『ネムノ』
もうすぐ、この山にも雪が降る。
夏には濃かった山の匂いも、今は少し乾いたものへ変わっている。
ユイがいつものように山歩きをしていると、不意に横から声が掛かった。
「ああ」
「主さの嫁御でねぇか」
振り返ると、くたびれた着物を身に纏った女が立っていた。
赤い瞳に、癖のある灰色の髪。
その手には、大きな鉈が握られている。
「あっ、こんにちは!」
驚きより先に、挨拶が出ていた。
山姥たちの仲間だろうか。
ただ、その姿はウバメよりもさらに年若く見えた。
「ええっと……山姥さん、ですよね?」
「んだ」
合っていた。
けど、この前山姥さんたちに会った時にはこんなに若い人はいなかったはずだ。
あっ、もしかして──
「もしかして、ネムノさんですか?」
「おう、知っとったか」
やっぱり。
「あの、ベッドのことありがとうございます」
山姥たちが誂えてくれた家具を思い浮かべて、両手を揃えた。
「鹿の彫刻、とっても綺麗で嬉しかったです」
「なんもなんも」
ネムノは片手を振る。
「普段、見せるような相手もおらん腕だ」
「嫁御さが気に入ったならよかったべ」
「そ、そうですか」
(みんな、私のこと「嫁御」って呼ぶけど……)
そう呼ばれるたびに、私はどうにも胸の奥に引っかかるものを感じていた。
嫌だ、という訳ではない。
けど、嬉しいような、むず痒いような……。
まだそこまでの段階ではない、と言いたいような。
(阿梨夜は、何も言わないしなぁ)
そう思った時、けれどすぐに、その顔が浮かんだ。
いつものように、何を考えているのか分からないくらい涼やかな顔。
そんな風に、私がつい上の空になっていると──
「……寂しい思いはしてねぇか?」
唐突な問いだった。
「えっ?」
思わず聞き返す。
「あの主さのことだ。粗末な扱いはしてねぇと思うが」
ネムノは視線を森へ向けたまま続ける。
「元の家族への恋しさは別もんだべ」
風が吹く。木々がざわめく。
ユイは答えに詰まった。
麓に残した、家族の顔が浮かぶ。
父、母、祖父、祖母。
そして、ひい爺ちゃん。
「……」
きっと今も、たくさん心配をかけている──
私の家族。
「まっ、すぐには割り切れねぇもんだ」
ネムノは振り返って、肩を竦めた。
「私らだって、最初からこの山のもんだった訳じゃねぇ」
その言葉に、ユイは思わず顔を上げる。
「……ネムノさんも?」
「おう」
ネムノはあっさり頷いた。
「昔は、別の山に居た」
「別の山?」
「道が通って、人が増えて──畏れが薄れて」
「居づらくなってな」
「それで、ここへ来た」
ネムノの口調は淡々としている。
まるで、昔の天気でも語るように。
「家族は……」
そこまで聞きかけて、ユイは口を閉じた。
ネムノは少しだけ笑う。
「もう遠い昔だ」
その笑みは穏やかだったが、長い時間を飲み込んだ静けさがあった。
だからこそ、さっきの問い掛けは、ただの社交辞令ではなかったのだと分かる。
「……寂しくない、って言ったら嘘になります」
ユイは小さく答えた。
「でも」
山で過ごした日々が──
隣で微笑む阿梨夜の顔が、頭をよぎる。
「ここでの暮らしも、ちゃんと好きなんです」
ネムノはしばらく黙っていた。
そして、ふっと息を吐く。
「そうか」
それだけだった。
だが、その一言にはどこか安堵のような響きがあった。
皮肉な話だ。
かつて名だたる霊山として人々に畏れられた山々ほど、今の時代では行楽の場となってしまった。
信仰を集めた山。
神や龍が棲むと語られた山。
容易に踏み入るべきではないとされた山。
そうした場所ほど、道が整備され、案内板が立ち、休日ともなれば大勢の人間で賑わう。
ネムノが暮らしていた山も、そのひとつだった。
元は龍神の棲む山として知られた、荘厳な霊山。
雲を纏う峰々は神域とされ、人々は麓から手を合わせてその姿を仰いだという。
だが時代は変わる。
道が通る。
人が増える。
山は少しずつ身近なものとなっていった。
そして気付けば、
畏れは敬意へ、
敬意は親しみへ、
親しみは消費へと姿を変えていた。
「山は変わらねぇんだけどな」
ネムノはぽつりと言った。
「変わるのは、いつだって人の方だ」
その声に恨みはない。怒りもない。
ただ、長い年月を見てきた者だけが持つ静かな実感があった。
「今じゃ、こーんな田舎の、小さな山にみんなして集まっとるんだから不思議なもんだべ」
この山で出会った仲間の山姥たちの顔を思い浮かべ、ネムノは笑う。
「小さな山って……」
ユイは思わず周囲を見回した。
深い森。
連なる尾根。
見渡す限りの山並み。
少なくとも、自分には十分すぎるほど大きく見える。
「昔の山と比べりゃなぁ」
ネムノは肩を竦める。
「龍がおった山もあった」
「天狗がおった山もあった」
「殿様も崇めるような、えらーい神様が治める山だってあった」
まるで昔話でも語るような口調だった。
「それが今じゃ」
ネムノはくるりと振り返る。
「名前も知られとらんような主さがひとり」
指を一本立てる。
「山姥が十人ばかし」
両の手を開いて見せる。
「あと、嫁御」
最後にユイを指差した。
「……私!?」
思わず声を上げた。
「大事だべ」
「そうなの!?」
「主さが喜ぶ」
「基準がそれなの!?」
ネムノは声を上げて笑った。
その笑い声は、かつて故郷を失った者のものとは思えないほど明るいものだった。