五食目『上海有栖』
オリエンタルな店内には甘ったるい香りが満ちていた。周りの席に座る人々は皆一心不乱に料理を貪っていた。やっと食事にありつけたような、そんな勢いだった。
「辛くないのかしら、あんなに速く食べてたらきっと……」
「メリーもきっとあんなふうになるよ。あの魔力に取りつかれた人間はみんなああなる」
夏の暑い時期はやはり、辛(から)いものを食べるのに限る。食欲をそそる辛さに人間は快感を憶える。こんな茹だるような暑さの中ではいくら不良的オカルトサークルといえども活動なんざできやしない。ということで店内のクーラーに導かれるがままに入ったわけだが
「あの店主、ずーっとビール飲んでるわね」
「ザ中華料理屋の人って感じもしないね」
「それにしても、ずーっと接客してるあの人、すっごい美人ね。物語から出てきた人形みたい」
先日の洋食屋のように注文から配膳まであの人一人でやっているようだ。例えが最悪だが、薬でも飲んで疲労を忘れて働いてるように見える。まぁそんなことはありえないだろうけれども……。それはともかくだが他の客の反応を見るに料理の味は最高らしい。楽しみだ。
「ご注文の方、麻婆豆腐でよろしかったでしょうか。大変辛いのでお気をつけてお召し上がりください」
ぐつぐつとよく煮えた石の器の中は辛そうな赤い液体がたっぷり入っていた。そこに浮かぶ白い豆腐、青いネギ、山椒の痺れるような香りが、夏バテで消え失せた食欲を呼び戻す。向かいに座るメリーが身構えたのが少しだけ察せられた。それもそのはずだろう。メリーは、このマエリベリーハーンという女は辛いモノが苦手なのだ。無理に強要するつもりもないし、メリーは自衛の出来る人なのでチャーハンを頼んでいた。
「よくそんな体に悪そうなの食べようと思うわね」
「ふっふっふ……これこそ『整う』っていうやつなんだよ。まだまだオコサマなメリーにはわからないだろうけれどね」
まぁ一先ずメリーを煽るのはこれくらいにして、さっそく頂くとするか。
真っ赤な、もはや赤黒いともいえる麻婆豆腐を口に含んだ瞬間に汗が噴き出てきた。サウナに入ったような、一週間ぶりに浴びるシャワーのような「悦」が私を襲った。
あまりにも辛いので豆腐に救いを求めようにも、同種の赤い液体が染み込んだソレも辛い。全てが相乗的に辛い。だけれど不快感も無く、不思議と箸が進む。ご飯が欲しいくらいだ。
「こんなに辛いんじゃメリーは食べれな……あれ?メリー?どこに行ったの?」
店内を見渡してもメリーは居らず、勿体ないが少し残した状態でお会計を済ませ(メリーのチャーハン代も払った)店の外へ出ると怪訝そうな顔のメリーがいた。
「……まるでなにかに取り憑かれているような顔して食べてたわね」
「いや、先にあんなにがっついてたのは悪かったけどさ、なにも外に出てるなんてことはないじゃない」
「ま、蓮子にはわからないこともあるわよ。世の中には知らないほうがいいこともあるし」
ほんとにこの相方は何を考えているのかわからない。こんなのは一生嫁にいけないだろうなぁ、精々私しか相手できないような、そんな予感がする。
蓮子は、それこそ私のように境界の境い目を見ることはできない。そんなことはとうの昔にわかりきっているつもりだった。いつも彼方側に引き摺り込まれるのは私だと思っているくらいには、蓮子は冷静なはずだった。
それでもあんなふうになってしまうほどの食べ物の持つ力は、店の場所に宿るカミは、あの女性の纏う雰囲気は『媚薬(love portion)』と言えるだろう。
終
ビーフシチューが一番おいしそうでした