カラカラと木製の回し車を転ばせる音が、白黒二匹のモルモットによって生まれていた。天地は逆になり、吊り下げられた時計は重力に従わず、さかしまに時を刻んでいる。
リーデンミラー時計店は、黒×商店街入口にある112年の歴史を持った黒漆塗りのモダン建築物であった。2階建ての瓦葺き屋根に倹飩の縦長窓が洒落ている町の顔であり、大雪の日でも観光客の足がマチマチと訪れる。ほとんど飾り物の時計達は、珍しいもの見たさの入館料500円で成り立っていた。
「最初に観測されたのは36年ほど前。噂でも何でもなく本当に起きたらしくて、図書館で調べた当時の新聞にも載ってたよ」
子供ではなくなってしまった人間達は、みな展示物を見る際に首を傾げるようにして文字盤を覗き込む。それは秘封倶楽部であっても例外ではなく、蓮子とメリーは逆さ吊りにされた時計を斜に構えて見ながら話続けていた。
「女子中学生失踪事件ね。いじめられていた生徒みたいだったから良くない結末を捲し立てられていたけど、事件は誘拐や自殺とは無縁の場所にあった」
「うん。彼女は六年後、家族の前に帰ってきた。全く成長していない姿で」
どちらがさきに言葉を出しているのか判らない風に、怪異の表面をなぞっていく。リーデンミラー時計店一階フロアは段差によって三層に分かれていて、入口から東窓側は最も低く、手のひらに収まるような洒落た色の小型の電子時計が、ヘックス状になった透明の棚に蜂の子みたく個別に入れられていた。ふたりは一段と昇り、論拠を展開させる。まずは蓮子、
「何があったか何も語らなくて、数カ月経って彼女はまた失踪してしまった。それ以降、家には戻ってないって」 次いでメリー、
「結局謎のままなのよね。ハーメルンの笛吹き男なのか、ブレーメンの音楽隊なのか。けど、それだけでは終わらなかった」
二層中央にある巨大な支柱は時計店をまるごと支えていた。硝子で拵えられた円状のテーブルをコシカケ茸のように重ねて生やして、まるで古木のよう100年の趣きを醸し出している。イグチのフェアリーサークルを彷彿とさせるよう、柱を丸く囲むみたく陳列棚が回っていて、そのどれもに大小様々な置き時計が吊られている。市販に出回るようなプラスチックと乾電池の合わせ器械でなく、ゼンマイや木製歯車を利用した値段の桁を見間違うものばかりであった。
「うん。――これさ、どうやって台にくっついてるんだろう?」
完全に同調した秒針の音に紛れて、蓮子は目先の疑問を優先した。人の影はまばらで、乾いたフローリングに雪の名残をつけるふたりの掠れた足跡が階上に進んでいく。単純幾何学な掛け時計の三層を越え、薄雪草の彫り細工のある二階への曲がり階段に足を乗せた。
「台座ないものね。硝子のおかげで裏が見えるけど、特に磁石がついてるとかはないみたいね……吸盤?」
まるでドップラーシフトのよう会話と動きにはズレが生じて、大柱前で声を交わした過去をずっと引きずっている。階段通路には無数の腕時計がマイナスの字を描くよう配置されていたが、ふたりの観測位置は未だ置き時計で停止していて、台座の商品を抵抗なく手に取り、それを柱前へ戻す、そんな随分前の行為に心奪われていた。
「わ、すごい簡単に取れちゃった。あれ……どこにも逆さ固定できそうなもの付いてないよこれ」 何気なく起こした蓮子と、
「早く戻したほうがいいわ。落としちゃったら大変」 反応するメリーはつい十分前。
「うん、そうする。――何だろ、細胞接着って言葉を思い出した」
「この時計店自体がひとつの個体で、くっつくかどうかに生体的な細胞選別が行われているってこと?」
「そう。台座から外してよそへ置いておくと、いつの間にか元の場所へ収まっているみたいな……」
「ホラー描写でよく見るわね。細胞の引力……ドッペルゲンガーが互いに引かれ合うよう出来ているのはそれなのかしら?」
「そうすると人間はある個体の中のひとつの細胞ってことに」
「うーん。私達を支配するものってなんなのかしら――――……」 と云った雑談を組み絡ませたのも遠い記憶の中。事件の続きは持ち上がり、ようやくメリーは本筋に入る。
「……――――でね。消えたのはひとりじゃなかったわ」
吹き抜けになった二階には陽の光を取り入れる窓がほとんどなく、代わりに壁際には夥しい量の柱時計が墓標のように影に紛れていた。重力に従ったそれら振り子達は下界とは異なり地に足をつけていて、心音のリズムのよう一際大きく針の音をさせている。数の限られた天窓は屋根に添って拵えられていて、明暗のコントラストによって空間は二分されていた。窓の赤色フィルターによって映し出された斜陽に浮いて、舞い上がる僅かな埃が珊瑚の産卵のようにあたりを漂っていた。
「合わせて3人居る。最初の事件から約8年後に同じく中学生の女の子が。3人目はごく最近に噂の中で上ってきたわ。彼女達全てが――――」
こくり、と隣で蓮子が頷き呼応して、吹き抜けのアンティーク手摺りに腕をもたげたメリーに続いて時計店の空隙を見遣る。ここからは、階下の、逆さ時計達が良く見渡せる。ミニチュアのように動き続ける客達が、この上なく不自然で科学実験的な機械装置に感じられた。
「ここ、リーデンミラー時計店で消息を絶っているわ」
ゴォンゴォン、と一斉に、十二時を告げる鐘の音が鳴り出した。階下には逆さの時計、上階には正しい重力、まるで鏡の裏側を見るみたく、時計店の中心(乃ち階層の1と2の境界)から引力が生まれているかのようだ。蓮子は考察する。
「失踪した子は全員なにかしらの霊能力を持っていて、そのせいで亜空間に囚われてしまったっていう脚色をよく聞く気がする。学校でのいじめも能力が原因だとしたら、嫌な話だね」
「要は付きあい方よ。人も力も。そんなに悲観するものでも無いのにね。もっと眉唾な話もあるわ。最初の子と、次の子が若いまんまの姿で揃って出歩いてるのを見た、というものよ」
「それ初耳。時空間のねじれみたいな?」
「もっとあるわ。二番目の子が戻ってくるとき、この時計店のあの大柱の前に、突然、出現した。しかも鶏卵を持って」
「卵? バミューダ・トライアングルなスポットの扱いなのかな」
「あの海域って本当かしらね」
「どうだろう? こないだ見た映画みたいに、世界を数字で表せるとするなら何とか関連性を見い出せないかな?」
「あの片頭痛のやつね」 メリーに呼応するように、メモ帳を出して蓮子はさらさらと数字を並べていった。
「……トライアングルが三位一体と考えると、数秘術で父と母と子のヘブライ語を数字に分解した和で216。アヴェンジャー雷撃機が失踪した日は1945年の12月5日、全ての数字を一桁で抜き出して足すと27、これを8倍すると216。二桁ずつ抜き出して足すと81、一桁の数字を足し合わせると108、これは2倍すると216。27は81の3倍で、81を3倍にしたものから27を引くと216になる。それをリーデンミラー時計店に当てはめると、失踪した日は4月17日の12時頃。1桁抜き出して掛け合わせると、336、2桁抜き出して掛け合わせると816――――……うーんこじつけられない」
「こじつけって言っちゃった」
「336から216を引くと120、816から216を引くと600、120を5倍すると600になり、120にその5を足すと125となり5の立方数となる。6の立方数が216なので、次の7の立方数は343、つまり336から7を足した数になる。8の立方数は512で、600から引くと88で8が並ぶ。816に88を足して、8と8で引くと888になる」
「時計の数でも数えてみる?」
「全部で216個。……だったら面白いよね。まあ、トライアングル=三位一体という解釈の時点ですでにオチがさ」
「結局どう数字で語ってもこの眼で見ない限りはどうしようもないものね」
「――――特にメリーは」
「うん」
上階の時計には天文学的な値段が付けられていた。1、2、3、4……否定しておきながらも途中までは指で数えて、蓮子は欄干を歩んでいった。香りの違うポプリ瓶が壁との空隙を埋めるように所々に置かれており、歯車機構には似付かわしくない散々累々の花束に現実感は薄れていく。
「ねぇ、メリー。なにか視える?」
言葉は呼び水だった。奇妙な味を覚えて、秘封倶楽部が始動する。“ねえ、メリー”
「な~んにも。至って普通の…………ん?」
時計の針の裏、手摺りに彫られた鶯の瞳の向こう、ポプリの中の不自然な空洞、降り注ぐ斜陽の照らす色味の違う床、吊り下がる七色のガラス灯、ぽつんと椅子にただひとつ置かれた音の出ないラジオ、様々な隙間が存在したが、メリーのつま先が進んだのは吹き抜けから外れた梁のさきの小部屋、値段の付けられていないお飾りの装置のある空間だった。
「何か見つけた?」
問う蓮子に答えず、魂の抜けた人形のようにメリーはふらふらと誘われていった。やや低い梁を子供みたく潜って出た先には、巨大な文字盤が歯車の軋む音を立てていた。時計塔を内部から見たような剥き出しの機構の上、進入禁止の、丁度境界になる位置に穿たれた手摺りに跨るように、四足の何者かが居る。おおよそ地球上の生物には当てはまらないような、乳白色の体長60糎ほどの毛の塊だ。メリーのつま先が木造りの床を軋ませると、それはこちらに気付いて、ぴくりと長い尻尾――触手のような捕食器官かも知れないが――を一度大きく振った。
「蓮子、これ、これもしかしてあの噂の……」
「創立当初から生きてるお猫様……? なのかな」
「生きてはないよ」
手袋を外し欲望のまま手を翳して毛皮に触れようとするメリーに、聞き慣れない第三者の声が突き刺さる。それは亡霊のものか、やけにか細い男性の囁きで、振り返った秘封倶楽部に大人一人分の影が覆いかぶさっていた。否、幻覚の生物ではない、それは生きている人間だ。10代後半の、眼鏡を掛けた清潔感のある和服の男が、ふたりに話しかけていた。
「……えっと、どちら……様ですか?」
怪異世界から現実へと引き戻されて、蓮子は上擦った口調で問うた。彼の服はどこかで見覚えがあったが、その顔は完全な初対面だ。メリーは蓮子の背に隠れるように動いた。
「ああごめん。僕は此処の店主だ。いきなり話を切ってごめんよ」
その男は時計店を束ねる人間らしい。だが、訊いた二人は、安心するどころか眉根を寄せて更に警戒を強めた。
「随分と、若返りましたね……」
そう、彼女達の記憶にあるのは、事前に調べた記述やウェブサイトにあった、人の良さそうな初老の男性だったからだ。秘封倶楽部は運悪く遭遇した事を呪った。彼が、まさか、失踪者を誑かしたハーメルンの笛吹き男なのだろうか?
「あ、じいちゃんのこと? 少し前に腰やっちゃってさ、今は僕が店番してるの。なる気はないけど、5代目だよ」
彼はそう弁解するが、おいそれと信用はできない。一歩下がって対峙する。蓮子は唾を一飲みして追求した。
「そうだったんですね。あの、生きてはいないってどういう意味ですか?」
「あー……、こいつは十三代目なんだよ。当初からは生きてないって訳。十代目を除いては全部メスらしいから同じに見えるかもしれんね」
猫は、ラグドールの淡い色にサイベリアンの毛並みを合わせたような印象から、足の長い犬であるアフガンハウンドの被毛の長さを足した妙な体型をしていた。要するに、毛玉、もしくは極限までサラサラになった掃除用具のモップのようである。春先には珍しく雪が降るほど冷えているとはいえ、空調の効き過ぎた店内は少し煩わしいようでぐったりと寝そべっている。
メリーは尋ねる。
「何か括ってるんですか?」
過去の記事にこっそり写っていた猫の姿を思い出す。それは今と同じように異様なほどの長毛だった。
「いやそういう訳でないみたいだよ。じいちゃん曰く、何故か買ってきた猫がメスで、しかもやたら毛が伸びたらしい。十代目は九代目が逝っちゃった時に偶然道で拾ったからオスだったってさ」
「ふーん」 態度には見せていないが、メリーも蓮子も納得はしていなかった。重ねて訊く。
「その十代目って、何年くらい前――――」
言い及ばない内に、従業員用の呼び鈴らしき電子音が放送で流れ始めた。店主は肩を跳ねさせて、こちらの口を塞ぐように矢継ぎ早に云って踵を返した。
「ごめん、ちょっと呼ばれた。毛刈り前だから暑くて気が立ってるからあんまり猫に触らないようにね。ちなみに35年位前だから。じゃ」
あっという間に彼は立ち去ってしまった。ほんの一日の一瞬の偶然を切り取るように、猫の広間には秘封倶楽部を除いて誰も居なくなる。得られた手掛かりは謎をさらに深くした。
「35年前って……最初の失踪者と同じ時期ね――」
深刻そうな表情をして、背に居るはずのメリーに話しかけようと振り向いた蓮子が見たものは、すぐにも禁忌を破ろうとする相方の姿だった。
「――――って、ちょっと」
メリーの指は暑がりの猫に埋もれていた。按摩するようにもふりもふりとその毛並みを上下させる。されるままの猫は如何ともし難い表情を作って、大時計器械の一点をひたすらに眺めていた。
「聴いてた? あんまり触っちゃダメだって云われたばっかりじゃない」 咎める蓮子に、
「けど……、毛刈り式って今日でしょ? 今を逃すともう触れないかもしれないのよ。ほらすっごくすっごく……気持ち良い」 脳天気に時間を見送るメリー。
「それはそうだけどさ――」
蓮子は少し視線を外して考えて、腕組みして取捨選択して、
「――やっぱ私も触る」
と向き直った時、
「……」
その沈黙に答えるものは誰一人として居なかった。
足音もなく、言葉も残さず、前兆も素振りも表出せず、メリーは姿を消していた。失踪したのだった。彼女の眼にしか映らない結界は、結局あったのかどうかわからないままだ。
「メリー? メリー……? ねえ、メリー……?」
虚しく声だけが響いた。数秒にも満たないほんの僅かな静寂を破って、他の観光客が梁の奥へと雪崩れ込んでくる。孤独ではない人々の流れの中遺されて、蓮子は力無く立ち竦んでいた。
これまでもメリーが突然『結界の向こう側』に移動してしまう事があった。携帯電話に着信を入れるも圏外のようで繋がらず、二階吹き抜けから見下ろすように探しても、彼女の姿形、痕跡すら見当たらなかった。一階で接客業務をしていた店主に訊ねるが結果に変化はなく、いくつかの、いくつかの時間が経ってのち、蓮子は再び猫の前へとやってきた。
まるで時間が止まっているかのように、四足の獣はそこに居た。彼女――猫だが、事件の一部を担っているのは明白だった。蓮子は正面に立って、そのオッドアイになった赤金と青銀の瞳を覗きこんだ。ふい、と顔を逸らされて、その視線の先を追う。時計店のバイオリズムがそうさせるのか人の波が一気に引いて、再び秘封倶楽部と猫だけの貸切状態となった。巨大な伽羅倶梨時計は十二時を随分と過ぎて、また短針をひとつ隣にずらした。
「こうなっちゃったら、私、何を選べばいいんだろう?」
ひとり呟いて、蓮子は猫の毛並みに手を這わせた。なるほど確かに気持ちの良い柔らかさだ。この接触が、メリーに何を引き起こしたのだろう。自分を慰めるために二度、三度、と撫でる手を止められなかった。
「なーう、なーう」
人間なら誰でも想定するだろう鳴き声を真似て、蓮子は無碍に時間を浪費していった。眼前には毛の長い――――無意識の内に行われた瞬きの刹那を掻い潜るように、唐突に誰かから声を掛けられる。
「君の甘え声はいつも機能的ではない。もっと練習するべきだ」
蓮子は当惑した。それは男女の区別の付かない声色のせいでも、人間的とは思えない返しのせいでも無い、もっとマクロな、自分の身の回りの環境変化に対してだった。
「君は一人目ではないし、私の肉球がまだ起床後の柔らかさを保っている内に仕事を終わらせたいものだ」
言葉は続く。目の高さにその対象はおらず、状況確認に震えた多くの視点への試行が、蓮子に彼の姿を発見させた。足元。いや、まず整理しなければならない。彼を知るよりも先に、彼女の体験した光景を。
「君は死んだ訳ではない。だが人間達の羨む柔毛を持って生まれた私は、此処に訪れてしまった君を案内する義務感に駆られている。そしてそれは実行されるであろう」
非常にシンプルな世界観だった。眼前にあったのは真っ直ぐな一本道で、時計の音など何處にもない。道を外れないようにと、左右を鳥のガーゴイルに意匠された欄干が覆っている。戸惑って二の足を踏む蓮子の足元から、石の硬く冷たい音が跳ね返ってきた。横断歩道のよう白と黒を交互に積み重ねた敷石が、世界を強制的に弱視へと塗り替える白霧によって道の向こうで途絶えていた。此処は、渡り橋である。
「……――――」
『あ』の形に唇を広げた蓮子は、出掛かった声を迷って飲み込み、もう一度、眼をぱちくりとさせてから溜息を吐き、なおも変わらぬ環境に疑問を浮かび上がらせた。
「ここ、どこ?」
「私の、人間よりも数百倍も敏感で聡明な頭頂にある耳には、もっと質問を聞き入れる社会的な余裕が有るのだが、尋ねるのはそれだけでいいかね?」
質問をより多くの文字数で上書きして、その生き物は自信満々にその場に座り込んだ。蓮子には現実を受け止める時間が必要で、暫くの間は苦笑いをしながらそれの緑色をした瞳を見つめるしかなかった。声の主は器用にも後ろ足を持ち上げながら、黒い艶々とした毛並みを舌で毛繕いする程の余裕で、新たに声が生まれる瞬間を待ち望んでいた。
それは猫だ。黒く、普遍的な、だが出し抜けな――
「答えてくれるなら、腐るほど問いたいよ」
「では聞こう。ただし君の怠惰な脳味噌が堪えられる情報しか渡せないが」
「.. 」
声なく、蓮子は大きく嘆息した。何かを諦めたようだ。
「どういうことなの?」
「それは敬虔な私が行う偉大なる仕事の事だろうか。だとすれば語るには数百文字という会話劇に適した限度を越えて、この指の先にある出し入れ可能な爪の間の歴史から述べなければきっと君には理解のしようがないだろう。または君の靴が泥で汚れていない理由かね? 君自身の矮小な悩みを如実に打ち明けるのなら、私は年上の人間のフリをしながら最高のタイミングで適当にウンウンと頷いてやろう」
そのたった一文の中に、蓮子の百面相が隠れていた。猫の云う物事は非常に遠回りで、核心をわざと避けるような言い回しに苛立ちは積もる一方だった。結果、表情だけが転々と苦虫を噛み潰したように彷徨って、またも一拍置いた後に蓮子は問い直した。
「ここはどこで、私はどうして居るの?」
「此処は云うなれば脳に刻まれている皺と皺の隣接しているショートカット部位、君達の物理学で例えると静的カシミール効果によって得られた2つの金属板の間にある、最もスピンの大きな部分である。そして君が此処に居る理由だが、それは種族的に優位性のある私にウルタールに案内されるためだ」
不機嫌そうに蓮子は唇を尖らせた。やはり躱される。
「カップリング(※物理学用語)が何の関係があるの? あと『私がどうやってここに来たか』を訊いてるの」 語尾は強く、しかし理解しようと努力する脳は思考回転数を上げて冷静さを強めていく。
「ほう! 君は猫と会話ができるのかね」
「するつもりはあるよ。“ウルタール”みたいな冗談をなくしてくれればさ」
「では、“わくわく毛まみれネコランド”は如何だろう? 遠大なる親切心からなる私の声帯は、君達の文化圏から最も意味的に近い語句を吐き出したつもりなので許して欲しい。呼称など浮いた水草の根に引っ掛かった小さき泡よりも無意味なのだよ」
「で?」 もはや返す発声にも余力はない。
「君はさきほどの彼女と、その前の彼女と、またその前の彼女と同じく、触れただけであるのさ。しかし、石英と黄鉄鉱を衝撃を持って擦り合わせた時にやがて燃え盛る火の元が生まれるように、ある単線上の単純で単一の反応でしか無いのだよ」
ほぼ全ての注意を内側に向けて、蓮子は解釈を試みた。猫の言葉は、さすがに異種族とあってか難解だ。
「つまり、お猫様に触ったのがトリガーになってるって事ね」
「正しいと云える。正確なる全体像はもっと複雑で異様な一次元的な紐の絡みあった厳密なる条件に於いて分岐が発生しているがね。スシの観測用加速器は君の世界にはないだろう?」
「SUSY(超対称性)の事? それとも猫らしく生のお魚の乗ったお寿司? なーんとなくだけど、あなたの言葉が読めるわ。前にココにメリーが来たのね」
判読したのか、蓮子はしゃがみ込んで猫と目線の高さを合わせて不敵に微笑んだ。第三者から観察すると、妙な光景であった。霧がかった石の橋に猫と人間が座り込んでいる。行先は見えない。
「これだから名詞は不便なのだ。私はね、『蓮子』。さきほどの彼女に名前を一度も尋ねては居ないのだよ。運悪く、数億万分の1の確率で起こり得る人間のように早とちりした私に遭遇したらどうするつもりだったのだ? 『ほほう、先程の女性はメリーと云うのか』と発言してしまったら、君は誰でもない、名を与えられていない私の記憶の中の霊長類ヒト科に、妄信的な自己同一性を当て嵌める処だったのだよ?」
「私、一回もあなたに名乗ってないよ」
「という事は、君は『蓮子』なのだ。さきほどの彼女に云われたよ。『あとに続く蓮子を頼む』とね。呼ばれなければ名前など――――」
「待ってよ」
何か、得体のしれない違和感があった。嫌な引っ掛かりが蓮子の声帯を襲い、猫の台詞を上塗りさせた。『あとに続く』?
「私は、メリーみたいにひとりだけで結界を越えるなんて出来ない。お猫様に触れるなんて嘘っぱちで、あなたが任意で引きずり込んだようにしか思えないわ」
「そうとするならば、私の与えた暗示は根本から揺らぐであろうな。だが、未知の環境に陥れられた盲目なる君に、果たして疑えるかな?」
道は、後にも先にも続くのだ。帰るべき扉もなく、飛ぶべき法則も見つけられず、放り出された霧の橋の事をなにひとつ知らない蓮子に、拒否権はなかった。だが――――
「そうね……。もしあなたの声をみな否定するのなら、私は右も左も判らなくなる。けどあなたは私に語り掛け、啓示を与えた。私は自由に、それも都合の良いように選択できるのよ」
「『多くの選択肢のある自由』が決して幸福ではない事を、君は――――いや知っているのか」
まず足を使う動物とは大きく違う点が人間にはあった。歩みを止めるからこそ視えるものがある。
「人間は優柔不断だから、まず頭を使うのよ」
突然高笑いが響いた。ハッハッハッ、と猫は小動物の発声器官の枠組みを超えた実にリアルな感情を露わにした。口元だけ別の生物であるかのように微笑んで犬歯を剥き出しにして、その先導者は持てる分岐点を展開した。
「君には、2つの選択肢がある。細かい話は抜きにしよう。まず、まっすぐ進めば彼女の歩んだ足跡を辿れるだろう。メリーを追うのならば諦めて橋から飛び降りるがいい。後戻りは許されんぞ。私は真実しか云わないのだからな」
判断は一瞬だった。数百、数千の思い込みは多様な未来絵図を描いて、蓮子に重くのしかかってくる。この理屈臭い猫は『私は嘘吐きである』という自己言及のパラドックスを知っているだろう。嘘吐きならば正直者にならないように、正直者ならば嘘吐きにならないように、私は嘘吐きだ、とは嘯けない。だからこそ、『私は真実しか云わない』と誰もが云う。
蓮子は、猫を読もうとした。1ページ、1ページと本を捲るように、回想していった。つい数分前に出会った生き物を名残惜しむかのように、記憶に遺すかのように思い返した。現実は圧倒的に自由で、前述のよう嘘と真を扱う人種が綺麗にふたつに別れているなんて寓話は何処を探しても無い。誰もが誰も、固有のタイミングで嘘と真実を散りばめて、時には騙し、時には言葉を隠そうと、時には諦めたりだってする。
嘘が判るのは、いつだって云った自分自身だ。
答える。
「……――私なら、霧の道の向こうに行くわ」
聞いた猫は、露骨に顔色を変えて、蓮子を仰ぎ見てきた。願うような視線。そう、初めに蓮子が出した猫なで声を使うときの、誰かを求めている眼差しだった。
「では征こう。勇猛果敢なるヤヌスの眷属よ。君の擅断には時を超えて畏れ入ったよ」
「それなんだけど」
踵を返して先往こうとする猫とは、90度方角が違っていた。蓮子は欄干に手を置いて、霧の奥を透かし見るようにして橋に凭れ掛かった。
「きっとメリーにも同じコト言ったよね。あなたには悪いけどさ、私はあなたの性格より、メリーの人格を信じるわ。きっとメリーなら、こんな眼に見えている、それもガイドのある道なんかに惹かれたりはしない。多分、あの白い霧の向こうに、私達の求めるものはあるのよ」
身を乗り出して、幽かに風の流れる領域外へと鼻先を向ける。鳥類のガーゴイルに並び立つよう、昇った手摺りの上で両腕を広げて全身でその世界を受け止めた。猫は気付いて振り向いて遅れた声を飛ばす。生じた言葉は同時だった。
「彼女が居なくても、か?」
「メリーはそこに居るわ。きっと」
ふわり、まるで空を飛んで行くように蓮子は地から靴を離した。留まった空気を裂いて引力に惹かれていく。加速度は増して、蓮子の肩甲骨ほどまでの長い髪がハタハタと靡いていた。落ちていく。落ちていく――――……
「………………これでいいのか、蓮子。古き友人よ」
もう戻らない人間を送って、猫は愛おしそうにそう呟いた。
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