一.
主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた
これは、若き魔術師とその使い魔、そして魔術師ではない少女の物語である。
小鈴の心を驚嘆と狂喜が支配していた。彼女は紅魔館地下の大図書館にいた。彼女の頭上には両腕を広げた小鈴よりも長大な直径を持つシャンデリアがあり(そしてそれが小鈴の位置からは小さな月くらいの大きさにしか見えないということが天井の高さを物語っていた)、彼女の両脇には、そのシャンデリアの高さから足元までの全てが本で埋まった巨大な本棚があった。しかも両脇に見える本棚の前後背後にも同じような本棚があり、更にその外側にはまた別の本棚が……。小鈴は本の街に召喚された気分になった。無論これはあくまで比喩であり、実際には巨大な建造物一棟の地下として相応しい大きさに収まっていたのだが、小鈴はそのくらい圧倒されていたのだ。
「こっちよ、こっち」
この図書館の主が軽く咳払いして小鈴に声をかけた。
小鈴はすぐ近くの本を一冊手にとってみる時間すら与えられないことを残念がった。とはいえ、仮に時間を与えられても本棚の上の方を取るのは飛行できない小鈴には叶わず、図書館全てを読破するには寿命という意味で時間が足りそうになかった。知ることができることは無限にあるが、この「できる」はあくまで「可能性」という意味で「可能」を意味しない。この図書館は、人生の縮図でもあった。
しかし運命は小鈴にそういう感傷を与える瞬間をも与えなかったので、彼女はこれまた人生がそうであるように、自分の可能性について実際よりも大分大きな希望を抱き続けたまま、可能性を試すことを邪魔したパチュリーに少しの不満を覚えつつ声に従った。
小鈴は単に招かれて図書館に来たのではなく、仕事を依頼されて来たのだった。その内容を確認し合うために、二人は図書館中央の丸机を挟んで座った。燭台とシャンデリアで照らされてはいるが、鈴奈庵の店内よりもいくらか暗い。本を読むにも不便そうだと小鈴は思ったが、パチュリーは気にしていなさそうだった。魔女は夜の種族だから夜目が利くのかもしれない。
パチュリーの使いである小悪魔が紅茶を配膳しに来た。パチュリーの前には滑るように皿に乗ったティーカップが運ばれ、小鈴の元には着地の瞬間カンッという音が軽く鳴った。
「あ、ちょっと待って」
パチュリーはティーカップを持ち上げた小鈴を制し、小悪魔が去った後に理由を告げた。
「カップが逆ね。私はベラドンナ入りで頼んでいたのだけれど」
パチュリーはカップを交換した。小鈴には、部屋の薄暗さもあり違いが分からなかったが、言われてみれば、「正しい」紅茶の方が若干色が澄んでいるようにも見える。
「直接注意した方がよくないですか?」
「大したミスでもなければ、一々小言を言うよりもこっそりと訂正した方が波風が立たないのよ。あれでも悪魔で、悪魔っていうのは気難し屋だから」
パチュリーは紅茶を一口啜ってから、小鈴に一冊の本を渡した。
「早速なのだけれど、この本の冒頭に何が書かれているのか分かるかしら」
小鈴はケースから丸眼鏡を出して(裸眼で読むには部屋の明るさが足りなかった)、数ページに目を通した。
「鉱物についての図鑑ですね」
「言語は?」
「ラテン語です」
「正解」
「じゃあ次」
パチュリーは今度は、皮で装丁された本を渡した。表紙には蔦の紋様が彫刻されている。小鈴は今度は開くこともなく答えた。
「ヘブライ語翻訳のヴォイニッチ手稿ですかね。確か同じものを持ってます」
言ってから小鈴は本を開き、記憶が正しいことを確認した。
「あら、奇遇ね」
「今のが仕事ですか? でもパチュリーさんは答えを知っていましたよね。じゃあ私に聞く意味は」
「今のはテストよ。出題者側が答えを知っていないと試験できないじゃない」
「ああ成る程。ということは実際には全く別の言葉で書かれた本を読むことになるんですね」
小鈴は肩の力を抜いて、紅茶を半分一気に飲んだ。
「でも意外ですね。魔法使いはいくらでも本が読めるし、解読を人には依頼しないというイメージがありました」
小鈴の言葉を聞いて、パチュリーは肩をすくめた。
「確かに、私は人よりは少し使える言語が多いわね。日本語、英語、ドイツ語、ラテン語、ヘブライ語、ギリシャ語、北京語、サンスクリット語」
小鈴の理解として、パチュリーが操れると述べた言語の数は人との比較で「少し」多いどころではない。逆説的に、この魔女は大半の人間を人の知性を有するものとして認めていない可能性がある。
「でも、他の言語は、例えばオランダ語が他の言語の類推からいくらか分かる、というようなことはあるけれど基本は分からない。百年という時間は言語を習得しきるには余りにも短すぎるの。それをあなたは見たところ、一瞬の時間で得た」
「確かにある日突然、能力に目覚めた、という感じでしたね」
「その現象に再現性を持たせられたらもっといいんでしょうけれど、今はとりあえずそういう力のある人がいるという事実だけで十分ね。そしてその力を使わない手はない。確かに研究に人の手を使わず、全部あるいは大半を独力で行うことにこだわる魔女も多い」
小鈴は、確かに魔女はそういうところがあるというイメージがあるな、と思った。彼女にとって一番身近は魔女は白黒で、この魔女はかなり社交性が高いが、人付き合いの全てが研究とは別腹だ。研究を誰かと共同でしたという話は彼女自身からも彼女以外からもとんと聞いたことがない。
「でも使った方が楽になるならば助力は借りるべきなのよ。そのことを理解しようとしないから魔女とは保守的だというイメージが消えない」
約百歳の魔女の一言で、十代の魔女が旧時代の存在ということになった。
「でもパチュリー様も大概『保守的な』魔女じゃないですか」
いつの間にか二人の近くに来ていた小悪魔が、険のある声で会話に割り込んできた。小鈴は小悪魔が怒っている理由は分からなかったが、小悪魔の顔とパチュリーの顔に、怒りと微笑みという全く別の感情であるにも関わらず近いものを感じた。パチュリーは悪魔なのだ。その澄んだ目で述べる「借りるべき助力」とは、言葉通りの共同研究という意味ではない。最終的な果実を得るのは自分一人という前提を崩さぬまま、その仮定の省力化には人、もしかしたら猫の手をも借りる。
つまり自分は彼女にとって都合の良い翻訳機なんだな、と小鈴は思った。自分でも意外なことに、この事実に感情は動かされなかった。そうなのだろうなという納得だけがあった。多分、彼女が行う研究の結果として得られる名声を自分は求めていないからなのだろう。こういう機会でもないと読むことができない本を読んで報酬が発生するということ。それはまさしく天職であり、自分はそこから喜びを得ている。例えるならば花の蜜を吸う蜜蜂と蜂で受粉した林檎を収穫する農家の関係であり、完全な住み分けがなされている。
そう、報酬だ。パチュリーがこの場に小悪魔がいないかのような無視を決め込んだので、小鈴もスムーズに報酬の話に進むことができた。名誉を求めないという点での住み分けがなされている分、より即物的な報酬には妥協はできない。剛に要求を突きつける小鈴に柔にいなすパチュリーの応答がしばし繰り返され、翻訳を一冊終えるごとに蔵書を一冊進呈する、ただし蔵書の準備の都合、報酬を何にするかは事前に小鈴の側から指定する、ということでまとまった。
***
小鈴の退出後、小悪魔は小鈴がいた場所を片付けて同地を奪還した。
パチュリーは小悪魔の髪が逆立っているのを見た。怒髪天を衝くという言葉と、それの英訳として"hit the roof"が得られるのを思い起こした。小悪魔の髪は天井には達していないが、それは図書館の天蓋があまりにも高くにあるからで、相応の怒りを抱えているのは明らかだった。
「妬いているのかしら」
「ええ全くもってその通りです。そして同時に危惧もしています」
「そう」
パチュリーはそれらの理由を問いただそうと適切な言葉を検索しようとしたが、急に脳に殴られたかのような痛みを感じ、試みを中断せざるを得なかった。
「酷く頭痛がする……」
「そりゃそうでしょうね。あの女に振る舞った茶を飲んだのはパチュリー様の方ですから。混ぜものに気がついていたくせに、なんで不注意にも飲んだんですか」
「せいぜい睡眠薬だろうと思ったのよ。あなたが取引を妨害しようとしたがっていたとして、不用意に事を荒立てないくらいの分別はあるものと思っていたわ。だけどこの具合は……」
「パチュリー様が察しているであろう通りです」
「それなら私が飲もうとした時点で止めなさいよ」
「報いは当然に与えられるべきです」
反論の言葉を紡ぐ前に、パチュリーの意識は薄れていった。椅子から崩れ落ちるパチュリーを小悪魔が抱え、口にどろりとした灰色の液体を流し込んだ。もっとも灰色というのはパチュリーの主観だ。もしかしたら色がついていたのかもしれないが、朦朧とした彼女の視界からは色彩は消えていた。味覚は視覚よりはまだ生きてて、とんでもなく酷い味だということが分かった。流れからして解毒剤だと信じたいが、こんなに不味くある必要があるのだろうか。毒ではなく、薬の方が報いなのか。
小悪魔は完全に意識を喪失したパチュリーを床の上に寝かせた。非道な対応なようだが、図書館にはソファのような人一人を横に寝かせるのに適した設備が何一つとしてないのだ。それに厚手の絨毯が敷かれて冷暖房が通っている床は、寝る環境としてそう悪くはない。
「悪魔と契約するということは魂を悪魔に引き渡すということ。パチュリー様、貴方は当然私に独占されるべきなのですよ」
翌日の夜、パチュリーは意識を取り戻し、小悪魔の真意を問いただす試みの続きとなった。小悪魔が小鈴諸共自分を討とうとしている可能性をパチュリーは未だ否定しかねているので、紅茶は久しぶりに咲夜に用意させた。
「あなたは小鈴を妬んでいる。翻訳の仕事を奪われかねないから」
「怒るには正当な理由でしょう。そもそも私が当然有していてしかるべきパチュリー様への独占権が侵害されているのですよ」
「独占権て。私が物か何かみたいに」
「物ではなくそれよりも何段階も価値があるものだから怒っているのです。物を壊したら器物損壊ですが人を壊したら殺人となるようなものですよ」
「私が言いたいのはね、私は物じゃなくて意思を持つ魔女だからあなた以外とも人付き合いする権利があるってことよ。レミィだって……」
パチュリーは口をつぐんだ。彼女が紅魔館に居候を始めた直後の時期、小悪魔はレミリアに怒っていた。理由は言うまでもないだろう。最終的に小悪魔がレミリアを許した理由は単純で、レミリアが小悪魔より強かったからだ。小鈴という、小悪魔どころか霧の湖の氷精にすら勝てなさそうな戦闘力一般人にとれる手段ではなく、この筋で議論するのは小鈴の不利にしかならない。
「彼女はあなたにとっては取るに足らない存在よ。怒るのはあなたの好き嫌いの問題だとしても危惧するのは過剰でしょうに」
「パチュリー様、本気でそうお思いですか!? あの女は文字通り無数の言語を操ります。それがどれほどの意味を持つのか、パチュリー様が思い至らぬはずがないのに!!」
パチュリーは小悪魔が全ての音に濁点を含むような声の荒ららげ方をすることができたことには驚きつつ、発言の意味に対してはなんだそんなことかと思った。
「あの子はあなたが思っているほどの存在ではないわ。翻訳という特殊な技能においては天才だけれど、現代日本語以外には何一つとして操れはしない」
***
小鈴がパチュリーの元で本格的に仕事を始めてすぐ、彼女の能力についてはパチュリーの言が正しかったことが示された。
彼女は書物を翻訳はできたが、それを理解する上で必要になるありとあらゆる分野への背景知識、言語そのものへの根源的理解いずれにも欠けていた。"golemancy
"の基礎である、ゴーレムはヘブライ語「אמת」の呪符により完成し、そこから一文字消して「מת」にすることで壊れるということすら正しく理解しなかった。彼女は魔導書の術式を現代日本語訳で幾度となく発言したが、そのいずれも効力を有さなかった。なぜなら魔法というものは、その言語の単語の概念についての厳密に正確なイメージを思い浮かべながら正しい発音で発話することによってしか発現しないものだからだ。
これは、結局のところ業務の本題である翻訳においてすら小鈴の能力は絶対的なものではないということを意味した。小鈴はあくまでその本が何について書かれたものかという判定においてのみ役割を果たし、有益で厳密な翻訳が必要であると判断されたものについては引き続き小悪魔の領分になった。
小悪魔の主張するところの、パチュリー様独占権を小鈴が侵害している、という状況は一部においては未だ変わりなくあったものの、大半においては支配権――逆説的に、主の命令に服従することを小悪魔は支配と表現することがしばしばある――は小鈴ではなく小悪魔の側が握り続けていたので、彼女は多少心に余裕を得ることができた。
小悪魔は小鈴に対して丁寧に接することにした。小悪魔は小鈴をそういう機械であると認識しようとしていた――パチュリー様が楽をするために機械を使うのは仕方のないことであり、それは私のパチュリー様への独占権は侵害していない。機械にあたるのは愚者のすることだ。
それに、知識を流し込み無知蒙昧なる定命の人を誑かすというのは、悪魔の根源的な欲を満たしてくれる。小悪魔、主が知の化身だったばっかりに自分より低きにある水に恵まれなかった者が忘れていた感覚だった。