二.
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
小鈴も、翻訳業務の一部だけを漫然とこなしそれ以上を求められることがないというのが日常となりつつあることにただ甘んじていたわけではなかった。
自身の能力に限界を感じ自信を失った、というのとも少し違う。紅魔館においても自信の翻訳技能は有効に活用され重宝されているというのは紛れもなく事実だ。だが、それと同時に、言葉というものにはどうやら単に意味や意図を伝達させる以上の自分が知らない機能がありそうだということにも、パチュリーと小悪魔という紅魔館のブッキッシュ組と関係を重ねるようなったことで気がつき始めていた。紅魔館の二人は魔法を使えるが、自分はいくら魔導書を読んでも一向に使えず、ここにも言語上の理由があるように思えた。
そうしたモヤモヤを解消せんと、休憩のティータイムで言語や魔術についての疑問を聞くことが小鈴の新しい日常に追加された。
ある日、小鈴は言語の違いについて質問をした。紅魔館での仕事を始めて以来ずっと疑問に思っていたことがあったというのもある。
「ここの本って内容以外にも言語でも本棚を分けてますよね。あれってどうしてなんですか?」
「逆に聞くけれど普通はそうするでしょ」
「うちではそうしてないので。例えば英語の小説とその和訳があったとして、その二冊は隣同士にあった方が便利だと思うんですよ」
「ああ。貴方は『読める』ものね」
パチュリーは小鈴の疑問の意図を少し納得した。
「ただ普通は読めないから、言語で分けないと読めるものと読めないものが混ざって困るという実用上の理由が一つ。あと……」
パチュリーは適切な言葉を探そうとしたが、どうしても小鈴がすぐに理解できるような言い方はないと諦めた。
「貴方には逆に分かりにくいだろうけれど、ある本を別の言語に書き換えると、それだけでもう全くの別物になるの」
「どうしてです? 元の本が同じ以上同じになると思うのですが」
「うん。やっぱり貴方の感覚だとそうなるわよね……」
「小鈴さんは多分どんな本も現代日本語として読めますよね」
小悪魔が会話に混ざった。
「でも普通は例えば英語の本は英語の文字列としてしか認識できないので、英語が読めない人には絶対読めない。だから翻訳家というのが存在するのですが、これまた『普通は』英語をそのまま日本語に翻訳するということは難しい。今、『できますが?』って顔しましたね。でも、文法構造が違う、特定言語でしかしない言い回しがある、文化も違う。そういう壁があるのに正確無比な翻訳なんてものできるわけないので翻訳家はしばしば過つか、あるいは嘘をつく。私は海外の翻訳小説で『その手は桑名の焼き蛤』という表現を使ってるのを見たことがあります。どう考えても海外に桑名という地名はないのに。翻訳家ってそんなものです。はっきり言ってしまうと、多分小鈴さんも現代日本もとい現代幻想郷の枠でしか思考できないので無意識に『意訳』はしていると思います」
小鈴は小悪魔の言うことを考えてみたが、どうにも難しい。自分が本を読んだときに思い浮かべたイメージが本当とは違うとして、その本当がどんなものかを知るすべは大抵の場合ないのだ。
「ううむ。だとするとある言葉を別の言葉で置き換えることができるという翻訳というものが嘘っぱちということになってしまいそうなんですが」
「翻訳を挟んでも、九割くらいは正しく伝わるのよ。大筋が大体伝わればいいのなら普通に便利なものだから翻訳という行為はあるの。貴方をここに呼んでるのも翻訳がないと困る場合があるからだし。でも残り一割の違いが致命的になることもしばしばある。特にこの業界では」
「この業界というと、翻訳か……」
「もう一個の方、魔術ね。魔術、特に詠唱による命令によって発動する精霊魔術は、その言語を『正確に』理解していてかつ言葉が『正確に』目的に対応していることが求められるから翻訳と致命的に相性が悪い。かなり直球な例を一つ。西行法師の反魂の秘術を応用した魔法があってこの呪文は当然日本語なのだけれど、フランス語でこれを詠唱する手法は未だ発見されていない。なぜならば、この呪文は詠唱の途中で『夜の蝶』を明示する必要があるのだけれど、フランス語の"papillon"は蝶と蛾の両方を区別せず指す単語だから。そして、"papillon de nuit
"は、フランス語のニュアンスとしては蛾を明示するための文字列になってしまう」
「ほうほう」
小鈴は静かに興奮を覚えた。咄嗟の反応は慇懃無礼なものになってしまったが、本心は世界に数多ある言葉の壁を挟んでそれぞれ独自の発展を遂げてきたのだろう魔術というものへの敬意、あるいは畏怖だった。
一方で知的興奮は限りない疑問をも生み出す。
「勝手なイメージで魔法って手から火を出したりするものっていうのがあるんですけれど」
「勝手なイメージね。間違いでもないけれど」
「火を出す魔法は多分日本語『火』でも英語『fire』でも使えますよね。あれは翻訳でも意味を損ねず伝わる側だからってことですか?」
「あー。いい質問ね。言葉というものは世界を分割するためのツールでもあり精霊魔術において使役される精霊もまた言葉により分割されて種類分けされててまさに火あるいはfireあるいはπυρ(※古代ギリシャ語)は言葉によって分かたれた精霊の一種なのだけれど時代あるいは洋の東西によって精霊をどういう語彙で何種類に分割するというのは違っていて例えば西洋魔術だと四大元素なのに対して東洋魔術だと五行説だから東洋魔術の火は世界を五つに分けた一つで西洋魔術のfireやπυρは世界を四つに分けた一つということになりつまりfireやπυρには厳密には東洋魔術の火には含まれない要素があると考えるのが妥当で……」
「皆さんお茶が冷めますよ」
パチュリーにスイッチが入ったのを見てこれは止めないと止まらなくなるなと思った小悪魔が無理やり話題を変えることで止めに入った。あるいは、まくし立てたパチュリーが喘息の発作で咳き込み始めたので実は小悪魔が介入しなくとも止まったのかもしれないが。
残念ながら当然なことに、最後のパチュリーの話は今の小鈴にはほぼ分からなかったが、魔術とは世界をどう考えるかなんだろうなとは思った。
小鈴はチョコレートをお茶請けに紅茶を飲んだ。このチョコレートも紅茶も世界が言葉で分割された結果のひとかけらなんだろうと思うと、いつもより味に深遠さがあるように思えた。
***
「魔術の最終目的は世界がどうできているかを知ることなのですか?」
「ん……。まあ、魔術、というか研究というもの自体が突き詰めていくとそうなんじゃない?」
「そうであるならば、こうだろう、という予想みたいなのってあるんですか? つまり、世界の仕組み、というか」
別の日の休憩中、中断していた話の続きが話題として挙がった。
そして、パチュリーはすぐに気がついた。これは意外と難しい質問だ。
「先行研究として、四大元素説や五行思想、七曜といった考え方があって、私はこの中の七曜を専門としている」
「つまり世界とはシチヨウであると」
「そうとも言い切れない。言い切れないというか、おそらく、世界の真理がただ一つだとして七曜はその座にはない」
「てことは、間違いを研究してるんですか!?」
小鈴は驚いた。パチュリーとて完全無欠ではないというのは当然そうなのだろうが、だとしても小鈴の中で、パチュリーはこと学問においては知ってる中で最も信用に値する存在だった。そんな彼女が自身の専門において間違えている。更に言えば間違えていると考えながらも、それを改めようというそぶりを見せていない。これは道理に反することだ。
「魔術ではないものを例に出すけれど、力学という学問領域がある。物に働く力や運動について説明する学問ね。この領域においては長らくニュートンという学者が構築した理論が支配的だったのだけれど、極端な条件下、例えば須臾に小さい物に対しては誤差が出ることがごく最近、大体この地が大結界で隔離された頃かしらね、に判明した。だからニュートン力学は世界の全てを説明する手法としては誤りなのだけれど、大体の場合を説明することができるから現代でも滅んでいないし外の世界では研究も続けられているらしい」
「つまりパチュリーさんの研究も、突き詰めていくと間違いになるだろうけれど概ね使えているから問題ないとしている、と」
「そう、ね」
パチュリーは火を出した。それは問題なく燃えているのだが、今の彼女には紛い物のように見えた。小鈴に指摘されたから反論として力学の事例を挙げてみせはしたが、自分の研究の立ち位置は力学でいうところのニュートン力学なんだろうな、というのを再確認すると、やはり自分でも奇妙な気持ちにはなる。
「その先、つまりニュートンさんの研究を覆したものの魔法版のようなものは」
パチュリーは沈黙した。
この世で唯一の真理というものがあるとして、それは高い山の頂上にあるものというイメージを、魔法使いとして生きることを決めた時点では持っていた。それはあながち間違いではなかったが、研究というものは、そのとき描いていたような一つの巨大な山を登る道程ではなかった。知の蓄積は連峰であり、自分は一番高い山とは別の離れたところにある山を登っていた。
若かりし頃の自分はただその山を登ることに邁進し、今に至る。百年経った今、この山の八合目くらいまでは登ったのだろうか、小鈴が質問という形でやんわりと指摘しているように、一番高い真理の山への道筋を探すべき時が来たのかもしれない。
しかし自分が今いる山と真理の山との間には分厚い霧が立ち込めている。いや、この比喩は少し違うな。霧は真理の山をも包み込み、それがどこにあるかは現状分からない。
ただ、パチュリーはこの霧の正体には見当がついていた。
「前にした話題に戻ってくるわね。完全な翻訳などないという話。それは言語が細かいところで別の言語とは異なることが原因なのだけれど、言い方を変えるとある言語は別の言語と比べて何かしら『不完全』だから完璧な模倣ができないということになる。papillonという単語が単体では蝶と蛾を区別する機能に欠いているように」
「papillonはフランス語でしたよね? であれば、日本語はフランス語よりは完全である?」
「ではない。日本語の語彙や文法では詠唱できない魔術だって沢山ある。そもそも蝶と蛾の区別でいうと、日本語だとそれを区別できるおかげで西行の秘術を詠唱できるけれど、世界の真実という意味では蝶と蛾を区別していることが間違いで、実は夜の蝶という言葉を使わない全く別の手法で同じ事ができるという可能性だってある」
「フランス語が駄目。日本語も駄目」
「特定の言語が駄目なのではない。全ての、少なくとも既存の言語全てが駄目なの。魔術における世界の真理にこの事実を発展させると、魔術とは『世界をある言語で翻訳することで力を引き出すプロセス』と定義できるが、完全な翻訳が可能な言語が存在しない以上世界を完璧に説明し完全な力を得ることはできない」
「なんとなく想像がつきました。仮に完全な言語があったとしたら、それで言い表される世界が真理である」
「そういうこと。で、同時にないものねだりができないから今のところはそこで行き詰まる」
パチュリーも閉塞感を覚えるために研究しているのではないから、この話をしている間もどうにか霧を晴らせぬものかと考えていた。そして実現可能性を脇に置けば、手法はいくらか思いつく。
「つまるところ、ドーナツの穴ね」
「はい?」
小鈴は思わず、今日の紅茶のおやつに提供された揚げた小麦粉の二重丸に目を向けた。
「完全な言語は今の世界では存在しない『無』なのだけれど、既存言語の不完全さを生地として囲っていけば、いずれドーナツの穴が視認できるように完全な言語なるものの正体がつかめるようになる。今やってることにも意味はあるということ」
パチュリーは小鈴と、それ以上に自分自身に言い聞かせるようにそう言った。
「なんとなくですけれど物凄く遠回りな気がしますね。……思ったんですけれど、世界を説明するのに完全な言語の存在って必要ですか? それが正しいとすると、先に言葉がないと世界が存在できないように思えるんですが」
「言葉がないと世界は分節できないから一切の区別ができない混沌よ。だから言語から辿っていくというのは合ってると思う。が、別の方法があるというのも正しくて、さっきしていた力学の話でいうと、現代では世界を数式で書き表されるような力で表されると考える。今は四つの力だけれど研究が進めば二つの力、最終的にはただ一つの力を定義すれば世界を記述可能と考えているらしい。これはこれで合理的と思う。言語がどうあれ、この宇宙において一足す一は二なのだから。もっとも世界が最終的にいくつまで単純化されるのかというところは、仮にも七曜を専門とする身としては異論があるのだけれど」
パチュリーはドーナツをかじり、欠けて穴が消えたそれを見て嘆息した。
「完全な言語を見つけることができたら全部が解決すると思うのだけれどねえ……」
***
ある日のことだ。小鈴がパチュリーから頼まれた仕事として一冊の古書を翻訳した。
「何の本だった?」
「動物図鑑のような……。いや、狩猟の手引き書ですかね? このページにはインパラという動物の外見、習性、どこを射ると効率的に狩れるかということが」
「ふうん。まあ外れかしらね」
パチュリーは小鈴の答えにどことなく違和感を覚えつつ、その原因を探るのは後にして、とりあえずは片付けをしてしまおうと、抑揚に乏しい事務的な声を発した。
「動物学は区画"Venus"だったわね。執筆年代は分かんないわよねえ、年代不明の棚で並びは言語順だから……」
違和感の原因に気がついた。小鈴は「何の本か」と聞かれたときに、決まって二つの情報を返す。一つはその本の内容で、もう一つは何語で書かれているか。頼まれもせず、これはアラビア語で書かれたものだ、これは古代天狗語で書かれたものだと嬉しそうに解説する。が、今回に限っては片方の情報が欠落している。
「……何語?」
「えっと……」
小鈴は答えを返そうとしたようだが、吐いた息は喉の奥で蓋をされたかのように詰まり、彼女は唖
であるかのように黙った。二人は何も話さなかったが、卓上のランプの火は、むしろ机の周りで激しい議論が交わされているとき以上に空気の激流の中で踊っているように見えた。
小悪魔が本の整理から戻ってきた。彼女は件の本をちらりと見て、二人と同じように絶句した。ただ、それは二人のようにそれがどういう言語で書かれているか見当もつかなかったからではなく、何語か予想できてしまったからだった。版木を削って作ったような文字で構成された右横書きの文章。悪魔文字に類似しているが、スペルや文法に細かい違いがある。悪魔文字はある言語から派生した言語だ。悪魔という種族そのものに祖となるものがあるように。
つまり、予想が正しければこれは神の言語。
「大方狭い集落の間でだけ用いられていて名前がつく前に絶滅した言語でしょう。よくあることですよ」
だが、小悪魔は正しくは伝えなかった。彼女は氷で刺すような声で嘘をついた。
主へ背信した。これは小悪魔にとっては異例なことだ。背信せねばならないほどの懸念を彼女は覚えていた。
小鈴がいるので神の言語は解読されるだろう。そしてそれは先にパチュリーが話題にしていた「完璧な言語」だ。不完全な言語が不完全な力しか世界から引き出せないのなら、完全な言語は完全な力を発揮することができる。それすなわち神の力である。神の力を(巫女が神降ろしでするような間接的なものではなく)そのまま行使できるのなら、実質その者は神である。
小悪魔は主に対して過度な干渉はせず、あるがままに生きた結末がどうなるかを見届けようと思っていた。神になることを選ぶというのも、それはそれで一つの結末なのかもしれない。しかし、神の魂を独占するのは相当難しそうだ。
だから小悪魔は強く二人を牽制した。
とはいえ小鈴もパチュリーも、この分析に納得したわけではない。
小鈴も無名の言語を目にすることはたまにあった。「たまに」であり「よくあること」ではまだないのは単純に人生経験の差によるものだが、ともあれ重要なのは、「名無しの絶滅言語」というだけなら小鈴とて未経験ではなかったということだ。だが、今彼女の眼前にある文字からは、単に話者を失って消えたのではない、もっとプリミティブな力が感じられた。実のところ、小鈴はこの時点で半ば正しい結論にたどり着きつつあった。
パチュリーはもっと論理的に小悪魔の言に違和感を覚えていた。パチュリーは小悪魔が署名をするときに使う文字をしばしば見ており、読めないにしても悪魔が使う文字がどのようなものかは見覚えがある。そして、この古書に書かれた文字はそれと非常に似ているのだから、悪魔の使う文字との関係を完全に無視した「どこかの集落で使われていた文字」という結論が小悪魔の口から出ることはありえない。
だが、世の中には納得ができずとも同意しなければならないこと、というのは数多ある。小悪魔が提示した説もまた、残り二人にとっては納得できないが同意せねばならないことだった。この日は「そういうこと」と結論されて、二人の関心は一旦他の、もっと直近に有用そうな本へと向かった。ランプの火は、元の涙滴型の安定を取り戻して作業を照らしていた。
***
「例の言語で書かれた本を探してちょうだい」
数日後にはパチュリーと小鈴の二人は例の本への関心を取り戻していた。元々失せてはいなかったと言った方が正確か。
小悪魔は対応が誤っていたと後悔した。一見大したことのないようなものに対して大したものではないかという疑いの目を向けることも研究の始点なのだから、推定神の言語をとるに足らないものかのように嘘をつくのは何の抑止にもなっていなかった。
小悪魔は後悔したとともに、一旦敗北を認め行く末を見守ることに決めた。今回の本を捜索する段階でも嘘をつくことはできた――単に見つからなかったと言えばいい――がそれはしなかった。関心に火がついている以上、そうしたとしても既に見つけている動物図鑑のような本一冊から得られるだけのものを得ようとするだろう。そしてたかが本一冊とはいえ、そこから得られる情報の量は、おそらくロゼッタストーンに記載されたヒエログリフ解読のヒントよりも多い。妨害はほぼ無駄だ。
なるようにしかならない、という考え方を小悪魔は好まない。為すように為す神の存在意義を肯定しているように思えるからだが、今回ばかりはなるようにしかならないのだと諦めた。
七冊の本が発見された。どれも多かれ少なかれ焼けているか破れているかしており、書かれた年代の古さと保存環境の過酷さを物語っていた。それらは早速小鈴の解読にかけられた。
小鈴は二冊目を読んだ時点で、これがパチュリーの話していたところの完全な言語だとほぼ確信した。妖魔本のように力を持つ本だが、妖力という禍々しい力ではなくもっと純粋な力を感じた。小鈴は霊夢が神を降ろしているのを見たことがあった。神社での神事だったか里での弾幕ごっこだったか、どちらだったかの記憶は曖昧だが、そのとき受けた雰囲気の印象は、まさにこれらの本が放つオーラのようなものだった。
パチュリーは確信を得るのにもう少し時間がかかった。小鈴と違い翻訳されたものを読むしかなく、小鈴の翻訳はあくまで現代日本語という不完全な言語でしかない。ただ翻訳を話す小鈴の並々ならぬ雰囲気と、翻訳と本に書かれた文字とを対応させていく過程で本から受け取った力から、徐々に小鈴と同じ結論に辿り着いていった。
「とはいえ、何語かは相変わらず分からない?」
「分かりません。小悪魔さんがしていた話のうち、途絶えた言語という部分は正しかったのだと思います」
「何語か分からないのなら……。著者名は? 歴史上有名な人物ならあるいは」
パチュリーは望みは薄いと思いつつ聞いた。ある人物が歴史上有名なのは記録が遺っているからで、記録が遺っているならばその言語は絶滅していないということになる。逆に言えば、絶滅した言語に紐付けられている人物が現代まで歴史に名を残す可能性は低い。
「えーと。ニムロドさん? というらしいです」
「ニムロド……。ニムロド、あるいはニムロッドその人!?」
「いや、その人と言われても私は知らないです……」
「ああそうよね。私としたことがつい興奮してしまった。残りの本に何が書かれているかさわりだけでいいから教えてちょうだい」
低い可能性を引き当てた。パチュリーは早口で小鈴に命じた。
「……そしてこれは建物の設計図のようです」
「それを」
パチュリーは食い気味に小鈴にそう告げて本をもらった。他の本と違い図の割合が多い。図の部分には最低限の文字、推測するに寸法を表す数字と単位に相当する数字しか書き込まれていない。パチュリーはこの本は文字が読めない人が閲覧することも想定していたのではないかと予想した。根拠は、描かれている建物の巨大さだ。雲が全体像のかなり下の方に描かれている。これだけの建物をもし建てようとするならば相当な人数の大工が必要で、この本が書かれただろう大昔における識字率、特に大工のそれがそう高かったとは思えない。
ただ、冒頭数ページ分の図をめくった後にはしばらく文字だけのページが続いており、ここを理解するには解読を必要とした。この日の残り時間は小鈴と小悪魔に翻訳とその文字記録の作成を頼んだ。
夕刻、小鈴が帰った後に翻訳と原著を左右に並べて本を読んだ。設計図の作者もニムロドだった。そしてパチュリーはそのニムロドとは彼女が知識として知っていた人物その人であると確信し、一つの結論に達した。
世界の真理とは山ではなく塔だ。ニムロドはそう考え、バベルの塔とはそのために建てられた。
パチュリーは塔の建設を決断した。