【その昔?:野山】
『……』
自分が潜む…厳密には長い昼寝から目覚めた茂みの鼻先に、満月に照らされた野うさぎがいる それは分かる
野うさぎはこちらに背を向けていて無用心だ それも分かる
今飛び掛かれば、この牙と爪でもって野うさぎを晩御飯に変える事が出来る 多分
そして、虎である彼女にとって、そうする事こそが腹の虫を抑えるにあたり一番自然な事である そんな事は分かっている
しかし、出来ない
野うさぎが耳をピンッッと跳ね上げ、どこかに跳び跳ねて行く
『……』
今日も駄目だった
飢える度、渇く度、“獲物”を目にする度
やらなければ…殺して、喰べなければならないと思うのだが、出来ない
出来ずに、今日まで水と木の皮と野草で腹を満たしてきた
鼠が顔を掻く手つき 猪が鼻で地面を嗅ぐ唸り声 鹿が耳をそばだてる凛々しさ 狼が番(つが)いを呼ぶ声
見る度に、聞く度に、とても噛み殺す気にはなれなくなる
そうでなくても、その虎は争いそのものを好まなかった
縄張り争いや威嚇、じゃれ合う取っ組み合いすらも好まなかった
その殺気の無さは、先程の様にすぐ近くまで獲物が気付かず無用心に近寄って来る事も珍しくない程である
有り体に言えば、弱虫であった
牙を剥かない虎と言うのは泳げない魚や飛べない鳥と同じであると、彼女自身でも思っている
…飛ばない鳥もいたか
ともかく、そんな狩りも子育ても見張りも出来ない彼女を周囲の同族達も同種とすら見なさず、さりとて彼女も無抵抗な草や水があれば腹は満たせたので、自然と群を持たずに今日まで生きてきた
数百年を越える日々を
(…寝よう)
虎は住み処を持たなかった
今いるここがそのまま今宵の寝床だ
寝てしまえば腹も空かない 寝ている間に草木は育ち水も涌く やっかまれないし悪口も聞こえて来ない
冬の間中眠っていられる熊やカエルを羨みながら瞼が重くなり出す、そんな時だった
(…… )ピクッ
“ ”
(……ッ)
何か、近付いて来る
“……♪”
『…?』
寝床からゆっくり立ち上がる
争うのは嫌いだから、逃げる術だけは上達した
しかもその姿勢は人間や弱い生き物達には攻撃の前触れと区別がつかない様で、あわよくば相手の方から逃げていってくれた
その相手はまだ、茂みの向こう
“……,That's what people call me. Why? Cuz they all…die.When I sing, I end their lives. You act as♪”
(…詩?)
無駄に長い年月を生きた虎は、人語も大分理解出来る様になっていた
山に入り込む人間は狩人や農民、遭難者と少なくなく、そうした連中を陰からのんびり観察したものだ
だが、耳に入る言葉は聞いた事が無かった
どこの方言だ?
“though payback makes you a noble man. Is that a fact? Well, you're a goddamn philistine…♪”
(…なん、だ…?)
揺れる茂みを越え、女が現れた
見た事の無い金色の輝きを黒髪の先で振り撒き
見た事の無いヒラヒラのついた服をなびかせ
見た事の無い美しい美貌に
見た事の無い満面の笑みを浮かべ
聞いた事の無い言葉を詠っていた
さっき見た野うさぎを抱き抱えて
「Reaper, reaper,That's what people call me. Why? Cuz they all …♪」
ゆらゆらと夢見心地に揺れる頭とは対照的に女の歩調は淀む事無く雌の前まで進み、止まった
雌も、女を睨むでも嫌がるでもなく、正面から相対した そうしてしまった
詩が止んでも女の蕩ける様、しかし瞑想をするかの様な笑顔は崩れない
「……貴女、肉を食べられないそうですね?」
膝を曲げ、野うさぎを放す
野うさぎは恐る恐る女の前に座り、虎を見つめて鼻をヒクヒクさせる
当の虎はと言えば、野うさぎには目もくれずに女を見上げていた
女が明確に自分に向けて言葉を発した事が驚きであり、その驚きがどうでもよくなる程に甘やかな女の語り声に腰が抜けていた
「殺生や争いを好まず、ささやかな水や菜のみを糧にして、向けられる悪意も赦した…」
彼女は何を言っているのか 何故それを私に言うのか 彼女は 彼女は
「それが結果的に貴女に長命を与え、長命の中で知性を得た…」
女は野うさぎを踏まない様に歩を更に進め、虎に近寄る
前述の通り、有り体に言って虎は弱虫だった
それでも狩人や賊程度なら見慣れたもので、適当に怯えた振りをして煙に巻く位の知識もあった
本当に恐いのは、明確に敵意を示す同族くらいだった
だが、この女は分からなかった
虎に人語で話し掛けながら無防備に歩み寄ると言う、人獣を問わず非常識な事をやってのけている
彼女のその揺らがない笑みはある種恐ろしくもあり
その恐ろしさを遥かに越えて、すがりたくなるものがあった
「貴女なら…貴女にこそ、出来る事がある」
そうして虎が襲う事も逃げる事も出来ずにいる内に、女は眼前まで迫っていた
四本足で立てば、頭は女のへそに位置する身長差
だが、雌が女を見上げ、女が身を屈める事で、女の唇が虎の鼻先に触れそうな距離まで縮まる
「貴女こそ仏門の手本であり象徴…」
その僅な距離を、女は雌の頭を両手で包んで持ち上げる事で飛び越えた
「寅丸…寅丸、星…」
降り注ぐ吐息の熱で、頭が融けるかと思った
「私と一緒に…来て欲しいの」
草木とも違う、清流とも違う、野原に転がる血塗れの死体とも違う、傷付けられ流した自分の血とも違う
今だかつて嗅いだ事の無い激しい、しかし優しい匂いと感触が、鼻先から頭蓋の裏側を伝って背骨を撫で上げた
「Well,you're a goddamn philistine…♪」
人間で言えば禁欲的修行とも言える生活を無意識に続けていた雌は、腹の奥から広がる初めての熱さに凄まじい早さで頭を焼かれた
次の朝日を見る頃には、このやり取りが夢か現か区別がつかなくなる程度には焼かれていた
そんな頭で、聞いた事の無い詩の意味が分かる弾も無い
無かったが この詩に、ついて行きたかった
その想いだけは、刻印の様に強く焼けついた
どうしようも無い位に