四.
その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。
あれから丁度一日後。小悪魔は用事ができたとパチュリーに告げて一度塔を離れていたが、パチュリーの方は塔内部に物資を持ち込んで一夜を明かしていた。そして小悪魔の帰還を待って二人は塔の登頂を再開した。アキレスと亀の思考実験の如く二人が登るたびに石は更に上に積まれるから永遠に頂上にたどり着きはしない。速度としては二人の方が亀なので尚更である。しかし登るごとに時間は経過するし塔は高くなる。それが重要だった。
何万個目か、もしかしたら億個目か。ともあれ一個の石がパチュリー達の頭上で積まれた瞬間、塔がぐらりと揺れた。
「ついにこの時が来たわね」
塔はすぐにのたうつ蛇のような動きになり唸り声をあげた。パチュリーと小悪魔は飛ぶことで床の揺れは回避するものの、巨塔の大幅な振動は中に不規則な気流を生み出しそれに殴られる。
「これが、神の怒り……」
空気が裂けた。端的には落雷なのだが、そういうありふれた気象用語を超えた何かであるような畏怖を二人は覚えた。大いなるものが塔の空間を上から下に両断した。「放翁病過秋 忽起作醉墨 正如久蟄龍 青天飛霹靂」。
稲妻の一撃は塔にとって致命傷となった。石を積む術式は完全に壊れて、既に積まれた石も噛み合いや重力といったそこに留まるための作用を失って紙くずのように舞い上がるか吹き飛ばされるかしていった。
気流は未だ不規則なようで、徐々に明確な意思を持ち始め、パチュリー達を塔の内側の領域に閉じ込めながら下に叩きつけるような風向きになった。当然パチュリーの体力でこの風に抗うのは全く不可能で、生還できるかどうかは小悪魔にかかっている。
「小悪魔!!」
「はいっ!!」
小悪魔に二人を生還させることを命じたパチュリーは高笑いをした。
「日本語!! 私達は日本語で会話ができている!! 今回は言葉は破壊されずに済んだわ!!」
***
悪魔は使役者の命令には絶対に服従せねばならない。ただこの制約はあくまで命令を発せられたという始点への服従であり、過程にどういう手段を用いようと悪魔の勝手だし、結果が伴わなくとも違反ではない。
だから今回の命令も生還できなかったとしても仕方のないことだし、それどころか完遂はかなり困難と言える。
だが小悪魔は絶対に生きて帰り生きて帰してやると固く誓った。神なんぞにパチュリー様の命をくれてやる道理などない。我らが悪魔が神の宣告にただ素直に従うなどということがあってはならない。
主が抱く知識への底抜けな渇望を知った瞬間、小悪魔は主の賭けに乗ることに決めた。カードは配られ、それを可能な限り入れ替え、できるだけのイカサマをも整えた。そして今、カジノテーブルの対面におわす神は二人の行動に対して支払われるべき対価を提示した。
「コールよ」
二人は塔の一階にまで降ろされていた。一階は図書館になっている。今本棚に納められているのはニムロドの著作およびその写本。「この言葉で書かれたもので書庫を埋めよ」は塔の本に書かれた一節であり、パチュリーはこれを設計の一部とみなした。今、蔵書全ては突風により解き放たれ、本を綴じていた糊も糸も全部剥がれて羊皮紙の一枚一枚、パピルスの一枚一枚が宙を舞っている。そうした紙を突き破って石が自分達めがけて落ち始めている。神の弾幕。密度と弾速もさることながら、風により回避する足は信じがたいほどに制限されていた。
「どっかの誰かが信ずる神は完璧に狂気
だったわね」
パチュリーが常日頃「死ぬときは本に囲まれて死にたい」と言っていたことを小悪魔は思い出した。十中八九、その言わんとすることはあの大図書館で一生を終えたいということなのだろうが、ここで死んだとして、それはそれで「本に囲まれて死ぬ」というシチュエーションを満たしてはいる。
「悪魔が正気かというと、全然そんなことないけれど」
小悪魔は右手に大型ナイフを、左手に長い針を持った。床には即席の魔方陣があり、これが脱出経路。ただし、この魔方陣は死者を冥府に通すためのものだし、塔を壊す神の意思もまた、主犯が生きて塔を脱出することを許しはしないだろう。よって。
「パチュリー様。貴方の命を独り占めする権利を有しているのは私だけですから」
小悪魔は右手で自分の首を刎ね、それと同時に、首なしになった彼女の体は、左手の針でもってパチュリーの心臓を正確かつ一瞬に貫いた。
***
図書館中央のテーブルに座ったパチュリーは、手の指をしきりに動かしていた。
「死んだ人を生き返らせるのは、いくら悪魔でもやっちゃ駄目なことではないの?」
「三秒ルールでセーフです」
「命の生き死にに対して使うことあるのね、その言葉」
「外の世界の医療でも似たようなことはしてるらしいですよ。パチュリー様でも予想外でしたか?」
「塔を登ってた途中で唐突に血液を所望されてしかも『一旦急ぎの用事があるので帰ります』とまで言われたから可能性の一つとしては考えていたわね。でも普通はもっと穏当な手段が別にあってこれはプランBとかでしょ」
「いや、最初っから大本命でしたね」
「体を二つ用意するにしても抜け殻の方を身代わりにしてとかさ」
「パチュリー様もご存知でしょうが、神は塔を崩して中にいる我々を圧殺しようとしていたんですよ。であればバックアップを外に用意した上で中の側は諦めるというのが一番単純明快な解答で」
塔の中で二人は一度死んだ。直後魔方陣で魂を紅魔館図書館側に脱出させ、魂に対して完全に死の判定が下される前に用意していた肉体の複製に魂を詰めて復活。
「だから、これは正確には私の体ではないんじゃないの?」
「ホムンクルス、外の世界ではクローンと呼ばれる技術なので、細胞レベルで同一ですよ」
「ホムンクルスであることは疑ってないわよ」
パチュリーは手の甲の臭いをかいでしかめっ面をした。ホムンクルス培養液特有のホルマリンとエタノールを混ぜたみたいな刺激臭がする。数日は臭いはとれまい。
「記憶も、死んでいた瞬間の数秒を除けば元と連続しているはずです」
「そう。培養されたみたいな臭い以外は私自身として違和感がないのよ。体もちゃんと動くし。私は塔の下で死んでいるはずなのに」
「パチュリー様は今、自分を自分と思えているのでしょう? じゃあそれでいいじゃないですか。塔の下敷きになった方が抜け殻なのです」
「正確には『どこかの誰かに心臓を突かれた後塔の下敷きになった方』」
「もしかして根に持ってます?」
「それなりに。あとなんだか悪魔にでも丸め込まれているみたいなのよね……」
パチュリーは小悪魔の方を見て目を見開いた。
「みたいじゃなくて悪魔に丸め込まれているそのものじゃないの」
「そこを指摘されると弁明もできないんですが……。パチュリー様がパチュリー様というのは本当に本当ですよ? 今回の一件ではっきりしたと思いますが、パチュリー様の魂をどうこうできるのは世界で私一人で、他ならぬその私が魂の所在を保証しているんですから」
「なんというか、重いのよ……」
パチュリーはひょっとして素直に神の裁きを受けた方が幸せだったのではないかとちらりと思い、その疑念を払拭するために今生きていてよかったと思える理由を探すことにした。探求である。
「塔の様子でも見に行きましょうか」
パチュリーは立ち上がり、小悪魔はそれに付き添った。
***
塔があった場所は瓦礫の山と化していた。標高数百メートルある、比喩抜きの正しい意味での山だ。だからパチュリー達は何をするにしても手始めにこの石製の山を撤去することから始めなければならなかった。
石レンガは雷や突風を受けて一部が焦げたり欠けたりしていた。パチュリーはサンプルとしてそれらのうち何個かを拾い集め、残りの石を処分することとした。
木剋土。木の精霊は土を分解する。緑色の霧が山を覆った。一週間もすれば元の平地になり、ついでに木の精霊の作用で植生も復活することだろう。
「灰は灰に。塵は塵に」
「土は土にとも言いますが、土が土には戻っていないですよね、これ」
「長い目で見れば木は朽ちて土になるから戻ってはいるわよ。変化する場所を区切りの基準とみなすか、循環したところを一つの単位とするかという視点の違いであって。世界の定義としては、どっちの視点が正しいのかしら」
パチュリーは山の麓に触れて土とも植物塊とも言い難いカーキ色の粒を指につけた。
「ニムロドはそれについて言葉を遺しませんでしたか」
「彼が書いたのではないだろう聖書の元の書だとそういう話も出てくるのだけれど、彼自身は聖書的世界観を完全には信じていなかったように思える。この『完全には』、というのが厄介で聖書の内容を全て偽とするというのもできない。現状は分からないわね」
分かるとすればもう一度神の言語で遺された史料を読むことによってだが……。塔を舞い落下する石に撃墜されていった紙片の群れを思い浮かべ、残念ながら望みは薄そうだとこの時点でパチュリーは覚悟した。
案の定六日後にかなり平たくなった跡地を小悪魔と魔導ゴーレムに掘り返させるも何も発見できなかった。そう、何も。
「死体一つ残ってないわね」
「回収しなかったので骨の一部くらいはあるかもしれないと思ったのですが。精霊の作用で分解されたか、神の供物になったか、どっちでしょうね?」
「まあおかげで踏ん切りがついたからそこはよかったわ。自分より自分らしいかもしれない影
に怯える必要はもうなくなった」
「前も今もパチュリー様はパチュリー様ですよ。しかし史料の方が見つからないのは困りましたね」
「お前の能力で分からないの」
「さっぱりですね。だから正直諦めムードなんですけれど」
小悪魔は自分は今土だけを掘っているなと思った。本は気配一つない。無意味なことで時間とカロリーを使っているなあと陰鬱な気持ちになる。
「『なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように』。今回は言葉は乱さなかったけれども、神に繋がる言葉は流石に検閲するか。神というのは相変わらず容赦がない」
「どうですかね。私は神も随分とぬるくなったものだと思いましたよ」
「そうかしら」
「だって命までは取らなかったじゃないですか」
「ある意味取られたけれどね……」
とはいえ一度脱出したら、そこからさらに捕捉されて狙撃されるなんてことはなかったわけで(「まだ」という可能性もなくはないが、六日間平穏無事だったのだからもう大丈夫だと仮定してよいだろう)、そういう意味では確かに有情だった。
「比較対象の伝承が苛烈すぎるわね。バベルもだけれど、ノアのときは世界を水没させたとか言われてる。あれは実際のところ正しいの?」
「私が生まれるよりずっとずっと前のことですが、悪魔の歴史ではそこは正しいとされてますね。神が世界をどう定義したかの一つの参考になるんじゃないですか?」
「結局信憑性がねえ……」
「そんなに信用ありませんか」
「こればっかりは善悪の問題ではなく、悪魔という明らかに神に対立するものが描く神代の歴史は当然脚色が入るだろうという問題よ」
パチュリーは小悪魔と魔導ゴーレムに作業中止を命令した。
「結局、歴史からアプローチするのではなく自然史から探るべきなんでしょうね」
「自然史も普通に裏切りますよ。歴史と同じように」
「そんなこと百も承知よ。裏切るからこそより裏切られない完全な理論への漸近が不断に求められるのであり、それでもなお裏切られるからこそ発展させる意義が生まれる」
現状の魔術理論において塔を襲った一連の力は文字通りの「神の御業」としか言いようがない。これに魔術の範囲で説明をつけることができるようになれば、再現性のある神の力の行使が可能になり、魔術と神の力が統一される。
「神に勝てると思いますか?」
小悪魔は愚問と思いつつもあえて聞いた。自身が信奉するパチュリー・ノーレッジという魔女ならばこう答えるだろうという予想は九割九分聞かずともつくが、現実にその答えを聞けるか否かで、今後どういう気持ちで仕えるかは全く変わる。
「結果を先に知りたいならレミィにでも聞きなさい。ま、少なくとも百年後の私はもっと上手くやるわよ」
***
塔が崩壊したとき小鈴は里にいた。
雷鳴が聞こえた気がした。晴れているのに雷が鳴るというのは幻想郷でも珍しいこととはいえ有り得ないことというほどのものでもない。が、そのときの小鈴はすぐさま家を飛び出して塔の方角を向いた。第六感が働いたのかもしれない。
往来は騒ぎが広がりつつあるところだった。塔を見ることを目的としていなくても塔の方を向いて歩いていたらその倒壊は否応なしに目に入るのであり、それで気が付いた人が周りに知らせ、別の方を向いていた村人も振り返る、という連鎖で塔の崩壊は衆目にさらされることとなった。
多くの村人にとって、塔の崩壊は凶兆だった。幻想郷ではタロットがさほど浸透していないにも関わらず、村人はまさにタロットの「塔」と同じ概念を感じ取った。塔を襲った災禍が里にも来るのではないかと、異変の際そうするように家に戻り鍵をかけ様子見をする動きが広まった。
一方小鈴は、それが何かを普通の村人よりは知っていたから、凶兆とは受け取らなかった。単にパチュリー達が失敗したものと思い、それを残念がった。そして、次に自分がそこにいなくてよかったという思いと、間近でこの顛末を見届けることができなかったのもまた残念だという相反する思いが同時に心中に湧き上がり、感情をどうすればいいか分からずただ呆然と、危ないから家に戻りなさいという通行人の忠告全てを右から左に聞き流しながら、塔が崩れ縮んでいく様を網膜に焼き付けた。
感情の整理がつき、塔の跡地を見物しにいく決心がついたのは数日経ってからで、そのときにはパチュリーが撒いた木行の精霊の作用で跡地の石山は小さな丘程度の大きさにまで朽ちていた。
「冗談ですよね」
「冗談ゼロに本当よ」
久々にパチュリーと対面した小鈴は最初の挨拶に少し迷った上で「このたびはご愁傷様です」というようなことを言い、それを聞いたパチュリーがどういうわけか吹き出したことで小鈴はようやく事の真相を知った。知ったが納得は全然できなかった。
「いや、いくらなんでも信じられません。あれだけの巨塔をただ崩されるためだけに建ててたなんて」
「何尺もある花火玉だって目的は一回空に打ち上げられて爆ぜること。一々コストを気にしていたら楽しめるものも楽しめなくなるわよ」
「それとこれとは規模が……。だいたい、塔は楽しみのために建てたものではないでしょう。私もそうとは全く思っていませんでしたし」
「じゃあ、貴方は私が何のために塔を建てていたと思っていたの」
小鈴は少し考えてできうる限り簡潔にこの問いに答えた。
「集大成だと思いました。私が同じ立場ならそれを目的にしていたでしょう」
しかし、パチュリーは小鈴の解答に鼻を鳴らした。
「集大成? こんなのは終点でもなんでもない。同じように漢字三文字で表現するなら、これはただの通過点よ」
小鈴は理解できないということを理解した。目の前の魔女が積み重ねた百年という歳月は、人間ならばたどり着けるかどうか分からない、大抵はたどり着けないほどに遠くにある遠点である。しかし、魔女の口ぶりはそこはせいぜい旅路の最初の一里塚でしかないというような軽さだった。小鈴は人間だ。人間には魔女の時間に対する物差しも、実験の規模に対する物差しも、決して分かりはしないのだろうか。
小鈴は塔が崩れたのを目撃したときに突き落とされたのよりも何倍も深い深淵に叩き落されたような気がした。彼女は目眩を覚え、ついにはそのまま卒倒した。
***
卒倒とは一種の防御反応であり、小鈴はその奇妙な半生において何度も卒倒を経験していた。その大半は不意に妖怪に出くわすという冷静に考えれば命の危険がある状況だったから、今回の自分の常識の完全に外側を知るという、「正気度が削れる」出来事は、瞬間的には全然大したことではなかった。
ただ、心を蝕む持続性という意味では今回は群を抜いていた。妖怪ならば通り過ぎたらそれでおしまいだが、これは自分の中で決着をつけるまでずっと心の中に残り続ける。決着をすぐにつけることはできなかった。小鈴は魔女という存在が分からなくなると同時に、知を追い求める者として魔女と対比される人間という存在、つまり自分が、どういう思いで知に向き合えばいいのかも分からなくなっていた。
小鈴は少し病んでいた。この病は精神的なもので(残念ながら、幻想郷の人々は精神の病に対して外の世界の人ほど同情的ではない)、しかも小鈴自身も何が悪いかを説明する手段に欠いていたから、いつものように鈴奈庵の店番という仕事はした。しかしそのときの小鈴は死んだ魚のような目でただ事務的に事をこなすのみで、仕事以外のことはほぼせず、客がいないときはただなんとなく蓄音機に適当なレコードをはめて音をぼんやりと聞くのみだった。
小鈴の両親が最初に異変に気が付いた。が、娘は事情を一切説明してはくれず、この年頃の子が何かに思い悩むということは自分達の経験でもよくあることだったから、一旦は見守ることとした。強いて言えば、娘が最近通うようになった紅魔館――通称「悪魔の館」は決して里の人間の評判がいい場所ではない――に原因があったら大変だと、娘がそこに行きはしないかと監視はしたが、幸か不幸か小鈴は紅魔館にも他のどこにも出かけることはなかったからその心配は杞憂だった。
三人目に小鈴の病に気が付いたのは阿求だった。最近家に遊びに来なくなった。貸本の配達には来るから病気をしているということはなさそうだが、そのときの小鈴もこの世の全てが楽しくなさそうな、いつもとは真逆な表情をしているから病気ではない何かがあるらしい。
そういうことで逆に阿求の側から鈴奈庵を訪れることにした。
「いらっしゃいませ」
小鈴はやはり死んだ魚のような目で、阿求がありふれたただの客かのようなそっけない挨拶をして、一言そう言った後は阿求の方を見もせず上の空で音楽を聴いていた。これではお茶の一杯も望めはしないと、阿求は黙って店と家の境界を越えて奥に侵入し(小鈴は止めなかったし小鈴の親も小鈴が許可したものと思って何も言わなかった)、二人分のお茶を盆に用意して小鈴の目の前に戻った。
「ほらあんた。ちょっとはしゃきっとしなさいよ」
「あれ、阿求じゃん。いつの間に」
「いつの間にも何もあんた私が入ったときに一言声かけたでしょ。まるで私がただの村人Aみたいな扱いで」
「そうだっけ? ごめんごめん、ぼんやりしてた」
「全くよ。紅魔館の吸血鬼に血を抜かれでもしたの」
「紅魔館。ああ、そうね」
阿求は半ば冗談で言ったつもりだったが小鈴が図星かのような反応をしたので面食らった。
「本当に紅魔館関係なの!?」
「塔、あったじゃん」
「あったわね。あそこがしたこととしては紅霧みたいな幻想郷全体を揺るがす、ってスケールではなかったから御阿礼の子としての調査はしなかったのよね。ただあの高さは驚いたわね。まさに記録には遺らないが記憶には遺るって感じ。結末はあそこの魔女にしてはヘマしたなって思ったけれども」
「私もあの塔を作るのには少し関わっていて、設計図が古書だったんだけれどそれの翻訳をしたの」
「それはご愁傷さまだったね」
「『ご愁傷さま』、ねえ。私もパチュリーさんに同じことを言ったさ。でも、あの人曰く、あれは成功らしいのよ」
「負け惜しみじゃなくて?」
「そういうのじゃなくて、崩す実験が目的だったんだって」
「ふうん。魔女の考えることは分からないわね」
「そう。分からないのよ」
小鈴は頭をかき回した。
「普通に考えてさ、百年生きてその間ずっと研究して、ようやく作った巨大な建物がただ崩すためだけのものってありえないじゃん」
「まあ人間の感覚だとありえないけれど、ありえないのが妖怪ってものよ」
「百歩譲って魔女の側を『そういうもの』で片付けるとして、じゃあそんなありえないスケールで知識を積み重ねる魔法使いという存在がいる横で私達人間が知的なことをする意味って何? 本を書き、読む意義は?」
阿求はおかしなことを言うものだと思ったが、笑いものにできる雰囲気では明らかにないのでなんとも困った顔になった。
「あんたがそんなこと言うとはね。別に目的なんてなくていいじゃない。それが好きで楽しい。だからあんたは妖魔本を集めてるんでしょ。妖魔本を読んで勉強することが目的じゃない。妖魔本の力を使って幻想郷を征服してやろうという野望も持っちゃいない」
「逆に、本って娯楽のためだけにあるものではないじゃん。それこそ幻想郷縁起は読む人に楽しんでもらおうと思って書いてるわけではないでしょ」
「そりゃそう」
「例えば慧音先生ならずっと生きてるからいつまでも歴史書を書き続けることができるけれど、阿求はそんな生きれないじゃん」
まさか寿命の話を急にされるとは思わず、阿求は九割の驚きと一割の怒りとで湯飲みを勢いよく卓上に叩きつけた。
「なっ。失敬な。私だって人並みに生きるつもりですう」
「でも百五十年とか二百年とかは絶対生きられない」
「ああ。それはそうね。人並みに生きるためには何でもするつもりだけれど人を外れて生きようとまでは思ってないから」
小鈴はわざと無礼なことを言ったのではなくて極論を言ってるだけだと覚り、阿求の気持ちはすぐ落ち着いた。そして同時に気がついた。今の小鈴の精神状態では、極端なことしか考えることができないし言えないのだ。
「だとすると、どういうモチベーションで書いてるのかなあって」
「モチベーションも何も、これは仕事よ。他に誰もしないから私がやるしかない。あー、慧音さんがやってるのは本人なり他人なりの意図が混入する偽史だからノーカンね」
「仮にもっと長命な種族が同じ仕事をするようにしたら?」
「この仕事は御阿礼の子の能力ありきだから愚問ね。まあどうせ『同じ能力の持ち主が』って条件を付け足し始めるだろうから別な言い方をすると、私は仕事においては寿命の短さは不利とは思っていない」
「なんでさ。せいぜい七、八十年しか生きることのできない人間は使える時間というだけでも魔女の百五十年や二百年には勝てない」
「一対一で考えるからそういう考えに嵌まるの。私は阿弥までの御阿礼の子からこの仕事を引き継いだし、私の後の未来にもきっと十一代目がこの仕事をするわ。御阿礼の子は不滅」
「あー。その手があったかー。私も転生の仕方調べようかな」
小鈴の目に光が戻った。が、極端な思考に走るという症状には変わらない。
「転生は大変よ。まず準備に年単位で時間がかかって、そこから死後地獄でサービス残業百五十年って感じ。というかこの話はもっと一般化できると思っていて。結局のところ、魔女のような長命種族が一人でやってることを世代を重ねて知識をリレーさせてしているのが私達人間なの」
「それは結局魔女一人が人間数人分っていうことを言い換えただけじゃない?」
「仮に魔女一人の寿命が人間十世代分だとして、十人目の人間が現れなかったら問題になるけれど、実際には人間はいる。だから両者は等価よ。その証拠に、人間が今日築き上げた文明はもっと長命な妖怪のそれに比べて劣っているわけでは決してない」
「言われてみると確かに……。でもまあ、結局私達の人生は魔女の一瞬かあ」
「魔女の一生だって世界の一瞬よ。極論すると。何か為したら為したことは遺るからそう考えると救いようは」
「そう、なのかなあ。……阿求って意外と達観してるね。自分が長生きしようってことはめっちゃ気にするのに」
「縁起の仕事は未来の私が引き継ぐっていうのと阿求として長生きしたいってのは別問題だもん。三十年と言わず七十八十年生きたいわよ」
「百年生きれるとしたら?」
「当然」
「百五十年なら?」
「生きれるものなら」
「なんだかなあ」
小鈴は冷めたお茶に口をつけて――冷めるまで放置していた今までの自分のことを棚に上げてお茶の温度に不平をこぼし、阿求にたしなめられた――この話題を終わりにした。
とはいえ、この時点で完全に納得していたわけではなかった。阿求が帰った後、自分は阿求に言いくるめられていたのではないかとまた思い悩む状態に戻った。
阿求に言われてなお思い悩むのは決して愚かなことではない。何かを為すのに、ときに人生は短すぎる。だからそれに絶望する人は小鈴よりも前に何人もいたし、永遠の生を求める者も後を絶たなかった。「そう思い悩むこともない」という阿求の説得があったが故に、逆に小鈴はそうした事実をもまた再確認することとなった。
夜、布団の中で小鈴は一つの考えに到達した。この問題に客観的に正しい結論は出せはしない。阿求のように知とは何世代もの蓄積で、所詮自分は蓄積の一つの層でしかないと割り切るのもよい。世界の広さに対する自分個人のちっぽけさと儚さに思い悩むのも間違いじゃない。創造主は世界のあり方を一意に定義したかもしれないし、真理はどこかにあるかもしれないし、その発露の一つの形は塔なのかもしれない。が、人の感情、人が世界の理に何を思うかまでは定義しなかったようだ。
吹っ切れた小鈴は久々に安眠して、翌朝には到達した考えを確固たるものにした。前に阿求が言っていたものと文脈は違うが、これもまた、「どの真実を選ぶのか」という話。小鈴は、阿求のように、人として人類の智慧の積み重ねに一段足すというのを人生の目標とすることを選ぶことにした。
思い悩んでいたときに考えていた全てのことは、今や小鈴にとっては世界を切り開く原動力に逆転していた。小鈴はそれをよしとした。その日の昼、紅魔館から手紙が届いた。塔の片付けその他が一区切りついたのでまた翻訳作業の手伝いに戻ってきて欲しいという内容だった。塔の崩壊から数えて、第十四日目のことである。
***
小鈴はまた図書館を訪れた。
本棚は相変わらず天まで伸びてそれらは大量の本で埋まっている。始めて図書館を訪れたときと違い、小鈴は塔というものの本質を知ったし、蔵書全てを自分の寿命が尽きるまで読むことは叶わないのだということもいい加減悟った。が、それでも、小鈴がこの図書館に対して向ける感情は、最初に来たときと同じく驚嘆と狂喜だった。世の中にはいくらでも知ることができることがある。このことを楽しみととらえるか果てのない絶望ととらえるかの違いは現実認識への愚かさか賢さかによって生まれるのではなく、若いか老いたかの差によって生まれるものだ。小鈴はまだ若かった。
そして、人の命では無限に等しい知の蓄積は、かつて生きた無数の人々の努力と閃きによって得られている。だから意地悪な悪魔はこれを骸の山とでも例えるのかもしれないが、小鈴は塔を構成する石の一つ一つ、あるいは梯子の段と比喩していた。自分の業績も将来的には棚に収められるのだろう。もしかしたら百年後か二百年後かに別の人がここを訪れ、自分と同じように、今度は自分の知も加わった図書館を見て驚嘆や狂喜を覚えるのかもしれない。
いつかこの塔も崩れることがくるのだろうか? 小鈴は崩れるという運命は確信していたが、それはとてつもなく遠い未来なんだろうなとも思っていた。その時の長さを表現する手法を小鈴は有していない。想像もつかないから、こっちの運命は全く怖くはなかった。
「こっちよ、こっち」
小鈴が考え事をして立ち止まっているのを、パチュリーは久しぶりに来たので机の場所が分からなくなっているものだと勘違いしてわざわざ声をかけた。
この瞬間に、ほぼ全てが日常へと戻った。パチュリーは神の言語に関する本ではなく明らかにそれとは別の内容と分かるような本の読解に注力していた。あるいは、パチュリーの中ではそれもまた神の言語の理解に至るまでの道筋の一つなのかもしれないが、今年のうちにとか来年までにとかの近い将来に再び塔を建てようとしているようには見えなかった。
少し前にそうしていたように、小鈴は本を解読し、専門性の高い翻訳が必要なものは小悪魔に渡し、休憩中には雑談をした。
「神の言語の書が失われた。これだけは残念だったわね」
雑談の席で、小鈴は件の書の原本が消失したことをパチュリーから聞かされた。
「ここに何冊か置いていなかったんですか?」
「返す言葉もないわね……。いや言い訳はいくつかあって、塔は崩れるのは予想できるとして本は崩れた跡地から回収すればいいと思っていたのが一つ。そして、設計上本棚を埋めるだけの本を複製する必要があってそこから更にもう一冊予備で作るのも大変だったのよ。百冊と百一冊ではたいして変わらないじゃんと思うかもしれないけれど、一冊分の手間が余分にかかるのは事実なわけで」
「いえいえ。お気持ちはよく分かります」
鈴奈庵は印刷も取り扱っているから版木を組み紙の一枚一枚に墨をつけていくあの作業がどれだけの重労働かというのはよく知っている。強いて言えば魔術をもってしてもそれが楽にならないというのは夢のない話だなあという感想もありはする。
「お気持ちは分かりますが、パチュリーさんにしては迂闊だったという気も正直しますね」
「いやはや本当恥ずかしい話ね。塔を建てるぞという熱狂に浮かれていて見えていなかったというか……。そういう気分のコントロール含めて神の掌の上だったのかもしれない」
会話中に神の言語の写本を自分は未だ持っていると言い出す機会が小鈴にはあったが、結局それを口にすることはなかった。
自分とこの魔女は同じ本を読んで、同じような感想を抱き、同じ成果物を見た。そして、おそらくは、それを理解しようという点で同じ志を抱いた。だが、目的に至るために魔女と同じ道筋を辿ることはできないのだということを小鈴は悟っていた。
それに同じ道を歩みたいとも小鈴は思っていなかった。魔女は一代で人間には到底不可能なほどの知を蓄積する。少し前の自分にとってそれは羨ましいことだったが、塔の崩壊を機に知識の果てに思いを馳せたことで考えが変わった。今の小鈴には魔女という生き方が孤独で可哀想なものに見えた。魔女の側からすれば、人間が何世代もかけて分業することを代わりに一人でやっているというだけで悲しみも何もないのだろうが、人間の感性ではとても耐えられぬものだと小鈴は思った。
自分がもし書の存在を明かせば、パチュリーも小鈴がそうしようとしているように神の言語を理解することで真理に到達しようという方向を向くだろう。小鈴は決してパチュリーのことを嫌いになったわけではない。今でも尊敬に値する存在とは思っているが、だからこそ、こればっかりは道を分かちたかった。だから小鈴は自分が残しておいた裏道を伝えないことをもって、パチュリーに無言の別れを告げた。
小鈴は仕事の報酬として英語の文法書を貰って帰った。外の世界の学校で教科書として使われているものらしい。小悪魔が三冊持ってきて一冊選ぶという受け取り方だった。
「中学校、高校、大学とあります。外の世界の学校の区分ですね。どれを選びますか?」
「どれが一番初心者向けかは分かりますか?」
「さあ。私からしてみればどれも『赤子の手をひねるよう』ですので。それに言葉のニュアンスから類推しようにも中、高、大の上下は少し分かりにくい。中は真ん中なんでしょうが」
「じゃあ……」
おぼろげに、早苗と菫子という外来人二人が高校生を自称していたような記憶が浮かんだ。細かい年齢を聞いたことはないが、同年代なはずだ。
こうして小鈴は高校生向けの英語文法書を手に入れた。本を受け取るとき、小悪魔が安堵したような笑みを浮かべたのを小鈴は見た。自分とパチュリーが神の言語に触れようとしたとき、小悪魔は少し否定的な反応だった。だから自分がそれ以外の言語に興味を示したことで、神の言語への不可侵を確認したのかもしれない。あるいは、「真理の門へと至るのは我が主一人だけで十分」ということか。
帰り道小鈴はほくそ笑む。私は神の言語を諦めたわけでは決してない。むしろゆくゆくはあれを真に、自分の能力抜きで理解してやろうとしている。きっと小悪魔さんもびっくりするだろうな。
それが可能かどうかは誰にも分からない。神のみぞ知る、と言うが、神は今のところ到底できないと楽観しているらしい。無理だと思っているから小鈴から言葉は取り上げなかったのだ。
しかし、思いもよらぬことをするというのが人間の可能性なのだ。小鈴はその晩、あの三冊では実は二番目の難易度だった文法書を前に頭から湯気を出していたが、もしかしたら百年も経たぬうちに彼女は神も想定しないほどの知識を得て、塔かそれに値するものを成し遂げ、神の怒りを買うのかもしれない。
解説役のパチュリー「○○ということよ」
聞き役のい小鈴「なるほど。○○ってことなんですね」
私「さっぱりわかんね……」
読み手に寄り添うポジのはずの小鈴があまりにも賢すぎた。とまあそこはおいておくと、不完全な言語と世界の真理の理解っていう割とわかりやすいテーマだったので普通に楽しめました。1読者の感性としては、バベルの塔の設計図あったら作るだろ、作るなら神の怒りを受けて崩壊してこそ完成(証明)だろと思ったので、割と崩壊に対して小鈴と小悪魔が(小悪魔はパチュリーの身を案じてた側面もありますが)否定的だったのがそ、そんなに言わんでも……って。やると決めたら突き進んでいく東ノ目パチュリーのファンです。
お見事でした。
小鈴視点でパチュリーとの交流を通して生まれた疑問(病み)に一つの決着をつける
きっかけを与えたのが自分と同じ人間の阿求、という構造好きです。
「なんというか、重いのよ……」
→多分顔はうんざりしているけど熟年夫婦感あるこのあたりのやり取り
嫉妬を直球で口にしさらに行動にも表す小悪魔もよきでした(かわいい
最初は小悪魔のキャラクター性のとがり方にぎょっとしましたが、全体を通してよいテイストになっており面白い描かれ方になっていたと思います。パチュリーより小悪魔の方が狂人では……? と思ってしまったのは良かったのか悪かったのか
神話の真実に迫ることができるのか……? という前半のワクワクから言語学の話に着地したのは人によっては好みが出そうな構成かと思いましたが、個人的には言語方面の話も好きなので満足に楽しめました。
パチュリーと小鈴の決別はそうなるか―……と寂しさと悲しさを覚えましたが、良い寂しさであったように思います。
翻訳にまつわる魔術的な話も個人的好きな方向の要素だったので、全体的に好みでした。有難う御座いました。
ラストのパチュリーと小鈴のスタンスの違いが良いですね
怒りを買うことで神の実在性を証明するという手法が魔女らしくてよかったです
小鈴も小鈴で連綿と続く叡智の塔にこいしを一つ積み上げようという人間らしい道を選んでくれていてよかったです