Coolier - 新生・東方創想話

祕封倶樂部の冐檢

2025/03/30 14:46:50
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 額に雫が落ちて鼻筋を流れていった。彼女は、膝を抱えてそこに座り込んでいた。恍惚と手放していた意識を取り戻すと、ようやく自分の境遇に気が付いた。水のせせらぎ、文明的な仕組みから離れて迷い込んだのは、ある川辺だった。
 熱を発しているのか、地に触れた部分から人肌並みの温かさが伝わってくる。ビスマス結晶に似た幾何学的な切り口を持った鉱石が行く手を阻むように壁を作り、唯一の道は先程からずっと流れ続けている飴色の川だった。どうやら底の石の色が透けているらしく、手で触れると冷たく透明な清水へと変化した。地下水だろうか。
 空を仰ぎ見る。真っ暗だった。鉱石は遥か頭上、視覚の追いつかない領域まで続いていた。まさかと思い、砕けて散らばっている石クズを拾い上げると、それ自体が僅かに赤白く発光していた。光源は壁面全体のようだ。もう一度川辺に顔を覗かせると、その水面に自分の顔が揺れつつも映った。金色の髪に紫の洋装――――……
 メリーは眠ったのだと思った。猫と他愛もない触れ合いをした後の記憶が曖昧だった。傍らに蓮子の居ない事実に寂しさを覚えて、自分に許された空間を見回した。偶然に自然に穿たれたほんの小さなスペースだった。川の上流は鉱石に阻まれて狭く閉ざされていて、進むとしたら段々と深くなっている流れる先を潜っていくしかないようだ。帰り道となる結界の裂け目なんて何処にもなかった。

「どうしよう」

 独り呟いて、とりあえず手持ち無沙汰から雑石を賽の河原のよう積み上げる作業をしてみる。延々と腰の高さまで載せ続けて、ふと、眼に引っかかるものが映った。つい先までは何もなかったはずの地の空白に、ちょこん、と丸いものが置かれている。四角い結晶上の鉱物に溢れた此処に似つかわしくない、若干縦に伸ばされた白い球体だ。

「こんなのあったっけ」

 手を伸ばし、ひとつ掌に収める。そのほんの一瞬の隙を突くように、またもや変化が訪れる。メリーの持つ一個とは別に、再び球体は全く同じ場所に出現していた。

「増えた?」

 石洞に反響する声が消え終わらない内に、まるで自己増殖でもするかのようにふたつ、みっつと生じていく。4、5、6、と瞬く間に数は続いてそして――――……
 ドバアアアアァァァァァァンッッ!

「――――っっ!?」

 一気に爆発した、……とメリーは思い込んだ。圧の掛かった水が内側から噴き出したような轟音が背筋に駆け昇ってくる。球体、手、壁面と迷った視点の端から、スローモーションになって水飛沫が襲いかかってきた。頬を伝う水滴の冷たさを感じて、ようやく起きた出来事が飲み込めてきた。景色や小道具には崩壊はない。訪れたのは新しい登場人物だった。

「7匹の雛鳥は何時ゝゝ孵る♪」

 それは猛烈な勢いで水面から顔を出した小型の潜水艦だった。雀色に塗装された金属製の上部ハッチが開いて、鼻唄と共に緑色の帽子がひょっこりと現れる。眼鏡を掛けた黒髪のベリーショート、12~3歳ほどの少女だ。境界の向こうの夢の見せた幻かと疑ってメリーは目をこすってみるが、運良く彼女は真実のようだ。

「えっと、おはよう」

 言葉を失って、メリーは挨拶を掛けるしかなかった。すぐにも視線が合わさって、妙に長い間が生まれる。滞留した空気感はみるみる内に濁っていき、まるで猫の睨み合いのような重苦しい硬直に発展してしまった。どちらかが声を出さなければ、

「貴女幽霊?」
「ここはどこ?」
 ほぼ同時に牽制が決まり、
「「あー?」」

 感嘆符によって雰囲気の行く末が矯正された。乗り物から全身を脱した少女がメリーの前まで歩いてくる。身長は頭ひとつほど低い。冬服の黒いセーラー服に半透明のレインコートを着ており、彼女はそのポケットから金メッキの筒を取り出した。筒は折畳式のようで先を持って一気に引き伸ばすと、全く暴力的な、警棒の形に成り果てる。だが、少女の持ち手は反対側。細い方を手にして、メリーに突きつけてきた。

「触らせて」

 レンズの乱反射を浴びて、メリーはその物体が折畳式の望遠鏡だと理解した。未開の洞窟に住まうある程度高度な文明を持った野蛮な人間――という支離滅裂な想像は払拭されて、安心して会話を成立させるよう向かう。

「いいけど……」

 相手は子供だし良いだろう、と朦朧として思った。どう解釈すれば良いだろう、この場所は。来るべき触感に、なるべくこそばゆく思わないよう意志を目的に沈ませる。そうだ、蓮子を待たせている。メリーをまさぐる少女の手は思ったより念入りに、踝から始まって膝裏、太腿とまるで日焼け止めのオイルを塗るように確かめていって、肩まで順々に撫でてくる。背伸びをして頬肉をウニウニと遊んでのち、メリーの金色の髪に手が触れかけて、その動作は突然ピタリと止んだ。

「貴女、メリヰよね」
「えっ」 言い当てられてメリーは目を白黒させる。
「お遭い出来て光栄だわ。聴くに違はぬ良い匂ひ」
「ちょっと待って!」

 顔を近づけて犬のように体臭を確認する少女を引き離して、メリーは二歩、三歩と後ずさる。彼女は自分を知っている? にしては記憶にない。例えば人の皮をかぶった獣、化けた老猫や魂の宿った器物ならば、一方的にこちらを観測していたとしても不思議ではない。だが、メリーの眼に映っているのは人間だ。

「一寸だけ待つたぞ。では此方ゑ」

 その思案の間にも少女の時間は切れて、あっという間に手を引かれて潜水艦へと誘われる。

「やめ――――……」 まだ何も理解できていない。拘束を振りほどこうと腕を振り上げた途端、メリーの予想だにしない反応が返ってきた。相手側から、拘束は解かれた。

「あー?」

 潜水艦のわずか手前で孤立させられる。少女は仕事をやり終えた風に満足そうな表情で、件の7つの球体に駆け寄ってそれら全てを懐に入れていた。メリーは位置を移動させられただけ――意図が見えずに困惑して、何か問い掛けようにも言葉が詰まってしまう。

「……とりあえず名前だけでも教えて。私はあなたの予想通りのメリーよ」

 声が出た時には時が経ち過ぎていた。少女は球体を回収し終えて、その眼は潜水艦の開いたままのハッチへと向かっていた。メリーの横を何事もなかったかのように通り過ぎ、甲板をよじ昇って艦内に半身を潜り込ませる。そこから彼女の起こした行動は――――顔だけを出して、ただただ上から薄ら笑いを浮かべてこちらを伺うという、筆舌に尽くしがたい悪意に満ちたものだった。

「あの……何?」

 だが、答えない。
 一瞬は訝しがったメリーの感情も、瞬く間に焦燥に支配されて次の、次の問いを生み出していった。

「えと、何をしてるの?」
「潜水艦の中に入っていい? 何処へも行けなくて困ってたんだけど」
「ここは何処なのか教えて欲しいんだけど……」
「リーデンミラー時計店とか、宇佐見蓮子とか聞き覚えある? すごい大事なことなの…………」
「どうしてずっと見てるのよ………………」
「何か言ってよ……………………」

 少女の沈黙は幾つもの声を引き出した。まるで崇められる神と敬虔な信教者のような構図であった。願いは聞き届けられずに、時間だけが無情にも記憶に刻まれていく。縋るように仰ぎ見る内に、メリーはあることに気が付いた。
 少女に、見覚えがある。それも顔だけに。
 ごく、ごく最近に眼に映ったものの面影がある。それが何なのか、自分の通った大学や蓮子と共に歩んだ場所を思い返すが、明確なビジョンが浮かんでこない。誰だ?

「私に何か、試してたりする?」

 心を励起させて、メリーは行動を選んだ。甲板に足をかけて、同じ舞台に上り立つ。スッと背を伸ばして二本の足で身体を支え、逆に少女を見下ろした。

「目的は知らないけれど、一人芝居はもうゴメンだわ。あなたには喋ってもらう。力ずくでも」
「力なぞ加えずとも喋つてあげるわ」

 一体引き金は何だったのだろう。唐突に彼女との会話は成立する。怒りや暴力を畏れているような仕草は全くなく仏頂面で、まるで表情を必要としない水棲生物を彷彿とさせる冷たさがあった。艦内に降りていった少女は手首をひらひらと出して、メリーを奥の空間へと誘ってくる。
 どうやら目覚めがやがて来るような夢の世界でなく、自ら糸口を縒っていかなければならない境遇らしい。まるで居眠りによって乗り過ごした遠い駅――――
 戸惑いがほんの数秒メリーの靴を重くしたが、決断は早かった。鉄製のはしごを降りて行って、続く不条理に心を構えてつつも新天地につま先を下ろした。鉄臭のする設備とは打って変わって、そこには自然が溢れていた。想像したよりも遥か狭い。

「緑化活動?」 ぽつり呟いたメリーに、
「御名答。殺風景だつたから毎年一種類ずつ殖やしていつたの」

 たった一本道の足の踏み場を残して、植木鉢と箱型プランターがまるでパズルのように敷き詰められていた。艦内上部からも植物が吊り下げられている。少し蒸し暑い。菜の花に向日葵に菊、南瓜にアサガオ、薔薇の巻きついた艦内パイプ、何故か花をつけている淡赤の紫陽花と全く統一性がない。虫の一匹も付かない様は正に人工物だが、指で触れてみると生命の柔らかさがあった。多種多様の花の香りに頭がクラクラとする。

「そろそろ答えを貰ってもいい? あなたが味方かどうか」

 コックピットとは地繋がりになって障壁はなく、楕円になった超小型の、まるで回転遊具のような形の船である事が知れた。先端には各航行装置らしきスイッチ&レバー群と、操舵者用の黒紫色の立派なシートがひとつ、あとは作業乗組員用の簡素な椅子がふたつ後ろに連なるように備え付けられていた。先頭に腰掛ける少女に案内されて、クッションの少ない客席にメリーは腰を下ろした。どうも、メリーの中にある潜水艇の知識とは随分と様式が異なっていた。

「貴女が私の知り得てゐるメリーなのならば、最も味方に近しい内ひとりとなるでせう」

 発光石によってやや赤黒く沈む水中を映した前面ガラスに、船のものと思われる強力なサーチライトが灯り、メリーは目を見張った。水底はまるで宝石で出来た珊瑚礁であった。少女は緑の帽子を被り直し、顔だけこちらに向き直った。

「自動操縦よ。“向こう側”に辿り着くまでの猶予は短い。貴女が忘れてゐなければ、答えを解凍していくけれど如何?」

 どこか余所余所しい口調だった。彼女とメリー、双方人間の形はしてはいるが、確かに埋まりきらない精神的な溝がこの僅か数十センチの距離にはあった。何かが、違っている。

「じゃあ、どうしてさっきは私を無視したのよ」

 その『何か』を分解しないまま、メリーは声の駒を進めた。夢でない、ここはもう幻想の中だ。

「明白な理由を思ひ付いたのならば、寧ろ私に教えてをくれ。欲望が突き動かして動けなかつたのよ」
「なにそれ。あなたは一体どうしてあなたなのよ」
「実に戯曲的な質問ね。私は見てゐたり、聴いてゐたりしたいの。現に貴女から質問を引き出したぢやない?」
「つまり悪戯心? 魔が差したの?」
「貴女が納得するならばそうでせう」
「私じゃない。アナタ自身はどうなの」 メリーには少女の意図がどうしても気になった。口振りから察するに、自分に関係する誰かと繋がりがあるはずだ。まずは知る。それからだった。

「同じ事を二度も云わせたい気持ちは判るわ。私の目的は変わらず見てゐたり聴いてゐたり……」

「何か」 気味の悪さを感じた。手段と目的の逆転。つまり少女はメリーに対して観察を行っていた訳だ。名前や体臭を知れるほどの時間やデータを共有する何者かと共に、まるでケージ内のアルビノラットを覗くように――「ごめんね。私が悪かったわ。名前も訊かずに」 言葉には嘘だってある。
「名前が無いと不便でせうか?」
「どうやって呼び合うのよ」
「あれこれと」

「…………あー……」 皮膚に刺さる鈍痛にやがて慣れるように、メリーの中に冷静さが生まれていった。一方的な無視によって抑えつけられた反動なのか、感情的に会話を進めていた事に気付いて今一度口を噤んだ。

「質問の形を変えるわ。あなたが私に教えられそうなものは何があるの?」 多くの時間を経て次の一歩を踏み出す。
「私の関心の向かふ所に依ると、卵なのでする」

 未だ名前さえ持たない少女は先程採取した7つの球体を取り出し、機体の窓外の虚空に顔を向けて答えた。

「生じはすれど生まるる事は無いの。けれどひとつゝゝゝに固有の色が与えられて、それはゝゝゝカラフルな目玉焼きに。赤黄緑青白黒……」

「あのさ」 そう容易に真実に辿り着かせてたまるものか、とでも云いたげだ。メリーは遮って囀った。「話を切ってごめんなさい。私はリーデンミラー時計店から来たの。猫と戯れたあと何も思い出せなくて、気付いたらココに居たのよ。何かの洞窟みたいだけどココは何処なの? 私はどうしてココに来たの? 宇佐見蓮子っていう大事な友達を待たせてるの。どうやってココから帰るの?」

「でわ答えませう」 負荷によって力は返ってくる。「此処は何處かと彼処の隙間」 続ける。「貴女はお猫様に触れたでせう? 普通で在れば問題は無いのだけれど、私や貴女やあのひとは――――」

 と、不自然にも言葉を切ってしまう。思わせぶるばかりで、まるで答えになど至っておらぬのだと語るかのようだった。前面ガラスの外にお猫様に似た毛玉が一匹ふわふわと泳いでいた。瓶詰めにされた手紙がひとつ、ふたつと漂い、まるで彼女達を訪ねるように窓をコンコンと叩き、妙な雰囲気を醸し出す。

「私やあなたやあの人は、なに? そのさきはどうなってるの?」
「ほんのわずか前、貴女は私に一寸待たせた。ならば今より其の一寸の時間、待つて貰えると有難い」

 ガタン。背後から大量の植木鉢達が跳ねる音が上がってきた。コックピットの窓外にゆっくりと上昇していく水の泡が、途中でピタリと止まった。潜水艇が急上昇しているのにメリーが気付いた時には、その腰が自らの意志とは関係なく浮き上がっていた。跳躍の頂点でベクトルが変わる瞬間に訪れる一瞬の無重力、その感覚が長く、延々と続く。

「えっ? ええっ!?」

 例えるなら夢の中――――メリーは浮遊していた。いや彼女だけではなく、艇内で固定されていないもの、多くの植物たちや操舵する少女も同じくフワフワと重力より開放されていた。

「ちょっと待ったわよ。説明して!」
「では此方ゑ」

 しかし自由が効かない。重い蓋をもたげるように慣性は壁にぶち当たり、次々と勢いの余ったまま天井に衝突していく植物群と同じく、メリーも加速度に引っ張られて腰を強打してしまった。なおも空中遊泳は止まらず、赤ん坊のよう浮きながら膝を抱えて痛みに悶絶する。

「シートベルトは締めませう」 何処からともなく同乗者が云う。

 意識を外に向けた時には、少女は操舵席には居なかった。前面窓には眩いほどの昼光色が溢れて、薄布のよう波打つ水面が間近で踊っていた。緑化活動の花達は互いに複雑な軌道を描きながら緩衝し合って、やがてメリーの前まで流れてくる。目を開き、ぎこちないながらも五体を伸ばして身体を安定させる。壁を蹴って移動することを覚え、天地逆にして着地したメリーは大声を張り上げて語りかけた。

「ちょっと待ちなさい! もうっ!」

 返事はなかった。もはや脱出してしまったのだろうか。密林のよう重なりあった草花を腕で掻き分け、メリーは唯一の出入り口に向かった。ハッチに繋がる梯子に手を掛けて一漕ぎ。みるみる内に到達点の光は広がった。正に冒険だった。
 世界には『引力』が無かった。一気に飛び出したメリーは空間に眼を見張る。まるで扉のように床面が四角く切り取られて水域となっており、そこから潜水艇は顔を出していた。川底から繋がる場所とは思えない。人工的な光があった。

「………………」 言葉を失ってしまう。

 病的にまで白いホテルルームだった。中世ヨーロッパを切り取ったようなバロック様式の洋館装飾が、約六メートル四方の部屋を構築している。メリーを囲む壁には二つずつ線対称になるようにインテリアが飾られており、各方角に一種類ずつ、古書の載った大理石のハーフテーブルに大衆と丘の描かれた絵、篝火を掲げたローマ彫刻、等身大の姿見鏡が意味深に存在していた。四隅を埋めるようにロココ調の豪華な椅子が置いてあり、それは何故か部屋の中央に向けられていた。床は曇りガラスで敷き詰められており、その内奥から電気的な光が漏れている。内部で最も目を引くのは、非対称の、中心にただひとつだけあるベッドと温かい食事の用意された円卓であった。
 スプリングの強そうな極厚の白いシーツのベッドの上に、人間が二人座っている。片方が先程までの潜水艇の子。もうひとりは同じくらいの年頃の黒髪短髪――――消防服のような光沢のある橙色のワンピースを着ている。それは身体の中心線に添うようにしてジッパーが取り付けられており、ガラス球で拵えられたフードが随分と特徴的に見えた。彼女は木製のハノイの塔(※遊具。下面が板繋ぎになった三本の杭と大きさの異なる複数の円盤から成るパズル)を熱心に解決に導いていた。
 まるで真空管の中のように静かだ。件の新しい登場人物は頭を使って――つまり修行僧のように頭頂で逆立ちしてベッド上に腰掛けている。異常なことでは無い。無重力であるがために、天地逆さでも構わないのであった。

「待つてゝね。すぐにも卵焼きを作るから」
「ん。」

 七つの球体を胸に抱いた少女は、メリーに答えなんて告げずに部屋の奥へと扉を通って飛んで行ってしまった。まず去来したのは、疎外や不満感と云うような情動ではなく、残されたもうひとりの娘への、疑問だった。

「えっと、こんばんは」

 見た事がある。潜水艇の彼女の時よりも強いデジャヴだった。同じように声を掛けて、メリーは宙をふわふわと進んでいく。

「ヤア。やうこそメリヰ。」

 手元にある塔を空に放り出して、少女は向き直った。逆さのまま立ち上がる動作を再生して、四肢を伸ばす。さながら彼女は投影された映像であった。

「何から話せば良いのかな? 教えて欲しい事があるの」

 もはや咎める気も失せていた。浮遊に順応するように、メリーはすぐにも本題を持ち出した。対する彼女もすでに声を用意していたようでいとも容易く述べてみせる。

「聴いてをるよ。此処の事だらう?」

 ス、と掌をベッドシーツに当てた少女は、そのまま自分を投げるように腕を振って直立のまま部屋内を泳いでいった。まず手に取ったのが壁際にある古書だ。彼女は表紙をこちらに向けて語り始める。

「我らは此処を利用してをるのだ。乃ち私が稀代の魔女であり、霊異なる秘術に依つて空間の隙間を拡張した、なんてお伽話は嘯けない。始めから在つたのだ。洞窟も潜水艇も部屋も、我らはあとから来たのだよ。」

「?? あなたの云いたい事が解らない……。だって、私が知りたいのはココと元の世界への移動の方法で――――」
「お猫様が原因なのはメリヰも知つてをるはずだらう? 見るがよい。此の古書を。霍香知識庫との署名が入つてをる。先住者が何処より持ち込んだものであらう。理解は出来ぬがヰラストを読むかぎり遥か未来的な科学書なのであらう。」
「未来的な古書……?」

 彼女は本を置くと天井に爪先をつけて、ゆっくりと逆さ歩いてきた。分解されたハノイの塔は周囲にその部品の「輪」を浮かべて、さながら虚空に漂う銀河のようになっていた。云う。

「未来なぞ、無いのです。」 ニコリ、と笑う。

 ついに、メリーの脳髄にある回想が閃いた。それは見覚えのある少女たちの顔についてだった。全く年老いていないその面影は、写真、蓮子と共に調べた――――

「思い出した! 36年前よ!」

 リーデンミラー時計店の失踪者の笑顔だった。

「私の事を知つてをるやうだね。ならば話は早い。望み通り君の髪を短くしてあげやう。」
「待って! 私そんなこと――――」 言っていない。

 噂が真実になった瞬間であった。途端、奥の扉からカラフルな厚焼きをラップに包んだ皿に盛りつけた潜水艇少女が帰還する。記憶は芋蔓式に刺激されて、彼女の顔が二人目の失踪者だと判明した。どちらも全く歳を重ねていない。子供のままの姿だ。

「ヤア。美味しさうなものが出来たな。聴いてをくれ、メリヰが髪を切るのを決心したさうだ。」
「嗚呼。其れは目出度い」
「待ってったら! 私はヒトコトも髪を切るなんて言ってない!」

 まるで挑発するように話を掻き交ぜる二人に、メリーはついに声を荒らげた。徐々に蓄積していった苛立ちは最高潮に達し、耳鳴りがするほどに空間に反響して輪郭を振動させる。質量の関係しない部屋内では思う存分に物理が跳ね回り、やがて計算の及び付かないミクロな変化が生じ始める。それは、妙な集束、バラバラに飛散した玩具の塔の輪が、あらぬ因縁で元の少女の掌へと集まっていく超確率の偶然だった。

「すまない。私の早とちりだつたやうだ。」
「なーんだ。さうならば蓮子が喜ぶのになァ」
「幻惑するのはやめて! 私は帰りたいのよ! あなた達の云う蓮子じゃなくて、私の蓮子の場所まで!」

 あれから、猫に触れた時からどれだけの時間を隔てただろうか。否。気苦労によって嵩増しされた道程が、分厚い上り坂に見えるだけなのだろう。

「しかし蓮子の云ふメリヰは望んで訪れたはずなのだが……、」
「あなたに蓮子の何が判るのよ! 何者なのよ!」

 二人の子供は、メリーとは上下逆さになってお互い顔を見合わせた。まるで鏡や掌を眺めるが如く首を傾げて、暫く考えるように唇を結んで、ようやく外側に視線を向けた時には、初めて感情らしき声色が宿っていた。

「だうやら私の勘違いだったやうだ。」
「遺された蓮子の心配もしてやつてね。彼女は貴女も含めた私達のやうに生まれつきでは無いのだから」
「どういう意味よ……。解かんないわ」 噴出する。
「私の名前は、」 硝子球フードの娘は手元に収まったハノイの塔をチラと一瞥して「“塔”とでも呼んでください。」 そして潜水艇の少女に目配せすると、件の彼女は少し戸惑いの表情をして皿上の厚焼きを見下ろして、「でわ私は、……“卵”とでも」 今更な呼び名を唱える。

 塔は間髪を入れずに続ける。

「メリヰの御存知の通り、我らは昔ゝに失踪した。紹介しやう。我らは超常能力を手にしてをるのだ。」 台座に差し込まれた様々な大きさの輪が、ひとりでに左右交互に回転していく。「我らのやうな生き物が毛の長い時期のお猫様に触れると、この世界に墜ちてしまふやうなのだ。」
「ちなみに理由なんて無いのよ。多分、さういうものなの」

 嘘か誠かは無重力の霧に隠されて、言葉だけが積み重ねられていく。

「何故だか長く毛が伸びる猫といふ不思議は、恐らくは人間の思慮の及びもつかない幻想のリンクにあるのであらう。現に、毛の長い内はお猫様は此の世界にも度々訪れる。再び撫でてしまへばメリヰは帰れるのだらう。」
「本当……? 信じていいの…………?」
「君次第だ。運の悪い事に私が囚われた時、お猫様は十代目に代替わりしてしまつた。だうやら雌で無ければ帰れぬやうで……帰宅した頃には精神の故郷なぞなかつたよ。ほんの、たつたの六年しか隔ててゐないのに。」
「此処は永遠なのでせう。塔も卵も老いる事はなかつたのよ」
「最早生き辛くなつてね。クリアする度に此の玩具の輪を年々と増やしながら、64個に達するまで繰り返すのさ。今を。」
「因みに私は自分の意志で不老不死を望んだわ」

 情報の洪水に溺れてしまいそうで、メリーは宙空で足をばたつかせた。俄には信用できない。猫、長い毛、雌、時空の歪み、撫でる、超能力の子供、あらゆるものが理不尽だ。――――雌である必要は処女性を重要視するシャーマニズムで、猫は多産や家の守護者を象徴し…………考察するも共通点が見えない。咽頭が震え、言語にならない呻きが漏れた。無重力に酔い、背筋から舌先にかけて軽い吐き気に支配された。

「何か、変よ。あなた達…………最初っからそう」
「我らはさうなる運命にあつたのだらう。何ゆえに他人と違つて生まれたのか。如何にして爪弾きにあつたのか。」
「勿体無いぢゃないの。折角の個性ですのよ?」
「此の世界が魔的な先住者に依って廃棄されをる事も、我らが猫の毛並みに選ばるる事も、蓮子とメリヰが此処に入寂して来る事も、織り込み済みであつたのだよ。何なら探してみるかね? 未だにお猫様は何處かを泳いでをるはずだ。触れられれば戻れるるやもしれぬ。しかし君は従うだらう。」

 強調するように一旦言葉を切って、
「君の靴より伸びる、ひとつの命運に。」 と人差し指で嘯いた。

 何処からか、コツ、コツと足音が近付いてくる。誰一人重力に従って足を降ろしていないにも関わらず、まるで亡霊が騒ぎ立てているように音は迫り来る。無機質な床面の光が、消え入る寸前のフィラメントに似た激しい点滅を起こした。歪になったメリーの影が、天井に黒く丸い眼球のような不気味な塊を形作った。沸き立つ不安を振り切るように首を振って、ふたつの脅威に相対する。が、

「…………私の足はいま浮いているわ。無重力下では必ずしも脚を使って進む訳じゃない。あなたの例えは不適切だわ。運命はひとつじゃな――――――」

 扉が、開いた。先程まで卵が調理を行っていたらしき奥の空間より、第三者、件の二人よりも遥かに背の高い人影が現れる。それは女性で、強く記憶に焼きついた顔で、しかし、遥かに大人びて――

「――――――――蓮子!」

 叫ぶように強く名前を呼び掛けた。親しき友人、彼女は、姿は若干変わりつつあるものの、手の触れられる距離に訪れた。

「……メリイ? メリイ!」

 秘封倶楽部がお互いを瞳の中に捉えた。眼前に起きている現実を信じられないように、一度目をこする。目蓋を上げても残像は消えない。蓮子はドアを蹴って一気にメリーへと飛び込んだ。

「会いたかつた! ずつと、ずつと待つてた!」
「蓮子、ごめんね。待たせちゃって……」

 手と手を取り合い、まるで回るように宙を飛び交った。

「ほをら。言つたでせう? 蓮子は此処にをるし、我ら二人は嘘は言わぬのだよ。」 茶々を入れる塔を、
「さ、蓮子。帰りましょう! こんなところにずっと居られないわ。お猫様を探しに行きましょう」 そっちのけでメリーは提案した。
「え、え? 話が見えないのだけれども……」 狼狽える蓮子。
「お猫様を撫でて時計店に帰るのよ! 毛の長い内に!」
「?? どう云う事? え、ええ?」

 手を引っ張ってメリーは潜水艇へと向かい始めた。止める腕はなく、間もなく蓮子は誘われるがまま部屋の川辺に辿り着く。

「この潜水艇に乗って。あとで説明するわ」
「えと、とりあえずわかつたわ」

 メリーを突き動かしているのは憶測と直感であった。思えば、不可思議を探求する行為は、科学的追求と同義であった時代もかつて存在したのだ。観察と累積によって生じた『幻想の法則』という曖昧なものを暗に覚えてしまったのかもしれない。卵より潜水艇を奪って、塔より逃げ出す。
「良い旅を。」 彼女達は常に動かなかった。

 飄々と笑顔を形作る二人に対して、ハッチより顔だけ出して蓮子は手を振って返した。



 ――――――――――――…………
 秘封倶楽部が去ったあと、相も変わらず電気的な明るさを見せる部屋に、僅かな会話が咲いた。

「そろゝゝ時間でないかね。」
「ぢやあ予備に乗つて、もう片側に向かうよ」

 潜水艇はひとつではなく、時は少しばかり流れて、また、来客もひとつではなかった。メリーと同じように困惑した表情をして、予備用潜水艇から先程と全く差異のない光景が再生された。
 卵は厚焼きを作りに行き、未だ料理は温かいまま、塔は訪れた人間にこう告げる。

「ヤア。やうこそ。君を待つてゐた。順番待ちですまないね。」

 親しい友人に話しかけるよう、潸々と。

「君に伝えて置きたいことがある――――……」



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