『第三話』
「館を、建て替えようと思うの」
お昼の食卓で、素麺をつゆに浸しながら阿梨夜は切り出した。
開け放たれた雨戸からは、涼やかな山の風が吹き抜けていく。
「館……って、えっ? この館?」
口元まで運んでいた箸が止まった。
あまりに唐突で、頭が追い付かない。
「えっ、だってこんな立派なお屋敷……いつの時代の建物なのよ」
「そうね、あれは……」
阿梨夜は、少し考える。
「四百年くらい前かしらね」
「よ……」
予想を軽く超えた数字に、言葉が途切れる。
思えば、この館は不思議な建物だった。
きっと長い年月を重ねてきたのだろうと思わせる、落ち着いた木肌の風合い。
それなのに、その造りには妙なほど歪みがない。
古い建物なら、反りや軋み、あるいは僅かな傾きがあっても不思議ではないはずなのに。
来たばかりの頃、まるで時代劇の中に迷い込んだようだと思ったのは、それも理由のひとつだったのかもしれない。
余程の職人技によるものなのか。
それとも、阿梨夜という神が住む家だからこその加護なのか。
あるいは、その両方なのかもしれない。
その奇跡のような建物を、家主である女神は当然のことのように建て替えると言う。
「いやいやいや」
考えるより先に、否定の言葉が口をついて出た。
「えっ、駄目でしょ」
そう言ってから、自分でも戸惑う。
何に対して駄目なのか、上手く説明できない。
「だって、そんな……ほら、勿体ないし」
「今時の家屋は、随分と過ごしやすくなったと聞いてるわ」
淡々とした声だった。
そこに迷いはない。
「この館は……今の時期は過ごしやすいけど、冬は大層冷え込むの」
「ユイだって、今年の冬は随分と寒そうにしてたじゃない」
「うっ……」
それを言われると、何も言い返せない。
そうなのだ。
雪の深い間は狩猟も休みということもあり、随分な日々を布団の中でごろごろして過ごしてしまった。
流石にこれから先、毎年あの様では困るとは自分でも思うのだが──
「……それでも」
少し迷うように、言葉を続ける。
「この館が無くなっちゃうのは、私は嫌だな……」
暮らし始めてから、まだ一年にも満たない新たな住処。
そんな場所に、気付けば自分でも驚くほどの愛着が湧いていた。
「……」
阿梨夜は、私を見つめたまましばらく沈黙する。
「分かったわ」
「寒さ対策は、別の方法を考えましょう」
そして意外なほどあっさり、そう言った。
「こう……ひとつの部屋に火鉢を集めるとか……」
「以前、似たようなことは試したけど、どうにもすぐに熱が逃げてしまうみたい」
昼食を終えた後の、いつもならふたりでのんびりと過ごす時間。
私と彼女は、館の寒さ対策についての話し合いをしていた。
しかし、これといったアイディアと言うと中々浮かばない物だ。
「そういえば……」
ああでもないこうでもないと考えるうちに、ふと気になったことを尋ねてみる。
「建て替えるって言っても、その間住む場所はどうするつもりだったの?」
「……?」
阿梨夜は不思議そうな顔をする。
「空いている場所に新しい家を作って、完成したらこちらを壊すつもりだったけど」
「……」「……」
「……あれっ、それならもしかして、この館べつに壊す必要もなかったんじゃ……」
「……」
阿梨夜は考え込む。
「……そうね」
「そうなの!?」
「確かに壊す必要はなかったわ」
「今気付いたの!?」
「ええ」
頭を抱える。
この人、本気だった。
本気で、「新しい家ができたら古い方を壊すもの」くらいの感覚で考えていた。
そこに土地の制約もなければ、古い家を残すという発想自体、今までなかったのだ。
「……そうだ」
ひとつ、思いついて私は顔を上げた。
「それならさ、冬を過ごす用に小さな家を建てるのはどうかな」
「ちいさないえ」
「この館が寒いのって、やっぱり広すぎるからかなって思うんだよね」
「……なるほど」
阿梨夜は館の中を見回す。
十近くもある部屋の多くは、今では使われていない。
廊下も長い。
確かに暖めるには非効率だ。
「ユイの言う通りかもしれないわね」
「……あっ!」
不意に、あるアイディアが頭に浮かぶ。
「それじゃあさ!」
思わず、顔が綻ぶ。
「ログハウス!」
「それならログハウスがいい!」
「ろぐはうす」
阿梨夜は聞き慣れない言葉を口の中で転がすように復唱した。
「はい!」
思わず身を乗り出してしまう。
「丸太で作る家! 山小屋みたいなやつ!」
「なるほど」
阿梨夜は頷く。
頷くのだが、どうにも分かっている顔には見えない。
「ええとね、こう……」
近くにあった紙を引き寄せ、鉛筆を走らせる。
三角屋根。
煙突。
丸太の壁。
我ながら恐ろしく雑な絵だ。
「こういう感じ!」
「へぇ」
阿梨夜は紙を覗き込む。
「なるほど。丸木をそのまま壁にするのね」
「そう!」
「薪ストーブも欲しい!」
「まきすとーぶ」
「鉄で出来ててね! 温かいの!」
「なるほど」
「あとねあとね、部屋にはね──」
そうやってユイが語るうちに、新居のイメージは少しずつ形を帯び始めていた。
冬の雪に備えた丈夫な造り。
ふたりで過ごす、小さなリビングの中心には薪ストーブ。
傍らにはダイニングとキッチン。
ストーブの熱が二階まで行き渡るよう、大きな吹き抜け。
二階の寝室には、ふたりで寝られる大きなベッド。
身支度をしやすい、広めの玄関。
ログハウスの傍らには、獲物を解体するための小屋。
井戸小屋の冷凍庫も、こちらへ運んでしまうのもいいかもしれない。
それから、銃や弾薬を管理する保管室。
だんだんと新居のイメージが膨らんできたが。
これは家というより──
「……あれ?」
「どうかしたの?」
設計について語っていたユイが、ふと言葉を止める。
「私たち今、家の話してたよね?」
「ええ」
手元に出来上がったメモを見返す。
「なんか、途中から狩猟小屋みたいになってない?」
阿梨夜はしばらく考え込む。
「けど」
真顔で言った。
「ユイは嬉しそうだったわよ」
「うっ」
反論できない。
確かに途中からかなり楽しくなっていた。
「……別にいいけど」
小さくそう呟くと、阿梨夜は少しだけ目を細める。
「だったら、それで良いのよ」
家の形そのものには、彼女はあまり頓着していないのだろう。
豪華である必要もない。
立派である必要もない。
ただ──
ユイが気に入って、
ユイが快適に過ごせて、
ユイが好きなことを続けられる場所であればいい。
「……あ」
ふと、ユイはあることに気付く。
「じゃあさ」
「ええ」
「阿梨夜はどんな家がいいの?」
その問いに、阿梨夜は珍しくすぐには答えなかった。
長い沈黙の後。
「貴方が居る家よ」
当たり前のことを言うような口調だった。
「……それじゃ答えになってないでしょ」
そう言いながらも、ユイの頬は少し赤くなっていた。
夏が、終わりを迎える。
心地よかった山風も、日を追うごとにその冷たさを増していく。
阿梨夜によると、基礎の工事も終わり、今日から本格的にログハウスの組み立てが始まるらしい。
場所を聞けば、すぐ裏手の森の中だという。
いつの間に、そこまで話が進んでいたのだろう。
(村の大工さんでも呼んだのかな)
顔を合わせるのは不味い。
そうは思うものの、やはり気になってしまう。
結局、私はこっそりと現場を見に行くことにした。
すると──
「この丸太ぁどこにやればええんじゃ」「おい酒はまだか」
そこで目にしたのは、くたびれた着物や獣の毛皮を身に纏ったお婆さんたちだった。
何本もの丸太を軽々と担ぎ、慣れた様子で作業を進めている。
どう見ても、見た目だけならただの痩せぎすの老婆たちだ。
ただし──
その力だけは、とても人のものとは思えなかった。
「……え?」
現実離れした光景に自分の目を疑っていると、その中にひとりだけ、若い女がいることに気付いた。
若いと言っても。二十代や三十代という意味ではない。
ただ、他の老婆たちと比べれば明らかに若い。
背筋は真っ直ぐに伸び、腕にはしっかりと筋肉が付いている。
「ああ、ヨネさん。それは一旦こっちに積んで」
「タエさん、もうちっと我慢しとくれよ。ほらほら、そこの袋運んで」
周囲へ次々と指示を飛ばしながら、女は自らもチェーンソーを吹かす。
そして奇妙なことに、怪力の老婆たちもその女に素直に従っていた。
(棟梁……?)
いや、違う。
何かが違う。
(この人……)
何者なんだろう。
そう思った瞬間。
ふと、チェーンソーの音が止まった。
それまで忙しなく動いていた現場が、ほんの一瞬だけ静かになる。
そして──
女がこちらを振り向いた。
紫の瞳。
人の世では滅多に見かけることのないそれに、心臓が跳ねる。
女は一瞬だけ目を丸くし、それからにやりと口角を上げた。
「へぇ、あんたが新しい嫁御さんかい」
チェーンソーを傍らに置くと、女はユイへと向き直る。
「よめごって……」
ユイが戸惑いの声を漏らす。
しかし女は、構うことなくずんずんと近付いてくる。
「あっ、あの……」
女はユイの顔をじろじろと眺めると、ひと言だけぽつりと零す。
「あの面食いが」
「えっ?」
めんくい、って……面食い?
急に何の話なのだろう。
そんなユイの困惑をよそに、女は続ける。
「毎度毎度、別嬪の娘ばっかり攫って来るんだからな、あの主さんと来たら」
やれやれとでもいった風に、女は肩を竦める。
ぬしさん。主さんってもしかして──
「えっ、まさか阿梨夜の話してます?」
「他に誰が居るっていうんだい」
「あんたは知らないかもしれないが、あの人が囲った娘はあんたが初めてじゃないんだ」
「それも、みぃんな別嬪のお嬢さんと来たもんだ」
「いや、それは知ってます」
思わずそう返してしまう。
「知ってるのかい」
「うん……」
知っている。少なくとも、ひとりは。
ひい爺ちゃんのお姉さん。
そして──
恐らく、それだけではないことも。
「知ってて『それ』なら、もう手の付けようもないねぇ」
「あの人も、普段は真面目なお人なのに、どうにも女好きだけは筋金入りで困ったもんだよ」
女はそうは言うが、その声音には咎めるような色はなく、楽しげですらあった。
しかし、だからといって黙って聞いているわけにもいかなかった。
「面食いとか女好きとか……阿梨夜はそんなのじゃないです!」
「はー……」
殊更に深い息を吐き、女は続ける。
「毎度同じこと言うんだよなぁ、嫁御さんたち」
「まったく、主さんときたらどんな手でたらしこんでるんだか」
「たらしこんでません!」
ユイが声を張りあげると、女は腹を抱えるように笑い出した。
そこでようやく、ユイも気付いた。
この女は、最初から自分をからかっていたのだと。
「ところであの……皆さん何者なんですか?」
大工さん? と聞きたい気持ちは胸に留めた。
「私らは山姥だよ。聞いたことない?」
女は当たり前のように言った。
まるで「大工だよ」とか「猟師だよ」とか、その程度の話でもするように。
「山姥って……」
思わず聞き返す。
「昔話とかに出てくる、あの山姥?」
「そうそう」
女は頷く。
「人を食べるとか」
「食わない」
「赤ん坊を攫うとか」
「攫わない」
「旅人を騙すとか」
「面倒だからやらない」
即答だった。
「いやでも……」
思わず周囲を見る。
丸太を担ぐ老婆。
石を運ぶ老婆。
屋根の梁に飛び乗る老婆。
どう考えても人間ではない。
「まあ、人間じゃないのは合ってるけどね」
女は苦笑した。
「昔の人間が、随分と尾ひれを付けたもんさ」
「尾ひれ……」
「人食いだの、ずる賢いだの」
「まあ、全部嘘って訳でもないんだけど」
女はそう言ってにやりと笑う。
「どっちなの」
思わず突っ込んでしまった。
「さあ?」
女は肩を竦める。
「人間だって色んなのが居るだろ」
「それと同じさ」
「あら、ユイも来ていたのね」
いつからそこにいたのか。
振り返ると、阿梨夜が立っていた。
背には、風呂敷に包まれた大きな荷物を背負っている。
差し入れだろうか。
「主さん!」
先ほどの若い女が声を上げる。
「あんた、また大層な別嬪さん捕まえて来たもんだな!」
「この面食いめ」
「面食いじゃないわ」
即答だった。
「捕まえて来たって方も否定してよ」
思わず言ってしまう。
「違うのかい?」
女はにやにやしている。
「違います!」
阿梨夜は頷いた。
「ユイは自分で山へ来たの」
「捕まえてないねぇ」
「捕まえてないな」
「自分から来たのか」
いつの間にか集まって来た山姥たちがうんうん頷く。
「なお悪いじゃないか」
「なんで!?」
思わず叫ぶ。
「だってあんた」
紫の瞳の女がくるりと振り向く。
「攫われたなら、まだ言い訳が立つだろう?」
「何、言い訳って!?」
「神隠しに遭いました」
「妖に騙されました」
「山の主に攫われました」
言いながら、女は私の周りをゆっくりと歩いて行く。
「まあ、どれも昔話としてはよくある話だ」
背後に回る女を、私も振り返って見据える。
「けどねぇ」
女はそこで指を一本立てる。
「自分から山へ入って」
「主さん見付けて」
「帰らずにそのまま嫁になりました」
「……」
「どう見ても本人の意思じゃないか」
「うっ」
反論できない。
できないのだ。
だって実際そうだった。
「いやでも!」
「でも?」
「その……色々あったし!」
「一日で?」
「……」
「一日で」
周囲の山姥たちが一斉に頷く。
「早いねぇ」
「早かったなぁ」
「歴代でも結構早い方だ」
「やめて! 早いとか言うの!!」
「というか! なんで知ってるの!?」
「なんでって、そりゃあ……」
女が視線を向けた先には、何時ものように涼やかな顔をした阿梨夜が居た。
まさか──
「いやね、私らも新しい娘御が山に来たのは分かってたからさ」
「主さんに会った時に、どんな調子か聞いてみたんだよ」
女は芝居がかった調子で続ける。
「そしたらまあ、出会った日の夜には嫁にしたって話じゃないか!」
「夜って……」
顔が、熱くなるのを感じる。
そんなことまで話したの? 本当に???
「そういう言い方はしてない」
私の焦りを知ってか知らずか、阿梨夜が淡々と訂正に入る。
「似たようなもんだろ」
女は、にんまりと笑った。
その笑顔を見て、嫌な予感がする。
「ど、どんな言い方したの……?」
思わず声を潜めながら、私は阿梨夜の顔を伺った。
「……」
阿梨夜は、記憶を手繰るかのように黙り込んだ。
その数秒が、妙に長く感じられる。
「出会った日の夜、『貴方のことが知りたい』と言ってくれたことを話したと思う」
ようやく沈黙を破って、阿梨夜はそう告げた。
──言った。確かに言った。
脳裏に、あの夜のことがまざまざと甦る。
あの時、阿梨夜もまた、私のことを知りたいと言ってくれて、それから──
えっ。
あれを話したの……?
「やけに浮かれた調子でな」
固まるユイを横目に、女が茶々を入れる。
「いやー、何十年ぶりだったろうね。あんな主さん」
「うぅ……」
けらけらと笑う山姥たちと、平気な顔で立つ阿梨夜。
その間で、ユイだけが羞恥に身を縮めていた。
「彼女はウバメ、山姥たちの頭目よ」
ユイがなんとか落ち着きを取り戻した頃、阿梨夜が紫の瞳の女を紹介する。
「頭目って言ったって、一番古くからこの山に棲んでるってだけだけどね」
ウバメと呼ばれた女は、からからと笑いながら補足する。
見た目は若く見えるのに、一番の古株なのか。
情報のちぐはぐさに混乱してしまいそうになる。
「よろしくなぁ、嫁御さん」
「よ、よろしくお願いします」
嫁御さん、という呼び方には引っかかるものがあったが、挨拶には応じる。
「それはそうと主さん、例のあれ、忘れちゃいないだろうね」
「あれ?」
そうユイが聞き返すと、阿梨夜は黙って背にした荷物をほどきだす。
風呂敷の中から現れたのは、細長い瓶。
一本。
二本。
三本。
まだ出てくる。
お酒だ。
それも、どうやら安物ではなさそうだ。
お酒を飲めるようになったばかりの私でも、それくらいは分かった。
「みんなぁ! 一旦休みだ休み! 酒の時間だよ!」
「へっへっへ」
「いやー、主さんの選ぶ酒に外れは無いねぇ」
どこに隠し持っていたのか、各々椀だの杯だのを持ち出して山姥たちが集まってくる。
気付けば建築現場は、あっと言う間に宴会場へと早変わりしてしまった。
──まだ建設の途中なんだよね……?
休みの時間とはいえ、完全に飲みの姿勢に入った山姥たちをユイは不安気に見つめる。
「大丈夫よ」
そんなユイに、阿梨夜は使い慣れた湯呑みを手渡す。
「彼女たちは、腕は確かだから」
「あの館も、建てたのはウバメたちよ」
「えっ」
「えええええっ!?」
ユイの驚きの叫びに、山姥たちが怪訝な顔で振り向いた。
酒盛りの最中。
丸太の上や資材の山に腰を下ろし、山姥たちは椀を片手に好き勝手喋っている。
「昔はねぇ」
白髪の老婆が酒をあおる。
「麓に下りて畑仕事でも手伝えば、酒だの饅頭だの分けてくれる気前のいい人間が居たもんだが」
引き継ぐように、他の老婆が続ける。
「今時、そうそうわしらが人里に出るわけにゃいかんからな」
「だからこうして、主さんが酒や食いもんなんかを持ってきてくれるのはありがたくてねぇ」
ウバメが椀を傾ける。
「それで時たま、こうやって人手を貸しとるわけさ」
「彼女たちには、昔から助けられてるの」
「助けられてるのはお互いさまさ」
ウバメは鼻で笑う。
「主さんが居なきゃ、わしらもこんな気楽に山に居られないからねぇ」
その言葉に、周囲の山姥たちがうんうん頷く。
「ここの山姥は、いつかの時期に余所からこの山に移り住んで来たやつが多くてね」
「あの頃は山姥が棲めるような、人間の畏れが残るような山がどんどん減っていってな」
「まあ、そんな訳だから、主さんの女好きも正直ありがたい所はあるのさ」
ウバメがにやりと笑うと、山姥たちからどっと笑いが起きた。
「……阿梨夜は女好きなんかじゃありません!」
だってそれ、みんな「私」だし。
と、いっそ言えてしまえたら良かったのだけど。
──最初の「彼女」も、鹿狩りが好きだったって言ったっけ。
ちらりと、阿梨夜の横顔を伺う。
一体どれほどの昔から、この関係は続いているのだろう。
──人間たちの間では「醜く嫉妬深い女神」などと語られる彼女も、
山姥たちにかかれば「面食いで女好きの主さん」か。
山への畏れ。私のように、山へ消える娘が出る度に、村人たちはそれを思い出して来たのだろう。
ユイはいつかのひい爺ちゃんの、震える様子を思い出していた。
他の会員たちに呆れられながらも、必死に私を山から遠ざけようとしたひい爺ちゃん。
「……」
視線を落とす。
酒盛りの輪の中心では、山姥たちが相変わらず騒いでいる。
「前の嫁御さんは、もっとしおらしい子だったねぇ」
「そうじゃったそうじゃった」
「主さんと手を繋いだだけで真っ赤になったりの」
「別嬪なのは同じじゃがな」
どっと笑いが起こる。
その光景は、あまりにも平和だった。
だが──
村人たちから見れば違う。
娘がひとり山へ入った。
帰って来なかった。
理由は分からない。
生きているのかも分からない。
会うことも出来ない。
残された側に見えるのは、ただ「山に奪われた」という事実だけだ。
ひい爺ちゃんも、きっとそうだった。
姉が消えた。
神に連れて行かれた。
二度と帰らなかった。
その事実だけが、何十年も胸の中に残り続けた。
ユイは湯呑みの中を見つめる。
揺れる酒が、淡い光を映していた。
(……きっと、私も同じなんだよね)
自分で山へ入った。
自分で阿梨夜の傍に留まった。
誰かに攫われたわけでも、騙されたわけでもない。
それでも──
残された人間の胸に残るのは、「山に奪われた」という事実だけだ。
ひい爺ちゃんが震える声で私を引き留めようとした理由が、今なら分かるような気がした。
「……どうかしたの?」
ふいに声が降る。
顔を上げると、阿梨夜が静かにこちらを見ていた。
「……ううん」
ユイは小さく首を振った。
「ちょっと、考えごとしてただけ」
阿梨夜は何も聞かず、ただ隣に腰を下ろす。
山姥たちの笑い声が風に混じって響く中、ユイはそっと阿梨夜の肩に自分の肩を寄せた。
人間が語る女神も、山姥たちが語る主さんも、どちらも間違ってはいないのだろう。
ただ、今の私が知っている阿梨夜は──
そのどちらよりも、ずっと温かい。
「ろぐはうすが完成したわ」
その報告は、建設現場でウバメたちに出会ってから半月も経たない内の物だった。
「……えっ、早くない?」
まだ全然心の準備とか出来てないんだけど。
こういうのって、普通何か月とかかかるよね……。
「雨に濡れないうちに仕上げるのが大事だとかで、急いで完成させてくれたみたい」
「急いでどうにかなるような日にちかなぁ」
「ユイが望んでいた『いんてりあ』も運び込んであるわ」
「それは普通に楽しみだけど……」
それらは阿梨夜に頼んで用意してもらった雑誌やカタログを見ながら、ふたりで選んだ物だ。
──実際は、阿梨夜はほとんど頷きながら聞いているだけだったのだが。
『ねぇねぇ、この毛布可愛くない!?』
『良いと思うわ』
『やっぱりさー、ランタンとか吊るしたいよね』
『それも良いわね』
『……』
『……?』
『阿梨夜、自分の好みとかないの?』
『あるわよ』
『あるんだ』
『ユイが気に入った物』
『それは好みとは言わないの』
「……取り合えず見に行こっか」
「おおー」
思わず声が漏れた。
そこに建っていたのは、想像していたよりも、ずっとちゃんとした「ログハウス」だった。
丸木をそのまま活かしたハンドカット製法──
ユイが憧れていた正統派の造りに、広々としたデッキが備え付けられている。
「えっ、なにこれ」
思わず建物の周りをぐるりと見回す。
太い丸太を積み上げた壁。
深く張り出した屋根は、雪を落としやすそうな急勾配。
二階には、小さなテラスまで付いている。
雑誌で見たことのあるログハウスが、そのまま山の中に生えていた。
「いや待って」
「ええ」
「私が描いた絵、もっと適当だったよね?」
「そうね」
「なんでこんな立派になってるの?」
「ウバメたちが頑張ったのでしょう」
「頑張ったで説明していい規模かなぁ……」
じっと建物を見上げる。
そして、ふと気付く。
(待って)
(外がこれなら──)
「……?」
「どうかしたの?」
「いや」
ユイは扉へ視線を向けた。
「中、どうなってるんだろうなって」
そう。
こうなって来ると、内装にも俄然期待は膨らむ。
毛布。
ランタン。
棚。
ソファ。
薪ストーブ。
あの日、雑誌を広げながら「あれがいい」「これがいい」と話していた物たち。
あれらが実際に並んでいるのだとしたら──
「早く入ろう!」
「ええ」
ログハウスの中は、木の香りで満たされていた。
樹皮を落としたばかりの明るい木肌が、壁や柱を形作っている。
広めにとった玄関を抜けた先には、ふたり掛けのソファとローテーブル。
その奥には、ちいさなダイニングテーブルと流し台が見えた。
「わぁ」
ユイは、ソファの正面に設けられた石レンガの一角に気付く。
その中央には、薪ストーブが鎮座していた。
黒々とした本体は、部屋の中央でどっしりと存在感を放っている。
煙突は吹き抜けを真っ直ぐ伸び、天井を貫いていた。
「おおー」
思わず声が上がる。
見上げた先には、建物の中心を支えるように大きな梁が渡されていた。
広々とした吹き抜けをしばし眺め、ユイは薪ストーブの本体へと視線を戻した。
正面には、大きなガラス窓の付いた扉がふたつ、上下に並んでいた。
上の小部屋は、なんとオーブンとして使えるらしい。
張り出した広々とした天板に、手を添える。
真新しい鉄の表面はひんやりと冷たく、手触りはさらりとしていた。
「やかんとか、お鍋とか……色々乗せられそう」
館の台所を思い浮かべる。
お風呂やトイレはリフォームされていた一方で、あの台所は昔ながらの竈のままだった。
阿梨夜にとっては、自分が使い慣れていればそれで問題は無かったのだろうが──
(こっちでなら、私もごはん作ってあげたり出来るかな……?)
ふと、そんなことを考える。
もちろん料理そのものは出来る。
だが館の台所は、どうにも勝手が違った。
火加減も分からない。
道具も見慣れない。
気軽に触って、壊してしまうのも怖かった。
その点、この薪ストーブなら何となく分かる気がした。
火の調整も、竈よりは分かりやすそうだし、オーブンだって付いている。
少なくとも竈よりは、ずっと身近に感じられた。
──家ではよく、鹿肉をシチューにして食べていたな。
そんなことを思い出す。
柔らかいヒレやロースなどと違って、筋の張った後脚などの肉は持て余しがちだ。
焼いても固い。そのままでは食べにくい。
だから母は、そういう部位をよくシチューにしていた。
玉ねぎや人参と一緒に、何時間もじっくり煮込む。
そうすると筋はとろとろになって、肉もほろりと崩れるほど柔らかくなるのだ。
雪の日などは特に、あのシチューが楽しみだった。
(ああいうのなら、作れるかも)
料理が得意というほどではない。
けれど、見よう見まねで覚えたものはいくつかある。
シチューもそのひとつだった。
(鹿肉ならたくさんあるし)
(野菜もあるし)
(ストーブの上でゆっくり煮込んだら美味しそうだな)
(他の料理だって……色々作れるかも)
そんなことを考えていると、
自然と顔が緩んでくる。
「気に入った?」
「うん」
ユイは短く答えた。
「なんか、暮らせそう」
「暮らせそう」
「そう」
ストーブの天板を、軽く叩く。
「ここなら私も、色々出来そうだから」
阿梨夜はしばらくその言葉を考えるように黙り、それから静かに頷いた。
「それは良かった」
お風呂場や保管室を見て回った後、ふたりは吹き抜け脇の階段を上っていった。
その先の扉を開けると、目に飛び込んだのはがっしりとした造りの木製ベッドだった。
何の木かは分からない。けれど、赤みを帯びた艶やかな色合いが印象的だった。
「えっ、なんかこれ……すっごく高そうなやつじゃない……?」
「ああ」
阿梨夜は思い出したように頷く。
「それはウバメたちが作ってくれたの」
「作った?」
「ええ」
ユイは怪訝な顔をする。
「ベッドって作るものなの?」
「何にだって、作る人がいると思うけど」
「いや……そうなんだけど……」
正論だが、聞きたかったのはそういうことではない。
ユイが言葉に詰まっている間にも、阿梨夜は続ける。
「ユイが大きなベッドを欲しがっていると話したら、とても張り切ってくれたの」
「……」
「……?」
ユイは思わず言葉を失い、阿梨夜の顔をまじまじと見る。
そんなユイの様子に、阿梨夜は不思議そうに首をかしげる。
「それ、どういう風に話したの?」
「どういう風に?」
「うん」
「ユイが大きなベッドを欲しがってたから用意して、って」
そのままだった。
「うわぁ……」
思わず、声に出ていた。
(絶対! 変な意味で受け取られてる!!)
山姥たちの盛り上がりが目に浮かぶようだった。
大きな一枚板のヘッドボードには、美しい木目が浮かんでいる。
そこに刻まれていたのは、木々の合間に佇む鹿たちの姿だった。
立派な角の牡鹿に、子鹿を連れた牝鹿たち。
その一頭一頭が、まるで山の光景を切り取ったように、活き活きと浮かび上がっていた。
「すごい……」
吸い込まれるように、ヘッドボードへ歩み寄る。
木彫りというより、まるでそこに本物の鹿が息づいているかのようだった。
毛並みの流れ。
筋肉の張り。
草を踏む蹄の動き。
素人のユイにも、それが並大抵の技術ではないことだけは分かる。
「これ、本当にウバメさんたちが作ったの?」
その問いに阿梨夜は少し考え──
「この彫刻は、ネムノの仕事だと思う」
「ネムノ?」
初めて聞く名だ。
「ウバメたちの仲間のひとりよ」
「そういえば、この前ユイと一緒に会った時には居なかったわね」
「へぇー」
山姥さんたちに、まだ他に仲間が居たんだ。
今度会えたらお礼を言わないと。
そう思いながら振り向くと、ベッドの上に敷かれた物に気が付く。
「……あっ!」
「この毛布、私が可愛いって言ってたやつ!」
鹿や他の動物たちが、ゆるい絵柄で描かれた毛布。
重厚なベッドとは対照的な、愛嬌のあるデザインだった。
「ちゃんとある!」
思わず手に取る。
ふかふかだ。
「えへへ」
「良かったわね」
「うん!」
満面の笑顔を浮かべるユイに、阿梨夜も静かに微笑んだ。
冬にはまだ早いが、ふたりは少しずつログハウスへ生活の場を移していた。
雪の季節を迎える前に、新しい家での暮らしを整えていくために。
冷凍庫が鹿肉でいっぱいの間、ユイは山菜や、この時期ならきのこを探して歩く。
木の根元や倒木を確認する傍ら、松の葉でふかふかになった足元にも目をこらす。
ころり。
そこに転がっていた松ぼっくりを拾い上げ、籠へ放る。
油分の多いそれは、天然の着火剤になる。
ログハウスで迎える、初めての冬。
その仕度をするように、ユイは松ぼっくりを拾い集めていた。
(阿梨夜なら、お店で売ってるような着火剤だって手に入るんだろうけど……)
実際、頼めばすぐだろう。
便利な道具も。
火付きの良い薪も。
何なら薪ストーブ用のアクセサリーまで。
けれど。
(折角だしなぁ)
中学生の頃に夢見ていたようなログハウス生活が、思いもよらぬ形で始まったのだ。
だったら少しくらい、あの頃憧れていたことをやってみたい。
松ぼっくりで火を起こしたり。
自分で薪を割ったり。
採ってきたきのこを干したり。
そんな些細なこと。
たぶん、本当に憧れていたのはログハウスそのものではない。
少しだけ手間を掛けながら暮らすこと。
山の中で季節を感じながら過ごすこと。
そういう時間の方だ。
「何をしているの?」
不意に届いた、聞き慣れた声。
振り向けば、そこにいたのはやっぱり阿梨夜だった。
「松ぼっくり集めてるの」
「松ぼっくり」
拾ったばかりの松ぼっくりをひとつ、指でつまんで阿梨夜に見せる。
「着火剤になるんだって」
「ふぅん」
松ぼっくりを見つめたまま、阿梨夜は沈黙する。
何かを考えるように、確かめるように。
そして口を開く。
「着火剤なら、調達するわよ」
「言うと思った」
思わず笑う。
「違うの」
「?」
「こういうのやってみたかったんだよ」
阿梨夜はしばらく黙っていた。
風が吹き、落ち葉が舞う。
「そう」
やがて、小さく頷いた。
「じゃあ、私も探すわ」
そう言って足元へ視線を落とす。
「えっ」
「松ぼっくりでしょう?」
その横顔は、真剣だった。
「いや、そんなにたくさんは要らないから!」
「そうなの?」
朽葉色に染まった秋の森で、オレンジのベストの娘が笑う。
その隣には、白い着物を纏った不思議な女。
見る者がいれば奇妙な取り合わせに感じたであろうふたりは、けれど楽しげに松ぼっくり探しを続けていた。
「館を、建て替えようと思うの」
お昼の食卓で、素麺をつゆに浸しながら阿梨夜は切り出した。
開け放たれた雨戸からは、涼やかな山の風が吹き抜けていく。
「館……って、えっ? この館?」
口元まで運んでいた箸が止まった。
あまりに唐突で、頭が追い付かない。
「えっ、だってこんな立派なお屋敷……いつの時代の建物なのよ」
「そうね、あれは……」
阿梨夜は、少し考える。
「四百年くらい前かしらね」
「よ……」
予想を軽く超えた数字に、言葉が途切れる。
思えば、この館は不思議な建物だった。
きっと長い年月を重ねてきたのだろうと思わせる、落ち着いた木肌の風合い。
それなのに、その造りには妙なほど歪みがない。
古い建物なら、反りや軋み、あるいは僅かな傾きがあっても不思議ではないはずなのに。
来たばかりの頃、まるで時代劇の中に迷い込んだようだと思ったのは、それも理由のひとつだったのかもしれない。
余程の職人技によるものなのか。
それとも、阿梨夜という神が住む家だからこその加護なのか。
あるいは、その両方なのかもしれない。
その奇跡のような建物を、家主である女神は当然のことのように建て替えると言う。
「いやいやいや」
考えるより先に、否定の言葉が口をついて出た。
「えっ、駄目でしょ」
そう言ってから、自分でも戸惑う。
何に対して駄目なのか、上手く説明できない。
「だって、そんな……ほら、勿体ないし」
「今時の家屋は、随分と過ごしやすくなったと聞いてるわ」
淡々とした声だった。
そこに迷いはない。
「この館は……今の時期は過ごしやすいけど、冬は大層冷え込むの」
「ユイだって、今年の冬は随分と寒そうにしてたじゃない」
「うっ……」
それを言われると、何も言い返せない。
そうなのだ。
雪の深い間は狩猟も休みということもあり、随分な日々を布団の中でごろごろして過ごしてしまった。
流石にこれから先、毎年あの様では困るとは自分でも思うのだが──
「……それでも」
少し迷うように、言葉を続ける。
「この館が無くなっちゃうのは、私は嫌だな……」
暮らし始めてから、まだ一年にも満たない新たな住処。
そんな場所に、気付けば自分でも驚くほどの愛着が湧いていた。
「……」
阿梨夜は、私を見つめたまましばらく沈黙する。
「分かったわ」
「寒さ対策は、別の方法を考えましょう」
そして意外なほどあっさり、そう言った。
「こう……ひとつの部屋に火鉢を集めるとか……」
「以前、似たようなことは試したけど、どうにもすぐに熱が逃げてしまうみたい」
昼食を終えた後の、いつもならふたりでのんびりと過ごす時間。
私と彼女は、館の寒さ対策についての話し合いをしていた。
しかし、これといったアイディアと言うと中々浮かばない物だ。
「そういえば……」
ああでもないこうでもないと考えるうちに、ふと気になったことを尋ねてみる。
「建て替えるって言っても、その間住む場所はどうするつもりだったの?」
「……?」
阿梨夜は不思議そうな顔をする。
「空いている場所に新しい家を作って、完成したらこちらを壊すつもりだったけど」
「……」「……」
「……あれっ、それならもしかして、この館べつに壊す必要もなかったんじゃ……」
「……」
阿梨夜は考え込む。
「……そうね」
「そうなの!?」
「確かに壊す必要はなかったわ」
「今気付いたの!?」
「ええ」
頭を抱える。
この人、本気だった。
本気で、「新しい家ができたら古い方を壊すもの」くらいの感覚で考えていた。
そこに土地の制約もなければ、古い家を残すという発想自体、今までなかったのだ。
「……そうだ」
ひとつ、思いついて私は顔を上げた。
「それならさ、冬を過ごす用に小さな家を建てるのはどうかな」
「ちいさないえ」
「この館が寒いのって、やっぱり広すぎるからかなって思うんだよね」
「……なるほど」
阿梨夜は館の中を見回す。
十近くもある部屋の多くは、今では使われていない。
廊下も長い。
確かに暖めるには非効率だ。
「ユイの言う通りかもしれないわね」
「……あっ!」
不意に、あるアイディアが頭に浮かぶ。
「それじゃあさ!」
思わず、顔が綻ぶ。
「ログハウス!」
「それならログハウスがいい!」
「ろぐはうす」
阿梨夜は聞き慣れない言葉を口の中で転がすように復唱した。
「はい!」
思わず身を乗り出してしまう。
「丸太で作る家! 山小屋みたいなやつ!」
「なるほど」
阿梨夜は頷く。
頷くのだが、どうにも分かっている顔には見えない。
「ええとね、こう……」
近くにあった紙を引き寄せ、鉛筆を走らせる。
三角屋根。
煙突。
丸太の壁。
我ながら恐ろしく雑な絵だ。
「こういう感じ!」
「へぇ」
阿梨夜は紙を覗き込む。
「なるほど。丸木をそのまま壁にするのね」
「そう!」
「薪ストーブも欲しい!」
「まきすとーぶ」
「鉄で出来ててね! 温かいの!」
「なるほど」
「あとねあとね、部屋にはね──」
そうやってユイが語るうちに、新居のイメージは少しずつ形を帯び始めていた。
冬の雪に備えた丈夫な造り。
ふたりで過ごす、小さなリビングの中心には薪ストーブ。
傍らにはダイニングとキッチン。
ストーブの熱が二階まで行き渡るよう、大きな吹き抜け。
二階の寝室には、ふたりで寝られる大きなベッド。
身支度をしやすい、広めの玄関。
ログハウスの傍らには、獲物を解体するための小屋。
井戸小屋の冷凍庫も、こちらへ運んでしまうのもいいかもしれない。
それから、銃や弾薬を管理する保管室。
だんだんと新居のイメージが膨らんできたが。
これは家というより──
「……あれ?」
「どうかしたの?」
設計について語っていたユイが、ふと言葉を止める。
「私たち今、家の話してたよね?」
「ええ」
手元に出来上がったメモを見返す。
「なんか、途中から狩猟小屋みたいになってない?」
阿梨夜はしばらく考え込む。
「けど」
真顔で言った。
「ユイは嬉しそうだったわよ」
「うっ」
反論できない。
確かに途中からかなり楽しくなっていた。
「……別にいいけど」
小さくそう呟くと、阿梨夜は少しだけ目を細める。
「だったら、それで良いのよ」
家の形そのものには、彼女はあまり頓着していないのだろう。
豪華である必要もない。
立派である必要もない。
ただ──
ユイが気に入って、
ユイが快適に過ごせて、
ユイが好きなことを続けられる場所であればいい。
「……あ」
ふと、ユイはあることに気付く。
「じゃあさ」
「ええ」
「阿梨夜はどんな家がいいの?」
その問いに、阿梨夜は珍しくすぐには答えなかった。
長い沈黙の後。
「貴方が居る家よ」
当たり前のことを言うような口調だった。
「……それじゃ答えになってないでしょ」
そう言いながらも、ユイの頬は少し赤くなっていた。
夏が、終わりを迎える。
心地よかった山風も、日を追うごとにその冷たさを増していく。
阿梨夜によると、基礎の工事も終わり、今日から本格的にログハウスの組み立てが始まるらしい。
場所を聞けば、すぐ裏手の森の中だという。
いつの間に、そこまで話が進んでいたのだろう。
(村の大工さんでも呼んだのかな)
顔を合わせるのは不味い。
そうは思うものの、やはり気になってしまう。
結局、私はこっそりと現場を見に行くことにした。
すると──
「この丸太ぁどこにやればええんじゃ」「おい酒はまだか」
そこで目にしたのは、くたびれた着物や獣の毛皮を身に纏ったお婆さんたちだった。
何本もの丸太を軽々と担ぎ、慣れた様子で作業を進めている。
どう見ても、見た目だけならただの痩せぎすの老婆たちだ。
ただし──
その力だけは、とても人のものとは思えなかった。
「……え?」
現実離れした光景に自分の目を疑っていると、その中にひとりだけ、若い女がいることに気付いた。
若いと言っても。二十代や三十代という意味ではない。
ただ、他の老婆たちと比べれば明らかに若い。
背筋は真っ直ぐに伸び、腕にはしっかりと筋肉が付いている。
「ああ、ヨネさん。それは一旦こっちに積んで」
「タエさん、もうちっと我慢しとくれよ。ほらほら、そこの袋運んで」
周囲へ次々と指示を飛ばしながら、女は自らもチェーンソーを吹かす。
そして奇妙なことに、怪力の老婆たちもその女に素直に従っていた。
(棟梁……?)
いや、違う。
何かが違う。
(この人……)
何者なんだろう。
そう思った瞬間。
ふと、チェーンソーの音が止まった。
それまで忙しなく動いていた現場が、ほんの一瞬だけ静かになる。
そして──
女がこちらを振り向いた。
紫の瞳。
人の世では滅多に見かけることのないそれに、心臓が跳ねる。
女は一瞬だけ目を丸くし、それからにやりと口角を上げた。
「へぇ、あんたが新しい嫁御さんかい」
チェーンソーを傍らに置くと、女はユイへと向き直る。
「よめごって……」
ユイが戸惑いの声を漏らす。
しかし女は、構うことなくずんずんと近付いてくる。
「あっ、あの……」
女はユイの顔をじろじろと眺めると、ひと言だけぽつりと零す。
「あの面食いが」
「えっ?」
めんくい、って……面食い?
急に何の話なのだろう。
そんなユイの困惑をよそに、女は続ける。
「毎度毎度、別嬪の娘ばっかり攫って来るんだからな、あの主さんと来たら」
やれやれとでもいった風に、女は肩を竦める。
ぬしさん。主さんってもしかして──
「えっ、まさか阿梨夜の話してます?」
「他に誰が居るっていうんだい」
「あんたは知らないかもしれないが、あの人が囲った娘はあんたが初めてじゃないんだ」
「それも、みぃんな別嬪のお嬢さんと来たもんだ」
「いや、それは知ってます」
思わずそう返してしまう。
「知ってるのかい」
「うん……」
知っている。少なくとも、ひとりは。
ひい爺ちゃんのお姉さん。
そして──
恐らく、それだけではないことも。
「知ってて『それ』なら、もう手の付けようもないねぇ」
「あの人も、普段は真面目なお人なのに、どうにも女好きだけは筋金入りで困ったもんだよ」
女はそうは言うが、その声音には咎めるような色はなく、楽しげですらあった。
しかし、だからといって黙って聞いているわけにもいかなかった。
「面食いとか女好きとか……阿梨夜はそんなのじゃないです!」
「はー……」
殊更に深い息を吐き、女は続ける。
「毎度同じこと言うんだよなぁ、嫁御さんたち」
「まったく、主さんときたらどんな手でたらしこんでるんだか」
「たらしこんでません!」
ユイが声を張りあげると、女は腹を抱えるように笑い出した。
そこでようやく、ユイも気付いた。
この女は、最初から自分をからかっていたのだと。
「ところであの……皆さん何者なんですか?」
大工さん? と聞きたい気持ちは胸に留めた。
「私らは山姥だよ。聞いたことない?」
女は当たり前のように言った。
まるで「大工だよ」とか「猟師だよ」とか、その程度の話でもするように。
「山姥って……」
思わず聞き返す。
「昔話とかに出てくる、あの山姥?」
「そうそう」
女は頷く。
「人を食べるとか」
「食わない」
「赤ん坊を攫うとか」
「攫わない」
「旅人を騙すとか」
「面倒だからやらない」
即答だった。
「いやでも……」
思わず周囲を見る。
丸太を担ぐ老婆。
石を運ぶ老婆。
屋根の梁に飛び乗る老婆。
どう考えても人間ではない。
「まあ、人間じゃないのは合ってるけどね」
女は苦笑した。
「昔の人間が、随分と尾ひれを付けたもんさ」
「尾ひれ……」
「人食いだの、ずる賢いだの」
「まあ、全部嘘って訳でもないんだけど」
女はそう言ってにやりと笑う。
「どっちなの」
思わず突っ込んでしまった。
「さあ?」
女は肩を竦める。
「人間だって色んなのが居るだろ」
「それと同じさ」
「あら、ユイも来ていたのね」
いつからそこにいたのか。
振り返ると、阿梨夜が立っていた。
背には、風呂敷に包まれた大きな荷物を背負っている。
差し入れだろうか。
「主さん!」
先ほどの若い女が声を上げる。
「あんた、また大層な別嬪さん捕まえて来たもんだな!」
「この面食いめ」
「面食いじゃないわ」
即答だった。
「捕まえて来たって方も否定してよ」
思わず言ってしまう。
「違うのかい?」
女はにやにやしている。
「違います!」
阿梨夜は頷いた。
「ユイは自分で山へ来たの」
「捕まえてないねぇ」
「捕まえてないな」
「自分から来たのか」
いつの間にか集まって来た山姥たちがうんうん頷く。
「なお悪いじゃないか」
「なんで!?」
思わず叫ぶ。
「だってあんた」
紫の瞳の女がくるりと振り向く。
「攫われたなら、まだ言い訳が立つだろう?」
「何、言い訳って!?」
「神隠しに遭いました」
「妖に騙されました」
「山の主に攫われました」
言いながら、女は私の周りをゆっくりと歩いて行く。
「まあ、どれも昔話としてはよくある話だ」
背後に回る女を、私も振り返って見据える。
「けどねぇ」
女はそこで指を一本立てる。
「自分から山へ入って」
「主さん見付けて」
「帰らずにそのまま嫁になりました」
「……」
「どう見ても本人の意思じゃないか」
「うっ」
反論できない。
できないのだ。
だって実際そうだった。
「いやでも!」
「でも?」
「その……色々あったし!」
「一日で?」
「……」
「一日で」
周囲の山姥たちが一斉に頷く。
「早いねぇ」
「早かったなぁ」
「歴代でも結構早い方だ」
「やめて! 早いとか言うの!!」
「というか! なんで知ってるの!?」
「なんでって、そりゃあ……」
女が視線を向けた先には、何時ものように涼やかな顔をした阿梨夜が居た。
まさか──
「いやね、私らも新しい娘御が山に来たのは分かってたからさ」
「主さんに会った時に、どんな調子か聞いてみたんだよ」
女は芝居がかった調子で続ける。
「そしたらまあ、出会った日の夜には嫁にしたって話じゃないか!」
「夜って……」
顔が、熱くなるのを感じる。
そんなことまで話したの? 本当に???
「そういう言い方はしてない」
私の焦りを知ってか知らずか、阿梨夜が淡々と訂正に入る。
「似たようなもんだろ」
女は、にんまりと笑った。
その笑顔を見て、嫌な予感がする。
「ど、どんな言い方したの……?」
思わず声を潜めながら、私は阿梨夜の顔を伺った。
「……」
阿梨夜は、記憶を手繰るかのように黙り込んだ。
その数秒が、妙に長く感じられる。
「出会った日の夜、『貴方のことが知りたい』と言ってくれたことを話したと思う」
ようやく沈黙を破って、阿梨夜はそう告げた。
──言った。確かに言った。
脳裏に、あの夜のことがまざまざと甦る。
あの時、阿梨夜もまた、私のことを知りたいと言ってくれて、それから──
えっ。
あれを話したの……?
「やけに浮かれた調子でな」
固まるユイを横目に、女が茶々を入れる。
「いやー、何十年ぶりだったろうね。あんな主さん」
「うぅ……」
けらけらと笑う山姥たちと、平気な顔で立つ阿梨夜。
その間で、ユイだけが羞恥に身を縮めていた。
「彼女はウバメ、山姥たちの頭目よ」
ユイがなんとか落ち着きを取り戻した頃、阿梨夜が紫の瞳の女を紹介する。
「頭目って言ったって、一番古くからこの山に棲んでるってだけだけどね」
ウバメと呼ばれた女は、からからと笑いながら補足する。
見た目は若く見えるのに、一番の古株なのか。
情報のちぐはぐさに混乱してしまいそうになる。
「よろしくなぁ、嫁御さん」
「よ、よろしくお願いします」
嫁御さん、という呼び方には引っかかるものがあったが、挨拶には応じる。
「それはそうと主さん、例のあれ、忘れちゃいないだろうね」
「あれ?」
そうユイが聞き返すと、阿梨夜は黙って背にした荷物をほどきだす。
風呂敷の中から現れたのは、細長い瓶。
一本。
二本。
三本。
まだ出てくる。
お酒だ。
それも、どうやら安物ではなさそうだ。
お酒を飲めるようになったばかりの私でも、それくらいは分かった。
「みんなぁ! 一旦休みだ休み! 酒の時間だよ!」
「へっへっへ」
「いやー、主さんの選ぶ酒に外れは無いねぇ」
どこに隠し持っていたのか、各々椀だの杯だのを持ち出して山姥たちが集まってくる。
気付けば建築現場は、あっと言う間に宴会場へと早変わりしてしまった。
──まだ建設の途中なんだよね……?
休みの時間とはいえ、完全に飲みの姿勢に入った山姥たちをユイは不安気に見つめる。
「大丈夫よ」
そんなユイに、阿梨夜は使い慣れた湯呑みを手渡す。
「彼女たちは、腕は確かだから」
「あの館も、建てたのはウバメたちよ」
「えっ」
「えええええっ!?」
ユイの驚きの叫びに、山姥たちが怪訝な顔で振り向いた。
酒盛りの最中。
丸太の上や資材の山に腰を下ろし、山姥たちは椀を片手に好き勝手喋っている。
「昔はねぇ」
白髪の老婆が酒をあおる。
「麓に下りて畑仕事でも手伝えば、酒だの饅頭だの分けてくれる気前のいい人間が居たもんだが」
引き継ぐように、他の老婆が続ける。
「今時、そうそうわしらが人里に出るわけにゃいかんからな」
「だからこうして、主さんが酒や食いもんなんかを持ってきてくれるのはありがたくてねぇ」
ウバメが椀を傾ける。
「それで時たま、こうやって人手を貸しとるわけさ」
「彼女たちには、昔から助けられてるの」
「助けられてるのはお互いさまさ」
ウバメは鼻で笑う。
「主さんが居なきゃ、わしらもこんな気楽に山に居られないからねぇ」
その言葉に、周囲の山姥たちがうんうん頷く。
「ここの山姥は、いつかの時期に余所からこの山に移り住んで来たやつが多くてね」
「あの頃は山姥が棲めるような、人間の畏れが残るような山がどんどん減っていってな」
「まあ、そんな訳だから、主さんの女好きも正直ありがたい所はあるのさ」
ウバメがにやりと笑うと、山姥たちからどっと笑いが起きた。
「……阿梨夜は女好きなんかじゃありません!」
だってそれ、みんな「私」だし。
と、いっそ言えてしまえたら良かったのだけど。
──最初の「彼女」も、鹿狩りが好きだったって言ったっけ。
ちらりと、阿梨夜の横顔を伺う。
一体どれほどの昔から、この関係は続いているのだろう。
──人間たちの間では「醜く嫉妬深い女神」などと語られる彼女も、
山姥たちにかかれば「面食いで女好きの主さん」か。
山への畏れ。私のように、山へ消える娘が出る度に、村人たちはそれを思い出して来たのだろう。
ユイはいつかのひい爺ちゃんの、震える様子を思い出していた。
他の会員たちに呆れられながらも、必死に私を山から遠ざけようとしたひい爺ちゃん。
「……」
視線を落とす。
酒盛りの輪の中心では、山姥たちが相変わらず騒いでいる。
「前の嫁御さんは、もっとしおらしい子だったねぇ」
「そうじゃったそうじゃった」
「主さんと手を繋いだだけで真っ赤になったりの」
「別嬪なのは同じじゃがな」
どっと笑いが起こる。
その光景は、あまりにも平和だった。
だが──
村人たちから見れば違う。
娘がひとり山へ入った。
帰って来なかった。
理由は分からない。
生きているのかも分からない。
会うことも出来ない。
残された側に見えるのは、ただ「山に奪われた」という事実だけだ。
ひい爺ちゃんも、きっとそうだった。
姉が消えた。
神に連れて行かれた。
二度と帰らなかった。
その事実だけが、何十年も胸の中に残り続けた。
ユイは湯呑みの中を見つめる。
揺れる酒が、淡い光を映していた。
(……きっと、私も同じなんだよね)
自分で山へ入った。
自分で阿梨夜の傍に留まった。
誰かに攫われたわけでも、騙されたわけでもない。
それでも──
残された人間の胸に残るのは、「山に奪われた」という事実だけだ。
ひい爺ちゃんが震える声で私を引き留めようとした理由が、今なら分かるような気がした。
「……どうかしたの?」
ふいに声が降る。
顔を上げると、阿梨夜が静かにこちらを見ていた。
「……ううん」
ユイは小さく首を振った。
「ちょっと、考えごとしてただけ」
阿梨夜は何も聞かず、ただ隣に腰を下ろす。
山姥たちの笑い声が風に混じって響く中、ユイはそっと阿梨夜の肩に自分の肩を寄せた。
人間が語る女神も、山姥たちが語る主さんも、どちらも間違ってはいないのだろう。
ただ、今の私が知っている阿梨夜は──
そのどちらよりも、ずっと温かい。
「ろぐはうすが完成したわ」
その報告は、建設現場でウバメたちに出会ってから半月も経たない内の物だった。
「……えっ、早くない?」
まだ全然心の準備とか出来てないんだけど。
こういうのって、普通何か月とかかかるよね……。
「雨に濡れないうちに仕上げるのが大事だとかで、急いで完成させてくれたみたい」
「急いでどうにかなるような日にちかなぁ」
「ユイが望んでいた『いんてりあ』も運び込んであるわ」
「それは普通に楽しみだけど……」
それらは阿梨夜に頼んで用意してもらった雑誌やカタログを見ながら、ふたりで選んだ物だ。
──実際は、阿梨夜はほとんど頷きながら聞いているだけだったのだが。
『ねぇねぇ、この毛布可愛くない!?』
『良いと思うわ』
『やっぱりさー、ランタンとか吊るしたいよね』
『それも良いわね』
『……』
『……?』
『阿梨夜、自分の好みとかないの?』
『あるわよ』
『あるんだ』
『ユイが気に入った物』
『それは好みとは言わないの』
「……取り合えず見に行こっか」
「おおー」
思わず声が漏れた。
そこに建っていたのは、想像していたよりも、ずっとちゃんとした「ログハウス」だった。
丸木をそのまま活かしたハンドカット製法──
ユイが憧れていた正統派の造りに、広々としたデッキが備え付けられている。
「えっ、なにこれ」
思わず建物の周りをぐるりと見回す。
太い丸太を積み上げた壁。
深く張り出した屋根は、雪を落としやすそうな急勾配。
二階には、小さなテラスまで付いている。
雑誌で見たことのあるログハウスが、そのまま山の中に生えていた。
「いや待って」
「ええ」
「私が描いた絵、もっと適当だったよね?」
「そうね」
「なんでこんな立派になってるの?」
「ウバメたちが頑張ったのでしょう」
「頑張ったで説明していい規模かなぁ……」
じっと建物を見上げる。
そして、ふと気付く。
(待って)
(外がこれなら──)
「……?」
「どうかしたの?」
「いや」
ユイは扉へ視線を向けた。
「中、どうなってるんだろうなって」
そう。
こうなって来ると、内装にも俄然期待は膨らむ。
毛布。
ランタン。
棚。
ソファ。
薪ストーブ。
あの日、雑誌を広げながら「あれがいい」「これがいい」と話していた物たち。
あれらが実際に並んでいるのだとしたら──
「早く入ろう!」
「ええ」
ログハウスの中は、木の香りで満たされていた。
樹皮を落としたばかりの明るい木肌が、壁や柱を形作っている。
広めにとった玄関を抜けた先には、ふたり掛けのソファとローテーブル。
その奥には、ちいさなダイニングテーブルと流し台が見えた。
「わぁ」
ユイは、ソファの正面に設けられた石レンガの一角に気付く。
その中央には、薪ストーブが鎮座していた。
黒々とした本体は、部屋の中央でどっしりと存在感を放っている。
煙突は吹き抜けを真っ直ぐ伸び、天井を貫いていた。
「おおー」
思わず声が上がる。
見上げた先には、建物の中心を支えるように大きな梁が渡されていた。
広々とした吹き抜けをしばし眺め、ユイは薪ストーブの本体へと視線を戻した。
正面には、大きなガラス窓の付いた扉がふたつ、上下に並んでいた。
上の小部屋は、なんとオーブンとして使えるらしい。
張り出した広々とした天板に、手を添える。
真新しい鉄の表面はひんやりと冷たく、手触りはさらりとしていた。
「やかんとか、お鍋とか……色々乗せられそう」
館の台所を思い浮かべる。
お風呂やトイレはリフォームされていた一方で、あの台所は昔ながらの竈のままだった。
阿梨夜にとっては、自分が使い慣れていればそれで問題は無かったのだろうが──
(こっちでなら、私もごはん作ってあげたり出来るかな……?)
ふと、そんなことを考える。
もちろん料理そのものは出来る。
だが館の台所は、どうにも勝手が違った。
火加減も分からない。
道具も見慣れない。
気軽に触って、壊してしまうのも怖かった。
その点、この薪ストーブなら何となく分かる気がした。
火の調整も、竈よりは分かりやすそうだし、オーブンだって付いている。
少なくとも竈よりは、ずっと身近に感じられた。
──家ではよく、鹿肉をシチューにして食べていたな。
そんなことを思い出す。
柔らかいヒレやロースなどと違って、筋の張った後脚などの肉は持て余しがちだ。
焼いても固い。そのままでは食べにくい。
だから母は、そういう部位をよくシチューにしていた。
玉ねぎや人参と一緒に、何時間もじっくり煮込む。
そうすると筋はとろとろになって、肉もほろりと崩れるほど柔らかくなるのだ。
雪の日などは特に、あのシチューが楽しみだった。
(ああいうのなら、作れるかも)
料理が得意というほどではない。
けれど、見よう見まねで覚えたものはいくつかある。
シチューもそのひとつだった。
(鹿肉ならたくさんあるし)
(野菜もあるし)
(ストーブの上でゆっくり煮込んだら美味しそうだな)
(他の料理だって……色々作れるかも)
そんなことを考えていると、
自然と顔が緩んでくる。
「気に入った?」
「うん」
ユイは短く答えた。
「なんか、暮らせそう」
「暮らせそう」
「そう」
ストーブの天板を、軽く叩く。
「ここなら私も、色々出来そうだから」
阿梨夜はしばらくその言葉を考えるように黙り、それから静かに頷いた。
「それは良かった」
お風呂場や保管室を見て回った後、ふたりは吹き抜け脇の階段を上っていった。
その先の扉を開けると、目に飛び込んだのはがっしりとした造りの木製ベッドだった。
何の木かは分からない。けれど、赤みを帯びた艶やかな色合いが印象的だった。
「えっ、なんかこれ……すっごく高そうなやつじゃない……?」
「ああ」
阿梨夜は思い出したように頷く。
「それはウバメたちが作ってくれたの」
「作った?」
「ええ」
ユイは怪訝な顔をする。
「ベッドって作るものなの?」
「何にだって、作る人がいると思うけど」
「いや……そうなんだけど……」
正論だが、聞きたかったのはそういうことではない。
ユイが言葉に詰まっている間にも、阿梨夜は続ける。
「ユイが大きなベッドを欲しがっていると話したら、とても張り切ってくれたの」
「……」
「……?」
ユイは思わず言葉を失い、阿梨夜の顔をまじまじと見る。
そんなユイの様子に、阿梨夜は不思議そうに首をかしげる。
「それ、どういう風に話したの?」
「どういう風に?」
「うん」
「ユイが大きなベッドを欲しがってたから用意して、って」
そのままだった。
「うわぁ……」
思わず、声に出ていた。
(絶対! 変な意味で受け取られてる!!)
山姥たちの盛り上がりが目に浮かぶようだった。
大きな一枚板のヘッドボードには、美しい木目が浮かんでいる。
そこに刻まれていたのは、木々の合間に佇む鹿たちの姿だった。
立派な角の牡鹿に、子鹿を連れた牝鹿たち。
その一頭一頭が、まるで山の光景を切り取ったように、活き活きと浮かび上がっていた。
「すごい……」
吸い込まれるように、ヘッドボードへ歩み寄る。
木彫りというより、まるでそこに本物の鹿が息づいているかのようだった。
毛並みの流れ。
筋肉の張り。
草を踏む蹄の動き。
素人のユイにも、それが並大抵の技術ではないことだけは分かる。
「これ、本当にウバメさんたちが作ったの?」
その問いに阿梨夜は少し考え──
「この彫刻は、ネムノの仕事だと思う」
「ネムノ?」
初めて聞く名だ。
「ウバメたちの仲間のひとりよ」
「そういえば、この前ユイと一緒に会った時には居なかったわね」
「へぇー」
山姥さんたちに、まだ他に仲間が居たんだ。
今度会えたらお礼を言わないと。
そう思いながら振り向くと、ベッドの上に敷かれた物に気が付く。
「……あっ!」
「この毛布、私が可愛いって言ってたやつ!」
鹿や他の動物たちが、ゆるい絵柄で描かれた毛布。
重厚なベッドとは対照的な、愛嬌のあるデザインだった。
「ちゃんとある!」
思わず手に取る。
ふかふかだ。
「えへへ」
「良かったわね」
「うん!」
満面の笑顔を浮かべるユイに、阿梨夜も静かに微笑んだ。
冬にはまだ早いが、ふたりは少しずつログハウスへ生活の場を移していた。
雪の季節を迎える前に、新しい家での暮らしを整えていくために。
冷凍庫が鹿肉でいっぱいの間、ユイは山菜や、この時期ならきのこを探して歩く。
木の根元や倒木を確認する傍ら、松の葉でふかふかになった足元にも目をこらす。
ころり。
そこに転がっていた松ぼっくりを拾い上げ、籠へ放る。
油分の多いそれは、天然の着火剤になる。
ログハウスで迎える、初めての冬。
その仕度をするように、ユイは松ぼっくりを拾い集めていた。
(阿梨夜なら、お店で売ってるような着火剤だって手に入るんだろうけど……)
実際、頼めばすぐだろう。
便利な道具も。
火付きの良い薪も。
何なら薪ストーブ用のアクセサリーまで。
けれど。
(折角だしなぁ)
中学生の頃に夢見ていたようなログハウス生活が、思いもよらぬ形で始まったのだ。
だったら少しくらい、あの頃憧れていたことをやってみたい。
松ぼっくりで火を起こしたり。
自分で薪を割ったり。
採ってきたきのこを干したり。
そんな些細なこと。
たぶん、本当に憧れていたのはログハウスそのものではない。
少しだけ手間を掛けながら暮らすこと。
山の中で季節を感じながら過ごすこと。
そういう時間の方だ。
「何をしているの?」
不意に届いた、聞き慣れた声。
振り向けば、そこにいたのはやっぱり阿梨夜だった。
「松ぼっくり集めてるの」
「松ぼっくり」
拾ったばかりの松ぼっくりをひとつ、指でつまんで阿梨夜に見せる。
「着火剤になるんだって」
「ふぅん」
松ぼっくりを見つめたまま、阿梨夜は沈黙する。
何かを考えるように、確かめるように。
そして口を開く。
「着火剤なら、調達するわよ」
「言うと思った」
思わず笑う。
「違うの」
「?」
「こういうのやってみたかったんだよ」
阿梨夜はしばらく黙っていた。
風が吹き、落ち葉が舞う。
「そう」
やがて、小さく頷いた。
「じゃあ、私も探すわ」
そう言って足元へ視線を落とす。
「えっ」
「松ぼっくりでしょう?」
その横顔は、真剣だった。
「いや、そんなにたくさんは要らないから!」
「そうなの?」
朽葉色に染まった秋の森で、オレンジのベストの娘が笑う。
その隣には、白い着物を纏った不思議な女。
見る者がいれば奇妙な取り合わせに感じたであろうふたりは、けれど楽しげに松ぼっくり探しを続けていた。