光は灯り、ずぶずぶと水底に沈んでいく。低重力に潜り込んだ泡沫はビー玉のよう割れず浮かばず、操舵席より眺めた世界観は散りばめられた星空と化していた。帰り道となる猫を捜して、沈んで、沈んで――――……
「蓮子、知ってたの?」
旅路の中央、操縦桿を握ったのは蓮子であった。傍立ってメリーは、その肩にもたれ掛かるように行方を見守っていた。
「此処に来て長いから。動かし方を覚えちやつた」
「…………ごめんね」
一体どれだけの時間を、幾何学的な賽の河原で過ごしたのだろうか。身を寄せ合い、布越しに微かな体温を感じるほど密着しているのにも関わらず、確実な隔たりが二人にはあった。違和感を覚えてメリーが再び見遣ると、記憶の中の蓮子と彼女は何処か、いや、外見で判断できるほど大きな変化が、部屋から飛び出した咄嗟には気付けなかったが、ある。
髪が、短い。
「蓮子、髪、切ったの?」
「うん。変だつた?」
「ううん。似合ってる」 他愛無い、ずっと求めていた会話だった。
「良かつた。此処は時間の流れが無いから、髪、伸びないの」
「そうなんだ」 蓮子の大人びた印象は髪型に起因していた――少なくともメリーはそう思った。だが、致命的な誤りがそこには隠されていた。座っているからこそ気付けない身長の差、落ち着き払った感情の受け取り方。
深くなるに従って、船体がカタカタと俄かに振動し始めた。夢の時間は終わりを告げ、人が空を飛べる瞬間は遠のいた。塔と卵の部屋から離れていって、ゆっくりと重力が蘇る。自分自身を構成する肉を意識した時、背後で植木鉢がゴトゴトと音を立てて転がった。酔いはまだ回っていて、ふらふらとした足取りでメリーは蓮子にしがみついた。ガラス窓には再びコツンと手紙の入った瓶詰めが当たり、重い領域に入ったことを知らせる。
「これ、どうなってるの……?」
「うーん。私が実験した限りでは、どうやら質量と引力の法則がほぼ真逆に作用してるみたいなんだ」
「重いものほど軽い?」
「ん。違う違う。質量の多いものほど、『ひとつの重力に対しての、斥力が生まれてる』の」 (※ 磁石で例えると、引力は引き合い、斥力はその逆に反発する事)
「??? ひとつの重力……って、私達の世界だと重力って引力しかないはずよね。斥力の要素が加わってるってこと?」
「そういう感じ。どうやら超巨大な一個の、重力を齎す何者かが下の下のずうつと下の方に居るみたいなのよ。そしてそれ以外の全ての質量を持つものは、その重さに比例して重力より開放される――……」
「んー……それって、重いものほど軽いで合ってるんじゃない?」
「そうかな。何ていうか、『場』を作り出すのよ。斥力――と表現するのはあんまり適切ぢやなくて、物事は重いほどに大地への縛り付けを無効化できる……――力は最後に0、無で止まるのよ。拮抗するの。有り余つた質量は、浮遊圏を展開する」
「えっと、えっと………………、つまりあの部屋は重すぎるから、周りにあるこの水場も浮かしていられる、って事なのね」
「うん」
「――という事は、私達もちょっぴりだけ周りにあるものの『重力』を軽減できてるってわけなのね」
「そうかもしれない」
多くの手紙の中に、黒い瓶詰めが混ざっていた。目を凝らすとそれは細かく、かつ艷やかであった。人間の髪だ。誰かの長い髪の痕跡が、まるで記録を遺すように瓶の中に保存されていた。
「……………………大体解らないという事が大体分かったわ」
猫を捜して右往左往。まるで探偵のようだった。手探りで煌めく鉱石の底をつついて、また踵を返す。流れの見えない水溜まりを真っ直ぐ照らして、やがて底へ、僅かに渦が巻いていて、誘われるように重力の元へと降りていく。
「……“ねぇ、蓮子”」
瞳の、像を屈折させるためにある水晶体に彼女のぼやけた姿が映った。彼女の名前は蓮子。メリーと同じく秘封倶楽部に所属しており、親しい友人である――――云う。メリーは云う。
「私、何年間あなたを待たせたの?」
例えば、当時中学生であった“塔”と“卵”が30年経っても変わらない姿で居ること。何故だか蓮子が、老いて見えること。この世界と現世を行き来しながら、何年も何年も失踪した友人の姿を探し続けていたとしたら? 二人の失踪者がメリーを知っていたり、意味深な台詞を投げかけたのも…………
「気にしなくていいの。猫を信じた私がダメなの」 …………?
「猫?」
語られた経緯は驚くほどに現実味がないものであった。
「選んだのよ。道を。――見たこともない国に出たわ。あの頃に戻れないか捜して幾つも旅をして…………ごめんね。こんなおばさんになつちやつた」
照れ笑いのように表情を綻ばせた蓮子の声は、小さく、砂山に飲み込まれていく一滴の水のよう消え入ってしまった。
「……どういうこと? 見たこともない国って」
「向こうでも、此処でもないどこかよ。路銀を稼ぐために働いたり、あの猫と暮らしたりしたつけ。時間遡行薬とか、銀の鍵を探した事もあつたかな」
「…………ごめんね」 もっと早く気が付いていれば。
「ううん。いいの。何か幻想世界に行けるメリイになつた気分でさ。あんまり悪いものでもなかつたわ。それに」
目を瞑って、次いで瞬きをして、まるで結界を探り当てるように蓮子はメリーを透かして見るように眺めた。
「私も少しだけだけど、メリイと同じものが見えるようになつたの…………もしかしたら先祖が超能力者だつたりしたのかも」
「本当!? すごいじゃない!」
「ええ。これからずつと一緒にいられる」
「――――あっ!」
そして訪れるのは、息もせずに元気に水底を泳いでゆく毛玉猫であった。あらゆるものが順調で、収束へと向かっていた。舵を取り、猫の足取りを追い始める。捩れる空間のような渦の先を光で照らして、やがてある岸辺に辿り着く。潜水艇より仰いだ水面は子供達の居た部屋に比べて、随分と暗い。水流に慣らされた結晶石はなるべくして滑らかに、海洋生物の銀鱗のプリズムそのものの輝きであった。まるで影の中に見える太陽の残像のよう、距離も、形状も、ましてや温度すら感じない。倒れきった植木鉢の暗緑を踏み越えて、秘封倶楽部は艇内ハッチを昇っていった。忘却の川より一歩、そこに閉鎖は無かった。水に濡れた肉球のある足跡が一本の道になっていた。足を進める。
――足を、止めた。
黒い霧のようなものが辺りを包み、手を伸ばすと指先がじわりと滲んだ。継ぎ目の一切ない単色の、灰色の絵の具を零したかのような底面が四方、闇に消えるよう展開していた。メリーは、今にも留まろうとする蓮子の手を引っ張って足跡を追っていた。空は暗く、星も陽も雲も電球さえも判別できない空白が漂っている。
「メリイ、どうして猫を追うの?」
互いに前を走る者に追いつこうと必死で、息を切らしていた。メリーはすぐに答えを出せず、闇雲に地面を蹴って言葉を探す。いつしか終端が現れて、地平線のよう大地は完全に分断された。振り返り、云う。
「毛刈りの前にお猫様に追いついて、元の世界に帰らなきゃ。…………もしかして、猫のこと、知らない?」
「いえ、知つてるわ。けど、どうして向こうに行くの? 私達が帰る場所はあの部屋よ」 ――足を止めた。
闇の中にぽつりと、降りる螺旋階段と猫の痕跡があった。秘封倶楽部は寸前で立ち止まり、向こうと、此方側で相対した。
「こんな時に冗談云ってる場合じゃないわ。お猫様が行っちゃう」
「メリイこそ猫と遊んでないで帰ろうよ」
話が通じない。決定的に何かが違う。それが何か、気付くまでに時間は必要なかった。声は二人分しかない。他の誰も、闇の中には居ない。足音も失って、会話しか遺されていない。
「蓮子。あなた変よ。旅してる内に何かあったの? あなたの考えを壊すような、何か――――」
「メリイ。本当気付いてないの? あのね……」
未だ繋いだままの手には、蓮子の温かい感触がある。
「メリイは、死んだのよ」
この手を、彼女はどう感じているのだろう?
「嘘よ………………だって、」 私は洞窟内で少し眠っただけで、けど蓮子は年を取ってて、言葉は食い違い、世界は変わってて、
「私は、生きてて、」 言葉には嘘もある。
「事故だつたのよ。あれからずつと探したの。メリイに会える方法を」
「……嘘よ」
力尽きて、腕をだらんと下げてメリーは俯いた。声は震え、自分の足が地面と繋がっている事が不自然に思えてくる。蓮子は近寄り、その離された掌を握り直して囁いた。
「私は嘘吐きでもいいの。メリイと一緒に居られれば」
指の腹で感触を確かめるよう押して、やがて手を繋ぐ。嗚咽をこらえて何も話そうとしなくなったメリーを引き寄せ、彼女は踵を返した。
「さ。帰ろう。メリイ。私達の永遠へ」
薄暗く、夢の終わりのような色の閉塞が蔓延する世界を、ひとつ、またひとつと足跡を潰しながら戻っていく。誰も止めるものはおらず、時を違ってしまった二人は約束された完結を迎えた。終わりが来る――――――
「“ねぇ、メリー”!」
言葉は呼び水であった。聞こえるはずのない声が響き、幾重にも連なった黒い靄を揺らした。失望して、しかし何処かに記憶が蘇って、好奇心と不可思議を繰り返した秘封倶楽部の日常が、メリーの眼を真っ直ぐ正面に向けさせた。
幻だった。自分の影を水靄に映し出したような鏡像だった。それは声を発する。
「“良かった。やっと会えた”」
幻想は云い、一歩近寄る。まるでかつてあったような蓮子の姿は、安堵した表情で霧の中から脱した。重力の狂った無音世界に、生きた息遣いが届いていた。無理をして走ってきたのか、彼女は顔を紅潮させてこちらを凝視する。
「………………!」 “あなたは誰”という言葉をメリーは飲み込んだ。何故なら、眼前にある人の形は、実体を持っていたからだ。
「「もう一人の私……」?」 蓮子の声は同時だった。
緩慢に流れていた時空に楔が打ち込まれた。人は戸惑い、霧の漂う中で、もうひとりの蓮子の息が次第に落ち着いていくさまが唯一の光景だった。対峙し、手は離れ、秘封倶楽部は三角形の頂点同士になる。数字遊びをしていた頃ならば、三位一体がどうとか216を絡めたりして笑いあったのだろう。今や笑顔なく、表情の変化もなく、時は凍りついてしまった。
起きないことが起こる。不可思議の一側面だった。蓮子とメリーは思案を巡らせた。ドッペルゲンガーか、夢幻か、はたまた何者かの差し金か。合理的に考えれば、必ず理由が隠されて――――――
「……多分、どちらかが偽物なのよ」
もっとも初めに動いたのは、年長の蓮子であった。時に突き刺さった楔が抜かれ、秘封倶楽部の『辺』に落とされた。
「どちらか……って、言い出した人か両方共偽物ってパターンの言葉じゃないそれ」 同年代の彼女がすぐさまに返した。
「けど私とあなたは意識を共有していない」
「一緒じゃないのは判るわ。あなたは誰なの?」 メリーの声を代弁したのは小さい蓮子だった。
「私は宇佐見蓮子。京都市内の大学に通つていたメリイの友達よ」
「私もそうよ! …………もしかして未来の私とか?」
「ならあなたは過去の私? 触れてもタイムパラドクスで対消滅とかはしないみたいね」 二の腕を掴んで、顔を見合わせる。
「嘘吐いてない?」
「嘘がそうだと判るのは、いつも自分自身だけ」
「私にはあなたが本当の事を云っているかどうか、解らない」
「私には解る。蓮子、あなたは正直者よ」
「とりあえずそこをどいて。メリーと猫を探しに行かなきゃ」
「どうして? メリイは私と一緒に帰るのよ」
「帰るために猫を探すのよ!」
「家路に帰るのに猫は必要ないわ。足さえあれば行けるのよ」
「毛刈り式に間に合わなくなっちゃう。毛の長い内にお猫様に――」
「それで帰れる、と謂うの? 向こう側に帰る場所なんてない」
「この世界に故郷なんてない!」
「あるわ。幻想の、――――」
「あなたの幻想は足があっても浮いてしまうじゃない!」
もはやどちらが喋った言葉かも判別がつかなくなり、進むべく猫の足跡も乾こうとしている。張り上げる声は露と消え、やがてある岐路に立たされる。それは猫の示した橋の問いのような、真っ二つに別れた行末だった。
「“ねぇ、メリー”」
「“ねぇ、メリイ”」
「“私と一緒に行きましょう!”」
「“私と一緒に行きましよう!”」
メリーは声を呪った。全く同じにしか聴こえない。
メリーは姿を呪った。全く同じようにしか見えない。二人の間に入り込み、両方の手を握った。メリーはその温度を祝福した。同じく、暖かく、柔らかい。もうひとり、大人の自分が居れば、どれだけ良かっただろう。
死んでしまった自分の心音を目を瞑って思い返す。瞼の裏で繋がっているふたつの手が恒星のよう光を発して、迷いの中にあるのにも関わらず満ち足りていく。“帰る場所にしか彼女は居ない”当たり前だが、メリーは幻想世界に行けるからこそ――――
「私は、」 選ぼうとした。好奇心、友人、
考え始めたところで、意識が白く霧がかってしまった。誰を信じて、誰を慕うのか。生きているのか、死んでいるのか、子供達の永遠の夢か、猫の向こうにある現実か。足跡は乾こうとしていた。歳を取らず、髪は短いままの世界。しかし、この螺旋階段前では水が蒸発してしまうのであった。蓮子の云っていた『重力を齎す何者か』が近いのだろうか。永遠と須臾の狭間に霧はあった。時間は限られていた。心臓が音を刻む度に、猫を追う蓮子が遠くなっていく…………
「私は、」 何も言えなかった。結界の境目が見える程度の能力は、二人の幻想を見抜くことは出来なかった。
「私には、……――――選べないわ」 震えて、理性に溢れた声を失ってしまう。昂った感情は堰を切ったように喉を越えて、ぽつり、ぽつりと滴る水滴のように流れ出していった。
「私の眼には、どっちも本物にしか見えない。蓮子は蓮子よ。誰でもない、蓮子。私には選べない、蓮子はここにいるもの。此処に……」 メリーは考えてしまった。蓮子は居るのは確かで、では、自分自身は何処にいるのだろう、と。
「メリー……」 ひとりの蓮子はぎゅっと手を握り返した。
それが彼女の最後の感触であった。いつの間にか手はひとつになっていて、眼を向けるとそこには数歩引いて後ろ手に回した蓮子が優しそうに笑っていた。
「嘘吐きは私。メリイ、ごめんね」
彼女は、未来の蓮子だった。自ら指を離して、秘封倶楽部から距離を取ったその笑顔は、何故だか物悲しげに映った。メリーが今も手を繋いでいる隣を見ると、そこにはいつものように、同年代の蓮子が立っていた。遺されたのは、ふたり。
「安心したわ。それが聞きたかったの」 名残惜しそうに彼女は呟いた。「メリイが死んでいるなんて大嘘よ。出会えたのが嬉しくて、いぢわるしちやつた」
蓮子の言う通り、始めに言い出した彼女が偽物ならば――
「蓮子、あなたは一体、何者なの……?」 メリーは問うた。
「私は、」 口を開こうとして蓮子は言い直す。「…………――私達は、名前を変えていつも必ずあなたの傍で見守つているわ」 一拍置いて、空を仰ぐように眼を黒靄に移してまるで言い聞かせるみたいに彼女は続けた。「……時には答えが遅くなるかもしれない。意味なく話を逸らしたり、先走つて置いていく事も、勘違いだつて多いと思う。自分の欲望のためにあなたを誘導してしまう時さえあるはず。けれど信じて。決して、決してあなたを忘れたりはしない」
メリーは結局、彼女の真実に辿り着く事は出来なかった。足は地につき、意識を持っていくつも呼吸をして、早まる心音を胸に抱えて、歩みを止めている。言葉を待たずに蓮子は今一度、彼女達二人、秘封倶楽部に向き合った。短く声を吸って、懐かしむように柔和な笑みを再び浮かべて、そして伝えた。
「ほら、ぼーっとしてないで早く行つて! 時間は限られてるんだから、猫が居なくなつちやうよ!」
小走りで近寄って、まるで保護者のように二人の背中をそっと押した。秘封倶楽部は顔を見合わせて、「行こう」 「うん」 と小さく頷き合った。猫の足跡を追い、ゆっくりと、離れていく。
ふと振り向いたメリーの眼に、ひとり遺された蓮子がふらふらと手を振っている光景が焼き付いた。やがて黒靄に隠されて、…………――――――――
「メリー。先、行ってて。……私、少しだけ話してくる」
螺旋階段の直前でそう決意したのは蓮子だった。いつか、近い内に蒸発してしまうその足跡を横目に、彼女達は一旦別れる。
「蓮子、……………………絶対戻ってきてね」
ふたりとも理由を詮索しなかった。蓮子がどうして彼女を気に掛けたのか、メリーが何故ともに行こうと提案しなかったのか、ごく短い時間に秘封倶楽部にしか解らない不可思議な意思の疎通があった。
――――例えば、戻りゆく蓮子はみな幻想であって、メリーは結局のところ孤独に囚われてしまうのか。
――――例えば、真実を告げられていないメリーはすでに死体で、これより独りで死出の旅路に就くのか。
――――例えば、秘封倶楽部という瑣末な演劇を、幻想中にある何者かが指で繰って遊んでいるのか。
――――例えば、願いだけがあって、嘘なんて何ひとつも……………………蓮子の声は“彼女”に届いた。
「待って!」
暗闇の雲に消えつつある姿に追いついた。送り出したはずの幻影に出会ってしまったもう一人の彼女は眼を丸くして、苦笑いを持って蓮子を迎えた。息を呑み、以前より一層語気を強くして言葉を返してみせる。
「帰りなさい」 すぐにも踵を回転させて、蓮子から逃れるように目を逸らす。しかし回りこまれて、
「あなたに訊きたいことがあるの!」 退路を失う。
「私はいつまでも待つてみせるわ……けど、メリイを待たせちゃダメよ。早く帰りなさい」
冷たくあしらう振りをして、肩を違えようと歪めた歩はあっさりと塞がれてしまった。
「猫は言ってたわ。『まっすぐ進めば彼女の歩んだ足跡を辿れるだろう』って。この“彼女”ってあなたの事でしょ」
蓮子の問い掛けはいつだって核心をついていた。詰められた彼女は目を合わせようともせず、歯を食いしばって黙秘を選んだ。
「『あとに続く蓮子を頼む』って、どうして私が来るのが解っていたの!? 答えて!」
必死に縋り付く子供のようなその剣幕に押されて、一歩、下がってしまう。蓮子は、蓮子にぽつり、こう囁いた。
「…………………なんで判つたの。私の言葉だつて」
「自分自身の事よ。私には、わかる」
ハァ、と大きく溜め息を吐いて、観念したように彼女は動きをやめた。表情は深海の底のよう堕ちきって、まるで闇の中に映る一本の街燈を眺めるみたく虚ろだ。口を開いた。
「その言葉。返すわ。あなたが“猫の境界”に来るのを知つていたのは、私自身の事だから」
「ならどうして、私にヒントを遺したのよ! 私さえ迷えば、あなたはメリーと一緒にいられたはずなのに…………」
「メリイは、死んだのよ」 声は枯れていた。
「メリーは生きてる! 手を握ったでしょ!? それはあなたが一番知っ――――」
「私のメリイは死んだのよ。何年も前に」
それはひとつの可能性だった。靄に囲まれ、僅かな光で、空などなく、黒く滲んだ行末の中にぽつりと佇む。彼女はかすれた自分の足跡を語り始めた。
「メリイはね。6年間だけ失踪したの。歳を取らずに……丁度あのふたりのよう永遠に囚われてさ。その間私はずつと探したよ。帰つてきてくれた時もすごく嬉しかつた。けど、時間の隔たりは彼女には安寧を与えてくれなかつたわ」
蓮子に背を向けて空隙を覗き見る。
「大学や就職の問題があつてさ。会う時間も少なくなつて――6年間のブランクは決して温いものじゃなかつたわ。現にメリイもすごい頑張つて…………秘封倶楽部という繋がりがあつたからこそ私達は立ち向かえた。けど。けどそれが逆に枷になつてたみたい。窮屈になる現実に反比例するみたいに、彼女の夢は広大さを増していつた」
パン、と泡沫が割れるよう手を叩いて、振り返った。諦観の宿った笑みが張り付いて、今にも砕けそうな音を紡いでいる。
「あるとき、メリイは突然居なくなつたわ。彼女の力か、意志なのかは解らない。私は探したよ。ずつとずーつと、人生を棒に振るくらい……彼女と同じ視点になれるよう力に目覚めて、以前メリイが失踪した場所から“猫の境界”に入り込んで――――」
蓮子は気付いてしまった。リーデンミラー時計店の失踪者の――――噂の中だけに居る3人目。現実では失踪した人間は居ないはずなのに、話に登場する彼女の姿は、
「此処であの二人に会い、旅する内に私は知つた。世界はひとつではない事を。そして、あなたの世界を見つけた。生きているメリイを見てとても嬉しかつたわ。…………同時に寂しかつた。彼女はやがて此処に来てしまうだろう。だから私は、能力なんて何ひとつない貴女にも来られるように、あらかじめ仕掛けをしておいたの」
「なおさらどうして! 私なんて見捨てて、直接会えばよかったじゃない! 手段も回りくどくて……――――」
「変質してしまつたのよ。永遠に居る内に、心が。…………あなたのメリーは、私のメリイじゃない。けれど、秘封倶楽部なのよ。だから――――」
えへへ、と照れ臭そうに微笑んで、彼女は言い切った。
「悪戯したの。猫に言伝を頼んで、二人にメリーを誘導してもらつて、あなた達が何を選んで、どう進んでいくか――――あわよくばメリイを貰つてしまおうなんて、さ。まるで神になつた気分で…………けど本当にメリイに触れたら、どうでも良くなつちゃつた。この一瞬の為に生きてたんだな、とか感じて……あはは。何云えばいいか、判らなくなつてきちゃつた」
「蓮子…………」
「生きてたらいいな、ってそう思い込んで、メリイに嘘吐いちゃつた…………謝りたいけど、うん。蓮子、私だけの秘密に、して。私は、メリーの蓮子じゃないから…………幻想だから」
猫の足跡に、新しい水が落ちて加わった。蓮子の頬には雨粒のような感情が滴って、とめどなく流れていく。
彼女の指を握り、詰まってしまった言葉の代わりに震えを伝えた。蓮子には、彼女にしてやれる事が他に何も考えつかなかった。眼底の奥が熱く、ただ何も出来ず触れていた。
「蓮子、……私と一緒に泣かないで。あなたは笑つて彼女を迎えに行つて。私は、きつと捜し出してみせるわ。居なくなつたメリイを――――時間は、永遠にあるのだから」
母親のよう頭を撫でて、蓮子は自分自身を抱き締めた。それは、未来の温かさだった。ひとつの可能性は潰えて、
「私は貴女の行末を見守つているわ。だから忘れないで、私は、此処に居る」 蓮子は、その胸の真ん中を強くぎゅっと押された。
彼女の足は地より離れた。
: : : :
メリーはずっと待っていた。その道の果て。螺旋階段の最下層、二重の鎖が切れる終わりの地で、猫の坐る前にひとり居た。
これまで蓮子にどれだけ待たせたのだろう。今にも消えてしまいそうな蝋燭を前にするように、気が逸った。迷いは次々に生まれて、蓮子の実像が揺らいでいく。誰が本物で、誰が本当か。時間は、たったの数分でも感情の火を揺らしてしまう。大きな風が吹けばすぐさま記憶を失って、足取りは不確かに奈落の底に倒れこんでしまいそうな今がある。
“時には答えが遅くなってしまう時だってある” 答えはいつまで待っていれば訪れるのだろうか?
メリーは“卵”や“塔”から受けた道程を思い返していた。答えは遠く、先を行かれてしまった。手で温かい炎を囲むよう、光を意識に浮かべる。例え眼の前の火が吹き消えたとしても、その光を絶やさないよう、ひたすらに思う。蓮子は、きっと来る。
きっと――――――――
叶わない願いも、実現する出会いも、今はその意志それ自身が世界の事象の全てであった。彼女達二人、走り、進み、悩み、待って、急いで、………………やがて
「“ねえ、メリー”」
――――――あるひとつの時計の針が止まり、何もかもがこの時点で終わってしまって、二人の冒険は次の観測まで長い日常を挟む事になる。と、当たり前のような未来を夢想していた。
手から、するりと抜けた。
「蓮子、おかえり」
「いこっか」
「うん」
言葉は必要なかった。何があって何を感じたか、問うまでもなく眼で見るだけで感情を共有した。帰り道となる毛の長い猫は終端でウトウトと睡り、迷いなく二人の手は伸ばされた。ふわり、触れて、いざ撫でて、しかし手からするりと抜けてしまった。
まるで雲を掴むように、猫は目覚めに襲われて、蓮子とメリーが反射的に身を傾けた時すでに、足は空を切っていた。階段の崩れたその一歩先に猫は踏み出し、あっという間に遠のいていく。
「あっ!」
声は浮かばず、すぐにも大きな重力の渦に囚われてしまった。二人は眼で見合わせて、世界の成り立ちを思い返した。起きてしまった事、そしてこれからの事を決断しなければならない。
時間は、残されては居なかった。
「どうしよう」 メリーが尋ねると
「追いつけるかな」 蓮子は答え
「私は蓮子を信じるわ」 絡めた指の感触は確かに
「私もメリーを信じる」 躊躇なく、決断は行われた。
重力を忘れて、地より二人は離れた。長い髪を覆っていた帽子を空いた片手に避けさせて、真っ逆さまに落ちていく。頬に風を感じる。虚無に限りなく近い黒い闇の中は胎児のまどろみのようで、一点だけある白い毛並みに誕生を願った。螺旋階段より遥か隔たって、幻想の遠出は際限なくスピードを増していった。何もない宙空の靄は、やがて幻日のよう不自然に輝くようになる。
「もう少し、もう少しで手が届きそう……」
「あと、ちょっと」
もはや目前だった。しかし叶わない。ほんの指先にあるはずの光のような塊は、まるで水面で屈折するかの如く実像を揺らしている。届かない。物理的に有り得る最高速に達したのか、平行線が取り払われる瞬間はついぞ来なかった。そして、音。
「あっ!」
「待って!」
臨界点を越えた時計の針は、猫の儀式を知らせる。次々と長毛は刈られていって、姿はおぼろげに霞んでいく――――
「っ――…………」 別世界の蓮子とは異なり、お猫様とこの猫は、きっと元はひとつなのだろう。どちらかが変われば、また片方も大きな影響を受ける分身。今こそついに、長毛を失って幻想の猫は数ヶ月の間、喪われてしまったのだ。次に訪れるのは、また長い空白のあと。二人は幻想のまま。
叫びにならず息を呑んで、瞬く間に沈黙が雪崩れ込んできた。落ちる。落ちる――――……
消灯前の走馬灯。二人の無意識には鮮やかな鉱石の虹色が思い浮かんだ。ローカル線の電車に乗り、白昼夢を見ながら雪の町へ。幾何学図形の時計店で、霧に包まれた猫の橋で、球体と石の川辺で、緑化と迷走と永遠の部屋で、蓮子と、蓮子と、メリー。未来に過去。繋ぎ合わせた手からは確かな力と温かさが昇ってきて、未だ眼を開けている事に気がついた。
「メリー、どうしよう」
幾億の時を刻むよう、落下は永遠の軌跡を辿っていた。だがその実、残酷にも“何者か”に近づきつつある。強大な重力、黒体輻射によって僅かに紫に染まる、ひとつの暗点が遥か向こうに存在していた。例えれば、様々な選択肢が生きていたのだろう。猫を諦めて別の方法を幻想の三人と共に見い出したり、逃げないよう先に猫を胸に抱いていたり、たった数ヶ月を我慢して猫を待ち続けたり、まず猫の分身は一匹だけじゃないかもしれない…………どうして、自分達はそう行動してしまったのか。環境、教育、遺伝子、サークル――――間違えていたもの、偽物だったもの、頭をもたげた後悔は、寿命の半ばだというのにも関わらず、彼女達の道程を影の墨で塗り潰していく。
落ちていくばかりで、何もない。きっと、刹那を踏み越えた未来は、
「蓮子、くっつきましょう」
「あ……うん」 より質量のあるものほど、浮力が生まれる。メリーの提案に、二人は近く、寄り添った。帽子の手を腰に回して、少しでも時の早さが軽減されるよう、祈る。
「怖いね、メリー」
「うん。もっとぎゅっとすれば、落ちるスピードが減るかな?」
体温を共有して、地に足のつく恐怖に耐えようとする。きっと、この加速度のまま自分達以外のものに衝突したら、何もかもバラバラに砕けてしまう。しかし顔を赤くして蓮子、メリーも同じよう束の間の安心に身を委ねていた。
「色んな事があったね。メリー」
「蓮子。短かったけど楽しかったわ」
「ええ。長くて、すぐだった」
「……――私達、帰れるのかしら?」
思い返すのはかつて同じ道筋を持っていた蓮子の事だった。世界が多重に折り畳まれていて、いくつもの可能性があるのなら、違う世界で違う秘封倶楽部が、今頃蓮台野でも観光しているのだろうか。妖怪と人間が暮らす場所があったり、魔法と科学が融合したり、サボテンがエネルギーになっていたり――――
「きっと帰れるよ。蓮子が、此処で見守ってくれてる」
その触れた胸に、違和感を覚えた。
「……蓮子、どうしたの?」 異変に気がついて、驚いた表情を見せた彼女に尋ねてみせた。帽子の手でメリーを支え、もう片方は――――上着のポケットにある一枚の手紙を見つけたのだった。
「これは…………」 蓮子がこっそりと忍ばせたものに違いなかった。見覚えのある、自分の筆跡。遺されたものは折り畳まれておらず、よく不思議を探索するときに使っていた、いつものメモの切れ端であった。懐かしさすら感じた。
「もしかして、貰ったの?」
「そうみたい。読むよ」
「うん」
まるで詩のようだった。川底に無造作に打ち捨てられていた、あの瓶詰めの手紙なのかもしれない。忘却の流れに逆らうよう、幾つも幾つもの呼び声を発して、いつかの時を夢見ている。誰かが、誰かに宛てた願い、導き。水流の先がどこか、別世界に繋がっていると祈って。
『貴女はきっといつか此処に来るのだと思う。私達は多分、貴女を怖がらせたり、苛立たせたりしてしまうだろう。
故郷に帰らないように、私達は短い髪を永遠の誓いとした。螺旋の輪に飲まれることなく家へ戻りたいのなら、その長い髪を撫でて親しい友人を思いなさい。寂しい時は猫もそうして孤独を癒やすのだから。
もし、縁があって出会ったのなら、どうかたまには思い出して欲しい。答えが遅くなったり、勘違いしたり、先走ったり、自分勝手だった私達を。きっと貴女ならば笑って回想できるでしょうから。
親しかった私より』
あの彼岸で待ちぼうけを食らった時、もし流れ着いた手紙を読んでいたのなら――――どうしただろう。
「ねぇ、蓮子」 意図をほどくのは簡単だった。
「メリー。多分、同じ事考えてる」 結ばれた言葉が分かたれて、秘封倶楽部は怪異を語り合う。
「多分、猫は偶然の産物なんだと思う」 噂の中で一度、永遠を選んだ“卵”が帰ったのは何故だろう。お猫様に触れてしまったのか、もしくは別の――――
「うん。お猫様に触れるって条件は結果的に組み込まれてただけで、もっと根本的な法則があるのよ」
「十代目の雄猫が法則に当て嵌まらなかったり、私達みな同じ性別であることはきっと種族を超えて関係ある」
「あと、“塔”と“卵”や私みたいな幻想能力の有無」
「怪異の『点』の生じる時計店に住み続けているからこそ、雌のお猫様だけがまるでなるべくように長毛になってるとしたら?」
「猫の長毛の代わりがある? 此処と、向こうの時計店は、重なり合った次元のほんの折り目のひとつで、永住を決意したみな短い髪なのは――――」
「扉も鍵も、最初から私達が持っていたのよ」
「きっと、帰れるはず」 彼女達の髪は猫よりも長い。
ゆっくりと、手を翳した。帽子を脱いで風に暴れる長い髪をすっと正しく櫛って、猫の長い毛並みに行うように撫で下ろしていく。重力より真っ逆さまの身体が浮遊しているみたく熱くなって、指先から喉奥まで満ち足りていく。幼き日の光景が蘇って、決して花開くこと無い止まった時空の中で笑顔が咲いた。
「子供の頃に、良くこういう事したね」
「――私も同じ事考えてた」
触れる事はひたむきな興味だった。帰り道は二人がそう想っているだけの儚かな希望で、しかし胸に抱くものは一緒で、いずれ朽ち果ててしまう泡沫に瓶詰めの手紙を流して、信じながら飛び降りて行先で捜して、出会い、
「“ねぇ、メリー”」
「蓮子、どうしたの?」
「呼んでみたかっただけ」
微笑んでこつん、と額を合わせた。
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