永く生きていれば、時には理解のしがたいことが起きるものだ。
そういうのはいくらかの期間をおいて初めて答えがわかる場合もあるし、ずうっとわからないままの場合だってある――いやそもそも、それが「わからない」ということすらはっきり認識できない時さえままあるほどだ。
よくわからない因果でこの世に生まれ落ちてからというもの、そういうのはわたしの中にちょっとした小山のように降り積もっている。どれもこれも、いまさら答えを知ろうとすら思わないものばかり。わかったところで、心の中の不透明な淀みが少しだけ掻き乱されるくらいのこと、それではっきりと人生のこと細かな機微をつかめるわけでもないのだから、放っておくに限るってものだ。
だからといって、その小山を積極的に高くしようとは思わないけれども。
「春ですよー」
さて、そろそろ身を凍らせるような寒さも若干和らぎ、竹林にも微かな春の兆しがひょっこりと顔をのぞかせるようになった時期の、とある夜のこと。どうやら今夜も輝夜はやってこないらしいと、ちょっとさみしいような気持ちを持て余しながら、小屋の壁に背中をあずけてうつらうつらしていたわたしは、引き戸が小さくノックされる音と、春を告げる軽やかな声で目を覚ました。
「は~る~で~す~よ~」
そういえばもうそんな時期か、とわたしはぼんやり思った。まだ冬の残滓は見られるにしろ、そろそろ生命にとって輝かしい季節が到来するのに違いはない(どっかの誰かが春を盗まないかぎり)。永遠亭、ひいてはこの迷いの竹林が幻想郷に対して「開いて」からというもの、一年に一度はわたしの小屋にもリリーホワイトが訪れるようになった。
「はいはい。ちょっと待ちなー」
わたしは引き戸の向こうに声をかけると、近くにある年季の入った戸棚のところへ行った。慧音がこの前やって来た時、差し入れで人間の里のお菓子をくれたのだ。まだ残っていたはず。それを、毎年熱心に春を布教してまわるちみっこい妖精に持たせてやるつもりだった。
紙袋に包んだお菓子を片手に抱え、わたしはどんなねぎらいの言葉をかけてやろうかと思案しながら入口に向かった。
ガラリと戸を開く。
「はい、お待た――――…………………」
ああやれやれ、またわからないことが増えるのか。
わたしはうんざりして溜息をつく。
外に立っていたのは、ピンクのワンピースをすっぽりと着て、にやにやと笑いを浮かべている、永遠亭の嘘つき兎だった。
「溜息を吐くと」因幡てゐは胸元のにんじん型のペンダントをいじりながら言った。「幸せが逃げていくよ」
……そもそも気づくべきだった。この竹林でリリーホワイトを見かけたことは何回もあるけれど、そのどれもが朝か昼のことだった。夜になると彼女はおおかたどこかの寝ぐらか、あるいはそこらへんの木の枝にでも転がって、可愛らしく寝息を立てているはずだ。だからこんな夜更けに「春ですよー」のノックがあったとしても、それがあの春告精だと不用意に信じ込んではいけなかったんだ。
つまり、わたしは見事に嘘付き兎の策略に嵌ってしまったというわけ。
どんなロクでもない策略かはわからないが。
「……何しに来たのよ、あんた」
もともと今日は結構落ち込んでいたのだけど、この嘘つき兎のせいでさらに力が抜けてしまった。怒る気力すらわかないほどだ。やれやれ最近いいことないな、とまた溜息をつきそうになる。でもそこをぐっとこらえ、両の眼に力を込めた。これ以上何かへまをやらかして突っ込まれるのは嫌だ。
溜息を吐くと幸せが逃げるって?
くそくらえ、だ。
「いい夜だねぇ」
しかしこのにっくき嘘つき兎は、蛇もとぐろを解いて逃げ出すわたしの渾身のひとにらみにもなんのその、右手で胸元のペンダントをいじりながら、左手は体の後ろに回して何かを隠しつつ、達観した仙人でもあるみたいに闇に沈む竹林の空を見上げ、心底機嫌の好さそうな声で言うのだった。
「あんたが来たおかげでね」わたしは口元をひきつらせながら言った。「たったいま最悪の夜になったわけだけど」
「うんうん。で、最悪な心持ちの時には過去を洗い流したくなるというもの。そうじゃない?」
「はぁ? 何を言って……」
「過去を洗い流すのには何が必要か、そう問われれば答えは一つ。つまり、これ」
てゐは体の後ろに隠していた左手をわたしの前にぐぐいと差し出した。
「…………酒?」
白く濁った大きな瓶、その前面に貼ってある紙の上には毛筆で書かれた流麗な「月殺し」の黒三文字。中にはたぷたぷと液体がみなぎっていて、「まぁ呑めや」ってにかっと笑いかけてくるように見えた。
「物騒な名前のお酒もあったもので。それで、これをどうしろと?」
「呑むのよ」
てゐがわたしに酒の瓶を押し付けていた腕を下ろすと、またあの傲慢そうな笑いが見えた。
「呑む?」わたしは眉をひそめる。
「そう」
「誰が?」
「わたしと、あんた」
……いや、まぁ、うん。
それくらい予想してたけどね。
でもそうしなきゃいけない義務がいったいわたしのどこにあるのか。
そこのところを詳しく教えてほしいわけです。切実に。
「……帰りな。見なかったことにしといてやるから」
わたしはこいつに対するあてつけのつもりで、わざと大きく溜息をついた。少々頭が痛くなってきたので、戸に右の肘をあずけ、額の辺りを指で揉む。はやく帰ってくれないかな、頼むから。こいつがやってきてからのほんの短い会話のせいで、優に三日分は疲れたような気がする。
目をつむり、幸せ兎を視界から締めだすと、心地よい暗闇が瞼の裏の世界を覆っているのが見えた。何も考えることなくその闇に身をまかすのは、さぞかし心地よいことだろう。
「あれー?」
てゐがきょとんとしたような声を出す。
「駄目なの?」
「今日はそんな気分じゃないんだ、悪いけど」
額を抑え、目を閉じたままの状態でわたしは答える。
「ふぅん……」
相手が少し黙りこんだので、わたしは目を開き、一歩下がって戸に手をかけた。
「じゃ、そういうこと――あれ?」
目の前にいたはずのてゐが忽然と姿を消していた。
諦めて帰ったのかときょろきょろ見回す。竹林のどこにも、てゐの姿はもう見当たらなかった。
よかった、これで頭痛の種が消えてなくなる……
「うーん、ぼろっちい小屋だねぇ。でも、なかなか悪くないかな。住むには困らないし、必要なものはちゃんとそろってるみたいね」
……そう上手くいくはずもないか。
てゐはわたしが目を閉じているわずかな時間の中で、ひらりと入り口の前のわたしをかわし、小屋の中へ入り込んでいたらしい。ゴキブリが住居に侵入するのと大体同じやり方だ。
振り返って見ると、てゐが敷いておいた布団の上に寝転がって、人様の小屋を値踏みするようにふむふむと観察していた。しかも、こいつめ、いつの間にかすめとっていたのか、お菓子袋を開けてぼりぼりとおせんべいを食べてやがる。
ああやめろ欠片が布団にこぼれてる!
「……今日のお夜食は兎鍋にしようかな。食べたことないから、興味あるし」
わたしはぴしゃりと扉を閉め、振り返ってにっこり笑った。出来るだけ爽やかな笑みを演出したつもりだけどどうだろう。きっと先ほど磨いておいた綺麗な歯が朝の太陽のようにキラリとまばゆく輝いていたはずだ。心の中のどす黒い感情が思わず表出してしまったような気がしないでもないけど気のせいですます。そういえばお腹空いたなぁ。
「暴力はんたーい」
てゐがお酒の瓶を振り回しながら「ぶー」な口をして文句を垂れた。相変わらずせんべいはぼりぼりやったままだ。しばきたおしてやろうか。
「……あんた本当に何しに来たのよ」
怒りを抑えながら、わたしは低い声で尋ねる。本日二度目になるこの問い。お酒を呑みに来たとか言っているけれど、絶対裏に何かあるに違いない。それを探り出さなければ――いや、強引にでも口を割らせなければ。
という風に決意を込めてドスをきかせたつもりだけれど、いまいち迫力がないのは自分でもわかってる。案の定、てゐはまったく意に介さない余裕しゃくしゃくの表情でお菓子袋を漁っている。こんちくしょう。
「んー? んふぉねー」
あむ、とお菓子袋に残っていた最後のお饅頭を口の中に放り込むと、何かを思案するように斜め上を見ながらもきゅもきゅと咀嚼した。
「おむなえひー」
おみなえし? どこの七草だ。
「……わかった、とりあえず、食い終わってから物を言おうか」
そう言ってから、わたしは手を後ろに隠し力を込めて拳を固め、炎の力をこれでもかとばかりに宿らせる。小屋が軽く半壊するかもしれないけれど、まぁ、仕方がない。にっくき輝夜の手下になめられるよりはよっぽどマシだ。
溜まった怒りのボルテージが臨界突破して色んなものが噴出しそうになった時、てゐがやっとお饅頭を飲み込んで口を開いた。
「恩返し」
「…………は?」
気が抜けて、わたしは思わず炎の力を拡散させてしまった。
「……どういうこと?」
「だから、恩返しだよ。お・ん・が・え・し」
いまてゐはわたしの布団の上に胡坐をかいて、右の膝に頬杖をつき、にやりと不敵に笑いながらわたしを見ている。こんなちっこい奴だけれど、こうして見るとなかなかに貫禄があってちょっとびびる。でも、負けちゃいけない。強気を崩したら負けなのだ。
「あんたに恩を売った覚えなんて、これっぽっちもないんだけど」
目に力を込めて睨みつける。もし恩を売るようなことがあったとしたら、それは一生の不覚だった。こうしてわたしの住み家に侵入を許してしまった以上。くそ、いったい何のことだろう。
「この前、うちの妖怪兎が一匹、ケガをしてここらへんでえぐえぐ泣いてたでしょ」
てゐがわたしの睨みをちょっとの微笑みで軽くいなすと、またにんじん型のペンダントをいじり始めた。
「……あー……」
あれのことか……
わたしは閉めた戸に背中をつき、額を片手で押さえながら、へなへなと座り込んだ。
「それで、女神様のように優しいあんたは、ぶっきらぼうながらもその兎の気持ちを静めて、あまつさえこの小屋に連れ帰ってくれた挙句、甲斐甲斐しく傷の手当てまでしてくれたんだよねぇ」
こいつの言葉が、一つ一つ小さな針となってわたしの額を突き刺すようだった。ああ頭痛が治まらない。
そう、先日、この小屋の近くで怪我をして泣いていた妖怪兎を一匹、小屋に連れ帰って介抱してやったのだ。いくら妖怪といえど、見た目はピンク色のワンピースをまとった小さな女の子である。どってんころりんと盛大にすっ転んだ拍子に、近くにあった鋭い石かなにかで切ったのか、小さな膝小僧がぱっくり割れて鮮やかな血が湧き出ていた。わたしにしてみれば、そこでうっかりその兎に同情してしまったのが運の尽きだった。まったく、慣れないことはするもんじゃない。
「つまり、わたしたち因幡の一族に対して、小さいながらも恩を売ったあんたに、今宵は僭越ながらこのわたしが代表して恩返しをしに来たと、そういうわけ」
「……その恩返しが、一緒に酒を呑むことだって?」
「それだけじゃないんだけどね。さ、細かいことはいいから、そろそろ呑もうよ。杯はあるの?」
「ちょっと待った」
きょろきょろと辺りを見まわすてゐに、わたしは立ち上がって静止の言葉をかける。
てゐはきょとんとした。
「どしたの?」
「どしたの、じゃない! わたしはあんたとお酒を呑むつもりなんてないし、恩返しを期待して兎を助けたわけじゃないんだ。こんがりおいしく焼きあがって夜食にされたくないなら、何も言わずにここから出ていきな。そしたら見逃してやる」
わたしはできるだけ強気にすらすらと言ってのけた。
「ふぅん……ほんとにいいの?」
「なにがよ」
ほんともなにも、こちらはそんなつもりはまったくないのだ。
人間は誰しも譲れないものを持っている。わたしにしてみれば父上の受けた辱めの記憶、それに対する恨みの念というものがそうで、その恨みの対象(あるいはそれに近しい者)とわずかでも慣れ合うことは、これまでのわたしの長い人生すべてを否定することになりかねない。だからわたしは確固たる信念を以てこの兎の甘言を退けなければならない。これは、この嘘付き兎やあのにっくき輝夜との戦いであるだけではなく、わたし自身との魂を賭けた壮絶な戦いでもあるのだ。
さぁ言ってみろ! 鉄のように硬いわたしの意志には、お前の言葉に弄される脆さなど微塵もないッ!
「いやぁ、うちの姫の恥ずかしい秘密やなんかを、お酒の勢いでついうっかり口を滑らしちゃおっかなー、とか思ってたんだけどさ」
「なんだって!?」
「だから、うちの姫の、とびっきり恥ずかしい秘密。日常生活にはそういうのがつきものでしょ。それを知りたくはないのかな、って」
「……………………」
「あ、ちょっと動揺してる」
大変残念なお知らせだが、そいつはなかなかに魅力的な申し出だった。
輝夜の恥ずかしい秘密だって?
今度会った時のからかいのネタになる……!
「……たとえば、どんな?」
「それは呑んでからのお楽しみ」
てゐは悪賢い笑みを見せた。
「ま、どうしても恩を受けるのが嫌ってんなら、仕方無い。今日はあきらめて帰るけど」
「ぐ……」
こんな詐欺兎の計略に自らはまりこむようなことをするのは癪なのだけれど。
でも、輝夜に恥ずかしい思いをさせられるなら、それなりに代償をはらってもいいと思う。ああ、あいつの取り澄ました化けの皮が剥がれて、慌てふためく様が目に浮かぶようだ。素晴らしいねまったく。
それにもしかしたら、こいつが隠しているに違いない本当の思惑に気付いて出しぬけるかもしれないじゃないか。わたしだけが得をするような形で、事を終えることができたらそれが理想だ。
虎穴に入らずんば虎児を得ず。何らかのリスクを負わなければ、望むものは手に入らない。実は、その故事成語を覆すような場面は何度も体験してきたわたしだけれど、ここはひとつ信用してみてもいいかもしれない。
それに、まぁ……ただ兎と酒を呑むことがそれほど危険な状況に発展するとは思えないし。
あのお酒、ちょっと呑んでみたいし。
「……念のために訊くけど、あんたなんか企んでるんでしょ?」
「もちろん!」
てゐが爽やかな笑顔で大きく頷いた。その度胸は買ってやろう。
ひとつ腹の探り合いでもしてみようか。
こうして、古びた囲炉裏の直角の二辺にそれぞれ陣取り、わたしたちは疑惑の乾杯をすることと相成った。
てゐによって、二人分の杯にお酒が注がれる。「月殺し」という物騒な筆致が、ラベルの上でギスギスと睨みを効かせていた。このお酒の製造方法を知ってみたいものだけれど、まぁ、世の中には知らないほうがいいこともあるってものだ。
並々と杯の中で滾る透明な液体。
「これ……毒入りってことはないよね?」
ないよね、と呟いておきながら、その可能性は大いにあるとわたしは思った。
なんせこの兎は輝夜のペットだ。もしかしたら、輝夜に命令されて毒を飲ませにきたということも考えられる。
「発想が貧困だねぇ」
てゐが呆れたように言いながら、杯をひょいと手に取った。
「わたしが先に口をつけるから。そしたらあんたも疑わずに済むでしょ。とりあえず乾杯しようよ。楽しい気分が冷めちゃうじゃん」
わたしは慎重に杯を取って顔の前に持っていき、波打つ中身をよぅく見分してみた。なにかの粉が溶け込んでいやしないか探してみたんだけれど、見えるはずがない。結局は、この兎の言うことに従うしかないのだ。
てゐが杯をこちらに差し出したので、わたしも手を伸ばした。
カチン、と軽やかな音が薄暗い部屋に響く。
「かんぱーい」
てゐが機嫌良さそうに宣言する。
「乾杯」
わたしは出来るだけ淡々と言い捨てる。
てゐが躊躇なく杯に口をつけ、ごくごくと飲みほすのを見てから、わたしも恐る恐るお酒を舌でちろりと舐めた。
ラベルに書かれた物騒な字体とは裏腹に、その酒は意外なほどに甘かった。舌で舐めるだけでは飽き足りず、毒が含まれているかもしれないという懸念も一瞬で忘れて、わたしはごくりと甘い液体を嚥下した。
「これは……」
すっきりと口あたりの良い、果実みたいなお酒だった。いつの間にか杯を空けてしまっていて、知らぬ間にわたしの手は床に置かれたお酒の瓶に伸ばされていた。そこで、はっと手を止める。
……いけないいけない。危うく完璧に懐柔されるところだった。あくまで冷静に、自分のペースを見失ってはならない。クールに行こう、クールに。
件のてゐは、お得意のにやにや笑いを浮かべながらわたしを眺めていた。
「美味しいでしょ?」
「…………」
残念ながら、それには頷かざるを得なかった。
頭の中でぽわりと小さな火が灯り、体を内側からほかほかと暖めていくような感じで、なかなか気分が良い。
「『月殺し』だっけ。なんでこんな名前がついてるわけ?」
どうにも、こんな夢みたいに甘いお酒には似合わない名前だと思う。
このお酒の名づけ親はきっとネーミングセンス皆無の奴に違いない。
「知らない。うちの姫に訊きなよ」
ははっ、やっぱりか!
「あいつはまったくセンスがないねぇ。今度会った時にゃあ笑ってやろう」
「まぁ、センスがないというか、姫は名前に関して無頓着なんじゃないかと思うね。兎たちなんてわたしも鈴仙もみぃんなひっくるめてイナバって呼ぶし」
「あんなへなちょこな主の下につかなきゃいけないなんてね、同情するよまったく」
「およ、なかなかテンションあがってきたじゃん」
「…………おっと」
またか。
どうもお酒に夢中になりすぎると気が緩むみたいだ。
てゐが二人分の杯にまたお酒を注ぐ。
透明な液体から立ち上る芳香が、艶やかな彩を紡いで杯から溢れ出し、荒涼とした味気ない部屋を、青い鳥が軽やかに歌いあえかな光に満ち溢れる秘密の楽園の色に染め上げるかのようだった。
「あ、そうそうあの兎ね」
再び杯を取り、手の中で左右にゆらゆら揺らしながら、てゐは言った。
「どの兎?」
「あんたが手当てしてやった兎」
わたしはてゐを睨んだ。そっちの方向に話が進んでいくのはあまり好ましくない。なぜならあの出来事は、こいつがしようとしている「恩返し」とやらに結びつくからだ。
てゐはわたしの睨みを無視して続ける。
「あんたに直接お礼がしたいって言ってたんだけど。どうする?」
「……いいよ。遠慮しとく」
「あらら。うちの一族では珍しいくらいに性格のいい兎なのに。ちょっと泣き虫だけど」
「あれで懲りたんなら、臆病でおっちょこちょいなくせに、竹林を冒険しようなんて考えるな、って言ってやって」
「ふぅん。じゃあやっぱりわたしが恩返しするしかないね、こりゃ」
「だから………しなくていいっての。なんでそんなに恩返しにこだわるのよ」
「あんたが愛おしくてたまらないからだウサ!」
「焼かれたい?」
「力試しの一環」
酒をすいすいと飲みながらも、会話は続いていく。いつの間にか気分が浮き立つようで心地よい。それなりに口も滑らかになって、部屋の隅の暗がりや、囲炉裏の上に積もる灰やなんかも素敵なものに思えてきた。
「力試し?」
「そ、力試し」
「なんの力よ。あんたに力なんてあったっけ」
「失礼な。わたしが巷じゃなんて呼ばれてるか知ってる?」
「ああ、それくらいは熟知してるよ。ロリう詐欺だよね」
「そのどたまカチ割って幻想郷縁起ぶち込んでやろうか。幸せ兎だよ幸せ兎」
まぁ知ってたけど。
人を幸せにする程度の能力だって?
胡散臭い。
「……で、なに? 力試しってことは、人を幸せにして回ってるってこと?」
「いったいどれくらいの人を幸せに出来るのか、その幸せを、わたしはいったいどの程度まで意図的に与えることが出来るのか。そんなのを試してるの」
「へぇ……自分の力の及ぶ範囲がどこまでなのか、あんた自身は把握してないっての?」
「そうそう。たまーに、わたしの意図通りの幸せを与えられないことだってあるからねぇ」
なかなかに興味深い話ではある。
それにしても、他人に幸せを与えて回ってるなんて殊勝なこと、こいつにはまったくもって似合わないと思ったが、やっぱり結構利己的な理由があったわけだ。
「ふん。他人の幸せは自分が決めるって? なんて傲慢な」
わたしは鼻で笑い、ぐびりと杯のお酒を飲みほした。最初の口当たりはいいけれど、このお酒、夢中になってると結構来る。脳みそがぽかぽかと浮き立ち、魂が口から抜け出てふよふよと暗い室内をさまよう、そんな解放感のある幻視を与えるには充分な強さだった。
「そうさ」
得意げにてゐはニヤリと笑うと、同じようにお酒を飲みほした。
「幸せになりたいやつがいたとして、わたしはそいつが望んでいる幸せなんか与えてやんない。そいつが思いもよらないような、独創性と意外性に満ちた幸せを与えてやる。でなきゃわたしが」
てゐはこぽこぽと二人分の杯にお酒を注いで、その片方を上からつかみわたしの方に差し出した。こいつ、ちっこいくせになかなかいけるクチだったらしい。それなりに酒に強いことを自負してるわたしですら結構酔っているのに、こいつは酩酊の片鱗すら見せずに平然と、わたしよりも早いペースで杯を乾していく。
くそ、負けてたまるか。
変な対抗心に駆られ、わたしはまたお酒を口に含んだ。
「……面白くないからね」
赤い瞳が一瞬消えて、すぐにまたきらきらと輝き始めた。それがウィンクだと気付いたのは、いつの間にか訪れた泥のような睡眠からほうほうの態で抜け出した後のことだった。
つまり、わたしはてゐとの会話中、あっけなく酔いつぶされ眠り込んでしまったらしいのだ。
「うぁー……ちくしょう……」
世界がコマのように回転していた。地球は永きに渡って縛り付けられていた公転軌道のくびきから解き放たれ、太陽に別れを告げて無限に広がる宇宙をクルクルと自転しながら旅するようになったのだ。まさしく宇宙船地球号。ただし中にいる船員は一人残らずてれんてれん状態であるがゆえ、安全運転は素粒子ほどにも望めまい。
まぁそんな感じで、素適にサドい二日酔いがわたしを嬉々として責め立てているわけだ。吐いてしまえば楽になるのだろうが、何年経っても「嘔吐」という感覚にはなれないもので、あの内臓を引きずり出されるような最悪の経験を味わうよりは、いっそのこと一回死んでリザレクションしたほうがマシとさえ思っているのである。
「なんか盛られたかな……」
てゐが最後に杯に酒を注いだ瞬間、あいつの手元が怪しげな動きをしたのは気のせいだろうか。
なかなかの美酒だったし、会話はそれなりに刺激的だったし、意外と損した気にはならなかったけれど。
「あ、くそ、輝夜の秘密聞き忘れたなぁ……」
わたしは溜息をついて身を起こした。
小屋の中はいつもと変わらない。どこも荒らされたような形跡がなく、そもそも盗まれて困るようなものは置いてないのだから、いちいち紛失物を探し回るようなしち面倒臭いことはしたくなかった。それよりもこのうざったい酩酊をどうにかしたい。
こういう時素直に吐けないとなれば、するべきことはただ一つ。静かな竹林を散歩し、爽やかな風に当たること。
「じゃあ行こうか……おや?」
よく見ると、囲炉裏に置いた黒い大鍋の底に、一枚の紙切れが張り付いていた。そこには小さな字でこう書かれていた。
『恩返しは未だ完遂せず。明日の夜をお楽しみのこと。
どうやらあいつ、ここで一緒に酒を呑むことがすなわち恩返しの全てであるとは決めていないようだった。まだ何かやらかすつもりらしい。
その文言の下のほうにまだ何か書かれていたので、わたしはそれを読んだ。
――――ちなみにあのお酒、
姫の 口 噛 み 酒 だったウサ』
最後にウサがついてるから嘘に違いないなッ!
わたしは紙を灰にして立ち上がり、厠を求めて疾走した。
このうらみ、はらさでおくべきか。
むかむかする胃を押さえながら、わたしは竹林をさまよっている。口からは引っ切り無しに呪詛を垂れ流し、白い髪をざっくばらんに乱しながらよろよろと道なき道を行く姿は、さながら丑の刻参りで毎夜釘を打ち付ける鬼女のようだったろう。案の定、途中で出くわした妖怪や動物たちはみんな尻尾を巻いて逃げ出していった。
さて、どうやってあの兎に仕返しをしようか。
幸いなことに、明日の夜に相手がわたしの家にやってくるということは分かりきっている。あの紙に書かれていたことが嘘かもしれないという仮定はさておいて。
ならばことは簡単である。あいつがやってくる時刻までに、わたしの小屋の玄関に狩猟罠かなにかを設置すればいい。もちろん仕返しといっても単なる悪戯に留めるつもりなので、ケガをさせるには至らないように工夫をしなければならないが、あの取り澄ました面を剥ぎとって屈辱の色に染め上げるにはもってこいだろう。
仮にも誇り高い妖怪であり、因幡の一族のトップに君臨している(らしい)てゐが、小賢しい人間の考えだした罠に掛かったとなれば、赤面どころではすまないに違いない。
実にいい気味だ!
そこまで考えて、客観的に見てみれば、自分が単なる悪者にすぎないんじゃないかと思えてきた。
今回の件、字面だけ追えば、健気にも恩返しをしようと足しげく小屋に通ってくる妖怪兎と、その好意を無下にして屈辱の罠に陥れようとするわたし、そんな構図が浮かび上がってくるじゃないか。
……いやいや、そもそもわたしは恩返しなんて望んでいないわけだし。それに、あの内臓をひりだすようなおぞましいヴォルケイノを味わったことを考えれば、ちょっとだけ相手のプライドを傷つけるだけの罠など、鳥の羽根のように他愛無いだろう。むしろ、これだけで済ましてやる天使のごときわたしの心遣いに感謝してほしいくらいだ。
と、そこで、さっきから妙な匂いが漂っていることにわたしは気付いた。
竹林の中ではついぞ嗅いだことのない、たおやかな芳香が鼻をくすぐる。
いつの間にか、竹林のかなり外のほうに来ていたようだ。わたしはその匂いを追って歩を進める。
ちょっと歩くと、竹林の外に出た。
その匂いの正体は。
「ああ、そうか…………桜かぁ」
そういえばあいつも言っていた。「春ですよ~」と。
竹林にもところどころに春の兆しは見えるので、今が生命の芽吹く輝かしい季節だと、知識としては持っていたのだけれど。
やっぱり桜はその象徴というか、ここにきて初めて、わたしは今が春だという力強い実感を得たのだった。
降り注ぐ太陽の光の下に、ちろちろとピンク色の吹雪が舞う。目の前の景色はせわしなく明滅して、見てると目がチカチカしてきた。よく目をこらすと、向こうの方に一本の巨大な桜の木が立っていた。無骨な幹はがっしりとした枝々を天に伸ばし、さながら空をその伸びやかな手で受け止めようとしているみたいだった。なんとまぁ包容力のある桜の木だろう。盛大に花びらを辺りに吹き散らし、周囲を自分の色で染め尽くそうとするような、野蛮とさえいえる意志がそこにはあった。
ううむ、あんくらい大らかにというか、図太く悪どく生きたいものだ。
そんなことを考えながら、わたしはその場に腰を下ろした。
「…………おや?」
桜の木の下で、無数の何かがちょこまかと動きまわっていた。
「あれは……妖怪兎か」
桜色の背景の中で、ピンクのワンピースが迷彩のようになっていて見えにくかったようだ。
幹の根本の周りには、たくさんの妖怪兎たちがしゃがみこみ、しきりに何かを集めている。
「…………あんなん集めて、何になるんだか」
その何かとは、桜の花びらだ。
もしかしたら、永遠亭の奴らがまたぞろ悪事を企んでいるのかもしれない。春を盗んで幻想郷に明けることのない冬をもたらした不届き者もいたことだし、どうせロクなことじゃないだろう。
「関わらないのが吉、かな」
また寒くなるのは嫌だなぁ、とぼんやり思いながら、わたしは立ち上がった。
春の雰囲気も存分に味わえたことだし、そろそろ家に帰って明日仕掛ける罠の準備をしよう。
覚悟しろ因幡てゐ。目にもの見せてくれるわ!
「フフフフフフフフフフフフ」
わたしが可愛らしい乙女の微笑を朗らかにこぼすと、周囲の動物たちがみんな逃げていった。
はたして、幸せ兎を陥れるための罠が完成した。
それは古典的なトラバサミである。前に竹林で拾ってきたのを物置に保管していたのだ。実はどっかの猟師が仕掛けたものを、わたしがうっかり引っかかったんだよなんて誰にも言えない。そのまま使ったら足の骨が砕けかねない(以前わたしの骨は砕けたわけだが)ので、改造して威力を弱め、足が挟まれてもちょっとびっくりする程度にしておいた。
さて、設置したはいいが、むき出しのままではすぐにバレてしまう。小屋の玄関に仕掛けるわけで、外のように草むらに隠しておくようなカモフラージュは出来ない。
足もとに目を向けさせない工夫。
つまり、小屋に入った瞬間に視線を上にむかせればいいわけだ。
そこでわたしは名案を思いついた。天井の梁から紐でニンジンを吊るせばいいのだ。こうすれば視線を斜め上方向に固定できるうえ、にんじんが好きそうなあいつのこと、それを視認したとなれば、お賽銭が投げ入れられる音を聞いたどこかの巫女のごときスピードで走りだすだろう。そうして勢いよく足を踏み出したら――――バチン! である。
わたしは作業を終え、額の汗を拭い、自分の高潔な仕事の成果を、作品を完成させた巨匠のように達観した心持ちで眺め渡した。
――見事なトラップだと感心はするがどこもオカシくはないな。
自画自賛してから、囲炉裏の前に腰を下ろした。
トラバサミの改造には昨日の夜と今日の午前中いっぱいかかってしまったが、なんとか出来上がった。今はもう日が暮れて、てゐがのこのこと現れるのを待つばかりだ。
寂れた色合いの灰を眺めながら、少し考える。
あいつがうちにやってきてから、絶えず何かしら考えを巡らし、動き回っている。普段の起伏のない日常とは大違いで、もしかしたら、自分にとってはかなり具合の良い暇つぶしになったのかもしれない。
わたしが罠を仕掛けたと知ったら、あいつは怒ってもう二度と来なくなるだろうか。
それは少し、もったいのないことかもしれない。
そんな風にらしくもない逡巡をしていると、いつの間にか夜はとっぷりと深まっていた。トラップはまだ仕掛けたままだ。
結論からいえば、そんなわたしのためらいはまったく意味がなかった。
あいつは予想だにしないやり方でやってきて、わたしの目論見を完膚なきまでに粉砕してくれやがったからだ。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁるぅうぅぅぅぅでえええぇぇぇぇぇすぅぅぅぅぅぅよぉぉぉぉぉぉお!!!!!!!!!」
「え、な、なにっ?」
突然上から叫び声が聞こえたので、わたしは飛び起きた。
ひゅるるるると何かが落ちてくる音がする。
次の瞬間、「バキャァン!」とも「メメタァ」ともつかない轟音を立てて、天井の一部が景気よく破砕された。
天井板を昇天させてから現れたのは、一つの巨大な樽だった。でっぷりと太った鯉のようなそれは床板に激突して大穴をあけ、吊るしてあったニンジンを粉塵に変え、それでも飽き足らずダムンダムンとバウンドして家具を幾つかなぎ倒し、わたしを危うくかすめて壁にぶつかり、周囲に甚大な被害を与えてようやく停止した。
唖然、である。
なにこの、なに? なんで空から樽が降ってくる? 音に聞く天人の戯れだろうか? それともどこかの悪戯好きな妖精の仕業? いや、待て、「春ですよ」とか聴こえたような気がしないでもない。するとこれは、
ヒラリ、とピンク色の小片が舞い、わたしの鼻先をかすめて地面に落ちた。
それは、桜の花びらだった。
幾枚も幾枚も止め処なく降り注ぎ、味気ない茶色の床を鮮やかな彩りで満たしていく。
見上げると、樽が突き破った天井の穴から、花びらが吹雪のように舞いこんできていた。
部屋は桜色に明滅し、夢の中にいるように霞んで見えた。
もう、わけがわからない。
わたしは降りしきる桜の雨に包まれて、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
すると、天井の穴から花びらに紛れてぴょこんと飛び降りてくる者がいた。
「待たせたね」
ピンク色のワンピース、にんじん型のペンダント、黒いくしゃくしゃの髪、白い肌に赤い瞳。
「約束通り、ありったけの春と幸せを届けに来たよ!」
因幡てゐが、生意気そうに胸をそらし、ニヤリと笑った。
「約束――約束って」
驚きのあまり、金魚のように口をぱくぱくすることしかできない自分がもどかしい。でも、予想のナナメ上を行く侵入(というかもはや突撃)と、不意打ちの桜の花しぶきのせいで、怒りとか、躊躇いとか、そんなものは全部どっかに吹っ飛んでしまった。
「あの、あの樽は」
「ああ、あん中にはねぇ、秘密のルートで仕入れてきたとっておきの麦酒がなみなみと入ってるよ。一昨日とはちょっと趣向を変えて、今日はこいつで乾杯といこう」
「桜の――」
「昨日集めておいたのさ。そろそろ桜も全部散っちゃうからね。今日の肴は、この桜の花びらということで。ちなみに屋根の上でばらまいてるのはウチの兎たちね」
なんのために、こんなことをしでかしたのか。
その疑問を遮るようにして、あいつはわたしに二の句を告げさせず、ぽんぽんと話を続けていく。
落ち着け、わたし。すっかり向こうに主導権を握られているぞ。
「ち、ちょっと待った! あんたねぇ、あんなことしておいて、天井はいったいどうす」
「んー? もうあの子たちが直し始めてるから大丈夫。明日の朝にはぜぇんぶ元通り。花びらもちゃんと片しとくから、あんたはせいぜい麦酒呑んで酔い潰れるがいいよ」
よく聞くと、天井の上から「ひとーつ叩けばダイコクさまー」とかいう楽しげな掛け声に混じって、トンカントンカンと胡散臭い工事の音が聞こえてくる。
いつの間に侵入したのか、てゐの他にも妖怪兎たちがわらわらとそこらに勝手に座り込んで、思い思いにくつろぎはじめている。
わたしは為すすべもなく、大きくため息をついた。
「……もう、本当に、なに考えてんのよ……」
「だから、恩返しだって」
ニコニコとてゐは笑う。
なんか、疲れた。
「……トラップも見抜いてたわけ?」
「は? トラップ? なにそれ」
「いや、なんでもない。忘れて」
ああもう、色々と画策したり躊躇してたのが、心底ばかばかしくなってきた。
脱力して、わたしは囲炉裏の前に座り込んだ。
この意気消沈こそが、わたしが負けたことを雄弁に語っている。
こんな時は、
「さ、早速麦酒飲もう、麦酒。ねぇ、誰か樽開けてー」
「はぁーい」
「うさー」
てゐのかけ声に応えて、数匹の妖怪兎たちが、うきうきわらわらと壁に突っ込んだままの樽のほうに集まっていく。
樽が開けられ、大きなジョッキに黄金の液体が注がれる。それを、一匹の兎がこちらへ運んできた。わたしがそいつを睨むと、兎はきゃっと悲鳴を上げて仲間のところへ戻っていった。
「怖い怖い。まぁそんな固くなんないでさ、こうなったからには楽しもうよ」
てゐがにやにやと笑いながら、ジョッキを手に持つ。透明な杯の中で、夢のような色の麦酒がたぷんと揺れた。
こんちくしょう。
ええい、もうどうにでもなれ!
「ああ、わかったよ。わたしの負けでいい。負けでいいから、あの樽一つ丸々空けるほど飲んでやるからな。前後の見境もないくらいべべれけに酔っ払ってやる。覚悟しな!」
「いいねぇ、ノってきたねぇ。でも見境なくなっちゃあ折角の宴も楽しめないよ。飲むだけじゃなくて気兼ねなく語らうのが、宴会の楽しみってもんでしょ。まぁ、細かいことはどうでもいいや。ほれほれ、乾杯しよう、乾杯」
てゐがジョッキをこちらに掲げる。
わたしは喧嘩を売るように杯を突き出して、お互いのが激しく揺れるやけくそな乾杯をした。
「かんぱーーーーーーーーーーーーいっ!!!」
「うさー!!」
わたしたちに合わせて、周りの兎たちもジョッキを宙に突き出した。
なんだかうまくハメられたような気がしないでもない。
そんな疑いがチラチラと頭の中をよぎったけれど、目の前に次々と運ばれてくる杯を乾していくうちに、だんだん気分は沸き立ってきて、色々なことがどうでもよくなった。お酒の魔力、恐るべし。
てゐが持ってきた麦酒は、あんな強い衝撃を与えられたにもかかわらず、キメの細かい泡と心地よい苦みが最高だった。喉越しが良いのですいすい呑めてしまう。てゐは顔を赤らめもせずこともなげに大ジョッキを空にしていく。前の時も思ったけど、こいつはザルというか、もはやワクだ。
「さて、今日来たのには目的が一つあったわけだけど、あんた大丈夫?」
「あぁ? 目的? なんだいそれ」
「ほら、前に助けてくれた兎の話」
「あいつか」
「やっぱり、あんたに直接お礼言いたいんだってさ。今日もここに来てるよ」
「へぇ……まぁ、そこまで言うんなら別にいいけどさ。お礼聞くだけならタダだし」
「じゃあ呼ぶけど……あれ、あの子どこ行った?」
てゐがきょろきょろとあたりを見回す。周囲には陽気に酔っ払った妖怪兎たちがぺちゃくちゃ話したりドタバタ走り回ったりしていたが、目的の兎は見つけられないようだった。
わたしはてゐの背後を指差して言った。
「あれじゃないの?」
「ん、どこ?」
「外」
少しだけ開いた戸の間から、内気そうな紅い瞳と、白くひなびた兎の耳がのぞいていた。
「ありゃ、あんなところに。まったく内気なんだから。おーい、こっち来なよ。お礼聞いてくれるってさ」
てゐから呼ばれると、兎はおずおずと戸を開けて中に入ってきた。てゐよりもさらに体が小さくて、怖がりなくせに好奇心は人一倍強いという、厄介な性格を持つ兎だった。
「あ、あとそこ」と、てゐ。
「ん?」と、わたし。
「気をつけないと罠が」
ガチャン! と音が鳴って、兎の脚がトラバサミに挟まれた。
「ひきゃあっ」
…………そういえば忘れていた。
周りの兎たちがからからと笑いながら、罠を外してやるために彼女の周りに集まった。
「……やっぱ気付いてたんじゃん、あんた」
わたしは肩をすくめ、麦酒を飲んだ。
「んんー? なんのことかなー?」
てゐが笑いながら、並々と液体の滾るジョッキをこちらに差し出した。
やれやれ、まったく得体の知れないやつだ。
すべてが計算ずくのような気もするし、全然何も考えずにやってるような気もする。
こいつのことは――よくわからない。
件の仔兎はすっかり気勢を削がれてしまったようで、こっちに来てからもてゐの後ろに隠れっぱなし、時々おずおずとその影から顔を覗かせるけれど、わたしと目が合うと「ひぅ」と小さく悲鳴を上げて頭を引っ込めてしまうのだった。
「……そんなに怖いかね、わたしは」
「あんたが怖く見せようとしてんじゃないの?」
「いやまぁ、否定は出来ないけどさ」
「ふふ、そりゃ怖く見えるに決まってんじゃない。もっと肩の力抜きなよ。長生きできないよ?」
「それは皮肉のつもりで言ってんの? 死なないんだよ、わたしは」
てゐはわたしの言葉を無視し、ジョッキを大きく傾け、中の麦酒を思い切り良く飲みほした。周りの兎が「おおー!」とうさうさ囃したてる。
ぷはぁ、と息を吐き、ジョッキをドンと床に下ろして、てゐは袖で口元を拭った。
「長生きするんだよ、妹紅」
あまりに唐突な一言。
その快活な口調からは皮肉にもとれず、深い意味がこもっているのかそれとも大して考えずに言ってるのかよくわからなくて、わたしは思わず吹き出した。
「はははっ! 何を言い出すかと思ったら……よくわからないね。何が言いたいわけ?」
「うん? 言葉通りの意味だよ」
「どっちかというと、それはわたしがあんたに向けて言う台詞だと思うんだけど」
「言ってくれるの?」
「まさか」
「おやおや、つれないな。まぁいいや。いくら死なないっていっても、それは肉体だけのこと。精神だか魂だかが腐っちゃあ元も子もないよねぇ。いつまでも健康でいたいんなら、そんな肩肘はってないで気楽に生きなよって話」
「ふん………これまで、あんたの言葉を借りるなら『肩肘はって』生きてきたけど、全然腐りやしなかったじゃない。だからこのままでも大丈夫だよ」
「まぁまぁ、年上の言うことは素直に聞くもんだ」
「年上……幻想郷でもトップクラスの年齢不詳な奴が言うなよ……というかあんたにだけは年上ぶられたくない」
「年上だぞー! 偉いんだぞー!」
「ああもう、わけわからん」
わたしは麦酒を飲みこみがてら、天井のほうを見上げる。穴はもう大分塞がっているけれど、屋根の上のやつらも飲みながら作業をしているようで、いつ終わるのかはわからなかった。
その小さな隙間から、未だに桜の花びらがちらちらと降ってきている。
「桜ねぇ。どうしてこんなこと思いついたんだか」
「味気ない生活にはいい彩りじゃん。こういう風な、なんていうの、強弱というか、起伏というか、そういうもんがないと駄目だね。長く生きる秘訣といえば、そう、頭の中に春を持つことだ。たとえ秋でも冬でもね」
「なんだそりゃ……」
「それと、流れに逆らわないこと。目の前に激しい濁流があったら、自ら進んで飛びこんでいって、それすらも楽しんでしまうような図太い精神が必要だね」
「今日は人生訓を垂れにきたわけ?」
「あんたの凝り固まった頭をほぐすために来たのさ。でも、どうにも駄目みたいだね。今日だけじゃあんたを幸せに出来そうにない」
「そりゃよかった」
「そこでだ。ひとつ提案なんだけど、これから長い時間をかけてもうひと勝負するってのはどう?」
「ひと勝負?」
「あんたに幸せを押し付けられたらわたしの勝ち、その前にわたしが飽きたり諦めたりしたらあんたの勝ち。決着するまでは、こうやって定期的にお酒を飲む。つまりこの宴会こそが勝負の場ってわけさ」
「ふぅん……それをしたとして、わたしになんのメリットがあんの?」
「こうやっておいしいお酒をたらふく飲める」
「ありえないと思うけど、わたしが負けたらどうなんのさ」
「別にどうもしないよ。あんたに幸せを押し付けられたなら、それでわたしは満足するからね」
「へぇ……」
それ、わたしにとってはほとんど実害なしじゃないか。
もし負けたとしても、結局わたしが幸せになるだけだという。
…………こいつがどんな幸せを押し付けようとしてるのか、ちょっと興味はある。
「どうする? 受けるかい? それとも降りる?」
「………一つ質問」
「なに?」
「あんた、どうやってわたしを幸せにする気?」
「それはわたしにもわからない。これからあんたとお酒を飲んで、話を聞いて、その中からあんたを幸せにする方法を見つけ出していくのさ。あんたはただ酒飲んで言いたいことを言ってりゃいいだけ」
どうやら、ずいぶんと気の抜けない宴会になりそうだ。
てゐは立ちあがって、仔兎の背後に回り、その肩に手を置いた。
「勝負を受けるんなら、この子にお礼をさせてやってくんないかな。条件はそれだけ」
いきなり話題に挙げられた仔兎が、ぴくりと震えた。
わたしは仔兎を見る。
仔兎はしばらく内気そうに震えていたけれど、てゐの手に元気づけられたのか、勇気を出して顔をあげ、こう言った。
「あっ、あの、ありがとうございまちたぁっ」
今、舌噛んだな。
仔兎は顔を真っ赤にして涙目になり、両手で口元を押さえた。
……あー、くそ、ちょっと可愛いと思ってしまった自分が腹立たしい。
わたしがすっと手を伸ばすと、仔兎はぴくっと震えた。
白い二本の両耳の間にぽすんと手を置く。
「……おっちょこちょいなのに、無茶はするもんじゃないよ」
少し頬を緩めて、笑おうと努めてみる。
……どうせ頬が引きつったようにしか見えないんだけどさ。
それでも仔兎は一瞬だけきょとんとすると、すぐに晴れやかな笑顔を浮かべて喜んだ。
「……さ、目的も済んだことだし、今日の宴会はこれにてお開きとしようじゃないか」
てゐはパンと両手を合わせて合図し、周りの兎たちに指示を出し始めた。
「息の長い勝負にしよう。なんせ、お互い暇ならたっぷりあるし。ゆっくりと時間をかけて籠ら……恩返ししてあげるよ」
「ふん。たぶんわたしに酒を貢ぐだけで終わると思うよ。そこんとこは覚悟しときな。それと、輝夜の恥ずかしい秘密とやらも今度聞き出してやるから、ネタはちゃんと用意しておくことだね」
「ああ、そうそう、姫で思い出した」
「ん?」
「一つ教えてあげようか、姫の秘密」
てゐは指を一本立てて口に当て、片目を閉じてウィンクした。
「昔々、あるところに、良い夢を見ることができるお薬がありました。それに興味を持ったお姫様は、長年連れ添った薬師さんに頼んで、一回だけ服用させてもらいました。その時、寝言で…………なんて言ったと思う?」
「……さぁ」
てゐはニヤリと笑って、言った。
「――――お願い、妹紅、殺して」
目が覚めると、部屋はすっかりと片付いていた。屋根の穴はふさがっていたし、床にばらまかれていた桜の花びらは一片も残さずに片付けられていた。
なんだか夢を見ていた気分だ。
でも、昨日のことが夢ではないのは、この頭を責めさいなむ鈍い痛みが物語っている。
「……次は、どんな罠を仕掛けてやろうかな」
たとえどんな罠を仕掛けようとも、あいつならことごとく見破って、思いもよらぬ方向からやってきそうだけれど。
その行動の読めなさ、本心のわからなさが、すなわちあいつの特徴なのだろう。
「おや?」
よく見ると、囲炉裏の前にお猪口が一つ、ぽつりと置かれていた。
そこにはお酒が入っていて、香しい匂いを放つみなもには、桜の花びらが一片、小舟のように可愛らしく浮いていた。
「忘れ物していくなよ、まったく」
わたしはそれを手に取り、一気に傾けてぐいっと飲みほした。
『頭の中に、春を持つことだ』
「……まぁ、そこそこ粋だったってことは、認めてやってもいいかもね」
このようにして、小さな春が一片、わたしの中に吸い込まれていったわけだ。
いくつか気になったところと、誤字等を。
>恩返しは未だ完遂せず。明日の夜をお楽しみのこと
とあるのに、その後妹紅が
>二日後に相手がわたしの家にやってくる
と言っているのが一つ。
あと、
>てゐはパンと両手を合わせて合図し、周りの兎たちに支持を出し始めた
は 支持→指示 でしょうか?
しっかし……本当に素晴らしいてゐだなぁ……眼福眼福。
素晴らしいお話、ありがとうございました。
天井を破って入って来たてゐの凄さとか、妹紅との会話や雰囲気など面白いお話でした。
ご馳走さまでした
読み終わったあとこの言葉が自然にこぼれました。
全体的な雰囲気が私とマッチしたのでしょうか?
とにかく素晴らしいSSでした。ありがとうございます。
随所の一文一文が少々長く感じた以外は素晴らしい出来だったと思います。
嘘は吐くけど義理固い。てゐは憎めないやつと言う表現が良く似合うキャラだなぁ。
所々にネタを散りばめてクスリとさせつつ
凄くキレイな最後を持ってくる辺り脱帽です
九十点をつけようと思っていたが……うん、まあなんだな。
百点だ。しかたないね。そういうことってある。
それにしても良いな。実に良いな。
見事なSSだと関心はするがどこもおかしくはない。
麦酒を奢ってやろう。
良い話だねぇ。
あたたかいお話をありがとうございます
かわいいお話で思わず身悶えしちまいました
読んでる俺を幸せにしてどうすんのかと
カウントしちゃうとてゐは上から五番目くらいの年ですねww
でも、寝言で姫が言ったという言葉が心に刺さりました。
一体どんな夢を見ていたのでしょうね・・・
かんぱい!
信条を持ってのびのびと行動するてゐがただひたすらに格好よかったです。
うさーーーーーー!!
見ているだけで自分も幸せになれました。
見慣れたようでフロンティア
メメタァに吹いたww
幻想郷では稀なほど健康的な人生観を持つ(と自分は思います)てゐは、どんなキャラとでも相性良く物語をつむぐ名キャラクターだと思うのですよ。
この作品での妹紅との掛け合いも、実に潤滑で素晴らしかったです。
もう言葉もないくらいいい。
長く生きてて、健やかで、飄々として人を幸せにするためにあれこれ画策しているてゐが、
死ぬことのない妹紅にかけた言葉がたまりません。
妹紅もひねくれてるけど根が優しくて素敵だ。
そういやうどんげっしょにも竹林で迷った兎を永遠亭まで送り届けるエピソードがありましたね。
こんな凄いもの読ませてもらったら、てゐが妹紅に興味を持ったとことか、もっともっと詳しくエピソードを知りたいです。
ありがとうございました!