザマである
「っくふ、ふふ!、あははは…!」
そのザマが聖には大層面白かった様で、私の首に腕を回す勢いで私を布団の中に押し込み、胸に抱えた
童の様に無邪気な笑顔を見られたくなかったのだろうか
私は見たかった
「こほんっ … Reaper, reaper,That's what people call me. Why?'Cuz they all…♪」
普段は流暢に、ともすれば攻撃的にすら聴こえる調子の詩
今は子守唄として、小さく優しく緩やかに送られる
私の為だけに
耳を当てた聖の胸からは、若々しい心音や気道を通る空気も伝わる
見る事の出来ない聖の顔は、きっとあの目を瞑った美しい笑顔なのだろうと頭に浮かぶ
全身を、聖の体温に包まれる
「die♪」