そんなこんなで平和でハートフルな命蓮寺を後にしたゆかりんは、もう苺レベルも相当上がったからラスボスと戦っちゃってもいいんじゃないかなと思い、スキマの中を移動していた。
「嘘だけど」
呟いて、紫はスキマから顔を出した。
ラスボスには簡単に辿り着けるが、まだサブイベントを充分にこなしていない。
ラスボスがいるダンジョンへ行くにはまだ時期少々だ。
「さて……」
辺りを見回す。紫がスキマを開いたのは、何も無い空だった。
手を伸ばして見つけた結界の綻びをちょちょいと修復し、またスキマを別に場所に開いて結界の修復をしていく。苺牛乳のお陰で胃の中がちゃぷちゃぷ言っているような気がしたが、もう気にしたら負けということにしておいた。
「……幽々子はどうしているかしら?」
結界の綻びを修復しながら、紫は白玉楼に向かっていた。命蓮寺でさえあんな状態だったのだから、旧友の所はどうだろうと思ったのだ。
紫は幽明結界が人為的に綻んでいたのを発見し、白玉楼も無事じゃなさそうだなと推測しながら結界を引き直し、白玉楼へとスキマを開いた。
「……やっぱりねぇ」
紫は溜息混じりに呟いて、白玉楼の庭に降り立った。
予想通り、白玉楼も被害に見舞われていた。屋敷に損壊はないようだが、白玉楼自慢の美しい庭園が台無しになっていた。時の間隙を優雅に醸し出す鹿威しの音色響く泉も、桜舞い散る優美な枯山水も、風の囀るような歌声が聞こえる静かな橋と道も、何もかもが薙ぎ倒されたり吹き飛んだりと、グチャグチャになっていた。
「酷いわね……」
雪月花が映える美しい庭園のあまりの惨状に、紫は悲しそうに嘆く。
そんな中でも桜の木だけはどれも無事らしく、その花弁だけが紫の心をそっと慰めた。
「紫様……?」
微かに笑みを漏らしていると、後ろから声が届く。
今日は驚かれてばかりだなと苦笑しながら、振り返る。そこには、荒れ果てた庭を見て一番傷付いているであろう庭師の少女。妖夢は頬や手や指先に絆創膏を貼り、左腕を包帯で吊っているという痛ましい格好で、呆然とした様子で立っていた。真っ直ぐな光を灯した蒼天の瞳が、予想外の唐突な出来事に揺らいでいる。
「なっ、ぇ……ほ、本物!?」
疑われたのは初めてだ。紫は頬笑みを浮かべるが、少々意地悪をしたくなって問うてみたくなった。
「貴女はどっちが良いかしら?」
「……え?」
扇子を広げて口許の笑みを隠して尋ねると、妖夢は一瞬狼狽を見せたが、直ぐにぴしっと背を伸ばして答えた。
「どっちって、そんなの本物が良いに決まっています」
「なら、もし偽物の場合は?」
妖夢は脇に差している刀の柄を右手で掴み、足を軽く開き、構える。その、冗談の通じぬあまりの愚直さに、紫は逆に吹き出してしまった。
「なっ! わ、笑わないで下さいっ!」
「ごめんなさい。だって真に受けるんですもの」
ころころと笑う紫に、妖夢は頬を真っ赤に染めて顔を背けた。
「でも、それが貴女の良い所ですわ」
「もう、いっつもそうやってからかうんですから」
むくれる妖夢にまた紫はころころと笑う。素直じゃない子も可愛いが、こういう風に素直な子も可愛らしい。
紫は再び「ごめんなさい」と軽い調子で言い、その頭をくしゃりと撫で。
「ゆかりぃ!」
ようとしたら、もうお約束のようにタックルを喰らった。
紫は小さく悲鳴を上げながら、タックルされた勢いに因って横に数メートルずれた地点で倒れた。
「ゆ、幽々子!?」
紫は咎めるようにその名を呼ぶ。
ふわふわした桜色の髪を風に遊ばせ、血で染め上げられた桜の花弁のような瞳を持った亡霊、幽々子は紫の上で「おはよう」と呑気に挨拶をし、紫の首に両腕を絡ませて抱き付く。
「もう、今年は遅かったじゃない。起きてくれないかと思ったわ」
「それは悪かったけ」
最後まで言いきる前に幽々子の唇が接近してきたので、慌てて紫は顔の角度を変えた。
幽々子の唇がちゅぅっと音を立てて頬に吸い付く。
「もぉ、避けちゃダメ」
「いや、避けるでしょ」
「じゃあもう一回」
「ちょっ」
再びちゅっと迫って来る幽々子のふっくらした唇。紫は素早く顔の角度を変えて、今度は逆のほっぺにキスを頂戴した。
幽々子は「もぉ、ケチ」とくすくす笑いつつ、でもやめてくれない。回避する事には成功するが、結果的に顔中にキスされるという風になってしまった。
(妖夢が見てるから! 物凄いジト目で見てるから! なんか刀に手が伸びてるから! このままだとゆかりん斬られちゃうから! ちょっ、ダメぇ!)
妖夢の刀を握る手がふるふると震えている。
ゆかりんもふるふると首を振って幽々子のちゅぅから逃れる。
紫はなんとか隙を見つけてぐっと上体を起こした。
「もう、ふざけないの」
「ふざけてないわよ?」
ふふっと嬉しそうに笑って、幽々子は唇に触れるか触れないかという位置にちゅっと口付けて来た。
唇を絶妙にグレイズするキスに、妖夢は衝動的に刀を抜こうとして、しかし奥歯を噛み締めてぐっと堪える。
プルプルと震える妖夢の肩を見て、紫は冷や汗を背中に流した。
簡単に死にはしないが、何処かを切断されればそれ相応に痛みは感じるわけで。幽々子の元気な姿も確認出来たし、痛いの嫌なので、紫は早々に此処から立ち去ろうと決めた。
「まぁ、そう急がないで。お茶でも飲んで行って?」
が、やはりそうは問屋が卸さないらしい。長い付き合いの為か、思考を読まれていた。断ろうとも思ったが、その前に「だめ?」と上目遣いでお願いをされて。
「……分かったわ」
気付けば了承していた。この亡霊にに甘過ぎる自分がかなり憎らしい。
紫の言葉に幽々子は嬉しそうに笑みを漏らし、「美味しいお菓子もあるのよ」と付け加えた。
嫌な予感しかしなくて、もう紫は笑うしかなった。
* * * * *
妖夢は仕事がたんまりとあるので泣く泣く同席出来ず、紫と幽々子は桜の花が一望できる白玉楼の一室にいた。
幽々子の入れた緑茶を飲み、漸く一息つく紫。口の中が緑茶の渋みで満たされる心地よさに、自然と安堵の吐息が漏れた。
「ふふ。その分じゃ、ここに来るまでに余程酷い目にあったのね」
「別に酷い目には遭ってないけれどね」
紫の顔を眺めながら楽しそうに笑う幽々子に、紫は曖昧な笑みを返す。
「これからまだ行く所があるんでしょう?」
お茶をもう一口含む。
胃がちゃぷちゃぷしていたが、苦笑の形に歪めた口許を隠す為にはそうするしかなった。
「幻想郷中が大変な事になってるわよ」
「そのようね」
「ふふ。どうするの?」
「あら、どういう意味で?」
「ん~。犯人の処遇について、かしら……」
幽々子はにっこりと寒々しい笑みを浮かべる。
普段のふわふわしたようなものではなく、亡霊らしさが滲み出る笑みだった。
「貴女の愛する幻想郷を傷付けたのよ? なのに、何も罰は与えないの?」
『罰』という言葉に紫は目を伏せて、苦笑と自嘲が入り混じった微かな笑みを浮かべた。
「罰を受けているのは私でしょう」
幽々子の静かな気配に怒気が孕まれた事を感じたが、紫は訂正などしない。
ただ静かに、よそ風に乗って巡る春の息吹に目を閉じる。
「いつもそうなのよね……何故か、最後には泣かせてしまうの……」
いつもいつも、最後には。
大切にしているつもりなのに。
優しくしているつもりなのに。
笑って欲しいのに。
なのに、何故だか最後には泣かせてしまう。
(幽々子も……その内の一人、ね……)
妖怪桜が植えられている方角へと顔をそっと向ける。
結局最期に泣かせてしまった女の子を想う。
「妖怪のクセに、そうやって優し過ぎるからじゃない。だから……最後に泣くのよ……」
「そうかしら……」
紫は顔の向きはそのままに、静かな怒気を孕んだ幽々子の言葉に薄く笑った。
最後に泣くのが自分ならまだいい。
痛みに耐える事には慣れ切っているから。
でも、泣かれるのは困る。
しかもそれが最後では、何も打つ手が無い。
「もぉっ」
幽々子は憤った様子で頬を膨らますと、立ち上がって紫の正面へと移動し、そのまま抱き付いた。
「ほんと……はぁ。頭良いのに、どうしてそんなにおバカちゃんなの?」
「酷い言い草ね」
「だってそうじゃない。結局ね、貴女が優し過ぎるから……みんな最後に泣くのよ」
「そう言われてもねぇ……」
だって、大切だから。
大切なものは傷つけたくないから大事にしたくなって、だから優しくしたくなる。
愛しいから笑って欲しくなる。
でも上手くいかない。
最後には、みんな泣いてしまう。
「解ってないんだから……」
幽々子は紫の頬を包み込み、視線を合わせる。
紫は困った顔をしていて、幽々子は怒った顔をしていた。
「貴女が泣くから、みんな泣くのよ?」
「私は泣いてなどいないでしょう?」
「悲しんでいるという自覚を意図的に無視するからいけないの」
「悲しくないもの」
「嘘つき」
「嘘つきではあるわね」
へらへらと笑う紫に、幽々子はごちっと頭突きをしてそのふざけた笑みを奪う。
そうして幽々子は、痛がる紫の紅くなった額へ、そっと唇を寄せた。
「もういいわ。そんなに言うなら幻想郷中を回って、とことん罰ゲームを受けて来なさい」
幽々子は「はい。というわけで罰ゲーム♪」なんて妙に楽しそうな笑みを浮かべて、盆に乗った和菓子を手に取った。
それはヒヨコ色の包装紙で包まれた大福サイズのもので。嫌な予感をひしひしと感じていると、包みの中から顔出したのは白い薄い餅皮に包まれた、柔らかそうな大福だった。
「うっ……もしかして、苺大福ですか?」
「はずれ。これはミルク苺大福です」
紫は顔を引き攣らせる。
今幽々子の手の平に乗っている菓子は、永遠亭で食べた苺大福よりも明らかに強敵そうだった。
「餡子の代わりにミルククリームが使われている苺大福なの。たまにはこういうのも良いでしょう?」
「そーねー」
思わず言葉が棒読みになってしまう。
そのミルク苺大福とやらは、幽々子が指で摘まんで持ち上げただけで重力に負け、にょんっと垂れる。
「はい、あーん」
「……ぅ」
口許に運ばれるが、素直に口を開けない。
もう甘いもの苦手とかそんな事の前にお腹いっぱいで。というか元来小食だし。一日食べなくたってお腹なんか減らないくらいには燃費が良いのに。
「罰ゲームなんでしょう?」
「……うぅっ」
幽々子が楽しそうに笑っているが、紫は涙目だった。
唇に柔らかい餅皮がふにょっと押し付けられる。
紫は涙を堪えながら、口をほんの少しだけ開いてミルク苺大福を小さく齧った。
「ぅ……っ……」
甘い。とろりとした舌触りのミルククリームが、口内の温度で溶けて行く。
あんまりな甘さに、堪えた筈の涙が零れそうになる。
「ほーら。頑張って?」
可愛く小首を傾げて応援してくる幽々子。可愛らしいのに何故だか物凄く意地悪に見える。
紫はごくりと大袈裟に喉を動かして、少量口に含んだミルク苺大福を飲み込み、またゆっくりと口を少しだけ開いて齧り付いた。
「……甘ぃ」
ぐすんと鼻を鳴らす紫に、幽々子は「貴女の方が甘そうよ?」といって、ちょっと無理矢理大福を紫の口に半分程差し入れた。
「もがっ?」
口から半分出ている大福が重力に負けてにょんと垂れ下がる。その垂れ下がった方を幽々子が舌先で持ち上げて、ぱくりと食んだ。
唇との距離は一ミリもない、触れるか触れないかの距離まで接近して、幽々子は大福を噛み切って顔を離した。
「ちょっと可哀想だったから、お手伝い」
茶目っ気混じりに笑い、幽々子は自身の唇についたクリームを指先で拭う。紫は大福を銜えたまま、口ではなく目で苦笑した。
銜えたままの大福から白いクリームが垂れて、口の端を汚していく。紫は半身になった大福を口の中に含み、顎を緩慢に動かした。
「ほら、付いてる。やらしいわよ?」
口の中がいっぱいなのでしゃべれない。
それを良い事に、幽々子は紫の唇を指先で撫でるように拭って、ペロリと美味しそうに舐めた。
紫はまた、喉を大袈裟に動かして大福を飲み込んだ。
「やらしく見えるのは、幽々子がやらしい事を考えているからでしょう?」
「違うわ。紫がそう見せてるの」
幽々子は妖しく笑って、紫の首に腕を絡める。
紫は困ったような微笑を浮かべるだけで、抵抗はしなかった。
「私ね、ちょっと怒ってるのよ?」
「あら、怒らせたかしら?」
とぼけると、頬をむにっと抓まれた。
「さっきの事柄はね、原因としては半分なの」
「半分?」
「そう。もう半分はね……」
幽々子はそこで言葉を切って、紫の鎖骨に鼻先を埋めた。
「紫ったら、寝てても起きててもこの世界の事と……あの子の事ばっかりなんだもの……」
紫の匂いを確かめるように、温もりを味わうように、幽々子は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
「……私も寂しかったのよ?」
そうして、上目遣いでちらっと見上げて来た。
拗ねているような眼差しを愛しいと思って、でも紫はそのふわふわの髪を撫でてあげるくらいしか出来なくて。
後は困ったように笑って、名前を呼んであげる事しか出来なかった。